2012/07/01 - 2012/07/02
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prinprinさん
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バスツアー中、ガイドさんが、♪飛んでイスタンブール♪を、何度もかけました。
意味不明なタイトルの歌謡曲で、むりやり日本とトルコを結びつけるように感じて、笑っていたのですが、
旅行が終わる頃、
いくつもの帝国の首都として興亡を経験したイスタンブールの歴史を思うと、太陽あふれる街をあの哀愁おびた曲が表しているのか、わかるような気がしました。
イスタンブールは、アジア・ヨーロッパ・黒海・エーゲ海を結ぶ交易ルート上の理想的な場所に位置していたため、
3つの世界帝国、ローマ帝国・ビザンツ帝国・オスマン帝国の首都となり、何世紀にもわたってヨーロッパ随一の繁栄を謳歌しました。
そしてイスラム勢力によるビザンツ帝国への侵略が、西ヨーロッパの歴史に常に大きな影響を与えました。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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ホテル・アクギュン
とうとう帰国の日になってしまいました。 -
ボスポラス海峡クルーズ
ガラタ橋の金角湾側から出航しました。 -
ガラタ塔、行かなかったなぁ。
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オスマン帝国時代、
旧市街が、行政や商業の中心地だったのに対し、
新市街は、イタリア・フランス・ギリシャなど、世界各国からやって来た外国人たちの、異国情緒あふれる居留地でした。 -
メフメット2世の「軍船の山越え」は、城壁のボスポラス海峡側の起点トプハネあたりから陸揚げされました。
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大型客船が3艘も!
手前から、ルイス・クリスタル号、アイーダ号、クリスタル・セレニティー号
地中海クルーズってたくさんあるんでしょうねぇ。 -
アイーダ号
「アイーダ」は、エジプトを舞台にした、ヴェルディ作曲の有名なオペラです。
エジプト王女に仕える奴隷でエチオピア王女のアイーダと、エジプト軍の司令官ラダメスの悲恋物語で、
「凱旋行進曲」は、サッカー観戦の応援歌としても有名です。
♪タ〜タ〜〜、タタタ、タ〜タ〜タ〜♪ -
ホテル・リッツ・カールトンと、ドルマバフチェ・ジャミィ
イスタンブールには、2千余りのモスクがあると言われます。 -
ドルマバチェフ宮殿
トプカプ宮殿建設の約400年後、帝国滅亡の66年前の、
1856年にできたドルマバフチェ宮殿は、オスマン帝国最後の宮殿となりました。
現在も迎賓館として使われています。 -
ドルマバチェフ宮殿
バロック様式とオスマン朝様式を合わせた折衷様式。
またイスタンブールに来ることが出来たら、ぜひ行ってみたい。 -
ベシクタシュ埠頭?
さすが徴兵制のある国。トルコ中、国旗だらけ!
トルコの黒海の対岸には、ロシアとウクライナがあり、
西にギリシャとブルガリア、南にシリアとイラク、
東にイランや旧ソ連の3つの国…グルジア、アルメニア、ナヒチェバン(アゼルバイジャンの自治共和国)と国境を接しています。 -
ホテル?
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ホテル・ケンピンスキー・チュラーン・パレス
元は第32代スルタン・アブデュルアズィズが建てたチュラーン宮殿だった、イスタンブール屈指の豪華ホテル。 -
私立ガラタサライ大学
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一昨日渡ったボスポラス大橋が見えてきました。
ビザンツ帝国は、コンスタンティノープルの交通の利便性(多大な交易収入は、国庫収入の8割を占めた)と、堅固な防衛力などから、千年以上存続しましたが、
実質は、東ローマ帝国、ビザンツ帝国、ニケーア帝国(復興したビザンツ帝国)の3つの国が、同一の国名を名乗ったとも言えます。(十字軍によるラテン帝国は除く) -
1.東ローマ帝国の時代(395年〜)
ローマ帝国の継承国家であり、ラテン式が優位にたっていた時代。
2-1.ビザンツ帝国の時代
西ローマ断絶後も、「ローマ帝国」を 自称しましたが、
ヘラクレイオス(在位:610〜 641年)の治世下、公用語がラテン語からギリシア語へ変わり、「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ばれるような、実質ギリシャ帝国ともいえる、西欧から完全に切り離された時代でした。 -
2-2.
異民族の侵入に素早く対応するため、地方制度を、従来の属州制(中央集権)から、軍事権と行政権が一体化したテマ(軍管区)制に変え、
自分の土地を守るために戦う兵士たちの士気は当然のことながら高かった。 -
オスマン帝国のスルタンが使った後、アタチュルクが使ったという船
2-3.
9世紀初めより、ベネチアは形式的にビザンツ帝国の自治領だったので、ビザンツ帝国との取引において、関税などの特権を持っていました。
しかし実質的に独立すると、その特権を取り消そうとして、ビザンツ帝国がジェノバを優遇するようになり、ビザンツ帝国とベネチアとの対立が深まりました。 -
海峡に浮かんでいるプール
3-1.十字軍によるラテン帝国の時代(1206〜1261年)
これが高じてベネチア商人の要求に十字軍が提唱され、
東西教会の統一を望む教皇庁がこれに乗り、
1204年第4回十字軍(カトリック)はビザンツ帝国(正教会)を襲いました。
首都コンスタンティノープルを占領して大略奪を行い、
戦利品としてヒッポドロームにあった4頭の馬像(B.C.4世紀頃製作)など、100以上もの聖遺物を、ベネチアに持ち帰ります。 -
リッチマンは個人で船を所有して、海峡を行き来するそうです。
3-2.
十字軍による占領政権は、50年以上続きました。
コンスタンティノープルを追われたギリシャ人は、コンスタンティノープルの近く現イズニクにニケーア帝国、黒海沿岸にトラブゾン帝国、バルカン半島にエピロスなどの亡命政権をつくりました。 -
3-3.
この時代の商戦は激しく、ベネチアとジェノバは地中海の商権を争って何度も戦っています。
ベネチアは多くの島々や交易港、関税免除の特権を獲得しましたが、ジェノバやピサの商館や居住区は略奪・破壊され、高額な輸入税を課せられます。 -
アタチュルクさんが、イスラム教徒の家は赤色と決めたそうです。
4-1.ニケーア帝国(復興したビザンツ帝国)の時代(1261〜1453年)
ラテンの占領政権が50年以上続きましたが、ニケーア帝国はジェノバと秘密裏に同盟を結び、1261年首都を奪回してビザンツ帝国の復興を宣言します。
その結果、ジェノバは自由貿易特権を独占し、治外法権の居留地ペラ(ギリシャ語であちら側。金角湾の対岸)を造るなど、イタリア商人による経済的支配が一段と強まりました。 -
ルメリ・ヒサル(ローマ側の要塞)と、メフメット大橋(第2ボスポラス大橋)が見えてきました。
4-2.
すっかり国力が衰えたビザンツ帝国は、ブルガリアなどスラヴ人たちの勢力も脅威となり、
1299年に成立したオスマン帝国も次々と領土を奪っていきます。
14世紀にはオスマン帝国の属国状態となり、15世紀になるとその領土はコンスタンティノープルのみに縮小されて、滅亡も時間の問題でした。
しかし文化面では、アヤソフィアの有名なモザイク画デイシス(キリストへの請願)など、教会美術の古典復興が見られました。 -
4-3.(ルネッサンス1)
11世紀末セルジューク・トルコの侵略を受けたビザンツ帝国がローマ教皇へ援軍を要請したことが十字軍の原因だったたように、
15世紀ルネサンスの大きな原因の一つは、オスマン・トルコによるビザンツ帝国(ニケーア帝国)への侵略でした。 -
(ルネッサンス2)
西ヨーロッパには建築物は残っていたものの、ゲルマン民族の流入などで、西ローマ帝国の滅亡とともに古代ギリシア・ローマの文献を喪失していました。
しかし東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はこの頃平穏だったので、古代ギリシア・ローマの文献が保持されていました。
単に文献類だけでなく、その文献を読んで解説できる学者たち(ビザンツ帝国はギリシャ語)が、ビザンツ帝国の滅亡前後、それを携えてイタリアへ亡命したことで、
イタリアの古代ギリシア・ローマ文化のリバイバル・ブーム「ルネッサンス」に大きな刺激を与えました。 -
メフメット大橋(第2ボスポラス大橋)
この辺りの海峡幅が最短で、約700mです。
ボスポラス海峡は長さ30km。
半分も来ていませんが、メフメット大橋でUターンです。
(ルネッサンス3)
イタリアは十字軍以後の東方貿易によって都市が発展して、市民の活動が盛んになり、
パトロンになってくれる貿易で裕福になった商人たちが多いこともありました。 -
黒海ってどんな所だろう?
4-4.(熟柿のビザンチン)
十字軍から受けた傷は大きく、ビザンツ帝国は復活したものの、約200年後のコンスタティノープル周辺だけになっていました。
ジェノバは、ビザンツ帝国崩壊後も権益を守るためには、積極的にビザンチン側について戦わないほうがよいと考え、中立的姿勢をとりながら、オスマン軍の陣中に使節を送って防備軍の機密を漏らしていたと言われます。
一方ベネチアは、ビザンチンと共に、オスマン軍の侵攻を防ぐ方針を固めていました。 -
アナドル・ヒサル(アナトリアの要塞)
4-5.(両岸の要塞)
1451年19歳で即位した第7代皇帝メフメット2世は、
ビザンティン、ヴェネツィア、ジェノヴァの商人たちとの協定をしばらく従前通り守りながら、
一方で、59年前曾祖父バヤジット1世が築いたアナドル・ヒサル(アナトリア側の要塞)を拡大補強し、
新たに対岸に、3人の将軍に重要部分を分担して競争させ、ルメリ・ヒサル(ローマ側の要塞)を4ヶ月で築きました。
こうして、許可なくしてボスポラス海峡を通行する船は、撃沈されるようになります。 -
翌1453年、21歳の征服者メフメット2世は、満を持してコンスタンティノープルに大攻勢を掛け、
有名な72隻の軍船の山越えで、現在の旧市街とわずかな周辺地だけとなったビザンツ帝国を陥落させます。 -
(軍船の山越え)
城壁のボスポラス海峡側の起点トプハネから陸揚げし、現在クンバラジュ坂と呼ばれる通りを、72隻の軍船が運ばれ、カスムパシャから金角湾に入りました。
その当時、ガラタ塔の背後をまわるこの道筋には、ほとんど民家は無かったと言われます。
斜面に木製レールを敷いて動物の油をたっぷりぬり、車輪がついたトロッコを大量に作ると、その上に帆船をのせ、牛と人とで船を引っ張って艦隊を金閣湾に滑り込ませました。
キュチュクス宮殿? -
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士官学校?
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ボスポラス大橋
バイバイ、ボスポラス大橋!(1974年。建設:英国)
バイバイ、メフメット大橋!(1988年。建設:石川島播磨他)
今度来た時には、トンネルを通って電車でアジア側に行けるね。(ユスキュダル〜シルケジ。建設:大成建設)
自動車用トンネル(ユーラシアトンネル)も、できているかも。(ハイダルパシャ〜クムカプ。建設:韓国)
アンカラ行きのスペイン製新幹線は、完成しているかな?
第2ボスポラス海峡を造るという、壮大な計画は実現する?
いや〜すごい、日本列島改造論に近いものがある! -
ベイレルベイ宮殿
1865年完成、第32代スルタン・アブデュルアズィズが造った夏の宮殿。
玉座を捨てた恋で有名な、英国エドワード8世とシンプソン夫人が、ここに滞在しました。 -
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海峡を行き交う船をコントロールする管制塔?
ボスポラス海峡の流れは、意外なほど速く、サメ!の背ビレも見ました。 -
乙女の塔って、陸地からこんなに離れてるんだぁ。(200m沖合)
(乙女の塔の伝説)
愛娘が16歳になる前に毒蛇に噛まれて死ぬ、と占い師に言われたこの地方の太守が、愛娘をここに閉じ込めて育て、16歳の誕生日の前日に娘に果物をを届けさせた。その籠の中に毒蛇が潜んでいて、愛娘は予言通り死んでしまった。 -
元は12世紀にビザンツ帝国が造った要塞で、
オスマン時代には、船の通行税をとりたてる監視所と灯台を兼ねていました。
現在は、レストランとカフェになっているらしいので、今度来たときには行ってみたい。 -
もっとゆっくりしたかったなぁ、トプカプ宮殿。
日本も江戸城を残していれば、どんなにか綺麗で、東京観光の目玉になっただろうに。
せっかく無血開城したのに、残念ですね。 -
とうとう帰ってきてしまいました。
ガラタ橋とスレイマニエ・ジャミィ
スレイマニエ・ジャミィは、オスマン帝国の黄金時代を統治したスレイマン大帝在位30年にあたる1550年に建設が始まり、7年後完成。建設を指揮したのは、ミマール・シナン。 -
あとは、空港へ向かうだけ。 (T_T)/~~~
-
面白い街だったのに、もう帰国。
もう1度来たい街になりました。 -
テオドシウスの城壁
沿海側の城壁は一重でしたが、陸地側は3重になっていて、城壁の高さは8〜13m、厚さ2〜5m。
城壁の外側には巾15〜20m、深さ5〜7mの濠がありました。
コンスタンティノープルは、ほぼ現在の旧市街だけになったとはいえ、堅固な城壁で守られており、オスマン軍も城壁に近づくことさえ容易ではありませんでした。 -
ブコレオン宮殿跡
海からの攻撃からコンスタンチノープルを守るために造られた城壁の一部として、830年テオフィロスによって建設された宮殿で、
ビザンチン帝国時代の大宮殿の中では、ある程度当時の姿をとどめている唯一の場所。 -
スペイン・コルドバのメスキータを見てから、現役のモスクを見てみたいという単純な発想から出発した旅でしたが、
アジアの反対側のトルコが、ギリシャ・ローマ時代から戦争を繰り返した歴史を知り、
改めて、日本は昔から平和だったんだなぁと、日本人の幸運さを感じました。 -
アタチュルク国際空港
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知らない航空会社がたくさん。
14:25発 EY96 エティハド航空アブダビ行 -
4時間半で到着
UAEアラブ首長国連合、アブダビ空港で乗り継ぎ。 -
19:50発 EY878 エティハド航空 成田行
搭乗口が、えらい古かった。
成田13:00着
旅行中、ほとんど日本円で買い物できた為、家に着いた時にはお財布に小銭しか残っていませんでした。(^_^;)
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この旅行記へのコメント (2)
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- しゅんたまさん 2013/10/30 14:45:38
- 迫力ある景色です
- prinprinさん
こんにちは! トルコの旅行記の続きを拝見しました!
トルコはやはり素敵なところですね・・・
特にボスポラス海峡は悠久の歴史の流れを感じますね。
私もあの場所に立って360度に広がる景色を感じてみたいです。
ところで、prinprinさんがスペイン広場で遭遇されたロケはきっと『ディクテーター 身元不明でニューヨーク/原題:The Dictator』というコメディ映画の撮影ですね。
先日↑の映画をDVDで見ていたら、それらしきスペイン広場のシーンが出てきてきました。
アラビアのロレンスやスター・ウォーズみたいな名作ではないですが(すごく下品で、ブラックジョークあふれる映画です・・・)ご旅行がロケとぶつかるとは凄いタイミング(?)です!
しゅんたま
- prinprinさん からの返信 2013/10/30 17:58:04
- RE: 迫力ある景色です
- しゅんたまさん、 こんにちは
私が遭遇した撮影の、タイトルがわかって驚きです!
YouTubeを見てみたら、まさに私の見た場所です。
あの軍用車の撮影風景が、アメリカのコメディーだなんて笑ってしまいます。
モルディブの海、きれいですね。
泳げない私でも憧れてしまいます。
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