2012/06/24 - 2012/06/24
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prinprinさん
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昨夏のスペイン旅行で、コルドバのメスキータ(モスク)やアルハンブラ宮殿(イスラム王城)が素敵だったので、
同じ時代にローマ帝国の首都として栄え、後にイスラム教の大国になったイスタンブールに、イスラム建築を見に行きたいと思いました。
アヤ・ソフィアは、イスタンブール最大の建物で、
ビザンツ建築の最高傑作と言われ、多数のモザイク画などビザンツ文化の痕跡を最も強く残しています。
537年、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)の首都に、キリスト教の大聖堂として建てられたアヤ・ソフィアは、ギリシャ正教の総本山として君臨し、
現在の2代目サン・ピエトロ大聖堂(1506~1626年築)ができるまで、約1000年世界で1番大きなキリスト教会でした。
完成の900年後(1453)オスマン帝国に征服され、イスラム教のモスクに改修されます。
さらに約500年後(1932)、アタチュルク(初代大統領)は、政教分離のトルコ共和国を建国、ここを博物館として一般公開。
アヤ・ソフィアの歴史は、権力者の交代劇の歴史でもありました。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 観光バス
- 航空会社
- エティハド航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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-
日本でもらった旅のしおりにも、「旧市街は車両進入規制」とあったのに、
ツアーバスはアヤソフィアの正面まで乗り付けました。
だれか偉い人が来ていたようで、警察やSPがいましたが、タクシーはいなかったので、観光バスだけが入れるようです。 -
いきなり、私がイスタンブールで一番行きたかった所、アヤソフィアに行きます。
入口のモギリのお兄さんが、私に向かって「落ちましたよ!」
ふ〜ん、知ってるも〜ン。 私は振り向かなかったけど、周りの日本人が私の足元をキョロキョロ。
私が、からかったな〜って指さしたら、笑ってました。 -
えぇ? 意外にも、重厚でごつごつした外壁。
325年コンスタンティヌス1世がアヤソフィアの元となる教会を建て始め、
330年 同皇帝 がローマからこの街に遷都
360年10月15日、コンスタンティヌス2世の時代に、初代アヤソフィア盛大な落慶式
404年、大主教を追放の騒乱で焼失すると、テオドシウス2世(在位:408〜450年)によってすぐ再建され、2代目は415年完成
現在のアヤソフィアは、537年完成の3代目の建物だそうだ。
トルコ最高の大建築家スィナンが(1489〜1499年頃生まれ、1588年没)、この4本の柱を増築し、ドームが壊れないように支えている。 -
この柱の下の掘り込みに置いてあるのは、2回目建築(415年完成)の一部。
前面に彫られているのは、羊とヤシの木みたい。 -
入口を入ると、外廊
石棺みたいだけど何?
右側にしゃがんでいる人と比べると、いかに大きいかわかると思います。 -
その奥の内廊(拝廊)は、元・罪人らが礼拝した所。
アヤ・ソフィアは、床も壁も大理石で大変重く、床の大理石にはクラックまで入っている。
ここの壁は、大理石を開いて使っていて、(イスラムの時代になってから、改装されたようです。)
アヤ・ソフィア(聖なる知恵)の歴史を解説するパネルがあった。
(ギリシャ語でハギア・ソフィア。ビザンツ帝国はギリシャ人のローマ帝国) -
模型か何かあったみたいだけど、外国のグループが使用中。
洗礼用?の手水鉢もあった。 -
正面入口「皇帝の門」からは、皇帝だけが入れた。
大空間への入り口は、左右の床大理石が凹んでいて、何百年も門番が立っていたために、すりへったそうだ。
頭上に、キリストのモザイク画。 -
頭上のモザイク画
玉座に座ったキリストに、なさけない顔をしてひざまずいている王様は、このモザイクを献上した文人皇帝レオン6世(在位:886〜912年)。
政治的な評価は高いが、やむない事情で4回結婚することになり、教会からいじめられて喧嘩したらしい。
左は聖母マリア。右は大天使ガブリエル。
外廊までさがって撮ったら、休憩中のハトさんが写ってた。 -
わぁ〜ここだぁ、大き〜い! 古〜い!
外観がブルーモスクと似てドームがあるので、中もブルーモスクのように装飾されていると想像していました。
アヤ・ソフィアは、ブルーモスクより1000年以上も昔に建てられたキリスト教の聖堂。
ブルーモスクは、1616年に建設された現役のモスク。
こんな勘違いをするのは、私だけ? -
天井の大ドームの奥と入口側は、3つの半円小ドームで、1/3ずつ分散して支えているが、左右の壁は平面のアーチ。
オスマン帝国に攻められて、コンスタンチノープルが陥落する時(1453年)、
ここで、ビザンチンの市民たちが集まって、祈りをささげながら神の奇跡が起こるのを待ったんだ。
しかしビザンチンの皇帝は現れず、戦死したとか逃げたとか?
発見された遺体は、コンスタンティノス11世かどうか怪しいらしい。
去年行ったスペインのセビリア大聖堂 (1401〜1519年築。アメリカを発見したコロンブスの大きな墓がある)は、世界第3位の大きさを誇るが、アヤ・ソフィア(532〜537年築)の方が、ずっと開放感がある。
しかもこちらの方が、1000年近く古い教会だ。 -
モスクになる前は、キリストのモザイク画が描かれていたドームは、コーランだろうカリグラフィが描かれてあった。
ドームは直径31m、高さは55.6mあり、現代の18階建てのビルに匹敵する。
建築20年後にはドームが崩落し、修復。40もの窓を持ち、多くの窓から光を取り込んで、天空に浮かぶイメージのドームになるが、建築の観点からすれば、非常に危険な事。
ドームの材料は、ギリシャのロードス島の煉瓦が使われ、非常に高温で焼かれたためとても軽く(当時の煉瓦の1/12)、強度を保つことが難しいドームを完成することができた。
その後ドームは、558年、989年、1346年、大規模な崩落をおこしています。 -
天井ドームと壁面アーチの間に、毛むくじゃらの天使?(10世紀)
3世紀末、ローマ帝国は広大な領土をひとつにまとめることができなくなり、4人の皇帝によって実質的分割統治しました。(292年テトラルキア)
しかし皇帝たちは、ローマ帝国全体の支配権をめぐって戦争を始め、キリスト教を帝国統治に利用しようという意図もあり、313年「ミラノ勅令」を発布して、全宗教の信仰の自由を保証しました。
こうしてローマ帝国は、皇帝ネロ(54〜68年)以来たびたび迫害してきたキリスト教を公認し、ローマ文化とキリスト教文化が融合していきます。 -
こちらは、顔を塗りつぶされたままの状態
324年ローマ帝国を再統一したコンスタンティヌス1世は、
325年木造の聖ソフィアに着工します。
330年同皇帝は、ササン朝ペルシャ国境を重要視して、帝国東方の交易都市であるビュザンティオンに遷都し、「ノウァ・ローマ(新ローマ)」と名づけました。
その後、彼の名を取って「コンスタンティノポリス(コンスタンティヌスの都)」と呼ばれるようになります。
360年、初代・聖ソフィアが完成。 -
たくさん吊り下げられた、ごつい照明も、時代を感じさせる。
キリスト教を国教に定め、異教を禁止した(392年)テオドシウス1世は、
395年死に際し、激化するゲルマン民族の大移動に対応する為、また息子たちが皇位争いをすることを恐れて、ローマ帝国を東西に分割し、2人の息子をそれぞれ帝位につけました。
その後、東ローマは繁栄を続けますが、西ローマ帝国はゲルマン民族が侵入して、小王国が次々生まれ、476年最後の皇帝が廃され、東西分裂後100年も経たず滅びました。
西ヨーロッパに皇帝の称号が復活するのは、800年(フランク王国)ですが、
皇帝・王・侯・伯などの支配者が乱立して、経済も文化も圧倒的に低調で、ローマ教皇を中心としたカトリックキリスト教共同体としての意識が表れてくるのは11世の事でした。
ビザンティン帝国は、ユスティニアヌス1世(在位:527〜565年)の時代に絶頂期を迎え、アヤソフィアも建造されました。
しかし衰退の始まりは早く、勃興するイスラム教世界の影響も少なからず受けますが、オスマントルコに滅ぼされるまで1000年存続します。 -
7世紀ヘラクレイオス1世以降、東ローマ帝国は地中海地域の覇権(シリア・エジプト)を失い、ギリシア人居住地域が領土の大半を占めるようになったため、公用語がラテン語からギリシャ語になり、バルカン半島・アナトリアを中心とするギリシア人の国に転換していきます。
ヘレニズム(ギリシャ)の伝統が重視されて、キリスト教と融合した「ビザンティン文化」が生まれ、次第にローマ文化からは離れていきました。
重い照明を、電線1本で50mもぶら下げてる! 横にも張ってるのは、風や地震で揺れた時のためかな。
アーチの彫刻も素晴らしいが、横に補強してあるぞ。 -
祭壇の天井には、聖母子。
アヤ・ソフィアの図像モザイクの中で最も古い、9世紀後半のもの。
東ローマ帝国では、イスラムの影響を受け、旧約聖書のモーセの十戒の「偶像を作ってはならない」を根拠として、
730〜787年(レオン3世)、815〜843年、聖像(イコン)の崇敬が皇帝により禁止され、聖像破壊運動(イコノクラスム)が起きました。
広大な土地所有者だった修道院(イコンの製作に携わっていた)の領地を没収するためだったという説もあります。
アヤソフィアの宗教画も破壊され、現在する物はすべて843年以降のものです。 -
聖地メッカの方向を示すミフラーブは、キリスト教のステンドグラスの中心と、微妙に右(南東)にずれている。
中東からアフリカ経由でスペインに逃げ、コルドバにイスラム王朝を作ったスルタンが造ったメスキータ(786年築のモスク)には、ビザンチン帝国から贈られた豪華なモザイクのミフラブが残っていたのに、
本国のアヤ・ソフィアのミフラブはシンプルだった。 -
説教壇(ミンバル)、大理石に彫られた彫刻がステキ。
直径7mの深緑色の円盤に描かれた名前は、どこのモスクにも描かれているそうだ。
ガイドさんが、「円盤もつり下げ、キリスト教画の顔も上から塗っただけ、説教壇も置いただけ。
イスラムは、キリスト教の美術も壊さずだいじにした。」と言っていた。
祭壇の右には、唯一の神アッラーと、アブー・バクル(初代カリフに選出された)の名を描いた円盤。(カリフ=ムハンマドの跡を継いだ人=ムハンマドの代理人) -
祭壇の左は、預言者ムハンマドと、ウマル(第2代カリフ)の名を描いた円盤。
オスマン帝国スルタンが礼拝をする、黄金の透かし彫りのテラス。
ミンバルの途中で説教するらしいから、スルタンのいる所のほうが高くない? -
←祭壇を背にして右側(北)の、
右はアリー(第4代カリフ、ムハンマドは男児に恵まれなかった為、いとこで娘婿であるアリーがムハンマド家の後継者となり、血統を主張してシーア派第1代最高指導者になる)
左はフセイン(アリーの息子で、シーア派第3代最高指導者)
祭壇を背にして左側(西)の、右はハサン(アリーの息子で、シーア派第2代最高指導者)
左はウスマーン(コーランを完成させた第3代カリフ) -
1階回廊の柱頭
ガイドさんに訊くと、西ローマと東ローマは仲が悪かった、東ローマ帝国は正教会だそうだ。
(正教会 Orthodox:オーソドックス、正統派。「正」って、正統派だと自称してるんだ。知らなかった。) -
2階へ行く回廊から見た、ペルガモン遺跡の神殿跡の大理石で作られたベルガマの壺。(入り口の反対側にもあるらしい。)
昔は聖堂の外に置いてあり、イスラム礼拝の前に手足を洗うための蛇口がついている。 -
その斜め向い、聖堂の外壁にある「聖母マリアの手形」という柱。
下の貯水槽の影響で湿っていて、親指を入れて手を一回転させると願いがかなうという。
ママは必死だけど、ボクは願い事してるかな?
私らツアー客は、その時間も無く‥‥ -
素朴な石畳のスロープを上がる。
昔は、要人を2輪の小さな馬車で運んだらしいが、
下りのスロープ(祭壇の左に降りてきた)は、もっと石がぼこぼこで、危なく捻挫するところだった。 -
2階は、内陣を見下ろすテラスになっています。
-
昨夏スペインのイスラム建築で見たこのアーチに憧れて、イスタンブールにやってきました。
しかも、ここのアーチは2階建て。
でも1階と2階の柱は別々で、力がまっすぐ下に伝わらず、建物の重さが支えられないのでは? -
360年に完成した初代聖ソフィアは、
404年、民衆の暴動によって焼失、すぐに再建が開始され、
415年、2代目聖ソフィアの落成式が行われます。
この地へ遷都してから約200年後、532年ヒポドゥローム(戦車競技場)での小競り合いから、重い税にあえぐ市民は怒りを爆発させ、「ニカの乱」になります。
「ニカ!」=「(重税を課す皇帝に)勝利せよ!」と叫ぶ市民は街に火を放ち、首都の半分近くが焼失・破壊されます。
聖ソフィアもこの時、再び焼失しました。
精力的に帝国を統治したユスティニアヌス1世は、身の危険を感じ逃亡を決意します。
しかし、20歳年下の皇妃テオドラに「皇帝の位を捨てて生きながらえるより、皇帝として栄誉ある死を。」と迫られ、
我に返った皇帝は、将軍に反乱の鎮圧を命じて、3千名程の兵士で約3万人を殺害し、暴動の鎮圧に成功しました。
皇帝はすぐに、自らの権力を民衆に知らしめる為、帝国の首都再生の為に、前代未聞の巨大な聖堂造りに着手しました。(この頃ビザンチン帝国は第1次黄金時代)
帝国全土から1万人を超す職人が集められ、2度の焼失の経験から聖堂本体に木材を使いませんでした。
537年(飛鳥時代前半)、3代目アヤ・ソフィアはわずか5年10カ月で完成し、ギリシャ正教(東方正教会)の総本山として君臨しました。 -
この壁の3つの四角いガラスは、アヤソフィアの建物が危なくなってきた段階がわかるようにはめ込まれたものだそうです。
1番上は、そろそろ危ないよ。
2番目は建て直す準備をしなさい。
1番下はもう危ない。とわかるようにしたもの。
12年前には、1番下にはひびが入っていなかったそうですが、今は完全にひびが入っています! -
その左からモザイク画のある場所へ入ります。
この左右が、「天国の門と地獄の門」のレリーフ -
最初にあったのが、ビザンチン美術の最高傑作「デイシス(請願)」 (1200年代後半)
最後の審判の日、聖母マリアと洗礼者ヨハネがキリストに対して人類の救済を請い願う図
コンスタンティノープルを陥落してローマ帝国を滅亡させたメフメット2世はアヤソフィアのモザイク画を抹消しませんでした。
曾孫スレイマン大帝(1495〜1566年)の時代に、モザイク画を漆喰で隠させました。 -
1931年アメリカ人の調査隊により発見された壁の中のモザイクによって、アヤソフィアは、ビザンツ文化の遺跡として再び脚光を浴びることとなりました。
幸いなことに、キリストの顔は損傷がありません。 何色のモザイクを使っているんでしょう? -
たぶん復刻図
中央のキリストに、マリアと洗礼者ヨハネが身をかがめて、人々の罪を許し救済することを請うているところ。
このモザイクは皇帝不在なので、年代がはっきりせず、12世紀や13世紀後半と言われます。 -
スルタンの后や子供が見物した場所は、1階を写すにも最高の撮影ポイント。
8世紀末にはローマ教皇との対立などから、ビザンチン帝国は、西方地域での政治的影響力が低下しました。
800年ローマ教皇が新生フランク王国カール大帝に帝冠を授け、西ローマ皇帝(後世神聖ローマ帝国と呼ばれる)を称したことで、
ローマ教皇下のキリスト教会(カトリック)は、東の皇帝(ギリシャ正教)から名実とも離脱し、独自の道を歩みます。
東西両教会は、さらに1054年ローマ教皇の首位権をめぐり、
また両教会の典礼・慣習などの違いを理由に大分裂を起こしました。 -
対岸を撮ったら、キリスト教の絵だった。
こんな所までは隠せなかったでしょう。 -
一番奥の壁には、2枚のモザイク画があり、
右側が、幼いイエスを抱く聖母マリアに、やり手皇帝ヨアニス2世が金貨を、
皇后イリニが巻物を献上している。(ヨアニス2世が即位した1118年作らしい。) -
息子アレクシオスは、隠れるように描かれています。
-
左側のモザイクは、
福音書を持ったキリストに、皇后ゾエが巻物を、
あまり有能と言えなかったコンスタンディノス9世(3度目の夫)が献金袋を献上している。
女帝と言われたゾエは、3人の皇帝と結婚しており、
11世紀の皇帝コンスタンティノス9世の娘でしたが、皇位継承者を生むため50歳で結婚し、夫が死ぬたびに再婚し、
その度に皇帝の顔の部分が描き直された。
彼女は72歳で死ぬまで若々しく美しかったらしい。
キリストの目がゾエの方を見ているように描かれています。 -
イスラム勢力によるビザンツ帝国への侵略は、西ヨーロッパの歴史に常に大きな影響を与えました。
1096年から150年以上に及ぶ「十字軍」は、
セルジュークトルコ(首都コンヤ)の台頭で小アジア(アナトリア半島)を失ったビザンツ帝国が、聖地エルサレムの奪還を訴えて、ローマ教皇へ援軍を要請したことが原因でした。 -
イタリア(カトリック)の都市国家は東地中海に勢力を伸ばし、
1204年の第4回十字軍(カトリック)によってついに首都コンスタンティノポリスは占領されました。(実質的に東ローマは滅亡したと見る歴史家もいる。)
1261年コンスタンティノープルを攻撃、奪回しましたが、貿易もヴェネツィアやジェノヴァといったイタリア(カトリック)の都市に握られてしまいます。
14世紀になると、コンスタンティノープルは、オスマン帝国軍に度々包囲され、東ローマ帝国の命運も風前の灯火となりました。 -
右上に写っているのが、イスラム教の賢人の名を描いた円盤の裏側。金属ではなく、ラクダの皮を張っています。
14世紀にイタリアで起きた「ルネサンス」の最大のきっかけも、イスラムによるビザンツ帝国への侵略と征服でした。
オスマン・トルコの侵略で領土を失っていく過程で、ビザンツ帝国で暮らしていた多数の学者たちは、ビザンツ帝国と繋がりの深いイタリアへ亡命していき、古代ギリシア・ローマの文献や知識が伝えられました。
イタリアでは、古代ローマの遺跡などが数多く残っているにも関わらず、476年の西ローマ帝国滅亡後、混乱していた西ヨーロッパでは文献が喪失していました。
しかしビザンツ帝国(東ローマ帝国)は平穏だったので文献が残っていて、公用語は文献と同じギリシャ語でした。
封建制が弱く、分裂状態のイタリアは、東方貿易によって裕福な商人が多く、フィレンツェのメディチ家やローマ教皇がパトロンとなって学者や芸術家を保護し、
古代ギリシア・ローマ文化のリバイバル・ブームつまりルネサンスが沸き起こりました。 -
2階テラスの柱頭
皇帝のモノグラム(頭文字を使ったマーク)が施されています。
ビザンチン帝国は1000年以上にわたって存続しましたが、1453年、メフメット2世率いるオスマン帝国によって滅亡しました。
それまでのモスクは、多くの柱がそびえるタイプや、中庭を囲むタイプでしたが、
キリスト教の聖堂だったアヤソフィアがモスクに変わって以後、イスラムの建築様式も変え、アヤソフィアをモデルにしたドーム型のモスクが主流になりました。 -
スペイン・コルドバのメスキータ(786年築)は、モスクの真ん中を壊して、無理矢理キリスト教会を組み込んだ(1523年)感じがしたが、
キリスト教会(537年築)をモスクに転用した(1453年)アヤ・ソフィアは、2つの宗教が馴染んでいる気がした。 -
お土産コーナーにあった短刀
これ、帰国前日にトプカプ宮殿で、本物を見ました。(撮影禁止でした)
マフメット1世からペルシア王への贈り物として、1714年に宮殿内の工房で制作されたが、王の死亡によりトプカプ宮殿に留まったという短刀です。 -
キリスト教のお土産も。
もっとアヤ・ソフィア浸っていたかったけど、自由時間が25分しかなかったので、集合場所へ走る! -
私が1番興味のあるモザイク画は、出口を振り返って見た、頭上にありました。
(右側)ローマ帝国をここに遷都したコンスタンティヌス1世(272〜337)が、コンスタンティノープルを、
(左側)現在の3代目アヤ・ソフィアを建設したユスティニアヌス1世(483〜565)が、アヤ・ソフィアを、聖母子に手渡しています。(タイトルの写真) -
アヤ・ソフィアを出て、ブルーモスクヘ向かいました。
-
私がイスタンブールに行きたいと思うきっかけになった、スペインのイスラム建築を2枚添付してみました。
700年代後半に造られた、コルドバのモスク(スペイン語でメスキータ)
スルタンがお祈りをする場所です。
ここのミフラブは、ビザンチン帝国から贈られた豪華なモザイクで飾られていました。 -
セビリアのアルカサル(王城)
アヤ・ソフィア内部の側面と似てるでしょ。こちらはアヤ・ソフィアと違って1層です。
セビリアからイスラム王朝を追い出してから約100年後、イスラム文化が大好きな王様(カトリック)が造ったイスラム風のお城です。
イベリア半島から完全にイスラム王朝を追い出したのは、さらに100年後(1492年)。
その明け渡しの舞台が、かの有名なアルハンブラ宮殿でした。
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この旅行記へのコメント (3)
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- puttannさん 2014/12/09 18:30:23
- いいですね〜♪
- おじゃましてます (^^ゞ
prinprin も イスラム建築がお好きなんですね〜
私も スペインへ行った際に 再認識してしまいました
( 好みのベクトルが似てそうだわ〜♪ )
と ともにやはり 学生時代は苦手だった世界史も面白いと思うようになり・・・
アヤソフィア編を拝見して またイスタンブールへ行きたくなりました
2度も行ってるんですが こんな細かく見ていないような気が・・・?
良い刺激を頂いたので やっぱ計画しよう!!
ありがとうございました
-
- worldspanさん 2012/08/07 12:43:13
- すごい!
- prinpirinさん
はじめまして。
アヤソフィアのすばらしさが本当に良く伝わるブログで、とても感動際ました。明後日からサンマリノ、アルバニア、コソボと周り、乗り継ぎでイスタンブールに訪れるのですが、殆ど観光が出来る時間がありません。何とか久しぶりにアヤソフィアとブルーモスクくらいは見学できればとは考えています。
worldspan
- prinprinさん からの返信 2012/08/07 17:33:08
- RE: すごい!
- はじめまして。
コメントありがとうございます。
去年のスペイン以来、歴史に興味を持ち、旅行範囲が広がりそうです。
サンマリノ、アルバニア、コソボとはすごいですね。
worldspanさんは、東欧圏にたくさん行っていらっしゃいますね。
ラトビアも綺麗ですね。
私は今回初めてのイスラム教国で、
思いがけずアヤソフィアの正教会のモザイクが人間的で綺麗だったので、
東欧かロシアに行ってみたいと思いました。
円高もすごいし(ユーロじゃないから関係ないかな?)、
明後日からのご旅行、楽しんできてください。
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