2012/06/28 - 2012/06/29
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prinprinさん
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ユダヤ人の民族宗教であったユダヤ教、それから派生したキリスト教、さらに700年後に興ったイスラム教は、みな旧約聖書の神「ヤハウェ」を信仰する一神教です。(アッラーはアラビア語で神。ゴッドは英語で神)
神との最初の契約とされた「モーゼの十戒」によって、神の名をみだりに唱えてはならないと定められているので、その名前が使われることはほとんどありません。
キリスト教では、イエスは神の子とされ、ムハンマドは否定されます。
イスラム教では、「ノアの箱船」のノア、「出エジプト」のモーセ、キリスト教のイエス(一人の人間で神の子ではない)なども預言者で、最後の預言者(神の言葉を人々に伝え広める人間)がムハンマドと考えます。
ユダヤ教では、イエスやムハンマドはユダヤ教の内容を歪曲した新宗教を作り上げた人間とされています。
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- 一人旅
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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-
カッパドキアから4時間(約300km)、首都アンカラに到着
内陸部の標高850mに位置するアンカラは、夏は40℃、
冬の最低気温は−20℃になります。
トルコ共和国建国で首都になった時は、人口3万足らずでしたが、現在350万人を超える公務員の街です。
アンカラはローマ時代にアンゴラと呼ばれていて、「アンゴラ猫」の発祥地です。
白くてふわふわの毛に、オッドアイ(左右の目の色が違う)の猫ちゃんは、なんともエレガントです。 -
ビュユック・アナドール・ホテル(翌朝撮った写真)
エレベーターの中で、高校生くらいの男の子が話しかけてきました。
「~~earthquake~~sad~~.」
トルコも、アフリカ・アラビア・ユーラシアの3つのプレートが接して、地震の多い国。
優しい気持ちがうれしかった。 -
トルコ人は写真好きとわかってきて、こちらから声をかけるようになりました。
ルーツが日本人と同じとは思えない。
日本人に似てる人もいると思ってたんだけど、完全にコーカソイド化してる。 -
翌朝、まだ暗かった4:30、大音量のアザーンで起こされました。
トルコに着いてから、ずっと5時台のモーニンゴコールが続いているのに、 (>_<)
隣りの空港からか、ホテルの放送かわからなかったけど、他のホテルではこんなことありませんでした。
イスラム教の金曜日は、キリスト教の日曜日に当たるので、金曜日だけ特別なのかもしれません。
7:00 期待しているサフランボルへ出発 -
(イスラム教が興る)
ムハンマド(570頃〜632年)は、聖徳太子と同じ時期、アラビア半島のメッカの有力部族(クライシュ族ハーシム家)に生まれ、
幼くして両親を亡くして、祖父や叔父に育てられました。
6世紀、ビザンツ帝国とササン朝ペルシアは慢性的な戦争状態で、シルクロードは陸路も海路もアラビア半島を経由し、
中西部のメッカは中継貿易都市として繁栄し、ムハンマドも隊商貿易の商人でした。 -
ムハンマドは40歳頃、メッカ郊外にそびえるヒラー山の洞窟にこもって瞑想にふけり、ジブリール(=ガブリエル)から神の啓示を受けて布教活動を始めますが、
アラビア人伝統の多神教の聖地でもあったメッカで、
「唯一の神の前に、人間は平等である」と説いて、有力部族の大商人たちによる富の独占を批判し、迫害を受けます。
52才の時、刺客に追われて350km北のメディナに少数に信者と一緒に亡命し、イスラム共同体を作った時には信者150人程度でした。
(622年聖遷、この日がイスラム歴の元年1月1日)
兵力を整えてメッカ軍と戦い、(この戦勝が9月(ラマダン)だったので、断食の月になる)
8年後にはメッカを征服します。
(この日が金曜日だったので、イスラムの休日は金曜日)
-
アンカラから3時間(210km)、サフランボル・フドゥルルックの丘に到着
棺のむこうは、1843年に造られたハサン・パシャの墓廟
ムハンマドは自らカーバ神殿の360の偶像を破壊して、メッカをイスラムの聖地と定め、
周辺の部族にもイスラム教を布教し、
2年後ムハンマドがメディナで亡くなる頃には、 それまで部族対立でバラバラだったアラビア半島のほぼ全域(ほとんど砂漠!)をイスラムによって統一しました。 -
サフラン・チャイを飲みながら、一息つきました。
ハチミツで味付けしたサフラン湯ですが、サフランの香りが気に入りました。
アップル・チャイも温めたリンゴジュースだったし、チャイって、紅茶じゃなくて温かい飲み物のことみたいです。 -
サフランボルは、セルジュク朝時代から、地中海と黒海をつなぐ交易ルートの要衝として発展し始め、
17世紀オスマン朝時代には、いっそう繁栄しました。
山間の小さな盆地に発展した世界遺産サフランボルの街並みが見渡せます。
右の四角の建物は、1645年に建てられた隊商宿で、現在はホテルになっています。
向いの丘に建つ黄色い建物は、役場跡を改装したサフランボル歴史博物館。 -
石積みと木組みと土壁と赤瓦の家々。
3階建てが多いですね。
(ムハンマドの妻たち)
ムハンマドの妻は11人以上(その他は奴隷身分の妾)いたと言われますが、
最初の妻は、25歳のとき結婚した、40歳の裕福な商人ハディージャ(未亡人)でした。
彼女は最初の信者となり、彼女が亡くなるまでの25年間、
ムハンマドは他に妻を持ちませんでした。
ムハンマドは50歳を過ぎて、政治的同盟を強固なものとするため、イスラム共同体(教団国家)や他の部族の女性たちと結婚し、3番目の妻アーイシャ以外はすべて未亡人か離婚した女性でした。
アーイシャは9歳でムハンマド53歳に嫁ぎ(初夜)、9年後アーイシャの膝の上でムハンマドは息を引き取りますが、
彼女はその後強い影響力を持ちました。 -
チャルシュ広場
旧市街のランドマーク的存在、ジンジ・ハマム
(ムハンマドの子供)
ムハンマドは生涯で6人(7人?)の子供を得、そのうち2男(3男?)4女は最初の妻ハディージャとの子と伝えられます。
しかし男子は早世し、ムハンマドが亡くなった時に生きていたのは末娘ファーティマだけでした。
ファーティマは、父ムハンマドのいとこで養子となったアリーと結婚し、二人の息子がいました。
ムハンマド最愛の妻アーイシャは、ムハンマド在りし日、この娘婿アリーから不貞を疑われたことがあり、
ムハンマドの言動から、亡き妻ハディージャ(生前、唯一人の妻で、子があった)に嫉妬し、
その娘ファーティマの夫であるアリーと対立していきます。 -
チャルシュ広場
石畳の坂道がすてきです。
左の店がロクム屋イムレン
何種類もありましたが、1番安いのを買ってみました。
刻んだピスタチオ入りで、ココナッツがまぶしてあって、ドライブインで買ったのより柔らかくておいしかったです。
香りがする程では無いですが、黄色くてサフランが入っているようです。 -
アラスタ・バザール
イスタンブールと比べると、ほんとに小さなバザールです。
(正統カリフ時代)
632年ムハンマドが亡くなると、
イスラム共同体(教団国家)は、カリフ(ムハンマドの代理人、最高指導者)を “選出”してムスリムを統率していきます。
娘婿アリー(32歳)も初代カリフに推されましたが、
選ばれたのは、ムハンマドの親友で片腕として働いたアブー・バクル(59歳)で、最愛の妻アーイシャの父親でした。
彼は、離反する部族を武力で再統一しましたが、就任2年で病死しました。 -
葡萄棚の葉が茂って、グリーンの日よけが 素敵。 (*^-°)v
2代目カリフに選出されたウマルも、ムハンマドの(4番目の)妻の父親でした。
彼は、ビザンツ帝国からシリア、エジプトを奪い、ササン朝ペルシアを滅亡寸前に追い込み、一気に領土を拡大し、エルサレムも手中に収めました。
征服した土地の非アラブ人と非ムスリムに税を課して、
アラブ人主体の中央集権の国家体制を築きましたが、
就任10年後イラン人奴隷に刺殺されます。 -
サフランを買いました。
サフランはクロッカスの一種で、めしべを乾燥させたものです。
1g入り20リラを「15リラ」と言っていたので、2瓶購入。
観光客値段でしょうが、それでも日本の半額です。
うちでは、パエリヤ、リゾット、ブイヤベースに使います。
サフラン・チャイも楽しみです。
日本語の説明書が付いていて、
サフランボルの周辺で1年に13〜15キロできるそうです。
アシュレという、ノアの方舟がトルコ東部アララト山に到着した時に、祝宴のために舟に残った食糧を全て煮詰めて作ったという伝説の、ドライフルーツやナッツ類を煮たぜんざいみたいなデザートにも使われます。 -
振り返ったら、ロクムを持ったおじさんが迫って来るので、
セールスと思ったら、「俺を撮れ」でした。
パチリ!
3代目カリフに選ばれたのは、ムハンマドの次女を妻にし、
次女が亡くなると三女を妻にしたウマイヤ家のウスマーンでした。
彼の時代、コーランが完成し、ササン朝ペルシャを滅ぼしましたが、ウマイヤ家を重用したため、12年後、エジプトのアリー支持者に暗殺されます。 -
4代目カリフの座を、
ムハンマド家を継いだアリー(妻ファーティマは、その父ムハンマドの死後まもなく死亡)と、ムアーウィヤ(3代目カリフと同じウマイヤ家)とが争いますが、
656年アリーが就任します。
この4代目までを、正統カリフ(正しい手続きで選ばれたカリフ)といいます。
この時代、カリフはアラビア半島から各地に征服軍を派遣、イランやイラクを領土にし、ビザンツ帝国からシリアとエジプトを奪う大征服を成し遂げました。 -
(イスラム王朝の誕生)
しかし、アリーの4代目カリフ就任に、ムアーウィヤやアーイシャが反対して、戦闘になります。 アーイシャは翌年捕まって(ラクダの戦い)隠棲しますが、
660年ムアーウィヤはカリフを自称します。
その翌年、4代目カリフのアリー(クライシュ族ハーシム家)が、暗殺されると、ムアーウィヤ(クライシュ族ウマイヤ家)は単独のカリフとなり、息子へ継承させるようになります。
こうして、合議によって選出してきたカリフは世襲になり、
661年シリアのダマスカスを都として、歴史上初のイスラム王国であるウマイヤ朝が成立しました。
8世紀の初めには、東は中央アジアから、西はイベリア半島まで領土を広げていき、広大な領土ではユダヤ教徒やキリスト教徒など異教徒であってもイスラムを強制されることはなく、税金を支払えば生命・財産の安全と信仰の自由を保障されました。
しかし、征服された民族がイスラムに改宗しても税を免除されることはなく、征服された民族の不満が高まります。 -
子ども服を選ぶお母さん
(シーア派の誕生)
こうした不満と、ウマイヤ朝に対する反体制運動が結びつきます。
アリーを支持していた勢力は、アリーの息子たち(ムハンマドの孫)に指導者を継承する権利があるとしてウマイヤ朝と戦います。
長男ハサンはムアーウィヤのカリフ即位を認めますが毒殺され、次男フサインも戦いの末虐殺されてしまいます。
その死に様(カルバラの悲劇)を語り継いで、ますます対立は深まり、
シーア派を形成していきました。(アリーを初代最高指導者として、その前の3人の正統カリフを認めない)
シーアは、シー・アリー(アリー派)の意
モスクに掲げられている8枚のカリグラフには、アッラー、ムハンマドの他、正統カリフの4人と、(ムハンマドの孫)ハサンとフサイン の名前が描かれています。 -
外では長袖にスカーフでも、家ではこんな服を着るんでしょうね。
アリーの次男フセインは、
イスラム軍に滅ぼされたササン朝ペルシャの王女と結婚して、その間の子供が後継者と決まっていたため、ササン朝の勢力圏では、シーア派が有力でした。
そのため、スンニ派対シーア派の対立は、アラブ対ペルシャの対立の再燃となっていきます。 -
テーブルクロスを20リラで買いました。
長方形が無かったので正方形を買ったのですが、斜めにかけたら、テーブル中央に模様がよく見えて長方形より良かったです。
(スンニ派)
一方、ウマイヤ朝に従った多数派は、後世自らを、ムハンマドから受け継いだ慣習(スンナ)を守る人を意味する「スンナ派(スンニー)」と呼びました。
スンニ派には、スンナに規定がない事、あいまいな事などは、地域ごと又は個人で解釈してかまわないという考え方があるため、地域ごとの多様性が認められました。
現在、イスラム教徒の内、スンニ派(84%)、シーア派(14%)で、トルコもスンニ派です。 -
すごい良い天気!
7世紀アラビア半島のアラブ人の間に起こったイスラム教は、ササン朝ペルシアを倒して西アジアを抑えます。 その勢力は中央アジアに及び、8世紀になると、テュルク(トルコ族)は次第にイスラム化していきます。 -
アッバース朝は、第5代カリフ、アッラシード(在位:786?809年)の時代に最盛期を迎えますが、
9世紀前半、騎馬戦術に優れた遊牧民族であるテュルクを、中央アジアから奴隷として購入し、アラブなどの正規兵に替わる軍事力として重用しました。
しかし9世紀後半にはアッバース朝が徐々に衰えて、イスラム世界の各地に軍人の政権(日本でいえば武士の政権の時代)が誕生していきました。 -
サフランボルの町並みを見ながら、ランチに向かいます。
1階は窓が無いから土間で、2階の張り出した部分がベンチになってるのかな?
(中央アジア初のイラン人系イスラム王朝)
西トルキスタンの支配権を認められたサーマン朝は、テュルクをマムルーク(奴隷身分出身の軍人)としてイスラーム世界に輸出して収入源にしました。
9世紀末(トルコ系初のイスラム王朝)カラハン朝が成立し、
10世紀末には、北のカラハン朝と、南のカズナ朝(マムルーク出身)が、サーマン朝を挟撃・滅ぼして東西トルキスタンを支配し、この地のイスラム化がさらに進みました。 -
ホテル&レストラン カドゥオウル KADIOGLU
文化遺産の建物だそうです。
(セルジュク・トルコ)
テュルクのオズク族(グッズ・トルコ)も、アラル海東側でイスラム化し、
セルジューク家に率いられた一派は、サーマン朝その後カズナ朝に仕えましたが、
1038年ホラーサーン地方(中央アジアからイランやインドに入るシルクロードの要衝)で、セルジューク朝を建国しました。
1055年にはバクダード(現イラクの首都)を陥落させ、
1071年アナトリア東部でビザンツ軍を破り(マンジケルトの戦い)、アナトリアにテュルクが進出します。 この第3代スルタン、マリク・シャー(在位:1055〜1092年)の時代がセルジューク朝の黄金期でした。 -
キョフテとライスプリン
香辛料がほんのり香る程度で、とても美味しかったです。
トルコの料理は口に合わないと言ってた方も、ここのは美味しいとおっしゃっていました。 -
こんなサフランボルらしい、小さなホテルに1泊して、
木造家屋の中や、歴史博物館で、昔のトルコらしい生活を見たかった。‥‥‥ (´_`。)グスン
今晩はイスタンブール泊です。
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