2012/06/25 - 2012/06/25
37位(同エリア248件中)
prinprinさん
- prinprinさんTOP
- 旅行記82冊
- クチコミ126件
- Q&A回答40件
- 265,643アクセス
- フォロワー31人
木馬しかないと評判のよくないトロイ遺跡ですが、今日見学する所は、ここだけです。
古代文明の発達した小アジア(=アナトリア、ラテン語でAsia Minor)は、現在すべてがトルコ領です。 ギリシャ神話の多くが、エーゲ海沿岸のトルコで生まれました。
シュリーマンは1822年(江戸時代末期)生まれのドイツ人で、貧しさの中から成り上げた貿易商でした。
14歳で食品会社の徒弟として働き始めますが、語学の天才だったと言われ、
独学で外国語を学んで商談をまとめ、生涯に15~22?の言語を習得したといいます。
25歳の時にはサンクトペテルグルク(ロシア帝国の首都)に商社を設立し、さらにゴールドラッシュに沸くカリフォルニアにも商社を設立して成功を収めました。
特に、トルコとロシアのクリミア戦争(1853~1856年)の際には、ロシアに、インディゴ(藍の染料)や戦時品(硝石・硫黄・鉛)を販売して、ひと財産築きました。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 観光バス
- 航空会社
- エティハド航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
PR
-
イスタンブールのホテルを、7:30出発。
ヨーロッパ側を西へ移動し、ダーダネルス海峡を渡ります。
この辺りは、イスタンブールの別荘地帯。 トルコの学校は、夏休みが3か月もあって、お母さんと子どもは別荘で過ごし、お父さんは週末だけやってくるそうです。 -
「ゆとりバス利用」という設定日があったので、その日を申し込みました。
今日から毎朝、座席が指定されます。 横3列で、レッグレストがあり、シートも硬すぎず柔らか過ぎず、背もたれの傾きもちょうど良かったので、長時間の移動に耐えられました。
三菱製でした。 (*^^) -
トルコのヨーロッパ部分は、トラキアという地方で、ひまわり畑が広がっています。
けっこう走ったと思ったけど、チャナッカレまで、まだ140km。
トルコでは、ひまわりオイルは熱に強いので揚げ物に使い、熱に弱いオリーブオイルはサラダや冷たい料理に使うそうです。 -
左にダーダネルス海峡(海峡幅1.2〜6km)が見えてきました。
エーゲ海から黒海・ロシアに行くには、ダーダネルス海峡60km、& マルマラ海(280km中の)約200km、& ボスポラス海峡30kmを通らなければなりません。
私たちが移動しているのは、ゲリボル半島。(長さ約100km、英語でガリポリ半島)
第1次世界大戦の上陸戦「ガリポリの戦い」の激戦地です。 -
AGORAという大きなドライブインで昼食です。
1階が店舗になっていて、日本語の上手い店員さんがみんなにパシュミナの説明したり、革製品や雑貨の店もありました。
パシュミナは2〜4万円、オリーブ石鹸も500円以上して、私には買えませんでした。(日本とかわらない!) -
焼サバ、レンズ豆のスープ、チーズを葉で巻いた前菜。
ライスだったし、鯖は塩が効いてないので、機内食で使わなかったお醤油をかけて食べました。 量が多くて、食べきれませんでした。
イスタンブールの鯖サンドも冷凍らしいけど、明らかにオーブンで焼いた冷凍鯖でした。 ドライブインだから、しょうがないか。 -
ガリボル港からフェリーに乗って、アジア側のラープセキ港に渡ります。
橋を架ける計画もあるけど、反対が多いそうです。 交通量から言っても、必要ないかな。
←アジア側から来たフェリー。 -
20台くらいでいっぱい、右奥が私たちのバスです。
船中のキーホルダー売りから、トロイの木馬の形をしたキーホルダーを、3リラと言ったのを1リラ(47円)で買った方がいたのですが、
トロイ遺跡の売店で、同じキーホルダーを見つけ、値段を見て驚きました・・・・ -
しばらくヨーロッパ側とお別れです。
天気にも恵まれ、屋上デッキに座って、気持ちよかった〜。
1914年夏、第1次世界大戦勃発の時、オスマン帝国は親ドイツながら、中立の立場をとっていました。
ドイツは、開戦時に地中海にいた2隻の巡洋艦を、「オスマン帝国にプレゼントする」と言って、イスタンブールに入港し、 (イギリス艦隊から追跡を逃れて、イスタンブールに逃げ込み、ダーダネルス海峡を封鎖した。)
10月、トルコの国旗をつけて(ドイツ人乗組員で)黒海へ出航して、ロシアに砲撃したそうです。
こうして11月、トルコは連合国(イギリス・フランス・ロシア)と戦うことになり、皇帝が「ジハード」の呼び掛けをしました。 -
40分くらいで、アジア側ラプセキ港に到着しました。
英仏艦隊は、翌1915年2月ダーダネルス海峡の要塞に砲撃を開始しますが、大損害を被って(戦艦、3隻沈没・3隻大破)失敗しました。
4月、(海軍大臣だったチャーチルの推進により)イギリスはガリポリ半島上陸作戦を強行しました。(フランスは、陽動作戦としてアジア側に)
当時イギリスの属国だったオーストラリア・ニュージーランド(ANZAC部隊)は、誰と何のために戦うかも知らずに(対ドイツかな?と思って)参戦し、半島の北側・サロス湾から上陸しました。 -
両軍は何度も攻勢をかけましたが、「塹壕戦」になったため、戦線は膠着します。
この時、両軍の兵隊たちは、1晩ずつ交互に歌を歌い合っていたそうです。
戦争は長期化し、伝染病(チフス、赤痢、マラリア)も蔓延して、両軍、約25万人ずつの兵士が亡くなりました。
12月イギリス軍は撤退し、上陸作戦は失敗に終わりました。
この戦争で英雄になったのが、のちに(1923年)トルコ共和国を建国したムスタファ・ケマル大佐(アタテュルク)です。
←アジア側は、オリーブ畑が広がっています。 -
この戦争の時、バーバリー社が、塹壕(ざんごう:TRENCH)での戦闘に合わせて、
手榴弾・剣・水筒をぶら下げるD字型リングを、止め金として取り付けたコートを製造したのが「トレンチコート」で、英国軍に採用されて、50万着以上着用されました。
また、このコートの裏地として使用されていたデザインを、10年後「バーバリー・チェック」と名付けて売り出し、ブームになりました。
第1世界大戦終戦の1918年に発表された、ホルストの組曲“惑星”の第4曲“木星”は、
歌詞がつけられ、亡くなった人への祈りや英国への思いを込めた歌として、現在でも歌い継がれています。 -
地図で見ると短い距離なのに、イスタンブールから6時間(350km)
やっとトロイ遺跡に着きました。
木馬は1975年にドイツがドラマを撮った時に使った物だそうで、中の階段が古くて危ないというので、私は上がりませんでした。 -
トロイに最初の町がつくられたのはBC3000年頃。
その後、地震や侵略、繁栄と没落を繰り返して、その上に新たな町が築かれました。
説明板には、BC2920年(青銅器時代の初期)〜AD200年(ローマ帝国時代)の、9層になっています。
右下は、最盛期の第6層(BC1800〜BC1250)の想像図 (日本で水田の稲作が始まったのは、BC10世紀) -
入口にあるのは、第6市、「東の塔」
古代ギリシアよりはるか以前、クレタ島に栄えたミノア文明や、それを滅ぼしたペロポネソス半島のミケーネ文明(海賊行為で名を轟かせた)。
伝説の都トロイ(別名イリオス、イリオン)は、ダーダネルス海峡を抜ける船に重税をかけていました。
トロイは10年間にわたってミケーネに攻められた末、巨大な木馬を使った戦略にはまり、陥落します。
「トロイ戦争」は、BC1200年頃、第7市の時代にあたり、
詩人ホメロスがトロイ戦争をつづった叙事詩「イリアス」は、BC800〜BC750年頃に書かれました。 -
第6市、城壁。
この外側(写真の右手前)に、第9市の城壁が囲んでいて、2つの城壁の間を50mほど歩きます。 -
第6市の想像図、かなり大きな城塞です。
←木馬の近くにあった説明板 (ここに書かれていた時代分類は、最初の説明板と違っていましたが、こちらの年代を旅行記に使いました。) -
トロイ遺跡は、標高36mの「ヒサルルクの丘」にあって、周りには町もありません。
風が強くて、帽子を押さえて歩きました。この後ホテルへ移動中、風力発電のプロペラが並んでいましたから、この辺りは風が強いのでしょう。 -
第8市(BC1000〜BC85)、BC4世紀ごろに建てられたドーリア式アテナ神殿の天井装飾。
-
これも第8市アテナ神殿の跡だったかな?
エーゲ海交易の中心地として繁栄したトロイは、トロイ戦争で滅亡しますが、
その約140年後イオニア人が植民し、第8市が誕生した頃、ギリシャの植民地になっていました。
マケドニア時代にはアレキサンダー大王が、ローマ時代にはコンスタンティヌス帝が、トロイを訪れています。 -
第1市・第2市、今から約4500年前のメガロン式住居跡。
この遺跡だけ、屋根で覆われていました。
石組の土台の上に、赤土の日干しレンガを積み上げたメガロン(神殿の原型で、入口ホールがあり、支柱のない広間のみの建築様式)で、第1市は火災で滅びました。 壁の小さな穴は、蜂のお家。 -
第1市の城壁。 積み上げられている石が、東の城壁(第6市)に比べると小さくて不規則だった。
トロイ遺跡は、シュリーマンが初めて掘ったように言われますが、
この頃、チャナッカレの領事館のイギリス人カルバートが、発掘調査を行っていました。
彼は大英博物館に協力を依頼したが返事がなく、途方に暮れていたところに、大金持ちのシュリーマンと出会いました。 -
第2市(BC2500〜BC2300)、「プリアモスの財宝」が出土した場所
シュリーマンは、1日に100〜150人の人夫を使って3回の発掘調査をしました。
第9市を探していましたが、財宝が出土したのは第2市で、
トロイ最後の王プリアモスの物と信じ、ここがトロイア戦争時代(BC1200年頃)の遺跡と断定しましたが、ここはそれより1000年以上も古い遺跡でした。
時代的に合わないのは、財宝はここに埋めて隠されていたのだろう、ということでした。
後に、発掘に加わったドイツの考古学者デルプフェルトによって、実際のトロイア戦争時代の遺跡は、第7層であることが判明しました。 -
これもシュリーマンが掘った溝。
掘り起こした土砂に、?や?と、時代を書いたプレートが置いてあるのですが、
第4市の上に第3市があったり、第9市が下になったりしていました。
シュリーマンは、一番いい財宝を奥さんに贈り、次の日には人夫賃も払わずに逃げたそうです。(ガイドさん談)
シュリーマンは、牧師の父に読んでもらった伝説のトロイに夢を抱くようになったそうですが、遺跡調査というより盗掘と言われても仕方ないなぁ。 -
第2市(BC2500〜BC2300)、南西の門につながる傾斜路。
トロイ戦争の時にもこの傾斜路は残っていて、ここからトロイの木馬が場内に引き上げられたと言われます。 -
第8市(BC1000〜BC85)、聖域。 神に生贄を捧げる儀式を行った場所。
ギリシャの植民地だった時代で、ギリシャ文化を取り入れています。
井戸は生贄の血を貯めるものと、洗い流すものの、2つあります。
ペルシァ王がBC480年に雄牛100頭を、アレキサンダー大王もBC334年ここで神々に供え物を捧げたと言われます。 -
順路の最後は、一番時代の新しい第9市、オデオン(現在のオーディオの語源)音楽堂、演劇、会議に使われました。
トロイは東ローマ帝国の支配下の町となり、それ以上発展しませんでした。
その後、火災が原因となって、3500年間続いた波乱と繁栄の歴史に終止符を打ち、
シュリーマンに発掘されるまで、1000年以上伝説のまま地中で眠り続けました。 -
お金持ちや高位の人が住んだ住居跡。
-
柱頭かな?
巨万の富を得たシュリーマンは、
41才(1863年)で事業をたたむと、世界旅行に出て、清朝中国や幕末の日本にも訪れ、アメリカへ向かう船中で「今日の中国と日本」という初めての著作を書いています。 (万里の長城が目的だったようですが、中国と違って日本は素晴らしいと感心しています。)
帰国すると、考古学をフランスのソルボンヌ大学、ドイツのロストック大学に学んだのちギリシャに移住して、
47才で、17才のギリシャ人女性と再婚し、トロイの発掘に取り掛かりました。 -
第6市、南門の遺構
第3〜5市の大きな遺跡は、見つかってないようです。
シュリーマンは、1870年4月(48歳)無許可でこの丘の発掘に着手し、翌年、正式な許可を得て発掘調査を開始しました。
1873年6月(51歳)にいわゆる「プリアモスの財宝」(トロイアの黄金)を発見し、伝説のトロイアを発見したと喧伝します。
この発見は、古代ギリシア以前にさかのぼる文明が、エーゲ海の各地に存在していたということを証明し、古代ギリシアの先史時代の研究が進むことになりました。 -
地中に埋めて穀物を蓄えた壺と、水道管。
「プリアモスの財宝」は、オスマン帝国政府に無断で、妻の故郷ギリシアに持ちだされ、 (妻に黄金の王冠や首飾りを着けて撮った写真が、木馬近くの資料館にあるそうです。)
7年後、「ベルリン名誉市民」の栄誉と引き換えに、ドイツに寄贈されました。
第2次世界大戦終結時、動物園に隠されていた「プリアモスの財宝」は、旧ソ連に持ち出され、行方が分からなくなっていましたが、ソビエト崩壊後、ロシア当局により259品の存在が発表され、1996年からモスクワのプ―シキ美術館本館で展示されています。 -
ぐるっと回って木馬に戻ってきました。
1998年に世界遺産に登録されたそうですが、トロイができた5000年前。3200年前のトロイ戦争を想像するのは難しいです。 -
兵士のふん装をした写真屋さん
木馬の近くに、お土産売り場があるのですが、ダーダネルス海峡のフェリーで1リラ(47円)だったキーホルダーと同じ物を売っていました。
値段を見てビックリ、9リラでした。(-"-) -
トロイ遺跡から、さらにバスで3時間。 空飛ぶ絨毯みたいに、空飛ぶバスってないかなぁ?
町中の道路端には所々に、スイカ売りの屋台がいましたが、バスが速いので、ブレて撮れてなかった。
ガイドさんが、1?0.5リラなので、この季節にはスイカばかり食べている、と言っていました。 -
今日の泊りは、ベルガマの手前、トロイから150kmのアイワルク「ハリッチ・パーク・ホテル」は大きなリゾートホテルで、夕食はプールに面した屋根つきのテラス席でビュッフェでした。 料理の種類も多く、美味しかった。
ウォータースライダーがあって、子供たちも楽しそうでした。 -
海岸に面していて、足だけ「エーゲ海」に浸かりました。
対岸の街明かりがきれいでした。
こんな良いホテルに、泊まるだけだなんて! (T_T)
あんまり気持ちが良いので、のんびりしていたら、ハマムが閉まってしまいました。 -
おはようございます。
5:30モーニングコール、7:30出発です。
個人旅行だったら、起きてから1時間もあれば出発できますが、ツアーだからそうはいきません。
今日は遺跡を2つ廻る予定です。 お天気にも恵まれ、今日も暑いぞ〜!
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
2012トルコ バスツアー プアウーマンが行く!
-
1.エティハド航空でイスタンブール到着、アヤ・ソフィアへ
2012/06/23~
イスタンブール
-
2.危うしアヤ・ソフィア
2012/06/24~
イスタンブール
-
3.ブルーモスク、ヒッポドローム
2012/06/24~
イスタンブール
-
4.ダーダネルス海峡(第1次世界大戦)、トロイ遺跡(シュリーマン)、アイワルク泊
2012/06/25~
トロイ遺跡周辺
-
5.ドイツとの因縁、ペルガモン遺跡
2012/06/26~
ベルガマ
-
6.すごいぞエフェス遺跡
2012/06/26~
エフェス遺跡周辺
-
7.パムッカレ
2012/06/26~
パムッカレ
-
8.コンヤ、キャラバンサライ (アナトリアのセルジュク朝と十字軍)
2012/06/27~
コンヤ
-
9.カッパドキア (トルコ民族の起原)
2012/06/27~
カッパドキア
-
10.アンカラ泊、サフランボル (イスラム教の始まりからトルコ族のイスラム化)
2012/06/28~
サフランボル
-
11.ボスポラス大橋、グランバザール、エジプシャンバザール
2012/06/29~
イスタンブール
-
12.ガラタ橋、トプカプ宮殿 (オスマン帝国)
2012/06/30~
イスタンブール
-
13.地下宮殿、ベリーダンスショー(山田寅次郎)
2012/06/30~
イスタンブール
-
14.ボスポラス海峡クルーズ(ビザンツ帝国)、帰国
2012/07/01~
イスタンブール
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 2012トルコ バスツアー プアウーマンが行く!
0
37