2010/07/07 - 2010/07/12
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カルタゴ遺跡の一つ、アントニヌス浴場址紹介の続きです。紀元前にローマに滅ぼされたカルタゴ時代の遺跡ではなく、その後のローマ時代に建設された浴場址です。
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地中海に面したアントニヌス浴場址の紹介が続きます。元々は、紀元前800年頃に、フェニキア人によって建設されたと伝えられます。現在見る遺跡は、ローマ時代に再建されたものです。
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グループ単位に、現地ガイドさんの説明を聴く人達です。アントニヌス浴場は、当時のローマ帝国内でも3番目の大きさだったとされます。背後に、大統領官邸の白い塀が写りました。
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大統領官邸の白い石塀が官邸と、アントニムヌス浴場址の区域境になるようです。こちら方面の遺跡の撮影ですと、どうしてもこの白い石塀も写ってしまいます。大統領官邸でも、端の方の撮影なら大丈夫でしょう。
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アントニムヌス浴場址の見学の始まりです。15代皇帝により造られた浴場は、7世紀末にアラブ人によるウマイヤ朝(661年-750年)により占領され、その時に破壊されたとされます。持ち去られた石材は、スペインでのモスク建設に使用されたようです。
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アントニヌス浴場の断面図です。10メートル単位でのスケールも入っていました。ざっと120メートルくらいはありそうです。高さも、優に30メートルは超えそうです。アントニヌス浴場は、7世紀末に破壊された後、再建されることはありませんでした。
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こちらは、アントニヌス浴場の1階部分の平面図です。八角形や六角形で区切られ区画が浴室でしょうか。更衣室やプール等を含め、100以上の部屋があったとされます。
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7世紀末に破壊されたアントニヌス浴場が発掘されたのは、20世紀初頭になってからカルタゴ時代の住居跡が発掘されたのがきっかけです。その後、1970年頃から、本格的な発掘調査と、遺跡の保存が進みました。
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半地下式になった通路の光景です。ローマ時代に3番目の大きさを誇ったアントニヌスの浴場は、その広さが3.5平方キロとされます。
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地中海に臨むアントニヌスの浴場址の光景です。チュニジアの歴史の紹介です。ベルベル人を率いた女王カーヒナと東ローマ帝国の連合軍は、ウマイヤ朝軍に698年に敗れ、女王カーナヒは戦死しました。この時、ローマによるアフリカ支配は終焉しました。
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ウマイヤ朝の支配下になった後は、現在のチュニジアはイスラム圏の国として歩んできました。ウマイヤ朝の全盛期は、8世紀初頭です。イベリア半島のゲルマン人国家の西ゴート王国を滅ぼし、西はイベリア半島から東はインド洋までの広大な地域を支配しました。
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地中海に臨むアントニヌスの浴場址の光景が続きます。遺跡の中に立つ椰子の木が印象的です。ウマイヤ朝が傾き始めたのは、718年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを大規模艦隊と陸軍で包囲したものの敗北し、遠征軍は壊滅した戦が兆しとなりました。732年には、メロヴィング朝フランク王国とのトゥール・ポワティエ間の戦いにも敗北し、更に衰退しました。
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斜めになった石の塊は、崩れ落ちた壁でしょうか。小石がセメントで固められた壁のようです。カルタゴ地域を支配した、ウマイヤ朝の話題が続きます。現在のイラン東部のホラーサーン地方で勃発した、アッバース革命により750年にウマイヤ朝は滅亡しました。イスラム圏での内部抗争が原因です。
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遺跡の背後にある、大統領官邸を取り囲む白い塀は、海岸線近くでは水平となりました。アッバース朝支配下で、現在のチュニジア地方の支配を認められたアグラブ王国(800年-909年)でした。アグラブの王朝の国教は、イスラーム教スンニ派、首都はケルアンとなりました。今回の旅行では、ケルアンの大モスクも見学しました。670年に創建され、836年にアグラブ朝によって再建されたモスクです。
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優美な曲線を持ち、彫刻が施された灰色の石材です。出入口等の飾りに使われたものでしょうか。ァ類や屋根の部分に使われたでしょうか。周りとは、やや不釣り合いな場所に設置してありました。
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少し高い場所からの撮影です。海岸線も見通せました。チュニジアの歴史に戻ります。10世紀に入るとマシュリクからイスマーイール派が流入し、909年にアグラブ朝は滅ぼされ、ファーティマ朝(909年-1171年)が成立しました。現在のチュニジアで興ったファティ―マ朝は、やがてカイロを中心とするエジプトに支配の中心を移しました。
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迷路のような半地下式の通路を巡りながらの見学です。歴史の話しに戻ります。ファティ―マ朝の中心地がカイロに移ったことにより、現在のチュニジア区域の統治は、973年に統治をまかされたズィール家によるズィール朝に代わりました。
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迷路のような半地下式の通路の壁は、かなりの高さでした。ズィール朝は、11世紀初頭に内紛により国家は分裂し、1050年のアラブ系の異民族の侵入によりチュニジアは大混乱、ズィール朝は、1140年にシチリア王国の属国となり、1148年に滅ぼされました。
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アントニヌス浴場址のシンボル的な2本の石柱でしたから、角度を変えて、繰り返し撮影しました。断面図にあった、一番高い屋根を支えた石柱でしょうか。
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形が崩れてしまったアーチ門から眺めた、前方の遺跡群です。その上に更に石壁があったと思わせる光景です。
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断面図にあった、半地下室の施設の遺跡でしょうか。アーチ形の石組が残っていました。推測ですが、補修工事で組み直されたものではなく、オリジナルのままのようです。
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アーチ門の左右には、伐り出された大きな石が積み上げられ、アーチ部分は、細石が固められたような断面となっています。セメント技術は、ローマ時代からあったようです。赤いゼラニュウムの花が彩りを添えていました。
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チュニジアの歴史に戻ります。ズィール朝の滅亡後、チュニジア地域は、モロッコから勢力を伸ばしたムワッヒド朝の征服下に置かれました。1229年に、ムワッヒド朝のチュニス総督だったハフス家のヤフヤーが独立し、ハフス朝(1229-1574年)が成立し、統治者が代わりました。
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城壁の壁を思わせるような浴場址の石壁です。ハフス朝成立後、チュニジアの中心はカイラワーンからチュニスへと移りました。初期のハフス朝は、シチリア王国を統治していた神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世と友好関係を結びました。また、ジェノヴァ、バルセロナやヴェネツィアの商人との通商関係を築いたとされます。
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当時のままのトンネルが残ったと思われる光景です。西はアルジェ間で支配区域を広げ、栄華を誇ったハフス王朝ですが、14世紀に入ると内部分裂により衰退し、勢力範囲を狭めました。その後、ハフス朝の再統一事業や、1394年に即位したアブー=ファーリスによってハフス朝は再び北アフリカの強国として甦りました。『歴史序説』を著した、歴史家イブン・ハルドゥーンなど優れた学者が現れ、チュニスは北アフリカの学問の中心地として栄えました。
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こちらも、よく保存された石のアーチです。3世紀半の栄華を誇ったハフス朝も、1574年にオスマン帝国のスィナン・パシャによってチュニスが陥落させられ、滅亡しました。この後、チュニジアはオスマン帝国の属領となりました。その支配には、当初、『デイ』(パシャ)と呼ばれる軍司令官をチュニジアに派遣しました。
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原型がうまく想像できない、小山のような石の塊です。オスマン帝国(1299-1920)は、テュルク系(後のトルコ人)の帝室、オスマン家を皇帝とする多民族帝国でした。現在のトルコの都市イスタンブルを首都とし、最大版図は、東はアゼルバイジャンから西はモロッコに至り、南はイエメンから北はウクライナに至る広大な領域に及びました。チュニジアが、オスマントルコの属領となったのは、1574年から1881年までの長期でした。
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高くなった浴場址の上に立って、地中海を眺める人達です。富国強兵を急ぎ過ぎたチュニジアは、1869年には財政破綻に追い込まれ、英仏伊3カ国による財政管理国家に転落しました。次第に支配を強めたフランスにより、1881年のバルドー条約、1883年のマルサ協定でフランスの保護領となりました。
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シンボル的な2本の石柱のアップです。チュニジアが、フランス保護領に置かれたのは、1881年から1956年までの間です。1945年の第二次世界大戦終了後、1956年3月20日に、ムハンマド8世アル・アミーン国王を擁してチュニジア王国は、フランスから独立しました。独立を指導したのは、後に初代大統領となった、ブルギーバです。
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ぽっきりと折れた、丸い石柱の光景です。この柱の色は、砂岩でしょうか。1956年に独立したチュニジアは、翌1957年にブルギーバは共和制宣言を行い、大統領制が採用され、チュニジア共和国が成立しました。
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今年(2011年)になって、世界のホットな話題となったのが、23年間に亘って独裁体制を敷いたベン・アリ―のサウジアラビアへの亡命です。そのきっかけは、2010年末に起こったジャスミン革命です。1987年11月の無血クーデターにより、当時84歳だったブルギーバは、ベン・アリーにより解任されました。今度はその大統領が、民衆によって退けられました。前大統領派の閣僚が健在ですから、暫くは予断を許さない国内情勢です。
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