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ビュルサの丘に残る、カルタゴ遺跡紹介の続きです。ローマ帝国に滅ぼされたカルタゴ遺跡と、その後のローマ時代の複合遺跡です。殆んどはローマ時代のものです。

2010夏、チュニジア旅行記(12/34):7月9日(5):ビュルサの丘・カルタゴ遺跡、礎石、トルソ

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2010/07/07 - 2010/07/12

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旅人のくまさん

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ビュルサの丘に残る、カルタゴ遺跡紹介の続きです。ローマ帝国に滅ぼされたカルタゴ遺跡と、その後のローマ時代の複合遺跡です。殆んどはローマ時代のものです。

交通手段
観光バス
  • 立ち葵が咲く、カルタゴ遺跡の光景です。カルタゴの建国について確実なことは、ティルスを母市としたフェニキア人が建設したことと、ティルスと同じフェニキア神話のメルカルトが町の守護神であったこととされます。

    立ち葵が咲く、カルタゴ遺跡の光景です。カルタゴの建国について確実なことは、ティルスを母市としたフェニキア人が建設したことと、ティルスと同じフェニキア神話のメルカルトが町の守護神であったこととされます。

  • 同じくカルタゴ遺跡の光景です。柱や壁の一部が展示されていました。メルカルトは、当時のフェニキアのテュロスの都市神で、海と航海の神です。火によって死に、1月の祭りで再生すると考えられていました。その神殿には、純金とエメラルドの2本の柱があったとされます。

    同じくカルタゴ遺跡の光景です。柱や壁の一部が展示されていました。メルカルトは、当時のフェニキアのテュロスの都市神で、海と航海の神です。火によって死に、1月の祭りで再生すると考えられていました。その神殿には、純金とエメラルドの2本の柱があったとされます。

  • カルタゴ遺跡と、その周りの建物光景です。建物はカルタゴ博物館です。博物館の建物は、1890年に建設された教会の神学校を改造したものとされます。

    カルタゴ遺跡と、その周りの建物光景です。建物はカルタゴ博物館です。博物館の建物は、1890年に建設された教会の神学校を改造したものとされます。

  • 石柱の礎石等がまとまって展示された一角です。整理が付かずに、取り敢えず纏められている雰囲気です。この後、個別に紹介していきます。

    石柱の礎石等がまとまって展示された一角です。整理が付かずに、取り敢えず纏められている雰囲気です。この後、個別に紹介していきます。

  • 柱の頭部、屋根やの樹を支える部分でしょうか。デフォルメされた木の葉風の文様が刻み込まれています。一番多く見かけた文様の一つです。

    柱の頭部、屋根やの樹を支える部分でしょうか。デフォルメされた木の葉風の文様が刻み込まれています。一番多く見かけた文様の一つです。

  • 大きく割れた礎石です。割れた断面には黒ずんで古くなった部分と、まだ新しい右上の部分もあります。台座の部分にも、比較的簡単な彫刻があります。

    大きく割れた礎石です。割れた断面には黒ずんで古くなった部分と、まだ新しい右上の部分もあります。台座の部分にも、比較的簡単な彫刻があります。

  • 材質や形状に、上下に少し違和感があります。推測ですが、別の柱のものを組み合わせたのかも知れません。蓮の花風の文様です。

    材質や形状に、上下に少し違和感があります。推測ですが、別の柱のものを組み合わせたのかも知れません。蓮の花風の文様です。

  • 年代を感じさせる礎石です。彫刻された文様もかなり風化しています。上下の部材には、素材、形状ともに一体感があります。

    年代を感じさせる礎石です。彫刻された文様もかなり風化しています。上下の部材には、素材、形状ともに一体感があります。

  • 先に紹介したものと、そっくりの彫刻が施された礎石です。同じ建物で使われたものでしょうか。少し白っぽい材質も似ています。

    先に紹介したものと、そっくりの彫刻が施された礎石です。同じ建物で使われたものでしょうか。少し白っぽい材質も似ています。

  • 形も大きさもまちまちな石が、一定間隔で並んだ光景です。建物の基礎に従って配置されたものではなく、遺跡の雰囲気を出すための配置のようです。長い部材は、柱ではないようです。

    形も大きさもまちまちな石が、一定間隔で並んだ光景です。建物の基礎に従って配置されたものではなく、遺跡の雰囲気を出すための配置のようです。長い部材は、柱ではないようです。

  • ビュルサの丘とその先のカルタゴの町の光景です。微かに地中海も見えます。地中海に面するカルタゴの初期の時代には、農耕を営むグループと海で働くグループとの長い闘争の歴史があったようです。

    ビュルサの丘とその先のカルタゴの町の光景です。微かに地中海も見えます。地中海に面するカルタゴの初期の時代には、農耕を営むグループと海で働くグループとの長い闘争の歴史があったようです。

  • チュニジア国旗が立つ、ビュルスの丘の光景です。周りを石柱の礎石が取り囲んでいました。徹底的に破壊されたカルタゴは、100年後にローマの植民都市として再建されました。

    チュニジア国旗が立つ、ビュルスの丘の光景です。周りを石柱の礎石が取り囲んでいました。徹底的に破壊されたカルタゴは、100年後にローマの植民都市として再建されました。

  • 案内標識です。フランス語とアラビア語で記されていました。上2つが家館内、祖sたが博物館、一番下が喫茶の案内のようです。

    案内標識です。フランス語とアラビア語で記されていました。上2つが家館内、祖sたが博物館、一番下が喫茶の案内のようです。

  • ビュルスの丘の展示状況の紹介です。この一角には、柱が数多くありました。推測ですが、折れたりして、再利用できなかったものが残ったのでしょうか。折れずに残った柱は見当たらないようです。

    ビュルスの丘の展示状況の紹介です。この一角には、柱が数多くありました。推測ですが、折れたりして、再利用できなかったものが残ったのでしょうか。折れずに残った柱は見当たらないようです。

  • 柱の基礎や頭部ではなく、中間部分です。発掘された叙湯泰を示すのではなく、柱を地面に立てて展示したもののようです。ほとんどの柱は、建築資材として、別の建物の建設に流用されたとされます。

    柱の基礎や頭部ではなく、中間部分です。発掘された叙湯泰を示すのではなく、柱を地面に立てて展示したもののようです。ほとんどの柱は、建築資材として、別の建物の建設に流用されたとされます。

  • 石柱が雑然と並べられた展示の一角です。石材の種類も大きさも、彫刻もまちまちです。カルタゴ時代のものと、ローマ時代のものが混じっているようです。

    石柱が雑然と並べられた展示の一角です。石材の種類も大きさも、彫刻もまちまちです。カルタゴ時代のものと、ローマ時代のものが混じっているようです。

  • 地中海方向に向かって、一段高くなった敷地の光景です。石垣は敷地保存のために造られた近代に建設されたものでしょう。段の上にも展示品が見えました。

    地中海方向に向かって、一段高くなった敷地の光景です。石垣は敷地保存のために造られた近代に建設されたものでしょう。段の上にも展示品が見えました。

  • 屋外展示場としてのビュルスの丘の光景です。カルタゴ全盛時代には、イベリア半島を含め地中海沿岸全体に支配地域が及んでいました。ローマとの軋轢は、歴史の必然とも言えます。

    屋外展示場としてのビュルスの丘の光景です。カルタゴ全盛時代には、イベリア半島を含め地中海沿岸全体に支配地域が及んでいました。ローマとの軋轢は、歴史の必然とも言えます。

  • 10本以上の柱が纏めて展示された一角です。どの柱も数メートルで折れていますから、資材として流用できなかった柱が集められたようです。材質もまちまちです。

    10本以上の柱が纏めて展示された一角です。どの柱も数メートルで折れていますから、資材として流用できなかった柱が集められたようです。材質もまちまちです。

  • 薄いピンク色の立ち葵の花です。遺跡ばかりを見続けていますと、少しほっとする、花のある光景です。ホリホック(またはホリーホック)の呼び名もあります。

    薄いピンク色の立ち葵の花です。遺跡ばかりを見続けていますと、少しほっとする、花のある光景です。ホリホック(またはホリーホック)の呼び名もあります。

  • 低い石塀の上にも礎石等が置いてありました。右が株の礎石で、左側が梁を支える頭部のようです。材質が少し違うようですから、別々の柱のものでしょうか。

    低い石塀の上にも礎石等が置いてありました。右が株の礎石で、左側が梁を支える頭部のようです。材質が少し違うようですから、別々の柱のものでしょうか。

  • ビュルスの丘にあった白く、新しい建物です。博物館の事務所ビル当たりでしょうか。遺跡とは直接関係ない建物でしょう。

    ビュルスの丘にあった白く、新しい建物です。博物館の事務所ビル当たりでしょうか。遺跡とは直接関係ない建物でしょう。

  • ビュルスの丘からの眺めです。カルタゴの市街光景です。ビュルスの丘は、いわばカルタゴの街の山の手です。

    ビュルスの丘からの眺めです。カルタゴの市街光景です。ビュルスの丘は、いわばカルタゴの街の山の手です。

  • ギリシャのパルテノン遺跡のように、建物構造が系統立てて見学することは出来ません。並べられた礎石などから往時の姿を偲ぶばかりです。

    ギリシャのパルテノン遺跡のように、建物構造が系統立てて見学することは出来ません。並べられた礎石などから往時の姿を偲ぶばかりです。

  • こちらの一角には、大木が茂っていました。紀元前146年にローマ軍に攻略された時、二度と再建できないように、17日間も火で焼き尽くされました。小さい頃に観た映画にも、そのような場面があった記憶があります。ただし、カルタゴの町だったかどうかは曖昧です。

    こちらの一角には、大木が茂っていました。紀元前146年にローマ軍に攻略された時、二度と再建できないように、17日間も火で焼き尽くされました。小さい頃に観た映画にも、そのような場面があった記憶があります。ただし、カルタゴの町だったかどうかは曖昧です。

  • 白大理石を使ったトルソです。トルソは、人間の頭部・腕・足・脚を除いた胴体部分のみを造形した彫刻です。ただし、このトルソに見える彫刻は全身像が欠損したものかもしれません。男性像です。

    白大理石を使ったトルソです。トルソは、人間の頭部・腕・足・脚を除いた胴体部分のみを造形した彫刻です。ただし、このトルソに見える彫刻は全身像が欠損したものかもしれません。男性像です。

  • こちらの像も白大理石です。トルソとして彫刻されたものではなく、明らかに全身像です。頭部や手足の先端が失われたのでしょう。女性像です。

    こちらの像も白大理石です。トルソとして彫刻されたものではなく、明らかに全身像です。頭部や手足の先端が失われたのでしょう。女性像です。

  • 世界遺産の標識です。全てアラビア語で記されていました。カルタゴ遺跡は、文化遺産として1979年に世界遺産に登録されました。諸説ある中で、チュニジア政府が公認しているカルタゴ建設は、紀元前818年です。

    世界遺産の標識です。全てアラビア語で記されていました。カルタゴ遺跡は、文化遺産として1979年に世界遺産に登録されました。諸説ある中で、チュニジア政府が公認しているカルタゴ建設は、紀元前818年です。

  • カルタゴ遺跡からの出土品は、紀元前8世紀後半のものが最も古いとされます。数字で記せば紀元前750年から紀元前699年になります。

    カルタゴ遺跡からの出土品は、紀元前8世紀後半のものが最も古いとされます。数字で記せば紀元前750年から紀元前699年になります。

  • 人に例えれば、散髪したばかりのすっきりした頭です。ただし、この樹は剪定されたものではなく、自然にこの枝振りになるそうです。常緑樹のようですが、名前は分かりません。

    人に例えれば、散髪したばかりのすっきりした頭です。ただし、この樹は剪定されたものではなく、自然にこの枝振りになるそうです。常緑樹のようですが、名前は分かりません。

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