2002/10/13 - 2002/11/08
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kojikojiさん
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メルスィンを夜8時に出航したフェリーは個室もベットもありませんでした。バスの座席でさえ見知らぬ男女が相席にならないように分けるお国柄なのに,
フェリーはベンチシートに座ったまま夜を明かすのが不思議でした。一応バールのようなものがあるので飲み物とかスナックは買うことが出来ます。クルーズと言うよりは難民船と言ったほうが近いかも知れません。でもデッキから眺める景色に違いは無く、葡萄色の地中海の海と時間によって変化する空の色が美しかったです。特に満月の月明かりに浮かぶ水面は印象深いものでした。明け方に空が暁に焼ける頃に北キプロスの半島が見えてきました。西の空には満月が沈んでゆきます。
ファマグスタの港に入ると正面にオセロタワーが見えました。
シェークスピアのオセロの舞台がここです。入国審査は結構厳しくて荷物の中を全部調べられました。入国スタンプをパスポートに押されそうになり「ノー!」と叫んでおきながら何て言って良いか分からず「アナザーペーパー!」と言ったら理解したようで「オー!ヴィザ。」と言って別の用紙に押してくれました。今は分かりませんが北キプロスのスタンプのあるパスポートではキプロス共和国とギリシャには入国できませんでした。ファマグスタとギルネとニコシア岳の滞在ですが、北キプロスの旅が始まります。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 2.5
- 交通
- 2.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 船 タクシー
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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夜のメルスィンの港です。夜の港のオレンジのライトの色は,先の旅への予感とも期待とも取れるような気持ちで心がドキドキします。
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満月の光に照らされて船から見る水面は光り輝いていました。船の中はベンチが置かれるだけで、座りきれないほどの人で満員です。何とか席を確保して荷物もそこらに置いたままです。他の人もそうなので、何かなくなりそうな雰囲気は感じません。
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ベンチに座っているので、うとうとするくらいで寝ることはできませんでした。そして日の出です。地球ってでかいなと感じます。
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遠くにキプロスの島影が見えてきました。島の東に延びるカルバス半島のアンドレアス岬のあたりだと思います。
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座るところも少なく、タバコを吸う人はデッキに出てきて時間をつぶしています。午後8時に出港した船は翌朝の7時にファマグスタ港に到着の予定です。
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午前6時過ぎにファマグスタの港に着き、タグボートが出迎えてくれました。接岸するにはかなり時間がかかりました。
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白い屋根の入国審査場の向こうにララムスタファパシャです。昔はキリスト教教会でしたが、現在はモスクになった建物です。手前はシェークスピアのオセロの舞台となったオセロタワーです。
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入国審査は以外に厳しくて荷物を全部チェックされました。パスポートに直接スタンプを押されそうになって「No!」と叫んでしまいました。直接押されたらこの後の予定に入れているギリシャに入国できなくなります。しかし、この後ギリシャに行くからと言っても通じません。とっさに出た「アナザーペーパー!」という言葉に「あ?ヴィザ。」と言ってVISAと書かれた紙を抽斗から出してスタンプを押してくれました。
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取り合えず一番近いオセロタワーに行きました。ファマグスタに泊まる予定は無いので荷物を持ったままです。入口の小屋にいるおじいさんに事情を話して、オセロタワーとララムスタファパシャの見学の間荷物を預かってもらいました。
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入口の門の上のレリーフは翼を持ったライオンの像でサンマルコを象徴したものです。ヴェネツィアを象徴するレリーフは、ここまでヴェネツィアの力が及んでいた証拠です。サンマルコのレリーフや彫刻はキプロスの各地で見掛けました。
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シェークスピアの「オセロ」はヴェネツィアの軍人でムーア人であるオセロとデズデモーナの物語です。二人は愛し合い、デズデモーナの父ブラバンショーの反対を押し切って駆け落ちします。オセロを嫌っている旗手イアーゴーは、自分をさしおいて昇進した同輩キャシオーがデズデモーナと密通しているとオセロに讒言します。嘘の真実味を増すためにイアーゴーはオセロがデズデモーナに贈ったハンカチを盗んでキャシオーの部屋に置きます。 オセロはここキプロスの出身です。
イアーゴーの嘘を信じてしまったオセロは嫉妬に苦しみ怒り、イアーゴーにキャシオーを殺すように命じて、自らはデズデモーナを殺してしまいます。イアーゴーの妻のエミリアは、ハンカチを盗んだのは夫であることを告白し、イアーゴーはエミリアを刺し殺して逃亡します。イアーゴーは捕らえられますが、オセロはデズデモーナに口づけをしながら自殺してしまいます。 -
ファマグスタ砦からはメルスィンから乗って来たフェリーが見えました。この後メルスィンへは戻らないのでこの港ともお別れです。
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オセロタワーの城壁の上で海を眺めながら今回の旅を思い返しました。まだ半分にもなっていませんが、沢山の人との出会いと別れがありました。この旅が最後まで良いものになる漠然とした予感を感じました。
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ここからの眺めを一枚スケッチしました。モスクに向かう前に入口のおじいさんに見せると親指を立ててイイネしてくれました。モスクに行ったらもう一枚絵も描いて来い見たいな事を言われました。
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最初聖ニコラ大聖堂として建てられた聖堂は、1190年から1489年までキプロス王国を支配した、フランスのリュジニャン家が故国のゴシック様式を持ち込んで建設します。フランス国外では非常に希なフランボワイヤンと呼ばれる様式で建てられ、外観はランス大聖堂に似ていることから、「キプロスのランス大聖堂」と呼ばれたそうです。二つの塔の最上部は、地震と1571年のオスマン軍の砲撃により損傷を受け、二度と修復されなかったそうです。
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1960年にイギリスからの独立を達成したキプロスでは、人口の8割を占めるギリシャ系住民を中心にギリシャとの合併を求める声が根強く、これを背景に1974年にギリシャ合併推進派によるクーデターが発生します。これに対しトルコはトルコ系住民の保護を目的に派兵しキプロス島北部を占領して現在に至っています。
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2004年に国連は連邦制による再統合案を示して交渉を仲介し、分断状態の長期化と固定化を懸念したEUは北キプロスの経済支援を開始し、直接通商の解禁を表明するなど北キプロスを独立国家として認める動きになっているようです。
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文壇前にはファマグスタと呼ばれた町は現在ガジマウサと呼ばれ、聖二コラ大聖堂はラーラ・ムスタファ・パシャと呼ばれるモスクになっています。
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モスクに造り変えるにあたって、大聖堂内の像や十字架上のキリスト像やフレスコ画や絵画、ステンドグラスの窓といったもの全てが取り除かれるか塗り込められたそうです。
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ファマグスタと周辺の観光をしてから街中のバス乗り場へ行きました。一日に数本のバスがキレニア(ギルネ)へ出ていました。感じはマルタバスをボロくしたようでした。生活路線のミニバスですが、対向車線は軍用車両が連なり基地の脇も通ります。写真撮影できる雰囲気ではありません。南のイギリス軍の基地周辺も国境付近の国連軍も写真撮影禁止だったのを思い出します。
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海沿いの道からは遠くトルコ本土が望め、やたらカジノの看板の多い町を抜けるとキレニア(ギルネ)に到着しました。床屋で尋ねると安いホテルを紹介してくれました。ホテルシデルヤは一つ星で、1,000円にしては上等なホテルでした。隣がモスクのミナレットなので、朝夕のアザーンは煩かったですが快適でした。
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部屋から港が見えたので坂を下って行ってみました。そこにはキレニア城に囲まれた美しい港がありました。近くに瀟洒なホテルがあったので部屋を見せてもらいました。値段も手頃だったので翌日から3泊することにしました。次のアンタクヤのホテルをネットで予約してあったので、電話して予約を変えてもらうお願いもしました。
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港にはネプチューン号と言う帆船が停泊していて、1日クルーズの看板が出ていました。今まで出会った帆船クルーズには全て参加しているので勿論予約しました。ギルネ港を出航して西に進路をとり、ラピュタ沖で停泊して海水浴と昼食、その後メロンタイムと海水浴、テータイムの後に帰港するツアーで5000万トルコリラ(3,500円)でした。
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トルコ同じ星と三日月の旗ですが逆転しているのが北キプロスの旗です。
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ネプチューン号の先の堤防からは外洋が広がり、途端に波が強くなっていました。その向こうにはタシュシュ行きの水中翼船が見えます。
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キレニア城から見た湾の内側です。湾の外とは打って変わって静かな港です。一番右側の白い建物が予約したホテルです。年老いたお母さんと息子さんが経営する家庭的なホテルでした。
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そのままキレニア城の中に入ってみます。現在見られる城は旧港の東端に十字軍が築いた城を16世紀にヴェネツィア共和国が改築したものです。その一部は博物館になっていました。アンフォラ壺がどのように船に積まれていたかが良く分かります。
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博物館には紀元前4世紀に沈没したギリシア商船が引き上げられて展示されています。この難破船は積み荷と共に復元されたものとしては世界で最も古いもので、港近くの堆積した泥の中から発見されたそうです。船はキレニア港に入港する手前で嵐により沈んだものと考えられ、アレッポ産の松の木で造られ建造後80年以上は経っていたようです。全長は14メートルあるそうです。
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キプロスの東西に流れる山脈が見えます。比較すると南側のキプロス共和国のほうが裕福に思えますが、この景色を見ていると手頃な物価でヨーロッパのリゾートを味わえる恩恵も感じます。
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港の一番先がホテル泊まることになったERGENEKON HOTELです。1階がレストランになっているので夜になると雰囲気は一変して賑やかになります。
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山の上に聖ヒラリオン城の遺跡があるのですが、車をチャーターするしかアクセスが無く、途中まで乗り合いタクシーで行ったとしても軍事施設が近くにあるので歩いてはいけないと言われました。
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キレニア城の一番奥からは港の全景と広大な景色が望めました。10月下旬とは思えない夏の名残を感じるような気候でした。。
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鏡のような海面の上を小さな漁船が航跡を残して滑っていきます。
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ネプチューン号の真上辺りまで来る事が出来ました。帆船のクルーズはマルタ島やキプロス共和国側でも何度も乗っていますが、帆走するときの静けさと爽快感は忘れられません。
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トルコ本土まで水面の上を走っていけそうな気がします。
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しばらくすると漁船が戻ってきました。
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この辺りではどんな魚が獲れるのでしょうか。
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ネプチューン号のような帆船以外にもクルーズが出来る船はいろいろありました。看板が出てるので分かりますが、値段は同じようなものです。
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お客を乗せた遊覧船が港を出ていきました。小さい港ですが結構賑わっています。
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キレニア城の反対側は美しい海岸が広がっていましたが誰も泳ぐ人はいません。
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昔のギリシャ正教の教会だった建物ですが、今はイコン美術館になっています。お客も来ないので係のおばさんは編み物に夢中です。「ラザロの復活」のイコンを見ていたら隣のレストランからレッドツェッペリンの「天国への階段」が流れてきました。
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ラザロが病気と聞いてベタニアにやってきたイエスの一行は、ラザロが葬られてすでに4日経っていることを知ります。イエスはラザロの死を悲しんで涙を流しますが、墓の前に立ち「ラザロ、出てきなさい。」というと、死んだはずのラザロが布にまかれて状態で出てきます。このラザロの復活を見た人々はイエスを信じ、ユダヤ人の指導者たちはいかにしてイエスを殺すか計画しはじめす。
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ラザロは天国への階段を上る途中だったのではないでしょうか。復活したラザロはキプロスの初代主教となり、キプロス共和国側南東のラルナカに聖ラザロ教会があります。教会の地下クリプトにはラザロの墓所がありました。南側には前年に行っているので、これでキプロスの南北を旅したことになります。
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午後は山の中腹にあるベッラパイス修道院まで歩いていきました。地球の歩き方には徒歩で40分と書いてありましたが、健脚な人でも1時間30分はタップリかかります。
地図も無く住宅地を抜けていくので途中で不安になりました。他にも酔狂な人はいるようで、山から下りて来る観光客がいたので尋ねてみると道は間違っていませんでした。 -
ベッラパイス修道院に到着しました。修道院と言っても殆どが朽ち果てた遺跡です。
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12世紀にアウグスティヌス会のフランス人修道士により創設され、13世紀から14世紀にかけてフランス風ゴシック様式で建造された回廊やアーチなどが残っていいます。建物がそのまま残っていればかなりの大聖堂だったと思われます。内陣や礼拝堂だった所には糸杉の木が植えられていて公園のようでした。
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古い聖母子像のフレスコ画が残されていました。前年のキプロス島の旅行では正教の教会を訪ね歩きフレスコ画を見ましたが、北側にも素晴らしいものがたくさん残されています。ただ宗教上の違いからか、保存状態はあまりよくありません。
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修道院の周りは柑橘類の畑になっていました。
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ベッラパイス修道院は山の中腹にあるので、周囲には絶景が広がります。この景色を見るだけでもここまで登ってきた甲斐があります。
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キレニア(ギルネ)に戻った翌朝に荷物をまとめてシデルヤホテルを出ました。部屋はこのミナレットの真ん中辺りの高さにあり、スピーカーから流れるアザーンの音量がすごので、朝はびっくりして飛び起きました。
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そのまま港沿いのERGENKONホテルを移ってきました。部屋は既に用意されていました。テラスからの眺めも最高で、正面にキレニア城と美しいマリーナが見えます。ただ日が暮れた後は下のレストランやバーの営業が続くので、12時過ぎまでドンちゃん騒ぎで少々煩いです。
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部屋に荷物を置いてネプチューン号に向かいます。早く乗船できたので帆先の根元に場所を取れました。乗客は40人くらいと聞いていましたが、6割がリタイア組と3割が家族連れと残りが若いカップル。一人参加は私だけで東洋人も一人だけです。もっとも2回の南北キプロス旅行でアジア人の観光客を見たことはありませんでした。
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9時30分に出航しました。海から見るキレニア城は迫力があります。十字軍の足跡を訪ねた旅に数年にかけていましたが、マルタ共和国のヴァレッタしかり、海からアクセスするとその時代に遡ったような気分に浸れます。
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さあ楽しいクルーズの始まりです。南のキプロス共和国のパフォスやラルナカやリマソルでも同じようなクルーズに参加しているので、キプロスの海岸線は大部分制覇したことになります。ファマグスタ(ガジマグサ)辺りは昔はリゾートとして栄えていましたが、現在は廃墟のようになっているので、東海岸の海はトルコからのフェリーでカバーした感じです。
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マルタ島のルッツと呼ばれる小型の漁船のように見えます。フェニキアンアイと呼ばれる帆先の目玉のようなものがあるのかは分かりません。
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残念ながらクルーズ中の写真は撮っていませんでした。当時はこうやってブログに写真を出すなんて思ってもいなかったし、デジタル化もほとんどされていませんでした。ネプチューン号のスタッフがお揃いのロゴ入りポロシャツを着ていたので、売っていないか尋ねると500円くらいで譲ってもらえることになりました。ホテル名を告げると、夕方になって新しいものを届けてくれました。
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ホテルの部屋から見た夕方のキレニア城とマリーナです。周囲の店にもひと気は無く静まり返っています。
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陽が落ちるとキレニア城はライトアップされ、周辺の建物にも明かりが灯ります。この時間の何ともいえないミルクがかった空の色が好きです。風も凪いでしまい海面も鏡のようでした。
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翌朝は旅行会社でタシュシュ行きの船の予約をして、広場のドルムシュ乗り場に向かい、レフコシャ(ニコシアの北半分)の観光です。古いメルセデスの黒塗りのリムジンは、昨年パフォスの空港からリマソルまでぶっ飛ばしたのと同じタイプでした。
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キレニアから30分でレフコシャ(ニコシア)に到着しました。インフォメーションで地図をもらうと、被っていたキプロスの帽子を見た係員が「南から来たのか?」と聞くので「キレニアに数日滞在しているよ。」と答えると「それはいい。」にっこり。この当時はニコシアの南北の行き来は出来なかったと思います。もらった地図を頼りにかつては聖ソフィア大聖堂と呼ばれたセリミエ・モスクまで来ました。
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セリミエ・モスクはキプロス島に残存する最大のゴシック様式の大聖堂を転用したもので、堂内の大きさは66メートル×21メートルあります。聖ソフィア大聖堂と呼ばれたこの建物は12世紀初頭に建てられ始められますが、資金上の問題や政治問題などに翻弄されて、完成を見るまで150年ほどかかります。それも部分だけで尖塔などは造られずに終わります。
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1570年にオスマン帝国がニコシアの施政権を取ると、大聖堂はモスクに転換され、建物西側に2本のミナレットが追加されます。この時に教会内の彫像やフレスコ画やステンドグラスはすべて撤去されました。宗教の場なので入りあぐねているとおじいさんが「靴を脱いで入って良いよ。写真も撮ってかまわないよ。」といってくれました。ここでもスケッチを1枚描きました。
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レフコシャ(ニコシア)の町は世界で唯一町の中心が分断されている首都です。キプロス島自体も東西でグリーンラインで分断されています。前年のキプロス共和国の旅では南側のニコシアからこのセリミエ・モスクを見ていました。こうしてここまで来ると不思議な気持ちになります。
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通りを歩いていたらいろいろ話しかけられて「後で遊びにおいでよ。」と言われていました。そのおじさんの所に戻って、スケッチを見せると「オッー!ジャミー!」と言って、家族を呼んでくる騒ぎになってしまいました。そこでお茶をご馳走になってしばらくくつろぎました。
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グリーンラインと呼ばれる国連の境界線近くの家は廃墟のようで人は住んでいません。その周囲は南北の町のどちらも自動車修理工場が多かったです。トルコ語は分かりませんが、駐車禁止と書いてあるのでしょう。
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メルスィンからの船でも思ったのですが、北キプロスのおじいさんが履いているズボンが何ともカッコイイのです。昔のツッパリのボンタンのような股下が長くて裾は物凄く細いのです。店で見かけて何度か買っちゃおうかなと思ったものです。
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国境付近は撮影禁止でした。UNのマークをつけた兵隊や監視所がところどころ見えます。この家もファサードの壁だけで奥の部屋は破壊されていてありません。
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南側のニコシアには「カフェ・ベルリン」なんてしゃれた名前のカフェがありましたが、北側はそんな雰囲気はありませんでした。
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少し離れるとトルコ風の出窓を持ったお屋敷がありますが、鎧戸はすべて閉じたままなので内部をうかがい知ることはできません。
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さらに一歩入ると人々の生活が感じられました。この子が大人になる前に境界線などがなくなれば良いと願いました。2019年現在でも人の行き来や観光は緩和されましたが、グリーンラインは残されたままです。
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念願のレフコシャともお別れです。帰りも同じ運転手さんのドルムシュでした。往路で一緒に乗っていた地元の女の子もキレニアに戻るようです。
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トルコと北キプロスとでは日本までの郵便料金が10万トルコリラ安いのが不思議です。北キプロスでの葉書の投函はここで終わりです。北キプロスの国章が入ったポストはEⅡRは現在のエリザベス2世(1952~)以降のイギリス統治時代の名残を感じます。元々赤かったものを黄色く塗り替えたのでしょう。昨晩頼んであったタクシーが来たので港に向かいましょう。
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港でタクシーを降りて人が並んでいる所に並んでいるとセキュリティの順番がまわって来ました。チケットを見せると、表を指差され「あそこでポートタックスを払ってから。」と言われる始末。また長い列を並んで手続きしてから出国手続きです。同じような失敗を前の年にクロアチアのドゥブロブニクの港でしたことを思い出します。当時タバコを吸っていたので免税店で4カートン購入しましたが、信じられない安さでした。トルコ人が買い物をしに北キプロスに来る話もあながち嘘ではないなと思えました。
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タシュシュ行きの高速船の操舵室の下に入口があり、荷物はそこに置くだけでした。まあ、みんなそうしているので問題無いのでしょう。
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前の年に妻から渡されて読んだ篠田節子さんの「インコは戻ってきたか」を思い出しました。紛争に巻き込まれる部分を考えると北キプロスの方が臨場感があるなというのが感想です。
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北キプロスの旅も終わりですが、高速船でタシュシュに戻ってからは地中海沿岸の旅が始まります。
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