2005/04/22 - 2005/04/27
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旅人のくまさんさん
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<2005年4月23日(土)>
ガイドさんにお聞きして付けた昨晩のメモからです。「朝食は2階のレストランで7:00から、モーニングコール7:30、ホテル出発9:00」と記していました。昨晩遅かったものの、遅刻する人も無く、旅行2日目は、予定通りのスケジュールで始まりました。今日の楽しみは、龍勝の棚田見学と、先住民族村の見学です。
<村の青空市>
ホテルからは、川沿いの道を下って集落を過ぎるコースとなりました。昨晩、暗い中を登ってきた一本道です。川沿いに下りきった集落で大渋滞に巻き込まれました。車が少ないこの一帯で大渋滞とは、不思議な話しです。
その理由は、道の両脇に出された青空市のためでした。普段、車が少ないから、交通ルールが確立していないためでしょう。車一台は何とか通れるスペースが道の真ん中にありましたが、対向車があったら駄目です。青空市の品物やシートを踏みつけても、通れないスペースになっていました。交通規制をする警官などは全く見かけませんでした。多分、「こんなところを通る車の方が悪い」のが地元の常識なのでしょう。と言っても、一本道ですから。ここを通らないわけにはいけません。
長い時間をかけて、片方がバックをして、何とかこの難所を通り過ぎることが出来ました。しかし、その渋滞のおかげで、面白い青空市の風景を、バスの窓からしっかりと見学することができました。圧巻は、歯医者さんと目医者さんでした。歯医者さんは、テーブルの上に入れ歯を並べての商売です。本物の医者ではなく、日本で例えれば「自家営業の歯科技工士」と言ったところでしょうか?もちろん、実際には無い商売です。
青空市には大勢の地元の人が繰り出していました。今日は土曜日ですから、学校も休みなのでしょう。子供達の姿が多くありました。青空市というより、村で一番の、お祭り騒ぎと言った方が当たっているかも知れません。
驚いたのは歯医者、目医者だけではありませんでした。実に様々な品物がシートの上に並べられたり、俄か造りのテントの中に吊るされていました。電化製品、玩具や衣類などです。女性の下着専門店(?)が多かったのも吃驚でした。
空いていれば数分で走ることが出来る距離を、通り抜けるのに1時間程はかかったようです。夜もこの場所を通りましたが、暗くなっていましたので、渋滞に巻き込まれることはありませんでした。明かりの用意がありませんから、明るいうちだけの市でした。
<トン族、銀水トウ寨訪問>
広州で一緒になった陸さんとは別に、龍勝の町の中で、この地域の現地ガイドさんと合流しました。まだ高校生くらいの若いトン族の女性の方でした。お名前が付(フー)さんと自己紹介されました。この会話はすべて陸さんが日本語に通訳してくれました。付さんが一生懸命話されるので、陸さんは通訳、要約にかなり苦労されていました。
トン族の村、銀水トウ(人偏に冬の字)寨の入口はダム湖に面したところにありました。そのダム湖に注ぐ小川には、立派は橋が架かっていました。「建築の民」と称されるトン族の手になるものです。村の名前は白い飛沫を上げて流れる様を「銀水」と比喩したのではないかと直感しました。この後、もっと本格的はトン族の建築物を見学しましたが、驚嘆に値する建築技術を持った民族です。
ガイドブックに拠れば、「建築図面は持たず、物差しとなる棒一本を使って、村の指導者を中心に、全員参加で作り上げる。釘は一本も使わず、ホゾを切った木組みである」と紹介されていました。日本の伝統技術である、宮大工さんと同じ類の高度技術かも知れません。
この銀水トウ寨に向かうバスの中で、予めイベントが紹介されていました。それは、村の若い人による民族舞踊と音楽、族長さんのトン族村の歴史紹介でした。族長さんの話はご年配の方の演説、長広舌かと覚悟していましたが、実際は全く違った貴重で、素晴らしいものでした。
そのイベント広場は、立派な橋を渡って、石段を暫く登った場所に設えられていました。石段の左横には、急流となって飛沫を上げる小川がありました。
最初に、頭にターバンのような巻物に紫色の上着を着け、マイク片手に司会者が現れました。この方は、随分若く見えました。この後、村長さんこと、長老が姿を現されるのかと勘違いしました。実は、若く見えても、この方が、村長さんご自身でした。現在51歳であると、自己紹介もされました。
村長さんの語る村の歴史、ご自身の生い立ち、遍歴がマイクを通じて語られ始めました。通訳をしてくれたEnちゃんの話しでは、「実に流暢な標準語、北京語です」との説明がありました。
今回の旅行では、人物としては一番感銘を受けた方となりました。話しのクライマックスの場面では、S.P.先生も同感の意思表示をされていました。やはり、文化人であるということだけで迫害を受けた過去を思い出されたからでしょう。
<村野若者達の唄と踊りと演奏>
呉村長は、龍勝の名前の由来が秦(?)の時代に遡り、攻め入った敵軍の戦勝碑にあることや、
「1996年に観光を開始して以来、村の経済が向上し、1998年に始めて電気が点きました」
「このイベント広場も、観光収益が上がって、作ることが出来ました」
と、紹介してくれました。さて、村長さんの司会で始まった村の娘さんと若者達による歌と踊り、そして楽器演奏のことです。1996年には、中国の伝統芸能としてパリでの公演も経験したことがあると紹介されました。中国の中央テレビでの出演もあるそうです。
殊に独特の歌唱法については、お聞きしたことや、私の印象を、少し詳しく紹介します。バスの中では、現地ガイドさんを通じて、次のような日本語での説明がありました。
「トン族の歌は大別すると、『小歌(しょうか)』と『大歌(だいか)』に分類されます。『大歌』は、主に屋外で歌われます。大人も子供も歌うことが出来るものです。『小歌』は、主に室内で歌われます。若い人達だけが歌います」
と、言ったことでした。この日歌われたのは、少歌、大歌ともに、3曲ずつでした。大歌は鳥の鳴き声、蝉の鳴き声などを模倣したものでした。余り大きく口を開けずに、体全体を共鳴体にした歌い方です。遠くへも聞こえるようです。トン族の歌は、女性でも裏声を使う独特の歌唱法でした。
アルプスのヨーデルや、モンゴル族の歌い方にも共通点があるように思えました。モンゴルの歌い方は、この箇所を書きながら、昨年6月のフランス旅行の際に、ポンピドー国立文化芸術センター広場での大道芸の後に買い求めたCDを改めて聞き直してみました。男性の歌唱ですが、独特の高音と、まるで楽器が奏でる迫力ある低音が流れてきました。
女性の裏声では、美空ひばりさんを直ぐに思い出しました。世界的な指揮者である岩城宏之さんをして「モーツアルトに匹敵する天才」と讃えられました。ジャンルを越えて、日本で最高の女性歌手でした。この美空ひばりさんが、女性では難しいとされた裏声も使うことが出来ました。
次は楽器のとこです。写真にアップを載せておきましたが、日本の三味線や、雅楽の笙(しょう)に似た楽器が演奏に使われました。演奏は全て男性の役割でした。踊りながらの演奏も披露されました。踊りのほうは特筆するようなことは無かったようです。
フィナーレは観客からの参加を募っての結婚儀式と、輪になった踊りでした。呉村長さんは、
「村の若い人が出て行ってしまわないよう、色々と工夫をしたり、努力もしています」
と、付け加えました。民族の伝統と誇りを失わないため、並々ならぬ苦労もされているようでした。私も心から拍手を送りたい気持ちにさせられました。
<村長の生い立ちと悲恋>
Enちゃんにポイントを通訳していただいた呉さんの生い立ちと悲恋の話しです。村長さんは、自分の話を聞きながら、ずっと涙を流していた娘さんに、自分の出したCD、DVDをプレゼントされた気の優しい人でもありました。
村長さんを一人称にして語ります。私のアレンジも入りますので、多少(大分?)違っていても、勘弁してください。文責は私にあります。Enちゃんの通訳には責任が無いことを、予めお断りしておきます。村長さんの昔の許嫁は、ヨウさんとお聞きしたようですが、これは不確かですから、彼女とだけ記載しておきました。
「私は生まれた時から父の後を継いで、村の長老、村長になることを定められて育ってきました。父が100代村長ですから、私が101代村長になることを、周りの人も、皆期待していました」
「自慢話ではないですが、小さい頃の私は、いつも学校の試験では、百点満点を取っていました。同じように百点満点を取っていた村の娘さんと幼馴染でした。周りからは、二人は将来一緒になるものと信じられていました。私達もそんな運命を感じ取っていました」
「小さい頃に、ベトナムでホーチミンさんと面会したことがあります。その時、彼から飴を頂いたことが、小さい頃の一番晴れがましい思い出として、今も鮮明に覚えています」
「そんな平和な村に、私が中学校の時、大事件が起きました。村長だった父が、封建制の象徴として自己批判を迫られたからです。紅衛兵を先陣とする文化大革命の嵐は、こんな田舎にまで及んできたのです」
「父だけでの問題ではありませんでした。私自身にも、その嵐が襲ってきました。村人全員が集まった中学校の校庭での集会で、『封建制の象徴である父を批判しろ』との指示があったからです。『そうしなければ、お前も同罪だ』との糾弾でした」
「友達にも、母にも相談することも出来ず、本当に一人で悩み苦しみました。しかし、この命令には背くことが出来ませんでした。この時ほど、哀しそうな父の顔を見たことがありませんでした」
「私自身の罪は免れました。しかし、自分を襲った心の葛藤は、どうしようもないくらい深いものでした。やがて、自暴自棄に陥り、学校も疎かになって仕舞いました」
「結局、17歳の時に村を出て一人放浪する道を選びました。アルバイトをしながらの放浪は、25歳になるまでの7年間に及びました。お金も無かったので、貨物列車に乗っての旅立ちでした」
「秘かに見送りに来た彼女からは、腕輪を貰いました。『ずっと貴方を待っています』との願を籠めた贈り物でした」
「身分、出自を隠すため、必死で標準語を覚えました。上海、北京と各地を転々としました」
「彼女は次々に持ち込まれる縁談の話を断って、ずっと私が帰ってくるのを待っていました。それでも、7年は余りに長すぎました。仕方なく彼女は結婚し、二人の娘さんが生まれました」
「村へ戻った私は、彼女が結婚したことを知りました。私が帰ってくる直前でした。その後、私も結婚して男の子に恵まれました」
「彼女とその家族の悲劇は1996年にやって来ました。村を襲った大洪水で、家族全員が死んでしまいました。いつか、返そうと思っていた腕輪も、とうとう、永久に返せなくなってしまいました」
「彼女へ捧げる鎮魂の歌です。私が作った歌を聞いてください」
呉村長は、作詞、作曲だけでなく、素晴らしい歌唱力の持ち主でした。時には高く、大きく、時には語るような歌声は、銀水トウ寨の谷間から、遠く天国へまで届いたような気持ちになりました。
言葉が解せず、要約をお聞きしただけの私でも、深い感銘を覚えました。ずっと涙を流しながら村長の話を聞いていた少女のエピソードは、心から理解が出来ました。
呉村長は、何冊もの著述と、レコーディングしたCDやDVDまで出されていました。才能が豊かだけでなく、51歳になる現在、大学院で学ぶ努力の人でもありました。
<河畔での昼食>
トン族の村、銀水トウ寨での見学を終えた後、昼食のレストランは河畔にありました。こちらはチワン族の人達のお店でした。駐車場やトイレも整備されて、観光地として力の入れ具合が見て取れました。
舗装された道を挟んで、お土産店も軒を連ねていました。ここでは龍背棚田の写真集を買い求めました。ホテルの部屋においてあっ本と同じもので、68元の値段が付いていました。Enちゃんのお手伝いがあって、50元に値切ることが出来ました。
「龍背・天下絶」のタイトルを持つこの写真集は、李文升さんと文雪山さんのお二人のカメラマンの撮影によるものです。棚田の四季の写真もありましたので、出典を明らかにした上で、この小冊子にも掲載させて頂きました。
ところで、このレストランには中型犬が何匹もいました。食べ残したものや、骨を上げたら、美味しそうに食べはじめました。しかし、料理には煩いらしく、豚肉や骨は食べても、鳥肉にはそっぽを向いていたようでした。つい、グルメ犬と呼んでしまいました。先住民族の中には、犬を祖先とする神話を持つ部族があり、大切に扱われているようでした。犬の顔つきを見ても、堂々として風格を感じたほどでした。
食事が終わりかけた頃、このお店の女性の方が揃って歓迎の歌の披露と、振る舞い酒がありました。濁酒に似た酒でした。差し出されたお盆に、小銭をチップとして差し上げました。
肝心の料理の方ですが、卵をいっぱい使ったお好み焼き風、燻製風の肉類など、申し分の無い味でした。特に野菜類、豆類のしっかりした味は印象に残りました。最後は舌の肥えたワンちゃんが試食をしてくれているのでしょうか?
<ヤオ族の踊り見学>
この日はトン族、チワン族の人たちに続いて、最後はヤオ族の人たちの踊り見学です。木造の建物の2階に準備されていました。黄洛ヤオ寨と呼ばれる地区です。
ヤオ族の踊りの見学の前に、いくつかの注意がありました。その1つは、「敷居を踏んではいけません。跨いでください」という注意でした。日本の習慣とも共通するものなので、当然過ぎて不思議な思いがしました。2つ目が、椅子に関するものでした。 「座る前に椅子を拭いたり、吹き払ってはいけません。気になる場合は、座らないでください」ということでした。その他にも「もてなしとして、油茶が出されますが、箸は1本だけにしてください」などでした。変わった風習としては、「足を踏んだり、お尻をつねるのは親愛の情です」と言ったこともありました。
私が感じたヤオ族と日本の風習の共通性を纏めると、次のようになりました。ヒマラヤ山脈地帯にも、日本人とそっくりの顔つきの民族や、数詞などの言葉までそっくりなケースが知られていますので、このことと重ね合わせて、興味をそそられました。
?1本だけの箸の使い方は、心太(トコロテン)を食べる時と同じ。
?敷居を跨ぐ風習は、完全に共通。
?踊りの中で、日本の「花一匁(ハナイチモンメ)」とそっくりの所作。
?踊りの中で、日本の「押し競饅頭」とそっくりの所作。
?赤い布で花嫁さんの頭を覆うのは、日本の「角隠しの風習」と類似。
?女性が長い黒髪を大切にするのは、日本の古い時代と共通。
?赤い日傘は、日本の番傘と同じ形状。
等でした。はじめに出された油茶は、雑穀などのようなものも入っており、さして違和感もなくすべて頂きました。もちろん、箸は1本だけです。
本題の踊りの方ですが、ソロの踊りは無く、全て全員が揃ってのものでした。赤い民族衣装に身を包んだ女性7人組でした。一言で言えば、単調でしたが、素朴な味わい、とも表現できるかも知れません。踊りだけでなく歌唱も披露されました。リードボーカルは全体の司会も兼ねた人でした。この人だけは、皆さんより色が白く、少し垢抜けた風貌をしていました。写真でも直ぐに、この人だと分かると思います。
余興はヤオ族の結婚儀式と髪結いの実演でした。結婚儀式は、観客の中から2人が代表して、婿役を務められました。私達のグループからも祖父江さんが進み出られました。最後は、参加者飛び入りの押し競饅頭、輪になった花一匁に似た踊りで閉幕となりました。
踊りの最中に、思い切り腰を隣の人にぶっつける所作もあり、大きな歓声が上がりました。かなり本気で、踊りの輪に入った皆さんは、競り合っていたようです。
髪結いの実演は、3人の女性の方が見せてくれました。司会の方が幾束かの長い髪を手にして始まりました。髪結いの途中で、本物の髪と一緒に結わえるためのものでした。未婚女性、既婚女性、子供がいる既婚女性では、髪形が違っていることを、ガイドさんの通訳で聞きました。この村のキャッチフレーズは「天下第一長髪村」でした。
帰りは、出演されたヤオ族の女性の方が出口で見送ってくれました。ここでも、脚を踏まれたり、お尻をつねられたりと、嬌声が上がりました。
<世界文化遺産、龍背棚田見学>
この日のもう1つのクライマックスは、龍背棚田の見学でした。棚田が見下ろせる場所までは車は入ることができませんので、自分の足で歩くか、輿に乗せてもらって登るかのどちらかでした。 最初は自分で歩こうと考えていましたが、皆さんに合わせて、私も輿を使うことにしました。往復で100元の料金でした。現地ガイドさんが交渉して、話を纏めてくれました。「チップは、その料金とは別に、各自で判断してください」とも付け加えられました。
輿は竹を使ったものでした。前後を一人ずつで担ぎ、肩に当てる部分には、半割にした竹の表が使われていました。半数余りが女性の担ぎ手なのに驚きました。そ瀬手貰いながら、申し訳ない心地がしましたが、乗らないのはもっと申し訳ないことかも知れませんでした。
急斜面を、休み休み頂上を目指しました。登りは後ろの担ぎ手の肩に大きな負担がかかるので、その喘ぎ声が絶えず耳に伝わりました。前を担ぐ人は、力を振り絞るためでしょうか、絶えず声を出していました。
登りは休憩時間を含めて、片道1時間近くかかったかも知れません。見学時間を合わせて1時間半を超えていました。棚田を見下ろす休憩所からは、先程通ってきたトン族の部落も一望できました。800人が暮らす村のようです。
棚田の標高は800mから900m当たりのようです。麓では田植えが始まったり、耕作をして水を引いた田圃を多く見かけました。この高地では、まだ耕作も水を引く時期でもありませんでした。早春といった山の棚田の風景でした。この素晴らしい景色は、言葉では尽くせませんので、写真の方をご覧ください。少しだけ贅沢を言えば、棚田に水が入った方が絵になるということでした。
下りは、前を担ぐ人が大変です。私の輿を担いでくれたのは男性一人と女性二人でした。一人で担ぎ通しでは、相当な体力の人でもダウンしてしまうことでしょう。輿に乗っていても、ずり落ちない様に、取っ手にしがみ付くほどの急斜面でした。
ガイドさんに指示されたようにもとの駐車場付近まで戻ったところで代金を払いました。担いでいただいた3人の中で、一番ご年配の女性の方がリーダーのようでしたから、この方に約束の100元を渡しました。その後で、10元のチップを、「謝謝」の言葉とともに、それぞれ差し上げました。この時、皆さんが満面の笑顔になりました。
担ぎ手の方は、胴元から輿を借りて、年間契約で仕事をされているようでした。その値段が、年間100元とも聞こえてきました。確かな話しかどうかは、確かめるすべもありませんが、10元のチップを高額なお礼と感じられたのでしょう。
ただしこの時、チップの概念がトン族の方に理解できていなかったために、現地ガイドさんは苦労をされたようです。何とかチップを貰おうと、食い下がってきた人達がいたからです。ホテルの枕元においていたチップがそのままになっていたことでも、チップの概念が理解されていないことが類推できました。それ程、観光ズレしていない素朴な地域だということでしょう。
それにしても、1時間半程で100元、日本円に換算して1300円程ですが、この時ほどお金の貴重さを実感させられたことはありませんでした。普段何気なく使っている額ですが、その重たさを再認識しました。
<夜の小宴会>
Haさんのご提案で、食事の後につまみやお酒を持ち寄って、小宴会を開くことになりました。一人部屋を使っていましたので、私の部屋を使って頂くよう、申し出ました。
お酒は、Haさんと私がセントレア空港の免税店で買ってきたウイスキーだけで間に合いましたが、気を遣ってビールを手に参加された方もいました。二日目なので、ホテルの部屋の不具合申し出も落ち着いたことから、徐さんも参加されました。一番の問題はシャワーの出が少ないことでした。理由は自然温泉を湯に使っているため、湯垢などが付着して詰まってしまうことでした。これが解決したので徐さんも気が楽になったのでしょう。色々と話が弾んだところで、この日のお開きとなりました。
トン族、銀水トウ寨で
髪飾り着けし乙女ら唄い継ぐ声は彼方の人呼ぶ如し
国乱れ故里捨てて流浪せる語に若き娘涙止ず
寨長の自ら作し悲恋歌よ谷越え届け山の彼方に
龍背棚田で
担れて険き小道登る時喘ぎし声を背中に聞たり
頂も小さな田圃造たる山の棚田は遅き春待つ
隙間無き山の耕地は続けども余りに少き里の穫入れ
駕籠降て僅のお礼差上げぬ弾む笑顔に聴きし再来
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 観光バス
- 航空会社
- 中国東方航空
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龍勝温泉大酒店の正面です。サービス面で多少の難はありますが、この地まで来ての、この設備は、上々といってよいでしょう。
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龍勝に到着した翌朝のホテル界隈の写真を何枚か撮りました。朝靄に煙るこの地は、遠くに出かけなくても、温泉逗留だけで満足できる山懐の保養地です。
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黒屋根に漆喰でアクセントを付けたこのホテルの入り口の建物です。これは後で知ったことですが、建築の民と讃えられるトン族の伝統的な造りです。
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朝の内は天候がぐずついてはっきりしませんでしたが、この程度の曇りは、むしろ幻想的な雰囲気が醸し出されて好都合です。
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この地に棲む「建築の民」と称されるトン族の建物イメージを意識した建築のようです。まだ新しいホテルでした。
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ホテルのベランダです。広い板敷き床に、木製の椅子も用意されていました。朝の早い時間なので、人は疎らでした。
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ベランダから見下ろした、入口方面の光景です。お土産屋さんがありました。
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温泉の宣伝看板の下においてあった鉢植えの花です。濃いピンクと朱色の花が満開でした。ニューギニア・インパチェンスでした。
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Doさん、Myちゃん、Enちゃんの揃い踏み(?)です。皆さん、今日の龍背棚田見学へ向けて、気合十分のようです。
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ホテルの前庭からの光景です。奥深い山並みが続いていました。右手に見える「尤」似た赤い略字が「龍」の文字です。
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ホテルをバスで出発して、三江方面の見学です。先住民族村や、歴史的建築物などの見学です。
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村落に差し掛かったところで大渋滞に巻き込まれました。村の市が立ち、車が通れないくらい道路一杯に露店が並んでいました。
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棚田へ向かうバスの中からの一コマです。子供さん向けのゲームのセットでしょう。空き缶や、人形が規則的に並べられていました。
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私の旅行の楽しみの一つが、のんびりと市場を眺めて回ることです。その国の胃袋の中身が見えます。残念ながら、バスの中からの見学でした。
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私達のグループだけの貸切バスの中の様子です。窓を開けて写真を撮る時、スムーズに開かず苦労しました。
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今の日本では見ることが出来なくなったオート三輪車です。バランスが悪く、曲がり角などで、よくひっくり返った話を聞いたことがあります。
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道端に並べられた品々を、食い入るように見詰める地元のお子さん達です。崖っぷちに開いた露店でした。
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すでに開いた露店もありましたが、これから準備の露店も見かけました。手順良くシートが掛っていきました。
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傘を手にして歩いてやってきたお子さん達です。この橋を渡り終えるまでの渋滞が大変でした。
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ここら辺りは、龍勝の市街地付近になるのでしょうか?龍背の棚田見学に出かける途中に写した一コマです。
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トン族の踊り見学場所は、銀子トウ寨と呼ばれる地区でした。新しく出来た橋を渡って、谷あいを少し登った場所でした。
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この地は雨が多く、風雨を凌ぐための屋根付きの風雨橋が作られます。ただし、この橋は観光用にシンボル的に作られたもののようです。
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銀子トウ寨の入口の橋と、その上の建物の写真の続きです。日本の建築とも雰囲気が似通っていました。
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背後には険しい岩山が迫っていました。紅葉の時期も見応えがありそうです。
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狭い川に架かった橋の中からの、ダム湖方面の景色です。この風雨橋は、国の重要文化財の程陽永済橋をイメージしたもののようです。
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石段を少し登ると山門のような建物が現れました。ここが、銀子トウ寨の本当の入口に当たるところのようです。
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行書で「楼満ドウ(人偏に同)郷情」としたためられているようです。銀水トウ寨の入口に当たる門です。
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トン族の村は耕地も少なく、厳しい生活を強いられていたようです。しかし、観光開発で大きく飛躍しそうな雰囲気でした。
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トン族は建築の民と呼ばれる技術を持っています。村の至る所で、目を見張る建築物にお目にかかることが出来ます。
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Enちゃん、何やら面白い被写体が見付かったようです。私はそのEnちゃんを含めて、山門を被写体にさせて頂きました。
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