km45さんへのコメント一覧(3ページ)全49件
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九寨溝旅行記
お手数おかけいたしましてありがとうございます。いただきましたコメントは全て使わせていただきました。写真の順番は最初に石碑が来てその後に風景が来るように入れ替えました。前日黄龍で高山病に掛かり、帰って来てからどれが何処やら解らず困っていました。ご指摘は大いに役に立ちました。感謝申しあげます。コメントもさすが良くご存じで感服いたしました。2001年からですと16年間も成都にいらっしゃるのですね。私三国志が好きで成都に行き、蒸気機関車が好きで楽山の南の山の中へ行きました。今回はツアーでしたので三国志関連はなしとなり残念です。今後とも宜しくお願いいたします。ありがとうございました。2016年04月30日23時21分返信する -
小琴
こんにちは、km45さん
竹…、いいですね。私は北海道産まれなので、子供の頃は竹林を見たことがありませんでした。
笹はたくさん生えており、「笹が大きくなれば竹になるのかなぁ?」などと思っていたものです。
私は成都周辺しか行ったことがないですが、臥龍で、この「小琴」という竹を見たように思います。
北海道で採れる竹の子(筍)は「姫竹」という細い筍で、笹薮みたいな場所で採れます。
成都で見たパンダたちは直径7cm位の姫竹より太い筍を食べていました。4月には路上でこの筍を売っているのも見て「美味しそうだなあ」と思い、成都基地内のレストランで筍料理(丸ごと筍)を頼んだのですが、出てきたのは姫竹のような細い筍でした…。
これはどうゆうことでしょう、疑問に思っているのです。パンダたちが食べている筍、路上で売っている筍は直径が7cm位ありますが、皮ばかりで身(?)は姫竹と同じく直径1cm位なのでしょうか…。
私は成都、その周辺が大好きです。
スイカパンダ食用の筍
スイカさんこんにちは
改めてパンダ基地にいた時の写真を見てみると、幼年パンダンの食事風景で、笹と筍を食しているのが出てきました。両方を比較してみると、竹・筍とも細いもので、数センチのものです。
>>成都で見たパンダたちは直径7cm位の姫竹より太い筍を食べていました。
私の場合と竹の種類が違うのでしょうか。なお、パンダ食用の竹には雲南省を原産地とする「小玉山竹」があります。
https://onedrive.live.com/?id=67AC4E09F9CD86BB!2455&cid=67AC4E09F9CD86BB&group=0&parId=67AC4E09F9CD86BB!2398&o=OneUp2015年09月05日14時40分 返信するRE: パンダ食用の筍
こんばんは、km45さん
返信ありがとうございます。
私が臥龍で見た竹は、km45さんの写真からすると、望江楼公園の自夾竹に似ていたと思います。
[km45さんの竹林写真]
https://onedrive.live.com/?id=67AC4E09F9CD86BB!2455&cid=67AC4E09F9CD86BB&group=0&parId=67AC4E09F9CD86BB!2398&o=OneUp
この竹の直径は1〜2cmと思われますが、私が路上販売やパンダの食事で見た筍は直径5〜6cmで長さ30cm位でした。
直径1〜2cmのものと5〜6cmのものは同じ種類なのか疑問に思っていました。竹林の写真を見ると5〜6cmの太さの筍が生えてくるようには思えないのです。
[臥龍で見た竹林]
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/38/46/24/src_38462488.jpg
[パンダが食べていた筍]
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/38/42/32/src_38423242.jpg
[路上販売の筍(改めてみると細いのもあるかな?)]
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/38/55/25/src_38552586.jpg
一方、料理で出てきたのは、直系1cm位(皮のまま)長さ20cm程で皿の上に並べられ味付けされており手で皮をむいて食べました。
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/37/31/63/src_37316365.jpg
ところで、話は変わりますが、km45さんのクチコミ
http://4travel.jp/overseas/area/asia/china-sichuan_province/chengdu/tips/10076866/
にある「武陵世家」のキノコ鍋、美味しそうですねえ。
私はキノコが大好き、もし再び成都に行けるとしたら、豆板醤を付けずに是非食べてみたいものです。
スイカ2015年09月05日18時45分 返信する -
考えられる事は・・・。
km45さん、今晩は。
考えられる事は「存在を必要としたから。」だと思われます。
「生きている必要が有った。」訳ですから。
最も可能性が高いのは、以仁王の庶子が住んでいて、京として内裏としたんだと思います。
血統も、いつしか廃れたんでしょうね。
山深い地ですから、石高が少なく兵寡ければ政治力も少ないと有っては、廃れるのみでしょうね。
墨水。
RE: 考えられる事は・・・。
以仁王の生存説は反乱に蹶起した東国源氏から発信されて、これが京洛の貴族の日記『玉葉』(九条兼実)に記述されています。彼等の反乱の名義が以仁王の蹶起書(いわゆる以仁王令宣)である以上、それは当然です。また、以仁王の蹶起後、八条女院に保護されていた子女の内、ある男子は京都を脱出して、北陸道に潜伏します。これが北陸宮で、後に木曽義仲に推戴されて入京します。
城氏は横田河原合戦敗北後も、北越に一定程度の勢力を保持して、反義仲戦を行っています。
以上から、信濃を経て、大内に至り、越後を目指したという伝承が如何にして生まれたかが不可思議なのです。おそらく、この創作者は歴史的事実については無知であったのはないでしょうか。綾部の伝承は宇治合戦で負傷して遁れ、綾部で負傷がもとで死去したとなっており、「平家物語」を発展させた、それなりの筋がありますが。2015年02月28日01時34分 返信する



