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大内宿(福島県南会津郡下郷町大内)に行ってきました。大内宿は会津若松と日光を結ぶ会津西街道の宿場としての歴史を持ち、1981年4月、重要伝統的建造物群保存地区として選定されました(旧宿場としては長野県妻籠宿・奈良井宿に続いて全国で3番目)。そして、保存・修復が進み、観光地としても注目されて、現在では年間百万人を超す人気観光地になりました。<br /><br />ここには旧村社高倉神社があります。祭神は後白河天皇第2皇子高倉宮以仁王です。以仁王は平清盛の主導する六波羅平家政権打倒に蹶起して、1180(治承4)年5月26日、宇治合戦において敗死しますが、治承・寿永の内乱の嚆矢として、歴史に名を残します。悲運の以仁王を祀った神社としては、流れ矢で戦死した地とされる光明山鳥居前(京都市木津川市山城町綺田鳥居)を由緒とする高倉神社(同市山城町綺田神ノ木)と、生き延びて後に死去した地と伝える地の高倉神社(京都府綾部市里町向屋敷)とがあります。いずれも以仁王が亡くなった地を由来とするところの鎮魂の社です。これに対して、大内宿の高倉神社は、東国へと遁れた以仁王が越後国の小国順之を頼る途上に、当地に一時滞在したとの伝承に由来するものです。しかも、当時は山本村といっていたのを、当地が大内裏に似ていると王がしたので、大内と改名したとの伝承もあります。この伝承がどの様にして形成されたか、この経緯は不明としかいえません。治承・寿永の内乱においては、越後国の最有力豪族で平家方として信濃源氏との信濃国横田河原合戦(1181年6月)で敗北した城氏の勢力圏に会津地方はありました。従って、何故そのような伝承が生まれたかが不可思議なところです。<br /><br />表紙写真は高倉神社のある森(小丘)です。森の手前に見えるのが二の鳥居です。<br />

大内宿の高倉神社

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2015/02/26 - 2015/02/26

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km45

km45さん

大内宿(福島県南会津郡下郷町大内)に行ってきました。大内宿は会津若松と日光を結ぶ会津西街道の宿場としての歴史を持ち、1981年4月、重要伝統的建造物群保存地区として選定されました(旧宿場としては長野県妻籠宿・奈良井宿に続いて全国で3番目)。そして、保存・修復が進み、観光地としても注目されて、現在では年間百万人を超す人気観光地になりました。

ここには旧村社高倉神社があります。祭神は後白河天皇第2皇子高倉宮以仁王です。以仁王は平清盛の主導する六波羅平家政権打倒に蹶起して、1180(治承4)年5月26日、宇治合戦において敗死しますが、治承・寿永の内乱の嚆矢として、歴史に名を残します。悲運の以仁王を祀った神社としては、流れ矢で戦死した地とされる光明山鳥居前(京都市木津川市山城町綺田鳥居)を由緒とする高倉神社(同市山城町綺田神ノ木)と、生き延びて後に死去した地と伝える地の高倉神社(京都府綾部市里町向屋敷)とがあります。いずれも以仁王が亡くなった地を由来とするところの鎮魂の社です。これに対して、大内宿の高倉神社は、東国へと遁れた以仁王が越後国の小国順之を頼る途上に、当地に一時滞在したとの伝承に由来するものです。しかも、当時は山本村といっていたのを、当地が大内裏に似ていると王がしたので、大内と改名したとの伝承もあります。この伝承がどの様にして形成されたか、この経緯は不明としかいえません。治承・寿永の内乱においては、越後国の最有力豪族で平家方として信濃源氏との信濃国横田河原合戦(1181年6月)で敗北した城氏の勢力圏に会津地方はありました。従って、何故そのような伝承が生まれたかが不可思議なところです。

表紙写真は高倉神社のある森(小丘)です。森の手前に見えるのが二の鳥居です。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
  • 大内宿北側の見晴らし台上から見下ろした全景です。

    大内宿北側の見晴らし台上から見下ろした全景です。

  • 東側最奥の加登屋です。現在は土産屋さんですが、本日は営業していませんでした。

    東側最奥の加登屋です。現在は土産屋さんですが、本日は営業していませんでした。

  • 西側の本家玉屋の氷柱越しに見た南への街並みです。

    西側の本家玉屋の氷柱越しに見た南への街並みです。

  • 西側の山田屋です。土産屋さんとして開いていました。

    西側の山田屋です。土産屋さんとして開いていました。

  • 街並みに東側を奥(北)へと撮ったものです。

    街並みに東側を奥(北)へと撮ったものです。

  • 高倉神社一の鳥居です。街並みのほぼ中央、火の見櫓と対面しています。

    高倉神社一の鳥居です。街並みのほぼ中央、火の見櫓と対面しています。

  • 一の鳥居から西に約200mほどにある二の鳥居です。

    一の鳥居から西に約200mほどにある二の鳥居です。

  • 森に入り少し上ったところにある、三の鳥居です。この先に高倉神社社殿が見えています。

    森に入り少し上ったところにある、三の鳥居です。この先に高倉神社社殿が見えています。

  • 高倉神社社殿で、小丘の森の上にあり、さらにこの奥には「王三段」と称される以仁王の滞在伝承地があります。写真で御覧のように、社殿前の燈籠も雪で埋もれ、そこには行きませんでした。

    高倉神社社殿で、小丘の森の上にあり、さらにこの奥には「王三段」と称される以仁王の滞在伝承地があります。写真で御覧のように、社殿前の燈籠も雪で埋もれ、そこには行きませんでした。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • 墨水さん 2015/02/27 23:55:13
    考えられる事は・・・。
    km45さん、今晩は。
    考えられる事は「存在を必要としたから。」だと思われます。
    「生きている必要が有った。」訳ですから。
    最も可能性が高いのは、以仁王の庶子が住んでいて、京として内裏としたんだと思います。
    血統も、いつしか廃れたんでしょうね。
    山深い地ですから、石高が少なく兵寡ければ政治力も少ないと有っては、廃れるのみでしょうね。
    墨水。

    km45

    km45さん からの返信 2015/02/28 01:34:08
    RE: 考えられる事は・・・。
    以仁王の生存説は反乱に蹶起した東国源氏から発信されて、これが京洛の貴族の日記『玉葉』(九条兼実)に記述されています。彼等の反乱の名義が以仁王の蹶起書(いわゆる以仁王令宣)である以上、それは当然です。また、以仁王の蹶起後、八条女院に保護されていた子女の内、ある男子は京都を脱出して、北陸道に潜伏します。これが北陸宮で、後に木曽義仲に推戴されて入京します。

    城氏は横田河原合戦敗北後も、北越に一定程度の勢力を保持して、反義仲戦を行っています。

    以上から、信濃を経て、大内に至り、越後を目指したという伝承が如何にして生まれたかが不可思議なのです。おそらく、この創作者は歴史的事実については無知であったのはないでしょうか。綾部の伝承は宇治合戦で負傷して遁れ、綾部で負傷がもとで死去したとなっており、「平家物語」を発展させた、それなりの筋がありますが。

km45さんのトラベラーページ

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