明石DSさんへのコメント一覧(3ページ)全69件
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味千拉麺のパクリですね。
味千拉麺自体も、熊本で修行した台湾人が香港に出店して拡張したので、ちょこっとモドキっぽいんですけど、この「千禾ラーメン」は、その味千のパクリだと思います。
(楽じゃなくて稲の簡略文字で「禾」と言う文字で、広東方面のお店や料理名に多く用いられている文字です)
味千はチェーン店として巨大化しすぎてもう味が落ち目ですけど、こちらは地道に営業してもらえたら、いつかこっちがブランドになったりして(^_^(そんな匠精神の人は居ないか・・・)
こま -
吉野家にお粥が!
お粥って、いつから始めたのでしょうね。
2年前までは、北京にもお粥は有りませんでした。
暫く離れていると、20年繋げてきた中国情報が切れて、
浦島太郎になって終うかも・・・(汗。
(2014年は未訪問・・・21年目にして初めてのことです)
こま -
追記の修正のお願い
明石DS様
旅行記の追記、誠にありがとうございました。早速叔父の霊前に報告しました。
修正の箇所は、陸大卒業後、重砲兵学校教官に次に中部軍参謀、20年3月より駐蒙軍参謀に至りました。大本営参謀ではありませんでした。同期生の大本営参謀は原さんと瀬島さんと言っておりました。
誠に御面倒ですがこの点の修正お願い申し上げます。
今後の御活躍を期待します。
豊川市 井上許文RE: 追記の修正のお願い
井上様
修正のご指摘ありがとうございます。
早速修正しておきましたが、なお不備な点があれば再度ご指摘下さい。
根本中将が張家口を離れ、尚且つ終戦を迎えながら在留邦人が無事に避難出来たのは
辻田少佐が語られたように増田中隊の頑張りもあったのでしょうが・・・。
それぞれの現場指揮官(トップ)の力量が、それぞれの現場で明暗を別けるのが良く分かります。
「あの戦闘の成功は、地の利、人の和、それに幸運もあった。」ですね。
今後どんな立場に置いても(私も世帯主として)危急存亡の時に、手本にすべきだと思っています。
過去の戦争を学んでこそ、未来の戦争を防ぐことが出来ると思います
命を賭したギリギリの攻防を学ぶことは、すべてに通じ役立つと思っています
丸一陣地の戦いの顛末も貴重な戦史であり、多くの日本人に知ってもらいたいです。
満洲避難行との明暗の原因がどこにあったのかを・・・・。
ありがとうございました。
2014年05月24日10時06分 返信する -
曾祖父の足跡
貴重な体験談拝見しました。私の曾祖父は沙河会戦三塊石山の戦いで戦死しました。現在のどこに当たるのか皆目見当がつかなかったのでありがたいです。生きている間にいけるかわかりませんが、聖地として心にとどめておきます。それにしても削ってしまったとは残念です。古い文献には白黒写真のモニュメントのようなものが映っていました。それももう無いのでしょうね。残念。
先人たちの苦労と勇気を忘れない様にしたいです。
RE: 曾祖父の足跡
半平太さん
三塊石山の戦いは激戦だったようですね。私の祖父も騎兵隊として後方援護で参戦していたようですが・・・。是非とも激戦地「三塊石山」を確認したいと思っていたのですが時間もなく、私が行った時も現地の中国人は日露戦争のことを誰もまず知らないです。
「開発で削った」というのは、当地の人の回答でしたが一人に聞いただけで、その場所を確認した訳でもなく、申し訳ないですが私は今も半信半疑と言う感じです。9年前に行った2005年の時は、まだ現地も大都会以外は「日露戦争当時のままでは?」という風景が広がっていました。私も機会あれば再訪したいと思っています。その時はちゃんと確認して来たいと思います。2014年05月18日07時31分 返信するRE: RE: 曾祖父の足跡
明石DS様
御丁寧にありがとうございます。
曾祖父、安村範雄になり替わりお礼申し上げます。
第四軍第10師団歩兵第39連隊は戦死者146名、負傷者413名という犠牲のもと目的を達成しました。「血染めの軍旗」はその象徴として今も保管されているようです。
お恥ずかしい話ですがこの事実に気がついたのは昨年のことです。ある1通の文書がきっかけで自分の先祖を確認することになりました。母、祖母は曾祖父、祖父について何も語らずに他界してしまいました。(大東亜)戦後の社会情勢に鑑み配慮したのだと思いますが、子孫としては情けない想いがあります。先祖調査の旅で高知県を訪れた時に親切な方々に会え、文書確認と遠縁、隣人の方に会えたのは収穫でした。学校の教科書には載っていない事実を身近に感じ旅の素晴らしさを感じました。
ご健康に留意されなお一層のご活躍のほど心からお祈り申し上げます。
半平太2014年05月22日07時51分 返信するRE: RE: RE: 曾祖父の足跡
半平太様
お便りありがとうございます。
戦後日本を思えば日清日露大東亜戦争を戦い抜いた先人には敬服するのみです。私は敗戦までの日本と日本人に憧れ、今はその足跡を求めて旅をしています。
そのきっかけが祖父の従軍軌跡を辿ったことでした。「第四軍第十師団」・・・祖父は第四軍第十師団騎兵第十連隊だったので騎兵・歩兵は違っても、姫路駐屯地から出征、そして同じ戦場だったと思います。きっと姫路を含めて従軍先でも我が祖父と安村範雄さんは顔を合わせたのだろうと思います。
私も兄と二人で四年前に二年掛けて家系図作りをし、遠縁を探しあていろんなことが分かりました。しかしその時は父もすでにこの世になくです。それまで興味を持てず父に祖父の話も聞かず「ああもう少し早かったら・・・」と後悔ばかりでした。
ありがとうございました。2014年05月23日06時50分 返信するRE: RE: RE: 曾祖父の足跡
半平太様
まことに失礼しました。
http://bujinkensyokai.web.fc2.com/yasumuranorio.html
上記のHPで安村範雄少将のことを初めて知りました。
三塊石山は今もあるようです。
アジア歴史資料館の当時の地図で場所が分かり
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13110417100?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2013112713164965423&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&
今の「“Google”マップ」とグーグルアースでも確認出来ました。
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.476368,123.444614&spn=0.054661,0.077162&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=14
「妻と飛んだ特攻兵」の出撃地、大虎山の飛行場跡を調べていたら遼陽、三塊石山も近いので調べていたら見つけました。
それと以前、祖父の従軍軌跡を訪ねた時に
日露戦争従軍記「歩兵第十聯隊:○○軍曹(記)」をネットで見つけてダウンロードしていました
事情があるのか?すでにネット上では削除されています。思い出して以前のパソコンを探して見つけました。
勝手にダウンロードした従軍記なので了承なく配布も如何なものかと思いますが・・・。
三塊石山の夜襲の様子も書かれています。
『百五十米西方にありながら、一発の弾丸をも送らず、苦闘中の味方の救援に赴く事も出来なかったのは、三十九聨隊に対し、誠にすまない事だった。』
と書かれています。同じ姫路の連隊ですから
貴重な資料なので・・・・。必要ならメールに貼付して送ります。
yoshio-abo@mvf.biglobe.ne.jp
このアドレスにお返事頂ければ貼付して送らせてもらいます。
明石DS
2014年06月09日21時51分 返信するRE: RE: RE: RE: 曾祖父の足跡
明石DS 様
お便りありがとうございます。
半年以上遅れ失礼しました。
もし、よろしければ関係文書を送っていただけないでしょうか。
著作権、パブリシティ権、個人情報に注意して扱わせていただきます。
> 勝手にダウンロードした従軍記なので了承なく配布も如何なものかと思いますが・・・。
> 三塊石山の夜襲の様子も書かれています。
> 『百五十米西方にありながら、一発の弾丸をも送らず、苦闘中の味方の救援に赴く事も出来なかったのは、三十九聨隊に対し、誠にすまない事だった。』
> と書かれています。同じ姫路の連隊ですから
> 貴重な資料なので・・・・。必要ならメールに貼付して送ります。
> yoshio-abo@mvf.biglobe.ne.jp
>
> このアドレスにお返事頂ければ貼付して送らせてもらいます。
余談ですが「血染めの軍旗」は靖国神社遊就館に保管されていることをつき止め、担当者にお願いして展示していただき没後111年ぶりに対面できました。また、靖国神社階行文庫に関係書籍がありましたので三塊石山の攻防はかなり知ることができました。
明石DS様の旅行記、写真が私のエネルギーになりこのような成果になりました。
ありがとうございます。
別アドレスにて通信させていただきますのでよろしくお願いします。
半平太2015年04月03日09時26分 返信する -
叔父辻田新太郎に代わりまして、お礼申し上げます
明石DS様
はじめまして、私は辻田新太郎の甥で井上許文と申し上げます。貴方様の張家口旅行記 深い感銘持って読ませていただきました。DS様の旅行記 4カ月前に読んだのですがネットに暗い為お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。私が貴方様の旅行記を読んだのは、稲垣武史さんの本にて深く感動(amazonレビューにあり) した結果、ネット検索して貴方様の旅行記にたどり着きました。DS様貴方はなんと気高い方なんでしょう、一冊の本に感動されて現地に行ってくださり私共に旅行記紹介された!叔父また丸一陣地にて戦死、戦闘された方々の最高の供養になりました、本当にありがとうございました、先ずはお礼まで。
inouemiiko@gmail.com 井上許文RE: 叔父辻田新太郎に代わりまして、お礼申し上げます
井上様
お便りありがとうございます。そして旅行記をお読み頂きありがとうございます。
辻田新太郎参謀のご親戚の方から思いがけないメールを頂き恐縮至極です。
張家口、丸一陣地での奮戦が無ければ、在留邦人の四万人の無事帰国も無理だったと思います。
辻田参謀が実質指揮をされ、見事にその任を果たされたことは日本人の誇りだと思っています
撤退してきた響兵団の堂々の行進に接し、中川軍参謀長の感激の以下の辞がその時のみんなの思いを表していると思います。
「暫くの後、後衛(響兵団を指す)、整々たる縦隊を以て帰着す 志気旺盛なるも、
長き頭髪と髭とは無言に長期の労苦を示す 小官感極まり落涙あるのみにして、慰謝の辞を述ぶるあたわず」
素晴らしい叔父さんは、一門の誉れであれ羨ましく思いおもいます。
終戦を知りながら、ソ連軍を食い止めた英雄的行為は、
いつの世にかきっと正当に評価されることになると思います。
お便りに接し、丸一陣地跡にある戦車壕のある風景を思い出しました。
辻田参謀も当時は35歳なのですね。時代と状況が人を作るのかもですが・・・。
ああいった修羅場を前にして冷静な判断で、部下の命を預かり
多くの人名を守ったことには、凄いなァの言葉しかありません。
ありがとうございました。
明石DS
2014年05月02日22時16分 返信する -
素晴らしき大作
明石DSさん
こんばんは
いつもながらの大作を興味深く読ませていただきました。
なるほど、いろいろな背景を知って旅をすればまた違ったモノの見方ができるのではないか、と自分のいい加減さに嫌気が差しているところです。
食べ物や買い物など、レジャー的な旅行もよいですけれど、歴史を知って旅することも、ものすごく有意義だと思います。
台湾の紙幣、今マジマジ見ると確かにそうですね。
気にもしませんでしたけれど、それなりに意味があるのだとは・・。
明石DSさんの旅行記を読んでいると、ホント自分が情けなくなってしまいます。単に、風景を見て「きれいだ・・」で終わってしまうのと、その土地の由来など知って訪問するのでは、心に残る風景もまた違ってくるでしょう。
金門はアモイから、遠く眺めましたけれど、やはり歴史的な土地なのか、と改めて勉強になりました。
最後に、14人の底抜けの笑顔。将来ある若者は何を思って出撃していったのか・・・平和ボケの日本で、また一つ思いを巡らせています。
tanupam -
黒河・孫呉の写真と Youtube 拝見しました
初めまして
孫呉は生地ですので興味深く映像と写真を拝見しました。
Youtubeでは数十に分割されてますので全て見るのは大変でしたがよく撮りましたね。
また解説も入っていて理解が深まりました。
哈爾浜・黒河・孫呉などは2005年に訪れましたので映像に記憶が一部あります。
フィリピンは父が戦死したところで10回ほどお詣りに行きました。
インパールは伯父が戦死したところですがまだ訪問の機会がありません。
これからも各地の情報を楽しみにしてます。2012年12月12日16時21分返信するRE: 黒河・孫呉の写真と Youtube 拝見しました
初めまして。
孫呉でお生まれなのですね。私が行ったのは3年前ですが、もう随分前のような気がします。
私の印象では、行く前に思っていたより小さな街でしたが、終戦まで軍都だった町なので
日本軍、日本人の暮らした名残が多く印象深いです。きっと当時は賑やかだったろう・・・と
哈爾濱・黒河・孫呉にも行かれ、フィリピンにも慰霊に度々訪れられているようですね
遠く異国の地で、戦死された方々に敬意と感謝の気持ちで一杯です
誰がどこでどう戦い死んでいったのか・・・少しでも知りたいと思いますが
あまりに知らないことばかりで、いつも茫然自失の思いです2012年12月12日20時37分 返信するRE: RE: 黒河・孫呉の写真と Youtube 拝見しました
> 日本軍、日本人の暮らした名残が多く印象深いです。きっと当時は賑やかだったろう・・・と
信じられないのですがネットでは12万人の軍都と書かれていました。
勝山陣地などはまだ見ておりません。
機会が有ればもう一度ゆっくり行ってみたいです。
河向かいのブラゴチもどんなところか興味があります。
レイテにも勝山と名付けた激戦地の山があります。
お線香を持参してくれたのですね。
我々は危険と言うことでセレモニーは止められました。
瀋陽は9月15日に廻ったので9188記念館も入館は断念しました。
2012年12月13日20時53分 返信する -
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軽い命の指す本意
> 「人として恥ずかしくない生き様」・・・それが日本人にとって「命より大切な物」
> である。それが恥の文化であり、日本人の日本人たる所以だ。命が大切なのではない。
> どう生きるか、どう死んでゆくかが大切なのだ。命が絶対の価値になれば、
> 命を守るためには何をしても許されることになる。それは誰にとっても不幸でしかない。
>
そうですね。
これが特に大陸人には理解できないので、未だに自分本位が中心となった思考力しか
育たないんだと思います。
中国だけじゃなく、先進国の人でも、今回の大災害で日本人が「略奪をしない」事に関し、
「不思議な民族」と感じたそうですが、そう思っている人たちでは、日本人を分かり得ない
でしょうね。
恥じない生き方が常に念頭にある。
誰も見ていなくても、キチンと行動出来るのが日本人。
人の為に何かをする事に理由なんてないし、苦言なんかも語らない。
物作りが素晴らしいのも、この考え方が一つの文化として染み着いている。
最近は、電子グッズに頼り切ってて、そんな感覚も減ってきているのかも知れませんが、
根底には「人の為に何かをする」と言う礎がある事を信じたいです。
こま -
祖父の戦没地へ行ってみたい
明石DS様
非常に興味深く拝見しました。
私の祖父は、騎兵第一旅団 騎兵第十四聯隊 第三中隊長でした。
明治38年1月30日に戦死したとの事です。多分、沈旦堡あたりかその後の黒溝台会戦での戦死だと思うのですが、少しでも知っている家族はすべてすでに故人となってしまいました。
仕事も現役から引き、やっと自由な時間ができたので是非祖父の戦没地を訪れてみたいと思い、いろいろ探してこの旅行記を見つけました。
今は一人旅なので、どうも無理かと諦めかけていますが、もしツアーのようなものがありましたら教えて下さい。
RE: 祖父の戦没地へ行ってみたい
uchuunekoさん
ご尊父は戦死されたのですね。明治38年1月30日というと、まさに黒溝台の激戦での戦死と思われます。
「黒溝台会戦は1月29日黎明のロシア軍の退却を持って終わった」との記録がありますが、ご尊父は、30日戦死なら、もしかしたら即死ではなく致命傷の後の数日後の戦死かもですね。
中隊長として率先戦いに挑まれ戦死された様子が目に浮かぶようです。心からご冥福をお祈りします。
私の祖父は騎兵伍長として日露戦争に従軍し鉄嶺手前でロシアの銃弾を受けながらも無事に帰国を果たしそのお陰で、私も私の家族もこの世に存在出来ることになりました。
祖父は1月20日に韓三台(連三台)へ第四軍・第十師団騎兵第十連隊第三中隊一騎兵として布陣し韓三台から見れば左翼の黒溝台・沈旦堡はロシアの攻撃が激しく犠牲者が沢山でたと手紙で寄越しています。
ツアーは知りませんが、NHKの「坂の上の雲」放送以来、いろんなツアーが出来ているようです。
瀋陽の日本語ガイドが居る旅行社に頼めば簡単に案内してくれると思いますよ。きっと供養になり、亡きご尊父も喜ばれることと思います。
秋山騎兵旅団が戦った黒溝台の会戦で陣を置いた「黒溝台」「沈旦堡」「韓三台」「李大人」の四つの部落は2005年、平成17年の6年前に私が訪ねた時は、遼寧からタクシー貸し切って行きました。
瀋陽からでも十分行ける距離でもあり、是非とも当地を訪れて頂きたく思います。
明治38年の、その時も、今も、見渡す周囲の景色は同じだったろうと思います。なにせ何もない平野が広がっているのですから・・・。
2011年09月22日14時03分 返信するRE: 祖父の戦没地へ行ってみたい
早々のお返事、本当にありがとうございます。
ご教授のように、1月28日に馬上で負傷し30日に死亡と聞いたことを思い出しました。
以前、国立公文書館のア−カイブを調べたときに秋山旅団長から陸軍へ宛てた負傷通知と遺体の日本への送還の公文書がありました。その中に死亡の日付が30日となっていたような気がします。
この文書は今回は探し出せなかったのですが、2月8日付けの内閣総理大臣伯爵桂太郎署名の陸軍騎兵少佐の任官の文書を見つけました。
是非とも現地を訪れて見たいと思いますので、教えていただいた方法でいろいろ調べて見ます。
本当にありがとうございました。またこれからもいろいろ教えて頂きたくよろしくお願いいたします。2011年09月22日14時25分 返信するRE: 祖父の戦没地へ行ってみたい
uchuunekoさん
先ほどの私の返信中
戦死されたのは、父上(ご尊父)ではなく祖父様ですね、
間違えたことをお詫びします。
失礼をお許し下さい。
明石DS2011年09月22日14時26分 返信するRE: RE: 祖父の戦没地へ行ってみたい
uchuunekoさん
私は当時の祖父が属していた騎兵隊(姫路)の日露戦争当時の資料を得ようとして、現在の姫路の自衛隊駐屯地に行きました。
そこで
「出征第十師団・騎兵第十連隊:日露戦争戦歴」を見つけてもらい。祖父の騎兵連隊の出征から凱旋に到るまでの従軍軌跡がわかりました。
一枚の紙でしたが、私にはお宝でした。時系列に軌跡と戦いの参加場所が書かれていました。自衛隊でコピーしてくれました。その「出征第十師団・騎兵第十連隊:日露戦争戦歴」の一枚の紙が満洲を巡る大いなるきっかけになりました。
参考までに。
2011年09月22日14時41分 返信するRE: 祖父の戦没地へ行ってみたい
度々、貴重な情報をありがとうございます。
本当に貴重な資料を獲得されたのですね。羨ましいいです。
秋山旅団の戦歴だと、防衛省の防衛研究所の資料の中にあるかも知れませんね。
どこにあるかも含めて、いろいろ勉強してみます。
2011年09月22日14時47分 返信する



