2005/04/16 - 2005/04/28
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明石DSさん
「日露戦争勝利100年」:祖父従軍の足跡を追って満州へ
・・・・の、No2です。
遼陽から第十師団の戦跡を追って、沙河から瀋陽
そして、祖父が銃撃を受けて負傷した鉄嶺西南方1里半から二里の所にあるだろう「ウィジャゴー」を目指しての旅です。
-
遼陽から奉天(瀋陽)に向かう
十里河鎮の近く
もうすぐ沙河に・・・。
日露戦争
第四軍・野津大将
第十師団の行軍軌跡を追って -
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追記:三塊石山は今もあるようだ
2014/平成26年6月10日(火)
アジア歴史資料館の地図で三塊石山を確認
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13110417100?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2013112713164965423&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&
現在の“Google”マップ及びグーグルアースで確認
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.476368,123.444614&spn=0.054661,0.077162&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=14
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十里河鎮
十里河と沙河の間くらいに三塊石山があるはずだった。この山の名前も阿杰は知らず、この附近だろうと地元の人に聞いたところ意外な返事があった。それによると確かに三塊石山という名前の三つの塊の小高い丘陵があったが、開発の為にその塊を削ってしまって今は跡形もないと言うことだった。
■騎兵十連隊戦歴によると:沙河会戦参与自10月10日〜至10月17日
『師団各縦隊に交互配属して捜索及び警戒に任して師団の前進を容易ならしめ三槐石山夜襲の際は砲兵及び後方部隊の掩護に任し爾後(じご)昼夜戦闘に従事し敵を北方に撃退す』
三塊石山夜襲の際の松末軍曹の手記では
『右方に何だか黒い森のようなものが闇をすかしておぼろげに浮かんでいる』『目の前の黒いものが三塊石山だ、皆突っ込めー!』と言う記述からも大きな山ではないのが感じられる。この夜襲の序盤ですでに『第十連隊長及び中隊長が戦死したとある。その他、第十師団は旅団長が斃れ、第三十九聯隊長傷つき、以下幹部の死傷は申すに及ばず、その某大隊の如きは三分の二の死傷者を出し、某中隊は全滅の惨状であった。かくの如く悪戦苦闘し、「血染めの聯隊旗」の栄誉を後世に残した戦闘』
それほどの激戦地、「三塊石山」・・・今はすでにないことを日本人の誰が知ろう
・・・100年の時の経過が成せる事なり。 -
日露戦争
「沙河の対陣」で有名な所
■沙河の対陣
沙河対陣で有名な河だが、9月3日に遼陽占領後、奉天へ進撃する3月初めまでの間、日本軍の戦力消耗甚だしく、特に弾薬の欠乏から引き続き奉天まで攻撃する力なく、敵も奉天を決戦場として防御準備に専念していた。この為、数ヶ月の沙河を挟さんでの対陣が生じたということである。 -
沙河
当時の満州の冬
宮城県生まれの松川敏胤大佐の証言
「日本の冬などととうてい比べものにならない。小便をすれば即座に凍るし、糞便の山はツルハシで打ち込んでも容易にくずれない。地下まで凍っているため、あらたな壕を掘ろうにも、ツルハシが跳ねかえって地面にわずかなカスリ傷を付けるのがやっとである」 -
沙河
■昌次郎の手紙:1904年・明治三十七年十二月二十八日
「当地は非常に酷寒と相成り零度以下二五、六度以内と相成り候へ共次第になれし事とて別に困る程の事もこれ無く候間 左様御承引下されたく候 時候御いとい御保養専一に祈り候」
第十師団歩兵10聯隊の松末軍曹手記:沙河の対陣
『沙河南方五キロ団山寺附近での守備・・・前面を見てやれば平砂千里、茫々たる平原であるが、長期の冬営の為、蔬菜(そさい)の青色は見られない。処々に僅かに露出した露兵や馬の屍骸はミイラの如く、腐臭も放たず固くなり、肉の部分は満州犬に食い破られ朽木の如く立っているのが新戦場の荒涼たる冬である』 -
沙河
平成17年4月22日撮影
沙河の町も河も、その周囲の風景も、やはり100年前とさほど変らぬままだろうと思う景色を留めていた。今の中国の農家の風情も、あの乃木大将とステッセルが会見した水師営の100年前の劉と言う百姓家と見た目も作りもまったく同じだし。茫々たる平原も同じだった。沙河は川幅も2、3百メートルほどの河で、水量も多くなくやや蛇行しながら流れていた。 -
沙河の村
平成17年4月22日撮影 -
沙河の村
平成17年4月22日撮影 -
沙河の村
平成17年4月22日撮影
村の中はいたるところゴミ捨て場のようである -
沙河の対陣
平成17年4月22日撮影
1904年:明治37年10月半ばから翌年の2月末ころまで、この沙河を挟んで日露両軍は対峙していた。奉天大会戦の直前まで・・・。 -
沙河から奉天へ向かう
昭和17年4月22日
満族人の運転するタクシーで・・・。 -
黒溝台から繋がる渾河を越えて奉天へ入る
昭和17年4月22日
瀋陽の街並み・・・。
■いよいよ奉天へ
瀋陽に入る手前に渾河が流れており、その橋を越えて市内に入って行く感じだ。中国東北部第一の大都会である。全容は全く分からないが4月16日土曜日に反日デモがあったところだ。 -
■瀋陽北・瀋陽東陽閣IT飯店に荷物を置き鉄嶺を目指す
11:30分頃ホテルに着きチェックインした。そして直ぐにそのまま阿杰の車で鉄嶺「ウィジャゴー」を目指し出発。
高速道路に乗り、一気に鉄嶺へ到着、12:30頃だった。駅に行って写真を撮る。とうとう昌次郎が来た中国の最遠方にやって来た。ウィジャゴーを探す前に食事に行き焼肉屋に二人で入った。羊肉・豆腐・焼き飯を注文して食う。美味かった。30元(390円)くらいだった。 -
瀋陽から高速道路で鉄嶺へ
明治38年3月15日、出征第十師団騎兵第十聯隊
所属の祖父が、ロシア軍から銃撃を受け負傷した場所に来たぞ・・・。 -
鉄嶺の駅前から街並みを写す
祖父はここまで来ていない
鉄嶺ノ西南方約一里半「ウイジャゴー」附近ニ於テ
敵弾ノ為腹部ニ貫通銃創ヲ受ケ
・・・であるから。 -
■龍首山風景名勝区
鉄嶺市内が見渡せるだろうと「龍首山風景名勝区」なる公園に行き散歩した。あまり広すぎる。錆びれた遊戯具がある公園が現役で開業しておりペンキの塗り替えなどの補修をしていたが・・・。山の上まで上る気もせず散歩してタクシーに戻った。 -
立派な公園だが
トイレはかくの如し・・・。
龍首山風景名勝区 -
■昌次郎:被弾場所「ウィジャゴー」へ
「ウィジャゴー」と言う地名は、大西大尉より家族への通知の便りに唯一書かれていた。
1905年・明治三十八年三月二十日:大西俊輝大尉
謹啓
時下春暖ノ候 貴家益々御健勝ノ事ト遥ニ奉賀候(がしたてまつりそうろう)
陳バ(のぶれば)昌次郎氏、出征以来頗ル健全ニテ 常ニ忠実 勇敢処々ニ轉戦専心一意克ク(よく)戦務ニ服サレシハ夙ニ(つとに)本職ノ感謝スル処ニ有之(これあり)候
然ルニ今回ノ戦闘中、三月十六日、斥候ニ服務シ敵情ヲ捜索中、鉄嶺ノ西南方約一里半「ウイジャゴー」附近ニ於テ敵弾ノ為腹部ニ貫通銃創ヲ受ケ 即刻野戦病院ニ入院 目下加療中ニ御座候然シ幸ニ軽傷ニシテ 其後ノ経過良好ノ由承り候間御安神有之ベク候 早速御通知可上致(いたすあぐべく)本意ノ処当隊ハ遠ク遠方ニ行動中ナリシヲ以テ通信ノ機會ヲ不得(えず)
荏苒(じんぜん)今日ニ至り候段(そうろうだん)不悪御了承被下度(あしからずごりょうしょうくだされたく)此段(このだん)御通知ニ及ビ候也(なり)
明治三八年三月二十日
騎兵第十聯隊
第三中隊長陸軍騎兵大尉 大西俊輝 -
鉄嶺にて
大尉の便りでは鉄嶺西南方約一里半。昌次郎によれば鉄嶺二里計り手前。鉄嶺の西南方6〜8キロ手前の村が目指すところだった。私の中国語の先生に「ウィジャゴー」と言うカタカナの発音で漢字で当て字を想像してもらったら「囲家溝、weijiagou」ということだった。確かにそれらしき地名になり、それを頼りに阿杰が車に携帯していた最近の道路地図で調べたが無かった。
そして、鉄嶺の駅前のタクシー運転手がたむろしてる所でも聞いてくれたが「没听過=聞いたことが無い」との返事ばかりだった。地図の上で西南方向6〜8キロの所を探せば、ちょうどその方向に「二台子」「大連花泡」と言う集落があった。そこを目指して行くしかないと決めた。 -
■きっとここがそうだ!
「二台子」に向かって阿杰は車を走らせた。距離を計る参考の為にタクシーのメーターを倒し鉄嶺を背後にしながら西南方向に走った。そして「二台子」に着いた。少し前方に「大連花泡」と言う集落もある。私の直感では、ここだろうと感じた。あまりにも手紙を読んで脳裏に膨らませていた想像の光景と良く似ていたからだ。
畑地が広がる前方に集落が見え、そこにロシア歩兵は身を隠し待ち伏せていたのだ。
そして日本の斥候騎兵を引き付けて400メートルくらいに接近した時に一斉射撃をしてきたのだ。
昌次郎から見れば北東方向一里半から二里に鉄嶺があり周囲は畑地が広がる風景である。
その集落と鉄嶺の町を遠くに望む以外は今も延々と畑地が広がる平原であり、100年前のこととて、私が立ったその地を中心に10キロも離れていないと確信する。
そして風景は同じだった・・・と。只、3月15日のことだから少しは雪があったかも知れないが・・・。 -
■昌次郎の手紙
1905年・明治三十八年四月十三日
『拝啓其后は御無音に打過ぎ候段平に御容赦下されたく候時分柄追々暮らしよく相成り候ところ 皆々様には何の御変りもこれなく候や先月御報せ申し上げ候通り
二十八日より行動開始致し 今月八日より敵兵退却を始め候間追撃と相成り 奉天もなんなく占領致し敵兵鉄嶺方向に退却するを以て騎兵聯隊は其敵を追撃中 鉄嶺二里計り手前に於いて聯隊左方部落を捜索すべき下士斥候出され其の内へ小生も加わり前進中 部落四百メートル前に進みし時は敵騎二、三騎は見しも
如何なる敵なるを捜索中 突然敵歩兵見えざる所より一斉射撃なしし為退却なさんと馬を廻わし時 不幸にして一弾ハ我背より胸部を貫通せり何かわ以てたまるべき 馬よりわ落ちるし同じ斥候の者ハ無事退却せり -
我は畑地でころがりくるしみ 敵の部落を見れば早くも敵七、八名我れを捕虜となさんと散開して進み来る
嗚呼残念と思い居りしに 我より先 敵に近き方に一名負傷し同じく畑地にくるしんでをる。
私し一人と思ひ居りしに二名まで負傷致し居り候
敵ハ早くも前の一名の所へ来りを見て
負傷のいたさも忘れ にげんとすれば敵は我に向ひて又も射撃せり最早死するか にげるかの二道と思ひ にげしに其時の射撃中足に一発 腰角ニ一発受けしも足は軽傷 二百メートルハ駆(はし)りしも身に重傷を受けし事とて走る事が出来ぬ様に相成り殪(たお)れ敵を見れば一名を捕虜となし元の部落に帰るを見て一ト安心せり
其者は三田町の者でした 二時間計りセシ時 報告により中隊長殿ハ驚き第二の斥候が着セリ
其時ハ早くも敵は其村を退却せし由 唯ちに我れは収容受けました。
何分背より胸の事とて身体の自由が出来ざる為延引計り致し
このごろに於いては追々快方に向ひ候間
憚(はばか)りながら御放神下されたく候
先は右御報ちまで
於 或病院 -
■万歳!旅の目的の大方は達成したぞ!
ある歩兵の日露戦争従軍日記「茂沢佑作」(著)によれば
撫順は100年前の3月15日(水)は快晴であり、満州特有の風が吹いていたらしい。
その前後の日付も雪の記述はほとんど無く、あっても僅かな雪が降ったとあるくらいで豪雪ではない。そして積雪もほとんど書いていない。寒さはまだまだ厳しくとも・・・。翌16日も天気は快晴。この茂沢佑作も本隊目指して鉄嶺に向かったとある。 -
明治38年3月15日
祖父、被弾の場所へ
飽きるまで、景色を眺めた。ここだろうと。
違ってもこの附近であり、景色は同じだと思う。何せ、周囲を見渡しても畑地が広がるだけだ。鉄嶺方向、部落の方向を向いて右手遠くに小高い山並みが見えるだけで、その他は広漠たる大地が何処までも広がる。
この畑地には何を植えるのか?トウモロコシ(玉米)?高粱?小麦?何か知らないが、収穫後の枯れた根が残るだけの畑地である。この上を転がり苦しみ、近づくロシア兵を前に
「最早死するか、逃げるかの二道と思ひにげしに其の時射撃中足に一発、腰角に一発」
被弾したのか。昌次郎も子孫がこんなところまで来るとは思ってもいなかっただろう。
今頃、あの世で何を思ってるのだろう・・・。 -
■午後2時半:鉄嶺を去る
一路瀋陽に向かう。助手席で感慨に耽っていたら阿杰が「疲れたのか?」と聞いてきた。「いや、疲れていない」と答えた。そして二日間悪路を嫌な顔をせず付き合ってくれた阿杰にチップを含めて480元の料金を550元(7150円)渡した。
「車の洗車代にしてくれ」と言って。自分の本拠地は車で一時間も掛かる遼陽なのに阿杰は「ここまで迎えに来るから、いつでも電話して」と昨日もらった名刺を再度くれた。良い男だった。東陽閣IT飯店の前に4時前に着き阿杰と別れた。 -
1905年、明治38年2月28日
日露戦争:奉天大会戦を控えて戦場から17歳の弟に送った便り
・・・・・・・・・・・
拝啓其の後は意外の御不音ごふいんに打ち過ぎ失敬
皆々様お揃いで何の御障りも無く御消光(月日を送ること)遊ばされ候由
二月八日出葉書き確かに拝省仕り候
私事も一月二十日出発左翼軍に参り
御承知の如く黒溝台附近の戦いにか入仕り
一ヶ月程渾河こんが附近に守備致し -
二四日もとの宿営地に帰り候間
左様御承知下さりたく候
新聞拝読の通り左翼軍は騎兵歩兵総合にて守備致し居り候ところえ敵が来襲致し候間
今度は騎兵も非常なる苦戦致し候 或る騎兵聯隊如きは仰山なる死傷者これあり候由我が聯隊は -
幸いにして捕虜と相成り候者五名 死傷者は三、四名程にこれあり候
何れ当前面も四、五日内には総前進と相成り候と思ひ居り候
最もこの大會戦に参加致し幸いにして命あらば又の文通致す事と存じ居り候間
我が運命にお待ち下されたく候 今日片岡 -
達之助君 塩見長光君へ面会に参り候
皆々丈夫にこれあり候間 塩見宅にも御安心なさる様お伝へ置き下されたく
共にこの度の大々戦争御身大切と申し別れ候
鹿蔵も壮健で軍務登上とじょう候由 大いに安心致し居り候
又も帰綾の節はよろしくお伝へ下されたく候
公荘及びお近所一ち一お伺 -
ひ申したくも多忙なる為メ
よろしく御伝声下されたく候
二月二八日午後十時認む
昌次郎
・・・・・・・・・・・
酷寒の満州の戦場で、夜の10時に認めたと書いてある。今から101年前の、24歳の一騎兵隊兵士は、
奉天の会戦を前に、凍えた手で書いていたのだろう。
そこそこ祖父は達筆のはずだが・・・
残っている便りの中で、これが字は一番乱れている
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この旅行記へのコメント (8)
-
- 半平太さん 2014/05/18 04:38:31
- 曾祖父の足跡
- 貴重な体験談拝見しました。私の曾祖父は沙河会戦三塊石山の戦いで戦死しました。現在のどこに当たるのか皆目見当がつかなかったのでありがたいです。生きている間にいけるかわかりませんが、聖地として心にとどめておきます。それにしても削ってしまったとは残念です。古い文献には白黒写真のモニュメントのようなものが映っていました。それももう無いのでしょうね。残念。
先人たちの苦労と勇気を忘れない様にしたいです。
- 明石DSさん からの返信 2014/05/18 07:31:40
- RE: 曾祖父の足跡
- 半平太さん
三塊石山の戦いは激戦だったようですね。私の祖父も騎兵隊として後方援護で参戦していたようですが・・・。是非とも激戦地「三塊石山」を確認したいと思っていたのですが時間もなく、私が行った時も現地の中国人は日露戦争のことを誰もまず知らないです。
「開発で削った」というのは、当地の人の回答でしたが一人に聞いただけで、その場所を確認した訳でもなく、申し訳ないですが私は今も半信半疑と言う感じです。9年前に行った2005年の時は、まだ現地も大都会以外は「日露戦争当時のままでは?」という風景が広がっていました。私も機会あれば再訪したいと思っています。その時はちゃんと確認して来たいと思います。
- 半平太さん からの返信 2014/05/22 07:51:23
- RE: RE: 曾祖父の足跡
- 明石DS様
御丁寧にありがとうございます。
曾祖父、安村範雄になり替わりお礼申し上げます。
第四軍第10師団歩兵第39連隊は戦死者146名、負傷者413名という犠牲のもと目的を達成しました。「血染めの軍旗」はその象徴として今も保管されているようです。
お恥ずかしい話ですがこの事実に気がついたのは昨年のことです。ある1通の文書がきっかけで自分の先祖を確認することになりました。母、祖母は曾祖父、祖父について何も語らずに他界してしまいました。(大東亜)戦後の社会情勢に鑑み配慮したのだと思いますが、子孫としては情けない想いがあります。先祖調査の旅で高知県を訪れた時に親切な方々に会え、文書確認と遠縁、隣人の方に会えたのは収穫でした。学校の教科書には載っていない事実を身近に感じ旅の素晴らしさを感じました。
ご健康に留意されなお一層のご活躍のほど心からお祈り申し上げます。
半平太
- 明石DSさん からの返信 2014/05/23 06:50:58
- RE: RE: RE: 曾祖父の足跡
- 半平太様
お便りありがとうございます。
戦後日本を思えば日清日露大東亜戦争を戦い抜いた先人には敬服するのみです。私は敗戦までの日本と日本人に憧れ、今はその足跡を求めて旅をしています。
そのきっかけが祖父の従軍軌跡を辿ったことでした。「第四軍第十師団」・・・祖父は第四軍第十師団騎兵第十連隊だったので騎兵・歩兵は違っても、姫路駐屯地から出征、そして同じ戦場だったと思います。きっと姫路を含めて従軍先でも我が祖父と安村範雄さんは顔を合わせたのだろうと思います。
私も兄と二人で四年前に二年掛けて家系図作りをし、遠縁を探しあていろんなことが分かりました。しかしその時は父もすでにこの世になくです。それまで興味を持てず父に祖父の話も聞かず「ああもう少し早かったら・・・」と後悔ばかりでした。
ありがとうございました。
- 明石DSさん からの返信 2014/06/09 21:51:54
- RE: RE: RE: 曾祖父の足跡
- 半平太様
まことに失礼しました。
http://bujinkensyokai.web.fc2.com/yasumuranorio.html
上記のHPで安村範雄少将のことを初めて知りました。
三塊石山は今もあるようです。
アジア歴史資料館の当時の地図で場所が分かり
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13110417100?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2013112713164965423&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&
今の「“Google”マップ」とグーグルアースでも確認出来ました。
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.476368,123.444614&spn=0.054661,0.077162&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=14
「妻と飛んだ特攻兵」の出撃地、大虎山の飛行場跡を調べていたら遼陽、三塊石山も近いので調べていたら見つけました。
それと以前、祖父の従軍軌跡を訪ねた時に
日露戦争従軍記「歩兵第十聯隊:○○軍曹(記)」をネットで見つけてダウンロードしていました
事情があるのか?すでにネット上では削除されています。思い出して以前のパソコンを探して見つけました。
勝手にダウンロードした従軍記なので了承なく配布も如何なものかと思いますが・・・。
三塊石山の夜襲の様子も書かれています。
『百五十米西方にありながら、一発の弾丸をも送らず、苦闘中の味方の救援に赴く事も出来なかったのは、三十九聨隊に対し、誠にすまない事だった。』
と書かれています。同じ姫路の連隊ですから
貴重な資料なので・・・・。必要ならメールに貼付して送ります。
yoshio-abo@mvf.biglobe.ne.jp
このアドレスにお返事頂ければ貼付して送らせてもらいます。
明石DS
- 半平太さん からの返信 2015/04/03 09:26:26
- RE: RE: RE: RE: 曾祖父の足跡
- 明石DS 様
お便りありがとうございます。
半年以上遅れ失礼しました。
もし、よろしければ関係文書を送っていただけないでしょうか。
著作権、パブリシティ権、個人情報に注意して扱わせていただきます。
> 勝手にダウンロードした従軍記なので了承なく配布も如何なものかと思いますが・・・。
> 三塊石山の夜襲の様子も書かれています。
> 『百五十米西方にありながら、一発の弾丸をも送らず、苦闘中の味方の救援に赴く事も出来なかったのは、三十九聨隊に対し、誠にすまない事だった。』
> と書かれています。同じ姫路の連隊ですから
> 貴重な資料なので・・・・。必要ならメールに貼付して送ります。
> yoshio-abo@mvf.biglobe.ne.jp
>
> このアドレスにお返事頂ければ貼付して送らせてもらいます。
余談ですが「血染めの軍旗」は靖国神社遊就館に保管されていることをつき止め、担当者にお願いして展示していただき没後111年ぶりに対面できました。また、靖国神社階行文庫に関係書籍がありましたので三塊石山の攻防はかなり知ることができました。
明石DS様の旅行記、写真が私のエネルギーになりこのような成果になりました。
ありがとうございます。
別アドレスにて通信させていただきますのでよろしくお願いします。
半平太
-
- pangziさん 2006/04/10 19:01:12
- 初めまして。
- 大変興味深く拝見させて頂きました。何度も大連、瀋陽を汽車で往復していますが、鉄嶺で降りた事はありませんでした。いづれ、本渓水洞と共に
訪問したいと思っています。大変、参考になりました。歴史側面を知る事で、又違った角度で見れると思います。
文中にあったウージャーゴーについて、付近に住んでいたものに聞いてみました。発音が近い村名が下記です。
1.武家溝(wu3jia1gou1 ウージャーゴー) 鉄嶺から28Km南
2.於家溝(yu2jia1gou1 ユージャーゴー) 鉄嶺から14Km南
3.文家溝(wen2jia1gou1 ウンージャーゴー) 鉄嶺から 8Km東
確かに西南6−8Kmでは当てはまる土地は無いようです。
武家溝の出身者なので、あっているとは思います。参考までに。
- 明石DSさん からの返信 2006/04/10 21:57:21
- RE: 初めまして。
- pangzi様
発音の近い村名、聞いて頂き、ご教授ありがとうございます。
今後の参考にさせてもらいます。
似たような発音の村があったのですね・・・。
距離と方角だけを頼りに今回は行きましたが、次回、機会があれば
又、これらの村を是非、訪ねて見たいと思います。
目的を持っての旅行は、やはり達成感も違いました。
ちょうど日露戦争勝利100年目の2005年でしたので感無量でした
ありがとうございました。
明石DS
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