2013/02/11 - 2013/02/15
22072位(同エリア30135件中)
明石DSさん
ホテル前:長春路の西側方向を写す
ストリートビューの写真ではまだホテルはないけど
「時尚」何とかという右隣がホテル玄関になっている
ここが「台北長富時尚旅店」
“Google マップ”
http://www.agoda.jp/asia/taiwan/taipei/homeyhouse.html?asq=4UzPs1%2f0WtMIeM0hevxZNcAqt4XGy0EK4buMyJMdjUhEVj1LI6sZpyYePyVFmvH%2bQOLxI1Vug37xnjKCMdGko5wRwxc6mmrXcYNM8lsQlbU%3d
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台北〜関空:帰国
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2013/平成25年2月15日(金)
■台北最後の朝
agodaでネット予約したMRT中山站歩いて15分足らずの長春路沿いにある「台北長富時尚旅店」の508号室は窓がなかったけど、設備は最新で部屋も綺麗。サウナ設備にウォッシュレット完備。朝食付きで一泊¥10,237に文句はない。
帰国の日の朝、5時半に目を覚まし、ゆったりしたバスタブにお湯を張り朝風呂に入る。退房の準備をして一階フロントに下りてすぐに外に出た。今日の空模様は今にも雨が降りそうな気配だった。最後の日に雨が降っても構わない。今までの天気に感謝あるのみ。
この長春路も来台前に我が家のパソコンのグーグルアース・ストリートビューで何度も見ていた。確かこんな風景だった。グーグルアースの写真は、いつの写真なのか分らないが10年も前の物ではないのは確かだ。ホンマに凄い世の中になったものだと思う。
7時になり今日も昨日に続き一番に朝食を頼む。コーヒーとウィンナーにサラダに玉子焼き、デザートもあって嬉しい限りだ。食事を済ませ、7時半にはホテルを出た。
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ホテル前:長春路の東側方向を写す
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なかなか豪華な朝食
ありがたやありがたや
満足なり -
私の部屋は写真下段右端508号室
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■林森、康楽公園の二つの鳥居
退房しリュックを担ぎ、まずは朝の散歩を兼ねてMRTの中山站を目指した。途中、初めて立ち寄った「康楽公園」「林森公园」の一隅に大小二基の石の鳥居らしき物が目に入り「あれっ?あれは鳥居とちゃうか?」と傍に近づいた。
案の定それは日本の鳥居で、その横に「日本明石総督旧墓址」という説明の石版が鎮座していた。この公園は清朝時代兵舎があり、日本統治時代には墓地となったようだ。そして驚いたことに乃木希典の母親がここに葬られたとある。ふ〜ん、ここがそんな場所だったのか。ホテル前からタクシーに乗っていれば気付かず帰国するところだった。
こうやってこの鳥居に出会えたのも縁あってのことだと感謝である。思いも寄らぬ日本人の関係する史跡に出会えて嬉しかった。そして芝生公園の一角に今も大事に保存してくれている台湾国民にも感謝する。これまでの経緯はいろいろあったようだが、説明にはそれも含めて日本語でも以下の説明が詳しく書かれていた。有難い。
「康楽公園」「林森公园」に残る二つの鳥居
明石元二郎(大)と鎌田正威(小)の墓の鳥居だった
説明文
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林森、康楽公園の所在地は昔に、「三板橋」と呼ばれていた。清朝時代、ここには兵舎が設置され、日本統治時代(以下;日治時代)初期からは次第に墓地になってきた。1896年、第三代総督である乃木希典の母親がここに葬られたことにより、日本人専用墓地に転じていたが、1900年には正式に共同墓地に定められた。
戦後、ここは中国大陸の舟山、海南などからやってきた軍民たちの避難所になり、公園予定地であった場所にも、千何軒の違法住宅が集まっていた。1997年、台北市政府が公園整理を始め、公園構内の整備のほかに、元来ここにあった明石総督の墓を台北県三芝郷のキリスト教墓地に改葬させた。
二つの鳥居も一時二二八公園に移したが、2010年10月には再びここに戻された。日治時代に三板橋墓地には鳥居が三つ存在していたが、90年代の時に大小二つだけが残った。鳥居の形はともに「神明鳥居」である。日本の立て柱が丸い「亀腹」に置かれ、一番上にある梁は「笠木」であり、下層で立て柱を固定するのは「貫」と呼ばれる。
今日まで、大鳥居は既に、第七代総督である明石元二郎の墓に付くものと確認され、第八代総督の田健治郎によって、1920年の明石総督忌日の前に建てられた。しかし小鳥居の方は、柱に「昭和10年」(即ち1935年)という刻銘があり、調査の後、鎌田正威(まさたけ)の墓に付くものと推測された。
明石元二郎は1864年に、福岡県の武士である明石助九郎の次男として生まれた。陸軍大学校を卒業し、陸軍近衛師団参謀を経て、フランス、ロシア、ドイツ公使館付武官、韓国憲兵隊司令官、総督府警務総長などの職務を担っていた、1918年6月、明石氏は第七代台湾総督に就任し、民政長官の下村宏の協力で、司法制度の革新、台湾教育令の発布、日月潭水力発電事業の確立、台湾電力株式会社の設立、中部海岸線鉄道と東西横貫道路の開設、「公設質舗」制度の実施などの政策を成し遂げた。
当時鎌田正威は同氏の秘書官であった。1919年明石元二郎は総督の任期中に福岡で病没したが、その遺言に従い、遺骸はわざわざ台湾に移され 台北・・・日本人共同墓地に埋葬された。そして同氏は歴代台湾総督のうち、唯一台湾の土地に葬られた総督になった。大、小鳥居は 市民・・・・・として、深く文化財の価値があり、重要たる歳歴史文物の保存と、地方や文化界からの声に応え、改めて林森公園内に移転された。
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明石元二郎総督
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鎌田正威
明石元二郎総督は誰もが知る有名人だが、鎌田正威とはどんな人物だ多々のだろう。その紹介が「鳥居の顛末」というコラムで「日本李登輝友の会 台北事務所」が写真入りで詳しく紹介してくれている。
http://twoffice.exblog.jp/15373156/
抜粋
『鎌田正威:大正7年(1918年)には、明石総督の秘書官兼参事官に任ぜられ、明石総督の片腕として活躍したようです。ベトナムやアフガニスタン、トルコにまで派遣され、その視察状況を総督へ報告した資料も残されています。』『鎌田正威の妻は頼山陽の直系の曾孫』
日本人墓地であった場所が芝生の公園になっている。そこに二つの鳥居を再建し、詳しい説明の案内板を設置してくれていることに台湾人の心を思う。鳥居の前の広場で同じユニフォームを着た男女グループが音楽に合わせて体操なのか?ダンスなのか?をしていた。そして雨も降ってきた。縁あって鳥居に遭遇することが出来大いに朝から満足だった。 -
?お揃いのユニフォームを着て朝から健康体操?ダンス?をする一団
その向こう側に石の鳥居二基並んであった
日本の統治時代ここは日本人墓地だった -
大きい鳥居が明石元二郎総督の墓前にあった鳥居
乃木希典大将の母が明治29年台湾で
マラリアに罹患し死亡:この地に葬られた
台湾総督:乃木47歳〜49歳:2年間 -
明石総督墓址
明石元二郎陸軍大将は福岡で亡くなったが
遺言により台湾に遺骨を運び埋葬する(満55歳)
長男・元長は根本博中将の台湾渡航に尽力後、急死(42歳)
元長の長男、元二郎の孫:明石元紹氏は
2009/10/金門島を訪れ馬英九総統と握手した
http://www.taiwanembassy.org/ct.asp?xItem=114725&ctNode=3591&mp=202 -
明石総督(右)と鎌田秘書官(左)の鳥居が並び立つ
この鳥居がこの地に立ち続ける限り
日台友好は続くのだろう
台湾で亡くなった日本人のご冥福を祈る -
芝生公園の一角にある
日本人墓地を守るかのように
そして台湾との絆を守るかのように
名残を惜しみながらこの地を去る
“Google マップ”
https://maps.google.co.jp/maps?q=%E6%BE%8E%E6%B9%83%E7%B2%BE%E5%93%81%E6%9C%89%E9%99%90%E5%85%AC%E5%8F%B8&hl=ja&ie=UTF8&ll=25.053405,121.525456&spn=0.000005,0.002411&t=m&z=19&brcurrent=3,0x0:0x0,0&layer=c&cbll=25.053326,121.525453&panoid=lMHUoOkzPmYBRQxXOp7J6g&cbp=12,70.64,,0,12.31
林森・康楽公園の二つの鳥居
台北・金門島を訪ねる(十四)
http://youtu.be/rxos_UaY8Vs -
?龍山寺
祀られた神は大小合わせて100以上
ようは神仏ご先祖に感謝の気持ちが大事なり
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■龍山寺
雨も降ってきたし、MRTに乗らずに公園前からタクシーで龍山寺に向かった。タクシーに乗ってすぐに「龍山寺から桃園空港までタクシーで何分くらい掛かる?料金はどれくらい?」と聞いたら、「1時間弱、1000元。あんた何時の飛行機?龍山寺にどれくらいいるの?」と聞いてきた。
「午後1時前発だから二時間前の11時には向こうに着きたい」と言ったら、即座に“運ちゃん”は「これで空港まで送るから」とのこと。「それなら早い目に出るから9時40分くらいにこの前に来て。リュックに貴重品は入っていないから車に置いておいて」と頼んで送迎予約した。
10分くらいで龍山寺に到着し、料金を払おうとしたら「後でまとめてもらうから」と言われて、龍山寺の前で降りた。お金とパスポートに飛行機のチケット引換券等々はポシェットや腹巻に納まっていたが、リュックに携帯電話を入れたままだった。“運ちゃん”が電話番号書いて私に渡してくれたけど肝心の携帯電話がなくて、もし待ち合わせ時間にタクシーと出会えなかったらどうしようと少し心配になった。
でも今更仕方が無いし、懐かしの龍山寺に入った。この頃から雨が結構本降りになっていた。「思っていたより少し小さいなあ・・・」だったけど他は24年前の雰囲気と同じだった。春節ゆえなのか大勢の参拝客というか、正月恒例の行事なのか?僧衣のような長い黒装束の女性集団が長いお経を延々と唱えていた。こんな光景を見れただけでも来た甲斐があった。なかなか壮観だ。
ウィキペディア抜粋↓
『本尊は観世音菩薩であるが、現在では道教や儒教など様々な宗教と習合しており、孔子や関帝(関羽、三国志で知られる)、媽祖など、祀られている神は大小合わせて100以上に及ぶ。人々は様々な神が祀られた7つの香炉を順に廻りながら、それぞれの神に参拝する。』
「龍山寺に祀られた神は大小合わせて100以上」・・・ハハハ面白い。このお寺の人気の理由はこれだろう。私自身の宗教観にも似ているというか、ようするになんでもありでそれがよし。私の宗教は神道「八百万の神」「自然信仰」であり、先祖教であり、我が家の菩提寺は真言宗。でも一番はご先祖様だけど。
みんなそれなりに気合を入れて拝んでいた。その気持ちこそ大切であり、すべての感謝に通じる。大陸支那・共産主義独裁政権が宗教を弾圧したり否定するのは、ひとえに「共産主義」そのものが破廉恥なる似非宗教だからだ。政治はあくまで現実であり「平等」「友好」「平和」などという少女趣味の綺麗ごとは悪魔の所業に通じる。
「人間みな平等」というのは機会の平等が大原則であり、結果の平等を目指せばみんな不幸になる。共産主義は、お花畑の世界がありえるかのように偽善を語り、挙句に圧政と究極の不平等が始まるのが共産主義政権だ。共産主義が似非宗教と言うのは、国がどこであっても同じだ。
大概どこの国でも人口の数%くらいはそんな人間が存在し、宗教団体と同じように新聞を発行し資金は豊富だ。この数%に万が一でも権力を握られると世も末となる。幸いなるかな日本には皇室があり天皇陛下がおられる。建前「平等」の共産主義は特別な存在である天皇陛下や皇室を認めず、ゆえに日本では共産主義が幅を利かせることは絶対ない。
しかし数%のどうしようもない人間は、ある程度の幅で増減しながらもなくならない。それがゆえに日本も共産党や社民党が消えてなくならない。それは似非宗教だから、いつの時代も洗脳され貢ぐ愚かな馬鹿がいる。“蒋公”は独裁者となったが、共産主義を忌み嫌っていたのが何よりの救いだ。だから台湾は今の台湾となり得た。
人間ウォッチングが趣味の私は、異国の地でこうやって大勢の人が何かをしているのを見ているだけで楽しい。素晴らしい景色にも感動するが、こういった人の所業を観察するのも興味深い。境内で“オバチャン”が何が原因か分らないが警備の“おっちゃん”に大声で喚き散らして喧嘩をしていた。
何か気に食わないことがあったのだろうが、春節に寺に参拝に来て延々と怒鳴り散らす様子は大陸・支那人と同じだ。日本ではまず見れない光景だ。龍山寺の周囲は「西昌街観光夜市」だが、さすがに雨の午前中は賑やかさはなく、ところどころで食い物露店が店を開いているだけだった。
最後の日の雨だったが、ここまで降らずに旅が出来たことはホントに助かった。タクシーとの門前での待ち合わせの時間が近づき門の周辺をうろつきながら待っていた。時間の少し前に来てくれた。一路空港へと向かう。 -
雨の龍山寺
黒い僧衣を来た女性陣の読経
集団での読経は迫力がある -
あっちにもこっちにも黒装束の女性陣
この光景を見ることが出来
集団読経を聞けただけでも
ここに来た甲斐があった -
何を並んでいるのか?龍山寺の周囲に行列が
台湾人のお寺への気持ちが良くわかる
何の関係もない私だがこの光景に嬉しくなる -
西昌街の入り口も雨の午前はこんなものだろう
夜はさぞかし賑やかなことだろうけど -
西昌街観光夜市
龍山寺の周辺を歩いた -
参拝人が絶えず、お供えが溢れる
へぇ〜この龍山寺が1986年、昭和61年
『戒厳令に基づく言論統制に反対する人々が決起した
519緑色行動の舞台となった場所でもある。』 -
若い人も熱心に祈りを捧げていた
神仏に感謝し祈る姿を見ているだけでホッとする
支那大陸全土にもこの祈りが復活すれば
少しはまともな国になっているのかもしれない
その時は今の中華人民共和国は消滅している -
さあ、この龍山寺で台北:金門島の旅は終了となる
たった四泊五日、正味中三日の旅だったが
百聞は一見にしかずを改めて実感する
龍山寺
台北・金門島を訪ねる(十五)
http://youtu.be/x_D_jFxDfYM -
?第二ターミナルから第一に移動中
「第一」か「第二」か、行く前に確認を要する
間違えば、このシャトル便で移動する:簡単便利
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■桃園空港へ
タクシーに乗ってすぐに「第一ターミナルか第二か?」と聞かれた。去年の北京首都国際空港へ行く時のことを思い出した。あの時も「1号・2号・3号」があり、1号は国内線なので「2号か3号か?」と聞かれたけど分らなかった。今回も同じで「えっ、そんなんあるの?」だった。
“運ちゃん”は「どこの航空会社」と聞いてきたので「シンガポール」と返事をしたら・・・「それなら第二ターミナルだ」と言って第二ターミナルに到着。料金は九百なんぼかで、龍山寺までの分とメーター表示の合計は¥1200元くらいだったので¥1,500元を渡して「OK?」と聞いたらニコッと笑ってOKだった。
でも“運ちゃん”の自信とは裏腹に「ジェットスターアジア航空 3K721 台北桃園空港(発)12:45 - 16:15 関空(着)」は第一ターミナルだった。「第一ターミナル」⇔「第二ターミナル」はモノレールのシャトル便があり問題なかったけど。空港に来るたびに緊張するので幾ら早く着いても苦にはならない。万が一異国で取り残されたらの不安の方が大きいから。
早く着き過ぎたと思っていたが、ジェットスターアジア航空のブースではすでに多くの人が並び手続きは開始されていた。さすがに関空行きなので日本人が多い。ここでは関空と違って三、四ヶ所の窓口で手続きをしてくれたので早かった。いつものように席は「窓側」を頼んだ。
リュックも空きスペースが多かったし台湾元もまだまだあったので免税店で、毎月二回行っている中国語教室の老師に「お茶」と我が家に「何か」を買って帰ったら「インスタントコーヒー」だった。その後、搭乗口近くのオープン・レストランで\160元のお粥を食べた。美味かった。
こっちに来る時は機内で弁当を頼んだけど、食べない人の方が多かった。長時間のフライトでもないし、乗る前に腹ごしらえをした。台北到着時に六万円の両替で18,750台湾元となり7101元が残った。現金で使ったのは¥11,649元(36500円ほど)也。残りは次回のためにそのまま置いている。 -
ここに乗っている人は間違えた人?
それか他に用事のある人 -
早く空港に到着したと思っていたが
もっと早く来ていた人も多かった
すでに手続きは始まっていた
別段私が心配性でありすぎることはないようだフフフ -
空港の免税店で久しぶりに土産を買う
お茶と、もう一つ帰国後見たらインスタントコーヒーだった
残った台湾元:7101元は次回旅用に家に置いておく -
搭乗ゲート傍にあったレストランで昼食
見た目より料理は本格的 -
満足の味
とうとう24年前悩み続けた匂いに一度も遭遇することなく
帰国の羽目となる。喜ぶべきか悲しむべきか迷う -
「A4」搭乗口からの出発となる
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あれがジェットスターアジア航空の飛行機だ
あの飛行機に乗って関空に戻る
落ちるか落ちないか飛んでみないと分らない
何でこんな重い物がめったに落ちないのか不思議だ -
午後12時20分頃に搭乗が始まる
いよいよ我が祖国日本への帰国
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■台北桃園空港から関空へ
飛行機はほぼ定刻に離陸、機内もほぼ満席。中央通路を挟んで三座席づつ。私の席は窓側「4A」で前から4番目。横に年配の夫婦が座り、台湾語で二人で会話し、横のご主人らしき人は中国語の分厚い本を開いた。てっきり台湾人夫婦だと思っていた。誰だってそう思うだろう。でも、その横の男性が出したパスポートが日本のだった。
それを見て私は思わず「日本の方ですか?」と聞いた。そこから関空到着までの二時間ほど横に座ったご主人であるGさん(仮名)に台湾事情を教えてもらった。Gさんは日本に留学し日本の医学部を卒業。40年以上経た今も岡山県の僻地で医者として働いている人だった。息子さん二人も日本で医者になり日本人として日本人の嫁をもらって暮らしている。 -
前から四番目の席で、ビジネスクラスはないようだった
ドアの向こうに操縦席のコクピットが見えていた -
サラバ!台北:桃園空港を離陸する
この空港は大東亜戦争時、陸軍の飛行場だった
今から68年前、日本の若者が笑顔で死地に向かった
彼らもこの眼下の景色を目にしたのだろう
不覚にもこの時は何も知らず。帰国後に気付く -
陸軍特攻 誠 第百十九飛行隊の出撃一時間半前の写真
少年飛行兵出身の十四人。全員十八歳から十九歳の若者
台湾桃園飛行場で。昭和二十年四月二十二日午前八時半頃。
http://www1.r3.rosenet.jp/nb2hoshu/MihaOozorani-Nisimura.html
出撃1時間半前のこの笑顔、この笑顔を見てなに思う
「後は頼んだ、先に行くから」・・・そんな彼らに言葉もない
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身は大空に散華しても笑顔は生きている
西村真悟衆議院議員(文責)
昨日から、私のホームページの表紙に、飛行服を着た十四名の若者が大らかに明るく笑っている写真を掲載した。
陸軍特攻誠第百十九飛行隊出撃直前の写真だ。
諸兄姉、どうか、クリックして写真を拡大し、彼らの笑顔を見ていただきたい。
彼らは、少年航空兵出身の十八歳から十九歳の十人と学徒出陣の四名で、この写真に笑顔を残してから一時間半後の、
昭和二十年四月二十二日午前十時ころ、台湾北部の桃園飛行場から沖縄本島方面に特攻出撃していった。
彼らは五百キロ爆弾を搭載して沖縄本島周辺の敵艦に突入し、敵巡洋艦と貨物船各一隻を撃沈した。
本年八月、東京で畏友の古賀俊昭東京都議会議員と久しぶりに懇談していた際、古賀俊昭さんが手帳から取り出し、
「この笑顔を見てほしい」と差し出したのがこの写真だ。
写真を手に取って、深い感動を受けた。
丁度行われていた甲子園の高校野球の球児たちよりも充実した底抜けに大らかな笑顔だ。
笑顔は生きている。英霊が甦っている。涙があふれてきた。
その後、古賀俊昭さんは、この写真と写真を紹介した平成十七年一月十五日の産経新聞のコピーを堺の事務所に送ってくれた。
以後、この写真をいつも持っている。
八月二十一日からの台湾行にも持参し、関西空港から彼ら十四名が六十七年前に特攻出撃していった台湾の桃園空港に降り立った。
この写真は、台湾から日本に帰還した陸軍整備隊長の関忠博さんが撮影し靴底に隠して検査をすり抜けて持ち帰った。そして、六十年後、産経新聞に
「戦後六十年間、私は、彼らに生かしてもらってここまで元気でやってこられたという思いでいっぱいです。
せめて隊員の家族や親族にこの写真を渡したいと考え、行方を捜しています。無職関忠博(八十四歳)」と投稿され、平成十七年一月十五日の産経新聞に掲載された。
記事によると、関さんは航空機の整備隊長としての指導のかたわら、出撃する隊員たちと日々語り合ったという。
関さんは、彼らには不思議なほど悲壮感はなく、全員が実に冷静に死について考えていた、出撃までは軍規の拘束を受けない自由が与えられたが、隊員たちは、あまり外出せず、家族や故郷のある日本を守るためには、
「いまここで死ぬのが自分にとって最高の生き方」
と語っていたという。
そして、関さんは、出撃の四月二十二日の朝八時半ころ、桃園飛行場の滑走路近くで隊員たちがそろったときにこの写真を撮影した。
死を前にしても、全員が満面の笑みをたたえていたのが印象的だったと関さんはいう。
終戦後、関さんは収容所生活を経て、昭和二十一年三月に復員するが、復員船の出る基隆港では写真や光学機械や時計を持ち帰ることが禁じられた。しかし、関さんは、「この写真だけは何としても残したい」と思い、靴の底に隠して検査をすり抜けて日本に持ち帰った。
昭和二十年四月二十二日、朝八時半、十四名の若者は、祖国を守るために「今ここで死ぬのが自分にとって最高の生き方」と得心し、何の影もない充実した満面の笑顔を残して数時間後に肉弾となって散華していった。
この写真を映した関さんは、この笑顔を何としても日本へ持ち帰ると工夫し、持ち帰ってくれた。
そして、彼ら十四名は、この八月、私に笑顔を見せてくれたのだ。
我が国を取り巻く内外の情勢は、まことに厳しい。
内は「劣化、自己喪失、日本が日本でなくなる」危機が増大し、
外は日清日露戦役前夜の如き軍事攻勢を受けつつある。
この時に、彼ら十四名は、「君らしっかりせよ」と甦り、笑顔で我らを励ましてくれている。
よって、魂を励まされた私は、
「国のため今死ぬのが最高の生き方」と確信した魂の不滅と連続性を信じ、
十四名の隊員と、日本にこの写真を持ち帰ってくれた関忠博さんに深謝して、
彼ら十四名の特攻隊員の笑顔の魂に励まされることがすなわち
「日本の再興」と「日本人としての人生の充実」に至る道である
と確信し、ここに彼らをご紹介する。
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?機中でGさんとずっと話をしていたので
あっという間に関空に戻って来た
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■機中での会話
蒋介石・蒋経国・李登輝・陳水扁・馬英九・・・に対しての台湾人の思い等々、興味深い話を聞く事が出来た。蒋介石“蒋公”に興味があったので何度もGさんに台湾人が思う“蒋公”の人物像を聞いた。Gさんは軍隊に徴兵期間中、“蒋公”が部隊を訪れ実際に間近で見ている。Gさんは「若い頃“蒋公”のことは嫌いだったが、今となっては蒋公のような人間が総統として君臨していたのが良かったのかもと思う・・・」と胸中複雑のようだった。
その理由は何でなのか?聞かずにいたのが悔やまれるが、やはり台湾で戒厳令を敷き数多くの人間を粛清し、言論の自由もなく誰もが思う独裁者としての嫌な面が多くあったのだろう。しかし共産主義国家に飲み込まれることを防いだ。そして蒋公の部隊訪問の時は、暗殺を危惧し兵士一人一人が持つ銃の筒口から目視の検査で実包が装填されていないか調べられたそうだ。 -
1000元紙幣
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■機中での話し
しかし台湾紙幣は、千元紙幣が子供が地球儀を見ている図。五百元が少年野球チーム。百元は孫文の肖像だったけど、この千元と五百元紙幣にはびっくりした。Gさん曰く「台湾人には偉人という人物はいないのですよ・・・」という言葉を聞いた直後は少なからず驚いたが、今ではなるほどそうなのかという思いもしている。
台湾での偉人といえば、私の認識だが「鄭成功」くらいしかいないのではないのかと思う。でも母親は日本人であり、そうもいかないのだろう。そして客観的に見れば何といっても台湾を見違える島にしたのは日本統治時代であり、真に称えるべき業績となると台湾人を選ぶのは難しい。
外省人である“蒋公”や蒋経国等々外省人は台湾人すべてに決して受けいれられる人物ではないし。李登輝はまだ存命であり、本省人だから国民党が政権を握っている間は、歴史上の人物になっても台湾紙幣に登場するのは難しい。Gさんによれば、李登輝は大人物だが陳水扁は総統の器ではなく県知事くらいの人物だとのこと。今は収監中だが、台湾人の多くは国民党政権の仕打ちに怒っているようだ。かくいうGさんも祖父の代は福建省で外省人になるようだが、今では日本国籍となり「金美齢」さんのような思想を感じた。
そしてGさんは「台湾人に国はないのですよ。台湾と言う国は世界で承認されていないし、日本とも正式国交はないでしょ。世界の多くの国ともそうです」たしかに「台湾」という国名の国はなく、世界は中国の一地域としか見ていない。「でも日本とも正式国交がないから逆に何でも出来るのです。もし正式な国交があれば、いろんな交渉も表立ってしまいますから」・・・なるほど日本人にとってこんな立場というのはそう簡単に分らない。
この旅を機に台湾の立場を知ったが、なるほど複雑だ。
台湾
『1945年10月15日に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が発した一般命令第1号に基いて中華民国軍が進駐し、同年10月25日以後は中華民国政府が実効支配している。』
上記の命令によって昭和20年10月24日に「陳儀」が松山空港に乗り込んだ。日本列島にマッカーサーを司令官として米軍が上陸したように占領軍として国民党軍が台湾に入り、台湾に居座ったまま今に続くのが台湾だ。
日本は敗戦で台湾本島及び澎湖諸島を連合国に対して放棄しただけで、連合国が帰属を確定しなかったので帰属はいまだ未定というこになる。
「台湾問題」
「日本と正式国交がないから何でも出来る」というのが一番納得出来た。世界で国家と認知されないがゆえに正式国交を結べない台湾。それを逆手にとり、今後も大陸支那を出し抜いて豊かにそして強くあり続けてもらいたい。もちろん日本と台湾との友好関係は固く保ちながら・・・。 -
500元紙幣
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■機中での話し
Gさんはこうも言っていた「日本は今は段々共産主義・社会主義化していますよ。私は年金を納めて来ましたが、今も受給は出来ません。収入が多いから。でも今の日本は年金を払い続けた人より、払わなかった生活保護者が手取り収入も上回っています。」と、Gさんが言う通りこんな馬鹿げた国に日本はなっている。
収入が多いと言っても年金支給限度のギリギリのようで、医者と言う金持ちにはとても思えない。だから格安航空を利用して台湾への里帰りをしている。僻地医療は医者不足で高齢のGさんも辞めさせてもらえないようだ。
今の日本は弱者を権利と履き違え恥を忘れ、生活保護所帯の子供はまた生活保護に頼る。そんな負の連鎖を生んでいる。また子供手当てなどという発想は「子供は国が育てる。社会が育てる」に繋がり共産主義社会そのものの思想だ。子供は親の力で育ててこそ親はまともな大人になり、子供はまともに育ち、親を親として認め敬意を払う。
「閩南語(びんなんご)こそ中国古来の言葉で三国志時代の言葉は閩南語でした。今の漢語は三国時代の後の“晋の言葉”で外来語です」「毛沢東が将来極悪人の評価になった時が中国がまともになった時だと思います」「毛沢東は漢字を破壊して簡体字を作った。それが文化の破壊にも繋がっています。全ての漢字には大切な意味があります」「蒋介石には文学の素養があった。毛沢東にも少しあったが・・・」
「高砂族は優秀な民族です。少数ですが台湾で一番かも知れない。真面目で性格的にも素晴らしい」「閩南語(びんなんご)は李登輝から小学校で教えるようになったが、馬英九になってから教えなくなった」等々いろんなことを教えてもらった。Gさんのおかげであっというまに関空に到着した。この二時間あまりが台湾での一番の勉強になった。
定刻「16:15 関空(着)」より15分ほど早い午後4時に無事着いた。 -
台北桃園空港を午後0時58分に離陸して
大阪関空着陸は午後3時52分、時差1時間
正味2時間足らずの飛行・・・か。早かったなあ
正午は午前12時?それとも、午後12時?
国立天文台解答
http://www.nao.ac.jp/faq/a0401.html
「午後0時」か「午前12時」
「昼は午後0時」「夜は午前0時」が分りやすいなあ -
この背中ジャンパーの方が岡山県の僻地で
医師として今も勤務されている台湾生まれのGさん
Gさんありがとうございました。勉強になりました -
2月15日(金)午後6時11分の三ノ宮駅
ここに神戸の日常あり、明日は土曜日
みんな仕事を終わって家路を急ぐのか
私は今朝は龍山寺、台北から戻って来た
その私もまた明日から日常が始まる
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■我が家へ
いつものように荷物を預けていないのであっという間に出口へ、急いで三ノ宮行きのリムジンバス乗り場に向かったが、タッチの差でバスの出発を見送ることになり、しばし空港ロビーで休憩。三ノ宮に到着午後5時50分頃となった。
JRに乗り換えて西明石に着いたのは午後6時12分。我が家到着はその10分後である。今回も無事に帰国を果たす。神様仏様ご先祖様に感謝! -
西明石はJR新快速が停車する、新幹線の駅もある
気候温暖台風被害もなく
住めば都、すでに30年越えた -
この商店街を南に歩いて我が家に向かう
海外旅行にこれから何度行けるのだろう
毎年二回が目標だが、何が起きるのか?
分らないのが人生、だからこそ面白い
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台北・金門島の旅から帰国して思うこと
ハハハ、ホンマ改めて「百聞は一見に如かず」だった。台湾と言うのは身近であり情報も多く、知っているような気がして自分なりの台湾のイメージを勝手に持っていた。39歳の時、初めての海外旅行が台湾・台北であり、その時の四泊五日、ずっと臭いに悩まされた記憶が強烈で、台湾=その臭いでもあった。
しかしその後、1989年からの長男の上海留学を機に中国語教室に通い、上海に長男を訪ねることから始まって今まで18回の大陸支那への旅を続けてきた。そして今回去年の「張家口への旅」の続きとして根本博中将の足跡を追って台湾が今も実効支配する金門島へ行った。
24年ぶりの台湾、臭いの不安を抱いての出発だったが、飛行機を降りても感じず。その後、その「五香粉(ウーシャンフェン)」だと思う臭いを意識していたが帰国まで一度も遭遇ならず。どこかにまだまだ普通にあると思うが、今回は夜店に行ったり露店で食べることもなかったので出会わなかったのだろう。
そして18回の中国旅行を経験しているからこそ、台湾と中国の違いに驚くことばかりだった。台北の人の行動様式は日本人に近い。近年ますます反日度合いが高まり、それだけで気分的に憂鬱な中国旅行と比べて、終始一貫して気分が良かった。あくまでも比較だが「静かだし、清潔感があるし、物腰が柔らかい」それに対して中国は「やかましい、汚い、何か気を抜けない」
私の疑問と興味は、一体この違いはどういうことなのか?日本統治の50年間が、この違いを作ったのか?それとも共産主義がこの違いを作ったのか?島と大陸の違いなのか?同じ言葉と漢字を使い漢民族が台湾の98%を占めるとも言われている。でもこの違いは民族も違うのではないかと思うくらいだ。そして、そんな学説「台湾人は漢民族ではない」もある。
日本の統治も非共産主義社会も、島と大陸の違いも、それら全てが複合して今の台湾がある。日本の敗戦で「犬が去って豚が来た」と来たという本省人にとって笑えない事実があるが、豚だった外省人も今ではすっかり大陸支那人とは違った台湾人になっている気がする。
去年からの尖閣問題に端を発した日中の緊張から、中国人の日本観光は減り、その分台湾への中国人観光客が増えているらしい。「豚が来た」の再現で今まざまざと、品のない連中の態度に接している台湾人は外省人といえども中国との統一など有り得ないだろう。そんな気がしてならない。
そしてそんな台湾と日本は、これからも連携を深め「対中国」という点において互いに絆を強めて歩みたい。幸い今はまだ日本を好意的に思っていてくれるのを感じる。テレビで日本と言う言葉が、反日ではないことで耳にすることが多かった。台湾に行ったら中国に行くのが正直嫌になった。これが私の偽らざる今の気持ちだ。
と言ってもこれからも大陸支那の現状を探りに行くと思うけど。今後は台湾にも行きたい。台湾には日本統治時代の遺跡も全島にあり、台湾発展に寄与した日本人の物語が多くある。そのことを知りたいと思うきっかけにもなった今回の旅だ。
もう一つ、金門島と目の前の厦門の違いを知りたくなった。古寧頭戦役以来、国を別けた両島。両島の雰囲気の違い、そこに暮らす人たちの違いはあるのか?1949年から今年で64年の歳月が経た。金門島から厦門を見たら、厦門には高層ビルが立ち並んでいた。いつの日か自分の目と耳とでその両島の違いを確かめてみたい。
最後にやっぱり海外に行けば、日本に日本人として生まれたことは幸運であり素直に感謝したくなる。
皇紀2673年/西暦2013/平成24年3月6日(水)記
桃園空港から帰国
台北・金門島を訪ねる(十六)
http://youtu.be/uOYhmhWQ2rc
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この旅行記へのコメント (6)
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- shigechanさん 2015/05/15 22:10:10
- 旅行から戻ってもう10日たちました。
- 無事、帰国し、普通の生活しております(笑)
色々、ハプニングもありましたが、珍道中にはつきもんですので、
楽しんでいますが、「何もなく無事に帰宅できているので笑っていられるんだぞ!
全く中年爆走者達には、まいるわー(笑)」と息子にあきれられています。
旅日記も早くUPしたいと思っている今日この頃です。
ところで、私達も、明石DSさんと同じようなところ回ったのですが、
根本博中将について、全くと言っていいほど、取り上げられていませんね。
日本人に助けてもらったということは、禁句なんでしょう…ね。
実際、根本博中将の功績を知っている日本人でさえ少ないと思います、私も、
主人から聞いて初めて知りましたもの。金門島の人も知っている人は少ないのでは?
私達が泊まった民宿のオーナーの方も知らないようでした。
金門島を訪れる日本人は、年間200人足らずだそうです。
素朴で綺麗で魚介類がおいしく、人も優しく、また行きたいと思いました。
行って良かったです。出会いもありました。旅はいいもんですね。
では、まずはお礼と報告です。ありがとうございました。
- 明石DSさん からの返信 2015/05/15 23:08:30
- RE: 旅行から戻ってもう10日たちました。
お疲れ様でした。
今は遠く離れた南シナ海まで自らの範疇にしようとしている中共政府ですが
金門島は、そんな中国の喉元にに刺さったトゲなのに抜くことも出来ず
金門島が如何に価値ある存在なのか、目の前の厦門を見れば良くわかります
根本中将のことは基本的には、当時を知る余程の関係者以外きっと誰も知らないですね
そんな私も「この命、義に捧ぐ」門田隆将(著)によって初めて知りました
大東亜戦争もそうですが、日本の近代史については知らないことばかりです
どこで何があったのか?これからもボチボチ知りたいと思っています
旅でのいろんな出会いは素晴らしいですね
金門島もまた行きたい場所ですが、やはり初めての所を選んでしまいます
またこれからも是非楽しい旅をお続け下さい
金門島の旅日記アップを楽しみにしています
お便りありがとうございました
-
- shigechanさん 2015/04/19 08:38:51
- はじめまして。5月の連休に金門島に行きます。
- 個人旅行で金門島へ行くので不安なので、参考にできるブログはないか?と、
ネットサーフィンしていて、辿りついて、びっくりしています。「主人と思いが
同じ人がいるんだね〜(笑)〈当たり前の話ですよね。〉」主人が、根本博中将を訪ねたい!と言ったので、計画担当の私が、旅行計画しました。そして、台北で1泊するホテルも同じでした。金門島では違いますが。松山空港から、金門島へ渡るプロペラ機が
不安でしたが、貴方様のブログをよんで、気分が楽になりました。
皇室の在り方、今の社会情勢、自衛隊、特攻隊…、全て、主人が、語っていることと同じて、(失礼とは存じ上げますが、)笑っちゃいました。かくある私も、だいぶ感化されていますが(笑)
5/3~5/6と、短いですが、どんな旅になるか、不安とワクワクです。
私も帰国したら、旅行記をupするつもりです。まあ、私の場合は、レベル低いですがね。主人に、貴方様のブログを見せてあげます。
ためになる旅行記でした。ありがとうございました。
- 明石DSさん からの返信 2015/04/19 21:44:52
- RE: はじめまして。5月の連休に金門島に行きます。
- はじめまして、お便りありがとうございます。
金門島旅行記を参考にして頂き、投票までしてもらってありがとうございます。
5月の連休にご主人と個人旅行で金門島へ行かれるそうですね。
私も二泊三日の短い滞在で表面しか見れていませんが、良い思い出しか有りません。
松山空港もターミナルに入れば、航空会社のブースが並んでいて
これなら「その日に来ても金門島には行けるな」という分り易さでした。
ご主人と思想信条が似ているとのことで私も嬉しいです。
目の前に厦門が見えるのが不思議でした。
大陸にへばりつくようにある金門島を頼もしく思います。
中共政府にとっては如何に喉に刺さったトゲであるかを実感します。
根本中将の活躍には頭が下がります。
是非楽しい旅をしてきて下さい!
帰国後の旅行記楽しみにしています。
ご主人にも宜しくお伝え下さい。
一路平安!
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- tanupamさん 2013/04/04 22:35:17
- 素晴らしき大作
- 明石DSさん
こんばんは
いつもながらの大作を興味深く読ませていただきました。
なるほど、いろいろな背景を知って旅をすればまた違ったモノの見方ができるのではないか、と自分のいい加減さに嫌気が差しているところです。
食べ物や買い物など、レジャー的な旅行もよいですけれど、歴史を知って旅することも、ものすごく有意義だと思います。
台湾の紙幣、今マジマジ見ると確かにそうですね。
気にもしませんでしたけれど、それなりに意味があるのだとは・・。
明石DSさんの旅行記を読んでいると、ホント自分が情けなくなってしまいます。単に、風景を見て「きれいだ・・」で終わってしまうのと、その土地の由来など知って訪問するのでは、心に残る風景もまた違ってくるでしょう。
金門はアモイから、遠く眺めましたけれど、やはり歴史的な土地なのか、と改めて勉強になりました。
最後に、14人の底抜けの笑顔。将来ある若者は何を思って出撃していったのか・・・平和ボケの日本で、また一つ思いを巡らせています。
tanupam
- 明石DSさん からの返信 2013/04/05 07:44:35
- RE: 素晴らしき大作
- tanupamさん
おはようございます。
お便りありがとうございます。
旅行記というより長いだけの記録で、もうちょっと簡潔にとおもうのですが
いつも作りながら自分で疲れて「何やってんのか?」ですが、同じことを繰り返しています
今回は帰国後に調べたことが多く、その時はただ行って見て写真を写していたという感じです
金門島も今まで何も知らなかったです。
何で?っていう不思議な島でした。
同時に厦門に行かなかったのが悔やまれます
明石DS
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