2012/09/18 - 2012/09/27
22位(同エリア36件中)
明石DSさん
?張家口「東升大酒店」
6階の自分の部屋
609号室の窓からの景色
西方向
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4日目:9月21日(金):曇り時々雨
丸一陣地・張北へ
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2012/平成24年9月21日(金)
■張家口の朝
張家口での一夜が明けた。今日はいよいよ旅のメーンでもある丸一陣地・張北への戦跡へ行く。もともと日本にいる時から天気予報では今日明日は雨との予報だった。朝起きてすぐに外を見れば今にも雨が降りそうな空模様だが、大雨にならないことを祈るしかない。
ここは朝食付きなので午前7時開に早速14階の展望レストランに行った。入った瞬間に、この東升大酒店を宿にして良かったと思った。360度の展望が開け旅行者には最高だ。一昔前まで回転していたようだが今は固定されている。でもこっちが中を一周すればいいだけの話で、この展望レストランでの朝食は価値が有った。
自分の部屋からの眺望の良し悪しなどどうでも良かった。眼下に清河が滔々と水を湛えて流れ?いや流れていなくて溜まっている。大原橋(たいげんきょう:解放橋)も目の前に見える。この日は靄がかかり遠くは定かに見えなかったが、周囲を山に囲まれた盆地だと言うことが良く分かる。
張家口は「北京の北門」とも呼ばれ昔から北京を守るも攻めるもこの張家口が要衝の地であった。今もその姿を多くは見なかったが、人民解放軍部隊が駐屯し軍関係の施設も多数あるとのことだ。
今から67年前の昭和20年には、この地に駐蒙軍司令部があり根本博中将が司令官として赴任していた。そして終戦の8月15日以後、この地を中心に蒙古聨合自治政府に居住する在留邦人、そして独立混成旅団兵士等々の日本帰国までのドラマが始まった。その物語の中心となったのが張家口北27キロにあった丸一陣地である。そこに行くために私はこの張家口に来た。
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14階展望レストランからの眺望
西南西方向
清水河(せいすいが)or清河(せいが)が張家口の中央を南北に流れる -
1945/昭和20年頃の張家口の地図
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南方向
張家口南駅方向 -
東方向
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北西方向
西太平山方向
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張家口「東升大酒店14F」からの展望
http://youtu.be/A4L83zAcDSk -
一階ロビーで待っていたら
8時半の約束より少し早く来てくれた
今日・明日の二日間案内してもらうことになった
まったくの初対面だが、Yさんの紹介で
お世話になることになった
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■ガイドをしてくれる「ZJ君」との出会い
ホテルロビー8時半待ち合わせなので、15分前くらいにロビーの椅子に座っていた。8時半より少し早い目に、それらしき青年がジーンズ・半そでシャツ姿で私の前に現れ、お互いまず顔を見つめあった。そして互いに頷き分かり合ったが、その青年が確認するかのように私に「Aさんですか?」と声を掛けてきた。
彼の名前は「Z・J」32歳。すでに二人の子供の父親である。ZJ君が初対面の私を張家口でガイドしてくれることになったのは、次のような事情による。私が今年2月マニラのマバラカットの戦跡を訪ねたあと、次はどこに行こうと考えていた時、兄から根本博中将のことを聞き「この命、義に捧ぐ」門田隆将(著)と言う本を教えられた。早速本を購入し、「こんなことがあったのか?」と、いつものことながらその話に感動し今回の旅行先が決まった。
そこで、丸一陣地の情報をネットで探している時、奈良のMさんの手記に出会う。Mさんは昭和14年、小学校2年生の時から張家口で建設業を営む父の元に来て、この地で暮らしはじめ、終戦時は中学校2生「学徒挺身隊」として「響5331部隊」に入隊していた。丸一陣地の場所がまったく不明だったので、何とかその場所が分らないものかと手記を掲載していた高校の同窓会にMさんの連絡先を教えてもらい奈良のMさん宅に話を聞きに行った。
Mさん手記
内蒙古からの脱出
http://www.geocities.jp/shougen60/shougen-list/m-S7-2.html
故郷紀行
http://www.oyodo-h.ed.jp/alumni/contents/katsudou/katsudou.html
その時、張家口でタクシーの合弁会社をされているYさんを紹介してもらった。Mさんが「知らない運転手を頼むより、Yさんに誰か信頼できる運転手を紹介してもらったら」という提言を受け私はYさんに「タクシーを二日間貸切りたいのですが、宜しければ紹介お願いします」と気楽に頼んだ。
そしたらYさんから張家口のガイドブック・地図等々と一緒に同封された手紙を頂いた。それには「車・運転手兼通訳としてZJに依頼しました」「21、22日、東升大酒店に8時30分頃迎えに参ります」とあり、その他旅行に際しての注意事項やZJ君とYさんの関係、私がZJ君にどう対応すれば良いのかなどが記されていた。
Yさんは岐阜県でタクシーや観光バス、旅行業等々手広く事業をされており、ZJ君は日本留学中にYさんに世話になっているそうだ。そしてYさんのお父さんは張家口と深い縁があり、その縁で息子であるYさんも張家口との縁が出来た。すべては張家口と繋がる縁で私はZJ君と出会うことになった。
ZJ君のお父さんは張家口の有力者であり資産家であり、Yさんの合弁事業とも係わりがあるようだ。ZJ君は日本留学を経て帰国後、事業を立ち上げ失敗を何度か経験したそうだが、今では青年実業家として活躍している。
そのZJ君がベンツの高級車で今日と明日の二日間案内してくれることになった。私もこんなことは初めてのことで旅行前からどうしたら良いのかと緊張した。いつもはリュック一つ担いでの旅だが、今回は張家口までは、ZJ君に渡すお土産を入れるバックを手にぶら下げての旅となった。この二日間の車付きガイドに関しては、「お金は不要だし、受け取らない」とのことであり、お土産も何が良いのか迷ったが私の出来る範囲の心ばかりの物を持参した。
ZJ君は、日本語は流暢でハンサムな好青年、中国は今も男系社会で結婚後も主人の実家に行くことが多いそうだ。ZJ君も北京に居を構え仕事もしているそうだが、毎週のように張家口の実家に戻ってくるとのこと。一緒に来てくれた運転手のZWさんは従兄弟で12歳の娘さんがいる。 -
ワゴンタイプのベンツの後部座席に一人座って膳房堡に向かう
旧道なので道は悪路だが、この道を張家口から丸一陣地往復に使っていた
右手に連なる稜線に長城が見えた
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■まず膳房堡へ行く
車はベンツのワゴンタイプ、室内も広く乗り心地は良い。まず旧道を膳房堡(シャンファンバオ:Shàn fáng bǎo)目指して走る。膳房堡には最初、旅団予備隊の独歩第33大隊を置いていた。しかし丸一陣地の攻防が激しくなった20日朝、司令部が前線で孤立すると展開する各部隊との連絡が出来なくなり指揮不能となる恐れがあるので、この膳房堡に司令部を下げた。
東升大酒店から膳房堡客運站まで、旧道を走って30分ほどで到着した。無論当地にそんな戦いの旧跡はなく、どんな本にもその場所の地図や詳細を記されていはない。ただこの膳房堡のどこかに響兵団司令部を置いていたのだろう。
膳房堡の司令部はこの張北に繋がる道の東側、丸一陣地方向の見通しの良い場所に構えていたのかも知れない。なんて思いながら周囲を見渡した。田舎の風景と遠望に山並みがあり、ビルもなく新しい村落も見当たらず67年前と景色は大差ないと思う。そしてこの辺りのどこかに8月20日朝、響兵団司令部を置いたのだろう。しばし佇み、丸一陣地に向けて出発した。 -
張家口から膳房堡へ
張家口から丸一陣地は27キロ
丸一陣地から張北は16キロ -
膳房堡客運站そばの村
昭和20年8月20日
この周囲のどこかに響兵団の旅団司令部を下げた -
67年前響兵団兵士たちは
どんな気持ちで8月15日以降の日々を過ごしていたのか?
戦後生まれの私が想像するしかできない戦争とは、
一体どんなものなのか?
確かに戦争を知らずに生涯を送れることが
「幸せ」なのかもしれない・・・が
支那朝鮮ロシアに舐められ
米国の属国で生涯を終えるのが
「幸せ」とは私にはとても思えない
いくら戦前育ちの人たちに贅沢と言われようが
胸を張って日本人として意気揚々を感じることはない
人間はパンのみにて生きるにあらず
誇りを持てない人生に何の価値あろう
「贅沢」は、あんたに言われなくても分っている -
この道の先に日の丸峠あり
その先に丸一陣地がある
またも負けたか八連隊、そう揶揄された兵士たちが
終戦後も身を呈して同胞を救わんがために戦った -
「昭和20年8月20に:日本人を守る最後の戦い」稲垣武(著)より
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■丸一陣地に向かう
響兵団は街道を挟んで右(東)に第四大隊:左(西)に第二大隊。左7キロの春懇に第5大隊。約5キロ後方の膳房堡に旅団司令部・第三大隊本部を置いた。そして響兵団の応援として独混第八旅団(春兵団)から第33大隊を丸一陣地、右四キロの二道辺に布陣した。
この丸一陣地を中心に配備した日本軍の総勢は約2500名。その数で張家口に集合した約4万の邦人避難の時間を稼ぐために侵攻してきた4万2千とも言われるソ蒙軍を21日まで食い止めたのである。 -
「昭和20年8月20に:日本人を守る最後の戦い」稲垣武(著)
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■丸一陣地の戦いは、長く世に知られなかった
その丸一陣地の戦いは、長く世に知られなかった。張家口から避難した当事者であり日本に無事帰国を果たした在留邦人でさえ「日本軍は邦人を見捨てて逃げた」と戦後ずっと思っていた者が多かった。この戦いが世に知れた最初は、戦後32年が過ぎた昭和52年、辻田元参謀が備忘録として書き留めた「殿軍:しんがり」を雑誌「偕行」が紹介したことによる。
その3年後の昭和55年、稲垣武氏が週間朝日8月15日号より三回に渡って、この戦いの顛末を連載し、それを単行本「昭和20年8月20:日本人を守る最後の戦い」として出版。そんな経緯を経て張家口から避難した邦人の多くがことの顛末を知るところとなる。
そして2010年、平成22年、根本博中将の戦後台湾「金門島」での活躍を主テーマにした「この命、義に捧ぐ」門田隆将(著)が出版され、今一度脚光を浴びることになり、私もこの本との出会いがきっかけで丸一陣地に来ることになった。しかしこれらの事実を知る日本人はまだまだ少数だと思う。
当時「蒙古聨合自治政府」という蒙古族の徳王(デムチュクドンロブ)を主席とした満洲に似た日本主導の自治政府があったことを知っている者は少ないと思う。その首都が張家口だった。
張家口から北27キロに丸一陣地はあった。
昭和20年8月9日ソ連侵攻後の「駐蒙軍」と「関東軍」は、それぞれの司令官が相反する命令を下した。そしてその結果は明暗をはっきり別けた。しかしながら駐蒙軍の戦いの日数・規模は小さく、現在当地には戦いの旧跡として丸一陣地跡に作られたソ蒙烈士陵園が存在するが、その他、戦車壕などの戦跡は放置されたままで、私がそれらを確定することは当然出来ず。「これがそうだろう」と思われる物は残っていたが、残念ながらそれ以上でもそれ以下でもない。
資料・本等にも、その場所が特定できる詳細な地図はなく、陣地跡として現地に何ら明確な表記なく、この一帯は草生すままに67年の歳月を刻んでいた。戦後この陣地跡を訪ねた響兵団元兵士の方が、写真等で丸一陣地や戦車壕の写真を紹介してくれれば、これに勝る証明はないが、幾らネットを検索しても何ら特定できる情報は今のところ出てこない。 -
駐蒙軍司令官「根本博中将」は
天皇陛下の詔勅に逆らい武装解除を断固拒否
ソ蒙軍の侵攻を阻み、在留邦人を避難させた
関東軍司令官「山田乙三大将」は
軍人として天皇陛下の命は絶対であると
ソ連軍の武装解除を受け入れた
二人の司令官の決断がそれぞれの命運を別けた
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■根本博中将と渡辺渡旅団長、転出する
その響兵団と駐蒙軍に終戦翌日の8月16日思いがけないことが起きていた。陸軍省は8月15日に阿南 惟幾(あなみ これちか)陸軍大臣が敗戦の責任をとり介錯を拒み自刃(割腹:午前5時半→午前7時10分絶命:享年58)した。その後任に北支那方面軍司令官の下村定大将が選任され、それに伴い現地の事情を考慮せず根本博中将が現職を兼ねて北支那方面軍司令官となる。
■根本博中将・渡辺渡旅団長が張家口をいつ離れたのか?
そして他にも現地指揮官移動があり独立混成旅団旅団長「響兵団」:渡辺渡少将は、根本中将と同じく8月16日北支那方面軍の参謀副長に転出が決まった。実際に両名が張家口を離れたのは定かでないが、8月17日、蘇州から張家口に着任した「泉祐順:派遣参謀」氏の手記によれば、8月18日張家口において参謀や主要幹部を集め下命したことが以下のように記されている。
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「張家口最後の決断」
平成19年6月13日 泉祐順 91歳翁
http://blogs.yahoo.co.jp/izumiyujyun/14272821.html
此が確か18日かと記憶しておりますが,さてそうなると,迫り来る蘇連軍に如何対応するかが当面の急務となりました。
其の時,時の軍司令官根本中将は,確か板敷きの広い部屋に,我々参謀及び居合わせた主要幹部を集め,折りからの猛暑の中,下着姿の儘板敷きに,長々と体を横たえて寝そべり,東京が何と言おうと,此の3万の居留民が引き揚げるまでは戦う。其の責任は私一身に在る。
もし責任を問はれ,戦犯となったら,魚釣りの出来る所へ収容するよう頼むよ。と淡々と平生と変わりない自若たる姿で下命されました。
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上記、泉祐順氏の記憶が正しければ、8月18日は、根本中将はまだ張家口にいた。旅団長:渡辺少将も8月17日、丸一陣地で後任の永松實一大佐と引継ぎを行い、部下将兵を集め痛恨の惜別の辞を送っている。二人が張家口を離れたのは、18日夕か19日なのだろう。永松大佐は昭和18年に退官し現役を離れていたが急遽、旅団長に抜擢された。
渡辺少将と引継ぎのために来ていた永松大佐は、辻田参謀に「突然の任命で困ったことになったなあ。万事、君に任せるから宜しく頼むよ。最後の責任は自分がとる」と言い、それに対して辻田参謀は「永松大佐にだけは迷惑を掛けたくない。終戦後の戦闘について責任を問われれば、一身に背負って自決しよう」と決めていた。
14歳の年の差がある二人(昭和20年/49歳・35歳)だったが、刀剣鑑賞という共通の趣味で以前より気心も通じており、響兵団の結束に最後まで揺らぎはなかった。
膳房堡から車で10分ほどで峠に差し掛かる。後から分ったがこの峠が「日の丸峠(野狐峠)」だった -
日の丸峠(野狐峠)
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■丸一陣地跡に作られた「ソ蒙烈士陵園」へ
峠を登りきってすぐに丸一陣地跡に建立されたソ蒙烈士陵園が左手に見える。陵園の扉が閉まっていたが、すぐ中に管理棟がありZJ君が呼びかけたら“オバチャン”が出てきて「扉の鍵は掛かっていないので勝手に開けて入れ」とのことで大きな正門の左にある小さな扉を開けて入った。
この陵園はグーグルアースでもはっきり確認できるし、それで見ても広大だ。烈士塔まで上り勾配で一直線。二人を残して一人上を目指して黙々と歩いた。陵園内に何か丸一陣地跡を確認できるような掲示はないのか?と期待したが何もなかった。中国のWeb頁でのこの陵園の紹介は、どれも張北から南15キロとあり、ソ連軍54名、蒙古軍6名、計60名の戦死者と書いている。
日本の資料では丸一陣地は張北から南16キロとあり、張北街道(207国道)沿いに建立されたこの陵園付近が丸一陣地跡であることは間違いないと思う。張北から進攻するソ蒙軍機械化部隊を迎え撃つには、高台で街道を眼下に見渡せ絶好の場所だ。そして陵園は石垣に周囲を囲まれているが、その北側の崩れている石垣を乗り越えて外側に出たら、戦車壕らしきものがあった。
当時の戦車壕は「幅6メートル・深さ4メートル」とあるが、ちょうどそれくらいの壕が東西方向に続いている。石垣になっている部分もあるが、そうでない土の溝だけの部分の方が長い。そしてこの戦車壕らしきものは帰国後分ったが、Mさんの写真の戦車壕と張北街道を挟んで繋がっているし、形状もそっくりなので私に確定は出来ないが、私自身はそうであろうと思っている。グーグルアースでも確認できる。
烈士陵園の見学と言うとより、「この辺りが丸一陣地だったのだろう」という気持ちで戦車壕らしき跡に佇み周囲の景色を眺めていた。草や畑に覆われた緩やかな丘陵が街道を底辺にして東西に広がっている。
ぶらぶらしていると雨が降り出して来た。広大な敷地のなかに最初は私たちだけだったけど、気がつけば雨の中、10名ほどの中国人団体ツアーがガイドに先導されて来ていた。そして烈士塔の前に並び、ガイドの号令で揃って頭を下げて慰霊をしていた。
こんな光景は初めて目にしたが、今の中国人もソ連軍を解放軍と思っているのだろうか?そして尖閣問題で反日が盛り上がっているが、領土問題ではロシアと支那は昔から敵対と言うより、支那の領土はロシアに蹂躙されっぱなしではないのか・・・。軍事力も気概もない弱い日本にはやりたい放題で、強国ロシアにはおいそれと文句も言えない。
それは支那人の残虐非道を上回るロシアであり、やることに容赦はない。ただそれだけのことだ。傘を持たずにうろついていたが雨が少しきつくなってデジカメも濡れるし、二人が待つ車に戻った。
ソ蒙聯軍烈士紀念塔 百度百科
http://baike.baidu.com/view/585917.htm -
加藤淳中尉
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丸一陣地の戦い
年月日:1945年:昭和20年8月19日 -8月21日
「昭和20年8月20日 日本人を守る最後の戦い」:稲垣 武(著)より
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要約抜粋
昭和20年8月19日未明よりソ蒙軍との戦いは始まった
この丸一陣地でのソ蒙軍との戦いは終戦後の8月19日未明、張北方向から街道を一列縦隊で敵装甲車群が近づき、戦車壕に架けていた木橋を日本軍が爆破した時から始まった。日本軍陣地前には「ワレ抗戦セズ」と白旗を掲げていたが、敵の猛射によって死傷者が続出した。春懇も同日敵が現れ攻撃があったが、日本軍の反撃に擱座した装甲車を置き去りにして後退した。
丸一陣地の日本軍は、邦人引揚げの時間を稼ぐのが目的で、当初より陣地前方に白旗を掲げ積極的戦闘は禁止されていた。そんな条件下の守備隊であり、前線守備隊は敵の攻撃によって味方に犠牲者が多数出ても当初は応射しなかった。そして二日間の停戦交渉のために軍使を送ろうとしたが、敵はその軍使を攻撃してきた。そして前線各所でたまりかねた日本軍が反撃を始め壮烈な戦いと成る。
停戦交渉をしながら苦難の戦い
それでも停戦交渉に持ち込もうと辻田少佐は策を練っていたが、20日昼ごろ敵側から白旗を掲げて戦車壕のふちまで装甲車が来た。辻田参謀が正使となり四名の軍使団で交渉に向かったが、ソ連軍大佐は終始激昂し即時の武装解除を要求するだけだった。その返答は2時間後ということでひとまず時間稼ぎが出来た。そして約束の時間にまた同じメンバーで交渉に行ったが、22日朝までの武装解除延期を敵は受けれず交渉は決裂した。
陣地西に布陣する二木隊の戦い
そうした間、19日〜20日にかけても日本軍陣地を突破しようとするソ蒙軍と、戦車壕を挟んでの攻防、或いは戦車壕内で熾烈な白兵戦を戦いながら敵の進撃を食い止めていた。陣地西に布陣した二木隊では渡辺忠治准尉の指揮する重火器小隊のもとに、小隊護衛として派遣されてきたのは准尉の弟、渡辺健治兵長率いる擲弾筒分隊だった。19日昼過ぎ壕の中で煙草を吸いながら「二人ともこれが最後かも知れんなあ。どちらかが生き残ったら親に、兄弟一緒に戦ったと報告しよう。家名を恥ずかしめぬよう頑張ろうや」と語り合っていた。
その直後突然敵の猛射が始まった。弟が指揮する分隊が兄の指揮する小隊を守るべく前方で戦っていた。激しい攻防の中、いつしか弟の姿を見失っていたが「二木隊陣地まで後退せよ」との命を受けて後退を始めた時、弟のことが気になり、弟の擲弾筒分隊の陣地を見れば、弟がいつも付けていたマスコット人形を付けた戦死者の遺体が夕闇の中に浮かんで見えた。
急いで駆け寄り抱き起こして見ると、まぎれもなくさっきまで語り合っていた弟の健治だった。何か形見をと思ったが、「自分は小隊長だ。弟だけを特別扱いするわけにはいかない」と思い返し、何一つ持ち帰らなかった。帰国した時母に渡しのは白木の位牌だけである。二木隊陣地では、19日夜敵の侵入によってすさまじい混戦になった。猛攻撃に生き残った中隊は、二木隊長以下全員が突撃を繰り返し、翌20日午前10時頃までにやっと撃退した。一人の兵士加藤勇軍曹と思われるが、対戦車壕を乗り越えて突撃し、そのまま帰って来なかった。今も不明扱いである。
大隊本部の中西軍曹は、戦い終わって後、二木隊陣地に降りて見た。戦死者の遺体が折り重なり胸痛む思いだった。二木隊の戦死者は確認されただけでも16名。丸一陣地各中隊の中で最多の犠牲者を出した。中隊は当時70名そこそこであり、負傷者を加えたら三分の一を越す損害を受けたことになる。この傷だらけの中隊はそれでも21日夜半の撤退までこの陣地を守り通したのである。
張北から後退した増田中隊の戦い
張北で15日、丸一陣地に先駆けてソ蒙軍と激しい戦いをした後ここに後退してきた増田中隊も20日夜陣地西に進攻してきた約二百人の敵に突撃をかけ、増田中尉は壕の中で軍刀で敵を切り伏せ、敵味方入り乱れての白兵戦と成る。増田中尉は八人目の敵、小隊長らしきのを切り伏せた途端、その背後にいた中隊長らしいの者の叫びを機に敵は退却した。増田中尉もこの白兵戦で軍刀がひん曲がって鞘に入らないようになっていたが、自身も体中に傷を負い重傷となっていた。増田中隊の橋本准尉も何人斬ったか記憶にないが、軍刀で切りまくったそうだが無傷で生還を果たしている。
停戦交渉で加藤淳中尉:人質になり戻らず
そして20日午後停戦交渉が決裂したのに、その後なぜか?ソ連軍は砲撃すらやめて不気味な静寂となった。そして夕暮れ、敵は再度戦車壕の向こう側に軍使を乗せた装甲車が現れた。永松旅団長代理・辻田参謀も「行っても無駄だ、人質に取られるかもしれない」と危ぶんだが、昼に辻田参謀と一緒に交渉に行った中川少佐が「自分一人だけでも行かせて下さい」との強い決意を述べた。
それではと加藤淳中尉・川村重雄軍曹・そして沖森通訳の四人が敵陣に赴いた。しかし案の定敵は、強硬に三時間後の武装解除を要求し時間稼ぎにしかならなかった。その上、加藤中尉・川村軍曹が人質として敵側に残されその後殺害されたようだ。この加藤中尉は、Mさんが中学2年生で響部隊の挺身隊として軍に派遣された時、同級生の偶発的な銃の暴発で銃弾を身体に受けて重傷となり張家口の陸軍病院に入院した。その時、隣のベッドに加藤中尉が入院中で弟のように可愛がってもらった、その人である。 -
丸一陣地跡?に作られた
ソ蒙烈士陵園
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沖森通訳官:単独で交渉へ
三度目の交渉で二人を人質にとられ、そのあと武装解除の刻限が過ぎ、敵陣地から一斉砲撃が始まった。それを見て軍人ではない沖森通訳官は、「足手まといになって死ぬくらいなら、もう一度交渉に行ってやろう」と永松旅団長たちに訴えた。その熱意と覚悟に一人での交渉が認められ、雨の中を敵陣地に出向いたが、二人の消息も分らず、日本軍の現状に対して執拗な尋問をされただけで送り返された。そして沖森氏は戦後船舶輸出の仕事で1962年から1年間モスクワに駐在中、二人の消息を探したが結局何の手がかりも得られなかった。
8月21日朝
そして21日朝となったが、ソ蒙軍は日の丸山方向から進攻してきた。増田中隊も隊長が瀕死の重傷、それに20日の戦闘で死傷者多数なので、陣地の右(東)四キロ離れた二道辺の春兵団から一個中隊(大野富久中尉以下百名)を応援に回した。このあたりは標高が高く(海抜1561メートル)8月21日早朝冷たい雨が沛然と降る中、午前10時半ころ日の丸峠の永松大佐が待つ陣地に到着した。10分間の休息後、昨日敵に奪われた陣地の奪還に向かう。そして戦死者11名を出す激闘のあと陣地を奪還した。
膳房堡吹付近の戦いと停戦交渉
その他、20日膳房堡吹付近でも丸一陣地で侵入を阻止されたソ蒙軍が日の丸山を大きく迂回し、それに対して膳房堡で布陣していた第三大隊が立ち向かった。一兵卒から叩上げた金田大隊長は、第三中隊:宮崎安晴中尉に出発を命じた。20日午後2時頃宮崎中隊が敵陣に近づくと敵の将校らしき者が、兵に白旗を持たせて手招きしていた。
宮崎中隊の補佐役、鈴木准尉と奥野軍曹が軍使の人選で押し問答をしていると、横にいた森口一義兵長が名乗り出て高橋上等兵・長谷川一等兵の計3人で、交渉に向かった。通訳もおらずソ連軍将校は武装解除を要求しているようだが、時間稼ぎの交渉に終わっただけだった。
そして敵陣地攻撃は21日夜明となる。20日夜9時頃から敵の射撃が始まったが応射せずひたすら寒さに震えながら夜明を待ち、21日午前5時きっかりに大隊砲(92式兵砲:口径70ミリ)が火を吹いた。敵の壕に命中して敵兵が銃を握ったまま空中にハネ上がるのが見えた。
各小隊の兵は、匍匐前進しながら突撃の機会を伺っている。突撃の機会を見計らっている時に、第一小隊が突撃を敢行し、続いて中隊全部が突撃ラッパを合図に攻撃開始、敵陣地に突進した時は、敵戦死者が20体もゴロゴロししていた。頭は坊主刈り、軍服はボロボロ、腰の水筒はガラス瓶だったが武器は良かった。そのソ連軍死体の中には、軍使交渉に来た将校の戦死体があった。この敵陣奪取のための日本軍の損害も大きく、戦死2名、負傷十数名となった。
辻田参謀:撤退を決断す
そんな丸一陣地の戦いも21日正午頃、軍司令部から電話があり「邦人引揚げは順調に進んでいる。22日朝まで持久すればその後の行動は自由とする」との内容だった。それを受けて辻田参謀は22日朝夜が明けてからでは、敵と向かい合っていない左右の地区の撤退は別として、戦車壕を隔てて正面で向かい合っている陣地中央の撤退は、明るくなれば敵の追撃があり危険だから深夜闇にまぎれての撤退を決断した。
そしてその正午の電話のあと、午後3時には応援参謀で来ていた泉祐順少佐より張家口の軍司令部が響兵団を残したまま先行撤退する旨の連絡が来た。これによって響兵団は、在留邦人避難の任務を無事に果たし殿軍として如何に敵に悟られず無事に撤退することが出来るかということをに全力を挙げる事になった。
撤退の最初は負傷者の後送である。トラック三両で嫌がる増田中尉を無理やり押し込め後送した。そして辻田少佐の苦悩は、終戦後の戦闘によって責任が永松大佐に及ぶのを恐れ沖森通訳にロシア語で書かせた手紙を司令所に置いて自決を計ろうとした。しかしその雰囲気を事前に察知していた永松大佐の機転によって間一髪のところで堤准尉が短刀を取り上げ自決を止めた。
軽戦車二両:撤退時の一番危険な任務を承諾
その後、軽戦車二両で軍命令を伝えに来た内藤治男大尉に、「君にはなんといっておわびしてよいか分らぬが、長城の切り通しを、拒馬(きょば)となって防いで下さらぬか」と頼んだ。大尉は即座に、撤退時の一番危険な任務を承諾した。
響兵団の撤退
幸いにも21日闇に乗じて撤退を始めた響兵団中央主力は22日午前7時頃張家口に入った。左陣地:春懇にいた第5大隊は距離があり張家口到着は昼前になった。すでに日本軍は誰もいなく置き捨てられたと上松大尉は思った。その後、撤退中に八路軍との遭遇で戦死者を出したが24日に懐来まで戻った時、トラックの迎えが来て夕方には無事に八達嶺を越えた。
春兵団の撤退
二道辺を守備した春兵団は22日未明張家口に戻ったが、八路軍が占領しているのを見て、裏山から夜間行軍で宣化を目指し、道中集落に残されていた在留邦人や駐蒙軍兵士を収容しながら夜間行軍を重ねて26日未明、南口に到着した。
響兵団主力堂々の凱旋
響兵団主力は27日午後3時頃に目の前に万里の長城が見え青龍橋が見えた。隊列は一時停止し、服装を整え隊伍を組みなおした。響兵団の将兵は、出迎えの将星たちの前を「オレたちは敗残兵じゃないぞ」という誇りをもって、疲労をかくし堂々と胸を張って行進した。
響兵団:中川軍参謀長感激す
二十七日、たまたま幕僚を引き連れて、長城の守備状況を視察中に、響兵団の生還に行き会った中川軍参謀長は、その感激を、手記に書き残している。
「暫くの後、後衛(響兵団を指す)、整々たる縦隊を以て帰着す 志気旺盛なるも、長き頭髪と髭とは無言に長期の労苦を示す 小官感極まり落涙あるのみにして、慰謝の辞を述ぶるあたわず」 -
門に入ってから門を写す
扉は閉まっていたが
管理の“オバチャン”に
「鍵は掛かっていない、勝手に入れ」と言われて
勝手に入った -
ソ蒙軍が解放軍とは・・・。
-
戦車壕と思われるが
幅6メートル・深さ4メートル -
この壕が道を隔てて向こう側にも延びていた
-
雨の中、中国人?ご一行と陵園内で出会う
ツアーガイドの号令一下整列し
紀念塔に向かって慰霊をする姿を初めて見た -
野狐峰要塞旅
「2010-01-24」張北の「五つ観光目玉」「全民国防基地」 -
華々しくオープン(上写真)したそうだが、展示の飛行機や戦車同様
早くも二年目にしてすべては廃墟のようだった
ここを維持管理しているのか?若者が数名いたが
とても仕事をしているふうには見えなかった
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■野狐峰要塞旅遊区に行く
「ここが丸一陣地跡なのか?はっきり分らない」という話をしたら運転手のZWさんが、「この近くに要塞跡があるので、そこだろう」ということで車で向かった。私はこっちに来る前に、そんな要塞跡があることは情報としてなく、一体何がそこにあるのか?と行ってみたら、「野狐峰要塞旅遊区」という軍事テーマパーク?だった。
そこには戦闘機や戦車・その他の武器が展示され、地下要塞もあるようだが一体何のためにこんな辺鄙な場所にと思ったが、張家口には今も人民解放軍が部隊を置き軍人も相当数いるようで、元はここが演習場として使われていたのかも知れない。そしてここに来てから旅たち前にここの写真を見たことを思い出した。でも丸一陣地のとの関係はまったく不明。ここを管理しているのか?若者が何人かいた。早々に引揚げる。 -
お札(元)を刷りまくって地方に流す
それで取りあえず何でも作りまくる
予算の七割はそれぞれの懐に入れ
手抜き工事:見掛け倒しの“物”が
完成後には支那全土に残骸をさらす
その後に何が起きるのか?
“つけ”は後世に残せば由
中華文明に何か文句でも -
張北から向かってくる街道を見下ろす丘陵にあった
これが何のための物なのか?分らないが
もしかしたら交通壕?
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■車窓から戦車壕跡の写真を写す
「野狐峰要塞旅遊区」は丸一陣地と似て非なるもので、もう一度Mさんに確認のために電話をかけることにした。しかし私の携帯は使用不能なのでZJ君の携帯でまずYさんに電話をしMさんの電話番号を聞いて、再度Mさんへ電話をした。こんなところから携帯で奈良のMさん宅に普通に電話が出来るのが現代だ。
この時、Mさんは戦車壕は陵園から張家口よりに車で数分と言われたので、探しに行ったがすぐに日の丸峠に出て戦車壕を作るような地形ではなかった。帰国後Mさんが言い間違いであったことが分った。張家口よりではなく張北よりである。
そして陵園北側の東西に続く溝が戦車壕だった。そしてさっき行った場所にも交通壕のようなものが揺るかやなカーブを描いて街道を見下ろ丘陵に残っていた。しかしこれも当時の交通壕だとは分らない。それらしき物があった・・・というだけだ。
丸一陣地跡と別れを告げ、張北に行こうと走り出したらすぐ車窓から戦車壕らしきものが見えたので車の窓ごしに写真を写した。帰国後それが2008年にMさんが写した戦車壕の写真とまったく同じだった。そしてMさんによれば「それは張家口会の初代会長から聞いたもので間違いない」ということなので確かだと思う -
正面にソ蒙聯軍烈士塔が見える
この丘陵に交通壕?のような溝があった
下は張家口⇔張北を結ぶ国道207号線 -
丸一陣地の戦車壕跡
私が今年写した「戦車壕跡」
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張家口:張北:「丸一陣地の戦跡を訪ねる」
http://youtu.be/VoZHKGvqwEE -
2008年、Mさん撮影「戦車壕跡」
同じ場所から同じ物を写している
この写真は烈士陵園近くの高速道路上から
東側を写したものだ
この戦車壕跡は張北街道の東側に延びている
ソ蒙烈士陵園の北側、石垣外の戦車壕跡は
張北街道の西側、今は道路で東西に分断されている -
張北の城壁
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■張北へ行く
丸一陣地から張北まで北に16キロ、20分ちょっとで張北北門に到着した。この張北では丸一陣地に先駆け、昭和20年8月15日、まさに終戦の詔勅が下ったその日にソ蒙軍と戦った。当時張北は今と違って黒っぽい煉瓦色の城壁に囲まれた城塞都市だった。その城内を守備していたのが増田利喬(としたか)中尉以下百名ほどの守備隊である。
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「丸一陣地の戦い」
「昭和20年8月20日 日本人を守る最後の戦い」:稲垣 武(著)
要約抜粋
張北での戦い
8月15日
張北の日本軍守備隊
張家口から北27キロほどの地点に丸一陣地が築かれている。その16キロ北に当時、黒っぽいレンガの城壁で囲まれた小さな都市、張北があった。侵攻して来たソ蒙軍は8月15日霧雨の降る朝、張北城内の日本軍へ攻撃を仕掛けてきた。守備するのは独立第二混成旅団 独立歩兵第二大隊第一中隊 中隊と言っても増田利喬(としたか)中尉以下、当時は定数の半分ほどの百名ほどの守備隊である。
その張北城外に装甲車20、30両のソ蒙軍隊列が現れた。そしてソ蒙軍が装甲車数両で、城壁の外側、西北の丘にある火力発電所に近づき、随伴したトラックから歩兵がバラバラと降り、十数名が横一列になって火力発電所をかこむ鉄条網に近づいて来た。増田中尉は敵を引付け装甲車を生け捕りにするつもりだったが、眼下に近づく敵兵にたまりかねた城壁角の機銃陣地が火蓋を切り、敵歩兵をなぎ倒した。
間髪入れず、敵装甲車群から一斉射撃のお返しが来た。そんな最中、丸一陣地の司令部からは、「すぐに撤退しろ」との電話が何度もあったが、増田中尉は当初から撤退する気は毛頭なく「ここで玉砕してやろう」と思いつめていた。
そんな増田中尉は電話口で「砲撃の音が聞こえるだろう。敵は正面に来ているんだ。そんなに俺を撤退させたかったら、おかしげな穴(丸一陣地W?・n y?・ zh?・nd?・のこと)に入っとらんと旅団長以下、ガン首そろえて出て来い」とガンガン怒鳴りまくり、挙句の果ては「うるさい」とばかり、電話線を引きちぎってしまった。
戦後に生き延びた増田中尉は、当時を振り返り『いや若気のいたりでしたよ、戦後昔の部下に会った時、「こんなムチャな隊長の下にいたらとても生きて帰れないと覚悟を決めました」と言われました。いまから思えば、お恥ずかしい限りです』と述べている。そんな増田中尉に後退を決意させたのは、「日本人の女が二人、城内に残っております」との部下の報告である。
「何にィ 民間人はみんな引揚げたはずだぞ」驚いた増田中尉が部下に案内されて行って見ると、確かに城内の電話局の交換台に、白鉢巻をしめた18歳くらいの少女と、さらに30歳くらいの二人の日本女性がいた。
彼女らは電話交換手で「交換手は非常の際も、最後まで持ち場を離れるな」との教育どおり、踏みとどまって任務についていたのだった。「私たちも、隊長殿といっしょに玉砕します。この交換台も、もう用がなくなったから、焼いてください」という。ガソリンをぶっかけて火をつけた。ゴーッと、燃えさかる交換台を見詰めながら少女は号泣した。
その姿を見ているうちに増田中尉は「俺は玉砕してもいいが、こんな女の人まで道連れにするわけにはいかんなあ」と、やっと撤退へ心が動いた。増田中尉は戦後「あの二人がいなかったら私も部下も間違いなく玉砕していたと思います。」と語っている。中隊は丸一陣地に後退し、その時初めて日本の敗戦を知った。しかし、その後増田中隊は8月20日張北街道でソ連軍と凄まじい白兵戦を戦い中尉は深手を負った。日本軍兵士かく戦えり、彼らの戦いは日本人の永久(とは)の誇りである。 -
車中で私が持参した資料を見ながら目的地に向かう
正面遠くに北門の攬勝楼(ランシェンロウ)が見える -
昭和20年8月15日、霧雨の降る朝
この城壁周辺にソ蒙軍が侵攻し、攻撃を仕掛けてきた
増田中隊は犠牲者を出すことなくソ蒙軍を撤退させた -
攬勝楼城外、北側の村
厳寒の冬期、ここではどんな暮らしがあるのだろうか? -
ソ蒙軍はここから城壁に近づいた
城壁北側より「攬勝楼(ランシェンロウ)」を写す -
根本博中将の命を受け、終戦後も邦人を避難させるべく
丸一陣地を拠点としてソ蒙軍の侵攻を食い止めた
その作戦全般を旅団長に代わりとり仕切った参謀
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■張北の戦い「辻田新太郎元少佐の回想」
67年前、張北城内で守備していた増田中隊100名ほどのソ蒙軍に対しての果敢なる攻撃が、在留邦人避難の時間稼ぎに貢献した。そのことを戦後、丸一陣地での戦闘を振り返って、辻田元少佐は次のように語っている。
「あの戦闘の成功は、地の利、人の和、それに幸運もあった。しかし、戦略的に見ると、張北の前哨陣地での、増田中隊の戦闘が、大きな役割を果していると思う。張北の戦闘でソ蒙軍は、日本軍手強しと見たか、十五日に増田中隊が撤退してからも、容易に前進せず、わずか十六キロ南の丸一陣地に来るまで、三日以上もかかっている。
もし丸一陣地に、ソ蒙軍が、十五、六日ごろ攻めて来たら、とても在留邦人引揚げが終る二十一日夜までは持久できなかった。正直なところ、三日間の戦闘で、わが方は消耗の極に達し、あと一日も、もたなかったと思う」 -
北門より市内を望む
思えば昭和20年8月15日、大東亜戦争の戦域は
一体全体、どんなに広範囲に及んでいたのだろう?
そのことを思うだけで、凄い!の言葉しかない
今の日本人に比すれば先人は途方もなく偉大なり!
決して愚かではない、今とは比較にならず偉大だ
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■張北で昼食
その張北の今は見たところ城壁がないだけに何の変哲もない小さな町だった。この街を北に向かって少し走るだけで、そこには成吉思汗を彷彿させる大草原が広がっているようだが、残念ながらそこまで行かず、街の中心で昼食休憩となった。
入った店は、ZJ君曰く「台湾資本のチェーン店」の小奇麗な店で、私が頼んだチャンポン麺のようなものも美味しかった。食事代もZJ君が払ってくれた。 -
張北城内はどことも変わらぬ風景が広がる
車内からの撮影は、色が着いた窓ガラスゆえこうなる -
張北市内「台湾資本のチェーン店」で昼食す
同じ中華民族なので儲けることも出来るだろう
進出日本企業は結局最後は損して終わることだろう -
車に食事に門票まで・・・。
何の関係もないのに至れり尽くせりしてもらい
心苦しいが私に何の策なくただ任せるしかない -
デカイ・広い・ガラガラ・維持苦
中国経済を支える架空の実態至る所にあり
野狐峰要塞旅遊区と同じく2010年オープン
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■「元中都博物館」へ行く
その後、近くに蒙古族の博物館があるので「行ってみないか?」とZJ君に誘われ、その博物館のことは事前に何も知らなかったが、それならと連れて行ってもらった。そこは「元中都博物館」という名前で張北の察哈爾南大街、南西郊外に建つ巨大な博物館で2010年に開館している。主に元王朝の歴史を展示ている。着いた時は午後1時40分くらいで、午後の休憩時間(12時〜2時まで)ということで入場ならず。
少し待って2時前に入れてくれた。ここの門票は50元と高い。ZJ君が購入してくれた。この巨大な博物館に客は私一人。スタッフの叔父さんが付き添ってくれた。といっても私が中国語はほとんど理解できないので、あえて私に説明をせず、私が聞くことには丁寧に答えてくれた。しかし何を聞いたのかさえ記憶にない。ただ記憶に残るのは3D映像鑑賞による元王朝の歴史映画が眼鏡なしでも素晴らしい立体映像として見ることが出来て感動した。これは一見の価値があった。
博物館の隣には学校の競技場のような運動場があった。このあたりまで今後張北は市街化される予定なのだろう。道路が整備されていた。 -
1271年から1368年、97年間モンゴル民族が支那大陸を支配した
元が97年の寿命なら今の中華人民共和国もそろそろ寿命が尽きても
なんら不思議ではない・・・か、すでに建国67年がたつ -
展示の中で、この映像展示が一番見応えがあった
眼鏡をかけずとも立体映像が見れる
“おっちゃん”が付き添ってスイッチを入れてくれる
私以外に客の姿最後まで見えず -
なかなか見栄えは良い建物だ 色合いと言い、デザインと言い
私の好みにも通じる
10年後あるやなしや?
屋根のある巨大倉庫として使うことなかれ -
張北からの帰路、日の丸峠を下る
春懇を目指したが、行き着けず断念する
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■張家口に戻る
そして次に、丸一陣地中心から西に7キロ、第5大隊が陣を構えた春懇を目指した。しかし地図にその地名はあったがカーナビでは不明、行きつ戻りつ探してくれたが私もそこに何のあてもないので行くのは諦めて張家口に戻った。
張家口のホテルに戻ったのは午後4時半頃、朝の8時半から8時間、Y社長に頼まれたとはいえ、ZJ君は青年実業家として忙しいだろうに北京から来て見も知らずの私のために丸一日付き合ってくれた。運転手のZWさんもしかりである。
Y社長とZJ君の関係、付き合いの深さが私への好意になっている。気を使うが感謝しかない。そして明日も同じ時間に来ると言って二人はホテル前から帰っていった -
何故?車に国旗が・・・。
尖閣騒動で日本車はいつでも破壊の対象となる
反日・抗日・侮日は大いに歓迎する。
私にとって唾棄すべきは仮面の友好だ
願わくば国交断絶こそ日本の至福なり -
五一大街から東升大酒店を写す
左手方向に清河
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■城内へ行く
その後部屋で小休止し、またすぐに出て行った。行き先は明日に備えてというより、そこに城内が今も昔のまま残っているのか?早く確認したくて向かっていった。この時は昨日の夕方張家口に来て、今朝から丸一陣地に向かったので市内の土地勘はまったくない。地図を片手に小雨が残るなか、その方向に歩く。東升大酒店から出て五一大街を大原橋(たいげんきょう 解放橋)に向かう。
清河に架かる解放橋を渡り至善街から武城街を通り城内らしき方向に歩いた。そしてその時は知らなかったが、東門大街を歩き城内に入った。そこはMさんから話に聞き、写真で見せてもらっていた古き支那の雰囲気が、そのままタイムスリップしたかのように残っていた。「まだ城内はそのまま残っていたぞ!」とホント嬉しかった。
というのは旅たち前の9月7日(金)にMさん宅を再訪した時、偶然にも前日張家口から帰国した女性が、Mさんに報告に来た。その女性が「古い町並みはみんな壊されて新しい建物が建ってしまっている。城内はもうない」と言われたので、もしかしたらなくなっているかもと思っていた。
しかし彼女はこの城内に来ていなかっただけで、ここは67年前と比べれば大分違うだろうが、Mさんが四年前に来た時とほとんど変わらぬ姿で残っているようだった。そして早速、Mさんの旧宅である二道巷(アーダオシャン)9号の自宅を探した。
そしてその時は、どこをどう歩いたのか?覚えていないが、二道巷を見つけ9号のMさん旧宅を見つけた。課題を果たせた感動の瞬間であった。今回の戦跡巡りは、戦跡が明らかでなく私の感覚では漠然としたものでしかないので、はっきりしたMさんの旧宅に辿りついたことは今回の旅の目的達成の喜びでもあった。
今は堡子里(バオズリー)と張家口の人は、この城内のことを呼んでいるようだ。Mさん宅も見つけることが出来、すでに午後5時半が過ぎていたので一旦ホテルに戻った。 -
大原橋(たいげんきょう 解放橋)
大原橋(解放橋)を渡って至善街に向かう
渡った交差点に特警の装甲車両が止まっていた
ここでも反日騒動があったようだ -
武城街
至善街を左に曲がって武城街を歩く
今日(21日)明日、明後日
毎日ここを行き来した
この写真では人通りは少ないが
この時以外いつも人通りは多く賑やかだった
昭和20年当時も賑やかだったらしい -
東門大街
武城街を右に曲がって東門大街
張家口城内に入る -
城内の案内板
-
城内地図
-
城内をウロウロ歩き回って
Mさんの旧宅を探す
鼓楼東街を西方向に歩く
鼓楼が城内の中心に位置し
東西南北にメーン道路がある -
道巷9号、Mさんの旧宅住所
今も同じ場所同じ住所で家は朽ちているが残っている
この城内が今も昔の風情を残しており
毎日ここに通った
最初のこの日は迷路のようであったが
その内段々と把握できるようになった -
この二道巷通りを真っ直ぐ西に歩けば
左側に9号のMさん宅がある
四合院作りだが今は朽ち果てている
しかし中国的修復より遥かに趣があり
この城内の散策は昔にタイムスリップさせてくれた -
至善街に建設中の高層ビル、大原橋の交差点から写す
旧から新へ、その勢いは凄まじいが
所詮なにもかもが張りぼてに過ぎず -
東升大酒店
一泊398元、価格はいろいろあるようですが
14階展望レストランからの眺望は抜群 -
東升大酒店の前、勝利北路を南に歩く
真っ直ぐ南に行けば、張家口南站方向
道路右手側「交通酒店」
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■第一国民学校へ行く
そのまま今度はMさんの通っていた小学校、第一国民学校に向かって歩いた。東升大酒店の前を南に歩き、東安大街を東に、そして若干の登り勾配の東安大街の東突き当りの建国路を左折してすぐに第一国民学校があった。
今は張家口市中級法院である。道を隔てて東側が地図では何もない空白となっている人民解放軍の駐屯地になっている。 -
東安大街
勝利大街を左折して東安大街を東へ歩く
突き当りが建国路
歩道は駐車場or荷物置き場
車道を人と車が併用する -
張家口の旧跡
-
Mさんの通学路
-
建国路
左(北方向)に歩けばすぐに第一国民学校
今は市中級人民法院、道路を隔てて人民解放軍 -
「第一国民学校」跡地に立つ「市中級人民法院」
67年前の昭和20年8月まで日本人の子供が
この学校で学んでいた -
キュウリ巻きに餃子と松茸スープ
この取り合わせにも違和感なく
美味かった
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■張家口二日目の夜は日本料理店で食べる
学校跡も見つけたし、空も夕闇が迫り今日の活動は終了と、夕食を考えていたら東安大街に日本料理店があった。迷わずそこに入る。この時勢だから日本寿司料理店は反日のターゲットとして襲われる怖さもあり、客もきっと少ないだろう・・・と。
この張家口でさえ三日前の9月18日は反日暴動があったそうだ。そして今日も解放橋には特警が装甲車をおいて警備していた。案の定私がそこに入って出るまで、来たのは私以外に二人一組の客だけだった。
こんな内陸で標高800メートルの張家口、寿司に使う新鮮な魚が手に入るのか?と、不安だったのでキュウリ巻きと餃子、そして松茸スープを頼んだ。どれも日本の味と変わらず美味しかった。料金は36元(約470円也)
今日は雨が時折降り視界も悪くて残念な面もあったが、ZJ君たちとの交流もあり、今回の旅行の第一目的であった丸一陣地跡・張北に行くことが出来て満足だった。明日ももう一日ZJ君にお世話になり張家口のあちこちを巡る。天気の回復を祈るのみ。
そして今日は携帯使用不能の不安を未だどこかに引きずり、反日の横断幕などなどに接し、テレビを付けたら反日報道ばかり。そんなことが重なってテンションは下がり、なんだか弱気になっている自分を自覚する。
そんな時は言葉数も少なくなり、レベルの低い中国語が更に低いレベルになったかのようだった。何でこんな国に時間と金を費やして来たのか・・・と。ハハハ。 -
昭和20年まで雄々しき時代の日本人がここで暮らしていた
今女々しき時代に生まれ育った日本人ここに来て一人餃子を食う
軍隊のない国なんて宦官に等しい、気合も入らず -
追記
2014/平成26年5月2日(金)
愛知県にお住まいの辻田参謀の甥御さんから掲示板に書き込みがあった
http://4travel.jp/traveler/akashids/bbs
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叔父辻田新太郎に代わりまして、お礼申し上げます
「愛知県:“Iさん”」よりお便りを頂く
2014年05月02日16時27分
叔父辻田新太郎に代わりまして、お礼申し上げます
はじめまして、私は辻田新太郎の甥で“I”と申し上げます。貴方様の張家口旅行記 深い感銘持って読ませていただきました。DS様の旅行記 4カ月前に読んだのですがネットに暗い為お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。
私が貴方様の旅行記を読んだのは、稲垣武史さんの本にて深く感動(amazonレビューにあり) した結果、ネット検索して貴方様の旅行記にたどり着きました。貴方はなんと気高い方なんでしょう、一冊の本に感動されて現地に行ってくださり私共に旅行記紹介された!
叔父また丸一陣地にて戦死、戦闘された方々の最高の供養になりました、本当にありがとうございました、先ずはお礼まで。
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“Iさん”より送って頂いた写真。
本に挿入された似顔絵はこの写真を見て描いたようだ -
昭和18年大東亜戦争真っ只中の叙勲
叙勲は昔も今も軍人にだけ与えられるものあるはずだ
根本中将の決断と、辻田少佐の存在が多くの命を救った
「蒙古聯合自治政府」内に居住していた在留邦人は
そんな二人のいたことが幸運だった
“Iさん”からの思わぬお便りを頂き
「丸一陣地の戦い」の結果がより納得できるものとなった
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返信(明石DS)
お便りありがとうございます。そして旅行記をお読み頂きありがとうございます。辻田新太郎参謀のご親戚の方から思いがけないメールを頂き恐縮至極です。
張家口、丸一陣地での奮戦が無ければ、在留邦人の四万人の無事帰国も無理だったと思います。辻田参謀が実質指揮をされ、見事にその任を果たされたことは日本人の誇りだと思っています
撤退してきた響兵団の堂々の行進に接し、中川軍参謀長の感激の以下の辞がその時のみんなの思いを表していると思います。
「暫くの後、後衛(響兵団を指す)、整々たる縦隊を以て帰着す 志気旺盛なるも、長き頭髪と髭とは無言に長期の労苦を示す 小官感極まり落涙あるのみにして、慰謝の辞を述ぶるあたわず」
素晴らしい叔父さんは、一門の誉れであれ羨ましく思いおもいます。終戦を知りながら、ソ連軍を食い止めた英雄的行為は、いつの世にかきっと正当に評価されることになると思います。
お便りに接し、丸一陣地跡にある戦車壕のある風景を思い出しました。辻田参謀も当時は35歳なのですね。時代と状況が人を作るのかもですが・・・。ああいった修羅場を前にして冷静な判断で、部下の命を預かり多くの人名を守ったことには、凄いなァの言葉しかありません。
ありがとうございました。
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2014/平成26年5月3日(土)
“I”様より
丁重な返信ありがとうございました。
明石DS様のおかげで丸一陣地の戦跡を偲ぶ事出来感無量でした、まさかネットで見られるなんて夢の様でした、明石DS様の取材旅行が無ければと思い感謝しています、叔父が生きていたならばどんなに喜んだと思います。
叔父は平成17年に鬼籍に入りましたが、平成19年に八瀬久様の「雲に架けた橋」、稲垣武様のphp版の復刻があり、再認識された様でとても嬉しく思います。私ですら稲垣氏の本は知らなかったのですからあの撤退作戦の全貌が復刻により明らかになりとても有意義でした。
私は近現代史、戦史が好きで叔父より陸軍時代の話を随分聞きましたので簡単にお知らせします。
叔父は陸士44期、砲兵科
昭和12年12月南京城城門を試製24cm榴弾砲(96式24cm榴弾砲)にて30発位打ち込みこれを破壊、その後満州にて対ソ戦用、98式臼砲(無砲弾)の連隊に勤務。
昭和16年の関特演の後、陸大合格するも南方出陣、独立臼砲連隊辻田大隊(600名、弾頭200発)ラバウルへ
17軍司令部に意見具申し ガダルカナルに征くも揚陸出来ずラバウルへ帰還、18年同期の大本営参謀(原さん・瀬島さん)
原さんが内地に帰還の飛行艇に同乗し陸大に入学、卒業後重砲兵学校教官に、その後中部軍参謀に、20年3月に駐蒙軍参謀となりました、その後は稲垣氏の本等の詳しいです。
また私は戦後教育に洗脳されていまして、叔父に南京逆殺を尋ねると全く聞いた事も見た事も無いとの事で少し疑念に思っていましたが、ネットにてシーメンス社員ジョン ラーべの仕業の捏造と分かり疑念氷解しました。
全く東京裁判史観は酷いものですね、蒋介石の復讐ですね、これが共産党により30万人に拡大され無念に思います。本当は国府軍とその督戦隊の仕業なのにね。怒り心頭ですよね!!! 蒋介石はファルケンハウゼン顧問団に扇動されて上海日本租界を大軍にて攻撃した。
日本は受けて立つより仕方ないですね、支那事変はドイツに仕掛けられたんですよね。この事実を日本及び国際社会に知らしめたいですね!!!また明石DS様の旅行記にて忘恩の支那、朝鮮にもZJ氏のように義理堅い人堅い人がいたとは一服の清涼剤でありました。
本当にありがとうございました、今後の御活躍を期待します。
最後に叔父の写真等を送ります。
愛知県豊川市 “I” -
根本中将不在の中、終戦後「丸一陣地」でソ蒙軍を足止めし
四万人とも言われる在留邦人を無事に帰国させた手腕は
甥御さんからのメールの内容で“なるほど”と納得した
支那事変から終戦まで前線での戦い、陸大卒、駐蒙軍参謀と
輝かしい軍歴の少佐が、張家口での辻田参謀だった
なるほどそうだったのか・・・である
「勇将の下に弱卒なし」が丸一陣地の戦いだった
///////////////////////////////////////////////////////
返信(明石DS)
辻田参謀は昭和12年のシナ事変から、南方戦線への派遣、そして陸大卒から20年3月駐蒙軍参謀として行かれたのですね。
根本博中将が張家口を離れ、尚且つ終戦を知りながら一糸乱れぬ統率の下に戦い抜いたのは、ひとえに辻田参謀の指揮官としての能力によるところだと思います。
経歴を知って、「それだけの凄い人物であり、やっぱりそうだったのか・・・」と少し納得しました。
大東亜戦争の戦域の広さには驚愕するばかりです。私も戦後の自虐史観の洗脳から目覚め、大東亜戦争は歴史の必然であり「良くぞ戦ってくれた」と、その偉大さに驚嘆し、 大東亜戦争は日本史、世界史に輝く戦いだったと賛美しています。
そのお陰で多くの植民地国が独立を果たしたのは事実ですから。幾らタカ派、極右と揶揄されても私自身は普通の日本人だと思っています。
丸一陣地の戦いが必ずや後世の日本人に勇気と誇りを与え続けてくれると信じます。
誰が何処でどんな戦いで戦死したのか?戦病死でも餓死でも英雄的な死でも、その物語を知りたく思っています・・・が、「知らなかったこと」ばかりでいつもボー然としています。
この2月には台湾、宜蘭に行きましたが、物語が多すぎて旅行記もなかなか完成しません。
今後とも宜しくお願いします。ありがとうございました
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この旅行記へのコメント (4)
-
- ミイイーゴローさん 2014/05/24 08:15:17
- 追記の修正のお願い
- 明石DS様
旅行記の追記、誠にありがとうございました。早速叔父の霊前に報告しました。
修正の箇所は、陸大卒業後、重砲兵学校教官に次に中部軍参謀、20年3月より駐蒙軍参謀に至りました。大本営参謀ではありませんでした。同期生の大本営参謀は原さんと瀬島さんと言っておりました。
誠に御面倒ですがこの点の修正お願い申し上げます。
今後の御活躍を期待します。
豊川市 井上許文
- 明石DSさん からの返信 2014/05/24 10:06:59
- RE: 追記の修正のお願い
- 井上様
修正のご指摘ありがとうございます。
早速修正しておきましたが、なお不備な点があれば再度ご指摘下さい。
根本中将が張家口を離れ、尚且つ終戦を迎えながら在留邦人が無事に避難出来たのは
辻田少佐が語られたように増田中隊の頑張りもあったのでしょうが・・・。
それぞれの現場指揮官(トップ)の力量が、それぞれの現場で明暗を別けるのが良く分かります。
「あの戦闘の成功は、地の利、人の和、それに幸運もあった。」ですね。
今後どんな立場に置いても(私も世帯主として)危急存亡の時に、手本にすべきだと思っています。
過去の戦争を学んでこそ、未来の戦争を防ぐことが出来ると思います
命を賭したギリギリの攻防を学ぶことは、すべてに通じ役立つと思っています
丸一陣地の戦いの顛末も貴重な戦史であり、多くの日本人に知ってもらいたいです。
満洲避難行との明暗の原因がどこにあったのかを・・・・。
ありがとうございました。
-
- ミイイーゴローさん 2014/05/02 16:27:01
- 叔父辻田新太郎に代わりまして、お礼申し上げます
- 明石DS様
はじめまして、私は辻田新太郎の甥で井上許文と申し上げます。貴方様の張家口旅行記 深い感銘持って読ませていただきました。DS様の旅行記 4カ月前に読んだのですがネットに暗い為お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。私が貴方様の旅行記を読んだのは、稲垣武史さんの本にて深く感動(amazonレビューにあり) した結果、ネット検索して貴方様の旅行記にたどり着きました。DS様貴方はなんと気高い方なんでしょう、一冊の本に感動されて現地に行ってくださり私共に旅行記紹介された!叔父また丸一陣地にて戦死、戦闘された方々の最高の供養になりました、本当にありがとうございました、先ずはお礼まで。
inouemiiko@gmail.com 井上許文
- 明石DSさん からの返信 2014/05/02 22:16:09
- RE: 叔父辻田新太郎に代わりまして、お礼申し上げます
井上様
お便りありがとうございます。そして旅行記をお読み頂きありがとうございます。
辻田新太郎参謀のご親戚の方から思いがけないメールを頂き恐縮至極です。
張家口、丸一陣地での奮戦が無ければ、在留邦人の四万人の無事帰国も無理だったと思います。
辻田参謀が実質指揮をされ、見事にその任を果たされたことは日本人の誇りだと思っています
撤退してきた響兵団の堂々の行進に接し、中川軍参謀長の感激の以下の辞がその時のみんなの思いを表していると思います。
「暫くの後、後衛(響兵団を指す)、整々たる縦隊を以て帰着す 志気旺盛なるも、
長き頭髪と髭とは無言に長期の労苦を示す 小官感極まり落涙あるのみにして、慰謝の辞を述ぶるあたわず」
素晴らしい叔父さんは、一門の誉れであれ羨ましく思いおもいます。
終戦を知りながら、ソ連軍を食い止めた英雄的行為は、
いつの世にかきっと正当に評価されることになると思います。
お便りに接し、丸一陣地跡にある戦車壕のある風景を思い出しました。
辻田参謀も当時は35歳なのですね。時代と状況が人を作るのかもですが・・・。
ああいった修羅場を前にして冷静な判断で、部下の命を預かり
多くの人名を守ったことには、凄いなァの言葉しかありません。
ありがとうございました。
明石DS
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