2014/09/16 - 2014/09/21
65位(同エリア259件中)
明石DSさん
遼陽の朝
?三泊四日の遼陽賓館
4階11号室(4011)の窓外の景色
高層ビルが並び立っている
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3日目:9月18日(木):晴れ
首山堡・北大山へ
2014/平成26年9月18日(木)
■遼陽の朝
日本でのいつもの起床時間は朝6時前後。こっちでも中国時間5時頃に目が覚める。バスタブに湯をため朝風呂に入って旅の一日が始まる。朝食は7時から2階のレストラン。料理は私の口に合うものは少ないがメニューは申し分なく文句は無い。スイカが美味い。
三日間朝食はスイカを食た。最初にスイカを食べそれからが朝食、最後に豆乳を飲む。それがここでの三日間だった。満足なり。
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遼陽に来るなら何度でもこのホテルを利用する
朝食メニューも豊富だし、宿泊料金も高くない
遼陽駅から徒歩10分ほどだし、白塔公園もある -
スイカがうまい、バイキングは食い過ぎる
私だけはなく、ほとんど皆朝から食い過ぎだ
どいつもこいつもみんな欲深い、女性の皿に盛りすぎは笑う
この朝食バイキング風景はメチャ面白い、ずっと見ていたい -
?2014/平成26年9月18日(木)午前7時52分の遼陽駅
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■遼陽駅に行く
首山堡を目指して8時前に出発、まず遼陽站に向かった。この時は列車で遼陽から一つ目(11キロ)の「首山駅」まで行き、そこから歩いて可能なら歩き、無理ならタクシーで首山公園まで行こうと思っていた。
そして切符売り場に入ったがそこは自動発券機だけ。買い方さっぱり分からず駅舎の方に行ったが、列車の電光掲示版を見ても要領を得ず。一駅だけの切符購入が面倒になり鉄道を諦めバス乗り場に向かう。
バスの行き先で「首山」と書いてあるバスが停まったので運転手に「首山公園に行きたい」と言ったら即座に「それならタクシーで行け」と言われた。良く分からないがバスは首山公園には行かないのだろう。 -
占領後の遼陽停車場の写真
遼陽会戦時1904/明治37年8月末
第二軍(奥保鞏大将)に射程の長い攻城砲が配備された
秋山好古の進言でこの停車場附近にこの砲弾を撃ち込んだ
この駅附近に司令部を置いていたクロパトキンは
さぞかしビビッたことだろう。効果は大であった -
2005/平成17年4月21日撮影の遼陽駅
駅舎は改築されすっかり様変わりしていた
九年一昔・・・か -
駅左側にあった自動発券コーナー
首山行きの切符は買えなかった
買い方が分らない、時刻表も分らない -
駅前にあった警察車輌
いつもここにあるのか?
それとも今日が9月18日だからか?
難儀な隣国ここにあり -
饅頭山の「橘中佐戦死之處」と頂上に建つのは第二軍の記念碑
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog479.html
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■首山公園へ
結局タクシーで行く事になる。「首山公園」まで30元。運転手は29歳(男)、嫁と子供一人、月収は¥2千〜3千元、休み無し。「観光するような場所ではない・・・」と言われたが。
今時の中国人は日露戦争のことは、私の少ない出会いのなかでは大概知らない。学校でも教えていないのだろう。日露開戦前は満洲はロシアにほぼ席巻されており日露戦争が無ければなし崩し的に満洲がロシア領になっていた可能性が高い。
そもそも漢族というか中国というか?膨張したり縮小したり分裂したり・・・権力を握った統治者の民族も違い国名が代わり継続性のない大陸中国の国境は「万里の長城」というのが一番分かりやすい。
その時の統治者が自分で国境を確定し膨大な時間と費用と人力を費やし国境の壁を構築した。これほど分かりやすい国境は無い。今の中華人民共和国は漢民族主体の国家だが、今の漢民族は混じり合い正体は不明だ。漢民族と言ってもその定義づけは難しい。
だが新疆ウイグル・チベット・内蒙古・満州族その他の少数民族、なかでも新疆ウイグル・チベット・内蒙古はそれぞれ人種も違い言語も違い国も違う。中国こそ軍事力を背景に侵略を現在進行形で続けている国家だ。私自身は漢民族の国は「万里の長城」内しか認めない。だから今でも私の認識は満洲は満洲であり続けている。
明治三十七年八月三十一日、早朝から首山堡でロシア軍主力部隊と死闘を行い軍神:橘周太少佐(戦死後中佐)が戦死した。首山堡の戦いは遼陽会戦の明暗を別ける戦いでもあった。
「首山堡の戦い」の主戦場は?
饅頭山(橘山)・北部高地・北大山・・・それは一体どこなのか?
「首山堡の戦い」で有名だが一体それはどこなのか?“Google”で見れば首山があり、その南に橘周太少佐が戦死した「首山南方高地」がある。その頂上には三層の展望台「遼陽翠風山頂涼亭」が立っている。その南東すぐのところに北大山(ほくたいさん)がある。
この北大山は市川紀元二(いちかわきげんじ)少尉がこの山に構築されたロシア軍堡塁に15名の兵士を率いて突撃占領し「首山堡の戦い」で日本軍を勝利へと導く先駆けとなった。
満洲時代瀋陽で生まれ育った人の「橘山(首山堡)訪問記」によれば『この山は当時「148高地」「饅頭山」と呼ばれていた』とある。そして頂上には第二軍の記念碑が建立され、橘少佐の戦死場所に「橘中佐戦死之處」という慰霊碑が建っていたそうだ。戦後二つの碑は撤去され今では頂上に三層の展望台が建っている。
http://www.geocities.jp/rakuyokikon/08shen/16tachibana/1.htm
現地に来る前、日本でネットを使って「首山堡とは?」一体どこにありそれはどこのことなのか?皆目分からないことばかりだった。
「首山堡」といっても「標高209メートルの制高地でもある首山堡陣地」「首山」「首山堡南方高地」「首山堡東南高地」「北部高地」「達子栄東北高地」「北大山」「橘山」「饅頭山」「148高地」「首山堡九十九高地(標高99m)」「向陽寺北方高地」等々やたらに名称があり訳が分からない状態でここに来た。
「来て」「探して」「見て」「山に登って」「三層の展望台を確認し」「残存するはずの堡塁を見つけて」「周囲の風景、山並み見て」・・・その場でしかと分かれば良いし、大体しか分からなくても仕方が無いし、写真や動画を沢山とって帰国後旅行記を作りながら確認できれば良しとする。それが私のいつものパターンだ。
そんな状態で帰国し旅行記を作りながら首山堡に関して「アジア歴史資料センター」http://www.jacar.go.jp/と「近代デジタルライブラリー」http://kindai.ndl.go.jp/で貴重な資料や写真が見つかった。近代デジタルセンターはごく最近見つけてビックリ仰天。無料で手に入る貴重な情報が無尽蔵にあるようでホンマに嬉しいやら大変やら・・・。
それらのお陰で「首山堡」の何たるかがやっと分かった。といってもあまりに名前が入り乱れ我が記載信用無用なり。橘少佐戦死の地は当時「饅頭山」「一四八高地」と呼ばれていた。他に「首山堡九十九高地(標高99m)」「首山堡南方高地」とも。その南東すぐ横の山が北大山。当時の戦闘図と今の地形が当然だが一致する。
首山堡の主戦場
?饅頭山(橘山)・北部高地・北大山が首山堡の戦いの主戦場
“Google”地図
遼陽駅前からタクシーで「首山公園まで」の途中、まず正面に大きな山が見えてくる。それが首山鎮に聳える海抜「329.7米」の首山。この首山は首山堡の主戦場ではない。その左方向に低い山並みが連なっている。「多分あれがそうだろうなあァ〜」と思いながら助手席から見ていた。
そして車は遼鞍路を左折して首山公園前に来た。目の前に一見して茶碗を伏せたような饅頭の形の山があった。その頂上に三層の展望台があった。
我ついに「首山堡:橘山」に来たり!
天気晴朗風なく明石と変わらぬ暑さ。散策にはもってこいの天気だ。首山公園入り口広場は特設市場が開かれているのか?毎日の光景なのか?露店がびっしりと広場を埋め尽くし買い物客で溢れていた。その中をキョロキョロしながら通り抜け饅頭山に向かった。
日露戦争:満洲で饅頭山という山はもう一つある。8月末、ここの饅頭山と同じ時期、第一軍が太子河の渡河を開始。遼陽東方の敵側面に回り込むことに成功し、九月一日には 第二師団が饅頭山を、第十二師団が五頂山を占領した。そこにも饅頭山と呼ばれる山がある。
http://www.sakanouenokumo.com/ryouyou.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BC%E9%99%BD%E4%BC%9A%E6%88%A6 -
饅頭山(橘山)・北部高地・北大山が首山堡の戦いの主戦場
「大きい写真」
http://akasids.web.fc2.com/ryokou/dahushan/dahushan.html#b -
饅頭山(橘山)・北部高地・北大山が首山堡の戦いの主戦場
「大きい写真」
http://akasids.web.fc2.com/ryokou/dahushan/dahushan.html#b -
この一番目立つ首山は首山堡の主戦場ではない
最初はこの首山が主戦場なのかと勘違いしていた
この左側に主戦場となった山並みが連なっている -
首山の街に入った
110年前8月末、殷々たる砲声が鳴り響き
戦場の修羅場がこの一帯に展開していた -
我饅頭山に来る!感動の一瞬だ!
これが橘周太少佐が軍神となった山・・・か
見ての通りの茶碗を伏せたような饅頭山だった
この激戦で静岡34連隊は壊滅に近い犠牲者を出した
連隊長:關谷銘次郎(せきやめいじろう)大佐もこの地で戦死 -
首山公園は朝市なのか多くの露店で賑わっていた
あまりの人の多さにちょっと驚く
昼にはすっかり片付き店も人の姿もなかった -
太子河(たいしが)で獲れた魚なのか?
あまり見たこともない形の魚が並んでいた -
さあ、行くぞ!饅頭山山頂へ
どこからどう登れば行けるのか?
お椀を伏せた饅頭山、どこからでも山頂に行けそうだ
1904/明治37年8月31日激戦があった
ここが「軍神:橘周太少佐戦死の地か・・・」と
午前9時には關谷銘次郎連隊長戦死
橘少佐の戦死は推定午後5時半頃 -
左上:第34連隊連隊長「關谷銘次郎(せきやめいじろう)大佐」
右下:第34連隊第一大隊長:橘周太(たちばなしゅうた)少佐
橘少佐は実戦において初陣だったが軍神となる活躍をした
「勇将の下に弱卒無し」
軍隊においても他の組織においても
トップの資質が結果を左右する
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■首山堡の戦い
首山の饅頭山では明治37年8月31日午前2時半第34連隊第一大隊(大隊長:橘周太少佐)は移動を開始、七合目附近の敵第一堡塁6,70m手前から突撃開始。時刻は午前四時頃。
戦いの詳細は34連隊第一大隊第四中隊長として奮戦し唯一生還した中村晶中尉が明治45年旅団長閣下の命を受けて回顧した記録「歩兵第34連隊首山堡附近の戦闘に就て」が迫真に迫る。最後の方には「攻撃実施略図」も添付されている。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C14060958100?IS_KIND=MetaSummary&IS_TAG_S32=&IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=%E9%A6%96%E5%B1%B1%E5%A0%A1&IS_TAG_S1=InfoD&IS_LGC_S32=&
ブログ「静岡連隊首山堡の激戦」も詳しく紹介されている。
http://yamahiko-farm.jp/blog2/2014/02/post-965.html
それによれば第三十四連隊:静岡連隊、駿河兵(岳南健児)の首山堡での戦いは、2個大隊半2,500名の岳南健児がロシア軍8,500名をこの地に引き付け遼陽会戦の勝利を導いた。
34連隊は一時的に饅頭山を占領(午前5時45分)したが一時間後(午前6時半頃)に圧倒的敵兵力の前に再び奪還され、この戦いでの部隊感状という栄誉は得ることができなかった。
しかし『賞されざる大功こそ、我が静岡の名誉』と軍神:橘周太中佐、連隊長:關谷銘次郎(せきやめいじろう)大佐は、静岡34連隊とともに日本人の記憶に残り続け今も静岡県人及び日本人の誇りとなっている。これほどの栄光と名誉はあるまい。決して強兵ではない駿河兵が何故ここまでの戦いが出来たのか?
それは「勇将の下に弱卒無し」ということに尽きる。実際この首山堡の戦いにおいても率先垂範の勇将なき連隊は、何の戦果もあげず督戦され挙句に更迭されている将官が何人かいる。これは古今東西、過去現在未来にわたっての真理だ。特に戦場においてははっきりと行動と結果に現れる。修羅場であればあるほど人間・上官の真価を問われる。家長(世帯主)たり同じで心したい・・・。 -
「大きな写真」
http://akasids.web.fc2.com/ryokou/dahushan/dahushan.html#c
饅頭山(橘山)の攻防 -
饅頭山のハイキング道、この道は山の周囲を巡っている
頂上にはこのハイキング道から
細い道が何ヶ所か上に向かっている
この道から頂上には5分ほどで到達
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■橘周太と石光真清(いしみつまきよ)
そして首山堡には他にも物語がある。橘周太少佐を兄としたい師と尊敬していたのが日露戦争以前に諜報員として満洲ロシアを舞台に活躍し、戦時には第二軍:奥保鞏(おくやすかた)大将の副官として従軍した石光真清。その石光真清が残した手記を長男の真人が四部作『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』として完成させている。この四部作はホント何度読んでも面白い。
日露従軍記は三部「望郷の歌」にある。首山堡の戦い前に橘少佐と出会った場面や戦死の報告を聞いた時のことが記されている。戦いの数日前に出会った時、真清は橘少佐に「成功を祈るが、くれぐれも自重してもらいた」と述べると少佐は「大隊を預かる身だからね、慎重に行動するよ。だが生死は保証出来ない。それは別だ」との言葉だった。
そして八月三十一日、第二軍司令部に関谷連隊長・橘大隊長の戦死の報が入る。真清はその一報に接し「私はガンと頭を撲られたように目まいを感じ、両脚の力が抜けて、傍の椅子の背に両手をついた」とある。奥司令官も信頼していた部下の死に、その夜、部屋は燈火のついたまま静まり返り誰一人呼ばなかったそうだ。
八月三十一日は東宮(皇太子:大正天皇、1879/明治12年8月31日)の誕生日であり石光真清自身の誕生日であったと書いている。ウィキペディアで真清は10月15日生誕となっているが実際は8月31日だったのだろう。当時は実際と戸籍上の日が違うことが良くある。
■我が祖父の日露従軍
私の祖父は出征第四軍第十師団騎兵第十連隊第三中隊の騎兵伍長として明治37年5月28日 宇品港出帆、6月4日 清国南尖に上陸し「岬厳」「分水嶺」「柝木城」「遼陽会戦」「沙河会戦」「沙河対陣」「黒溝台会戦」「奉天会戦」と参与した。「出征第十師団・騎兵第十連隊:日露戦争戦歴」
http://akasids.web.fc2.com/ryokou/dahushan/dahushan.html#d
明治38年3月16日、『斥候ニ服務シ敵情ヲ捜索中、鉄嶺ノ西南方約一里半「ウイジャゴー」附近ニ於テ 敵弾ノ為腹部ニ貫通銃創ヲ受ケ 即刻野戦病院ニ入院 目下加療中ニ御座候 』その後、後送され日本に無事復員した。
「望郷の歌」に石光真清の弟:石光真臣(いしみつ まおみ)少佐が第四軍:出征第十師団野戦砲兵第十連隊大隊長として出征していることが書かれている。第四軍第十師団は祖父:昌次郎と同じ師団であり、野戦砲兵第十連隊第二中隊には祖父の弟(鹿蔵)の友人:塩見長光がおり戦地から鹿蔵宛の手紙が残っている。
「そうか塩見長光は石光真清の弟と同じ砲兵連隊に所属していたのか・・・」と。祖父も塩見さんも綾部から出征し騎兵と砲兵と所属は違うが同じ姫路で軍籍に身を置いた。いろんなことが分かれば面白い。
以下は塩見長光から鹿蔵への手紙
1904/明治三十七年七月十九日午前十一時頃着
鹿蔵殿
出征第十師団野戦砲兵第十連隊第二中隊 塩見長光
拝呈仕候(はいていつかまつりそうろう)
陳者(のぶれば)貴君御差出シノ御手紙 本日十六日到着候ひて 拝見仕り候へば
貴君御壮健の条(じょう)奉賀候(がしたてまつりそうろう)
野生(やせい)航海以来 絶テ御無音ニ打過ぎ居り候段 平に御容赦下されたく
一度早速御通信仕りべく筈の処 彼是(かれこれ)繁雑ノ為メ意(こころ)ナらずも失礼仕候
其后自分義ハ御蔭ヲ以テ日々国家ノ為メ 従事罷りあり候間 他事御休心下されたく
さて五月二十四日南光郡ニ上陸致し 暫時大孤山附近ニ滞在致し候処
六月七、八日ヲ以テ兼テ豫定ノ通り岫巖(大孤山北北西約五十km)占領仕り
尚同地滞在 同月二十六、七日ノ両日ヲ以テ敵ノ防禦陣地海城(岫巖北西七十キロ)ノ東門トモ申ベキ
芬水嶺(ぶんすいれい)ヲ午前十一時三十分ニ占領仕り 第一回の初戦
第二回ノ弾丸飛行ノ中(だんがんとびゆくなか)も了へ(おえ)今日茲(ここ)で通信し得ルヲ得申し候
次方 尚前方約四里半ノ処ニハ四万以上ノ大敵が居ル由し
何レ遠カラズ交戦致ス事ト存じ居り候 先ハ延引ナがら御通信仕候
余ハ后談戦況ニ譲ル乱筆
明治三十七年七月十九日 -
いろんな戦記に書かれている通り緩斜面の山
ロシア軍はここに堅固な堡塁陣地を構築し
前方には鉄条網を張り巡らせ、地雷を埋設
下から這い上がる日本軍に上から機関銃で掃射
それでもお国のためと身を捨てて吶喊して行った
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■饅頭山
今の饅頭山は健康登山の山で、舗装されたハイキング道が山の周囲を巡り木曜日のこの日の朝も多くの人が散歩を楽しんでいた。私はそんな気持ちとは程遠く舗装道路から外れ緩斜面の道なき道を上に横に歩いた。今は草と木が生い茂っているがそんなに密度はなく樹木も小ぶりなので縦横に歩ける。遠目で見た首山も隣の北大山もそうだし饅頭山北側の高地も地肌は岩山で、この饅頭山も当時の写真を見れば今のような草木はなかった。
岩山といっても今は草がありゴツゴツ感はないが見事に緩斜面である。ロシア軍はこの山の上部に堡塁を構築しその前部に鉄条網を張り巡らしていた。上から機関銃で掃射されれば身を隠す術もなく想像しただけでも恐ろしい。こんなところを夜陰に乗じてとはいえ堡塁近くまで登って行き最後は堡塁めがけて突撃した。橘少佐は愛刀:関の兼光を振りかざし吶喊、堡塁のロシア兵をなぎ倒した。これが橘少佐の実戦の初陣でもあった。三指頭を落とし、右腕に銃弾、そして下腹部にも被弾、それでも果敢に戦い続けた橘少佐。
最後は砲弾の大きな破片が腰を直撃し倒れた。渋る橘大隊長を引き摺るように下山するが引き摺る部下にも容赦なく銃弾が。午前9時には關谷銘次郎連隊長戦死、橘少佐の戦死は推定午後5時半頃だったそうだ。今から110年前にこの饅頭山で凄まじい戦いがあり關谷銘次郎連隊長・橘周太少佐をはじめ多くの日本軍兵士は荼毘に付され或いは埋められてこの地に今も眠る。斜面を掻き分けながら日本から持参したタバコや線香、ビスケットなどをアチコチに置いていった。当然だが火はつけていない。
舗装されたハイキング道は頂上に通じていなく周回だけの道。頂上には舗装道路から幾筋も細い道がある。私は草と木を掻き分け饅頭山の麓から山頂までキョロキョロ・ウロウロ蛇行しながら歩いて30分ほどで三層の展望台がある頂上に出た。この上からどんな景色が見えるのだろうと、湧く々しながら階段を上り展望台の上に出た。北方向に首山が聳えている。そして一番気になっていた北大山はどの山のなのか?と探した。
歩いて行けそうなすぐ横、東南東方向に北大山(ほくたいさん)らしき山があった。あれが北大山のはずだ。きっとあの山の上に今もロシア軍の構築した堡塁跡があるはずだ・・・と。いくら来る前に写真で見てもグーグルアースで見ていても「百聞は一見にしかず」。
この場に来てこその感動がある。饅頭山頂上から360度の景色が眺められた。眼下に広がる向陽寺(シヤオヤンズイ・コウヨウジ)の街並み。その遠望東から西にかけて低い山並みが見える。 -
道から外れてジグザグに頂上へ向かう
この至る所で日本軍兵士は戦い眠る
何の痕跡なくも我が心の内に厳然とある
父祖たちは今とはまったく違う日本人だったのか?
そうとしか思えない。何もかも違う -
今はアチコチに墓石あり
地元民の墓地になっているようだ -
頂上近く、昔は草木なく岩肌の山だった
今は樹木茂るが大木なく地肌はそのまま
明治37年8月31日、午前4時頃
七合目附近の敵第一堡塁6,70m手前から突撃開始。 -
大きな写真
http://akasids.web.fc2.com/ryokou/dahushan/dahushan.html#e
占領後の首山堡九十九高地(饅頭山)
右手横奥に並ぶのは北部高地 -
饅頭山から南東方向:北大山(ほくたいさん)を写す
明治37年9月1日、市川紀元二少尉が部下15名と共に占領す
http://soutairoku.com/07_douzou/02_i/itikawa_kigennni.html
この時は「多分あれが北大山だろう、あれしかないし」
「そうなら今もロシア軍の堡塁跡が残っているはずだ」
歩いてどれくらい掛かるのかなァ〜
・・・なんて思いながら見ていた -
饅頭山(橘山、九十九高地)より北方向:北部高地を写す
8月31日午前45分、饅頭山を一時占拠するも一時間後に奪還される
戦いの最中、中村晶少尉は「歩兵第34連隊首山堡附近の戦闘に就て」
26頁に『高地南端より遼陽の塔(白塔)を望見するを得たり』と記している
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C14060958100?IS_KIND=MetaSummary&IS_TAG_S32=&IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=%E9%A6%96%E5%B1%B1%E5%A0%A1&IS_TAG_S1=InfoD&IS_LGC_S32=& -
三層の展望台より北西に首山を望む
第34連隊は味方の砲撃も浴びた -
南方向、向陽寺(村)を望む
東西に渡って日露両軍は戦った
砲弾銃弾飛び交い死傷者は続出した -
饅頭山頂上の三層の展望台
橘周太少佐奮戦の地、首山堡饅頭山に来れた
また後ほどここに来るつもりだったので
北大山へと早々に向かう
日露戦跡「首山堡の戦い」:饅頭山(148高地)へ行く
http://youtu.be/cuOz3ff3r1M -
饅頭山の周回ハイキングコースは月曜日の今日も
多くの人たちが歩いており道端に露店もある
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■その他の遼陽会戦
祖父が属した四軍は二軍の右に展開し戦っている。祖父と同じ師団で従軍したM歩兵伍長の従軍記の戦闘経過では、「8月27日、大隊受令 遼陽に向かい前進開始」「8月28日、首山堡手前高地着」「8月30日、未明突撃命令下令、大損害」「8月31日、予備隊」「9月3日、前進、夕刻遼陽城への突撃準備下令」
M伍長の戦闘略図では、左翼に二軍「首山堡」。その右側(東側)に展開し「スリバチ山(クージャズイ)」との図がある。私が饅頭山の展望台から眺めた山並みの中にきっとそのスリバチ山もあったろう。騎兵の祖父はこの地を駆けこの景色の中で何を思い過ごしたのか?
「首山堡の戦い」は饅頭山の34連隊の死闘がその代表だが横一線に二軍・四軍は遼陽目指して進撃した。その戦場が私の眼下に広がっていた。
M伍長の手記にスリバチ山を占領した時のことが詳しく書かれている。その一部を以下に抜粋する。
スリバチ山への突撃命令下る
明治三十七年八月三十日:スリバチ山占領す
第十師団歩兵第十連隊第二大隊第一中隊:M伍長(従軍記一部抜粋)
遼陽附近第四軍戦闘略図
http://akasids.web.fc2.com/ryokou/dahushan/dahushan.html#f
三十日未明突撃命令下る!
幾たびか弾丸を潜った我々も突撃ばかりは、今が始めてであった。いよいよ友軍の歩兵及び砲兵の援護射撃の下に、脱兎の如く前斜面を馳せ下る。いち早くも認めた敵陣、何を小癪なと、ドドッと撃つわ撃つわ、その銃弾の渦巻き。それを物ともせず、宙を飛んでまさに谷まで下りようとした一刹那、ツルリと滑り、ドッと尻餅をつく一瞬、唸りを生じて左耳を掠めた敵弾、バチャッと後ろに水しぶきが上がる。
危うい哉、{転んだため}間一髪の差で左胸をそれたのだ、と直覚した時、冷水を襟首に浴びた如く、身体中の毛髪が逆立つのを覚えた。谷で一応体勢を整え、やがて響きわたる突撃ラッパとともに、ワーッと躍り込む。
絶え間ない敵の射撃は、いよいよ確実となり、一歩進めばバタリ、五歩登れば又バタリ、傷つき斃れる凄惨な光景に、狂えるがごとくはせのぼる。友傷つけば傷ついたまま、やけに走る。屍体をふみこえる度ごとに神経はゆがめられ、狂 (きょう)せる如く気もそぞろに攀(よ)じ登る。眼中山なく、味方なく、天地も轟く銃声も耳に入らぬ。
百千本の槍ぶすまに、徒手空拳で身を躍らせる姿が天上天下を占め尽くすのみである・・・・・。どこをどう馳せ登ったやら、ふと気がついた時には敵塁殆ど人影なく逃げ遅れた敵兵五、六人右に左に倒れるのを認めた。
おお占領した!敵陣占領!万歳を唱えたのも夢か現か。やがて立射の姿勢で潰走するする敵を、脇目もふらずに射っている自分自身を発見した。然し、占領したこのスリバチ山頂にふりそそぐ敵弾いよいよしげく、敵の掘った壕中に伏せてみたが、折悪しく敵方より見すかされ、直射弾丸を防ぐべくもない。
「同じ事ならエイッままよ」と、前方へ飛び出した。同時に傍(かたわ)らの兵が、その後へスッポリ飛び込むや否や、敵の一発頭部を貫き、ドタリと横に頭を垂れたまま、早くもこときれた。これを見た自分は思わず百ボルト位の電流が身体をゾーンと流れるのを覚えた。
この間、瞬時感情は電光の如く閃くが、徒に戦友をあわれみ天に感謝する余裕はない。進んで撃ちに撃つ。湯となれと握りしめていたこの銃、今ぞ存分働けよと、五発づつの装填ももどかしく、熱鉄もただれんばかり銃口火を吐く。
ダダ・・・響きに応じてバタリバタリ敵兵は倒れ、谷へ転落する。忽ち山腹と谷は青褐色に{露軍の軍服の色}埋められ被(おお)われてしまった。生死の境を浮沈し地獄の坂を駈け登った辛苦は今報われて、敵兵の生殺与奪(せいさつよだつ) の権を一手に握った時の痛快さ。
ゾクゾクと迫り来る快感に恍惚として無二無三に撃ち続けたのであった。あまりの壮快さについ進みすぎた自分は、山の前方斜面の下寄りにある露兵の壕に身を伏せた。これは交通用のものらしく、浅く且つ狭くて五尺の身体の置場所がないので、斜めに伏して僅かに小銃弾を避けた。
ふと見下ろせば今しがたの戦闘に弾雨の洗礼を受けた敵軍、惨として風なまぐさき新戦場である。まだ転々として転がって居るもの、苦痛に呻吟(しんぎん)してのたうち回って居るもの、等様々である。
中略
この突撃を見て日本兵と露兵との差を痛感した。我々であれば一人残らず傷つく苦戦でも、敵に後ろを見せる事はない。必ずその位置で死ぬか、或いは其処にくらいつき、一歩も其処を離れない。そのうちに後方より補充して、ついには見事に占領する。仮に傷つき倒れて居ても敵よりすれば脅威である。
後ろより来る者も、前方に味方が居ると思えば、ともかく其処まで勇躍して前進することが出来る。即ち攻める我に勇気を与え、守る敵の士気は沮喪(そそう)する。然るにこの露兵の様に、攻撃中生命ある者が逃げてしまえば、残っている者は、例外なしに死傷者のみであることを証明するのであるから、守る方は晏如(あんじょ){安心}たり得る。
再び攻める者も、自ら死地に飛び入るのだから心細き限りである。その上損害はどうしても逃げる方が多い。故に途中で退却するのは百害あって一利なきにも拘わらず、露兵は之を敢えてする。而してその結果日本軍を破ることが出来ないのである。
ここに於いて、戦場の要訣は意気にある。必勝の、必死の精神に在ると痛感した。然し露兵のねばり強さ、無神経とでもいうのか、鉄の感情に武装されて居るのか、半日の中に同様の突撃を繰り返す事、三回に及んだが、味をしめた味方は悠々として悉くこの敵を壊滅(かいめつ)させた。 -
饅頭山から北大山へ向かって行くと
一気に人気はなくなり歩く人も車もなし
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■饅頭山から北大山へ向かう
饅頭山の展望台で10分ほど景色を眺め、またもう一度ここには後から登ってくるつもりで北大山へと向かった。上から見て「これなら歩いていける距離だ」と北大山方向に下山した。饅頭山のハイキングコースは道沿いに露店もあり、散歩する人の往来は多いが、北大山に向かう道は歩く人一人もなし。
若干不安を感じながら歩いた。晴天の下日差しもきつい。足はすでに半分棒のようになっている。でもロシアの堡塁跡を確認したい一心で気持ちは高揚していた。行く手になんだか分からないコンクリート道路が北大山方向に続いていたのでそこを歩いたが通る車も人影もなく・・・。
振り返って饅頭山を見れば、やはりお椀を伏せたような形で頂上までゆるい傾斜の山であることが良く分かる。どの方向から見てもこんな形なのかも。そしてここから見れば饅頭山の右側にまるで双子のような形の岩山が並んでいた。これがあるから饅頭山は「首山堡南方高地」と言われるのだろう。
そして右側が「北部高地」であり一旦奪取した饅頭山も『第二軍戦闘報告第一線(首山堡附近)の攻撃:38頁』に「北部高地より優勢なる敵の逆襲を受け奮戦乱闘の後多大の損害を受けて高地脚に撃退せらりたり」と記されている。
http://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/djvu/rikujou/rikujou_05/C09050769600.djvu
饅頭山を下って20分ほど足らず誰も歩いていない不気味な?コンクリート道を歩いたら北大山と思う山の麓に到着した。道の終点に建築中の綺麗な建物に突き当たったがここも無人。その奥に工事現場の扉があり「通行止め」のようだった。
でも引き返すのは難儀だし閉まっていたのをこじ開けて入った。そこは寺院の壁を作っているようで現場監督らしき“おっさん”と職人数名が塀に足場を組みその塀の上に瓦を並べていた。
“おっさん”がこっちを睨んでいたが目を合わせないように知らん顔をして通り過ぎた。みんなに凝視されている視線は感じたが無事に通過。ちょっとホッとして先に向かう。そして何度も振り返って饅頭山方向を見て写真を撮る。二つの山(饅頭山と北部高地)が左右に並んでいる。
そこを抜けたら道の先は細い山道、雑草と木々が生い茂り道なき道を歩くが如し。蛇が怖い野犬が怖いと思いながらひたすら歩く。登る道は見当たらず横切る道を歩いていたら突然前方に山の勾配に沿って高い塀があり鉄の扉と高い監視哨が見えた。ビックリ仰天、刑務所か?軍隊か?人気の無い山の中でいきなりこんな物に突き当たったら誰しも驚くと思う。
道の続きもなく高〜い監視哨は無人のようだがビビッて後ずさり。何処からか「誰何」の怒鳴る声が聞こえて来そうで来た道を引き返してしまった。そのお陰で歩く距離が増えてしんどい思いをした。来た道を引き返し回り込む道を探して下まで降りたが、またここからは無理なような気がして引き返したり・・・と。ますます足も棒になり諦めがチラついたその時、写真で見た建物があるのに気付いた。北大山の堡塁を写した写真をプリントして持参していた。
すぐにそれを広げてみたら間違いなく同じ建物だ。その写真は堡塁の上部から向陽寺方向を写している。その角度を見ればどの辺りから撮った写真なのか推測できた。やはりこの山が北大山であの方向に堡塁はあると、俄然元気を取り直した。方角の見当がつき、その建物を確認しようと歩いた。学校だと思っていた赤い三角屋根が左右両側にある建物は「遼陽県人民政府庁舎」だった。
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.205329,123.105165&spn=0.006619,0.009645&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=17
向陽寺の町と大通りを隔てて威容を誇るかのような庁舎。“Google”地図では分かり難いがグーグルアースで見れば分かる。その東角を北大山方向に歩けば右手にトーモロコシ畑が広がっていた。少し上の方に上がって振り返れば赤い三角屋根の建物が見える。「やったァ〜間違いない。きっとこの上に堡塁はある」と確信したが登る道は分からない。畑でトーモロコシを刈り取っていた人たちの方に近づき写真を見せて聞いた。
“オバチャン”が相手になってくれたが、今一分からない。そして今度は上から歩いて来た“おっちゃん”に写真を見せたらすぐに分かった。「知っている」「この上にある」「百年前の物だ」と、この“おっちゃん”は、ここで日露戦争があったことを知っているようだった。そして行く道を示してくれた。「ここを真っ直ぐに行って右に曲がって、また上に登る」「歩いて15分くらいだ」と。
二人に礼を述べてすぐに歩き出した。真っ直ぐ歩いたら、さっき横に歩いた道に出た。ここまで来たらその行き止まりは高い塀と鉄の扉、そして監視哨があるさっきの所だ。さっきはビビッたけどビビル必要は無かったようだ。雰囲気は最悪だがその塀に沿って上に上に登っていった。 -
途中からアスファルトではなく
コンクリート道路が続いていた
まだ完成途上のようで無人道路
薄気味悪いながらも北大山へ向かう -
閉まっていた工事現場の扉を開けて進む
塀作りの工事現場だった。そそくさと通る
振り返って写した一枚 -
北大山の方向から饅頭山を見れば
二コブ駱駝のように饅頭が左右に並ぶ
「左:饅頭山」「右:北部高地」
「へェ〜こんな山並みなのか・・・」と
実際のところは来て見ないと分らない -
この先は雑草生茂り人の姿もなく
蛇・野犬にビビリながら歩く -
先に行けば、ますます見無き道になり
不安は募るもひたすら前へ前へと歩く -
矢先に突如鉄製扉と高い塀、そして監視哨が目に入る
一瞬来ては行けないところに来てしまったのか
・・・と思いドキッとする。ビビッた
「誰だ!」と「誰何」の声が今にも響いて来そうで
撃ち殺されないように(笑)この場から立ち去ってしまった -
仕方なく一旦大通りに出て仕切り直し
どこから登れるのだろう・・・と
足は棒だし北大山を目前にしてため息
写真中央の山は饅頭山 -
この人通りの少ない、車の少ない大通りの北側に
突如ように現れたドデカイ建物、遼陽県人民政府
そうか人民政府とは地元民が来る場所ではないようだ
「遼陽県人民政府」 -
人民政府庁舎の東端に北大山方向への地道があった
山に向かって歩くとトウモロコシ畑が広がっている
畑で働く人に北大山の堡塁の写真を見せて尋ねた
一人の“おっちゃん”が「有る」「百年前の・・・」
「ここを真っ直ぐ行って、右曲がり、又上に」
「歩いて15分くらい」と教えてくれた -
しばらく歩き振り向いて写真を撮る
赤い三角屋根が左右両側にある建物を写す
「ハハハ間違いない、堡塁はこの上だ!」
俄然元気が出て一目散に目標に向かって歩く -
さっきの鉄扉と監視哨の場所に戻って来た
高い塀が急斜面に沿って上まで続いている
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■北大山のロシア軍堡塁跡
遮二無二歩いたからか10分ほどで堡塁が見えた。「やったァ〜・・・」「あったぞ!」と。こっちは饅頭山の緩斜面と違って、戦記に書かれているように急峻だ。この北大山の戦いは「回顧卅年日露大戦を語る. 陸軍篇」(No.73)で当時の上官であった松井岩根大将がこの時の戦いをインタビュー形式で語っている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209621
(137頁:75)『僕のところは非常な急斜面で彼我の距離が僅か50メートルくらいしかなく、敵の話が聞こえるくらいだったから敵が我らを突き落とそうと思へば容易であるのだが、地形が余りに急傾斜であったのと、友軍の第十八連隊か何かが右の方から援護射撃を盛んにしてくれたため、敵はとうとう出て来れなかったので、それで我々は持ち堪えられたのである。』と回想している。
その急斜面を登った。ここも饅頭山同様、地元民の墓がアチコチにあった。そしてロシア軍の堡塁があった。それはレンガや不揃いだがレンガのような長方形の石をセメントで固めて作った堡塁。最初のは破壊が大きく原型を留めていないが堡塁であるのは十分見て分かる。他にも・・・と、思いながら頂上に出たら右手(西)にもっとましな堡塁があった。といっても日本軍の砲撃で壊れたのか?まともな形とは程遠い。 -
その塀沿いの道を上に登っていく
さっき上に登っていれば
遠回りしなくて良かったのに -
ここにもこういった墓石が点在していた
山を勝手に墓地にして良いのか?
墓としての区画はなく適当にあった -
北大山の南斜面に残っているロシア軍堡塁跡
1904/明治37年8月31日−9月1日
今からちょうど110年前
首山堡の戦いの地だった -
遺跡として保存している様子なく
朽ちるがままにここに残っている
堡塁の破壊跡は日本軍砲弾によるものなか? -
名古屋第6連隊第1大隊第2中隊「中隊長:松井石根大尉」
松井大尉は負傷で動けず市川少尉に攻撃を託した
松井:「おれはここで指揮を取るから市川行って見んか」
市川:「行きましょう」
そして9月1日午後0時30分少尉以下15名が突撃占拠する -
大きい写真
http://akasids.web.fc2.com/ryokou/dahushan/dahushan.html#g
白線:最初に歩いた道
赤点:鉄扉・監視哨
緑線:迂回して歩いた道
三ヶ所の黄点は残存するロシア軍堡塁跡 -
山頂の堡塁跡
三ヶ所の堡塁のなかで破壊が少ない
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■我北大山に来たり
そして反対の北側頂上付近にも一つ。三つの堡塁跡が残っているのを確認した。北大山といっても東半分は高い塀が頂上から東向かって続き東半分は塀の中。行く事は出来ない。この塀で囲まれた内部は一体何のか?グーグルアースで見れば、まるで万里の長城のように北大山東側は山麓から山頂の稜線も含めて広大な敷地を高い塀で囲っている。敷地内には建物も整然と並んでいる。地図は空白で「人民解放軍」だと思うが、残念ながら前まで行って確認していない。
この北大山の市川紀元二少尉と15名の勇士の戦いは静岡連隊首山堡の激戦18『市川紀元二少尉の北大山一番乗り』にもまとめられている。思うにこの日露戦争時の軍人は、将校は皆武人そのものだった。江戸の天下泰平から明治維新を経て武士は武士として復活し、そのまま大東亜戦争敗戦まで世界の激動期を武人として貫いた。
http://yamahiko-farm.jp/blog2/2013/07/post-857.html
現在のように過度な自己保身も当たり前の似非平和の世では偽善者が大手を振る。綺麗事と現実離れの理想を空々しく語る者だけが知識人・有識者として世に闊歩する。今時の既存テレビの出演者は皆が皆偽善者と在日or帰化人とハーフばかりで本物の日本人が出ないので見る気がしない。
堡塁は中が円形で機関銃座があったのだろうか?堡塁から下を覗くと急斜面を実感する。今はここも樹木と雑草に覆われているがそれでも堡塁から覗いても傾斜がきついのは良く分かる。防御陣地は堡塁だけではなく堡塁の前面には地雷、その前には鉄条網が張り巡らされていた。歩兵第6連隊の松井中隊長は暗夜のなか鉄条網を掻い潜ったが地雷が爆発、そこで前進が頓挫、敵の攻撃で負傷者続出。味方は崩れかかったが中尉が叱咤激励して踏み止まった。
夜が開けた9月1日、再度の総攻撃が決まり斜面で踏み止まっていた中隊は後方から増援部隊が来ていたが、折角ここで踏み止まっていたのに今となって後続部隊と一緒に攻撃するのは残念だと昼12時頃負傷していなかった市川少尉に「市川行かんか?」と松井大尉が言ったら「行きましょう」と15名の兵士を引き連れ味方の榴弾炸裂の機に乗じて突撃占拠した。その堡塁がどのあたりだったのか?今は北大山頂上の東南半分くらいが塀に囲まれて行けず全容は不明。
市川少尉も奮戦の中、ここからの風景を見たのだろう。どんな気持ちだったのだろう?多くの味方将兵が戦死し未だ戦い終えず。市川少尉はこの功績で中尉に昇進するも奉天の会戦で明治38年3月7日戦死。33歳。(静岡県出身。東京帝大卒)
北大山はグーグルアースで見れば分かるが、突出した頂上はなく上は稜線のように「北西⇔南東」方向に長い。頂上には携帯の電波塔のような鉄塔が一つ建っている。堡塁から北西方向を眺めれば、右手前方に大きな首山が麓までくっきりと見える。北東方向には遼陽の高層ビル群が見える。そして、西方向すぐ前方左に饅頭山と“二コブらくだ”の背のように右に北部高地が連なっている。
我一人、人っ子一人いない北大山の頂上稜線にしばし佇み往時を偲ぶ。頂上を北西端まで歩き、又戻っては堡塁に入り、堡塁で休憩し・・・。この場を去り難く行ったり来たり写真と動画を撮り、もう二度と来ることのないだろうここからの景色を目に焼き付けようとした。二軍と四軍がこの地で左右(東西)に展開、遼陽を目指し進撃した。日本国の浮沈を賭けた大戦争がここであった。遼陽会戦参加「日本軍約125,000人」「ロシア軍 約150,000人」
北大山“兵どもが夢の跡”登る道中から下山までまったく誰一人いない古戦場だった。そして一旦諦め掛けて探し当てたこともあり余計に気持ちも高揚した。それに薄靄はあれど雲ひとつなき青空。戦跡めぐりの醍醐味に我満足してやまず。堡塁にタバコ・ビスケット線香並べ般若心経を詠む。心からの感謝と哀悼の意を表し日本の再生を祈る。 -
中央鉄塔は北大山の西側山頂
その向こう左端が饅頭山(148高地・橘山)
中央に北部高地、右端奥の大きな山が首山 -
鉄塔(北大山西側)から堡塁跡方向を写す
-
北大山山頂のロシア軍堡塁
明治37年9月1日午後1時頃
北大山の一画を占拠し
以後形勢は日本軍に傾いた -
この地にも多くの日本軍勇士が眠る
木々雑草茂っているが急斜面は良くわかる -
堡塁から饅頭山を望む
互いの攻防が手に取るように見えただろう
ロシア軍は上から機銃を掃射し
日本軍は下から這い上がる -
北側に向かっての堡塁
三ヶ所残っていた堡塁はどれも円形で
中央に機関銃座があったのだろう -
北大山東側半分は頂上まで高い塀に囲まれている
広大な敷地、内部に建物あれど地図に記載もなく
多分、人民解放軍の駐屯地だと思う -
サラバ北大山!
もう再びこの地に立つことはないだろう
向陽寺(村)が一望できる
近い将来一人でも多くの日本人が
この地を訪れる日が来ることを願う
日露戦跡「首山堡の戦い」:北大山へ行く
http://youtu.be/aX34GmQl-AY -
北大山を下る
写真で見るより実際は急斜面
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■北部高地へ登る
40分ほどの頂上滞在で下山し鉄の扉を右に曲がって雑草踏み分け最初に来た道を戻る。寺の寺院の塀作りの職人たちはちょうど昼の休憩時間のようで誰もいなかった。そして来る時、閉じていた門も開いていた。また不気味なコンクリート道を一人歩いて饅頭山に向かって歩く。そして「首山堡南方高地」が饅頭山なら「首山堡北方高地」とも言える右の山に登った。
砕石出来るような岩の塊のような山だった。登る道が分からずちょっと迷ったが麓から10分ほどで頂上へ行けた。足は最早とっくに棒になっていたけど・・・。ここからは鉄道が見えた。北東方向に遼陽市街が間近に見える。昔はこの辺りから遼陽のシンボルとも言える「白塔」が見えたのも頷ける。
http://songye.exblog.jp/19951359
饅頭山を一時占領した34連隊も一時間後にはこの北部高地にいたロシア軍の逆襲を受け撤退を余儀なくされた。34連隊は饅頭山の、すぐ後ろ(北側)にもこんな山がありロシア軍部隊が控えていることをあらかじめ知っていたのだろうか?最初から二つの高地を一つの敵陣地と見なしての攻撃だったのか?そのへんは良くわからない。この岩山高地にも地元民の墓がアチコチにあった。今はここは墓地とも言える。 -
帰路は工事現場の扉が開いていた
昼の休憩時間なのか誰も人はいなかった -
往路と同じく無人のコンクリート道を戻る
左:饅頭山、右:北部高地 -
岩山の北部高地頂上より首山を写す
-
遼陽もすぐそばに見える
当時ここから白塔も見えたらしい。
日本軍は遼陽駅めがけて砲弾を撃ち込んだ
駅附近にロシア軍司令部があり
クロパトキンも動揺したようだ -
北大山方向を写す
この東方向、一線で四軍も戦っていた
私は普段タバコを吸わないが
戦地では慰霊のために火をつける -
部高地から饅頭山を望む
この北部高地があり饅頭山(148高地)が
「首山堡南方高地」とも称されるのだろう
とにかく饅頭山は名前が多すぎて困る -
8時半にここから饅頭山に向かい、北大山
北大山から北部高地と山歩きをし
1時過ぎに首山公園入り口に戻って来た
四時間半の散策で疲れたが気分は爽快
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■昼食休憩
「北部高地」を降りたのが午後1時前。まだ昼飯も食べていなく足は棒。まず一度昼食休憩をしてから再度饅頭山に登ろうと昼飯を食べに行った。朝ごったがえしていた公園広場の市場はすっかり片付けられて人はいなかった。「へェ〜朝市だったのか・・・」と、朝の賑やかさと昼の光景の違いに驚いた。昼食はすぐ近くの勝利街「千禾拉麺:千禾ラーメン」という店に入った。
入る時には日本語の「ラーメン」という看板に気付かなかったがメニューを見たり飾っている日本人形のコケシなどを見て「あれ?ここって日本料理店なのでは」と気付く。そして焼ソバ(¥10元)を頼んだ。出できたのは日本風で味も悪く無い。首山にこんな店があるとは?“おすまし”も薄味で私の味覚に合った。2元の水と4元のジュースと合わせて¥16元。
思わぬ店との出会いに疲れも和らぎ一息ついて饅頭山へ再び向かう。首山公園に来た時は、公園前の勝利街北側沿いにあるこの店で昼食をお勧めします!きっと店主は日本に住んでいたことがあるのでは?料理もそうだが店の雰囲気も全てが違った。品がある。 -
昼食休憩に「千禾拉麺:千禾ラーメン」に入る
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.215531,123.091357&spn=0.001654,0.002411&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=19
ラーメンと日本語なのにその時は何も気付かず -
首山鎮に日本料理の店があると思わず
そういえば日本風のメニューだったし
どこか違う雰囲気があった -
焼きソバも澄し汁も美味しかった
偶然とはいえラッキーだった
一息付き元気回復した
でも10年前より体力気力の衰えを感じる -
再び饅頭山の展望台へと向かう
朝は露店がひしめき合い人で溢れていた
首山公園広場はすっかり片付き人の姿もない -
饅頭山ハイキングロードから北大山を眺める
ここから北大山の全体像が見えた
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■再び饅頭山へ登る
饅頭山のハイキングロードから少し外れた場所で、北大山の全体が見えるところがある、そこからデジカメズームで見たらきっちり堡塁が見えた。そこにあると知っていれば肉眼でも小さい堡塁だがその存在は分かる。それくらいの距離にある。当時斜面にへばりつき苦戦している状況がそれぞれに手に取るように見えていたのが納得出来た。
最初とは違う方向から頂上に登った。周回しているハイキング道路から何ヶ所か上に登る道があり5分で頂上に出る。朝来た時は「あれが北大山だろう」・・・だったが、堡塁を確認し第二軍の「首山堡の戦い」の戦場が大体把握できた。そしてこの展望台より南方向に一望し得る田畑と山々のなかに櫻桃園・黒牛庄・土台子等々の今も当時も同じ村落の名称の地がきっと私の視野のなかにあったはずだ。
名残惜しいが十分堪能した。首山堡の戦場に来れた。朝は気付かなかったが茶色の「カメムシ」がやたらに飛び回り顔に止まったりするので気持ちが悪く“ゆっくり”する気持ちになれず。虫が嫌で饅頭山の展望台から早々に下りてきた。
銃弾に踏み止まるのとは大違いだがこれが似非平和に生まれ育った私の本質なり。似非でも何でも平和は戦争より、その時々に生きる人間にとってはこんな幸は無い。しかしご先祖や子孫に対して似非平和を享受し国の名誉や誇りが傷ついても見て見ない振りの戦後日本人は未来に軽蔑されるしかない。俄然そうならなければ日本は滅びている。 -
上の写真と同じ場所でズーム撮影する
良く見れば肉眼でも堡塁が確認できる
分ってて見ないと見つけるのは難しい -
再びやって来た饅頭山山頂の展望台
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(北)
北部高地 -
(南)
向陽寺方向 -
(東)
この右斜め方向に北大山 -
(西)
首山駅方向 -
赤い柱に点々とあるのはカメムシ
カメムシの大軍襲来で
早々にこの場から降りる -
首山公園入り口にいたこのタクシーに乗る
往路30元、復路20元、運転手は違う
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■遼陽に戻り廣佑寺と白塔公園へ
午後2時18分、首山公園傍でタクシーの拭き掃除をしていた運転手に声を掛けて遼陽站に向かう。午前8時半〜午後2時18分、首山堡滞在5時間48分なり。タクシー代は往路¥30元、帰路¥25元。これはメーターの料金ではなく交渉値段。相手によってちょこっとづつ違う。
首山公園から站まで20分、そこから10分ほど歩いて賓館へ戻ってゆっくり小休止と思ったが、貧乏性ゆえなのか?それとも今日はまだまだ元気なのか?10分ほど休憩しただけで外に出て行く。といっても行くのは道路を隔てた向かいの廣佑寺と白塔公園へ。
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.279516,123.175578&spn=0.006611,0.009645&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=17
9年前に同じ遼陽賓館に泊まり廣佑寺に行った。9年ぶりの再訪だったが寺の正面の電光掲示板には「“9:18”事件、国辱の日を忘れるな!」との文言が左から右に流れていた。そうか今日は9月18日だった。9年前は最初に¥5元、中で30元、計35元だった。今回は最初¥10元、中で40元、計¥50元と15元値上がりしていた。門票二ヶ所、最初は安く中に入って次の関門が高いって、まるで騙しのテクニックの如し。
デカイが木造ならぬコンクリート建て、金ぴか大仏を見る。日露戦争当時は如何に?「廣佑寺」には世界最大が五つある。大雄宝殿の前には狛犬ならぬ狛象が左右に寺を守っていた。廣佑寺を足を引き摺りながら散策し終わり隣の白塔公園に向かった。 http://yaplog.jp/dalian/archive/745
白塔の傍に遼陽神社
http://heaven-17.cocolog-nifty.com/photos/wagayano/no8_19.html
があったようだ。今その神社跡は現在:円通禅院となっている。その時は円通禅院が遼陽神社跡地だとは確証なく、写真からみて多分ここに神社があったのだろうと思いながら寺に参っていた。
http://blog.sina.com.cn/s/blog_493f5e330100j1la.html -
廣佑寺の電光掲示板に
「9:18国辱の日を忘れるな!」
のメッセージが流れていた
こんな寺院までそうなのか・・・と
難儀な隣国ここにあり、国交断絶を願う -
大雄宝殿前両サイドには狛犬ではなく狛象が
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白塔、遼代晩期に完成
高さ71mのレンガ塔で、東北三省で最も高い塔
日露満洲時代を経て日本人はこの塔を見てきた -
圓通禅寺
満洲時代ここに遼陽神社があった -
往時の遼陽神社
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遼陽賓館周辺を散策する
どこも変わらぬ路地風景がある
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■夕食を食べホテルに戻る
私は今も満洲建国を侵略とは思っていない。当時の世界情勢のなかで日本の独立自尊を守り、東亜の平和と日本が中心となり八紘一宇の世界を目指すという大儀の下に成したことだ。もし今も満州国あれば、それは一体どんな国なのか?
日本と固い絆で結ばれた友邦国、東アジアの大国として君臨し、アジア大陸は満州国を楔としてヨーロッパ大陸に比して劣らぬ大陸として存在しているかもしれない。2008年内蒙古ノモンハンに旅した時、モンゴル人のガイドから「もう一度満州国を作ってくださいよ、私も戦いますから」と頼まれた。そんな声があるのも事実だ。私は先人が命を賭して成した事を安易に批判しない、出来ない、する気持ちにもなれない。当時と今とは世界情勢、価値感、その他多くが違う。
白塔公園では凧揚げもやっていた。首山堡の余韻も心地良く遼陽のひと時を公園で過ごした。そのあと夕食を食べに9年前を思い出しながら賓館周辺を散策した。「何を食べようか?」と小吃店を覗きながら歩いたが未だ美味い物を見極めること適わず。今なら日本料理店があれば迷わず入る。海外旅行と食事は旅行者にとって重大要素なのかもだが、私にとっては何でも良い。美味ければ・・・いや、不味くなければ。期待はしない。
朝鮮冷麵の店を見つけて入った。冷麵はだいたい味の外れは今までなかった。それと麻婆豆腐を頼んだ。写真では量は分かり難いが麻婆豆腐の量はやっぱり十人分だった。残すのは申し訳ないが無理して食うことは出来ず仕方が無い。冷麵はまあそこそこだった。¥17元なり。
食事を終え部屋に戻って大休止。テレビは多チャネルでCCTVスポーツ専門チャネルも見れる。ヨーロッパでの試合もあり、我が家のテレビでは見れない本田や香川の試合も流れていたので部屋での退屈もない。明日は三塊石山を目指す。 -
この朝鮮冷麵の文字を見て入る
-
午後5時20分、夕食にはまだ早いので誰もいない
食べ物の注文は今も苦手で、美味い物が分らない -
朝鮮冷?跟と麻婆豆腐、知っているのを頼む
麻婆豆腐の量はうんざりするほど山盛り
ホテルに戻って今日の一日は終わった
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軍神橘中佐 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/961030
市川紀元二中尉(No.74) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209621
首山堡の大激戦(No.202) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1873642
第二軍従軍記(No.209):田山花袋従征日記
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903488
日露戦役写真帖(第二) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774288
日露戦役写真帖(第三) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774297
日露戦役写真帖(第四) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774298
「第34連隊誌」(No54)
この第34連隊誌に詳細詳しい。戦闘図も納得。これによれば橘山とは首山堡南方標高148高地のようだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088166
標題:自8月30日至9月3日遼陽付近に於ける第3師団戦闘経過詳図(No.18)
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13110498500?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E9%A6%96%E5%B1%B1%E5%A0%A1%E3%80%80&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&
標題:第24 首山堡附近の戦闘
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C14060958000?IS_KIND=MetaSummary&IS_TAG_S32=&IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=%E9%A6%96%E5%B1%B1%E5%A0%A1&IS_TAG_S1=InfoD&IS_LGC_S32=&
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この旅行記へのコメント (2)
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- こまちゃんさん 2014/12/08 23:15:04
- 味千拉麺のパクリですね。
- 味千拉麺自体も、熊本で修行した台湾人が香港に出店して拡張したので、ちょこっとモドキっぽいんですけど、この「千禾ラーメン」は、その味千のパクリだと思います。
(楽じゃなくて稲の簡略文字で「禾」と言う文字で、広東方面のお店や料理名に多く用いられている文字です)
味千はチェーン店として巨大化しすぎてもう味が落ち目ですけど、こちらは地道に営業してもらえたら、いつかこっちがブランドになったりして(^_^(そんな匠精神の人は居ないか・・・)
こま
- 明石DSさん からの返信 2014/12/09 08:30:58
- RE: 味千拉麺のパクリですね。
- 「千楽」ではなく「千禾ラーメン」でしたか、ご教授ありがとうございます。
思いもよらない場所で、この店での焼きソバはなかなかそれなりでした
店も品があって、小さな店で店員も少なく味と量と雰囲気は良かったです
いつも量の多さに“げんなり”しますから
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