遼寧省旅行記(ブログ) 一覧に戻る
瀋陽の朝 <br /> <br />&#8206;大虎山へ行く朝、まあまあの天気のようで一安心 <br /><br /> 午前5時39分、2106号室から北站を写す <br /><br />/////////////////////////////////////<br /><br />2日目:9月17日(水):晴れ <br /><br />瀋陽〜大虎山〜遼陽へ <br /><br /><br />2014/平成26年9月17日(水)<br /><br />■瀋陽の朝 <br /><br />いつものように日本時間6時ごろ目覚める。中国時間は午前5時。浅いけどバスタブがあるので朝風呂に入り、ゆっくり準備をする。 <br /><br />午前6時過ぎに朝飯を食べに外に出る。9年前に北站にあった牛丼「吉野家」で食べた。なので今朝も吉野家に行こうと決めていた。駅前の光景は変わっていたが駅そのものは9年前と同じで吉野屋も同じ場所にあった。マクドやケンタッキーと同じようにカウンターで注文し受け取る。メニューは日本より数多く牛丼専門店という感じではない。 <br /><br />お粥セット(12元)があったので迷わず頼んだ。美味しかった。昨日は夜に到着したので位置関係が良く分からず、吉野屋を出てまず昨日到着した客運站を確認に歩く。客運站「遼寧省汽車快速客運站」はすぐに見つかったが、その傍にビックリの丸いビルがあった。帰国後ネット検索したら「方円大厦」:2001年完成、世界で最も醜い建築物に選ばれた代物だった。 <br /><br />目立つことは目立つが使い勝手は如何な物か?時間があって入れるものなら入ってみたかったけど。散歩はそれだけでまたホテルに戻ってリュックを担ぎ退房(Tui fang チェックアウト)をした。 <br /> <br /><br />

(大虎山)・首山堡・三塊石山・本渓湖・萬寶山を訪ねる:2日目

9いいね!

2014/09/16 - 2014/09/22

122位(同エリア259件中)

2

53

明石DS

明石DSさん

瀋陽の朝

‎大虎山へ行く朝、まあまあの天気のようで一安心

午前5時39分、2106号室から北站を写す

/////////////////////////////////////

2日目:9月17日(水):晴れ

瀋陽〜大虎山〜遼陽へ


2014/平成26年9月17日(水)

■瀋陽の朝

いつものように日本時間6時ごろ目覚める。中国時間は午前5時。浅いけどバスタブがあるので朝風呂に入り、ゆっくり準備をする。

午前6時過ぎに朝飯を食べに外に出る。9年前に北站にあった牛丼「吉野家」で食べた。なので今朝も吉野家に行こうと決めていた。駅前の光景は変わっていたが駅そのものは9年前と同じで吉野屋も同じ場所にあった。マクドやケンタッキーと同じようにカウンターで注文し受け取る。メニューは日本より数多く牛丼専門店という感じではない。

お粥セット(12元)があったので迷わず頼んだ。美味しかった。昨日は夜に到着したので位置関係が良く分からず、吉野屋を出てまず昨日到着した客運站を確認に歩く。客運站「遼寧省汽車快速客運站」はすぐに見つかったが、その傍にビックリの丸いビルがあった。帰国後ネット検索したら「方円大厦」:2001年完成、世界で最も醜い建築物に選ばれた代物だった。

目立つことは目立つが使い勝手は如何な物か?時間があって入れるものなら入ってみたかったけど。散歩はそれだけでまたホテルに戻ってリュックを担ぎ退房(Tui fang チェックアウト)をした。


  • 駅は9年前と同じだが、駅前の様子は変わった <br /><br />目指すは北站吉野屋へ、9年前のことを忘れず <br />

    駅は9年前と同じだが、駅前の様子は変わった

    目指すは北站吉野屋へ、9年前のことを忘れず

  • 駅を背に瀋陽時代広場酒店を写す <br /><br />真ん中、三棟並ぶビルの左端 <br />

    駅を背に瀋陽時代広場酒店を写す

    真ん中、三棟並ぶビルの左端

  • 記憶の場所と同じところに今もあった、ハハハ <br /><br />9年前の4月は満54歳、その時と今と変化大<br /> 当時子供三人は未婚、今、皆結婚し孫五人 <br />

    記憶の場所と同じところに今もあった、ハハハ

    9年前の4月は満54歳、その時と今と変化大
    当時子供三人は未婚、今、皆結婚し孫五人

  • 日本の吉野屋と違ってメニューは多い<br />反日支那と吉野家、その時々に客の増減はあるやなしや <br /><br />二年前の反日騒動の時、この店はどうだったのだろうか?<br /> 今朝はこれが日々の光景なのか?客は沢山いた <br />

    日本の吉野屋と違ってメニューは多い
    反日支那と吉野家、その時々に客の増減はあるやなしや

    二年前の反日騒動の時、この店はどうだったのだろうか?
    今朝はこれが日々の光景なのか?客は沢山いた

  • 粥があったので即注文¥12元 <br /><br />お粥は中国の何処で食っても美味い <br />

    粥があったので即注文¥12元

    お粥は中国の何処で食っても美味い

  • <br />遼寧省汽車快速客運站の横に建つ「方円大厦」<br />目立つなら使い勝手の不便は我慢する <br /><br />2001年完成<br />世界で最も醜い建築物に選ばれたよし <br /><br />これぞ見栄と面子の文化の真骨頂、偉い! <br /><br />http://baike.baidu.com/subview/81228/7486740.htm


    遼寧省汽車快速客運站の横に建つ「方円大厦」
    目立つなら使い勝手の不便は我慢する

    2001年完成
    世界で最も醜い建築物に選ばれたよし

    これぞ見栄と面子の文化の真骨頂、偉い!

    http://baike.baidu.com/subview/81228/7486740.htm

  • 北站二階から入り口方向を写す <br /><br />瀋陽北駅は北站はベイジャン<br />瀋陽駅は南站はナンジャン<br />満洲時代の奉天駅は南站 <br /><br />////////////////////////////////////////<br /><br />■瀋陽北駅 <br /><br />午前8時、大虎山を目指して北站(ベイジャン 瀋陽北駅)に向かう。人間観察が趣味の私には人が大勢集まる駅は興味津々で面白い。 <br /><br />何処から来たのか?どこに行くのか?回族の一団40人くらいが記念写真を撮っていた。イスラム教徒の彼らは男性は白い帽子、女性はベールを被っているので一見して分かる。でも帽子やベールを被っていなければ分からない。新疆ウィグルのイスラム教徒:ウィグル人はトルコ系(テュルク系民族)なのですぐに見分けが付く。 <br /><br />二年前に張家口に行った時、汽車の切符を買うのにパスポートの提示が必要になっていて驚いたがそれが今も続いている。自国民でも身分証の提示が必要だ。一党独裁共産党の下に平等を謳いながら現実は一部の大金持ち、その他は奴隷の如し。そして新疆ウィグル・チベット・内蒙古を軍事力で支配下に置きテロに怯える哀れな国だ。 <br /><br />日本の駅でも行き先によってホームが分かれているように中国も大きな駅は、飛行場や客運站のように乗車(搭乗:候車)口が沢山ある。「K1302次」の乗車口(A8・A9)を探して見つけた。この列車は満洲里を昨日の午後1時9分に出発して、終点北京に今日の午後9時18分着。2255キロ・32時間9分の走行時間。 http://qq.ip138.com/train/K1302.htm<br /><br />北站午前9時48分(発)→大虎山(着)午前11時17分。北站の次の停車駅が大虎山だった。駅内をブラブラしたり乗車口の椅子に座って人間を見ながら時間を潰した。大きなドンゴロスを抱えて列車を待つ浅黒く日焼けした農民を見ればこれぞ大陸中国人の逞しさを感じる。 <br /><br />そして“オバチャン”が無心にひまわりの種を食べる姿も面白い。他はみんなスマートフォン片手に指を動かしている。この風景は最早世界共通になっているのだろう。観察は飽きない。駅構内にも吉野家があった。9時25分頃乗車が始まった。飛行機の搭乗口に並ぶのと同じだ。えっ?いつ間にこんなに多くの人がといつも思う。14億?の民は想像を絶する。 <br />

    北站二階から入り口方向を写す

    瀋陽北駅は北站はベイジャン
    瀋陽駅は南站はナンジャン
    満洲時代の奉天駅は南站

    ////////////////////////////////////////

    ■瀋陽北駅

    午前8時、大虎山を目指して北站(ベイジャン 瀋陽北駅)に向かう。人間観察が趣味の私には人が大勢集まる駅は興味津々で面白い。

    何処から来たのか?どこに行くのか?回族の一団40人くらいが記念写真を撮っていた。イスラム教徒の彼らは男性は白い帽子、女性はベールを被っているので一見して分かる。でも帽子やベールを被っていなければ分からない。新疆ウィグルのイスラム教徒:ウィグル人はトルコ系(テュルク系民族)なのですぐに見分けが付く。

    二年前に張家口に行った時、汽車の切符を買うのにパスポートの提示が必要になっていて驚いたがそれが今も続いている。自国民でも身分証の提示が必要だ。一党独裁共産党の下に平等を謳いながら現実は一部の大金持ち、その他は奴隷の如し。そして新疆ウィグル・チベット・内蒙古を軍事力で支配下に置きテロに怯える哀れな国だ。

    日本の駅でも行き先によってホームが分かれているように中国も大きな駅は、飛行場や客運站のように乗車(搭乗:候車)口が沢山ある。「K1302次」の乗車口(A8・A9)を探して見つけた。この列車は満洲里を昨日の午後1時9分に出発して、終点北京に今日の午後9時18分着。2255キロ・32時間9分の走行時間。 http://qq.ip138.com/train/K1302.htm

    北站午前9時48分(発)→大虎山(着)午前11時17分。北站の次の停車駅が大虎山だった。駅内をブラブラしたり乗車口の椅子に座って人間を見ながら時間を潰した。大きなドンゴロスを抱えて列車を待つ浅黒く日焼けした農民を見ればこれぞ大陸中国人の逞しさを感じる。

    そして“オバチャン”が無心にひまわりの種を食べる姿も面白い。他はみんなスマートフォン片手に指を動かしている。この風景は最早世界共通になっているのだろう。観察は飽きない。駅構内にも吉野家があった。9時25分頃乗車が始まった。飛行機の搭乗口に並ぶのと同じだ。えっ?いつ間にこんなに多くの人がといつも思う。14億?の民は想像を絶する。

  • 回族(イスラム教徒)の人達の記念撮影<br /> 中国は漢民族他55民族で成り立つ? <br /><br /> 少なくとも新疆ウィグル・チベット・内蒙古は<br />現在進行形で中国共産党に侵略されている<br />固有の言語・文化歴史を有し独立を望んでいる <br />

    回族(イスラム教徒)の人達の記念撮影
    中国は漢民族他55民族で成り立つ?

    少なくとも新疆ウィグル・チベット・内蒙古は
    現在進行形で中国共産党に侵略されている
    固有の言語・文化歴史を有し独立を望んでいる

  • 大虎山行きの乗り口前で待つ人達 <br /><br /> 「満洲里→北京」32時間9分の長距離列車 <br />

    大虎山行きの乗り口前で待つ人達

    「満洲里→北京」32時間9分の長距離列車

  • 乗車口が開きホームへと入っていく<br />列車の到着は9時28分、発車は9時48分 <br /><br /> 北站では20分の停車<br />ちゃんと私の席はあるかなァ〜・・・と<br />座席に座るまではいつも不安 <br />

    乗車口が開きホームへと入っていく
    列車の到着は9時28分、発車は9時48分

    北站では20分の停車
    ちゃんと私の席はあるかなァ〜・・・と
    座席に座るまではいつも不安

  • さあ今から列車に乗り込もう・・・13号車はいずこ? <br /><br /> 久々の満洲列車の旅、寝台車があれば軟座はない<br />硬座の車中は中国老百姓(普通の人)の縮図なり <br /><br /><br />///////////////////////////////////////<br /><br />■瀋陽から大虎山へ <br /><br />13号車86号が私の座席だ。すでに車中は八割がたの乗客で空いている座席は少ない。「窓側だったらいいのに、もし自分の席に誰かが座っていたら嫌だなァ〜」なんて思いながら座席を探したら、三座席の真ん中だった。向かい三人すでに満席で、こっちは窓側に人はいなく通路側に後から“オバチャン”が座った。とりあえずホッとする。 <br /><br />車内はいつもの光景で賑やかであり、硬座での長い列車の旅道中、あちこちで食い散らかしている。車掌の仕事は掃除もその一つで乗り込んでいる人数も多い。通路で立って大きな声で何かの営業をしている者もいた。硬座の車中も日本では見られない中国独特の風物詩の一つだ。 <br /><br />窓側の席の若者が席に戻ってきたので私は真ん中の座席で窮屈だし車窓の景色も撮れないので、席を離れて連結部にいることが多かった。ここにはトイレや洗面所もあり出入りも多い。そして喫煙所でもありタバコの煙が立ち込めている。私はそのドア側に立ち外の風景を眺めていた。車窓は一面畑の満洲の景色が続いている。トウモロコシ畑or高粱畑。 <br />

    さあ今から列車に乗り込もう・・・13号車はいずこ?

    久々の満洲列車の旅、寝台車があれば軟座はない
    硬座の車中は中国老百姓(普通の人)の縮図なり


    ///////////////////////////////////////

    ■瀋陽から大虎山へ

    13号車86号が私の座席だ。すでに車中は八割がたの乗客で空いている座席は少ない。「窓側だったらいいのに、もし自分の席に誰かが座っていたら嫌だなァ〜」なんて思いながら座席を探したら、三座席の真ん中だった。向かい三人すでに満席で、こっちは窓側に人はいなく通路側に後から“オバチャン”が座った。とりあえずホッとする。

    車内はいつもの光景で賑やかであり、硬座での長い列車の旅道中、あちこちで食い散らかしている。車掌の仕事は掃除もその一つで乗り込んでいる人数も多い。通路で立って大きな声で何かの営業をしている者もいた。硬座の車中も日本では見られない中国独特の風物詩の一つだ。

    窓側の席の若者が席に戻ってきたので私は真ん中の座席で窮屈だし車窓の景色も撮れないので、席を離れて連結部にいることが多かった。ここにはトイレや洗面所もあり出入りも多い。そして喫煙所でもありタバコの煙が立ち込めている。私はそのドア側に立ち外の風景を眺めていた。車窓は一面畑の満洲の景色が続いている。トウモロコシ畑or高粱畑。

  • 「K1302次」 <br /><br />16号車は前、1号車は後ろ<br />

    「K1302次」

    16号車は前、1号車は後ろ

  • 満洲里からすでに20時間が経過<br />この車中で一晩過ごした乗客たち <br /><br />北京まであと12時間<br /> 北京到着は今日の午後9時18分 <br />

    満洲里からすでに20時間が経過
    この車中で一晩過ごした乗客たち

    北京まであと12時間
    北京到着は今日の午後9時18分

  • 車窓には高粱なのかトウモロコシなのか? <br /><br />モロコシ <br /><br />北站から大虎山まで・・・<br />車窓の左右は同じような景色が続いていた <br />

    車窓には高粱なのかトウモロコシなのか?

    モロコシ

    北站から大虎山まで・・・
    車窓の左右は同じような景色が続いていた

  • 我大虎山駅に降り立つ <br /><br />1931年満洲事変以降1945年敗戦後<br />日本人が引揚げるまでの14年余り<br />多くの日本人が暮らすところになった <br /><br />昭和20年8月19日 <br /><br />この大虎山から日本軍最後の特攻隊<br />「神州不滅特別攻撃隊」が赤峰に向かって出撃した <br /><br /><br />http://baike.baidu.com/view/314675.htm?fr=aladdin<br /><br />//////////////////////////////////////<br /><br />■大虎山(だいこざん)に来る! <br /><br />北站から一つ目の停車駅が大虎山だった。定刻11:17分より少し遅れて到着した。我大虎山に来る!昭和20年8月19日、この大虎山陸軍飛行場から11機の「神州不滅特別攻撃隊」が飛び立った。これぞ日本帝国陸海軍最後の航空特攻出撃だ。 <br /><br />大虎山は遼寧省錦州市黒山県にある小さな町(鎮)。「妻と飛んだ特攻兵」豊田正義(著)が出たことによって多くの日本人が知るところになったのでは・・・。私もその内の一人だ。平成23年8月5日発売のフライデーから三部に渡って紹介され、2年後の平成25年6月この本が世に出た。つい去年のことだ。 <br /><br />1931/昭和6年9月18日:柳条湖事件に端を発した満州事変、そして翌年1932(昭和7)年2月、満州建国。満洲国の一部となった熱河省からアヘン販売で莫大な収入を得ていた張学良は熱河省を奪還すべく義勇軍を作り抗日に動き出した。その中国軍を叩くために関東軍は熱河作戦を実施し昭和8年にはこの大虎山に第六師団の連隊本部が置かれていた。 <br /><br />中国軍といっても蒋介石の直系軍他、張学良、その他の雑軍が入り混じったもので日本軍の記録では匪賊討伐・掃匪作戦・という言葉が使われている。この雑軍はそれぞれが自らの利益を得る目的で戦っており蒋介石は雑軍の結束を崩すためあらゆる策略を講じていた。 <br /><br />そして1933年(昭和8年)5月31日、河北省塘沽(たんく)において日本軍と中国軍との間に「塘沽協定」が締結されこれにより柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突は停止された。その当時からこの大虎山にも軍人だけではなく民間の日本人が住みだし、昭和8年3月4日の日付で外務大臣宛に打虎山民会が「教育補助金を要請」している。その一ヵ月後の4月25日には今度は「打虎山」ではなく「大虎山」となっているが尋常小学校設立を願っている。 <br /><br />そこには・・・。<br />『昭和七年一月初旬当地占領後一年数ヶ月の間に官公吏を除く一般居住者が約250名に達し、世帯数40数戸、附近に居住する者を合わせれば小学校通学児童約20名に達す。小学校は国民教育の基礎にして大虎山尋常小学校の設立を願う(簡略)』と大虎山居留民会の設立事由書がある。 <br /><br />http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B04011856900?IS_STYLE=default&amp;IS_KIND=SimpleSummary&amp;IS_TAG_S1=InfoD&amp;IS_KEY_S1=%E6%89%93%E8%99%8E%E5%B1%B1%E6%B0%91%E4%BC%9A&amp;IS_LGC_S32=&amp;IS_TAG_S32=&amp;<br /><br />http://akasids.web.fc2.com/ryokou/dahushan/dahushan.html#a&quot;<br /><br />瀋陽から「K1302次」では次の駅になる大虎山。現在そんなに大きな町ではないようだが列車は停まる。降りる人もそれなりに乗る人もそれなりにホームに待っていた。大虎山を探したがホーム上では見えず。ホームをまたいで出口に向かう歩道橋から写真で見ていた岩ばかりの大虎山が見えた。 <br /><br />そして立派な駅舎の前に立つ虎の銅像が出迎えてくれた。「あァ来たなあ」という感想だ。今では来る前にグーグルアースやネット写真で見ている物ばかりなので、何処に行っても「あっこれや。こんなところにこんな風にあるんや・・・」という感じだ。それでも現地に行ってこその感慨はある。 谷藤朝子さんが昭和20年7月ここに到着した。 <br /><br />出口を出たら客待ちタクシーが見慣れた光景でたむろしている。右斜め前方には大虎山。地図同様近いしすぐに登れそうだった。まずいつもの要領で駅前で一呼吸おきおもむろにタクシーを包車する。見た目うっとうしい“おっさん”運転手(“Dさん”43歳嫁と息子20歳)に声を掛けた。ここに二日泊まる予定で来たのでこの時は焦らず“ゆっくり”としようと思っていた。 <br /><br />でも性分ゆえに自分の行動はいつものパターン。まずDさんにホテルへの案内を頼んだ。そしてホテルに着いたら早速フロントの可愛い小姐に旅の目的を書いた質問状を見せた。すると「私のお祖母さんが80歳以上なので知っているかも・・・」とその場で携帯で電話をしてくれたが結果は残念ながら「知らない」だった。 <br />

    我大虎山駅に降り立つ

    1931年満洲事変以降1945年敗戦後
    日本人が引揚げるまでの14年余り
    多くの日本人が暮らすところになった

    昭和20年8月19日

    この大虎山から日本軍最後の特攻隊
    「神州不滅特別攻撃隊」が赤峰に向かって出撃した


    http://baike.baidu.com/view/314675.htm?fr=aladdin

    //////////////////////////////////////

    ■大虎山(だいこざん)に来る!

    北站から一つ目の停車駅が大虎山だった。定刻11:17分より少し遅れて到着した。我大虎山に来る!昭和20年8月19日、この大虎山陸軍飛行場から11機の「神州不滅特別攻撃隊」が飛び立った。これぞ日本帝国陸海軍最後の航空特攻出撃だ。

    大虎山は遼寧省錦州市黒山県にある小さな町(鎮)。「妻と飛んだ特攻兵」豊田正義(著)が出たことによって多くの日本人が知るところになったのでは・・・。私もその内の一人だ。平成23年8月5日発売のフライデーから三部に渡って紹介され、2年後の平成25年6月この本が世に出た。つい去年のことだ。

    1931/昭和6年9月18日:柳条湖事件に端を発した満州事変、そして翌年1932(昭和7)年2月、満州建国。満洲国の一部となった熱河省からアヘン販売で莫大な収入を得ていた張学良は熱河省を奪還すべく義勇軍を作り抗日に動き出した。その中国軍を叩くために関東軍は熱河作戦を実施し昭和8年にはこの大虎山に第六師団の連隊本部が置かれていた。

    中国軍といっても蒋介石の直系軍他、張学良、その他の雑軍が入り混じったもので日本軍の記録では匪賊討伐・掃匪作戦・という言葉が使われている。この雑軍はそれぞれが自らの利益を得る目的で戦っており蒋介石は雑軍の結束を崩すためあらゆる策略を講じていた。

    そして1933年(昭和8年)5月31日、河北省塘沽(たんく)において日本軍と中国軍との間に「塘沽協定」が締結されこれにより柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突は停止された。その当時からこの大虎山にも軍人だけではなく民間の日本人が住みだし、昭和8年3月4日の日付で外務大臣宛に打虎山民会が「教育補助金を要請」している。その一ヵ月後の4月25日には今度は「打虎山」ではなく「大虎山」となっているが尋常小学校設立を願っている。

    そこには・・・。
    『昭和七年一月初旬当地占領後一年数ヶ月の間に官公吏を除く一般居住者が約250名に達し、世帯数40数戸、附近に居住する者を合わせれば小学校通学児童約20名に達す。小学校は国民教育の基礎にして大虎山尋常小学校の設立を願う(簡略)』と大虎山居留民会の設立事由書がある。

    http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B04011856900?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E6%89%93%E8%99%8E%E5%B1%B1%E6%B0%91%E4%BC%9A&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&

    http://akasids.web.fc2.com/ryokou/dahushan/dahushan.html#a"

    瀋陽から「K1302次」では次の駅になる大虎山。現在そんなに大きな町ではないようだが列車は停まる。降りる人もそれなりに乗る人もそれなりにホームに待っていた。大虎山を探したがホーム上では見えず。ホームをまたいで出口に向かう歩道橋から写真で見ていた岩ばかりの大虎山が見えた。

    そして立派な駅舎の前に立つ虎の銅像が出迎えてくれた。「あァ来たなあ」という感想だ。今では来る前にグーグルアースやネット写真で見ている物ばかりなので、何処に行っても「あっこれや。こんなところにこんな風にあるんや・・・」という感じだ。それでも現地に行ってこその感慨はある。 谷藤朝子さんが昭和20年7月ここに到着した。

    出口を出たら客待ちタクシーが見慣れた光景でたむろしている。右斜め前方には大虎山。地図同様近いしすぐに登れそうだった。まずいつもの要領で駅前で一呼吸おきおもむろにタクシーを包車する。見た目うっとうしい“おっさん”運転手(“Dさん”43歳嫁と息子20歳)に声を掛けた。ここに二日泊まる予定で来たのでこの時は焦らず“ゆっくり”としようと思っていた。

    でも性分ゆえに自分の行動はいつものパターン。まずDさんにホテルへの案内を頼んだ。そしてホテルに着いたら早速フロントの可愛い小姐に旅の目的を書いた質問状を見せた。すると「私のお祖母さんが80歳以上なので知っているかも・・・」とその場で携帯で電話をしてくれたが結果は残念ながら「知らない」だった。

  • 午前11時33分:撮影 <br /><br /> 列車が長いからプラットホームも長い <br />

    午前11時33分:撮影

    列車が長いからプラットホームも長い

  • 大虎山には陸軍が駐屯し飛行場があり神社・小学校他<br /> 軍人民間、多くの日本人が暮らしいた大虎山だがその痕跡は? <br /><br />日本での事前の情報資料がほとんどなくこの地に着いた<br /> ホテルの予約も取れないままで来た大虎山果たして結果は如何に <br />

    大虎山には陸軍が駐屯し飛行場があり神社・小学校他
    軍人民間、多くの日本人が暮らしいた大虎山だがその痕跡は?

    日本での事前の情報資料がほとんどなくこの地に着いた
    ホテルの予約も取れないままで来た大虎山果たして結果は如何に

  • 満洲時代の大虎山駅 <br /><br />「?州旧影 020-?・山?大虎山火?站」 <br />http://blog.sina.com.cn/s/blog_4c2a067b0102uz0x.html

    満洲時代の大虎山駅

    「?州旧影 020-?・山?大虎山火?站」
    http://blog.sina.com.cn/s/blog_4c2a067b0102uz0x.html

  • 虎が出迎えてくれる<br />そういえば私も寅年 <br /><br />それぞれの時代この駅に降り立った日本人の思いは皆違う<br />1932/昭和7年頃のこの地の様子、大虎山山上に砲台があった<br />「大虎山附近:満鉄社員健闘録(コマ番号:166−168)」 <br />http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1902740<br /><br />大虎山 <br />https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&amp;ll=41.618362,122.151318&amp;spn=0.026308,0.038581&amp;t=m&amp;lci=com.panoramio.all&amp;brcurrent=3,0x0:0x0,1&amp;z=15

    虎が出迎えてくれる
    そういえば私も寅年

    それぞれの時代この駅に降り立った日本人の思いは皆違う
    1932/昭和7年頃のこの地の様子、大虎山山上に砲台があった
    「大虎山附近:満鉄社員健闘録(コマ番号:166−168)」
    http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1902740

    大虎山
    https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.618362,122.151318&spn=0.026308,0.038581&t=m&lci=com.panoramio.all&brcurrent=3,0x0:0x0,1&z=15

  • 大虎山駅前を写す <br /><br />昭和20年終戦間際の七月上旬新婚早々別れていた夫<br /> 谷藤少尉からを大虎山の官舎が空いたという連絡があった <br /><br />青森の谷藤の実家で暮らしていた朝子は、青森から<br />実家佐賀により母と会って後、この満洲に渡る <br /><br />朝子はこの大虎山でいったい幾日を過ごせたのだろう<br /> ここで二人は再会し、ここから二人は特攻出撃をした <br />

    大虎山駅前を写す

    昭和20年終戦間際の七月上旬新婚早々別れていた夫
    谷藤少尉からを大虎山の官舎が空いたという連絡があった

    青森の谷藤の実家で暮らしていた朝子は、青森から
    実家佐賀により母と会って後、この満洲に渡る

    朝子はこの大虎山でいったい幾日を過ごせたのだろう
    ここで二人は再会し、ここから二人は特攻出撃をした

  • <br />神州不滅特別攻撃隊<br /><br /> 谷藤徹夫少尉(24歳)と妻:朝子(26歳)  <br /><br />この大虎山は満洲建国以降、軍人他日本人が住み尋常小学校はもとより大虎山神社・伊予屋旅館等々日本人の暮らしがあった。大虎山飛行場は本来は不時着場として作られた全長千メートル弱の草地の飛行場だったらしい。 <br />それが本土決戦に備えて特攻隊員の養成が急増し少年飛行兵の練習用の飛行場となり、飛行隊が再編され谷藤少尉は大虎山の第5練習飛行隊に所属することになる。 <br /><br />そして昭和20年7月上旬、谷藤徹夫少尉から青森の実家に暮らす朝子に「新設の飛行場なので官舎が空いているから満洲に来てくれ」との手紙が届き、朝子は青森を発ち本州を縦断し唐津の母親に出会ってから釜山経由で満洲に行った。終戦後の8月19日特攻で飛び立った二人だがこの大虎山で再会したのはたった一ヶ月前ほどだったのか? <br /><br />大虎山での二人は短い官舎暮らしだったが仲睦まじい光景は、二人を知る人たちによって語られている。「主人の出かけには投げキッス」「教え子の少年飛行兵を家に招き手作りの食事で歓待していた」などなど・・・満洲・大虎山へ来て早々にも関わらず姉さん女房朝子の嬉々とした暮らしぶりが手に取るように想像できる。 <br /><br />それが8月9日ソ連参戦、そして8月15日終戦となる。その前日8月14日に偵察飛行していた操縦士の報告は、大虎山から五百キロ北の草原でのソ連軍の在留邦人に対しての虐殺だった。それが世に言う「葛根廟事件」、何が事件か、虐殺だろう。ソ連軍だけではなく中国人も加わっている。 <br /><br />そして特攻前日の8月18日には二ノ宮准尉が偵察飛行を行い赤峰までソ連軍戦車隊が近づいているのを確認した。赤峰までなら97式や95式の練習機でも到達できる距離であり、伊予屋旅館でソ連戦車に特攻することを決めた。そして全11機に搭乗する11名の隊員が決まった。谷藤少尉もその一人となり、妻の朝子を同乗して赤峰目指して飛び立った。 <br /><br />その時同乗した女性は朝子だけではなくスミ子という伊予屋の女中をしていた二十歳くらいの女性が大倉巌少尉(北海道:23歳)の機に同乗していた。8月19日午後2時頃日章旗の小旗を振る大勢の日本人が見送るなか大虎山飛行場から二人の女性を乗せて11機は飛び立つ。しかし伴元和少尉(年齢不明)機は離陸に失敗、飛行場外れに墜落。 <br /><br />宮川次郎少尉(東京都:23歳)は途中エンジン不調で不時着、日本人居留民に助けられ錦州の本部に帰還した。伴少尉、宮川少尉はシベリアに抑留され伴少尉はシベリアの収容所で死亡。宮川少尉もシベリアから復員帰国したが神州不滅特攻隊については何も語らず病死したとのこと。 <br /><br />神州不滅特別攻撃隊の11名は飛行教官として自らは実戦経験もないまま少年飛行兵を育て特攻隊員として送り出していた。その時「必ず俺も後から行くから・・・」との言葉を掛けて見送っていたようだ。そして突如としてのソ連参戦と間もなくの終戦、その時の彼らの気持ちや如何に?想像に難くない。 <br /><br />そんな時にソ連軍の残虐なる偵察報告に接し神州不滅特別攻撃隊の決断は、誰の命令でもなく死場所を得た彼らの嬉々たる意思の下であったと思う。その是非について感謝すれど批判するは笑止千万なり。 <br /><br />新婚早々に別れ九ヶ月を経て大虎山で思いもよらずの嬉しい再会を果たした朝子は何の迷いなく自ら求めて同乗し、スミ子もまたしかりなり。岩佐輝夫少尉(北海道:25歳)は出撃の朝、許婚(いいなづけ)と母親が共に覚悟の自決を見届けてからの出撃だった。 <br /><br />今の時代では想像できない現実の中で彼らは崇高なる道を選択しソ連軍に向かって特攻出撃を果たした。残念ながら特攻の結果について確認もソ連側の記録もなく不明なのが無念だ。きっとソ連軍戦車に激突し同胞の敵討ちを果たしてくれたと思っている。 <br /><br /><br />神州不滅特別攻撃隊 <br /><br />激<br /><br />戦い得ずして戦わざる空の勇士11名 <br />生きて捕虜の汚辱を受けるのを忍び難し <br /><br />ここに神州不滅特別飛行攻撃隊を編成し <br /><br />昭和維新のさきがけたらんとす <br /><br /><br /><br />上記激文の最後に11名の署名と血判が記されていた。 <br /><br />今田達夫少尉(広島:26歳):馬場伊与次少尉(山形:24歳)<br /> 岩佐輝夫少尉(北海道:23歳):大倉巌少尉(北海道:23歳)<br /> 谷藤徹夫少尉(青森:24歳):北島孝次少尉(東京:22歳)<br /> 宮川進二少尉(東京:23歳):日野敏一少尉(兵庫:21歳)<br /> 波田野五男少尉(広島:22歳):伴元和少尉(石川:年齢不明)<br /> 二宮清准尉(静岡:27歳) <br /><br /><br />官舎に残されていた谷藤徹夫少尉:辞世 <br /><br /><br />国敗れて山河なし 生きてかひなき生命なら 死して護国の鬼たらむ<br />


    神州不滅特別攻撃隊

    谷藤徹夫少尉(24歳)と妻:朝子(26歳)

    この大虎山は満洲建国以降、軍人他日本人が住み尋常小学校はもとより大虎山神社・伊予屋旅館等々日本人の暮らしがあった。大虎山飛行場は本来は不時着場として作られた全長千メートル弱の草地の飛行場だったらしい。
    それが本土決戦に備えて特攻隊員の養成が急増し少年飛行兵の練習用の飛行場となり、飛行隊が再編され谷藤少尉は大虎山の第5練習飛行隊に所属することになる。

    そして昭和20年7月上旬、谷藤徹夫少尉から青森の実家に暮らす朝子に「新設の飛行場なので官舎が空いているから満洲に来てくれ」との手紙が届き、朝子は青森を発ち本州を縦断し唐津の母親に出会ってから釜山経由で満洲に行った。終戦後の8月19日特攻で飛び立った二人だがこの大虎山で再会したのはたった一ヶ月前ほどだったのか?

    大虎山での二人は短い官舎暮らしだったが仲睦まじい光景は、二人を知る人たちによって語られている。「主人の出かけには投げキッス」「教え子の少年飛行兵を家に招き手作りの食事で歓待していた」などなど・・・満洲・大虎山へ来て早々にも関わらず姉さん女房朝子の嬉々とした暮らしぶりが手に取るように想像できる。

    それが8月9日ソ連参戦、そして8月15日終戦となる。その前日8月14日に偵察飛行していた操縦士の報告は、大虎山から五百キロ北の草原でのソ連軍の在留邦人に対しての虐殺だった。それが世に言う「葛根廟事件」、何が事件か、虐殺だろう。ソ連軍だけではなく中国人も加わっている。

    そして特攻前日の8月18日には二ノ宮准尉が偵察飛行を行い赤峰までソ連軍戦車隊が近づいているのを確認した。赤峰までなら97式や95式の練習機でも到達できる距離であり、伊予屋旅館でソ連戦車に特攻することを決めた。そして全11機に搭乗する11名の隊員が決まった。谷藤少尉もその一人となり、妻の朝子を同乗して赤峰目指して飛び立った。

    その時同乗した女性は朝子だけではなくスミ子という伊予屋の女中をしていた二十歳くらいの女性が大倉巌少尉(北海道:23歳)の機に同乗していた。8月19日午後2時頃日章旗の小旗を振る大勢の日本人が見送るなか大虎山飛行場から二人の女性を乗せて11機は飛び立つ。しかし伴元和少尉(年齢不明)機は離陸に失敗、飛行場外れに墜落。

    宮川次郎少尉(東京都:23歳)は途中エンジン不調で不時着、日本人居留民に助けられ錦州の本部に帰還した。伴少尉、宮川少尉はシベリアに抑留され伴少尉はシベリアの収容所で死亡。宮川少尉もシベリアから復員帰国したが神州不滅特攻隊については何も語らず病死したとのこと。

    神州不滅特別攻撃隊の11名は飛行教官として自らは実戦経験もないまま少年飛行兵を育て特攻隊員として送り出していた。その時「必ず俺も後から行くから・・・」との言葉を掛けて見送っていたようだ。そして突如としてのソ連参戦と間もなくの終戦、その時の彼らの気持ちや如何に?想像に難くない。

    そんな時にソ連軍の残虐なる偵察報告に接し神州不滅特別攻撃隊の決断は、誰の命令でもなく死場所を得た彼らの嬉々たる意思の下であったと思う。その是非について感謝すれど批判するは笑止千万なり。

    新婚早々に別れ九ヶ月を経て大虎山で思いもよらずの嬉しい再会を果たした朝子は何の迷いなく自ら求めて同乗し、スミ子もまたしかりなり。岩佐輝夫少尉(北海道:25歳)は出撃の朝、許婚(いいなづけ)と母親が共に覚悟の自決を見届けてからの出撃だった。

    今の時代では想像できない現実の中で彼らは崇高なる道を選択しソ連軍に向かって特攻出撃を果たした。残念ながら特攻の結果について確認もソ連側の記録もなく不明なのが無念だ。きっとソ連軍戦車に激突し同胞の敵討ちを果たしてくれたと思っている。


    神州不滅特別攻撃隊



    戦い得ずして戦わざる空の勇士11名
    生きて捕虜の汚辱を受けるのを忍び難し

    ここに神州不滅特別飛行攻撃隊を編成し

    昭和維新のさきがけたらんとす



    上記激文の最後に11名の署名と血判が記されていた。

    今田達夫少尉(広島:26歳):馬場伊与次少尉(山形:24歳)
    岩佐輝夫少尉(北海道:23歳):大倉巌少尉(北海道:23歳)
    谷藤徹夫少尉(青森:24歳):北島孝次少尉(東京:22歳)
    宮川進二少尉(東京:23歳):日野敏一少尉(兵庫:21歳)
    波田野五男少尉(広島:22歳):伴元和少尉(石川:年齢不明)
    二宮清准尉(静岡:27歳)


    官舎に残されていた谷藤徹夫少尉:辞世


    国敗れて山河なし 生きてかひなき生命なら 死して護国の鬼たらむ

  • ホテルが決まりホッとしてすぐに?「大虎山鎮人民政府」ヘ行く <br />https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&amp;ll=41.608528,122.162663&amp;spn=0.001705,0.002411&amp;t=m&amp;lci=com.panoramio.all&amp;brcurrent=3,0x0:0x0,1&amp;z=19<br /><br />前方の男性が役所職員で質問書見せた<br />飛行場跡は「あの辺りにあったはず・・・」と <br /><br />地図に示してくれた。このすぐ近く、今は畑<br />人民政府から道を隔てて東南東方向 <br /><br /><br />///////////////////////////////////////<br /><br />この神州不滅特別攻撃隊は後年関係者の手によって世田谷観音に「神州不滅特別攻撃隊之碑」が建立され慰霊されている。そしてこの本の出版後ネット上にもこのことが出るようになり多くの日本人が知るようになった。<br />http://www.setagayakannon.com/index.cgi?mn=oth&amp;id=humetutokubetu<br /><br />「女性の乗った特攻機」<br />http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1350.html<br /><br />「妻と飛んだ特攻兵」 <br />http://hiroseorth.blogspot.jp/2013/12/blog-post_14.html<br /><br />8月19日特攻出撃後の大虎山は満洲各地の在留邦人の苦難同様ソ連軍や中国人の暴虐が待ち受けていたようだ。「鳴呼想い出尽きない 女子勤労奉仕隊と私」という手記によれば、「世に語り継がれている大虎山の悲劇」とあった。しかしネットで「大虎山の悲劇」を検索しても出てこない。 <br /><br />大虎山についての情報は少なく、飛行場跡が何処なのか?神社や学校はどこにあったのあか?皆目分からなかった。防衛省の「戦史研究センター」に問い合わせても不明であり現地で聞くしかないと思い、中国語で書いた以下の質問書をプリントし大虎山に持って来た。 <br />http://www.nids.go.jp/research/military_history/<br /><br />質問状<br /><br />我从日本来的.我是○○,1950年出生.64?.地址&#39; 日本国兵??西明石.到?在?止我十七次来?中国旅游. <br />我想去找以前大虎山机?,日本??用?的地方.1945年八月十九号?个机?有十一架?机?往赤?悪,在那里和??的坦克相撞.有没有人知道,?些事,如果有的??介??我.以前在大虎山日本???扎和兵?在?犠里? <br /><br />?有日本人生活?的地方,比如?,学校,神社,?站附近伊予屋旅?等地方,?些地方?在在那里.大概的地方就可以.?有我想看旧的地?和照片,如果有的??一定?我看一看. 如果可以的?我想?印.麻??胃?. 可以?助我?? ?拜托了. <br /><br /><br />私は日本から来ました。名前は○○です。1950年生まれで今年64歳です。兵庫県明石市に居住しています。今まで17回中国に旅行に来ています。 <br /><br />私は昔日本軍が使っていた大虎山飛行場を探しに来ました。1945年8月19日この飛行場から11機が赤峰のソ連戦車隊に向かって突っ込んで行きました。そのことを知っている人がいれば私に紹介して下さい。 <br /><br />日本軍が駐屯していた場所や兵舎はどこにあったのでしょうか?そして日本人が生活していたところは何処でしょうか?例えば学校、神社、駅附近に「伊予屋旅館」等々、これらは何処にあったのでしょうか?大体の場所でもよろしいです。 <br /><br />それと昔の地図があれば見せて下さい。宜しければコピーをさせてもらいたいです。お手数をお掛けしますが宜しくお願いします。 <br /><br /><br />■大虎山飛行場を探す <br /><br />小さなホテルだったが部屋も綺麗で「ラッキー!」とさい先の良さに嬉しくなった。そして予定通り大虎山鎮信訪?甓公室(役場)に向かう。小さな町の古めかしい役場だが、もしかしたら日本時代の建物を今も使っているのかもと思える建物だった。車を止めたら運転手も知っている役場の人(50代と思う)がちょうど出かけるのか表にいた。“Dさん”が「この人」というので質問書を見せた。 <br /><br />その人は飛行場の場所は知っているようで私が持参した地図を見ながら「この辺りだ・・・」と教えてくれた。それは役場のすぐ近くだった。しかし今一“あいまい”だったので他にも聞いてみようと役場の中に入りドアが開いている部屋に入った。その部屋は偉いさんなのか個室で一人の女性がパソコンを前に座っていた。驚いた様子だったが質問書を見せたら一応見てくれたが返事は「分からない」だった。 <br /><br />ガランとした役場で訪れる人もいなく日本の市町村役場の雰囲気ではない。何の紹介もなく突然の訪問なので追い出されなかったのが幸いだったが・・・期待は外れた。とりあえず「飛行場はあの辺りにあった」と教えてもらった場所に行った。そこは一面高粱畑で畑の間を抜ける道を歩いたが道の左右は私の背丈ほどの高さの高粱なので空しか見えず。 <br />

    ホテルが決まりホッとしてすぐに?「大虎山鎮人民政府」ヘ行く
    https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.608528,122.162663&spn=0.001705,0.002411&t=m&lci=com.panoramio.all&brcurrent=3,0x0:0x0,1&z=19

    前方の男性が役所職員で質問書見せた
    飛行場跡は「あの辺りにあったはず・・・」と

    地図に示してくれた。このすぐ近く、今は畑
    人民政府から道を隔てて東南東方向


    ///////////////////////////////////////

    この神州不滅特別攻撃隊は後年関係者の手によって世田谷観音に「神州不滅特別攻撃隊之碑」が建立され慰霊されている。そしてこの本の出版後ネット上にもこのことが出るようになり多くの日本人が知るようになった。
    http://www.setagayakannon.com/index.cgi?mn=oth&id=humetutokubetu

    「女性の乗った特攻機」
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1350.html

    「妻と飛んだ特攻兵」
    http://hiroseorth.blogspot.jp/2013/12/blog-post_14.html

    8月19日特攻出撃後の大虎山は満洲各地の在留邦人の苦難同様ソ連軍や中国人の暴虐が待ち受けていたようだ。「鳴呼想い出尽きない 女子勤労奉仕隊と私」という手記によれば、「世に語り継がれている大虎山の悲劇」とあった。しかしネットで「大虎山の悲劇」を検索しても出てこない。

    大虎山についての情報は少なく、飛行場跡が何処なのか?神社や学校はどこにあったのあか?皆目分からなかった。防衛省の「戦史研究センター」に問い合わせても不明であり現地で聞くしかないと思い、中国語で書いた以下の質問書をプリントし大虎山に持って来た。
    http://www.nids.go.jp/research/military_history/

    質問状

    我从日本来的.我是○○,1950年出生.64?.地址' 日本国兵??西明石.到?在?止我十七次来?中国旅游.
    我想去找以前大虎山机?,日本??用?的地方.1945年八月十九号?个机?有十一架?机?往赤?悪,在那里和??的坦克相撞.有没有人知道,?些事,如果有的??介??我.以前在大虎山日本???扎和兵?在?犠里?

    ?有日本人生活?的地方,比如?,学校,神社,?站附近伊予屋旅?等地方,?些地方?在在那里.大概的地方就可以.?有我想看旧的地?和照片,如果有的??一定?我看一看. 如果可以的?我想?印.麻??胃?. 可以?助我?? ?拜托了.


    私は日本から来ました。名前は○○です。1950年生まれで今年64歳です。兵庫県明石市に居住しています。今まで17回中国に旅行に来ています。

    私は昔日本軍が使っていた大虎山飛行場を探しに来ました。1945年8月19日この飛行場から11機が赤峰のソ連戦車隊に向かって突っ込んで行きました。そのことを知っている人がいれば私に紹介して下さい。

    日本軍が駐屯していた場所や兵舎はどこにあったのでしょうか?そして日本人が生活していたところは何処でしょうか?例えば学校、神社、駅附近に「伊予屋旅館」等々、これらは何処にあったのでしょうか?大体の場所でもよろしいです。

    それと昔の地図があれば見せて下さい。宜しければコピーをさせてもらいたいです。お手数をお掛けしますが宜しくお願いします。


    ■大虎山飛行場を探す

    小さなホテルだったが部屋も綺麗で「ラッキー!」とさい先の良さに嬉しくなった。そして予定通り大虎山鎮信訪?甓公室(役場)に向かう。小さな町の古めかしい役場だが、もしかしたら日本時代の建物を今も使っているのかもと思える建物だった。車を止めたら運転手も知っている役場の人(50代と思う)がちょうど出かけるのか表にいた。“Dさん”が「この人」というので質問書を見せた。

    その人は飛行場の場所は知っているようで私が持参した地図を見ながら「この辺りだ・・・」と教えてくれた。それは役場のすぐ近くだった。しかし今一“あいまい”だったので他にも聞いてみようと役場の中に入りドアが開いている部屋に入った。その部屋は偉いさんなのか個室で一人の女性がパソコンを前に座っていた。驚いた様子だったが質問書を見せたら一応見てくれたが返事は「分からない」だった。

    ガランとした役場で訪れる人もいなく日本の市町村役場の雰囲気ではない。何の紹介もなく突然の訪問なので追い出されなかったのが幸いだったが・・・期待は外れた。とりあえず「飛行場はあの辺りにあった」と教えてもらった場所に行った。そこは一面高粱畑で畑の間を抜ける道を歩いたが道の左右は私の背丈ほどの高さの高粱なので空しか見えず。

  • 早速その場所に車で行ったが・・・ <br /><br />高粱畑が左右に広がり眺望悪し<br /> とりあえず真っ直ぐ東に続く道を歩く <br />

    早速その場所に車で行ったが・・・

    高粱畑が左右に広がり眺望悪し
    とりあえず真っ直ぐ東に続く道を歩く

  • しばらく歩けど同じ景色が続くのみ <br /><br />振り返って来た道を写す <br /><br />提到大虎山?机?,我倒想起来,在六零年以前,有??机在那里起降。 <br />http://tieba.baidu.com/p/2114171805?pid=28506006068&amp;cid=0#28506006068<br /><br />「大虎山【?房子】南,年?大一点的人都知道,<br />?在是高粱地,?碧?碧?小?候?里可以看?水泥?煥到的」 <br /><br />大虎山の【赤い家】の南、年寄りはみんな知っている<br />今は高粱畑、父が言うには子供の時セメントが見えた <br />

    しばらく歩けど同じ景色が続くのみ

    振り返って来た道を写す

    提到大虎山?机?,我倒想起来,在六零年以前,有??机在那里起降。
    http://tieba.baidu.com/p/2114171805?pid=28506006068&cid=0#28506006068

    「大虎山【?房子】南,年?大一点的人都知道,
    ?在是高粱地,?碧?碧?小?候?里可以看?水泥?煥到的」

    大虎山の【赤い家】の南、年寄りはみんな知っている
    今は高粱畑、父が言うには子供の時セメントが見えた

  • この空に日本陸軍の航空機が飛び回っていた <br /><br />昭和20年8月19日、この空から赤峰に向かった <br /><br />遺跡痕跡も確たる情報もなく<br />大虎山飛行場跡の特定は出来ない <br />

    この空に日本陸軍の航空機が飛び回っていた

    昭和20年8月19日、この空から赤峰に向かった

    遺跡痕跡も確たる情報もなく
    大虎山飛行場跡の特定は出来ない

  • 大虎山の麓に来る <br /><br />写真で見ていた通りの小高い岩山<br /><br /><br />これなら頂上までそんなに苦ではない<br />頂上に上がればきっと絶好の見晴らし場所だ <br /><br /><br />///////////////////////////////////<br /><br />■大虎山に登る <br /><br />まだ飛行場跡地も確定に至らず、次は大虎山に向かった。来る前から何も分からずとも「大虎山の頂上に登って街並みを一望しよう」というのが何がなんでもの目標だったし。すぐに大虎山のふもとに到着した。岩の小山が目の前に聳えていた。聳えているといっても丘のような高さだけど。登山道があるのかないのか?分からないけど目の前に山がありそこに通じる道があったので歩く。左右は民家(農家)が立ち並んでいる。庭には刈り取ったトウモロコシが山積みされていた。 <br /><br />麓から10分ほどで山頂に到着。木のない岩山なので360度視界をさえぎるものなし。高さも程よく眺望は抜群だ。大虎山にたとえ数日でも過ごした日本人は一度はこの山に登ったと思う。神州不滅特別攻撃隊の11名も朝子もスミ子もここからの景色を楽しんだだろう。赤峰に飛び行く10機をここから見送った人もいたに違いない。我大虎山に来たり。 <br /><br />大虎山の山頂から一望する街並みは思っていた以上に小さい。このどこに飛行場があり日本軍の駐屯地があり官舎が並び小学校があり神社があったのだろう・・・。今年2014年、1945年から69年になる。滞在中にまたここに登るつもりだったが、そんなことに思いを馳せながらしばし山上にたたずんだ。40分ほど山にいた。予定では大虎山に二泊するつもりだったが駅に降りてからの感触とこの山頂から町を眺めた感じで一泊だけにしようと決めた。 <br /><br />降りてきたら地元の老若男女10人近くがいたので質問書と地図を見せた。でも80歳以上と思われる老人は残念ながら当地人ではなく外地人(地元の人ではない)で知らなかった。一人の“叔母さん”が「老機場はここにあった」と地図に示してくれたが、それがさっき役場で聞いた場所と道を挟んで反対側だった。どちらも鉄道の南側だが左右場所が違う。 <br /><br />昔からあったのではなく終戦近くに千メートルに満たない草地の不時着用に作られた大虎山飛行場。飛行場はあったというのは知っている者もいるようだが使用期間も短くすぐに畑になってしまったのだろう。中国のネット「百度」で検索したら「大虎山?机??址」のようなブログがいくつかある。それによれば「年寄りは飛行場があったと言っている。そこは今は高粱畑が広がっている」とのこと。 <br />http://tieba.baidu.com/p/2508894865

    大虎山の麓に来る

    写真で見ていた通りの小高い岩山


    これなら頂上までそんなに苦ではない
    頂上に上がればきっと絶好の見晴らし場所だ


    ///////////////////////////////////

    ■大虎山に登る

    まだ飛行場跡地も確定に至らず、次は大虎山に向かった。来る前から何も分からずとも「大虎山の頂上に登って街並みを一望しよう」というのが何がなんでもの目標だったし。すぐに大虎山のふもとに到着した。岩の小山が目の前に聳えていた。聳えているといっても丘のような高さだけど。登山道があるのかないのか?分からないけど目の前に山がありそこに通じる道があったので歩く。左右は民家(農家)が立ち並んでいる。庭には刈り取ったトウモロコシが山積みされていた。

    麓から10分ほどで山頂に到着。木のない岩山なので360度視界をさえぎるものなし。高さも程よく眺望は抜群だ。大虎山にたとえ数日でも過ごした日本人は一度はこの山に登ったと思う。神州不滅特別攻撃隊の11名も朝子もスミ子もここからの景色を楽しんだだろう。赤峰に飛び行く10機をここから見送った人もいたに違いない。我大虎山に来たり。

    大虎山の山頂から一望する街並みは思っていた以上に小さい。このどこに飛行場があり日本軍の駐屯地があり官舎が並び小学校があり神社があったのだろう・・・。今年2014年、1945年から69年になる。滞在中にまたここに登るつもりだったが、そんなことに思いを馳せながらしばし山上にたたずんだ。40分ほど山にいた。予定では大虎山に二泊するつもりだったが駅に降りてからの感触とこの山頂から町を眺めた感じで一泊だけにしようと決めた。

    降りてきたら地元の老若男女10人近くがいたので質問書と地図を見せた。でも80歳以上と思われる老人は残念ながら当地人ではなく外地人(地元の人ではない)で知らなかった。一人の“叔母さん”が「老機場はここにあった」と地図に示してくれたが、それがさっき役場で聞いた場所と道を挟んで反対側だった。どちらも鉄道の南側だが左右場所が違う。

    昔からあったのではなく終戦近くに千メートルに満たない草地の不時着用に作られた大虎山飛行場。飛行場はあったというのは知っている者もいるようだが使用期間も短くすぐに畑になってしまったのだろう。中国のネット「百度」で検索したら「大虎山?机??址」のようなブログがいくつかある。それによれば「年寄りは飛行場があったと言っている。そこは今は高粱畑が広がっている」とのこと。
    http://tieba.baidu.com/p/2508894865

  • 山に向かって延びる道を進む <br /><br /> ここは満洲時代に暮らした日本人は誰もが一度は登っているはずだ<br />谷藤少尉も、朝子も一ヶ月もいなかったかもだが一度は来たと思う <br /><br /> こんなに手ごろで見晴らしの良い高台はめったにない <br />

    山に向かって延びる道を進む

    ここは満洲時代に暮らした日本人は誰もが一度は登っているはずだ
    谷藤少尉も、朝子も一ヶ月もいなかったかもだが一度は来たと思う

    こんなに手ごろで見晴らしの良い高台はめったにない

  • <br /><br />登り口から3分でここまで来た <br /><br />大虎山は「打虎山」とも書かれていることが多い<br />大虎山の名前の由来には五つの説があるようだ <br /><br />「大虎山」地名溯源 <br />http://baike.baidu.com/view/314675.htm?fr=aladdin



    登り口から3分でここまで来た

    大虎山は「打虎山」とも書かれていることが多い
    大虎山の名前の由来には五つの説があるようだ

    「大虎山」地名溯源
    http://baike.baidu.com/view/314675.htm?fr=aladdin

  • (南) <br /><br /> 下から10分で頂上、大虎山を登頂する! <br /><br /> 最後の特攻出撃の地に来る、感無量なり<br />右斜め前方が大虎山駅 <br />

    (南)

    下から10分で頂上、大虎山を登頂する!

    最後の特攻出撃の地に来る、感無量なり
    右斜め前方が大虎山駅

  • (東) <br /><br /> 奉天(瀋陽)の方向 <br />

    (東)

    奉天(瀋陽)の方向

  • (北) <br /><br /> 赤峰方向を写す <br /><br /> こっちに向かって10機が飛び立って行く<br />途中一機はエンジン不調不時着するも<br />9機はソ連戦車群に突っ込んだ <br />

    (北)

    赤峰方向を写す

    こっちに向かって10機が飛び立って行く
    途中一機はエンジン不調不時着するも
    9機はソ連戦車群に突っ込んだ

  • (西) <br /><br /> 朝陽・北京の方向 <br />

    (西)

    朝陽・北京の方向

  • 日本から持参したタバコとビスケット<br />般若心経を詠みささやかな慰霊をする

    日本から持参したタバコとビスケット
    般若心経を詠みささやかな慰霊をする

  • 大虎山は墓地になっているようだ<br /> あちこち土饅頭と墓標あり

    大虎山は墓地になっているようだ
    あちこち土饅頭と墓標あり

  • 赤丸は私が乗って来たタクシー <br /><br />交差点の真ん中に無造作に停車したまま<br /> この辺りは如何に車の行き来が少ないかが良くわかる <br />

    赤丸は私が乗って来たタクシー

    交差点の真ん中に無造作に停車したまま
    この辺りは如何に車の行き来が少ないかが良くわかる

  • 大虎山のすぐ南にも小さな岩山があった <br /><br />大虎山山頂滞在30分ほどで降りてくる<br />また明日“ゆっくり”来るつもりだった <br /><br />山から市内を一望し街の小ささと手掛かりのなさに<br />二泊するつもりだったが一泊でもええかと <br /><br />でもこれが最後の山登りになるとは・・・<br />まさか、まさか、この時は思いもよらず <br /><br /><br /><br />「神州不滅特別攻撃隊」出撃地:大虎山へ行く <br /><br />http://youtu.be/tmrB8YtSY2M

    大虎山のすぐ南にも小さな岩山があった

    大虎山山頂滞在30分ほどで降りてくる
    また明日“ゆっくり”来るつもりだった

    山から市内を一望し街の小ささと手掛かりのなさに
    二泊するつもりだったが一泊でもええかと

    でもこれが最後の山登りになるとは・・・
    まさか、まさか、この時は思いもよらず



    「神州不滅特別攻撃隊」出撃地:大虎山へ行く

    http://youtu.be/tmrB8YtSY2M

  • 大虎山麓の民家の庭は<br />収穫したトウモロコシで一杯

    大虎山麓の民家の庭は
    収穫したトウモロコシで一杯

  • タクシーを停めていた道路にも<br />山積みのトウモロコシ <br /><br /> この附近に何人かの地元の人がいたので<br />質問書を見せて尋ねた(10人ほど) <br /><br /> 一人の中年女性が教えてくれたのは<br /> さっき役所職員の人と東西反対の場所<br /> ?????????????<br /> 鉄道より南側というのは確かなようだ <br />

    タクシーを停めていた道路にも
    山積みのトウモロコシ

    この附近に何人かの地元の人がいたので
    質問書を見せて尋ねた(10人ほど)

    一人の中年女性が教えてくれたのは
    さっき役所職員の人と東西反対の場所
    ?????????????
    鉄道より南側というのは確かなようだ

  • 大虎山に上り市内を一望し全体の感じが分った <br /><br />そしてまた大虎山駅前に戻って再スタート<br />これから“ゆっくり”探索をしようと思っていた <br /><br />駅とホテル大虎山、位置関係も分り<br />この距離ならボチボチ歩いても探せる・・・と<br />一旦今日はホテルに戻って出直すつもりだった <br /><br /><br />/////////////////////////////////////////<br /><br />■大虎山から追い出される <br /><br />それからもう一度駅前に行き大虎山站の写真を撮りホテルに戻り今日の3時間の包車は終了となった。3時間¥200元を“Dさん”に払ってホテルの玄関を入ったらフロントの女性服務員が「あっ、タクシー待たせておいて」と言ったようだが、すぐ意味が分らずタクシーは走り去った。そして「ここは外国人は泊めていけないので黒山県のホテルに泊まって下さい」と言われた。 <br /><br />その時点で何か嫌な予感がした。中国では査定によって認められた「渉外飯店」でなければ外国人が原則泊まれない。このホテルも「渉外飯店」ではないようで公安に電話で問い合わせてくれたが許可が出なかったようだ。黒山県は大虎山より大きな町なので「渉外飯店」がいくつかある。その一つ「黒山県五洲大酒店」を紹介してくれた。“Google”地図では「亜洲大酒店」とある。 <br /><br />https://maps.google.co.jp/maps?q=%E8%BE%BD%E5%AE%81%E7%9C%81%E9%94%A6%E5%B7%9E%E5%B8%82%E9%BB%91%E5%B1%B1%E5%8E%BF%E5%A4%96%E7%8E%AF%E8%B7%AF22%E5%8F%B7B%E5%BA%A7&amp;hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;ll=41.69438,122.12761&amp;spn=0.001642,0.002411&amp;sll=41.689583,122.120231&amp;sspn=0.003405,0.004823&amp;brcurrent=3,0x0:0x0,0&amp;ttype=now&amp;noexp=0&amp;noal=0&amp;sort=def&amp;t=m&amp;z=19<br /><br />タクシーで30元。大虎山から10キロ北に黒山県はある。大虎山は小さな街なのでホテルを中心に歩きながら日本人の足跡を聞こうと思っていたのに10キロも離れてしまったらまた明日ここに来てから散策するしかない。 <br /><br />でも宿が決まらないと不安なのですぐにタクシーで黒山県に向かった。その道中運転手と明日の包車を交渉した。明日9時ここまで迎えに来てもらい午前中は大虎山の観光、そして遼陽まで(350元)合計¥500元で交渉成立。嫁と子供あり。 <br /><br />そして五洲大酒店に到着し早速宿泊を頼んだがフロントの小姐は、日本人だと分かると反日小姐なのか?少し愛想は悪くなった。気のせいかもしれない程度だが・・・。その小姐は他のホテルを私に勧めた。でも私も邪魔臭いので「ここで泊まりたい」と言ったらOKし押金を払って8019:8階19号室の部屋の鍵をもらい部屋に入った。 <br /><br />とりあえずホッとしたところで部屋の電話が鳴った。男の声で「話が聞きたい、今時間ありますか?」と丁寧な声だった。声は丁寧だったがすぐにピンと来た。「公安だ」と。「時間はある。すぐに下に降りて行くから」と返事をし階下に下りたら案の定そこに二人の制服姿の公安と私服の一人、計三人が私を待っていた。その内の私服(40代くらい)が上司のようで興奮気味に私に問いかけてきた。ほとんど聞き取れないが「何しに来たのか?」ということのようだった。 <br /><br />すぐにここに来た目的を記した質問書を見せた。それを一読しながらだが最初から結論は出ているようで「ここからすぐに出て行け」ということだった。「日本人への嫌がらせ」だと思う。実際のところ服務員小姐が「怪しい日本人が来ている」と公安に通告し、公安はその連絡を受けて「怪しい日本人?」を調べにここに来た。通報を受けてきた以上「別に問題ない」と私を無罪放免してすごすご帰るのは面子に関わるのだろう。 <br /><br />私は「ただの一般人で、明日観光して昼過ぎには遼陽に向かう。ここにさっき到着したばかりで疲れているし、今日はここに泊まらせてくれ」と何度も同じことを繰り返したが、私服は聞く耳持たず。どこかに何度か電話をしながら私のことを話していたようだが、質問書の「日本軍」に反応して、「9月18日は何の日か知っているか?」と聞いてきた。「918、Jiuyiba ジィヨイーバー」と繰り返すので「えっ?なに?」と意味不明だったが何度目かにやっと分かった。 <br /><br />「あァそうか9月18日」と言っているのかと、ホンマ能天気だったが「そうか明日や・・・」だった。「知っている」と言ったら彼は「中国文化」「侵略」という文字を私の質問書に書いた。今日は「9月17日」で18日でなかったがテレビを付ければ朝からそんな番組をやっていた。中国では「9月18日:国辱の日を忘れるな」であり、そのことを興奮顔で繰り返す。 <br /><br />よすうるにこんな時に日本軍の跡地や日本の神社や学校を探しに来るのは中国人への配慮がないということのようだ。「中国文化」って何?と言いたいが、これこそ中国文化であるのだろう。了見狭く、面子を張り、ただの一旅行者である日本人に対して嫌がらせで追い出して満足するのが中国役人文化だろう。 <br /><br />こんなことをみんな(服務員三人や部下二人)の前で言い出した限りもう後には引かないだろう。「これ以上もめて豚箱に留置されたら大変だ。もうええか大虎山にも登れたし情報も少なかったし」と諦めた。「分かった今すぐ出て行く」と言ったら、顔色が一転表情が和らぎ明日ホテル前で待ち合わせているタクシーの運転手にキャンセルの電話をしたようだ。 <br /><br />そして別に「タクシーを手配する」と言ってまた電話をしていた。私は「それじゃあ部屋に戻って出て行く準備をするから・・・」とエレベーターに向かったら制服の一人が付き添って来た。制服の男二人は30代くらいで二人ともほとんど話もせず表情も終始普通に立っていた。部屋の中まで入ってきたが所持品検査は一切ナシ。ようするに私を追い出すことだけが目的だったのだろう。 <br /><br />リュックを背負い部屋を出てフロントで押金を返金してもらった。すぐにタクシーが来てあっけなく黒山県から立ち去る羽目になった。午後3時頃に到着しホテル滞在45分ほど、それでも少なくとも30分ほど押し問答をしていたことになる。手配してくれたタクシーの遼陽までの料金は¥300元。私服公安が「ここから遼陽までタクシー代幾らだ」と聞くので「¥350元で包車した」と言ったので、追い出す彼が気を使ってか?50元安く手配してくれた(笑)。 <br /><br />そしてタクシーの助手席に座った私に窓越しに握手を求めてきた。なにをか言わんやだったが握手して公安三人の見送りを受けて午後3時45分遼陽に向かった。大虎山に登っていなかったら今日はここを出て近くの外国人が泊まれるホテルで泊まり、また明日こそっと大虎山に引き返すつもりだったがそのまま遼陽に行った。大虎山滞在3時間とは・・・。これも旅の思い出となった。あ〜ァ無事でなにより。 <br />

    大虎山に上り市内を一望し全体の感じが分った

    そしてまた大虎山駅前に戻って再スタート
    これから“ゆっくり”探索をしようと思っていた

    駅とホテル大虎山、位置関係も分り
    この距離ならボチボチ歩いても探せる・・・と
    一旦今日はホテルに戻って出直すつもりだった


    /////////////////////////////////////////

    ■大虎山から追い出される

    それからもう一度駅前に行き大虎山站の写真を撮りホテルに戻り今日の3時間の包車は終了となった。3時間¥200元を“Dさん”に払ってホテルの玄関を入ったらフロントの女性服務員が「あっ、タクシー待たせておいて」と言ったようだが、すぐ意味が分らずタクシーは走り去った。そして「ここは外国人は泊めていけないので黒山県のホテルに泊まって下さい」と言われた。

    その時点で何か嫌な予感がした。中国では査定によって認められた「渉外飯店」でなければ外国人が原則泊まれない。このホテルも「渉外飯店」ではないようで公安に電話で問い合わせてくれたが許可が出なかったようだ。黒山県は大虎山より大きな町なので「渉外飯店」がいくつかある。その一つ「黒山県五洲大酒店」を紹介してくれた。“Google”地図では「亜洲大酒店」とある。

    https://maps.google.co.jp/maps?q=%E8%BE%BD%E5%AE%81%E7%9C%81%E9%94%A6%E5%B7%9E%E5%B8%82%E9%BB%91%E5%B1%B1%E5%8E%BF%E5%A4%96%E7%8E%AF%E8%B7%AF22%E5%8F%B7B%E5%BA%A7&hl=ja&ie=UTF8&ll=41.69438,122.12761&spn=0.001642,0.002411&sll=41.689583,122.120231&sspn=0.003405,0.004823&brcurrent=3,0x0:0x0,0&ttype=now&noexp=0&noal=0&sort=def&t=m&z=19

    タクシーで30元。大虎山から10キロ北に黒山県はある。大虎山は小さな街なのでホテルを中心に歩きながら日本人の足跡を聞こうと思っていたのに10キロも離れてしまったらまた明日ここに来てから散策するしかない。

    でも宿が決まらないと不安なのですぐにタクシーで黒山県に向かった。その道中運転手と明日の包車を交渉した。明日9時ここまで迎えに来てもらい午前中は大虎山の観光、そして遼陽まで(350元)合計¥500元で交渉成立。嫁と子供あり。

    そして五洲大酒店に到着し早速宿泊を頼んだがフロントの小姐は、日本人だと分かると反日小姐なのか?少し愛想は悪くなった。気のせいかもしれない程度だが・・・。その小姐は他のホテルを私に勧めた。でも私も邪魔臭いので「ここで泊まりたい」と言ったらOKし押金を払って8019:8階19号室の部屋の鍵をもらい部屋に入った。

    とりあえずホッとしたところで部屋の電話が鳴った。男の声で「話が聞きたい、今時間ありますか?」と丁寧な声だった。声は丁寧だったがすぐにピンと来た。「公安だ」と。「時間はある。すぐに下に降りて行くから」と返事をし階下に下りたら案の定そこに二人の制服姿の公安と私服の一人、計三人が私を待っていた。その内の私服(40代くらい)が上司のようで興奮気味に私に問いかけてきた。ほとんど聞き取れないが「何しに来たのか?」ということのようだった。

    すぐにここに来た目的を記した質問書を見せた。それを一読しながらだが最初から結論は出ているようで「ここからすぐに出て行け」ということだった。「日本人への嫌がらせ」だと思う。実際のところ服務員小姐が「怪しい日本人が来ている」と公安に通告し、公安はその連絡を受けて「怪しい日本人?」を調べにここに来た。通報を受けてきた以上「別に問題ない」と私を無罪放免してすごすご帰るのは面子に関わるのだろう。

    私は「ただの一般人で、明日観光して昼過ぎには遼陽に向かう。ここにさっき到着したばかりで疲れているし、今日はここに泊まらせてくれ」と何度も同じことを繰り返したが、私服は聞く耳持たず。どこかに何度か電話をしながら私のことを話していたようだが、質問書の「日本軍」に反応して、「9月18日は何の日か知っているか?」と聞いてきた。「918、Jiuyiba ジィヨイーバー」と繰り返すので「えっ?なに?」と意味不明だったが何度目かにやっと分かった。

    「あァそうか9月18日」と言っているのかと、ホンマ能天気だったが「そうか明日や・・・」だった。「知っている」と言ったら彼は「中国文化」「侵略」という文字を私の質問書に書いた。今日は「9月17日」で18日でなかったがテレビを付ければ朝からそんな番組をやっていた。中国では「9月18日:国辱の日を忘れるな」であり、そのことを興奮顔で繰り返す。

    よすうるにこんな時に日本軍の跡地や日本の神社や学校を探しに来るのは中国人への配慮がないということのようだ。「中国文化」って何?と言いたいが、これこそ中国文化であるのだろう。了見狭く、面子を張り、ただの一旅行者である日本人に対して嫌がらせで追い出して満足するのが中国役人文化だろう。

    こんなことをみんな(服務員三人や部下二人)の前で言い出した限りもう後には引かないだろう。「これ以上もめて豚箱に留置されたら大変だ。もうええか大虎山にも登れたし情報も少なかったし」と諦めた。「分かった今すぐ出て行く」と言ったら、顔色が一転表情が和らぎ明日ホテル前で待ち合わせているタクシーの運転手にキャンセルの電話をしたようだ。

    そして別に「タクシーを手配する」と言ってまた電話をしていた。私は「それじゃあ部屋に戻って出て行く準備をするから・・・」とエレベーターに向かったら制服の一人が付き添って来た。制服の男二人は30代くらいで二人ともほとんど話もせず表情も終始普通に立っていた。部屋の中まで入ってきたが所持品検査は一切ナシ。ようするに私を追い出すことだけが目的だったのだろう。

    リュックを背負い部屋を出てフロントで押金を返金してもらった。すぐにタクシーが来てあっけなく黒山県から立ち去る羽目になった。午後3時頃に到着しホテル滞在45分ほど、それでも少なくとも30分ほど押し問答をしていたことになる。手配してくれたタクシーの遼陽までの料金は¥300元。私服公安が「ここから遼陽までタクシー代幾らだ」と聞くので「¥350元で包車した」と言ったので、追い出す彼が気を使ってか?50元安く手配してくれた(笑)。

    そしてタクシーの助手席に座った私に窓越しに握手を求めてきた。なにをか言わんやだったが握手して公安三人の見送りを受けて午後3時45分遼陽に向かった。大虎山に登っていなかったら今日はここを出て近くの外国人が泊まれるホテルで泊まり、また明日こそっと大虎山に引き返すつもりだったがそのまま遼陽に行った。大虎山滞在3時間とは・・・。これも旅の思い出となった。あ〜ァ無事でなにより。

  • 黒山県:五洲大酒店:8019号室 <br /><br /> 午後2時50分折角部屋で一息つこうと思った矢先<br /> 階下に三人の公安が来て呼び出された <br />

    黒山県:五洲大酒店:8019号室

    午後2時50分折角部屋で一息つこうと思った矢先
    階下に三人の公安が来て呼び出された

  • 五洲大酒店の部屋の窓から写す <br /><br />方向は不明、我黒山県に来たり<br />滞在1時間で街から追い出される <br />

    五洲大酒店の部屋の窓から写す

    方向は不明、我黒山県に来たり
    滞在1時間で街から追い出される

  • この一階のロビーで40分ほどすったもんだ<br />日本人への嫌がらせだとしか思えないが <br /><br />上司と思われる私服姿の公安は「日本軍」「9:18」と繰返し<br />部下二人とホテル従業員の前で引っ込みつかず「街を出ろ」 <br /><br /> 大虎山に登れたし「まあええか」と了承する<br />

    この一階のロビーで40分ほどすったもんだ
    日本人への嫌がらせだとしか思えないが

    上司と思われる私服姿の公安は「日本軍」「9:18」と繰返し
    部下二人とホテル従業員の前で引っ込みつかず「街を出ろ」

    大虎山に登れたし「まあええか」と了承する

  • このタクシーで遼陽へ <br /><br />「分った出てゆく」との私の言葉に私服もホッとしたのか<br />遼陽までのタクシーを自ら電話して手配した <br /><br /> それも50元安い300元で・・・<br />追い出しただけで手荷物も何も検査されず <br /><br />最初二泊三日の大虎山滞在予定が一泊二日になり<br /> それも適わず、滞在四時間でこの地を去ることになった <br />

    このタクシーで遼陽へ

    「分った出てゆく」との私の言葉に私服もホッとしたのか
    遼陽までのタクシーを自ら電話して手配した

    それも50元安い300元で・・・
    追い出しただけで手荷物も何も検査されず

    最初二泊三日の大虎山滞在予定が一泊二日になり
    それも適わず、滞在四時間でこの地を去ることになった

  • 部屋に入っただけですぐに出てきた五洲大酒店<br /> 押金を返してもらってすごすごタクシーに乗る <br /><br />公安三人のお見送り、残念ながら公安の写真は撮れず<br />ICレコーダーには「9:18什?日子呢?:9月18日は何の日?」と<br />私に何度も問いかけていたのが録音されていた <br />

    部屋に入っただけですぐに出てきた五洲大酒店
    押金を返してもらってすごすごタクシーに乗る

    公安三人のお見送り、残念ながら公安の写真は撮れず
    ICレコーダーには「9:18什?日子呢?:9月18日は何の日?」と
    私に何度も問いかけていたのが録音されていた

  • <br />今朝瀋陽北站から列車で大虎山に到着した<br /> でも午後には遼陽に向かうことになるとは <br /><br />遼陽に向かいながら頭の中は明日からのことを考えていた<br /> まず、明日は首山堡に行こう、そして明後日は三塊石山へと <br /><br />///////////////////////////////////////////<br /><br />■黒山県から遼陽へ <br /><br />運転手は22歳の男性(B君)。黒山県から遼陽までは“Google”地図の車のルート検索では119キロ。「満都戸站(インター料金所)」から高速道路を走って遼陽の手前首山で降りて首山鎮に入り「S101」を遼陽に向かう。「17:20分」右方向に首山が聳えていた。 <br /><br />ここで道を聞くために運転手のB君は併走するタクシーに警笛を鳴らしそのタクシーを止めた。道が分かったのかすぐに動き出したが、また何を思ったのかさっき道を聞いたタクシーを追っかけ再度警笛を鳴らしてそのタクシーを止めて運転手と何か話をしていた。「何?」と思っていたらB君は私にそのタクシーに乗り換えてくれと言う。料金は10元とのこと。 <br /><br />「なんやそういうことだったのか・・・」と私はすぐに察し、B君に300元を渡してリュックを持ち止まっているタクシーの後部座席左側に乗った。助手席と後部座席に二人の客が座っていた。その二人も乗り合わせのようで別々の場所で降りていた。最後は私で無事に遼陽賓館まで行ってくれた。ハハハこれも中国の旅。何が起きるか分からない。ホテル到着は17:40分、黒山県から2時間ほどで遼陽賓館に到着した。 <br />


    今朝瀋陽北站から列車で大虎山に到着した
    でも午後には遼陽に向かうことになるとは

    遼陽に向かいながら頭の中は明日からのことを考えていた
    まず、明日は首山堡に行こう、そして明後日は三塊石山へと

    ///////////////////////////////////////////

    ■黒山県から遼陽へ

    運転手は22歳の男性(B君)。黒山県から遼陽までは“Google”地図の車のルート検索では119キロ。「満都戸站(インター料金所)」から高速道路を走って遼陽の手前首山で降りて首山鎮に入り「S101」を遼陽に向かう。「17:20分」右方向に首山が聳えていた。

    ここで道を聞くために運転手のB君は併走するタクシーに警笛を鳴らしそのタクシーを止めた。道が分かったのかすぐに動き出したが、また何を思ったのかさっき道を聞いたタクシーを追っかけ再度警笛を鳴らしてそのタクシーを止めて運転手と何か話をしていた。「何?」と思っていたらB君は私にそのタクシーに乗り換えてくれと言う。料金は10元とのこと。

    「なんやそういうことだったのか・・・」と私はすぐに察し、B君に300元を渡してリュックを持ち止まっているタクシーの後部座席左側に乗った。助手席と後部座席に二人の客が座っていた。その二人も乗り合わせのようで別々の場所で降りていた。最後は私で無事に遼陽賓館まで行ってくれた。ハハハこれも中国の旅。何が起きるか分からない。ホテル到着は17:40分、黒山県から2時間ほどで遼陽賓館に到着した。

  • 黒山県から45分くらい走って<br />高速インター「満都戸站」に到着<br />ここから高速道を一路遼陽へ <br /><br />https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&amp;ll=41.600473,122.618515&amp;spn=0.013158,0.01929&amp;t=m&amp;brcurrent=3,0x0:0x0,1&amp;z=16

    黒山県から45分くらい走って
    高速インター「満都戸站」に到着
    ここから高速道を一路遼陽へ

    https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.600473,122.618515&spn=0.013158,0.01929&t=m&brcurrent=3,0x0:0x0,1&z=16

  • 高速道路は交通量少なく貸切状態も多かった <br /><br />半分ボゥーし、半分ホッとしながらタクシーに乗っていた <br />

    高速道路は交通量少なく貸切状態も多かった

    半分ボゥーし、半分ホッとしながらタクシーに乗っていた

  • 午後5時20分、黒山出発から1時間35分 <br /><br /> 首山を右手に見ながら遼陽に向かう <br />

    午後5時20分、黒山出発から1時間35分

    首山を右手に見ながら遼陽に向かう

  • 予約日の二日早く来たけど、すんなり泊めてくれた<br />17.18.19日と三日間泊まる事にした <br /><br />料金は予約料金と同じ、押金¥1,000元を払う <br /><br /><br />////////////////////////////////<br /><br />■遼陽賓館に到着 <br />https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&amp;ll=41.277968,123.172453&amp;spn=0.001653,0.002411&amp;t=m&amp;brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&amp;z=19<br /><br /><br />遼陽賓館(一泊¥176元×2=¥356元)は19、20日を予約していたのに二日早く来る羽目になった。フロントで予約日の変更と今日から三泊を頼んだらすんなりOKとなり4階11号室(4011)でホッと一息。午後5時40分頃。 <br /><br />北站から大虎山まで1時間半の列車移動、そして大虎山・黒山県滞在4時間にして遼陽まで2時間の車移動。思いもかけない一日になり今後の予定がすっかり狂ってしまう羽目になったがこれが旅の面白さでもある・・・と気分一新。部屋で一時間ほど休憩して散歩と夕食を食べに出た。 <br /><br />遼陽賓館は2005年、9年前に来た時の記憶も結構鮮明に残っている。その一番の理由は道を隔てた正面に白塔が立っており、廣佑寺があるから。それに遼陽站からも近い。9年前このホテルで紹介してもらった運転手を二日間包車し祖父が従軍した日露戦跡を巡った。今回も明日から九年前に行かなかった日露戦跡を巡る。 <br /><br />夕食は近くの今時の小吃店。大きな写真入の電光版メニューが掲げてあった。それを見て「有机菜花:Youji cai hua ヨゥジイツァイホア」(有機カリフラワー)という料理を頼んだ。¥12元、それに米飯¥2元、水¥2元、計16元の夕食。味は今一、腹は膨れた。 <br /><br />部屋に戻って今日の長い一日を終え明日に備えて就寝する。心身ともちょっと疲れた。明日は軍神:橘周太少佐が戦った首山堡に行く。明日から日露戦争モードになる。 <br />

    予約日の二日早く来たけど、すんなり泊めてくれた
    17.18.19日と三日間泊まる事にした

    料金は予約料金と同じ、押金¥1,000元を払う


    ////////////////////////////////

    ■遼陽賓館に到着
    https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.277968,123.172453&spn=0.001653,0.002411&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=19


    遼陽賓館(一泊¥176元×2=¥356元)は19、20日を予約していたのに二日早く来る羽目になった。フロントで予約日の変更と今日から三泊を頼んだらすんなりOKとなり4階11号室(4011)でホッと一息。午後5時40分頃。

    北站から大虎山まで1時間半の列車移動、そして大虎山・黒山県滞在4時間にして遼陽まで2時間の車移動。思いもかけない一日になり今後の予定がすっかり狂ってしまう羽目になったがこれが旅の面白さでもある・・・と気分一新。部屋で一時間ほど休憩して散歩と夕食を食べに出た。

    遼陽賓館は2005年、9年前に来た時の記憶も結構鮮明に残っている。その一番の理由は道を隔てた正面に白塔が立っており、廣佑寺があるから。それに遼陽站からも近い。9年前このホテルで紹介してもらった運転手を二日間包車し祖父が従軍した日露戦跡を巡った。今回も明日から九年前に行かなかった日露戦跡を巡る。

    夕食は近くの今時の小吃店。大きな写真入の電光版メニューが掲げてあった。それを見て「有机菜花:Youji cai hua ヨゥジイツァイホア」(有機カリフラワー)という料理を頼んだ。¥12元、それに米飯¥2元、水¥2元、計16元の夕食。味は今一、腹は膨れた。

    部屋に戻って今日の長い一日を終え明日に備えて就寝する。心身ともちょっと疲れた。明日は軍神:橘周太少佐が戦った首山堡に行く。明日から日露戦争モードになる。

  • 道を隔てて白塔が聳える<br />9年ぶりの遼陽、再訪は初めてとは気分が違う <br /><br />夕食を食べにブラブラ・・・と <br />

    道を隔てて白塔が聳える
    9年ぶりの遼陽、再訪は初めてとは気分が違う

    夕食を食べにブラブラ・・・と

  • ホテル南に数分のところにあったこの小吃店に入る <br /><br />何度中国に来ても料理の名前は学習できない <br />

    ホテル南に数分のところにあったこの小吃店に入る

    何度中国に来ても料理の名前は学習できない

  • 「有机菜花:Youji cai hua ヨゥジイツァイホア」<br />その時は分からなかった。カリフラワーの料理だった <br /><br />美味しいというものではないが腹はふくれた <br />

    「有机菜花:Youji cai hua ヨゥジイツァイホア」
    その時は分からなかった。カリフラワーの料理だった

    美味しいというものではないが腹はふくれた

  • 遼陽賓館の朝食券 <br /><br /> 長いような短いような一日も終了した<br />大虎山で泊まる筈が遼陽で泊まることに <br />

    遼陽賓館の朝食券

    長いような短いような一日も終了した
    大虎山で泊まる筈が遼陽で泊まることに

この旅行記のタグ

9いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

この旅行記へのコメント (2)

開く

閉じる

  • こまちゃんさん 2014/12/08 23:07:42
    吉野家にお粥が!
    お粥って、いつから始めたのでしょうね。
    2年前までは、北京にもお粥は有りませんでした。

    暫く離れていると、20年繋げてきた中国情報が切れて、
    浦島太郎になって終うかも・・・(汗。
    (2014年は未訪問・・・21年目にして初めてのことです)

     こま

    明石DS

    明石DSさん からの返信 2014/12/09 08:33:04
    RE: 吉野家にお粥が!
    そういえば9年前の吉野家にはお粥はなかったと思います
    あれば注文したはずだから・・・。

    お粥はどこでも美味いですね
    まだ中国で何が美味いのか?
    メニューを見ても分らず、注文も出来ません(泣)

    また来年には中国情報楽しみにしています
    いつも写真の凄さには感服しています

明石DSさんのトラベラーページ

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

中国で使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
中国最安 273円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

中国の料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP