幕末から明治の歴史を感じる洋風建築 グラバー園入園チケット
620円(税込)
大浦天主堂の横,長崎港を見下す南山手にある。広さ3万平方メートルの園内に,旧グラバー住宅を中心にして9棟の明治の洋館を集めている。さまざまな形の洋館が,明治期の長崎を再現している。長崎くんちの資料を展示した長崎伝統芸能館や,歌劇「蝶々夫人」を演じた三浦環像もある。
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大村湾に面し、広大な場内に17世紀のヨーロッパの街並みを再現したハウステンボスは、「花と光の感動リゾート」がテーマの日本一広いテーマパークです。季節を五感で楽しむ「花の街」をはじめ、一年を通して輝くイルミネーション、大迫力の花火に、華やかな舞台で観客を魅了する本格的な歌劇&音楽ショーも満喫できます。近年では広大な大自然をいかしたデジタルアトラクションがオープンし、子どもも大人も一緒に遊べるアクテビティがさらに充実。宿泊には4つの直営ホテルがあり、長崎の新鮮な海の幸や、異国情緒あふれる場内には、本格グルメなどが楽しめるレストランも多く点在しています。
ハウステンボス行くなら、オランダ??に直行したい!と言うくらいオランダが好きな私ですが、予想以上に楽しめました! 予備知識を全く入れずに行ったので、地図片手にアプリ眺めながら、ずいぶん歩き回りましたが、見たいショーや美術館は全部見ることができたので、大満足の2日間でした。 孫はミッフィーちゃんとプールに大喜び、私達はハウステンボス歌劇団のロックミュージカル、空鼓の迫力満点の演奏、そして夜のシャワー・オブ・ライツに大感激! 次回はきちんとコースを決め、バスを利用しながら計画的に移動しようと思いました。
中島川にかかる日本最古のアーチ型石橋。興福寺2代目住職黙子如定の作。川面に映った姿からその名がある。
長崎観光の名所の1つ「眼鏡橋」を訪れました。 天気も良かったので川面に橋が映り込み橋の名前の様に眼鏡の形をした光景を観ることが出来ました。 長崎市の公式観光案内HPで 眼鏡橋は1634(寛永11)年、興福寺の黙子如定(もくす にょじょう)禅師が架設したとされている眼鏡橋。川面に映る影が双円を描き「メガネ」に見えることからこの名前がついたと言われ、東京の「日本橋」、山口の「錦帯橋」と並び日本三名橋に数えられます。 1982年の長崎大水害で一部崩壊しましたが翌年復元され、国の重要文化財に指定されています。 と書かれていましたがこういう機会でないと名前と景色だけで終わってしまいますが 歴史を知ることによりその役割や後世への影響等を少し知識として持つことが出来ました。
ピックアップ特集
現存する日本最古のカトリック教会。ゴシック風白亜の天主堂。ステンドグラスの光が神々しい。
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長崎市街の好展望台。淵神社よりロ-プウェイ5分。
車でも行けますが、混雑が予想されたので、夜景ツアーバス(2000円)を利用して行きました。 泊まっていたホテル前にバスが停まるので、大変便利でしたし、ガイドさんのお話し&説明がとても楽しく、このツアーに参加して良かったと思いました。 午後6時半出発、8時ホテル着で、夜景鑑賞は約30~40分程でした。 スロープカーに乗って頂上まで行き、展望台に登って見た夜景は世界三大夜景に選ばれるだけあって、とても印象的でした。
原爆落下中心地公園北側、小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられた公園です。
長崎港の南西20km,旧海底炭田の島。別名軍艦島。【規模】面積0.1km
ずっと行きたかった軍艦島へ。前日までの数日は、波が荒くて接岸できなかっということで、上陸できないかもと心配しましたが、無事に接岸できました。クルーズ船のガイドさんの説明を聞きながら、島内の見学ルートを回りました。少し遠くからではありますが、端島の歴史を感じることができました。上陸には同意書を書いたり、持ち物や履き物に制限があったりしますので、クルーズ船の案内を事前にチェックすることをお勧めします。
鎖国時代,海外に向けて開かれた唯一の窓口であった出島。復元整備が進行しており、平成18年には新たに5棟が復元された。
国指定の史跡に認定されています。 現在の出島の建物はほとんどが復元された物ですが、明治期に建てられた神学校や長崎内外倶楽部は現存しています。 観光には時間がかかるかと思っていましたが、予想外にコンパクトで、1時間あれば見て回れる感じでした。これから何年もかけて、まだまだ復元が続くそうです。 カピタン部屋、ヘルト部屋など大きな建物は無料の観光ガイドさんの説明を聞きながら回ったので、分かりやすく歴史を学び直す良い機会になりました。 旧内外倶楽部はレストランになっているので、こちらで名物のトルコライスとミルクセーキをいただきました。 私達は車で行きましたが、近くにはたくさん駐車場(民間駐車場)もありましたし、路面電車やバスなどもすぐ近くに停まるので便利です。
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中国料理店、中国工芸・中華菓子を売る店が並ぶ。原色の飾り付けが鮮やかな、賑やかな一角。横浜、神戸と並ぶ三大中華街のひとつ。【規模】面積900平方メートル
被爆の惨状を示す写真や資料を収集・展示。平和学習を行うためのホール、平和学習室、図書室等完備。
「浦上天主堂」のあと、「長崎原爆資料館」に行きました。入館料は200円でした。中には原爆が投下された11時2分で止まったままの時計など、原爆の惨状を示す資料がたくさん展示されていました。世界中の人が見たほうがいいと思いました。館内は撮影できますが、シャッター音禁止なので音の出ないデジカメを持っていった方がいいと思いました。
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宿公式サイトから予約できる長崎のホテルスポンサー提供
原爆のため焼失後、1959年に再建された鉄筋コンクリート建ての大堂。一つ残されたアンジェラスの鐘が荘厳に鳴りひびく。
長崎県長崎市本尾町にある「浦上天主堂」についての情報を発信していきます。今回、「浦上天主堂」を訪れたのは2024年6月21日です。「浦上天主堂」へのアクセスは、長崎県営バスの中にある県営バスターミナルの「長崎駅前」バス停から「一本木(長崎県)寺井田方面行」に乗り、「浦上天主堂前] バス停で下車します。徒歩2分140mほど「浦上天主堂」に着きます。 「JR武雄温泉駅」から13:58発の「JR西九州新幹線 かもめ29号 長崎行」に乗り、「JR長崎駅」にとんぼ返りしました。「長崎空港」行きのバスが、17:35なので、残された時間は約3時間です。これからもう一つの有名な天主堂である「浦上天主堂」へ行き、それと「日本二十六聖人殉教記念碑」、「日本二十六聖人記念館」を見学し、帰途につきます。時間が押し迫ったので、タクシーでの移動となりました。「JR長崎駅」からタクシーに乗ること7~8分で「浦上天主堂」に着きました。タクシーでは、乗り入れることができないので、手前で降り坂を上って行きました。坂を半分ほど上ると右手に「聖母子像」さらに進むと左手に原爆で無残に破壊された「旧浦上天主堂の遺構」がありました。その先に大きくそびえ立つのが「浦上天主堂」です。「浦上天主堂」に向かって右手の植え込みには、「信仰の礎碑」と「拷問石」が置かれていました。そして、「浦上天主堂」の入口の右手には、昭和56年(1981年)2月25日に来日した「教皇ヨハネ・パウロ二世」の像もありました。「浦上天主堂」の正面入口から聖堂の中に入ります。残念ながら聖堂の中は撮影禁止です。それと「大浦天主堂」と違い、祭壇まで行くことができませんでした。また、「浦上天主堂」は大きいので、写真1枚に収まりませんでした。 「浦上天主堂」の歴史を紐解いてみると、「浦上天主堂」は、明治28年(1895年)に「フレノ神父」の設計による教会の建設が開始され、大正3年(1914年)に双塔の高さが約26mある東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として献堂式が行われました。昭和20年(1945年)に投下された原爆により建物は破壊され、周囲には被爆遺構の石像などが置かれ、当時の悲惨な状況を今に伝えています。また、境内には熱線で黒く焼け焦げ鼻や頭部を欠いた聖人の石像、また外壁や石垣には天使の像や破壊を免れた像が飾られていますが、「浦上天主堂」の外観正面の入口にも原爆遺構である「悲しみの聖母」、「使徒聖ヨハネ」像があります。これは「旧浦上天主堂」を設計した「フレノ神父」が自ら彫刻したもので、中央の「十字架のキリスト」像は原爆で破損したため複製したもので、旧天主堂の面影を残している部分です。 01_【「浦上天主堂」の一口メモ】 ⑴ 所在地…〒852-8112 長崎県長崎市本尾町1-79 電話:095-844-1777 ⑵ 内覧時間… 9:00~17:00 ※年内無休 ⑶ 拝観料・入館料…無料(※献金箱への寄付) 02_【「浦上天主堂」へのアクセス】 ⑴ 路面電車を利用して ① [長崎駅前]⇒[平和公園]≪長崎電気軌道1、3系統「赤迫行」≫ ・路面電車のりば:「JR長崎駅」東口から「新浦上街道」に向かうと歩道橋がありその下にあります。 ・8停留所目(「にしはまのまち原爆資料館」の次の停留所) 所要時間約12分 ・9時から17時の間に1時間平均17~18便 ・「平和公園」電停で下車し、「浦上天主堂」まで徒歩9分600mほど ⑵ バスを利用して ① [長崎駅前]⇒[浦上天主堂前]≪長崎バス:江平線「下大橋(江平高部経由)行」≫ ・バスのりば:「JR長崎駅」東口から「新浦上街道」に向かうと歩道橋を渡り「県営バスセンター」の中 ・10停留所目(「医学部前」の次の停留所) 所要時間約11分 ・9時から17時の間に1時間平均1~2便 ・「平和公園」電停で下車し、「浦上天主堂」まで徒歩2分140mほど ② [長崎駅前]⇒[浦上天主堂前]≪長崎県営バス:一本木(長崎県)寺井田方面行」≫ ・バスのりば:「JR長崎駅」東口から「新浦上街道」に向かうと歩道橋を渡り「県営バスセンター」の中 ・10停留所目(「平和町」の次の停留所) 所要時間約12分 ・9時から17時の間に1時間平均2便 ・「浦上天主堂前」電停で下車し、「浦上天主堂」まで徒歩2分140mほど
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長崎の異国情緒を代表する石畳道。幕末から明治にかけて長崎に住んだ西欧人の人を、長崎の人たちは“オランダさん”と呼び、彼らがよく上り下りした坂を一般的に“オランダ坂”と名付けた。その代表的な坂が、ホテルニュータンダ横から活水女子大学に通じる切通し。
坂道の案内板にはかって長崎の人々は出島に住むオランダ人の影響か開国後も東洋人以外の人を「オランダさん」と呼んでいました。そのため当時「オランダさんが通る坂」という意味で外国人居留地にある坂はすべてオランダ坂と呼んでいたと考えられています。と書かれていました。 現在は、主に活水女子大学下の坂、活水坂、誠孝院(じょうこういん)前の坂がオランダ坂と呼ばれています。 長崎観光の名所として2日目の観光で訪れました。
旧火山の中央火口丘の30余の硫気孔より熱湯を噴出。雲仙観光の中心。雲仙温泉街の中心、白い土におおわれた一体が雲仙地獄です。ここからわきだす温泉の泉質は硫黄泉で、温泉の最高温度は98度、湯けむりの温度は120度にまで達します。【規模】周囲1.5km
通称は森岳城。元和4年(1618)から松倉重政が7年の歳月を費やして島原半島中央部の森岳に築城。子の勝家は島原の乱の責任を問われて所領没収・断罪。以後,高力忠房,松平忠房らが城主となり,松平氏の時代に明治維新を迎えた。昭和39年に,天守閣が復元されたほか,巽の櫓や丑寅の櫓が復元され,それぞれ北村西望記念館や民具資料館になっている。◎松倉重政(1573-1630)江戸初期の大名。家康に仕え,大坂の陣の後は島原領主。領内キリシタンの弾圧は有名。その苛政は島原の乱の因ともなった。平成26年度に、島原城復元50周年を迎えた。
島原鉄道島原駅から天守閣が良く見えます。ですから迷うことはありません。入り口は駅側とは反対側なのでちょっと歩かなければなりません。天守閣入り口では侍の扮装の女性スタッフが愛想よく迎えてくれました。この天守の変わっているところは破風が無いということです。この城を築いた松倉氏は所領4万3千石でありながら分不相応な城を築いたことで領民を虐げ島原の乱を招いたそうです。
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中国歴代の遺跡を年代や王朝別に分かりやすく展示している。
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長崎の冬を彩る一大風物詩。約1万5千個にも及ぶ極彩色のランタン(中国提灯)が長崎新地中華街をはじめ、市内中心部を彩ります。また、「皇帝パレード」や「龍踊り」「中国雑技」など中国色豊かなイベントも行われます。
長崎の中華街である新地中華街を中心に、市内数か所の会場で行われている長崎の冬の風物詩です。 中国の春節に併せて開かれる、ランタンを灯して行われるこのイベントは、各会場ごとにメインオブジェを置き沢山のランタンはもちろん、龍踊り、二胡やエイサー、変面のショーを食べ歩きをしながらも楽しめます。 始めは暗くなってしまってからの散策がよいかと思いましたが、私は日が落ちきる前のまだ暗く成りきっていないブルーがかった空に灯るランタンの灯りが素敵だと思いました。
福州僧超然開基の黄檗寺院。長崎の唐三箇寺の代表。明朝末黄檗様の建築で本堂、第一峰門は国宝。
「崇福寺」に行きました。江戸時代初期に長崎に創建された唐寺の長崎三福寺の一つだということでした。「竜宮門」ともいわれる重要文化財の「三門」を入り、国宝の「大一峰門」をくぐると本堂で国宝の「大雄宝殿」がありました。ここで拝観料300円を納めました。本尊は釈迦如来だということでした。重要文化財の「護法堂」には向かって左に韋駄天、右に関帝(関羽)、中央に観音が祀られていました。他には天和年間の飢餓の時に施粥をしたという大釜なども見ることができました。
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グラバー園内にある博物館です。長崎の祭り・長崎くんちで奉納される船の形をした曳物や、重さ1トンともいわれる担ぎ物、行列の先頭に立つ傘鉾と呼ばれる、きらびやかなで豪華な飾りなどが展示されています。映像による踊りや囃子など祭りの様子を見ることもできます。くんちの時期は市内混んでいると思い、くんちの時期を外して訪れましたが、映像を見て生の祭りを見とけばよかったとちょっと後悔しました。
長崎の総氏神。長崎市北東の玉園山全域を占める壮大な社殿。10月の大祭、長崎くんちは日本三大祭りのひとつ。
長崎県長崎市上西山町にある「諏訪神社」についての情報を発信していきます。今回、「諏訪神社」を訪れたのは2024年6月21日です。 「長崎空港」の「5番バス乗り場」から長崎空港リムジンバスに乗ること約45分で「JR長崎駅」前へ着きました。長崎空港リムジンバスは、座席の予約は不要で、並んだ順に乗車し、運賃は後払い方式です。ただ、長崎は人気の観光地なので、長崎市内に向かう長崎空港リムジンバスは、非常に混雑し一台見送らなければならない場合もあります。当日、私の二人後ろに並んでいた人は、満席のため次のバスになってしまいました。「4番バス乗り場」からも時間はかかりますが、「長崎駅前行き」のバスが出ていますので安心してください。また、全国相互利用交通系ICカード(nimoca、Suica、PASMO、ICOCAなど)なども利用できますので便利です。ICカードを利用する場合は、乗車時(バス入口右側)と降車時(運転手側)にカード読取部に交通系ICカードをタッチします。最初の目的地は、「諏訪神社」です。「諏訪神社」へのアクセスは、「長崎駅前」電停の路面電車の長崎電気軌道3系統「蛍茶屋行」を利用すると便利です。「長崎駅前」電停から乗車して「諏訪神社」電停で下車します。「長崎駅前」寄りに「諏訪神社」へ通じる地下道がありますので、地下道を通り階段を上がると右斜め前に「諏訪神社」の第一の鳥居があります。「諏訪神社」は、「鎮西大社」と称えられ、地元では厄除け、縁結び、海上守護の神社として崇敬され「おすわさん」と親しまれる長崎の総氏神様です。「諏訪神社」の歴史を紐解いてみると、「諏訪神社」は、かつて長崎市内に祀られていた「諏訪神社」、「森崎神社」、「住吉神社」の三社を寛永2年(1625年)に、初代宮司である肥前唐津の「青木賢清」が、長崎奉行の「長谷川権六」に願い出て、西山郷円山(現在の「松森神社」)に造営し、長崎の産土神としたのが始まりです。ちなみに、「産土神」とは、日本の神の区分のひとつで、その者が生まれた土地の守護神を指し、その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされています。そして、慶安元年(1648年)には徳川幕府より朱印地を得て「社殿」が造営されました。「諏訪神社」は、安政4年(1857年)の火災で、社殿のほとんどを焼失しましたが、孝明天皇の勅命により、明治2年(1869年)に約10年の歳月をかけて以前に勝るとも劣らぬ「社殿」が再建され、さらに、昭和59年(1974年)の「御鎮座360年祭」、平成6年(1994年)の「御鎮座370年祭」を記念して、二度の造営を行い現在の「社殿」が完成しました。毎年10月7~9日の3日間にわたって行われる「諏訪神社」の秋季大祭「長崎くんち」は、龍踊、鯨の潮吹き、太鼓山など豪華絢爛で異国情緒溢れ、長崎独特の文化的伝統を伝える祭として日本三大祭の一つに数えられ、昭和54年(1979年)2月3日に「国の重要無形民俗文化財」に指定されています。「長崎くんち」は、寛永11年(1634年)に、二人の遊女が「諏訪神社神」前に謡曲「小舞」を奉納したのが祭りの始まりと言われています。現在、奉納踊を披露するのは町ごとになっており、7年に一度の当番の町は「踊町」と呼ばれています。 《「諏訪神社」のお薦め参拝巡路》 ①《社号碑》⇒②《大灯籠》⇒③《一の鳥居》⇒④《陰陽石(男石)》⇒⑤《二の鳥居》…「松の森通り」…⇒⑥《大正四年石灯籠》⇒⑦《陰陽石(女石)》⇒⑧《四の鳥居》⇒⑨《大正十二年石碑》⇒⑩《まよひ子志らせ石》⇒⑪《大狛犬》⇒⑫《五の鳥居》⇒⑬《福沢諭吉先生之像》⇒⑭《祓戸神社》⇒⑮《大門》⇒⑯《神馬像》⇒⑰《さざれ石》⇒⑱《両性合体石》⇒⑲《拝殿》⇒⑳《止め事成就の狛犬》⇒㉑《こま犬の井戸》⇒㉒《トゲ抜き狛犬》⇒㉓《願掛け狛犬》⇒㉔《酒田恒山顕彰碑》⇒㉕《祖霊社》⇒㉖《高浜虚子句碑》⇒㉗《蛭子神社》⇒㉘《八坂神社》⇒㉙《厳島神社》⇒㉚《玉園稲荷神社》⇒㉛《齋館諏訪荘》⇒㉜《舞殿》⇒㉝《神輿庫》⇒㉞《よか獅子》⇒㉟《猪目(ハートの文様)の石垣》⇒㊱《太鼓楼》⇒㊲《病魔退散大楠》 では、早速「諏訪神社」に参拝します。「諏訪神社」の「拝殿」に着くまでには、五つの大鳥居を潜り、石段は何段あるか数えませんでしたが、長く続く階段を上らなければなりません。「一の鳥居」の前には、両脇に「大灯籠」と左手に「社号碑」があります。次の「二の鳥居」の手前付近には、「陰陽石」である丸い形をした「男石」があります。分かりにくいので、注意して見つけてください。ちなみに、「諏訪神社」の「陰陽石」の御利益としては、参道を通る時に、男性は「女石」を、女性は「男石」を踏んだあと、「拝殿」前にある「両性合体石」を踏むと縁結びの願いが叶うとされています。「二の鳥居」を潜り、「松の森通り」を渡ると「三の鳥居」の両側に立派な「大正四年石灯籠」があります。さらに進むと「四の鳥居」がありその手前には、六角形の「陰陽石」である「女石」があります。「五の鳥居」付近には、「まよひ子志らせ石」、「大狛犬」、「福沢諭吉先生之像」、「祓戸神社」などがあります。見どころが沢山あるので、確かに長く続く石段ですが疲れを感じませんでした。「五の鳥居」を潜ると「長坂」と呼ばれる「大門」に続く坂があり、最後の石段を上れば、「大門」に到着します。「大門」は、「諏訪神社」の顔というべき門で、「大門」の下の「長坂」は、坂の町長崎を象徴するものだそうです。「大門」の内側から臨める長崎市内の眺望は絶景でした。「大門」を潜ると「拝殿」の左手に、「平和祈念像」の制作者である彫刻家の故「北村西望」の「神馬像」があります。ちなみに、この「神馬像」は故「北村西望」の102歳時の作品だそうです。100歳を過ぎてもなおこのような立派な作品を残せるとは偉大な彫刻家ですよな。そして、「拝殿」の右手には、「さざれ石」があります。ちなみに、「さざれ石」は、国歌「君が代」に「さざれ石の巌となりて」と詠われ、細かい石が長い年月をかけて固結してできた霊石のことです。また、「さざれ石」は私たち国民の一人一人をさしていて、一人の力は微力であるが、国民が力を合わせることで、大きな力(大きな巌)となることを意味しているそうです。そして、「拝殿」に進むと「陰陽石」のひし形の「両性合体石」があります。「拝殿」で参拝を終え、右方向に進むと「大門」の右手の廻廊(西回廊)のところに「本殿前休憩所」がありました。この「本殿前休憩所」の天井を見上げると「天井絵」がありました。この「天井絵」は、長崎美術協会会員75名により描かれたもので、目をなごませてくれました。実は、「西回廊」は、平成3年(1991年)9月に長崎地方を襲った台風17、19号により大門横の回廊(東西の廻廊)は倒壊してしまったそうです。そして、「伊勢神宮」の古材を利用し、平成7 年(1995年)11月に再建されました。「拝殿」と「社務所」の間の道を進んでいくと、私が興味があり、見たかった変わり種の「狛犬」のオンパレードです。「止め事成就の狛犬」、「こま犬の井戸」、「トゲ抜き狛犬」、「願掛け狛犬」と続きます。説明板によると「止め事成就の狛犬」は、昔から、家出の足止め、借金止め、受験のすべり止め、さらに禁酒禁煙などの願い事に、コヨリを狛犬の足に巻き祈願する信仰があったそうです。「止め事成就の狛犬」の右手には、小さな滝が流れている「神池」もありました。「こま犬の井戸」は、江戸時代から高麗犬の井戸と呼ばれ、名水としての評判も高く、どんな旱魃にも枯れることがなかったそうです。この水を飲めば安産に効き目があるともいわれています。また、別名「銭洗い狛犬」とも称され、この水でお金を洗えば倍に増えるとの信仰もあるそうです。私の家内もここぞとばかりにお金を取り出し洗っていました。「願掛け狛犬」は、江戸時代長崎の遊女街に登楼した船員に翌日海が荒れて出航できず、もう一晩泊ってもらうことを願い、遊女が「狛犬」を海の方向に廻して願いを懸けたことに由来するそうです。「狛犬」は廻せるそうですが壊れるんじゃないかと思い挑戦はやめました。「トゲ抜き狛犬」は、すごい顔のこの狛犬は、昔から厄払いの信仰があり、狛犬の口の中に手を触れると心に突き刺さっているトゲを抜いてくれるそうです。「トゲ抜き狛犬」の先には、「齋館諏訪荘」がありました。「諏訪荘」は、大正9年(1920年)に長崎の豪商である「永見寛二」が建築したもので、無節の日本栂材を用い、釘を一本も使用しない大正時代を代表する日本建築です。昭和11年(1936年)から「諏訪荘」の商号により和式旅館として営業を開始し、内外の著名人が多数利用したそうです。ちなみに、天皇皇后両陛下は、皇太子時代に宿泊したそうです。昭和59年(1984年)の廃業に当たり、保存を望む市民の熱意により当神社に移築奉納されたそうです。中を見学できなかったのが心残りです。「本殿」脇の坂を下ると「舞殿」、「神輿庫」があります。「神輿庫」は「東回廊」にあり、平成3年(1991年)9月に長崎地方を襲った台風17、19号により「大門」横の回廊(東西の廻廊)は倒壊してしまったそうです。しかし、「伊勢神宮」の古材を利用し、平成7 年(1995年)11月に再建されました。「神輿庫」には、神輿が3基ありました。「狛犬」のほかにもう一つ見たかったものがあります。それは「猪目(ハートの文様)の石垣」で、「社務所」の先に石垣があり、案内板も出ていたので、すぐに見つけることができました。案内板には、「神さまのいたずら?」と書いてありました。自然の力とはすごいものだと感心しました。「猪目」にふれることで御利益を得ることができるそうです。ちなみに「猪目」とは、形状そのままに「心臓型(ハート型)」とも呼ばれる文様のことだそうです。坂を下って行くと「太鼓楼」があります。「太鼓楼」は、平成の「御大典記念」として多くの氏子崇敬者の募財をもって平成4年(1992年)4月7日に完成しました。「太鼓楼」の中には、胴回り4.25メートルの「大太鼓」があり、朝夕に太鼓の音をもって、氏子地域をお祓いしているそうです。ちなみに、「御大典」とは、譲位の翌日から皇太子殿下が新天皇となられるために一連の儀式のことです。そして、「諏訪神社」の最後は、「病魔退散大楠」です。空高くそびえ立っている大楠で500~600年前のものといわれています。ここで病魔退散を願い、次の目的地の「眼鏡橋」に向かいます。 01_【「諏訪神社」の一口メモ】 ⑴ 所在地…〒850-0006 長崎県長崎市上西山町18-15 電話:095-824-0445 ⑵ 御祭神 ①主祭神 諏訪大神(武神・厄除けの神) ②建御名方神 ③八坂刀売神 ④相殿神 住吉大神(海上安全・大漁満足の神) 02_【「諏訪神社」へのアクセス】 ⑴ 路面電車を利用して [長崎駅前]⇒[諏訪神社]≪長崎電気軌道3系統「蛍茶屋行」≫ ・路面電車のりば:「JR長崎駅」東口から「新浦上街道」に向かうと歩道橋がありその下にあります。 ・3停留所目(「大波止」の次の停留所) 所要時間約9分 ・9時から17時の間に1時間平均6~7便 ・「諏訪神社」電停で下車し、地下道で神社の参道方面へ出ます。「諏訪神社」入口まで徒歩1分50m ⑵ 「JR長崎駅」かもめ口から徒歩24分1600m 03_【「諏訪神社」の見どころ】 ⑴ 「本殿」 安政4年(1857年)の火災で焼失しましたが、明治2年(1869年)に再建され、さらに、昭和57年(1972年)の改修工事では、桧皮から銅板への葺き替えを行いました。 ⑵ 「祝詞殿」 「祝詞殿」は、安政4年(1857年)の火災で焼失しましたが、明治2年(1869年)に再建され、昭和57年(1972年)の改修工事で増改築されました。 ⑶ 「拝殿」 「拝殿」は、明治2年(1869年)に再建された社殿を残し、それを増築する手法にて昭和58年(1973年)に増改築されました。 ⑷ 「大門」 「大門」は、諏訪神社の顔というべき門です。「大門」の下の坂は「長坂」と呼ばれ、坂の町長崎を象徴するものです。 ⑸ 「太鼓楼」 「太鼓楼」は、平成の「御大典記念」として多くの氏子崇敬者の募財をもって平成4年(1992年)4月7日に完成しました。「太鼓楼」の中には、胴回り4.25メートルの「大太鼓」があり、朝夕に太鼓の音をもって、氏子地域をお祓いしているそうです。ちなみに、「御大典」とは、譲位の翌日から皇太子殿下が新天皇となられるために一連の儀式のことです。 ⑹ 「神馬像」(しんめぞう) 「神馬像」は、「平和祈念像」の作者である彫刻家の故「北村西望」が102歳の時に手がけた作品です。昭和59年(1974年)の「第16回日展」に出品され、昭和天皇の「御在位60年」を記念して昭和60年(1985年)10月に奉納されたものです。「諏訪神社」には、明治3年(1870年)に三菱重工業長崎造船所の前身である長崎製鉄所より創業記念として「神馬像」が奉納されておりましたが、残念ながら大東亜戦争時に国へ供出されてしまいました。 ⑺ 「枝垂れ桜」 「枝垂れ桜」は、「長崎しにせ会」(長崎老舗43店の会)の30周年記念に平成元年(1989年)4月に奉納され、4月下旬から5月上旬にかけて花をつけるそうです。 ⑻ 「さざれ石」 「さざれ石」は、国歌「君が代」に「さざれ石の巌となりて」と詠われ、細かい石が長い年月をかけて固結してできた霊石のことです。また、「さざれ石」は私たち国民の一人一人をさしていて、一人の力は微力であるが、国民が力を合わせることで、大きな力(大きな巌)となることを意味しているそうです。 ⑼ 「天井絵」 「天井絵」は「西回廊」にあり、長崎美術協会会員75名により描かれたものです。実は、「西回廊」は、平成3年(1991年)9月に長崎地方を襲った台風17、19号により大門横の回廊(東西の廻廊)は倒壊してしまったそうです。「伊勢神宮」の古材を利用し、平成7 年(1995年)11月に再建されました。 ⑽ 「神輿庫」 「神輿庫」は「東回廊」にあり、やはり、平成3年(1991年)9月に長崎地方を襲った台風17、19号により大門横の回廊(東西の廻廊)は倒壊してしまったそうです。「伊勢神宮」の古材を利用し、平成7 年(1995年)11月に再建されました。「東回廊」に神輿3基を常時展示できる「神輿庫」を設営しました。 ⑾ 「玉園稲荷神社」 境内社の「玉園稲荷神社」は、商売、漁業関係の方々など多くの人々から信仰されています。例大祭日は4月9日で、毎月(十二支)「午の日」が祭り日です。 ⑿ 「かえる岩」 「玉園稲荷神社」の鎮座当時より本殿の上方にありました。この巨大な岩は、形がかえるに似ているころから「かえる岩」、「どんく岩」と呼ばれ、注連縄を廻して信仰されていました。ところが、昭和57年(1982年)7月23日の長崎大水害の際に、本殿の裏山が崩れて、「かえる岩」も本殿近くまですべり落ちましたが、本殿への土砂をくい止めました。このことから災難除けの「かえる岩」として信仰されているそうです。 ⒀ 「稲荷神社の抱き大楠」 「稲荷神社」の大楠は、「玉園稲荷神社」が創建された頃からここに自生ししていました。この玉園稲荷の神と共に生きている大楠を抱くことで稲荷の神の力が授かれるらしいので、手を大きく広げ大楠を抱いて、パワーを授かりましょう。 ⒁ 「諏訪荘」 「諏訪荘」は、大正9年(1920年)に長崎の豪商である「永見寛二」が建築したもので、無節の日本栂材を用い、釘を一本も使用しない大正時代を代表する日本建築です。昭和11年(1936年)から「諏訪荘」の商号により和式旅館として営業を開始し、日本三指に数えられました。内外の著名人が多数利用したそうです。ちなみに、天皇皇后両陛下には、皇太子時代に御宿泊されております。昭和59年(1984年)の廃業に当たり、保存を望む市民の熱意により当神社に移築奉納され、現在に至っております。 ⒂ 「本殿前休憩所」 「本殿前休憩所」にも天井絵が描かれていました。 ⒃ 「東照宮」 末社である「東照宮」は、徳川家歴代将軍を祀っています。かつては。「安禪寺」境内(現在の丸馬場公園一帯)に祀られていましたが、明治22年(1889年)5月に現在の地に遷座しました。 ⒄ 「陰陽石」 「陰陽石」は、長く続く参道の石段に配置されています。まず、参道のスタート地点にある「二の鳥居」付近にある丸い石が「男石」、「四の鳥」居付近にある六角形の石が「女石」です。さらに「拝殿」の前にはひし形の石のなかに円形の石がはめ込まれている「両性合体石」があります。「諏訪神社」の御利益としては、参道を通る時に、男性は「女石」を、女性は「男石」を踏んだあと、「拝殿」前にある「両性合体石」を踏むと縁結びの願いが叶うとされています
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