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第二十八章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~なごらん学徒看護隊(沖縄県立第三高等女学校)の足跡を訪ねて~<br /><br />沖縄県立第三高等女学校、沖縄戦に於いて動員された学徒隊のひとつである名護蘭(なごらん)学徒看護隊を結成し従軍した女学校生徒達のことをそう呼び、現在に至っています。<br /><br />多くの人材を輩出した国頭農学校が大正5(1916)年に嘉手納へと移設され、名護・山原といったエリアでは学校誘致が地域的課題とされていました。そこに大正9(1920)年に〝国頭郡各村立組合立実科高等女学校〟が、昭和3(1928)年には県立第三中学校が開校し、北部名護町の活性化の支えとなります。その後国頭郡各村立組合立実科高等女学校は、国頭高等女学校を経て、昭和5(1930)年には沖縄県立第三高等女学校として再出発し、北部の学都としての役割を担って行くこととなります。<br /><br />しかし太平洋戦争がはじまり、沖縄に於ける戦いが避けられないものとして刻々と近付いてくると、日本軍が沖縄へと送られてくることになります。沖縄本島で戦った部隊として〝第62師団〟台湾へと抽出された第9師団の後を受けた〝第24師団〟が知られていますが、その他沖縄島北部には〝独立混成第44旅団〟が配置されることになっていました。昭和19(1944)年6月3日に熊本で編成された〝独立混成第44旅団〟でしたが、6月27日に沖縄への船舶輸送に出発するも、6月29日に二個歩兵隊約4,100名と歩兵砲・速射砲・トラックなどの重装備を乗せた〝富山丸〟が徳之島沖で米軍潜水艦Sturgeonの雷撃によって轟沈。積み荷にあったドラム缶700本のガソリンにも引火したため富山丸は大爆発を起こし、沈没海域は一帯が〝火の海〟となりました(富山丸事件)。<br /><br />乗り組んでいた歩兵隊の船員70名、船砲隊6名、兵員3,654名の合わせて約3,700名もの犠牲者・行方不明者を出し、生存者はたった300名足らずと言われています。船団指揮官の独立混成第44旅団第一歩兵隊長柴田常松大佐は殉職、以下僅かに生還した兵士も僚船などによって沖縄へと運ばれ、せっかく拾う筈であった命を失うことになっています。結局富山丸事件によって旅団構成人員に問題が生じることとなり、第一歩兵隊は復員解消され、第2歩兵隊は再編成基幹要員を本土から空輸及び現地召集者を加えて再編成されました。後に第二歩兵隊長となる宇土武彦大佐は7月7日に那覇に到着し〝国頭地区隊〟として名護付近に位置することを命じられます。昭和19(1944)年11月には第9師団の抽出に伴う配備変更に於いて、第2歩兵隊の歩兵2個大隊を基幹とする部隊をもって〝国頭支隊〟として国頭方面の防衛に当たりますが、伊江島にも1個大隊を配備することとなり、結果本部半島の本当守備隊は第2大隊を基幹とする約3,000名の小兵力となったことにより本部半島の陣地を八重岳中心とする地区に縮小しています。第二大隊本部陣地壕跡は標高約453mの八重岳の頂上付近、斜面西側に設置されており、陣地壕から沢を挟んで設けられた〝野戦病院(沖縄陸軍病院八重岳分院)〟は病院といっても丸太と茅葺きによる掘っ立て小屋だったそうです。八重岳と北方の真部山にいた負傷兵が運ばれてくるものの、十分な治療を受けられず多くの将兵が命を落としています。兵力もない・武器もない・医薬品もない八重岳をめぐる攻防では日本軍は善戦したものの、所詮数に勝る米軍の前ではすぐに劣勢になってしまいます。4月10日には八重岳から砲撃を加えて米軍の前身を阻止したりはしたものの、翌日には猛烈な艦砲射撃と飛行機の対地攻撃を敢行されています。そして乙羽岳地区の遊撃隊や鉄血勤皇隊も米軍の攻撃を受けることとなり、激戦を戦ったもののの多くの犠牲者を出しています。<br /><br />昭和20(1945)年4月14日に米軍は飛行機の対地攻撃と砲撃の支援下に08:00頃攻撃を開始し、午後からは激烈な戦闘となっています。また丘や渓谷から何処からともなく攻撃してくる日本軍に戦闘を支配され、〝全く幽霊のような敵であった〟と言わしめていた近付くことさえ難しかった日本軍兵士ではあったもののこれまでの数日間による偵察で得た日本軍の攻撃拠点をひとつひとつ潰しながら進む戦法に対抗するすべがなく、翌4月15日・16日に更に猛烈な砲爆撃を加えられたことにより、ついに宇土大佐は戦況を考慮し〝本夜転進の時機なり〟と遊撃戦に移る事を命じ、八重岳陣地を放棄した後第3遊撃隊(第1護郷隊)のいる多野岳への転進を命令しました。残存兵力の各隊はさらに小隊・分隊の小部隊に分散して夜暗に紛れて多野岳に向かうこととなり約1週間に及ぶ日本軍の本部半島での戦闘は終了することとなりました。翌4月17日には米軍は八重岳北東頂上を占領し、18日より敗走する宇土部隊を追撃しての掃討戦が4月いっぱい続けられています。<br /><br />この宇土部隊の〝本部壕〟と〝沖縄陸軍病院北部分院跡地〟が今回訪れた場所になります。僅か1週間程の戦いの後に放棄されたこれらふたつの拠点には、部隊撤退後に多くの重症患者が取り残されていたと言われており、一説には300名もの患者が残されていたとも言われています。そして軍に協力した学徒隊の存在がやはりあり、沖縄県立第三中学校と沖縄県立第三高等女学校が学徒隊員として従軍しています。三中生は防衛隊員・鉄血勤皇隊員及び通信隊員として動員され、真部山・八重岳・名護岳・多野岳等で戦ったものの米軍の圧倒的な物量の前に壮烈な最期を遂げていきました。また三高女生も軍需産業への女子挺身隊員・従軍看護婦として動員されて若い命を散らしています。<br /><br />南部の学徒所縁の場所に比べると、圧倒的に知られていない北部の学徒所縁の地であるように思えてなりません。八重岳本部壕の説明版や『なごらん学徒看護隊』の碑などは。平成11(1999)年に建立されたときのままなのか、文字すら見えませんでした。学徒所縁の地の情報は知らなければそれまでですが、ひとつのエリアにいくつか集まっており、学徒名を知っていれば意外に簡単に見つけることができました。しかし北部になるとその情報を〝知らなければ〟絶対に行けません。たまたま立ち寄った〝ローソン名護高校前店〟の名前から〝名護高校〟付近にいることを知り、名護高校と言えば〝沖縄県立第三高等女学校〟のはず!というむちゃくちゃと思える脈絡から名護高校に連絡を入れ〝南燈慰霊之塔〟参拝の許可を得たことに始まります。そして名護から本部を経て美ら海水族館へと至る道で通った〝八重岳〟の山道に、なにかを感じながら走っていて見つけた〝宇土部隊本部壕と陸軍病院跡〟の碑、そして訪問ということになりました。<br /><br />このふたつの学徒隊の共通点である〝南燈慰霊之塔〟は昭和31(1956)年に〝三中健児之塔〟として兼久公園に建立されたものに、昭和47(1972)年沖縄県立第三高等女学校戦没者を合祀し、平成元(1989)年に〝南燈慰霊之塔〟と改名し、平成13(2001)年にこの地に移転して現在に至っています。私自身の〝行きたいけれど行くことができない場所〟リストに入っていたことがこんなところで幸いしました。しかし八重岳の本部壕と病院跡も含めて、なにか不思議な縁みたいなものを感じました。引き寄せられたみたいな感じがあって…。<br /><br />〝南燈慰霊之塔〟の慰霊祭は、名護高校があとを次いで、現在でも行っておられます。遺族や同窓生の高齢化に伴って、慰霊祭を執り行うのが困難になっている中で次世代が引き継いでくれていることは嬉しく思います。しかしその学徒隊に対する〝情報〟的なものはやはり圧倒的な少なさを感じざるを得ません。元々の数が少ないため〝語り部〟をして頂ける〝生還者〟の方々達の貴重な意見を集めることは、学徒隊の〝事実〟を後世に伝える最も〝重要な課題〟であるように思います。<br /><br />今回は運よく〝場当たり的〟な計画にも拘らず、訪れることができました。しかしできることならやはり十分な〝計画性を持った予定〟のもとで訪れたいと改めて思います。現状で私が知り得たなごらん学徒のことは以上です。今後新たな関連場所を訪れることができたならばそれを追加していくこともあるかと思います。<br /><br />今日は七夕、七十余年前に若くして斃れた少女達もきっと星空に未来の旦那様の姿を見ていたんだろうとふと思いました。<br /><br />これにて〝第二十八章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~なごらん学徒看護隊(沖縄県立第三高等女学校)の足跡を訪ねて~〟は終わります。<br /><br /><br />≪訪問日≫<br />①	平成29(2017)年6月21日水曜日

第二十八章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~なごらん学徒看護隊(沖縄県立第三高等女学校)の足跡を訪ねて~

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2017/06/21 - 2017/06/21

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

第二十八章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~なごらん学徒看護隊(沖縄県立第三高等女学校)の足跡を訪ねて~

沖縄県立第三高等女学校、沖縄戦に於いて動員された学徒隊のひとつである名護蘭(なごらん)学徒看護隊を結成し従軍した女学校生徒達のことをそう呼び、現在に至っています。

多くの人材を輩出した国頭農学校が大正5(1916)年に嘉手納へと移設され、名護・山原といったエリアでは学校誘致が地域的課題とされていました。そこに大正9(1920)年に〝国頭郡各村立組合立実科高等女学校〟が、昭和3(1928)年には県立第三中学校が開校し、北部名護町の活性化の支えとなります。その後国頭郡各村立組合立実科高等女学校は、国頭高等女学校を経て、昭和5(1930)年には沖縄県立第三高等女学校として再出発し、北部の学都としての役割を担って行くこととなります。

しかし太平洋戦争がはじまり、沖縄に於ける戦いが避けられないものとして刻々と近付いてくると、日本軍が沖縄へと送られてくることになります。沖縄本島で戦った部隊として〝第62師団〟台湾へと抽出された第9師団の後を受けた〝第24師団〟が知られていますが、その他沖縄島北部には〝独立混成第44旅団〟が配置されることになっていました。昭和19(1944)年6月3日に熊本で編成された〝独立混成第44旅団〟でしたが、6月27日に沖縄への船舶輸送に出発するも、6月29日に二個歩兵隊約4,100名と歩兵砲・速射砲・トラックなどの重装備を乗せた〝富山丸〟が徳之島沖で米軍潜水艦Sturgeonの雷撃によって轟沈。積み荷にあったドラム缶700本のガソリンにも引火したため富山丸は大爆発を起こし、沈没海域は一帯が〝火の海〟となりました(富山丸事件)。

乗り組んでいた歩兵隊の船員70名、船砲隊6名、兵員3,654名の合わせて約3,700名もの犠牲者・行方不明者を出し、生存者はたった300名足らずと言われています。船団指揮官の独立混成第44旅団第一歩兵隊長柴田常松大佐は殉職、以下僅かに生還した兵士も僚船などによって沖縄へと運ばれ、せっかく拾う筈であった命を失うことになっています。結局富山丸事件によって旅団構成人員に問題が生じることとなり、第一歩兵隊は復員解消され、第2歩兵隊は再編成基幹要員を本土から空輸及び現地召集者を加えて再編成されました。後に第二歩兵隊長となる宇土武彦大佐は7月7日に那覇に到着し〝国頭地区隊〟として名護付近に位置することを命じられます。昭和19(1944)年11月には第9師団の抽出に伴う配備変更に於いて、第2歩兵隊の歩兵2個大隊を基幹とする部隊をもって〝国頭支隊〟として国頭方面の防衛に当たりますが、伊江島にも1個大隊を配備することとなり、結果本部半島の本当守備隊は第2大隊を基幹とする約3,000名の小兵力となったことにより本部半島の陣地を八重岳中心とする地区に縮小しています。第二大隊本部陣地壕跡は標高約453mの八重岳の頂上付近、斜面西側に設置されており、陣地壕から沢を挟んで設けられた〝野戦病院(沖縄陸軍病院八重岳分院)〟は病院といっても丸太と茅葺きによる掘っ立て小屋だったそうです。八重岳と北方の真部山にいた負傷兵が運ばれてくるものの、十分な治療を受けられず多くの将兵が命を落としています。兵力もない・武器もない・医薬品もない八重岳をめぐる攻防では日本軍は善戦したものの、所詮数に勝る米軍の前ではすぐに劣勢になってしまいます。4月10日には八重岳から砲撃を加えて米軍の前身を阻止したりはしたものの、翌日には猛烈な艦砲射撃と飛行機の対地攻撃を敢行されています。そして乙羽岳地区の遊撃隊や鉄血勤皇隊も米軍の攻撃を受けることとなり、激戦を戦ったもののの多くの犠牲者を出しています。

昭和20(1945)年4月14日に米軍は飛行機の対地攻撃と砲撃の支援下に08:00頃攻撃を開始し、午後からは激烈な戦闘となっています。また丘や渓谷から何処からともなく攻撃してくる日本軍に戦闘を支配され、〝全く幽霊のような敵であった〟と言わしめていた近付くことさえ難しかった日本軍兵士ではあったもののこれまでの数日間による偵察で得た日本軍の攻撃拠点をひとつひとつ潰しながら進む戦法に対抗するすべがなく、翌4月15日・16日に更に猛烈な砲爆撃を加えられたことにより、ついに宇土大佐は戦況を考慮し〝本夜転進の時機なり〟と遊撃戦に移る事を命じ、八重岳陣地を放棄した後第3遊撃隊(第1護郷隊)のいる多野岳への転進を命令しました。残存兵力の各隊はさらに小隊・分隊の小部隊に分散して夜暗に紛れて多野岳に向かうこととなり約1週間に及ぶ日本軍の本部半島での戦闘は終了することとなりました。翌4月17日には米軍は八重岳北東頂上を占領し、18日より敗走する宇土部隊を追撃しての掃討戦が4月いっぱい続けられています。

この宇土部隊の〝本部壕〟と〝沖縄陸軍病院北部分院跡地〟が今回訪れた場所になります。僅か1週間程の戦いの後に放棄されたこれらふたつの拠点には、部隊撤退後に多くの重症患者が取り残されていたと言われており、一説には300名もの患者が残されていたとも言われています。そして軍に協力した学徒隊の存在がやはりあり、沖縄県立第三中学校と沖縄県立第三高等女学校が学徒隊員として従軍しています。三中生は防衛隊員・鉄血勤皇隊員及び通信隊員として動員され、真部山・八重岳・名護岳・多野岳等で戦ったものの米軍の圧倒的な物量の前に壮烈な最期を遂げていきました。また三高女生も軍需産業への女子挺身隊員・従軍看護婦として動員されて若い命を散らしています。

南部の学徒所縁の場所に比べると、圧倒的に知られていない北部の学徒所縁の地であるように思えてなりません。八重岳本部壕の説明版や『なごらん学徒看護隊』の碑などは。平成11(1999)年に建立されたときのままなのか、文字すら見えませんでした。学徒所縁の地の情報は知らなければそれまでですが、ひとつのエリアにいくつか集まっており、学徒名を知っていれば意外に簡単に見つけることができました。しかし北部になるとその情報を〝知らなければ〟絶対に行けません。たまたま立ち寄った〝ローソン名護高校前店〟の名前から〝名護高校〟付近にいることを知り、名護高校と言えば〝沖縄県立第三高等女学校〟のはず!というむちゃくちゃと思える脈絡から名護高校に連絡を入れ〝南燈慰霊之塔〟参拝の許可を得たことに始まります。そして名護から本部を経て美ら海水族館へと至る道で通った〝八重岳〟の山道に、なにかを感じながら走っていて見つけた〝宇土部隊本部壕と陸軍病院跡〟の碑、そして訪問ということになりました。

このふたつの学徒隊の共通点である〝南燈慰霊之塔〟は昭和31(1956)年に〝三中健児之塔〟として兼久公園に建立されたものに、昭和47(1972)年沖縄県立第三高等女学校戦没者を合祀し、平成元(1989)年に〝南燈慰霊之塔〟と改名し、平成13(2001)年にこの地に移転して現在に至っています。私自身の〝行きたいけれど行くことができない場所〟リストに入っていたことがこんなところで幸いしました。しかし八重岳の本部壕と病院跡も含めて、なにか不思議な縁みたいなものを感じました。引き寄せられたみたいな感じがあって…。

〝南燈慰霊之塔〟の慰霊祭は、名護高校があとを次いで、現在でも行っておられます。遺族や同窓生の高齢化に伴って、慰霊祭を執り行うのが困難になっている中で次世代が引き継いでくれていることは嬉しく思います。しかしその学徒隊に対する〝情報〟的なものはやはり圧倒的な少なさを感じざるを得ません。元々の数が少ないため〝語り部〟をして頂ける〝生還者〟の方々達の貴重な意見を集めることは、学徒隊の〝事実〟を後世に伝える最も〝重要な課題〟であるように思います。

今回は運よく〝場当たり的〟な計画にも拘らず、訪れることができました。しかしできることならやはり十分な〝計画性を持った予定〟のもとで訪れたいと改めて思います。現状で私が知り得たなごらん学徒のことは以上です。今後新たな関連場所を訪れることができたならばそれを追加していくこともあるかと思います。

今日は七夕、七十余年前に若くして斃れた少女達もきっと星空に未来の旦那様の姿を見ていたんだろうとふと思いました。

これにて〝第二十八章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~なごらん学徒看護隊(沖縄県立第三高等女学校)の足跡を訪ねて~〟は終わります。


≪訪問日≫
① 平成29(2017)年6月21日水曜日

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 ジェットスター
旅行の手配内容
個別手配

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  • 沖縄県立名護高校へとやってきました。

    沖縄県立名護高校へとやってきました。

  • 沖縄県立名護高校、校内マップ。試験とかで見慣れてはいます。<br /><br />南東角に慰霊碑は建立されていました。

    沖縄県立名護高校、校内マップ。試験とかで見慣れてはいます。

    南東角に慰霊碑は建立されていました。

  • 慰霊碑参拝の件は名護高校事務所に電話済みです。受付を済ませて校内を歩いて行きます。

    慰霊碑参拝の件は名護高校事務所に電話済みです。受付を済ませて校内を歩いて行きます。

  • 沖縄島北部の進学校である名護高校…。

    沖縄島北部の進学校である名護高校…。

  • 工事中で足場は悪いですが、すごく立派なことが書かれていることに気付きます。

    工事中で足場は悪いですが、すごく立派なことが書かれていることに気付きます。

  • 南燈慰霊之塔へとやってきました。

    南燈慰霊之塔へとやってきました。

  • だいぶ塗装が剥げたりとくたびれているようです…。

    だいぶ塗装が剥げたりとくたびれているようです…。

  • 南燈慰霊之塔、左側の様子。

    南燈慰霊之塔、左側の様子。

  • 南燈慰霊之塔、左後方の様子。

    南燈慰霊之塔、左後方の様子。

  • 南燈慰霊之塔移設碑文<br />一九五六(昭和三一)年一月二一日<br /> 三中健児之塔建立<br />一九七二(昭和四七)年六月二三日<br /> なごらん同窓会(元第三高女)、南燈同窓会へ加入<br /> 同会員の御霊も合祀される<br />一九八九(平成元)年八月二六日<br /> 南燈慰霊之碑改名工事完了<br />二〇〇一(平成一三)年三月三一日<br /> 南燈慰霊之塔移設工事完了<br />

    南燈慰霊之塔移設碑文
    一九五六(昭和三一)年一月二一日
     三中健児之塔建立
    一九七二(昭和四七)年六月二三日
     なごらん同窓会(元第三高女)、南燈同窓会へ加入
     同会員の御霊も合祀される
    一九八九(平成元)年八月二六日
     南燈慰霊之碑改名工事完了
    二〇〇一(平成一三)年三月三一日
     南燈慰霊之塔移設工事完了

  • 南燈慰霊之塔、後方の様子。<br />

    南燈慰霊之塔、後方の様子。

  • 南燈慰霊之塔、右後方の様子。<br /><br />http://www.nago-h.open.ed.jp/h29_005_nagodayori.pdf

    南燈慰霊之塔、右後方の様子。

    http://www.nago-h.open.ed.jp/h29_005_nagodayori.pdf

  • 南燈慰霊之塔、右側には碑文が刻まれています。<br /><br />南燈慰霊之塔<br /> 南燈慰霊之塔は、一九五六年「三中健児之塔」として兼久公園に建立された。一九七二年沖縄県立第三高等女学校戦没者を合祀、一九八九年「南燈慰霊之塔」と改名、二〇〇一年にこの地に移転した。<br /> この塔には、一九三一年に勃発した満州事変から一九四五年に終結した太平洋戦争までに戦没された沖縄県立第三中学校の卒業生・在校生三三九柱、県立第三高等女学校の卒業<br />生・在校生三六柱、計三七五柱の御霊が合祀されている。<br /> 県立第三中学校の卒業生・在校生は、一九四五年三月、軍命により、防衛隊員・鉄血勤皇隊員及び通信隊員として動員され、真部山、八重岳、名護岳、多野岳等で戦ったが、米軍の圧倒的な物量の前に壮烈な最期を遂げていった。 <br /> また、県立第三高等女学校の卒業生・在校生も、軍命により女子挺身隊員(軍需工場)・従軍看護婦として動員され、若い命を散らしていった。<br /> 戦没者の御霊を慰めるとともに、悲惨な戦争を二度と起こさないよう、「恒久平和の誓い」としてこの塔を建立する。<br /><br />二〇〇一年(平成十三年)三月三一日 <br />沖縄県立第三中学校同窓生及び遺族一同<br />沖縄県立第三高等女学校同窓生及び遺族一同<br />沖縄県立名護高等学校同窓生一同

    南燈慰霊之塔、右側には碑文が刻まれています。

    南燈慰霊之塔
     南燈慰霊之塔は、一九五六年「三中健児之塔」として兼久公園に建立された。一九七二年沖縄県立第三高等女学校戦没者を合祀、一九八九年「南燈慰霊之塔」と改名、二〇〇一年にこの地に移転した。
     この塔には、一九三一年に勃発した満州事変から一九四五年に終結した太平洋戦争までに戦没された沖縄県立第三中学校の卒業生・在校生三三九柱、県立第三高等女学校の卒業
    生・在校生三六柱、計三七五柱の御霊が合祀されている。
     県立第三中学校の卒業生・在校生は、一九四五年三月、軍命により、防衛隊員・鉄血勤皇隊員及び通信隊員として動員され、真部山、八重岳、名護岳、多野岳等で戦ったが、米軍の圧倒的な物量の前に壮烈な最期を遂げていった。
     また、県立第三高等女学校の卒業生・在校生も、軍命により女子挺身隊員(軍需工場)・従軍看護婦として動員され、若い命を散らしていった。
     戦没者の御霊を慰めるとともに、悲惨な戦争を二度と起こさないよう、「恒久平和の誓い」としてこの塔を建立する。

    二〇〇一年(平成十三年)三月三一日
    沖縄県立第三中学校同窓生及び遺族一同
    沖縄県立第三高等女学校同窓生及び遺族一同
    沖縄県立名護高等学校同窓生一同

  • 行事:燈慰霊之塔 慰霊祭 <br />日程:2017.06.23(金)<br />会場:沖縄県名護市大西5-17-1 名護高等学校内<br />時間<br />開演:14:00<br /><br />問合<br />沖縄立名護高等学校<br />TEL 0980-52-2615

    行事:燈慰霊之塔 慰霊祭
    日程:2017.06.23(金)
    会場:沖縄県名護市大西5-17-1 名護高等学校内
    時間
    開演:14:00

    問合
    沖縄立名護高等学校
    TEL 0980-52-2615

  • 南燈慰霊之塔には375名の法名が刻まれています。

    南燈慰霊之塔には375名の法名が刻まれています。

  • 最後にもう一度手を合わせます。

    最後にもう一度手を合わせます。

  • 三中鉄血勤皇隊・三中通信隊(沖縄県立第三中学校)<br /> 沖縄県立第三中学校は、1928年(昭和3年)1月、名護町(現名護市)に開校:しました。<br /> 1945年(昭和20年)3月26日、鉄血勤皇隊三中隊が編成され、4・5年生と2年生の一部の生徒は、独立混成第四十四旅団(宇土部隊)の第二歩兵隊鉄血勤皇隊と第三遊撃隊鉄血勤皇隊に、3年生は第二歩兵隊通信隊へ配属されました。<br /> 名護岳に配置された第三遊撃隊鉄血勤皇隊は、4月10日には多野岳に撤退し、羽地‐源河一帯で遊撃戦を展開しました。今帰仁村302高地に配置された第二歩兵隊鉄血勤皇隊は、13日、八重岳に到着、戦闘に参加させられましたが、16日、命令により多野岳に向かい撤退。多野岳も米軍の猛攻を受けるようになり、24日、命令により東村の山中に撤退しました。<br /> 第二歩兵隊通信隊に配属の生徒たちは。3月23日以降、八重岳、真部山の配置先で任務につきました。4月16日朝、米軍との戦闘が始まり、翌17日、多野岳への撤退命令が下り、生徒らは1週間後、多野岳で第三遊撃隊鉄血勤皇隊に合流し、24日、東村の山中に撤退しました。<br />

    三中鉄血勤皇隊・三中通信隊(沖縄県立第三中学校)
     沖縄県立第三中学校は、1928年(昭和3年)1月、名護町(現名護市)に開校:しました。
     1945年(昭和20年)3月26日、鉄血勤皇隊三中隊が編成され、4・5年生と2年生の一部の生徒は、独立混成第四十四旅団(宇土部隊)の第二歩兵隊鉄血勤皇隊と第三遊撃隊鉄血勤皇隊に、3年生は第二歩兵隊通信隊へ配属されました。
     名護岳に配置された第三遊撃隊鉄血勤皇隊は、4月10日には多野岳に撤退し、羽地‐源河一帯で遊撃戦を展開しました。今帰仁村302高地に配置された第二歩兵隊鉄血勤皇隊は、13日、八重岳に到着、戦闘に参加させられましたが、16日、命令により多野岳に向かい撤退。多野岳も米軍の猛攻を受けるようになり、24日、命令により東村の山中に撤退しました。
     第二歩兵隊通信隊に配属の生徒たちは。3月23日以降、八重岳、真部山の配置先で任務につきました。4月16日朝、米軍との戦闘が始まり、翌17日、多野岳への撤退命令が下り、生徒らは1週間後、多野岳で第三遊撃隊鉄血勤皇隊に合流し、24日、東村の山中に撤退しました。

  • なごらん学徒隊(沖縄県立第三高等女学校)<br />沖縄県立第三高等女学校の前身は、1920年(大正9年)に創立された国頭群各村組合立の『実科女学校』で、その後変遷を経て、1930年(昭和5年)県立に移管し、沖縄県立第三高等女学校になりました。<br /> 1945年(昭和20年)1月から、4年生の中から10名の生徒を選び、八重岳(現本部町)の沖縄陸軍病院名護分院で、約20日間、看護の実習訓練が行われました。<br /> 3月25日の卒業式は取りやめになり、しばらくして、生徒10名が訓練を受けた陸軍病院に連れて行かされ、7名は病院に、2名は医務室に、ひとりは連隊本部へ配属されました。<br /> 4月16日、米軍の掃討作戦が始まり、第二歩兵隊に多野岳(現名護市)への撤退命令が出され、深夜になって陸軍病院も多野岳へ撤退を開始しました。<br /> その後撤退していく道中で、米軍の猛攻撃に遭い、みんな散り散りになってしまい、それぞれ死の彷徨を続け、数日後には米軍に保護されました。撤退の途中、負傷した生徒、自決をあと一歩のところで思いとどまった生徒もいました。ひとりの生徒が伊豆味(本部町)で砲弾に倒れ亡くなりました。

    なごらん学徒隊(沖縄県立第三高等女学校)
    沖縄県立第三高等女学校の前身は、1920年(大正9年)に創立された国頭群各村組合立の『実科女学校』で、その後変遷を経て、1930年(昭和5年)県立に移管し、沖縄県立第三高等女学校になりました。
     1945年(昭和20年)1月から、4年生の中から10名の生徒を選び、八重岳(現本部町)の沖縄陸軍病院名護分院で、約20日間、看護の実習訓練が行われました。
     3月25日の卒業式は取りやめになり、しばらくして、生徒10名が訓練を受けた陸軍病院に連れて行かされ、7名は病院に、2名は医務室に、ひとりは連隊本部へ配属されました。
     4月16日、米軍の掃討作戦が始まり、第二歩兵隊に多野岳(現名護市)への撤退命令が出され、深夜になって陸軍病院も多野岳へ撤退を開始しました。
     その後撤退していく道中で、米軍の猛攻撃に遭い、みんな散り散りになってしまい、それぞれ死の彷徨を続け、数日後には米軍に保護されました。撤退の途中、負傷した生徒、自決をあと一歩のところで思いとどまった生徒もいました。ひとりの生徒が伊豆味(本部町)で砲弾に倒れ亡くなりました。

  • 沖縄県立名護高校校歌。

    沖縄県立名護高校校歌。

  • 沖縄県立第三高等女学校校歌。

    沖縄県立第三高等女学校校歌。

  • 沖縄県立第三中学校の校門。

    沖縄県立第三中学校の校門。

  • 沖縄県立第三中学校校歌。

    沖縄県立第三中学校校歌。

  • それでは旧沖縄県立第三高等女学校と第三中学校の現沖縄県立名護高校を後にします。

    それでは旧沖縄県立第三高等女学校と第三中学校の現沖縄県立名護高校を後にします。

  • なごらん(沖縄県立第三高等女学校)の標柱。<br /><br />≪ここは、一九四五年(昭和二〇)の沖縄戦の時、国頭支隊(球七〇七一部隊、俗称宇土部隊)の本部壕と、沖縄陸軍病院名護分院(八重岳野戦病院)のあった跡である。<br /><br />国頭支隊は飛行場のある伊江島の保持と、本部半島を中心に国頭郡内でゲリラ活動をして米軍を撹乱、釘付けにし、本島中、南部の作戦を容易にすることを任務とした。<br /><br />宇土部隊(隊長 宇土武彦大佐)は、大分・鹿児島・宮崎・熊本・沖縄の各県出身の将兵によって編成され、伊江島守備隊の第一大隊と、本島守備隊の第二大隊、砲兵隊、遊撃隊(護郷隊)、鉄血勤皇隊、防衛隊等から成る兵員約四千人である。<br /><br />八重岳、真部山に布陣する国頭支隊は、四月十一日頃から米軍の空爆と艦砲射撃を受け、十三~十六日にかけて西海岸の渡久地方面と東側の伊豆味から進撃する米海兵隊の猛攻に合い、真部山で激しい攻防戦となり日本軍に多数の死傷者が出た。<br /><br />十七日米軍は遂に八重岳北東頂上を占領、十八日敗走する宇土部隊を追撃して掃討戦は四月中続いた。<br /><br />一方宇土隊長は四月十六日、米軍の伊江島上陸を機に八重岳、真部山の陣地を放棄し、遊撃戦に移ることを命じ、第二遊撃隊のいる多野岳に後退した。その際、八重岳の野戦病院には多くの負傷者が遺棄され、この一帯は悲惨を極めたといわれる。<br /><br />この本部半島地域における戦闘で、軍や町役場の命で山中に避難した住民は却って戦火に巻きこまれ、軍人、軍属を含む町民一七五三人の尊い生命が失われた。<br />本部町教育委員会≫

    なごらん(沖縄県立第三高等女学校)の標柱。

    ≪ここは、一九四五年(昭和二〇)の沖縄戦の時、国頭支隊(球七〇七一部隊、俗称宇土部隊)の本部壕と、沖縄陸軍病院名護分院(八重岳野戦病院)のあった跡である。

    国頭支隊は飛行場のある伊江島の保持と、本部半島を中心に国頭郡内でゲリラ活動をして米軍を撹乱、釘付けにし、本島中、南部の作戦を容易にすることを任務とした。

    宇土部隊(隊長 宇土武彦大佐)は、大分・鹿児島・宮崎・熊本・沖縄の各県出身の将兵によって編成され、伊江島守備隊の第一大隊と、本島守備隊の第二大隊、砲兵隊、遊撃隊(護郷隊)、鉄血勤皇隊、防衛隊等から成る兵員約四千人である。

    八重岳、真部山に布陣する国頭支隊は、四月十一日頃から米軍の空爆と艦砲射撃を受け、十三~十六日にかけて西海岸の渡久地方面と東側の伊豆味から進撃する米海兵隊の猛攻に合い、真部山で激しい攻防戦となり日本軍に多数の死傷者が出た。

    十七日米軍は遂に八重岳北東頂上を占領、十八日敗走する宇土部隊を追撃して掃討戦は四月中続いた。

    一方宇土隊長は四月十六日、米軍の伊江島上陸を機に八重岳、真部山の陣地を放棄し、遊撃戦に移ることを命じ、第二遊撃隊のいる多野岳に後退した。その際、八重岳の野戦病院には多くの負傷者が遺棄され、この一帯は悲惨を極めたといわれる。

    この本部半島地域における戦闘で、軍や町役場の命で山中に避難した住民は却って戦火に巻きこまれ、軍人、軍属を含む町民一七五三人の尊い生命が失われた。
    本部町教育委員会≫

  • 駐車スペースより山手に道が続いています。なにかがありそうですが、生憎先日の大雨で足元がぬかるんでおりまする…。

    駐車スペースより山手に道が続いています。なにかがありそうですが、生憎先日の大雨で足元がぬかるんでおりまする…。

  • 駐車スペースから本部壕へと向かう通路。

    駐車スペースから本部壕へと向かう通路。

  • 本部壕、全体の様子。

    本部壕、全体の様子。

  • 本部壕、内部をストロボで照らします。

    本部壕、内部をストロボで照らします。

  • 本部壕、with たかティムさん。

    本部壕、with たかティムさん。

  • 陸軍病院跡地。

    陸軍病院跡地。

  • 陸軍病院の跡地、with たかティムさん。

    陸軍病院の跡地、with たかティムさん。

  • ぬかるみを歩いてみますが…。

    ぬかるみを歩いてみますが…。

  • とてもじゃないけれど・・・。

    とてもじゃないけれど・・・。

  • 無理っぽい…。<br /><br />けがはしたくないので無理は致しません…。

    無理っぽい…。

    けがはしたくないので無理は致しません…。

  • 沖縄県営平和祈念公園に平成29(2017)年3月14日に建立された全学徒隊の碑。訪れる多くの方々に『学徒隊はひとつではない』ことを教えてくれるでしょう…。

    沖縄県営平和祈念公園に平成29(2017)年3月14日に建立された全学徒隊の碑。訪れる多くの方々に『学徒隊はひとつではない』ことを教えてくれるでしょう…。

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