2026/05/31 - 2026/06/23
10位(同エリア26件中)
マリアンヌさん
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今回の旅の目的のひとつであるブルターニュ地方。
SNCFのストライキに見舞われましたが、タクシーで無事ディナンに到着しました。高低差もあり、コロンバージュと石の家並みが美しい街でした。
5/31 羽田発22:05 AF279
6/1 シャルル・ド・ゴール着6:00
6/1,2 パリ
6/3 ジェルブロワ
6/4 ルーアン
6/5 ヴール=レ=ローズ
6/6 ルーアン
6/7,8 ブーヴロン=アン=オージュ
6/9 グランビル
6/10,11 ディナン
6/12 レンヌ
6/13,14 ロシュフォール=アン=テール
6/15,16 ロクロナン
6/17 ヴァンヌ
6/18 トゥール
6/19,20ポワチエ
6/21 ナント
6/22 ナント発18:45 AF7507 パリ発23:00 AF274
6/23 羽田着 19:40
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ストライキのため、タクシーで出発。
途中、以前訪れたモン・サン・ミッシェルが見えた。
その歴史は、966年に3代目ノルマンデイーリシヤール1世 がキリスト教への深い帰依を示し、ベネデイクト会 の修道士たちを招致し「修道院」としての歴史がスタート。
歴代のノルマンデイー公は、自分たちに忠誠を誓う修道士を配置し、資金を投じて島を要塞化、ブルターニユからの侵略を防ぐ防衛拠点とした。 -
1時間半ほどでブルターニュ地方のディナンに到着。
右の古いコロンバージュの建物が今晩のお宿、荷物を預けて観光スタート。 -
近くの土産屋さん。ブルターニュらしい図柄のクッキー缶や可愛いアニメの魚の罐詰など面白い。
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カンペール焼きでしょうか?ちょっと惹かれたけど・・・
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以前から独特な歴史的背景のケルト由来のブルターニュ地方に心惹かれていた。
軽く歴史をおさらい。
ケルト人の移住と独立の時代ケルトの到来:紀元前よりケルト人が住み、ローマ時代には「アルモリカ」と呼ばれた。
ブリテン島からの移民:3~6世紀にかけて、アングロ・サクソン人の侵入を逃れたブリテン島(いまのイギリス)のケルト人が大挙して移住し、「小ブルターニュ」と呼ばれる地域が形成された。
ブルターニュ王国と公国:9世紀にノミノエによって統一王国が作られ、のちにバイキングの侵入を経て「ブルターニュ公国」となった。フランスとイギリスに挟まれながらも、巧みな外交と独立心で自立を守り抜いた。 -
フランスへの併合と近現代フランスへの統合(1532年):15世紀末の戦争に敗北したのち、女公アンヌ・ド・ブルターニュの娘クロードとフランス王フランソワ1世の婚姻などを経て、1532年に正式にフランス王国に併合された。
特権の喪失とフランス革命:併合後も一定の自治や地方特権が認められていたが、1789年のフランス革命によってそれらの封建的特権はすべて廃止された。
文化の継承:現代でも独自のケルト文化やブルトン語、特有の建築・食文化(ガレットやシードルなど)が強く息づいている。 -
洋服屋さんには、色鮮やかな服が並ぶ。
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ずいぶん歴史を感じる建物。
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案内板より。
14世紀末、ディナンのブルジョワジーはブルターニュ公爵家にとって欠かせないパートナーとなった。政治的特権は増大し、1470年代に建設された共同塔はその象徴である。
高さ43メートルを超えるこの塔は、市庁舎と公爵の天守閣を見下ろし、フランス革命まで市議会の会議場として利用されたほか、展望台からは街を見渡すことができ、監視の役割も果たした。
1505年、ブルターニュ王妃アンヌは鐘の設置を認可した。
鐘は1507年に落成し、同時に市庁舎の塔は鐘楼へと格上げされた。この時、1498年にドイツ人ハムザーによってナントで製作された時計仕掛けの鐘も設置された。
今日、ディナンの鐘楼は、フージェールの鐘楼と並んでブルターニュ地方に残る最後の鐘楼の一つとして、街のシンボルの一つとなっている。 -
赤色基調のクレープリー店。
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宿のあたりが旧市街の中央のよう。
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反対側の通りへ。
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Maison De La Harpe
開館時間になったら来ましょう。 -
装飾が面白い。
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フラワーショップ。
電動でチョウチョが舞っている。 -
教会をリノベーションしたホテルのよう。
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コロンバージュの坂道、絵になるね。
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フランスっていう感じのレストラン。
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美しいコロンバージュ、古い建築だけど現役だね。
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Place des Cordeliers(コルドリエ広場)。
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コルドリエ修道院(Couvent des Cordeliers)の入り口。
13世紀に建てられたゴシック様式のポータル。
案内板より。
1247年から1249年にかけて、フランシスコ会(またはコルドリエ会)がディナンに定住しました。当初は10名ほどの修道士で構成されていた修道院は、年々規模を拡大し、15世紀から16世紀にかけては約30名の修道士を擁するようになりました。
14世紀後半から15世紀にかけて、フランシスコ会は大規模な改修工事に着手しました。まず、柱で装飾され、フリーズで飾られた壮大なポーチが建設されました。彫像を収めた壁龕が並ぶギャラリーが建物の頂上を飾っています。広い回廊に囲まれた大きな回廊は、ブルターニュ三部会が開かれた参事会室をはじめとする様々な空間への通路となっていました。
18世紀まで繁栄し活気に満ちていたこの修道院でしたが、フランス革命時にはわずか7名の修道士しかいませんでした。 1791年に閉鎖され、その後国有財産として売却されたこの修道院は、1807年にベルティエ修道院長によって買い戻され、そこに大学が設立された。 -
広場は観光客で溢れていた。
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案内板より。
聖地で異教徒との戦いの最中、アンリ・ダヴォーグールは敗北を悟り、もし生き延びたら自分の城を修道院にすると誓った。
生き延びたディナンの領主は、イタリアを横断して領地に戻り、そこで聖ボナヴェントゥラに出会った。聖人は彼に「美徳の聖母」像(革命以来、ディナンのサン・ソヴール教会の聖フランシスコ礼拝堂に安置されている)を授け、ダヴォーグールはこの像をディナンのフランシスコ会修道院の守護聖人として奉献した。
この話は、1695年に国立図書館に所蔵されている16世紀の詩を写したベネディクト会修道士ドン・ドニによって伝えられた。 -
街の中心に佇むのは、11世紀に設立された歴史あるサン・マロ教会。
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1488年、フランス軍の侵攻の脅威に直面したディナンのサン・マロ教会は、城壁の外に位置していたため破壊された。翌年、ディナンの人々は城壁内に新たな聖堂を建設する許可を得た。
市民の熱意で、工事は当初は順調に進んだが、1598年になっても聖歌隊席と中央身廊のヴォールトはまだ完成しておらず、鐘楼も部分的にしか建設されておらず、仮設の屋根で覆われている状態だった。
建物はこの中途半端な状態のまま1727年まで続き、構造に弱点が見られたため、南側の柱をフライングバットレスで補強することが決定された。
革命の被害を免れたこの教会は、1855年修復工事が始まり、工事は1865年まで続き、身廊の屋根は完成したが、ヴォールト天井は未完成のままだった。さらに、資金不足のため鐘楼は完成せず、ディナンのサン・マロ教会は独特の形状を保っている。 -
2つのアーチの扉口。
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ブルターニュ地方におけるフランボワイヤン・ゴシック様式の代表的な建築として知られているそう。
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20世紀はじめに製作されたステンドグラス。
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カラーリングが見事なパイプオルガン。
英国の名工アルフレッド・オルドノウによって1889年に作られた。 -
高低差のある旧市街。
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パン屋さん。クイニーアマンなど売られていた。
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絵になる風景。
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レースが素敵なクレープリー。満席だった。
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こちらのお店でランチすることに。
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ガレットをいただいた。
ワンちゃん、よい子にしている。 -
お腹もいっぱいになり、そぞろ歩き再開。
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カラフルな椅子のあるクレープリー。
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シャン・クロ広場。
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楽器店、ギターが並んでいる。
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ワインショップ。
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案内板より。
1628年、サン・マロのベネディクト会修道女たちが修道院設立を目指し、レオン通り沿いの土地の取得を開始しました。
3年後、6人の修道女がディナンに到着し、後にノートルダム・ド・ラ・ヴィクトワールと名付けられる修道院を設立しました。回廊の建設は1638年に始まり、イエズス会様式の礼拝堂は1662年に完成しました。
その後、修道院は発展を遂げましたが、1746年に火災に見舞われ、建物は甚大な被害を受け、修道女たちは壊滅的な打撃を受けました。修道院は1772年に解散しました。
しかし、修道院は放棄されたわけではありませんでした。
1775年、サン・マロ司教はディナンにディナン学院を設立することを決定しました。学院はフランス革命までそこで運営され、1841年以降は正式にディナンに拠点を置きました。 -
ディナン城。
案内板より。
公爵塔の建設
覇権を争っていたジャン4世は、1380年、長らく敵対関係にあったディナンに要塞化された居城を建設することを決意した。これは、町に対する自らの権威を改めて示すためであった。彼は建設の指揮をエティエンヌ・ル・トゥールに委ねた。おそらく、この塔全体の設計者もル・トゥールであったと思われる。
城壁の南東隅という立地は、決して偶然ではなかった。そこからは、当時レンヌへと続く道が開かれていたギシェ門を見下ろすことができた。公爵塔はその華麗な建築様式で旅人に威圧感を与え、城壁をまたぐその立地は、駐屯兵にとって二方向からのアクセスを可能にするという、戦略的に大きな利点をもたらした。
ゼロから建設されたこの建築計画は迅速に進められ、1380年に着工された工事は1393年には確実に完成しており、おそらく1384年には既に完成していた可能性もある。このように、ヨハン4世公爵はこの塔宮殿の建設に相当な人的資源と財政資源を投入した。 -
ブルターニュ公の宮殿塔
ジャン4世がディナンに居城を建設することを決めた際、彼が参考にしたのは、シャルル5世が数年前に完成させたばかりの、ヴァンセンヌの森の塔(トゥール・デュ・ボワ・ド・ヴァンセンヌ)でした。軍事的な威容と建築的な豪華さを兼ね備えたこの塔は、まさにブルターニュ公がディナンに築いた宮殿塔と言えるでしょう。領土における権威を固め、フランス国王に対抗しようと望んだジャン4世は、自らの権力の象徴すべてをディナンの居城に集約しました。そして数十年にわたり、この公爵の塔はディナンで最も高い建造物として、街並みの中でひときわ目を引く存在となりました。
しかし、建物の垂直方向の構造は、公爵の権力を際立たせるための空間の階層性を確保する一方で、ブルターニュ宮廷を収容するのに十分な広さの空間を確保することを不可能にしました。したがって… 14世紀から15世紀にかけて、公爵たちはディナンの塔宮殿に定期的に滞在していたが、彼らに同行したのは少数の従者だけであった。 -
メルクール公爵の要塞
16世紀末、宗教戦争によって中世の要塞は軍事的に重要な役割を再び担うようになりました。1587年から1598年にかけて、ディナンはメルクール公爵の支配下に置かれ、公爵はここをブルターニュにおける主要な拠点とすることを決定しました。その後、公爵の居城を真の要塞へと変貌させるための大規模な工事が行われました。
メルクール地下通路でコエトケン塔と繋がり、広い堀と稜堡を備えた上層中庭によって町の他の部分から隔絶されたこの城は、市壁南側の防御力を強化し、駐屯軍による町の支配を確実にするための要塞として設計されました。ディナン城は1598年1月31日の夜、ついにアンリ4世の軍隊に門を開いたものの、3000人の王軍兵士を相手に2月13日まで持ちこたえた。 -
監獄の時代
1693年、維持管理の不備により、公爵塔は一部が荒廃した。
ヴォーバンの弟子であった技師シメオン・ガランジョーは、この中世の古い城郭群が依然として王国の防衛に貢献できると考えた。そこで彼は、戦争中に捕虜となった外国人兵士や水兵を収容するため、城を修復・改築する計画を提案した。1701年に改めて提案されたこの計画は、2年後に陸軍省と海軍省によって承認され、城郭の大幅な改修工事が開始され、現在の姿となった。18世紀を通して、数百人のイギリス人捕虜が公爵塔とコエトケン塔に収容された。
フランス革命後も監獄としての機能は維持されたが、収容される囚人の性質は徐々に変化していった。ディナン城は軍事監獄から一般法に基づく監獄へと転換し、1904年までその状態が続いた。 -
ディナン城から見た中世の城壁都市の街並み。
歴史的な町並みで、石造りの建物や中世の防衛壁が特徴。
豊富に採れる花崗岩を使った建物に濃いグレーの屋根瓦(アルドワーズと呼ばれる薄く切り出した天然のスレート(粘板岩))がのっている。 -
大きな連子窓から光が差し込むこの広大な広間は、突き出したフードを備えた壮大な暖炉(まさに技術的偉業と言えるでしょう)と、樫の葉で装飾された柱頭を持つ細身の柱が特に印象的です。中世の目録のおかげで、謁見の間は限られた家具しか置かれていなかったものの、非常に豪華絢爛だったことが分かっています。王子の威厳を際立たせるため、背もたれの高い椅子が木製の台座の上に置かれ、その上には王子の紋章が描かれた天蓋が載せられていた。
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王子の私室
大広間、あるいは「謁見の間」と呼ばれるこの部屋は、ヨハン4世公の私室へと続いています。3つの大きな窓と窓辺のベンチが、この部屋に十分な光をもたらし、その装飾は前の階の迎賓室に比べてはるかに控えめです。下の階と同様に、元々は軽い仕切りで空間が二つに分けられ、玄関として機能する前室と私的な生活のための主室が区切られていたと考えられます。
謁見の間は、14世紀から15世紀にかけての彩飾写本によく描かれています。王子はここで女性や親しい人々と語り合い、チェスをしたり、音楽を聴いたり、食事をとったりしました。部屋の中央には、堂々とした謁見用のベッドが置かれていました。王子はそこに横たわり、親密さと礼儀正しさの絶妙なバランスを保ちながら、愛する人々を迎え入れたのです。配膳口の存在は、公爵が宴会場で客人と食事をするだけでなく、私室で親しい者たちと食事をしていたことを裏付けている。 -
14世紀後半にブルターニュ公ジャン4世によって建設された中世の要塞。街を囲む全長約2.6kmの城壁の一部。
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赤い壁が特徴的な中世の館。
薔薇が咲いている。 -
Maison De La Harpe
開館時間になったので入ることに。実はブルターニュでケルトハープの生演奏を聴いてみたいという夢があったのだけど、「お祭りの時に聞けるわよ」とのこと、残念。
<歴史>
ハープは小アジアが発祥。紀元前3000年、弦楽器を最初に用いたシュメール文明は、弓ハープを最初に認識し、それがアフリカに伝わった。そしてハープはエジプト、中東、特にフェニキアに広まり、そこで最終的な形が確立された。
このハープはエーゲ海の島々を経てギリシャにまで伝わり、プラトンはこれを「トリゴネ」と呼んた。 -
ヨーロッパにおけるハープの歴史。
紀元前110年頃、フェニキア人がスペイン南部に定住し、自らの文明を携えてケルト諸国へと移住した。
ケルト諸国には、彼らの痕跡が長く残った。
11世紀のピクト人(スコットランドの先住民)の石碑には、ハープの図像が見られる。これらのハープは三角形で、柱で閉じられていた。11世紀から12世紀にかけて、柱は湾曲するようになりました。
スコットランドとアイルランドのクラルサッハと呼ばれる「ローヘッドハープ」と呼ばれるハープは、約30本の鋼弦と柳の幹をくり抜いた共鳴箱を備えた頑丈な楽器だった。
こうして16世紀と17世紀に「ハイヘッド」ハープが登場。
最後の大規模なハープ・フェスティバルは1792年にベルファストで開催された。
中世には、ハープはヨーロッパ全土に広まりまった。いくつかの絵画には、ハープ奏者が小さなハープを首から紐で吊るしたり、膝の上に置いたりしている様子が描かれている。
中世末期には、細身の形状でガット弦を張り、「ブレイピン」(L字型の木片で、弦の付け根に取り付け、音色を変えたり音量を上げたりする目的で使用)を備えたゴシックハープが登場した。 -
ブルターニュ地方におけるケルトハープ。
6世紀頃にアイルランドの宣教師によってブルターニュへ伝来。10~15世紀に吟遊詩人たちの伴奏楽器として全盛期を迎える。中世後期に独自のケルト文化が衰退し、口承のみとなり一度は完全に途絶。
1950年代に楽器職人ジョルジュ・コシュヴルーが実用的なハープを再興。
触ってもいいハープの弦をつま弾いてみた。 -
アイルランドの伝説では、不思議な力を持つハープについて言及されている。
ギリシャ神話の「王様の耳はロバの耳」に似た話なのです。
ラブライク・ロルク王の耳は、実は馬の耳のようでしたが、自分の髪をカットした床屋が秘密を漏らさないよう、散髪が終わるたびにその者を死刑にしていました。
ある年、未亡人のひとり息子が床屋に選ばれてしまいます。
母親の必死の命乞いにより、王は「絶対に秘密を漏らさないこと」を条件に息子の命を救いました。
しかし、秘密の重さに耐えかねて青年は病気になってしまいます。木へのささやき: 青年はドルイド(神官)の助言に従い、森の柳の木に「ラヴライク王は馬の耳!」とささやき、心の重荷を下ろしました。
その後、王のお抱え楽師が偶然その木を使って新しい竪琴(ハープ)を作りました。王の宮殿での宴会の席で楽師がその竪琴を奏でると、弦から「ラブライク・ロルク王は、二つの馬の耳を持つ!」という歌声が響き渡り、全員に秘密が知れ渡ってしまいました。
秘密が暴かれた王は、観念して自ら帽子(あるいはフード)を脱いで耳を晒しました。しかし、国民は王のこれまでの優れた統治を称え、そのまま受け入れました。これ以降、床屋が処刑される理不尽な掟も廃止されました。 -
旧市街で一際目を惹く時計塔、オープンタイムになったので登ってみましょう。
1380年代、ブルターニュ公ジャン4世は、ディナンに堂々たる天守閣の建設を命じた。政治的、軍事的目的の両方を果たすこの天守閣は、街の防衛力を強化するとともに、ディナンの人々に公爵の絶対的な権力を知らしめることを意図していた。
公爵の居城だったが権威を象徴するも公爵がここを訪れることは稀だった。18世紀以降、刑務所として使われた。
1906年にディナン市によって買い取られ、その後、ディナン博物館へ。現在も、ディナン地方の歴史をたどるコレクションが収蔵されている。 -
キリスト教会やブルターニュ公と拮抗する市民の象徴として、常にディナン市民の暮らしを見守ってきた。
1498年に近郊の街ナントで製造された機械仕掛けの時計が据えられており、ヨーロッパで最も古い機械時計の1つとして知られている。 -
ディナン城から見えた景色より、より旧市街が真下に見える。
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中世に迷い込んでしまったような石造りの建物の風景。
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明日行く予定のBasilique Saint-Sauveur。
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塔の中のキャプションより。
1379年、数年間のイングランド亡命生活から帰国したブルターニュ公ジャン4世は、フランス軍の脅威に対抗するため、都市住民の支持を得ようと努めた。そのため、彼はブルターニュの都市(後に「公爵の良き町」と呼ばれるようになる)の市民に、徐々に政治的・財政的な権利を与え、それが彼らの「特権」となった。
1397年、ナントの市民は公爵から公的資金の管理と徴税権を獲得し、隊長を議長とする「市議会」の設置が承認された。その見返りとして、ジャン4世は地元住民に対し、特に要塞、大砲、橋、道路の維持管理を通して、自らの政策に財政的に貢献することを期待した。 -
一方、ブルジョワジーは公爵の譲歩と寛大な施しから恩恵を受け、故郷の町や公国全体の行政に積極的に参加するようになった。15世紀初頭から、都市のエリート層は新たな行政官、法律家、金融専門家の集団を形成した。最も有能な者たちは貴族階級に匹敵するほどの地位を築き、ブルターニュ公爵の側近となった。
15世紀初頭のディナンの行政とその運営に関する記述は、おそらくジャン4世の治世中に、より以前にその起源があったことを示唆している。実際、ディナンは当時すでに財政、政治、経済の面で重要な役割を果たしており、公爵の権力にとって不可欠な政治的・財政的支援を提供する裕福な名士や繁栄した職人からなるエリート層を擁していた。 -
ジャン5世公(1399-1442)の治世中、ブルターニュのほとんどの都市で行政の自由が拡大した。ブルターニュ三部会への都市代表団の存在は、援助や補助金を提供することで中央権力を支え、公国を統治できる有能な人材も供給していた、裕福で影響力のあるブルジョワジーの存在を証明している。
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中世時代、ディナンは1532年に正式にフランス王国に併合されるまで、政治的経済的に重要な都市だったよう。
歩行者のアーケードとなるよう2階部分がせり出している建築は、「メゾン・ア・ポルシュ」と呼ばれるそうでブルターニュ地方に多い雨の日でも商売が出来るような構造となっているそう。 -
ちょっと潰れそうで怖いけどこのコロンバージュに泊まります。既に夕刻なので部屋に入れます。
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1階のお店でチェックインして荷物を4階まで運びます、フゥー。
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お部屋は建物の外からは想像出来ない感じでロマンチック。
2泊お世話になります。
<Guest House Saint Yves> -
さっき登った塔も見える。
浴槽もある。しかし、西欧あるあるで栓があまい。滑り止めにお尻で座り何とかお湯をはった(笑) -
絵などもかかり、いい雰囲気。
このお宿、3部屋位しかなくて、半年前に予約した。 -
夕食を外食出来る体調だし、旧市街の中心の宿で近かったので、おすすめのレストランへ。
<Le Cantorbery> -
いつもフランス語メニュー解読に苦労するのだけど、なんとタブレットでメニューが見れ、多言語対応。日本語でよく理解して注文出来た。
美味しかったです☆ -
翌朝、お願いした8:30に朝食を持ってきて下さった。
ボリューム満点、美味しかった。 -
ディナン2日目、観光に出発。
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時計塔に近いBasilique Saint-Sauveurへ。
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サン・ソヴール大聖堂。
サン・ソヴール教会が文献に初めて登場するのは1123年のことである。12世紀後半に修道院として設立されたこの建物は、その後、ポワトゥー地方の教会の影響を強く受けた後期ロマネスク様式で再建された。この時代の建築物として、南壁と西側入口の大部分が現存しており、そこに彫られた4体の大きなレリーフ像は、すでにゴシック彫刻の先駆けとなっている。
サン=ソヴァール聖堂のファサード(正面)下部は、15~16世紀に拡張されたゴシック様式の上部構造とは異なり、1120年頃の創建当時の姿を今に伝える最も古い貴重な部分である。 -
ロマネスク様式の西側正面ポータル(扉口)。
入口のタンパンには、天使に囲まれた玉座のキリストが彫られている。ファサードの左右には、特徴的な有翼の獅子の彫刻が配置されている。 -
ライオンの上に立つ使徒の像。柱頭も素晴らしい。
15世紀末、手狭になった教会は大規模な改築工事に着手された。1470年代には、身廊を北側に拡張し、放射状に礼拝堂を増築する工事が始まった。16世紀初頭にも工事は再開されたが、資金不足と宗教戦争の影響で急激に中断された。
1507年に着工された聖歌隊席は、1597年になってもまだ未完成だった。鐘楼に至っては、1668年まで完成せず、1749年に落雷に見舞われた。 -
サン・ソヴール教会の本格的な修復工事は1840年に始まった。当初は身廊の木造骨組みと屋根の修復に重点が置かれ、その後40年以上にも及ぶ大規模なプロジェクトへと発展した。
1847年、サン・ソヴール教会は歴史的建造物に指定され、プロジェクトの重要性が確認され、国からの資金援助が確保された。 -
独特な怪物や悪魔のモチーフ。
柱頭には、人間の罪を戒めるための不気味な悪魔や、十字軍の遠征によってオリエントから持ち帰られた記憶から着想を得た架空の怪物(尾の長い蛇のような生物や獣など)が細かく刻まれている。 -
Poitou(ポアトゥー)様式の影響。
この美しい彫刻群は、ブルターニュ地方にいながらフランス中西部(ポアトゥーやサントンジュ地方)の洗練されたロマネスク美術の強い文化交流と影響を感じさせる傑作として知られている。
独特なモチーフ。
十字軍の遠征から帰還した貴族リヴァロン・ル・ルーの誓いによって建てられたと伝えられており、異国情緒あふれる chameaux(ラクダ) や、罪人を苦しめる不気味な悪魔、架空の怪物などが生き生きと彫り込まれている。
柱頭には、羽の生えたライオン(聖マルコ)や、翼を持つ牡牛(聖ルカ)といった福音書記者のシンボル(テトラモルフ)、また奇怪な怪物や人物などの精巧な彫刻が施されている。 -
目隠しアーチ(ブラインド・アーチ)。
壁面を立体的に飾る連続したアーチ構造の内部に、信仰にまつわる人物像(聖人や巡礼者)がレリーフとして彫られている。一部はフランス革命や宗教戦争の時代に削られたり風化したりして、歴史の深さを物語る独特の風合いになっている。 -
上は、有翼の獅子の彫刻。
下は、回りの壁で見られるガーゴイル的な彫刻。
なんか可愛い。 -
面白い持ち送り彫刻が沢山あった。
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様式の融合:12世紀のロマネスク様式と、15~16世紀のゴシック様式が美しく融合している。
非対称の美:手前には重厚な石柱がそびえ立ち、奥に向かって高い身廊と美しいステンドグラスが視線を惹きつける。 -
12世紀のロマネスク様式の柱頭彫刻。
向かいあう動物モチーフ。
絡み合う怪物や植物モチーフ。
中世ロマネスク特有の素朴でパターン化された幾何学的な装飾へ簡素化されたアカンサスモチーフ。 -
多様式が混じり、左右非対称な珍しい身廊。
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ロマネスクな雰囲気が残っていて、萌え。
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北側の通路沿いの壁に設置されている、百年戦争で活躍したフランスの英雄ベルトラン・デュ・ゲクラン(Bertrand du Guesclin)の心臓を収めた記念碑。
石板には彼の功績を称える文字と、フランス王室の紋章(百合の紋章)や鷲の紋章が刻まれている。 -
ステンドグラス。
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18世紀に作られた黄金色に輝く祭壇は、天使の彫像が据えられた天蓋の下で神聖な雰囲気に包まれている。
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身廊内部の柱頭彫刻。
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美しいアーチ。
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サン・ミッシェル(ミカエル)。
12世紀のロマネスク様式の聖水盤。
器の周りを4体の怪物(魚、または尾の生えた人魚のような姿)が取り囲み、自分たちの尾を絡ませながら器を支えている独特な浮き彫り彫刻が施されている。 -
祭壇から見た入口側、ステンドグラスが見える。
かなりロマネスクが見れて嬉しかった。 -
展望スポットからは、街を囲む城壁(ランパール)、中央を流れるのはランス川、風情ある石橋(Le Vieux Pont)かつて貿易で栄えたディナン港が見えた。
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ランス川沿いに並ぶレストランやショップ。
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ゴシックな後陣。
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教会前の可愛い黄色いコロンバージュ。
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城壁の一部サン・マロ門
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また中心に戻って。
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Jerzual Gate Porte du Jerzual。
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BRANDILY という彫刻家の作品。
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川沿いの港へと急勾配で下っていくエルシュアル通りの木組みの家々と石畳、タイムスリップしたみたい。
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どこを撮っても絵になるね。
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紫陽花のような赤い花に水色の扉口がいい感じ。
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ふと日本人女性に声をかけられて会話、パリ近郊にお住まいで観光に来ているとのこと。お喋りが弾んで連絡先を交換した。
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プティ・ホール通りを下がって行く。
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ブルーの窓が印象的。
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美しいコロンバージュが連なる。
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お洒落なブルーや水色の扉や窓。
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ハンギングバスケットのゼラニウム。
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タイムスリップしたような石畳と建物。
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お洒落な装飾。
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水色のコロンバージュが可愛い。
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特徴ある建物。
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こちらも古めのコロンバージュ。
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お洒落なレストラン。
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レストランでは、カキやムール貝を食べていた。
カキは疲れている時だとあたりそうなので、残念ながら回避した。 -
サン・マロやイギリス海峡へと流れ込むランス川の最上流部に位置するこの街は、中世に貿易港として栄えた。
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とりわけ18世紀に船舶用の帆に用いるための機織り工がこの街に暮らすようになったことに伴い、織物輸出のための港として大きな富がもたらされた。
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レストランが並ぶ。魚が苦手な私、ちょっと食べたいものがなくて。
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観光客がたくさん来ていた。
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再びプティ・ホール通りを上って。
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左の古いコロンバージュ。
メゾン・ド・グーヴェルヌールは15世紀に建てられ、この街で最も古い木骨組み建築として知られている。 -
絵になる家並み。
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中心に戻り、ショーウィンドウに並ぶお洒落なビスチェ。
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フラワーショップ。
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宿近くのクレープリーへ。
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ガレットをいただいた。
ワンコがおとなしくご主人様の食事を待っていた。 -
そしてそぞろ歩き。
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日本人女性からアンティークショップがあったというランス川沿いへ。
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Le Vieux Pontを渡り向こう岸へ。
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ランス川に架けられているヴィウ・ポンは、フランス語で「古い橋」という意味を持ち1070年にその歴史を遡る。
中央部が大きく開けた形になっているのが特徴で、小型船が通り抜けられるようになっている。
その向こう側で子供たちがカヌーの練習。 -
レモンイエローの窓辺に赤い薔薇が似合う。
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ペールグリーンにピンクもいい感じ。
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お洒落なカーテンや可愛い色鉛筆の窓辺。
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結局アンティークショップは見つけられなかった。
先ほど歩いた通りを対岸から眺めて。 -
イチオシ
遅めのランチだったのでテイクアウトの夕食で済ませた。
なかなか見どころの多いディナンの街だった。
明日は、レンヌに向かいます。
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この旅行記へのコメント (1)
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- コクリコさん 2026/08/05 18:35:53
- ディナン
- マリアンヌさん、
お久しぶりです!
何年も4トラベルから離れているので私のこと覚えていないかもしれませんがディナンがあまりに懐かしくて書き込みました。
まだ4トラベルの会員になってすぐの頃かサンマロに泊まりディナンに行きました。
お写真拝見し、20年近く前と変わらない街並みに感激です。
ディナンの明るいグレーの街並み本当に素敵でした。
マリアンヌさんの詳しいコメントも素晴らしいです!
フランスの旅程を拝見したら私が過去に訪れた大好きな町や村が多く、とても懐かしい思いにかられました。
これからも元気に旅を続けてくださすね♬
4トラのパスワード忘れてしまい入るのが大変でした~
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