ナント旅行記(ブログ) 一覧に戻る
3週間の旅の最終地ナントに到着しました。<br />終盤、欧州を襲った熱波のため40℃の気温の中、出来るだけバスに乗るなどして観光しました。<br />ナントというと世界史で「ナントの勅令」しか思い浮かばなかったのですが、興味深い歴史も知ることが出来ました。<br />そして、とにもかくにも無事に旅行出来たことに感謝です。<br /><br />5/31     羽田発22:05  AF279<br />6/1       シャルル・ド・ゴール着6:00<br />6/1,2     パリ<br />6/3    ジェルブロワ<br />6/4     ルーアン<br />6/5  ヴール=レ=ロズ<br />6/6    ルーアン<br />6/7,8   ブーヴロン=アン=オージュ<br />6/9       グランビル<br />6/10,11 ディナン<br />6/12     レンヌ<br />6/13,14  ロシュフォール=アン=テール<br />6/15,16  ロクロナン<br />6/17    ヴァンヌ<br />6/18 トゥール<br />6/19,20ポワチエ<br />6/21 ナント<br />6/22 ナント発18:45 AF7507   パリ発23:00  AF274<br />6/23          羽田着  19:40

薔薇の咲くフランスの美しき村々を訪ねて【16】ナント

33いいね!

2026/05/31 - 2026/06/23

7位(同エリア72件中)

マリアンヌ

マリアンヌさん

3週間の旅の最終地ナントに到着しました。
終盤、欧州を襲った熱波のため40℃の気温の中、出来るだけバスに乗るなどして観光しました。
ナントというと世界史で「ナントの勅令」しか思い浮かばなかったのですが、興味深い歴史も知ることが出来ました。
そして、とにもかくにも無事に旅行出来たことに感謝です。

5/31 羽田発22:05 AF279
6/1 シャルル・ド・ゴール着6:00
6/1,2 パリ
6/3 ジェルブロワ
6/4 ルーアン
6/5  ヴール=レ=ロズ
6/6 ルーアン
6/7,8 ブーヴロン=アン=オージュ
6/9 グランビル
6/10,11 ディナン
6/12 レンヌ
6/13,14 ロシュフォール=アン=テール
6/15,16 ロクロナン
6/17 ヴァンヌ
6/18 トゥール
6/19,20ポワチエ
6/21 ナント
6/22 ナント発18:45 AF7507 パリ発23:00 AF274
6/23 羽田着 19:40

  • ポワティエ到着時、ホテルまで長い階段があり大変だったので、前日にバス路線、バス停をチェックした。<br />そしてTGVで最終地ナントへ。<br />Poitiers 10:20   Saint-Pierre-des-Corps 10:51<br />Saint-Pierre-des-Corps 11:36  Nantes 13:19

    ポワティエ到着時、ホテルまで長い階段があり大変だったので、前日にバス路線、バス停をチェックした。
    そしてTGVで最終地ナントへ。
    Poitiers 10:20 Saint-Pierre-des-Corps 10:51
    Saint-Pierre-des-Corps 11:36 Nantes 13:19

  • ナント到着。ここ一週間、気温が急に高くなって来た。<br />この日の最高予想気温は40℃、公園の木陰で休む人々が大勢いた。いくら湿気がなくても木陰でもかなり暑い、でも彼らの家にはクーラーがないのでしょう。

    ナント到着。ここ一週間、気温が急に高くなって来た。
    この日の最高予想気温は40℃、公園の木陰で休む人々が大勢いた。いくら湿気がなくても木陰でもかなり暑い、でも彼らの家にはクーラーがないのでしょう。

  • 徒歩10分ほどの本日のお宿。<br />教会をリノベーションしたデザイナーズホテル。<br />&lt;Sōzō Hôtel Nantes&gt;

    徒歩10分ほどの本日のお宿。
    教会をリノベーションしたデザイナーズホテル。
    <Sōzō Hôtel Nantes>

  • 実は最終地だし、長旅お疲れ様ということでホテルをグレードアップした。素敵なエントランス。

    実は最終地だし、長旅お疲れ様ということでホテルをグレードアップした。素敵なエントランス。

  • ウンウン、お洒落☆<br />そして早めにお部屋に入れていただけることに。

    ウンウン、お洒落☆
    そして早めにお部屋に入れていただけることに。

  • お部屋にはクーラーが付いていた。<br />今回の旅21泊で初めて。この暑い日にクーラーがあって本当に助かった。

    お部屋にはクーラーが付いていた。
    今回の旅21泊で初めて。この暑い日にクーラーがあって本当に助かった。

  • 水回りや廊下の雰囲気はこんな感じ。<br />少し涼んでから観光出発。

    水回りや廊下の雰囲気はこんな感じ。
    少し涼んでから観光出発。

  • 駅までは公園を通って行くのだけど、一見、マネの草上の昼食みたいだけど、いやいや暑い!

    駅までは公園を通って行くのだけど、一見、マネの草上の昼食みたいだけど、いやいや暑い!

  • まずは明日のエアポート行きのバス停と時刻表を確認した。

    まずは明日のエアポート行きのバス停と時刻表を確認した。

  • それでは改めて観光へ。

    それでは改めて観光へ。

  • アナベルのような花が涼しげだけど、暑い。

    アナベルのような花が涼しげだけど、暑い。

  • エルドル川に船上レストランが浮かぶ。

    エルドル川に船上レストランが浮かぶ。

  • 出来るだけ木陰を進む。<br />Google先生、最短ルートかもだけど少し危なげなルート選択、ササッと歩いた。

    出来るだけ木陰を進む。
    Google先生、最短ルートかもだけど少し危なげなルート選択、ササッと歩いた。

  • 城が見えて来た。

    城が見えて来た。

  • モニュメントを見ながら進んで。

    モニュメントを見ながら進んで。

  • 城の城門のひとつのよう。

    城の城門のひとつのよう。

  • まずは、教会へ。

    まずは、教会へ。

  • 立派な建物沿いにすすんで。

    立派な建物沿いにすすんで。

  • 左手には、城の壕。

    左手には、城の壕。

  • サン・ピエール・サン・ポール大聖堂<br />(Cathédrale Saint-Pierre-et-Saint-Paul de Nantes)。

    サン・ピエール・サン・ポール大聖堂
    (Cathédrale Saint-Pierre-et-Saint-Paul de Nantes)。

  • 教会前には、サンピエール広場。

    教会前には、サンピエール広場。

  • 15世紀から19世紀にかけて、約457年もの歳月をかけて完成した壮麗なゴシック様式の教会とのこと。

    15世紀から19世紀にかけて、約457年もの歳月をかけて完成した壮麗なゴシック様式の教会とのこと。

  • 側廊から入って。<br />やはり教会内部は、涼しい。暑さから逃れて少しホッとする。

    側廊から入って。
    やはり教会内部は、涼しい。暑さから逃れて少しホッとする。

  • フランス国内屈指の高さを誇る巨大な身廊(高さ約37.5メートル)なのだそう。

    フランス国内屈指の高さを誇る巨大な身廊(高さ約37.5メートル)なのだそう。

  • 中央祭壇。<br />1434年に建設が始まり、450年以上の歳月をかけて1891年に完成した華麗なフランス・ゴシック様式の傑作とのこと。<br />しかし、2020年7月に発生した放火事件により、歴史的な大オルガンや15世紀のステンドグラスなど貴重な文化財が焼失・大破する甚大な被害を受け、復興したそう。<br />何となく新しい雰囲気がした。

    中央祭壇。
    1434年に建設が始まり、450年以上の歳月をかけて1891年に完成した華麗なフランス・ゴシック様式の傑作とのこと。
    しかし、2020年7月に発生した放火事件により、歴史的な大オルガンや15世紀のステンドグラスなど貴重な文化財が焼失・大破する甚大な被害を受け、復興したそう。
    何となく新しい雰囲気がした。

  • 火災からの修復や現代的な改修を経て、伝統的な聖人像だけでなく、こうした現代的で鮮やかな色彩のステンドグラスも取り入れられているそう。

    火災からの修復や現代的な改修を経て、伝統的な聖人像だけでなく、こうした現代的で鮮やかな色彩のステンドグラスも取り入れられているそう。

  • ブルターニュ公フランソワ2世と妻の豪華なルネサンス様式の墓碑があったみたいだけど見損ねた。

    ブルターニュ公フランソワ2世と妻の豪華なルネサンス様式の墓碑があったみたいだけど見損ねた。

  • ナントの街並み。

    ナントの街並み。

  • 先ほどの通りに戻り。

    先ほどの通りに戻り。

  • アンヌ・ド・ブルターニュの像を見ながら城門へ。

    アンヌ・ド・ブルターニュの像を見ながら城門へ。

  • ブルターニュ公爵城。<br />15世紀末にブルターニュ公フランソワ2世とその娘アンヌ・ド・ブルターニュによって建設された。外側は花崗岩の頑丈な要塞だが、中庭に面した内側は、美しい白石(トゥーファ石)で造られたゴシック・ルネサンス様式の華麗な宮殿となっている。

    ブルターニュ公爵城。
    15世紀末にブルターニュ公フランソワ2世とその娘アンヌ・ド・ブルターニュによって建設された。外側は花崗岩の頑丈な要塞だが、中庭に面した内側は、美しい白石(トゥーファ石)で造られたゴシック・ルネサンス様式の華麗な宮殿となっている。

  • 改めてアンヌ・ド・ブルターニュとは。<br />(1477年1月25日 - 1514年1月9日)<br />独自の王権に匹敵する勢力を持っていたブルターニュ公国の独立を守るために生涯を捧げた女公であり、フランス史上唯一「2度フランス王妃になった女性。<br /><br />1. 11歳での女公即位と代理結婚<br />ブルターニュ公フランソワ2世の長女としてナントで生まれました。男児がいなかったため、1488年に父親が事故死すると、わずか11歳でブルターニュ公国の公位を継承します。フランスによる併合の脅威に対抗するため、1490年にハプスブルク家のマクシミリアン1世(後の神聖ローマ皇帝)と代理結婚を執り行いました。

    改めてアンヌ・ド・ブルターニュとは。
    (1477年1月25日 - 1514年1月9日)
    独自の王権に匹敵する勢力を持っていたブルターニュ公国の独立を守るために生涯を捧げた女公であり、フランス史上唯一「2度フランス王妃になった女性。

    1. 11歳での女公即位と代理結婚
    ブルターニュ公フランソワ2世の長女としてナントで生まれました。男児がいなかったため、1488年に父親が事故死すると、わずか11歳でブルターニュ公国の公位を継承します。フランスによる併合の脅威に対抗するため、1490年にハプスブルク家のマクシミリアン1世(後の神聖ローマ皇帝)と代理結婚を執り行いました。

  • 2. 1度目の結婚:シャルル8世との政略結婚<br />マクシミリアン1世との婚姻に危機感を募らせたフランスはブルターニュへ侵攻。軍事力で圧倒されたアンヌは公国の安全と和平のため、先の婚姻を解消され、1491年にフランス国王シャルル8世と結婚させられました。この時彼女は14歳でした。シャルル8世との間に授かった子どもたちは、残念ながら全員が幼くして世を去っています。<br /><br />3. 2度目の結婚:ルイ12世との再婚<br />1498年にシャルル8世が事故で急逝します。先の婚礼契約に基づき、アンヌは次代の国王であるルイ12世と1499年に再婚し、再びフランス王妃となりました。ルイ12世との結婚においては、アンヌはより強い立場から交渉を行い、「ブルターニュ公国の高度な自治権や免税特権の維持」を認めさせることに成功しています。<br /><br />1514年、36歳という若さでブロワ城にて病没。遺体はフランス王家の墓所であるパリのサン=ドニ大聖堂に埋葬されましたが、彼女の遺言によって「心臓」だけは故郷ブルターニュのナントへ戻されました。

    2. 1度目の結婚:シャルル8世との政略結婚
    マクシミリアン1世との婚姻に危機感を募らせたフランスはブルターニュへ侵攻。軍事力で圧倒されたアンヌは公国の安全と和平のため、先の婚姻を解消され、1491年にフランス国王シャルル8世と結婚させられました。この時彼女は14歳でした。シャルル8世との間に授かった子どもたちは、残念ながら全員が幼くして世を去っています。

    3. 2度目の結婚:ルイ12世との再婚
    1498年にシャルル8世が事故で急逝します。先の婚礼契約に基づき、アンヌは次代の国王であるルイ12世と1499年に再婚し、再びフランス王妃となりました。ルイ12世との結婚においては、アンヌはより強い立場から交渉を行い、「ブルターニュ公国の高度な自治権や免税特権の維持」を認めさせることに成功しています。

    1514年、36歳という若さでブロワ城にて病没。遺体はフランス王家の墓所であるパリのサン=ドニ大聖堂に埋葬されましたが、彼女の遺言によって「心臓」だけは故郷ブルターニュのナントへ戻されました。

  • アンヌの死後、長女クロードが後のフランス国王フランソワ1世と結婚したことで、ブルターニュ公国は正式にフランス王国へ併合されることとなりました。<br /><br />優美な曲線の階段を持つ宮殿。<br />城内は、ナント歴史博物館になっている。

    アンヌの死後、長女クロードが後のフランス国王フランソワ1世と結婚したことで、ブルターニュ公国は正式にフランス王国へ併合されることとなりました。

    優美な曲線の階段を持つ宮殿。
    城内は、ナント歴史博物館になっている。

  • ブリヴェ川の丸木舟。<br />サン=ナゼール近郊のロワール川河口に流れ込むブリヴェ川の川底からは、数隻の長い丸木舟が発見されています。この舟は、河口で使用されていた舟の典型的な例であり、西暦1190年から1300年の間に、一本の木の幹から彫り出されました。<br /><br />城内で発見された中世の剣。この剣は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に城の中庭で行われた考古学的発掘調査の一つで発見された。13世紀に建てられ、14世紀に拡張されたトゥール・ヌーヴ城の遺跡から出土したものであることは分かっている。

    ブリヴェ川の丸木舟。
    サン=ナゼール近郊のロワール川河口に流れ込むブリヴェ川の川底からは、数隻の長い丸木舟が発見されています。この舟は、河口で使用されていた舟の典型的な例であり、西暦1190年から1300年の間に、一本の木の幹から彫り出されました。

    城内で発見された中世の剣。この剣は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に城の中庭で行われた考古学的発掘調査の一つで発見された。13世紀に建てられ、14世紀に拡張されたトゥール・ヌーヴ城の遺跡から出土したものであることは分かっている。

  • 城塞や周辺市街地の立体模型。<br /><br />ブルターニュのアンヌの横臥像の顔の型。ブルターニュのアンヌのデスマスクの型。サン=ドニ大聖堂にあるブルターニュのアンヌの横臥像の顔の鋳造。ギヨーム・レニョー作とされる。<br />

    城塞や周辺市街地の立体模型。

    ブルターニュのアンヌの横臥像の顔の型。ブルターニュのアンヌのデスマスクの型。サン=ドニ大聖堂にあるブルターニュのアンヌの横臥像の顔の鋳造。ギヨーム・レニョー作とされる。

  • 海賊と略奪者。<br />カリブ海アンティル諸島では、複数の植民地住民が共存していた。プランテーションを所有する植民地住民は、恵まれない境遇の若者を雇い、わずかな賃金と引き換えに3年間労働力を提供した。これらの「年季奉公人」は、過酷な生活環境や労働条件に耐えられず、契約満了時に更新することは稀だった。中には契約満了前に逃亡する者もいた。本国に帰国する経済的余裕のない者の多くは、海賊(牛や野生動物を狩る者)や略奪者となった。略奪による利益の一部は地元に再投資され、島々の発展に貢献したが、海賊行為はあらゆる海上貿易を混乱させた。1664年、海賊と略奪者はフランス国王の権威を受け入れた。<br /><br />1900年のパリ万国博覧会のためにつくられたLU灯台塔。

    海賊と略奪者。
    カリブ海アンティル諸島では、複数の植民地住民が共存していた。プランテーションを所有する植民地住民は、恵まれない境遇の若者を雇い、わずかな賃金と引き換えに3年間労働力を提供した。これらの「年季奉公人」は、過酷な生活環境や労働条件に耐えられず、契約満了時に更新することは稀だった。中には契約満了前に逃亡する者もいた。本国に帰国する経済的余裕のない者の多くは、海賊(牛や野生動物を狩る者)や略奪者となった。略奪による利益の一部は地元に再投資され、島々の発展に貢献したが、海賊行為はあらゆる海上貿易を混乱させた。1664年、海賊と略奪者はフランス国王の権威を受け入れた。

    1900年のパリ万国博覧会のためにつくられたLU灯台塔。

  • 船の装飾船首像。<br />この船首像は、1897年にルーアンのラポルト造船所で建造された4本マスト船「アジー号」のものです。硝酸塩を積んでチリから帰航中、1919年にロワール川河口で沈没しました。この船首像は、軍事力と海上貿易の力を象徴すると同時に、波を切り裂き支配することで船を導き守る守護神としての役割も果たしています。

    船の装飾船首像。
    この船首像は、1897年にルーアンのラポルト造船所で建造された4本マスト船「アジー号」のものです。硝酸塩を積んでチリから帰航中、1919年にロワール川河口で沈没しました。この船首像は、軍事力と海上貿易の力を象徴すると同時に、波を切り裂き支配することで船を導き守る守護神としての役割も果たしています。

  • コワフ・ビグデン、伝統的なレースの髪飾り。<br /><br />デリヴァス窯ナント陶器のサラダボウルと皿、19世紀後半。<br />デリヴァス窯のナント陶器。<br />デリヴァス窯は1778年、ロワール川のほとりに設立されました。瞬く間にナント有数の陶器メーカーとなり、ルーアンやニヴェルネの陶器と様式的に類似した作品を生み出しました。<br /><br />聖アンナ、ブルターニュの守護聖人。<br />アンナ信仰は十字軍によって東方から伝来しましたが、ブルターニュ地方では、聖アンナは故郷のブルターニュに戻り、そこで最期の時を過ごしたという強い伝承が根付いています。彼女への崇敬は中世末期に高まりました。特に家族や船乗りを守護する聖人として知られています。その人気の高さから、1913年に聖イヴとともにブルターニュの守護聖人に指定されました。<br /><br />カンペールの陶器。<br />17世紀末以来、カンペールには数多くの陶器工場が集積してきました。18世紀には、HB(ユボディエール=ブスケ)社、そして後にデュメーヌ社(後のアンリオ社)が設立されました。19世紀には、大衆向けの陶器と日常使いの陶器が工場の存続を支えました。ルーアン、ヌヴェール、ロレーヌ地方の影響と地元の創作要素を融合させ、独自のスタイルを確立しました。

    コワフ・ビグデン、伝統的なレースの髪飾り。

    デリヴァス窯ナント陶器のサラダボウルと皿、19世紀後半。
    デリヴァス窯のナント陶器。
    デリヴァス窯は1778年、ロワール川のほとりに設立されました。瞬く間にナント有数の陶器メーカーとなり、ルーアンやニヴェルネの陶器と様式的に類似した作品を生み出しました。

    聖アンナ、ブルターニュの守護聖人。
    アンナ信仰は十字軍によって東方から伝来しましたが、ブルターニュ地方では、聖アンナは故郷のブルターニュに戻り、そこで最期の時を過ごしたという強い伝承が根付いています。彼女への崇敬は中世末期に高まりました。特に家族や船乗りを守護する聖人として知られています。その人気の高さから、1913年に聖イヴとともにブルターニュの守護聖人に指定されました。

    カンペールの陶器。
    17世紀末以来、カンペールには数多くの陶器工場が集積してきました。18世紀には、HB(ユボディエール=ブスケ)社、そして後にデュメーヌ社(後のアンリオ社)が設立されました。19世紀には、大衆向けの陶器と日常使いの陶器が工場の存続を支えました。ルーアン、ヌヴェール、ロレーヌ地方の影響と地元の創作要素を融合させ、独自のスタイルを確立しました。

  • 「聖ゲオルギオス(サン・ジョルジョ)」の木彫像。<br />ローマ帝国の兵士の甲冑を身にまとった聖ゲオルギオスの立像。

    「聖ゲオルギオス(サン・ジョルジョ)」の木彫像。
    ローマ帝国の兵士の甲冑を身にまとった聖ゲオルギオスの立像。

  • 『マルグリット・ドゥルブルックとナントの奴隷女性』<br />ピエール=ベルナール・モルロ 1753年<br /><br />18世紀のナントと貿易<br />18世紀初頭、ナントは王国を代表する河川港であり、海港でもありました。1720年から1733年にかけては、東インド会社の船舶から積み下ろされた貨物の売買が行われ、18世紀後半にはフランスを代表する大西洋貿易港となり、植民地産品の主要な玄関口の一つとなりました。

    『マルグリット・ドゥルブルックとナントの奴隷女性』
    ピエール=ベルナール・モルロ 1753年

    18世紀のナントと貿易
    18世紀初頭、ナントは王国を代表する河川港であり、海港でもありました。1720年から1733年にかけては、東インド会社の船舶から積み下ろされた貨物の売買が行われ、18世紀後半にはフランスを代表する大西洋貿易港となり、植民地産品の主要な玄関口の一つとなりました。

  • 大西洋奴隷貿易と植民地プランテーションの歴史、そしてそれによってもたらされた「嗜好品(タバコ、ラム酒、カカオ、砂糖、綿花)」の消費文化とのつながりを説明している。<br /><br />鉄製の首輪(上部)。<br />壁に掛けられているのは、逃亡を図った奴隷(マロン)を拘束・処罰するために使用されたスパイク付きの鉄製首輪。<br /><br />タバコ(LE TABAC): 左奥の大きな青白のデルフト焼き風の壺には、オランダ語で「DE TABAK S... PLANTAGE」の文字とプランテーションの様子が描かれています。<br /><br />中央の華やかな水注(ピッチャー)と右側の大きなボウル(パンチボウル)は、サトウキビから作られたラム酒やそれを使ったお酒を贅沢に楽しむために使われました。<br /><br />右手前には、当時のカカオ栽培やチョコレートの歴史を記したジャン=バティスト・ラバ神父の著書『アメリカ諸島への新旅行』が開かれています。<br /><br />手前にはプランテーションで奴隷たちに強制労働させて収穫された綿花の繊維(実)が散りばめられています。<br /><br />左手前にある黒い人形は、アフリカの伝統的な呪術や宗教観を象徴する呪物であり、過酷な奴隷環境の中で精神的な拠り所や抵抗の手段となった文化を表しています<br /><br />

    大西洋奴隷貿易と植民地プランテーションの歴史、そしてそれによってもたらされた「嗜好品(タバコ、ラム酒、カカオ、砂糖、綿花)」の消費文化とのつながりを説明している。

    鉄製の首輪(上部)。
    壁に掛けられているのは、逃亡を図った奴隷(マロン)を拘束・処罰するために使用されたスパイク付きの鉄製首輪。

    タバコ(LE TABAC): 左奥の大きな青白のデルフト焼き風の壺には、オランダ語で「DE TABAK S... PLANTAGE」の文字とプランテーションの様子が描かれています。

    中央の華やかな水注(ピッチャー)と右側の大きなボウル(パンチボウル)は、サトウキビから作られたラム酒やそれを使ったお酒を贅沢に楽しむために使われました。

    右手前には、当時のカカオ栽培やチョコレートの歴史を記したジャン=バティスト・ラバ神父の著書『アメリカ諸島への新旅行』が開かれています。

    手前にはプランテーションで奴隷たちに強制労働させて収穫された綿花の繊維(実)が散りばめられています。

    左手前にある黒い人形は、アフリカの伝統的な呪術や宗教観を象徴する呪物であり、過酷な奴隷環境の中で精神的な拠り所や抵抗の手段となった文化を表しています

  • 左上 : 中国輸出磁器(東インド会社磁器)1750年頃<br />フランス・ナントの二大商人・船主一族であるヴィルボワネ家とモントードゥアン家の二大名家の婚姻記念紋章入り磁器。<br /><br />右上 : モントードゥアン家の紋章入りカップ&ソーサー。<br />ルイニュ家とメルジェ家の紋章入り皿。<br /><br />左下 : 連張紋章(インペイルメント)。<br />ヨーロッパの貴族や裕福な商人たちは、自身の家紋や婚姻記念の紋章のデザイン画を東インド会社などを通じて中国(景徳鎮など)へ送り、数年越しでこうした豪華なディナーセットを特注していた。<br /><br />右下 : 、「粉彩(ファミーユ・ローズ)」の紋章入り輸出磁器(チャイニーズ・エクスポート・ポーセリン)の絵皿。

    左上 : 中国輸出磁器(東インド会社磁器)1750年頃
    フランス・ナントの二大商人・船主一族であるヴィルボワネ家とモントードゥアン家の二大名家の婚姻記念紋章入り磁器。

    右上 : モントードゥアン家の紋章入りカップ&ソーサー。
    ルイニュ家とメルジェ家の紋章入り皿。

    左下 : 連張紋章(インペイルメント)。
    ヨーロッパの貴族や裕福な商人たちは、自身の家紋や婚姻記念の紋章のデザイン画を東インド会社などを通じて中国(景徳鎮など)へ送り、数年越しでこうした豪華なディナーセットを特注していた。

    右下 : 、「粉彩(ファミーユ・ローズ)」の紋章入り輸出磁器(チャイニーズ・エクスポート・ポーセリン)の絵皿。

  • 18世紀後半(1770年代~1780年代頃)にヨーロッパの宮廷や上流階級の間で大流行した「ローブ・ア・ラ・フランセーズ」、または英語圏で「サック・バック・ガウン」と呼ばれる伝統的な女性用ドレス。

    18世紀後半(1770年代~1780年代頃)にヨーロッパの宮廷や上流階級の間で大流行した「ローブ・ア・ラ・フランセーズ」、または英語圏で「サック・バック・ガウン」と呼ばれる伝統的な女性用ドレス。

  • バロック・ロココ様式のアンティーク。<br />当時の上流階級の暮らしが垣間見れる。

    バロック・ロココ様式のアンティーク。
    当時の上流階級の暮らしが垣間見れる。

  • こちらも。

    こちらも。

  • 17~18世紀のヨーロッパで一般的に使われていた「アルバレッロ(Albarello)」と呼ばれる薬壺や薬瓶。

    17~18世紀のヨーロッパで一般的に使われていた「アルバレッロ(Albarello)」と呼ばれる薬壺や薬瓶。

  • 鍛鉄(ロートアイアン)で作られた2つの異なる意匠。<br />上 : バロック調またはロココ調を思わせる、非常に重厚で複雑な装飾が施された鍛鉄製の飾り格子。中央にはメダリオン風の丸い装飾文様、その下部には古典的な顔(マスカロン)の彫刻。<br /><br />下 : 美しい曲線が特徴的な前方へ膨らみを持たせた(ボウフロント型)バルコニーの欄干。植物や唐草をモチーフにしたエレガントな鉄細工で、アール・ヌーヴォー期などの過渡期のデザイン。

    鍛鉄(ロートアイアン)で作られた2つの異なる意匠。
    上 : バロック調またはロココ調を思わせる、非常に重厚で複雑な装飾が施された鍛鉄製の飾り格子。中央にはメダリオン風の丸い装飾文様、その下部には古典的な顔(マスカロン)の彫刻。

    下 : 美しい曲線が特徴的な前方へ膨らみを持たせた(ボウフロント型)バルコニーの欄干。植物や唐草をモチーフにしたエレガントな鉄細工で、アール・ヌーヴォー期などの過渡期のデザイン。

  • 暑いけど、そぞろ歩き。

    暑いけど、そぞろ歩き。

  • ところで、ナントと言われて思い出すのは、ナントの勅令。<br />どんな内容だったっけ?

    ところで、ナントと言われて思い出すのは、ナントの勅令。
    どんな内容だったっけ?

  • ナントの勅令は、1598年にフランス王アンリ4世が発布した法令。<br />カトリックと新教(プロテスタント/ユグノー)の激しい宗教戦争を終わらせるため、ユグノーに信仰の自由と政治的権利を認めた。<br />背景と内容発布年: 1598年4月<br />国王: アンリ4世(ブルボン朝の初代)<br />目的: 泥沼化したユグノー戦争の終結と国内の安定

    ナントの勅令は、1598年にフランス王アンリ4世が発布した法令。
    カトリックと新教(プロテスタント/ユグノー)の激しい宗教戦争を終わらせるため、ユグノーに信仰の自由と政治的権利を認めた。
    背景と内容発布年: 1598年4月
    国王: アンリ4世(ブルボン朝の初代)
    目的: 泥沼化したユグノー戦争の終結と国内の安定

  • そういえば街角から音楽が聴こえてくる。<br />夏至祭の日だった。

    そういえば街角から音楽が聴こえてくる。
    夏至祭の日だった。

  • 若者もかなり繰り出していた。

    若者もかなり繰り出していた。

  • こちらでもアフリカンミュージックで踊っていた。

    こちらでもアフリカンミュージックで踊っていた。

  • 19時過ぎてもかなり暑い。テラス席に座って食事する気になれず、テイクアウトすることに。

    19時過ぎてもかなり暑い。テラス席に座って食事する気になれず、テイクアウトすることに。

  • ホテルに戻って。<br />素敵な灯り。

    ホテルに戻って。
    素敵な灯り。

  • 教会からリノベーションする過程の写真が、掛けられていた。

    教会からリノベーションする過程の写真が、掛けられていた。

  • ステンドグラス。

    ステンドグラス。

  • クーラーに効いたお部屋で軽い夕食。<br />外はまだ30℃以上、何より涼しいのが一番。

    クーラーに効いたお部屋で軽い夕食。
    外はまだ30℃以上、何より涼しいのが一番。

  • 翌朝、朝食へ。

    翌朝、朝食へ。

  • 色々選べて、私には十分な朝食だった。

    色々選べて、私には十分な朝食だった。

  • この日の予定最高気温は、なんと44℃。<br />ホテルは12:00までにチェックアウト、涼しい部屋でのんびりして11時頃、荷物を預けて観光へ。<br />バス路線、バス停を調べてバス移動。<br />街の中心部で、ホーム雑貨店にクーラーが入っていて、ひと休み。

    この日の予定最高気温は、なんと44℃。
    ホテルは12:00までにチェックアウト、涼しい部屋でのんびりして11時頃、荷物を預けて観光へ。
    バス路線、バス停を調べてバス移動。
    街の中心部で、ホーム雑貨店にクーラーが入っていて、ひと休み。

  • 装飾豊かな建物が並ぶ通り。

    装飾豊かな建物が並ぶ通り。

  • ロワイヤル広場。

    ロワイヤル広場。

  • 背後にそびえるネオゴシック様式のサン・ニコラ教会。<br />噴水は、最上段に立つ純白の大理石像は、ナントの街そのものを擬人化した女神(守護神)。<br />女神の足元を取り囲むブロンズ像は、ナントに恩恵をもたらすロワール川など周辺の川を擬人化したものだそう。

    背後にそびえるネオゴシック様式のサン・ニコラ教会。
    噴水は、最上段に立つ純白の大理石像は、ナントの街そのものを擬人化した女神(守護神)。
    女神の足元を取り囲むブロンズ像は、ナントに恩恵をもたらすロワール川など周辺の川を擬人化したものだそう。

  • 広場の角でリコーダーを演奏していた。

    広場の角でリコーダーを演奏していた。

  • クレビヨン通りをすすんで。

    クレビヨン通りをすすんで。

  • 三叉路のビル、形が美しい。

    三叉路のビル、形が美しい。

  • パッサージュポムレにやって来た。

    パッサージュポムレにやって来た。

  • 1843年にオープンしたパッサージュ。<br />なかなかレトロでいい雰囲気。<br />

    イチオシ

    1843年にオープンしたパッサージュ。
    なかなかレトロでいい雰囲気。

  • 19世紀のレトロで華美な彫刻やガラス天井が美しい。<br />傾斜地に建てられているため、内部に美しい中央大階段を持つ珍しい3層構造になっている。<br />ヨーロッパでも3階建て(3層構造)になっているのは、非常に珍しいそう。

    19世紀のレトロで華美な彫刻やガラス天井が美しい。
    傾斜地に建てられているため、内部に美しい中央大階段を持つ珍しい3層構造になっている。
    ヨーロッパでも3階建て(3層構造)になっているのは、非常に珍しいそう。

  • 振り返ってみて。

    振り返ってみて。

  • 美しいレースのような錬鉄の手すりと、重厚なオーク材のステップが完璧に調和して、劇場に迷い込んだかのような、19世紀の贅沢でエレガントな雰囲気を醸し出している。

    美しいレースのような錬鉄の手すりと、重厚なオーク材のステップが完璧に調和して、劇場に迷い込んだかのような、19世紀の贅沢でエレガントな雰囲気を醸し出している。

  • 可愛い少女像。

    可愛い少女像。

  • 映画のロケ地としてもよく使われているそう。<br /><br />素敵な空間だったけどクーラーはないので、少し暑い。

    映画のロケ地としてもよく使われているそう。

    素敵な空間だったけどクーラーはないので、少し暑い。

  • チェックしていたカフェは残念ながらお休み。<br />洒落た建築のホテル。

    チェックしていたカフェは残念ながらお休み。
    洒落た建築のホテル。

  • 尖塔が見える街並み。

    尖塔が見える街並み。

  • 街の中心部に戻り、ZARAがあったので入ってみるとクーラーが効いていたので、少しひと休み。

    街の中心部に戻り、ZARAがあったので入ってみるとクーラーが効いていたので、少しひと休み。

  • サンニコラ聖堂へ。

    サンニコラ聖堂へ。

  • 19世紀(1844年~1869年)にジャン=バティスト・ラシュスらの設計によって建てられた、フランスにおける最初期のネオ・ゴシック建築の傑作とのこと。

    19世紀(1844年~1869年)にジャン=バティスト・ラシュスらの設計によって建てられた、フランスにおける最初期のネオ・ゴシック建築の傑作とのこと。

  • 1882年にローマ教皇レオ13世によって「バジリカ(聖堂)」に昇格したそう。第二次世界大戦中の1943年に連合軍の空襲で甚大な被害を受けたが、戦後に長い年月をかけて忠実に復元されたそう。1986年にはフランスの歴史的建造物に指定されているとのこと。

    1882年にローマ教皇レオ13世によって「バジリカ(聖堂)」に昇格したそう。第二次世界大戦中の1943年に連合軍の空襲で甚大な被害を受けたが、戦後に長い年月をかけて忠実に復元されたそう。1986年にはフランスの歴史的建造物に指定されているとのこと。

  • 教会内部は、やはり涼しい。<br />しばしひと休み。

    教会内部は、やはり涼しい。
    しばしひと休み。

  • 厳かな雰囲気。

    厳かな雰囲気。

  • 中央祭壇やステンドグラス。

    中央祭壇やステンドグラス。

  • 美しく細工された鉄柵越しに見えている、天高くまっすぐ突き出た白い尖塔のような、内陣の中央に鎮座する主祭壇。

    美しく細工された鉄柵越しに見えている、天高くまっすぐ突き出た白い尖塔のような、内陣の中央に鎮座する主祭壇。

  • そして40℃酷暑なので、バスで移動。<br />ルイ16世広場で降車、昨日行ったサン・ピエール大聖堂が見えた。

    そして40℃酷暑なので、バスで移動。
    ルイ16世広場で降車、昨日行ったサン・ピエール大聖堂が見えた。

  • バス停から少し歩いて、ナント美術館へ。<br />1801年に皇帝ナポレオン・ボナパルトの命により設立されたそう。

    バス停から少し歩いて、ナント美術館へ。
    1801年に皇帝ナポレオン・ボナパルトの命により設立されたそう。

  • 酷暑のため、入場料免除(つまり無料)になっていた。<br />お近くにお住まいの方々もクーラー避難ということのよう。<br /><br />気になった絵画を少し記録に。

    酷暑のため、入場料免除(つまり無料)になっていた。
    お近くにお住まいの方々もクーラー避難ということのよう。

    気になった絵画を少し記録に。

  • ペルジーノ(ピエトロ・ヴァンヌッチ・ディ・クリストフォロとして知られる)<br />(カステッロ・デッラ・ピエーヴェ1448年頃 ー フォンティニャーノ1523年)<br />「聖セバスチャンとフランシスコ会の聖人」15世紀後半 - 16世紀初頭 <br /><br />この絵画は、オック語圏美術から受け継いだ金色の背景からもわかるように、ペルジーノの初期作品です。しかし、二人の人物が地面に落とす影によって奥行きが表現されており、中世の平面的な表現の伝統を打破しています。左側には、フランシスコ会修道士で求道者であったパドヴァの聖アントニオが手に炎を持っています。この燃え盛る炎は、ライ麦の麦角菌によって引き起こされる病気を表しており、聖人に祈りを捧げることで治癒が期待されていました。右側には、ルネサンス期の王子のような装いの聖セバスチャンが、殉教の象徴である矢をそっと手に持っている。かすかな微笑みを浮かべた人物たちから漂う優しさは、温かく調和のとれた色彩によってさらに際立っている。<br /><br />「優美な様式の巨匠」と称されるペルジーノは、ローマのシスティーナ礼拝堂の壁画や、数々の大規模な祭壇画で今もなお名高い。

    ペルジーノ(ピエトロ・ヴァンヌッチ・ディ・クリストフォロとして知られる)
    (カステッロ・デッラ・ピエーヴェ1448年頃 ー フォンティニャーノ1523年)
    「聖セバスチャンとフランシスコ会の聖人」15世紀後半 - 16世紀初頭 

    この絵画は、オック語圏美術から受け継いだ金色の背景からもわかるように、ペルジーノの初期作品です。しかし、二人の人物が地面に落とす影によって奥行きが表現されており、中世の平面的な表現の伝統を打破しています。左側には、フランシスコ会修道士で求道者であったパドヴァの聖アントニオが手に炎を持っています。この燃え盛る炎は、ライ麦の麦角菌によって引き起こされる病気を表しており、聖人に祈りを捧げることで治癒が期待されていました。右側には、ルネサンス期の王子のような装いの聖セバスチャンが、殉教の象徴である矢をそっと手に持っている。かすかな微笑みを浮かべた人物たちから漂う優しさは、温かく調和のとれた色彩によってさらに際立っている。

    「優美な様式の巨匠」と称されるペルジーノは、ローマのシスティーナ礼拝堂の壁画や、数々の大規模な祭壇画で今もなお名高い。

  • ヘンドリック・ゴルツィウス(ブリュアーゲンの画家1558年 ー ハールレム1617年)<br />「聖セバスチャンの殉教」1610-1615年<br /><br />この絵画は、3世紀の聖セバスチャンの殉教を描いています。<br />かつてディオクレティアヌス帝とマクシミアヌス帝の寵愛を受けた聖セバスチャンは、キリスト教信仰ゆえに兵士たちによって矢で射殺されるという刑に処されました。<br /><br />この絵画には、聖人のしなやかで官能的なポーズにマニエリスムの面影が残っています。しかし、絵具の流れるような質感と肌の色調は、マニエリスムが好んだ滑らかで冷たいスタイルとは全く異なります。軽やかで艶やかな筆致は、ルーベンスや、この絵画が長らく帰属されていた彼の弟子ヴァン・ダイクの作風を彷彿とさせ、皮膚の下で血が流れる様子を暗示しています。マニエリスムの画家・版画家ヘンドリック・ゴルツィウスの作品とする説は、今日では専門家の間では受け入れられていない。しかし、私たちは引き続き彼の周辺、おそらくは彼の弟子であるフランソワ・バーデンス(1571-1618)の中から、この絵画の作者を探し求めなければならない。

    ヘンドリック・ゴルツィウス(ブリュアーゲンの画家1558年 ー ハールレム1617年)
    「聖セバスチャンの殉教」1610-1615年

    この絵画は、3世紀の聖セバスチャンの殉教を描いています。
    かつてディオクレティアヌス帝とマクシミアヌス帝の寵愛を受けた聖セバスチャンは、キリスト教信仰ゆえに兵士たちによって矢で射殺されるという刑に処されました。

    この絵画には、聖人のしなやかで官能的なポーズにマニエリスムの面影が残っています。しかし、絵具の流れるような質感と肌の色調は、マニエリスムが好んだ滑らかで冷たいスタイルとは全く異なります。軽やかで艶やかな筆致は、ルーベンスや、この絵画が長らく帰属されていた彼の弟子ヴァン・ダイクの作風を彷彿とさせ、皮膚の下で血が流れる様子を暗示しています。マニエリスムの画家・版画家ヘンドリック・ゴルツィウスの作品とする説は、今日では専門家の間では受け入れられていない。しかし、私たちは引き続き彼の周辺、おそらくは彼の弟子であるフランソワ・バーデンス(1571-1618)の中から、この絵画の作者を探し求めなければならない。

  • グイド・レーニ(ボローニャ1575年 ー ボローニャ1642年)『洗礼者聖ヨハネ』17世紀<br /><br />古典美の規範を尊重し、繊細な顔立ちの若者として描かれた洗礼者聖ヨハネは、豊かな自然の中に座り、十字架の形をした杖を持ち、子羊を愛撫しています。これら二つの要素は聖人の伝統的な象徴であり、聖書(新約聖書)の記述に基づいています。イエスをメシアと認め、洗礼を授け、「神の子羊」と名付けたのは、まさにこの聖ヨハネです。構図は、画面のほぼ全体を占める聖人の姿と、キャンバスから輝くような清らかな色彩を持つ子羊を中心に構成されています。この洗練された作品は、おそらく個人的な信仰のために制作されたものと考えられます。<br /><br />ボローニャ出身のグイド・レーニは、ローマ、特にカラッチ・アカデミーで修業を積みました。彼の作品は、均衡感と荘厳さを兼ね備え、形式的な優雅さ、簡潔さ、調和を重んじる姿勢が特徴である。

    グイド・レーニ(ボローニャ1575年 ー ボローニャ1642年)『洗礼者聖ヨハネ』17世紀

    古典美の規範を尊重し、繊細な顔立ちの若者として描かれた洗礼者聖ヨハネは、豊かな自然の中に座り、十字架の形をした杖を持ち、子羊を愛撫しています。これら二つの要素は聖人の伝統的な象徴であり、聖書(新約聖書)の記述に基づいています。イエスをメシアと認め、洗礼を授け、「神の子羊」と名付けたのは、まさにこの聖ヨハネです。構図は、画面のほぼ全体を占める聖人の姿と、キャンバスから輝くような清らかな色彩を持つ子羊を中心に構成されています。この洗練された作品は、おそらく個人的な信仰のために制作されたものと考えられます。

    ボローニャ出身のグイド・レーニは、ローマ、特にカラッチ・アカデミーで修業を積みました。彼の作品は、均衡感と荘厳さを兼ね備え、形式的な優雅さ、簡潔さ、調和を重んじる姿勢が特徴である。

  • フランス2世・プルブス(子)<br />(アントワープ1569/70年 ーパリ1622年)<br />「ソルル伯フィリップ=エマニュエル・ド・クロフとその姉マリー=ヴィルヘルミーネの全身肖像画」1615年頃 <br /><br />この格式高い二重肖像画は、幼いフィリップ=エマニュエル・ド・クロフと、その姉マリー=ヴィルヘルミーネを描いています。<br /><br />二人はフランスのソルル公爵家の一員であり、そのため衣装は豪華で、構図も綿密に計算されています。マリー=ヴィルヘルミーネは、レース飾りのエプロンを合わせた紫色のスカートを着用しています。高い襟が首と顔を強調し、彼女の優雅な佇まいを際立たせています。17世紀初頭のファッションを象徴する宝石が、この装いをさらに引き立てています。エマニュエルは、よりシンプルな白いサテンのドレスと、それに合わせた帽子を身に着けています。男の子は7歳になって初めて男の子らしい服を着始めるため、女の子と見分けるのは難しい場合がある。<br /><br />国際的に名高い肖像画家、フランス・プールブスは、この作品で細部まで緻密に描写する卓越した技量を披露している。

    フランス2世・プルブス(子)
    (アントワープ1569/70年 ーパリ1622年)
    「ソルル伯フィリップ=エマニュエル・ド・クロフとその姉マリー=ヴィルヘルミーネの全身肖像画」1615年頃 

    この格式高い二重肖像画は、幼いフィリップ=エマニュエル・ド・クロフと、その姉マリー=ヴィルヘルミーネを描いています。

    二人はフランスのソルル公爵家の一員であり、そのため衣装は豪華で、構図も綿密に計算されています。マリー=ヴィルヘルミーネは、レース飾りのエプロンを合わせた紫色のスカートを着用しています。高い襟が首と顔を強調し、彼女の優雅な佇まいを際立たせています。17世紀初頭のファッションを象徴する宝石が、この装いをさらに引き立てています。エマニュエルは、よりシンプルな白いサテンのドレスと、それに合わせた帽子を身に着けています。男の子は7歳になって初めて男の子らしい服を着始めるため、女の子と見分けるのは難しい場合がある。

    国際的に名高い肖像画家、フランス・プールブスは、この作品で細部まで緻密に描写する卓越した技量を披露している。

  • フランス2世・プルブス(子)(アントワープ1569 ーパリ1622年)<br />「フランス王女エリザベートの肖像画」1615年。<br /><br />アンリ4世とマリー・ド・メディシスの娘、フランス王女エリザベートの肖像画は、スペイン王フェリペ4世との結婚の年である1615年に描かれました。1621年にスペイン王妃となる彼女は、当時わずか13歳でした。<br /><br />彼女の豪華な衣装は、おそらく結婚式のドレス姿で、公式の肖像画として依頼されたものであることを示唆しています。実際、彼女は17世紀初頭を代表する、イタリアとフランスのファッションが融合した豪華な衣装を身にまとっています。金糸の刺繍、無数の宝石、そしてレースで飾られた白いサテンのドレスは、肘掛け椅子に深く腰掛けるエリザベートの硬直した姿勢と対照的で、未来の重責を暗示しています。<br /><br />アントワープの著名な画家一家に生まれたフランス2世・プルブスは、同時代のルーベンスを彷彿とさせる、簡素でありながら洗練されたスタイルで、宮廷肖像画の芸術を頂点へと導いた。

    フランス2世・プルブス(子)(アントワープ1569 ーパリ1622年)
    「フランス王女エリザベートの肖像画」1615年。

    アンリ4世とマリー・ド・メディシスの娘、フランス王女エリザベートの肖像画は、スペイン王フェリペ4世との結婚の年である1615年に描かれました。1621年にスペイン王妃となる彼女は、当時わずか13歳でした。

    彼女の豪華な衣装は、おそらく結婚式のドレス姿で、公式の肖像画として依頼されたものであることを示唆しています。実際、彼女は17世紀初頭を代表する、イタリアとフランスのファッションが融合した豪華な衣装を身にまとっています。金糸の刺繍、無数の宝石、そしてレースで飾られた白いサテンのドレスは、肘掛け椅子に深く腰掛けるエリザベートの硬直した姿勢と対照的で、未来の重責を暗示しています。

    アントワープの著名な画家一家に生まれたフランス2世・プルブスは、同時代のルーベンスを彷彿とさせる、簡素でありながら洗練されたスタイルで、宮廷肖像画の芸術を頂点へと導いた。

  • 拡大して、とても細密。

    拡大して、とても細密。

  • マティアス・ストム(アメルスフォント1600年頃 ー シチリア1649年以降)<br />「羊飼いの礼拝」17世紀<br /><br />この羊飼いの礼拝(聖書、新約聖書)の構図は、藁の上に横たわる幼子イエスを中心に構成されている。新生児から強烈で神秘的な光が放たれ、暗い背景と対照をなし、白い布を際立たせている。マリアは、キリストの体を包むことになる布を予感させるように、産着をそっと手に持っている。彼女の傍らにいる羊飼いの仕草は、幼子の発見に対する驚きを示し、その視線は感嘆を表している。さらに奥にいる他の二人の人物も、この誕生に驚きを隠せないでいる。オランダの画家ストムは、ローマでしばらく過ごした後、1633年にナポリに定住した。この絵は、このナポリ時代に制作された。

    マティアス・ストム(アメルスフォント1600年頃 ー シチリア1649年以降)
    「羊飼いの礼拝」17世紀

    この羊飼いの礼拝(聖書、新約聖書)の構図は、藁の上に横たわる幼子イエスを中心に構成されている。新生児から強烈で神秘的な光が放たれ、暗い背景と対照をなし、白い布を際立たせている。マリアは、キリストの体を包むことになる布を予感させるように、産着をそっと手に持っている。彼女の傍らにいる羊飼いの仕草は、幼子の発見に対する驚きを示し、その視線は感嘆を表している。さらに奥にいる他の二人の人物も、この誕生に驚きを隠せないでいる。オランダの画家ストムは、ローマでしばらく過ごした後、1633年にナポリに定住した。この絵は、このナポリ時代に制作された。

  • マティアス・ストム<br />(アメルスフォールト1600年頃 ーシチリア島1649年以降)<br />「聖ヒエロニムス」 1635-1640年 <br /><br />多くのカラヴァッジョ派の画家と同様に、聖書のラテン語訳の著者である聖ヒエロニムスは、神への瞑想を通して救済を見出す老人として描かれています。痩せこけた姿は、枢機卿としての地位を暗示する紫色の衣と鮮やかなコントラストを成しています。聖人は、髑髏、十字架、ロザリオといった伝統的な象徴に囲まれています。<br /><br />画家の生涯についてはほとんど記録が残っていません。1630年頃にローマに滞在していたストムは、ホントホルスト(おそらく彼の弟子であった)に近い様式で制作し、カラヴァッジョ主義を北方的に解釈した作品を生み出しました。彼はその後ナポリで、そして後にシチリアで画家として活動したが、1650年以降は消息が途絶える。彼の作品は力強い筆致と際立った写実性によって特徴づけられる。光の激しいコントラスト(例えば「羊飼いの礼拝」)は、作品の主題の劇的な緊張感を高めている。

    マティアス・ストム
    (アメルスフォールト1600年頃 ーシチリア島1649年以降)
    「聖ヒエロニムス」 1635-1640年

    多くのカラヴァッジョ派の画家と同様に、聖書のラテン語訳の著者である聖ヒエロニムスは、神への瞑想を通して救済を見出す老人として描かれています。痩せこけた姿は、枢機卿としての地位を暗示する紫色の衣と鮮やかなコントラストを成しています。聖人は、髑髏、十字架、ロザリオといった伝統的な象徴に囲まれています。

    画家の生涯についてはほとんど記録が残っていません。1630年頃にローマに滞在していたストムは、ホントホルスト(おそらく彼の弟子であった)に近い様式で制作し、カラヴァッジョ主義を北方的に解釈した作品を生み出しました。彼はその後ナポリで、そして後にシチリアで画家として活動したが、1650年以降は消息が途絶える。彼の作品は力強い筆致と際立った写実性によって特徴づけられる。光の激しいコントラスト(例えば「羊飼いの礼拝」)は、作品の主題の劇的な緊張感を高めている。

  • ヘンドリック・ファン・ソマー (ロケレン(ベルギー)1607年 ー ナポリ1656年)<br />「ダビデとゴリアテの首 」1645年頃<br /><br />若いヘブライ人の羊飼いダビデは、ペリシテ人の巨人ゴリアテと対峙したばかりです。旧約聖書では恐るべき戦士として描かれているゴリアテは、ダビデの投石器から放たれた一石によって倒されました。切り落とされた首には、ゴリアテの致命的な痕跡が残っています。衣服のサスペンダーやウサギの毛皮の頭飾りといった日常的な細部、そして顔の写実性や腕の浮き出た血管の描写は、画家の故郷であるフランドル地方の特徴を示しています。場面の雰囲気は、カラヴァッジョ運動から受け継がれた明暗対比の技法によって劇的に表現されています。実際、この画家は当時スペイン領だったナポリに15年間滞在することを決意し、そこでカラヴァッジョ派の傑出した画家、ジュゼッペ・デ・リベラの弟子となった。この重要な芸術の中心地はヨーロッパ各地から画家を惹きつけ、中でもマティアス・ストムは特筆すべき人物であり、彼の作品の一つがこの部屋に展示されている。

    ヘンドリック・ファン・ソマー (ロケレン(ベルギー)1607年 ー ナポリ1656年)
    「ダビデとゴリアテの首 」1645年頃

    若いヘブライ人の羊飼いダビデは、ペリシテ人の巨人ゴリアテと対峙したばかりです。旧約聖書では恐るべき戦士として描かれているゴリアテは、ダビデの投石器から放たれた一石によって倒されました。切り落とされた首には、ゴリアテの致命的な痕跡が残っています。衣服のサスペンダーやウサギの毛皮の頭飾りといった日常的な細部、そして顔の写実性や腕の浮き出た血管の描写は、画家の故郷であるフランドル地方の特徴を示しています。場面の雰囲気は、カラヴァッジョ運動から受け継がれた明暗対比の技法によって劇的に表現されています。実際、この画家は当時スペイン領だったナポリに15年間滞在することを決意し、そこでカラヴァッジョ派の傑出した画家、ジュゼッペ・デ・リベラの弟子となった。この重要な芸術の中心地はヨーロッパ各地から画家を惹きつけ、中でもマティアス・ストムは特筆すべき人物であり、彼の作品の一つがこの部屋に展示されている。

  • ジョヴァンニ・フランチェスコ・ロマネッリ(ヴィテルボ1610年 ー ヴィテルボ1662年)<br />『エジプトへの逃避途中の休息』17世紀<br /><br />人物の優美なポーズ、鮮やかな色彩、特に青色の輝き、そして繊細な視線の交わりが、この場面に優しい雰囲気を醸し出しています。これらの特質によって、この主題としては異例の大きさであるにもかかわらず、絵画の堂々としたサイズを忘れさせてくれます。シンプルで左右対称の構図は、ヨセフとマリアの体が形成する逆ピラミッドの中心にイエス・キリストが描かれています。幼子イエスは、将来の使命を告げる碑文を指差しています。「エッサイの切り株から若枝が生え、新芽が生える」。イザヤ書からのこの引用によって、聖書の旧約聖書と新約聖書が交錯します。<br />ピエトロ・ダ・コルトーナの弟子であったロマネッリは、マザラン枢機卿やオーストリアのアンヌ王妃のために制作した数々の名誉ある作品を通して、フランスにおける壮麗なイタリア様式の装飾の普及に重要な役割を果たした。

    ジョヴァンニ・フランチェスコ・ロマネッリ(ヴィテルボ1610年 ー ヴィテルボ1662年)
    『エジプトへの逃避途中の休息』17世紀

    人物の優美なポーズ、鮮やかな色彩、特に青色の輝き、そして繊細な視線の交わりが、この場面に優しい雰囲気を醸し出しています。これらの特質によって、この主題としては異例の大きさであるにもかかわらず、絵画の堂々としたサイズを忘れさせてくれます。シンプルで左右対称の構図は、ヨセフとマリアの体が形成する逆ピラミッドの中心にイエス・キリストが描かれています。幼子イエスは、将来の使命を告げる碑文を指差しています。「エッサイの切り株から若枝が生え、新芽が生える」。イザヤ書からのこの引用によって、聖書の旧約聖書と新約聖書が交錯します。
    ピエトロ・ダ・コルトーナの弟子であったロマネッリは、マザラン枢機卿やオーストリアのアンヌ王妃のために制作した数々の名誉ある作品を通して、フランスにおける壮麗なイタリア様式の装飾の普及に重要な役割を果たした。

  • フランソワ・トルテバ(パリ1616ー1690 )<br /><br />この女性像は、平和の寓意の伝統的な特徴をいくつか取り入れています。古典的な様式で身を包んだ彼女は、片手に月桂樹の枝とオリーブの枝を持っています。彼女の足元では、プットーが松明を消し、鎧を踏みつけています。背景には、もう一人の小さなケルビムがテントか軍旗を畳んでいるように見えます。主題の選択と、背景に牧歌的な風景へと続く溝付きの柱があることから、この絵画はより大きな装飾計画の一部であったことが示唆されます。おそらくパリ西郊のサン=ジェルマン=アン=レーの王室城のために依頼されたものかもしれません。

    フランソワ・トルテバ(パリ1616ー1690 )

    この女性像は、平和の寓意の伝統的な特徴をいくつか取り入れています。古典的な様式で身を包んだ彼女は、片手に月桂樹の枝とオリーブの枝を持っています。彼女の足元では、プットーが松明を消し、鎧を踏みつけています。背景には、もう一人の小さなケルビムがテントか軍旗を畳んでいるように見えます。主題の選択と、背景に牧歌的な風景へと続く溝付きの柱があることから、この絵画はより大きな装飾計画の一部であったことが示唆されます。おそらくパリ西郊のサン=ジェルマン=アン=レーの王室城のために依頼されたものかもしれません。

  • ニコラ・ランクレ(パリ1​​690年 ーパリ1743年)<br />『踊るカマルゴ』1730年 <br /><br />マリー・アンヌ・ド・キュピス・カマルゴは、当時最も著名なダンサーの一人でした。『踊るカマルゴ』は、ニコラ・ランクレの最も有名な絵画の一つであり、彼が舞台芸術(遊園地の劇場、コメディ・イタリアン、人形劇、舞踊公演)に抱いていた真の情熱を反映しています。友人アントワーヌ・ワトーの影響を受けながらも、ランクレは詩的なフェット・ギャラント、演劇的な場面、肖像画を融合させた独自のジャンルを確立しました。<br /><br />花輪で飾られた美しい田園風の衣装をまとったダンサーは、すらりとした足首で優雅かつ技巧的なバランスを保っています。もう一人の女性スター、マドモワゼル・サレの強力なライバルであり、時代を先取りした大胆でほとんどフェミニスト的な人物であったカマルゴは、より自由な動きを実現するためにスカート丈をふくらはぎの中ほどまで短くするという大胆な行動によって、女性のダンスに革命をもたらした。

    ニコラ・ランクレ(パリ1​​690年 ーパリ1743年)
    『踊るカマルゴ』1730年

    マリー・アンヌ・ド・キュピス・カマルゴは、当時最も著名なダンサーの一人でした。『踊るカマルゴ』は、ニコラ・ランクレの最も有名な絵画の一つであり、彼が舞台芸術(遊園地の劇場、コメディ・イタリアン、人形劇、舞踊公演)に抱いていた真の情熱を反映しています。友人アントワーヌ・ワトーの影響を受けながらも、ランクレは詩的なフェット・ギャラント、演劇的な場面、肖像画を融合させた独自のジャンルを確立しました。

    花輪で飾られた美しい田園風の衣装をまとったダンサーは、すらりとした足首で優雅かつ技巧的なバランスを保っています。もう一人の女性スター、マドモワゼル・サレの強力なライバルであり、時代を先取りした大胆でほとんどフェミニスト的な人物であったカマルゴは、より自由な動きを実現するためにスカート丈をふくらはぎの中ほどまで短くするという大胆な行動によって、女性のダンスに革命をもたらした。

  • ジャン=アントワーヌ・ワトー (ヴァランシエンヌ1684年-ノジャン=シュル=マルヌ1721年)<br />「魅惑の牧神」1707-1708年 <br /><br />この2枚の木板は、ワトーが1707年に制作したノワンテル邸の装飾の中で、唯一現存する部分です。画家は、アラベスク模様、神話上の人物、そして愛の情景を独創的に融合させています。これらは、今日ではほとんど痕跡が残っていない初期作品群を完璧に示しており、ワトーが徐々にデッサン力、流麗でしなやかな筆致、そして淡い色調で表現する技法を磨き上げていった過程を物語っています。これらの技法は、後に彼の「雅宴図」の成功に大きく貢献することになります。<br /><br />

    ジャン=アントワーヌ・ワトー (ヴァランシエンヌ1684年-ノジャン=シュル=マルヌ1721年)
    「魅惑の牧神」1707-1708年 

    この2枚の木板は、ワトーが1707年に制作したノワンテル邸の装飾の中で、唯一現存する部分です。画家は、アラベスク模様、神話上の人物、そして愛の情景を独創的に融合させています。これらは、今日ではほとんど痕跡が残っていない初期作品群を完璧に示しており、ワトーが徐々にデッサン力、流麗でしなやかな筆致、そして淡い色調で表現する技法を磨き上げていった過程を物語っています。これらの技法は、後に彼の「雅宴図」の成功に大きく貢献することになります。

  • クロード・ジローの工房で一定期間修業した後(この部屋に展示されているジローの「ハーレクイン」はその証拠である)、ワトーはクロード・オードランと共同制作を行い、オードランはワトーに城の装飾を任せた。ワトーはそこで、当時の異国趣味への嗜好を見事に探求し、幻想的なシノワズリーの場面を描き出した。

    クロード・ジローの工房で一定期間修業した後(この部屋に展示されているジローの「ハーレクイン」はその証拠である)、ワトーはクロード・オードランと共同制作を行い、オードランはワトーに城の装飾を任せた。ワトーはそこで、当時の異国趣味への嗜好を見事に探求し、幻想的なシノワズリーの場面を描き出した。

  • シャルル・コワペル  (パリ1​​694年 ーパリ1752年)<br />「ローラン、アンジェリークの裏切りを知る」1733年<br /><br />タペストリー下絵、すなわち、ヴェルサイユ宮殿のマリー・レチンスカ王妃の居室のためにゴブラン織工房で織られたタペストリーの原寸大模型。オペラ断片を題材としている。<br /><br />この非常に大きな絵画は、劇の一場面を描いている。中央では、オペラに出てくる羊飼いの二人が、騎士ローランとアンジェリークとメドーロの結婚を語っている。ローランはその足元に倒れ込む。実際、騎士と婚約していた東方の王女アンジェリークは、サラセン人の兵士メドーロと結婚したばかりである。右側では、別の羊飼いたちが新婚夫婦が刻んだ愛の誓いの言葉を掲げている。左側では、踊り子と音楽家たちが結婚の祝宴を続けている。画面の両側、前景には、視線や身振りで私たちを画面へと誘う人物たちが描かれている。画家であり劇作家でもあったシャルル・コワペルは、1532年にアリオストが作曲した詩『狂えるオルランド』から着想を得た。この詩は、台本作家のフィリップ・キノーと作曲家のジャン=バティスト・リュリによって1685年にオペラとして大成功を収めた。この作品は王妃の居室のために制作され、1733年にコワペルに依頼された。当時、画家はキャリアの絶頂期にあった。

    シャルル・コワペル (パリ1​​694年 ーパリ1752年)
    「ローラン、アンジェリークの裏切りを知る」1733年

    タペストリー下絵、すなわち、ヴェルサイユ宮殿のマリー・レチンスカ王妃の居室のためにゴブラン織工房で織られたタペストリーの原寸大模型。オペラ断片を題材としている。

    この非常に大きな絵画は、劇の一場面を描いている。中央では、オペラに出てくる羊飼いの二人が、騎士ローランとアンジェリークとメドーロの結婚を語っている。ローランはその足元に倒れ込む。実際、騎士と婚約していた東方の王女アンジェリークは、サラセン人の兵士メドーロと結婚したばかりである。右側では、別の羊飼いたちが新婚夫婦が刻んだ愛の誓いの言葉を掲げている。左側では、踊り子と音楽家たちが結婚の祝宴を続けている。画面の両側、前景には、視線や身振りで私たちを画面へと誘う人物たちが描かれている。画家であり劇作家でもあったシャルル・コワペルは、1532年にアリオストが作曲した詩『狂えるオルランド』から着想を得た。この詩は、台本作家のフィリップ・キノーと作曲家のジャン=バティスト・リュリによって1685年にオペラとして大成功を収めた。この作品は王妃の居室のために制作され、1733年にコワペルに依頼された。当時、画家はキャリアの絶頂期にあった。

  • 彫刻も少し置かれていた。

    彫刻も少し置かれていた。

  • 建物内の中庭に現代アートが置かれていた。

    建物内の中庭に現代アートが置かれていた。

  • 天井画が美しい。

    天井画が美しい。

  • ロベール・フェリックス・ヴィレ (シャルルヴィル=メジエール1819年 ーパリ1907年)<br />「ナポレオン3世」1863年頃<br /><br />このナポレオン2世の全身肖像画は、1861年にイポリット・フランドランが描いた作品の複製です。国家の依頼で制作されたオリジナル作品の成功を物語っています。公式肖像画として、皇帝は師団将軍の軍服姿で描かれています。赤いズボン、レジオンドヌール勲章の大綬章が交差する黒色のチュニック、金色の肩章、そして腰に剣を携えています。<br />テュイルリー宮殿の書斎に立ち、作業台の前にはフランスの地図と、叔父であるナポレオン1世の大理石の胸像が置かれています。ナポレオン3世は、叔父の足跡を辿っているのです。<br />批評家たちはこの肖像画の心理描写の真実性を称賛したが、その重々しい表現は皇帝の気に入らず、皇帝はアレクサンドル・カバネルによるより世俗的な作品を好んだ。寓意的な肖像画や宗教画で知られるロベール・フェリックス・ヴィルは、イポリット・フランドランとともに、第二帝政期における宗教芸術の復興に貢献した。

    ロベール・フェリックス・ヴィレ (シャルルヴィル=メジエール1819年 ーパリ1907年)
    「ナポレオン3世」1863年頃

    このナポレオン2世の全身肖像画は、1861年にイポリット・フランドランが描いた作品の複製です。国家の依頼で制作されたオリジナル作品の成功を物語っています。公式肖像画として、皇帝は師団将軍の軍服姿で描かれています。赤いズボン、レジオンドヌール勲章の大綬章が交差する黒色のチュニック、金色の肩章、そして腰に剣を携えています。
    テュイルリー宮殿の書斎に立ち、作業台の前にはフランスの地図と、叔父であるナポレオン1世の大理石の胸像が置かれています。ナポレオン3世は、叔父の足跡を辿っているのです。
    批評家たちはこの肖像画の心理描写の真実性を称賛したが、その重々しい表現は皇帝の気に入らず、皇帝はアレクサンドル・カバネルによるより世俗的な作品を好んだ。寓意的な肖像画や宗教画で知られるロベール・フェリックス・ヴィルは、イポリット・フランドランとともに、第二帝政期における宗教芸術の復興に貢献した。

  • ポール=エマニュエル・ルグラン<br />(ヴィトリー=シュル=セーヌ1860年 ーパリ1947年)<br />『夢』以前1897年<br /><br />小学生たちが新聞スタンドの近くに集まり、エドゥアール・デタイユの絵画『夢』を興味深そうに見つめている。屋台の後ろにかろうじて見える新聞売りは、子供たちを疑わしげに観察しているようだ。右側には、戦争帰りの老人が新聞に没頭している。緑色の新聞スタンドを中心に据えた構図は、子供たちが絵を発見する瞬間に鑑賞者の視線を集中させることを可能にしている。<br />巧妙な入れ子構造を持つこの絵は、芸術作品が人々を魅了する力を持っていることを示唆している。鮮やかな色彩に惹きつけられる若者と、新聞を読む老人の真剣な表情は鮮やかな対比を成し、その対比自体が、絵の主題である戦争を反映している。ポール=エマニュエル・ルグランは、独特の世紀末的なイメージを巧みに展開することに喜びを感じ、特に新聞に掲載されるイメージの持つ計り知れない力について、教訓的な作品を創り上げた。

    ポール=エマニュエル・ルグラン
    (ヴィトリー=シュル=セーヌ1860年 ーパリ1947年)
    『夢』以前1897年

    小学生たちが新聞スタンドの近くに集まり、エドゥアール・デタイユの絵画『夢』を興味深そうに見つめている。屋台の後ろにかろうじて見える新聞売りは、子供たちを疑わしげに観察しているようだ。右側には、戦争帰りの老人が新聞に没頭している。緑色の新聞スタンドを中心に据えた構図は、子供たちが絵を発見する瞬間に鑑賞者の視線を集中させることを可能にしている。
    巧妙な入れ子構造を持つこの絵は、芸術作品が人々を魅了する力を持っていることを示唆している。鮮やかな色彩に惹きつけられる若者と、新聞を読む老人の真剣な表情は鮮やかな対比を成し、その対比自体が、絵の主題である戦争を反映している。ポール=エマニュエル・ルグランは、独特の世紀末的なイメージを巧みに展開することに喜びを感じ、特に新聞に掲載されるイメージの持つ計り知れない力について、教訓的な作品を創り上げた。

  • アンリ・マルタン (トゥールーズ1860年 ーラバスティード・デュ・ヴェール1943年)<br />「編み物をする女たち、あるいはパーゴラ」、1913年<br /><br />画家は夏のパーゴラの下にいる3人の女性を描いている。2人は縫い物をしており、3人目は赤ん坊を腕に抱いている。この絵は曖昧で、風俗画、肖像画、風景画の間を揺れ動いている。広大な遠近法は、マルタンの点描画技法によって和らげられた、穏やかで壮大な背景の中に人物たちを収めている。主題の静けさは、人物たちのある種の孤独を排除するものではない。すべてが静かで集中している。<br />アンリ・マルタンはトゥールーズの美術学校で学んだ後、1​​879年にパリに移り住み、そこでジャン=ポール・ローレンス(1838–1921)の弟子となった。イタリア旅行の後、この画家は作風を変え、新印象派の分割主義へと向かったが、それは理論に基づいたものではなく、より自発的な方法であった。短く、独立した平行な筆致によって形と光が構築され、夢想を誘うような理想化された色彩が生み出された。

    アンリ・マルタン (トゥールーズ1860年 ーラバスティード・デュ・ヴェール1943年)
    「編み物をする女たち、あるいはパーゴラ」、1913年

    画家は夏のパーゴラの下にいる3人の女性を描いている。2人は縫い物をしており、3人目は赤ん坊を腕に抱いている。この絵は曖昧で、風俗画、肖像画、風景画の間を揺れ動いている。広大な遠近法は、マルタンの点描画技法によって和らげられた、穏やかで壮大な背景の中に人物たちを収めている。主題の静けさは、人物たちのある種の孤独を排除するものではない。すべてが静かで集中している。
    アンリ・マルタンはトゥールーズの美術学校で学んだ後、1​​879年にパリに移り住み、そこでジャン=ポール・ローレンス(1838–1921)の弟子となった。イタリア旅行の後、この画家は作風を変え、新印象派の分割主義へと向かったが、それは理論に基づいたものではなく、より自発的な方法であった。短く、独立した平行な筆致によって形と光が構築され、夢想を誘うような理想化された色彩が生み出された。

  • ウジェーヌ=ルイ・ブーダン (オンフルール1824年 ードーヴィル1898年)<br />「ドルトレヒト港」1882年<br /><br />オランダ旅行の証であるこの絵は、1880年代のウジェーヌ・ブーダンの光の探求を代表する作品です。空が構図の3分の2を占め、ムーズ川とライン川のデルタ地帯は細い水の流れに縮小されています。自由な筆致と抑えられた色調は、同じように扱われた水と空に円形の効果を生み出しています。ほとんどスケッチされていないボートと家々は、二次的な存在のように見えます。<br />独学の画家であるブーダンは、当初は印刷工として働いていましたが、ジャン=フランソワ・ミレーと出会い、絵を描くことを勧められました。彼はルーヴル美術館でフランドル派とオランダ派の画家たちの作品を模写しました。1858年には若きクロード・モネと出会い、彼に大きな影響を与えました。パリとオンフルールを行き来しながら、ブーダンはトゥルーヴィルとドーヴィルの海景や海岸風景を専門に描いた。

    ウジェーヌ=ルイ・ブーダン (オンフルール1824年 ードーヴィル1898年)
    「ドルトレヒト港」1882年

    オランダ旅行の証であるこの絵は、1880年代のウジェーヌ・ブーダンの光の探求を代表する作品です。空が構図の3分の2を占め、ムーズ川とライン川のデルタ地帯は細い水の流れに縮小されています。自由な筆致と抑えられた色調は、同じように扱われた水と空に円形の効果を生み出しています。ほとんどスケッチされていないボートと家々は、二次的な存在のように見えます。
    独学の画家であるブーダンは、当初は印刷工として働いていましたが、ジャン=フランソワ・ミレーと出会い、絵を描くことを勧められました。彼はルーヴル美術館でフランドル派とオランダ派の画家たちの作品を模写しました。1858年には若きクロード・モネと出会い、彼に大きな影響を与えました。パリとオンフルールを行き来しながら、ブーダンはトゥルーヴィルとドーヴィルの海景や海岸風景を専門に描いた。

  • ポール・シニャック (パリ1​​863年 -ーパリ1935年)<br />「灯台」(アンティーブ)1909年)<br /><br />ポール・シニャックは1904年にはすでにアンティーブの絵画を展示していた。この作品の構図はしっかりとした構成になっている。灯台とその反射が、空から水面へと視線を導き、山岳地帯を通り過ぎる下降運動を生み出している。モザイクのように塗られた青とピンクの筆致の間にはキャンバスの白が現れ、パレットの明るさを際立たせている。<br />1884年、シニャックはジョルジュ・スーラと出会い、スーラは彼に分割主義の研究を共有した。シュヴルイユ、ブラン、ルードの光学法則に基づいたこの技法は、異なる色の筆致を並置することで、色の合成が鑑賞者の目によって達成されることを提案している。 1891年、彼はサントロペに居を構え、自身のヨット「オランピア号」で航海しながら、海と山々の風景を描いた。

    ポール・シニャック (パリ1​​863年 -ーパリ1935年)
    「灯台」(アンティーブ)1909年)

    ポール・シニャックは1904年にはすでにアンティーブの絵画を展示していた。この作品の構図はしっかりとした構成になっている。灯台とその反射が、空から水面へと視線を導き、山岳地帯を通り過ぎる下降運動を生み出している。モザイクのように塗られた青とピンクの筆致の間にはキャンバスの白が現れ、パレットの明るさを際立たせている。
    1884年、シニャックはジョルジュ・スーラと出会い、スーラは彼に分割主義の研究を共有した。シュヴルイユ、ブラン、ルードの光学法則に基づいたこの技法は、異なる色の筆致を並置することで、色の合成が鑑賞者の目によって達成されることを提案している。 1891年、彼はサントロペに居を構え、自身のヨット「オランピア号」で航海しながら、海と山々の風景を描いた。

  • アルフレッド・シスレー (パリ1​​839年 -ーモレ=シュル=ロワン1899年)<br />「モレ=シュル=ロワンの運河の岸辺」1892年<br /><br />屋外で制作していたアルフレッド・シスレーは、光の相互作用、雲の動き、水面の反射を捉えることに重点を置いていました。彼のお気に入りの題材の一つは、1879年に彼が移り住んだモレ=シュル=ロワンの村でした。彼は運河の水の透明感、ポプラと空の反射、風景の美しさを賞賛し、それを再現しました。<br />イギリスで商業美術の訓練を受けた後、シスレーは絵画に転向し、1862年にシャルル・グレールのスタジオに入りました。そこで彼は、後に印象派となるクロード・モネ、オーギュスト・ルノワール、フレデリック・バリユと出会いました。シスレーは亡くなるまで、このグループの原則に従いました。革新性に欠けると批判する批評家に対し、その芸術家は、風景とはそもそも再生の源泉であると答えた。

    アルフレッド・シスレー (パリ1​​839年 -ーモレ=シュル=ロワン1899年)
    「モレ=シュル=ロワンの運河の岸辺」1892年

    屋外で制作していたアルフレッド・シスレーは、光の相互作用、雲の動き、水面の反射を捉えることに重点を置いていました。彼のお気に入りの題材の一つは、1879年に彼が移り住んだモレ=シュル=ロワンの村でした。彼は運河の水の透明感、ポプラと空の反射、風景の美しさを賞賛し、それを再現しました。
    イギリスで商業美術の訓練を受けた後、シスレーは絵画に転向し、1862年にシャルル・グレールのスタジオに入りました。そこで彼は、後に印象派となるクロード・モネ、オーギュスト・ルノワール、フレデリック・バリユと出会いました。シスレーは亡くなるまで、このグループの原則に従いました。革新性に欠けると批判する批評家に対し、その芸術家は、風景とはそもそも再生の源泉であると答えた。

  • クロード・モネ  (パリ1840年 ージヴェルニー1926年) <br />「ヴェネツィアのゴンドラ」 1908年 <br /><br />クロード・モネは1903年にヴェネツィアに滞在しました。そこで彼は戸外で29枚のキャンバスを描きました。スケッチ段階のままのこの作品は、画家の妻アリス・モネが記しているように、12月3日に潟の街で描かれた最後の作品です。「今朝は濃い霧が出ていましたが、それ以前にも、モネはそれでもとても美しいゴンドラのスケッチを描くことができました。」 <br />クロード・モネは、パリでアカデミックな画家シャルル・グレールに師事し、ピエール=オーギュスト・ルノワールと共に1874年に印象派運動を創始しました。現実の観察に焦点を当て、しばしばシリーズで探求した単一のモチーフ(大聖堂、干し草の山、睡蓮など)を描き、その印象をキャンバスに転写しました。彼は光の絶え間ない動きを捉えようと、純粋な顔料を少量用いることで、はかない色彩の変化を表現した。

    クロード・モネ  (パリ1840年 ージヴェルニー1926年)
    「ヴェネツィアのゴンドラ」 1908年

    クロード・モネは1903年にヴェネツィアに滞在しました。そこで彼は戸外で29枚のキャンバスを描きました。スケッチ段階のままのこの作品は、画家の妻アリス・モネが記しているように、12月3日に潟の街で描かれた最後の作品です。「今朝は濃い霧が出ていましたが、それ以前にも、モネはそれでもとても美しいゴンドラのスケッチを描くことができました。」
    クロード・モネは、パリでアカデミックな画家シャルル・グレールに師事し、ピエール=オーギュスト・ルノワールと共に1874年に印象派運動を創始しました。現実の観察に焦点を当て、しばしばシリーズで探求した単一のモチーフ(大聖堂、干し草の山、睡蓮など)を描き、その印象をキャンバスに転写しました。彼は光の絶え間ない動きを捉えようと、純粋な顔料を少量用いることで、はかない色彩の変化を表現した。

  • クロード・モネ (パリ1​​840年 ージヴェルニー1926年)<br />「ジヴェルニーの睡蓮」1917年<br /><br />写真の構図に影響を受けたクロード・モネは、ジヴェルニーの日本庭園の池の一部をクローズアップで描いています。水、睡蓮、柳の枝の反射は、緑の色調で溶け合っています。キャンバスの端にあるわずかなピンクがかった赤と青だけが、この調和を破っています。よく見ると、画家の厚い筆致と、楕円形に縮小された睡蓮のほぼ抽象的な描写に気づきます。<br />印象派運動の名をつけた作品「印象、日の出」(1872年)の作者であるモネは、睡蓮に最も好きな題材を見出しました。彼は池を作り、そこで何時間もかけてこれらの植物への光の効果と水面の反射の相互作用を注意深く観察しました。 1910年以降、彼は次第に限定的な視点を持つようになり、主に水庭園に視線を集中させた。

    クロード・モネ (パリ1​​840年 ージヴェルニー1926年)
    「ジヴェルニーの睡蓮」1917年

    写真の構図に影響を受けたクロード・モネは、ジヴェルニーの日本庭園の池の一部をクローズアップで描いています。水、睡蓮、柳の枝の反射は、緑の色調で溶け合っています。キャンバスの端にあるわずかなピンクがかった赤と青だけが、この調和を破っています。よく見ると、画家の厚い筆致と、楕円形に縮小された睡蓮のほぼ抽象的な描写に気づきます。
    印象派運動の名をつけた作品「印象、日の出」(1872年)の作者であるモネは、睡蓮に最も好きな題材を見出しました。彼は池を作り、そこで何時間もかけてこれらの植物への光の効果と水面の反射の相互作用を注意深く観察しました。 1910年以降、彼は次第に限定的な視点を持つようになり、主に水庭園に視線を集中させた。

  • アンリ・マルタン (トゥールーズ1860年 ーラバスティード=デュ=ヴェール1943年)<br />「コリウールの夕べ」<br /><br />上空から見ると、苔むした岩礁が波に覆われ、水面からそびえ立っている。水平線は描かれていない。濃い青からターコイズブルー、暗い色から明るい色へと変化するグラデーションは、崖が落とす影を暗示している。黄色が差し込むことで、夕日の最後の光が表現されている。厚塗りの絵具は、岩に打ち付ける波と、渦巻く泡の中の眩い光を描き出そうとしている。<br />ロット地方に居を構えたアンリ・マルタンは、友人で画家のアンリ・マールの勧めでコリウールを発見し、1923年にそこに家を購入した。コート・ヴェルメイユに降り注ぐ太陽の光によってもたらされる色彩の豊かさに魅せられたマルタンは、風景画の探求を続けた。その後彼は、短い平行な筆致からなる新しい絵画技法を開発し、既存の印象派や分割主義とは一線を画す独自の道を切り開いた。

    アンリ・マルタン (トゥールーズ1860年 ーラバスティード=デュ=ヴェール1943年)
    「コリウールの夕べ」

    上空から見ると、苔むした岩礁が波に覆われ、水面からそびえ立っている。水平線は描かれていない。濃い青からターコイズブルー、暗い色から明るい色へと変化するグラデーションは、崖が落とす影を暗示している。黄色が差し込むことで、夕日の最後の光が表現されている。厚塗りの絵具は、岩に打ち付ける波と、渦巻く泡の中の眩い光を描き出そうとしている。
    ロット地方に居を構えたアンリ・マルタンは、友人で画家のアンリ・マールの勧めでコリウールを発見し、1923年にそこに家を購入した。コート・ヴェルメイユに降り注ぐ太陽の光によってもたらされる色彩の豊かさに魅せられたマルタンは、風景画の探求を続けた。その後彼は、短い平行な筆致からなる新しい絵画技法を開発し、既存の印象派や分割主義とは一線を画す独自の道を切り開いた。

  • マキシム・モーフラ (ナント1861年 ーポンセ=シュル=ル=ロワール1918年)<br />「コート・ドモワ」(ベル=ル=アン=メール)<br /><br />風景画家であるマキシム・モーフラは、特に海と水面に映る景色に強い関心を持っていました。彼は幼少期にナントで観察したロワール川を描くことから絵を描き始めました。この川は、ブルターニュへの旅行中に発見した大西洋と同様に、彼のお気に入りの題材となりました。彼は荒れ狂う波、砂丘を吹き抜ける風、ベル=ル=アン=メール、ポワント・デュ・ラ、ポン=タヴァンのさまざまな青と緑の色合いを観察しました。<br />印象派、特にクロード・モネ、そしてイギリス旅行中に発見したウィリアム・ターナーやジョン・コンスタブルなどのイギリス人画家の影響は、流れるような筆致と光の強さを通して彼の作品に明らかです。 1890年にポール・ゴーギャンと出会ったことが、彼の絵画スタイルの変化につながった。1910年頃になると、マントラの筆致はより濃密で厚くなり、彼の印象派は非常に個性的なものとなった。

    マキシム・モーフラ (ナント1861年 ーポンセ=シュル=ル=ロワール1918年)
    「コート・ドモワ」(ベル=ル=アン=メール)

    風景画家であるマキシム・モーフラは、特に海と水面に映る景色に強い関心を持っていました。彼は幼少期にナントで観察したロワール川を描くことから絵を描き始めました。この川は、ブルターニュへの旅行中に発見した大西洋と同様に、彼のお気に入りの題材となりました。彼は荒れ狂う波、砂丘を吹き抜ける風、ベル=ル=アン=メール、ポワント・デュ・ラ、ポン=タヴァンのさまざまな青と緑の色合いを観察しました。
    印象派、特にクロード・モネ、そしてイギリス旅行中に発見したウィリアム・ターナーやジョン・コンスタブルなどのイギリス人画家の影響は、流れるような筆致と光の強さを通して彼の作品に明らかです。 1890年にポール・ゴーギャンと出会ったことが、彼の絵画スタイルの変化につながった。1910年頃になると、マントラの筆致はより濃密で厚くなり、彼の印象派は非常に個性的なものとなった。

  • ヴィクトル・ブラウナー<br />(ピアトラ=ネアムツ(ルーマニア)1903年 ーパリ1966年)<br /><br />「三部作」:『送り主』『ファッション』『最後の旅』『夢見る都市』『アンチテーゼ』、1937年<br /><br />ハイブリッドな身体、幻想的な人物像、切断された四肢、空虚な建物、砂漠の風景…ヴィクトル・ブラウナーは、非人間的で荒涼とした、そして時を超越した世界を描き出す。1937年、彼はファシズムへの不安と自身が経験した反ユダヤ主義、そして眼球摘出への執着を反映した一連の小判キャンバス作品を制作した。<br /><br />これらの幻想的な作品は、ブラウナー自身によって、彼の人生における二つの決定的な出来事、すなわち1938年の片目喪失と1939年の第二次世界大戦勃発の予兆であると考えられている。<br />ヴィクトル・ブラウナーは1933年にアンドレ・ブルトンと出会い、シュルレアリスム運動に参加した。彼は1935年から1938年にかけて故郷に戻り、ブカレストの芸術的前衛運動の普及に携わった。

    ヴィクトル・ブラウナー
    (ピアトラ=ネアムツ(ルーマニア)1903年 ーパリ1966年)

    「三部作」:『送り主』『ファッション』『最後の旅』『夢見る都市』『アンチテーゼ』、1937年

    ハイブリッドな身体、幻想的な人物像、切断された四肢、空虚な建物、砂漠の風景…ヴィクトル・ブラウナーは、非人間的で荒涼とした、そして時を超越した世界を描き出す。1937年、彼はファシズムへの不安と自身が経験した反ユダヤ主義、そして眼球摘出への執着を反映した一連の小判キャンバス作品を制作した。

    これらの幻想的な作品は、ブラウナー自身によって、彼の人生における二つの決定的な出来事、すなわち1938年の片目喪失と1939年の第二次世界大戦勃発の予兆であると考えられている。
    ヴィクトル・ブラウナーは1933年にアンドレ・ブルトンと出会い、シュルレアリスム運動に参加した。彼は1935年から1938年にかけて故郷に戻り、ブカレストの芸術的前衛運動の普及に携わった。

  • ワシリー・カンディンスキー (モスクワ1866年 ーヌイイ=シュル=セーヌ1944年)<br />「Gegenklänge」 [対立する和音]1924年<br /><br />カンディンスキーは対比に基づいて構図を構築している。黒の平坦な面と明るい色のグラデーションの両方を用いて、画家は支持体の表面に抽象的な形態を不均一に配置している。<br />厳密な幾何学的図形は、より表現力豊かな直線や曲線と混ざり合っている。カンディンスキーはこの絵を制作した当時、バウハウスの教授を2年間務めており、これは過渡期の作品と見なすことができる。<br />1910年代の絵画と同様に、明るくグラデーションのある背景と動きのある要素が見られる。同時に、黒と白のグリッド、絵画の中央の水平線上に配置された形態など、あまりダイナミックではないいくつかの要素は、対立するハーモニーのように、この一連の絵画全体が属するバウハウス時代のより合理的な構図を予感させる。

    ワシリー・カンディンスキー (モスクワ1866年 ーヌイイ=シュル=セーヌ1944年)
    「Gegenklänge」 [対立する和音]1924年

    カンディンスキーは対比に基づいて構図を構築している。黒の平坦な面と明るい色のグラデーションの両方を用いて、画家は支持体の表面に抽象的な形態を不均一に配置している。
    厳密な幾何学的図形は、より表現力豊かな直線や曲線と混ざり合っている。カンディンスキーはこの絵を制作した当時、バウハウスの教授を2年間務めており、これは過渡期の作品と見なすことができる。
    1910年代の絵画と同様に、明るくグラデーションのある背景と動きのある要素が見られる。同時に、黒と白のグリッド、絵画の中央の水平線上に配置された形態など、あまりダイナミックではないいくつかの要素は、対立するハーモニーのように、この一連の絵画全体が属するバウハウス時代のより合理的な構図を予感させる。

  • ワシリー・カンディンスキー(モスクワ1866年 ーヌイイ=シュル=セーヌ1944年)<br />「黒いグリッド」1922年<br /><br /> ここでワシリー・カンディンスキーは具象的な要素と抽象的な要素を並置し、絡み合わせ、構図の中心に配置されたグリッドを中心にそれらを表現しています。円、三角形、正方形という3つの基本的な幾何学的図形が存在し、色彩コードと組み合わさることで、それぞれの線が緊張感を持ち、それぞれの色がダイナミズムを主張する新しい空間が生まれています。<br />動きと色彩の豊かさの印象は、平坦で不透明な黒と白のグリッドと対照的で、彼の絵画の将来の方向性を予感させます。シュプレマティズムと構成主義の誕生を目撃したロシアでの6年間の滞在の後、カンディンスキーはモスクワを離れドイツへ向かいました。彼は美術と応用美術の融合を提唱する革新的な学校であるバウハウスで教えるよう招かれました。彼は1922年6月にワイマール校に着任した。

    ワシリー・カンディンスキー(モスクワ1866年 ーヌイイ=シュル=セーヌ1944年)
    「黒いグリッド」1922年

    ここでワシリー・カンディンスキーは具象的な要素と抽象的な要素を並置し、絡み合わせ、構図の中心に配置されたグリッドを中心にそれらを表現しています。円、三角形、正方形という3つの基本的な幾何学的図形が存在し、色彩コードと組み合わさることで、それぞれの線が緊張感を持ち、それぞれの色がダイナミズムを主張する新しい空間が生まれています。
    動きと色彩の豊かさの印象は、平坦で不透明な黒と白のグリッドと対照的で、彼の絵画の将来の方向性を予感させます。シュプレマティズムと構成主義の誕生を目撃したロシアでの6年間の滞在の後、カンディンスキーはモスクワを離れドイツへ向かいました。彼は美術と応用美術の融合を提唱する革新的な学校であるバウハウスで教えるよう招かれました。彼は1922年6月にワイマール校に着任した。

  • パブロ・ピカソ (マラガ1881年 ームージャン1973年)<br />「カップル」1967年<br /><br />二人の人物は裸体である。横向きに座った男性が、古典的な裸体ポーズで横たわり、片腕を上げて頭を支える女性と向き合っている。二人の体は中心点を囲むように絡み合っており、ピカソはそこにブドウの房を置いてエロティックな暗示を与えている。灰色と黄色の限られた色彩パレットが、絵画の背景と二人の人物の両方を定義している。<br />黒または黄色の輪郭線が、人物の簡略化された輪郭を際立たせている。ピカソは空白のキャンバスの白を利用し、解剖学的詳細を象徴に還元している。このカップルのテーマは、ピカソが生涯を通じてインスピレーションを受けた「画家とモデル」のテーマのバリエーションである。86歳になっても、このカタルーニャの巨匠は、キュビスムの要素と非常にジェスチャー的なスタイルを融合させた新しい言語を創造し続けていた。この最終期は、あらゆる技術的制約からの解放と、即興的で自発的な絵画様式への回帰の両方を示唆している。

    パブロ・ピカソ (マラガ1881年 ームージャン1973年)
    「カップル」1967年

    二人の人物は裸体である。横向きに座った男性が、古典的な裸体ポーズで横たわり、片腕を上げて頭を支える女性と向き合っている。二人の体は中心点を囲むように絡み合っており、ピカソはそこにブドウの房を置いてエロティックな暗示を与えている。灰色と黄色の限られた色彩パレットが、絵画の背景と二人の人物の両方を定義している。
    黒または黄色の輪郭線が、人物の簡略化された輪郭を際立たせている。ピカソは空白のキャンバスの白を利用し、解剖学的詳細を象徴に還元している。このカップルのテーマは、ピカソが生涯を通じてインスピレーションを受けた「画家とモデル」のテーマのバリエーションである。86歳になっても、このカタルーニャの巨匠は、キュビスムの要素と非常にジェスチャー的なスタイルを融合させた新しい言語を創造し続けていた。この最終期は、あらゆる技術的制約からの解放と、即興的で自発的な絵画様式への回帰の両方を示唆している。

  • パブロ・ピカソ (マラガ1881年 ームージャン1973年)<br />「杖をついて座る男」1971年<br /><br />膝を組み、両手を杖に置いた老人のこの肖像は、パブロ・ピカソの驚くべき速さの制作能力を物語っています。色彩は灰色、黄色、ピンクに限られています。ベストとズボンに使われている白は、キャンバスの未塗装の色です。太い黒線が、簡略化された顔と体の輪郭を縁取っています。師の一人への敬意を表して、ピカソはこの人物に、フィンセント・ファン・ゴッホがしばしば自身を描いた際に被せていた、戸外画家の麦わら帽子を被せています。絵を描くことへの切迫感から、ピカソは、ある部分では非常に流動的な絵具の滴りを、別の部分では厚く塗り重ねた絵具を積極的に用いました。自発性と自由な身振りは、彼の後期の作品の特徴です。彼がこの絵を描いたのは90歳の時で、しばしば自画像とみなされている。この作品は、画家が亡くなった1973年にアヴィニョンの教皇宮殿で展示された。

    パブロ・ピカソ (マラガ1881年 ームージャン1973年)
    「杖をついて座る男」1971年

    膝を組み、両手を杖に置いた老人のこの肖像は、パブロ・ピカソの驚くべき速さの制作能力を物語っています。色彩は灰色、黄色、ピンクに限られています。ベストとズボンに使われている白は、キャンバスの未塗装の色です。太い黒線が、簡略化された顔と体の輪郭を縁取っています。師の一人への敬意を表して、ピカソはこの人物に、フィンセント・ファン・ゴッホがしばしば自身を描いた際に被せていた、戸外画家の麦わら帽子を被せています。絵を描くことへの切迫感から、ピカソは、ある部分では非常に流動的な絵具の滴りを、別の部分では厚く塗り重ねた絵具を積極的に用いました。自発性と自由な身振りは、彼の後期の作品の特徴です。彼がこの絵を描いたのは90歳の時で、しばしば自画像とみなされている。この作品は、画家が亡くなった1973年にアヴィニョンの教皇宮殿で展示された。

  • ラウル・デュフィ (ル・アーブル1877年 ーフォルカルキエ1953年)<br />「9ル・アーブル港☆<br />1906年<br />油彩、キャンバス<br />ラウル・デュフィは1906年の夏、友人で画家のアルベール・マルケと共にノルマンディーで過ごしました。故郷ル・アーブルでは、革命記念日(バスティーユ・デー)に飾られた街並みを描いた作品を12点制作しました。彼は2階の寝室の窓から絵を描き、雨戸の縁を構図のフレームとして利用しました。港の景色は、三色旗の垂直線と工場や船の煙突の垂直線によって際立っています。デュフィは、わずかな筆致で港の雰囲気を捉え、色彩を描写的な役割ではなく、表現的な役割として用いています。<br /><br />1906年は彼の作品にとって転換点となる年でした。すでにアカデミックな訓練から解放されていたデュフィは、初期の作品に影響を与えていた印象派から離れ、色彩を基盤とした独自の絵画スタイルへと移行していきました。 1年前にサロン・ドートンヌで発表された、前衛画家のためのグループ「フォーヴィスム」に加わった。

    ラウル・デュフィ (ル・アーブル1877年 ーフォルカルキエ1953年)
    「9ル・アーブル港☆
    1906年
    油彩、キャンバス
    ラウル・デュフィは1906年の夏、友人で画家のアルベール・マルケと共にノルマンディーで過ごしました。故郷ル・アーブルでは、革命記念日(バスティーユ・デー)に飾られた街並みを描いた作品を12点制作しました。彼は2階の寝室の窓から絵を描き、雨戸の縁を構図のフレームとして利用しました。港の景色は、三色旗の垂直線と工場や船の煙突の垂直線によって際立っています。デュフィは、わずかな筆致で港の雰囲気を捉え、色彩を描写的な役割ではなく、表現的な役割として用いています。

    1906年は彼の作品にとって転換点となる年でした。すでにアカデミックな訓練から解放されていたデュフィは、初期の作品に影響を与えていた印象派から離れ、色彩を基盤とした独自の絵画スタイルへと移行していきました。 1年前にサロン・ドートンヌで発表された、前衛画家のためのグループ「フォーヴィスム」に加わった。

  • ラウル・デュフィ<br />(ル・アーブル877年 ーフォルカロイエ1953年)<br />「黒い貨物船、海水浴客、ビーチテント」<br /><br />貨物船がル・アーブル近郊のサント=アドレッセ港に入港する様子を描いた作品。この光景は、ラウル・デュフィが1945年から1952年にかけて制作した連作「黒い貨物船」の着想源となった。本作もその連作の一つである。2本の平行な桟橋と埠頭が空間を区切っている。前景には海水浴客とビーチ小屋が活気を与えている。遠景の右側には、街並みとその周辺が見える。デュフィは色彩と描画を完全に分離している。<br />背景は、縁が青、緑、黄土色で覆われ、中央には平坦な黒い長方形が描かれている。その上に、風景や人物が黒または色のついた素早い輪郭線で描かれている。貨物船のシルエットは、黒の厚みの中に刻み込まれている。空白のキャンバスの白さは、いくつかの箇所に現れる。色彩画家デュフィは1940年代後半に黒を発見したが、皮肉なことに、ここではまばゆい光を表現するために黒が用いられている。

    ラウル・デュフィ
    (ル・アーブル877年 ーフォルカロイエ1953年)
    「黒い貨物船、海水浴客、ビーチテント」

    貨物船がル・アーブル近郊のサント=アドレッセ港に入港する様子を描いた作品。この光景は、ラウル・デュフィが1945年から1952年にかけて制作した連作「黒い貨物船」の着想源となった。本作もその連作の一つである。2本の平行な桟橋と埠頭が空間を区切っている。前景には海水浴客とビーチ小屋が活気を与えている。遠景の右側には、街並みとその周辺が見える。デュフィは色彩と描画を完全に分離している。
    背景は、縁が青、緑、黄土色で覆われ、中央には平坦な黒い長方形が描かれている。その上に、風景や人物が黒または色のついた素早い輪郭線で描かれている。貨物船のシルエットは、黒の厚みの中に刻み込まれている。空白のキャンバスの白さは、いくつかの箇所に現れる。色彩画家デュフィは1940年代後半に黒を発見したが、皮肉なことに、ここではまばゆい光を表現するために黒が用いられている。

  • スザンヌ・ヴァラドン(マリー=クレメンティーヌ・ヴァラドンとして知られる) (ベッシーヌ=シュル=カルタンプ1865年 ー パリ1938年 )<br />『水浴する女たち』 1923年 <br /><br />この作品は、画家が好んで描いた主題の一つである女性の裸体像を再び取り上げたものです。絵画には、化粧をする女性たちの親密な場面が描かれています。ひざまずいた女性が、床に座り膝を抱えている女性の髪を梳かしています。ふくよかで理想化されていない曲線を持つ二人の女性の身体は、太い黒線で縁取られ、鑑賞者の視線に晒されています。<br />シンプルで日常的な、親しみのある仕草の描写は、花柄のカーテンと衝立の前に置かれた二枚の赤い絨毯という、入念に作り込まれた複雑な空間設定によって豊かに彩られています。緑がかった色調と青がかった色調が織りなす鮮やかさと躍動感は、ポール・セザンヌやフォーヴィスムの作品を彷彿とさせる、画家の大胆な絵画表現を明らかにしている。画家になる前はモデルだったシュザンヌ・ヴァラドンは、独学で絵を学んだ画家だった。エドガー・ドガの支援を受け、版画、そして絵画へと挑戦を重ね、同時代を代表する著名な画家となった。

    スザンヌ・ヴァラドン(マリー=クレメンティーヌ・ヴァラドンとして知られる) (ベッシーヌ=シュル=カルタンプ1865年 ー パリ1938年 )
    『水浴する女たち』 1923年

    この作品は、画家が好んで描いた主題の一つである女性の裸体像を再び取り上げたものです。絵画には、化粧をする女性たちの親密な場面が描かれています。ひざまずいた女性が、床に座り膝を抱えている女性の髪を梳かしています。ふくよかで理想化されていない曲線を持つ二人の女性の身体は、太い黒線で縁取られ、鑑賞者の視線に晒されています。
    シンプルで日常的な、親しみのある仕草の描写は、花柄のカーテンと衝立の前に置かれた二枚の赤い絨毯という、入念に作り込まれた複雑な空間設定によって豊かに彩られています。緑がかった色調と青がかった色調が織りなす鮮やかさと躍動感は、ポール・セザンヌやフォーヴィスムの作品を彷彿とさせる、画家の大胆な絵画表現を明らかにしている。画家になる前はモデルだったシュザンヌ・ヴァラドンは、独学で絵を学んだ画家だった。エドガー・ドガの支援を受け、版画、そして絵画へと挑戦を重ね、同時代を代表する著名な画家となった。

  • 美術館のカフェでひと休み。

    美術館のカフェでひと休み。

  • そうして公園を横切り、ホテルに戻り、荷物をピックアップした。

    そうして公園を横切り、ホテルに戻り、荷物をピックアップした。

  • 少し早めにバスで空港へ。<br />Gare de Nantes Sud 16:00   Aéroport Nantes 16:30

    少し早めにバスで空港へ。
    Gare de Nantes Sud 16:00 Aéroport Nantes 16:30

  • 何だかとっても混んでいた。<br />カフェはおろか、ゲートもぎゅうぎゅう詰め。

    何だかとっても混んでいた。
    カフェはおろか、ゲートもぎゅうぎゅう詰め。

  • Aéroport Nantes Atlantique 18:45  Aéroport de Paris-Charles de Gaulle 19:55 のはずが、だいぶ遅延。<br />メールでは19:15発と来たけれど、実際はもっと遅れたと思う。

    Aéroport Nantes Atlantique 18:45 Aéroport de Paris-Charles de Gaulle 19:55 のはずが、だいぶ遅延。
    メールでは19:15発と来たけれど、実際はもっと遅れたと思う。

  • 乗継に間に合うか少し心配したけれど、何とか間に合った。<br />Aéroport de Paris-Charles de Gaulle 23:00 羽田空港T3 19:40

    乗継に間に合うか少し心配したけれど、何とか間に合った。
    Aéroport de Paris-Charles de Gaulle 23:00 羽田空港T3 19:40

  • サッカーワールドカップのために早めに帰国したけれど、久し振りに見る富士山だった。

    サッカーワールドカップのために早めに帰国したけれど、久し振りに見る富士山だった。

  • 番外編。<br />結局、色々自分へのお土産買ってしまいました(((^_^;)<br /><br />長めのフランス旅にお付き合いくだいました皆様、ご覧いただき、ありがとうございました。

    番外編。
    結局、色々自分へのお土産買ってしまいました(((^_^;)

    長めのフランス旅にお付き合いくだいました皆様、ご覧いただき、ありがとうございました。

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