2025/09/26 - 2025/09/26
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ポポポさん
この旅行記スケジュールを元に
防府市の維新関連施設として今回は幕末長州藩の海軍局が置かれた三田尻御船蔵跡、7代藩主毛利重就が隠居所として改築した三田尻御茶屋(三田尻御殿)、野村望東尼の終焉の地を訪ねてみた。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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まず幕末長州藩の海軍局が置かれた三田尻御船蔵跡を訪れた。
江戸時代初期、三田尻(防府市)には毛利水軍の根拠地として御船蔵が置かれていた。
ここには藩主の御座船や軍船が配備されてたが、世が平和になると主に藩主の参勤交代用として使用されるようになった。
萩藩主の参勤交代は萩城を出立すると、萩から三田尻(現在のb防府市)まで江戸時代に参勤交代用に整備された萩往還という街道を歩いていった。
三田尻では三田尻御茶屋に一泊し、翌日は旅装を整えて御船蔵の御座船に乗船して瀬戸内海を船で大阪まで進み、大阪に上陸した後は行列を組んで陸路を江戸まで進んで行った。
御船蔵は船が係留されていただけではなく、船の建造や修理ができる設備を整えていた。所謂ドック機能を備えていたのである。
御船蔵の周囲には水軍の将校(船役人など)や船頭・船大工など関係者の住宅の町割りが計画的になされ、軍港・商業港として発展していった。
しかし元禄時代以降周囲の干拓が進むと御船蔵の周囲は陸地となり、御船倉と瀬戸内海は一本の水路で結ばれるようになった。明治維新後は御船蔵が廃止されて大部分が埋め立てられたため、現在では僅かに通堀と水路を残すのみとなった。三田尻御舟倉跡 名所・史跡
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幕末参勤交代が中止になると御船蔵は参勤交代の役目を終えて、長州軍の海軍局となる。
海軍局には海軍学校(軍艦教授所)が設立されて長州海軍の要員教育が行われた。
長州藩初代海軍総督には楫取素彦(大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公杉文(吉田松陰の実妹)の2番目の夫である)の実兄松島剛蔵が就任し、丙辰丸の艦長となる。
松島剛蔵は藩医の息子。若くして江戸遊学し帰藩後は世子毛利元徳の侍医となる。
長州藩の医学所好生館に西洋学所が開設されると師範役となる。その後長崎海軍伝習書でオランダ人から航海術を学び、帰藩後に海軍学校を海軍局に設立した。
吉田松陰や松陰門下生との親交が深く、「正義派」の一員として国事にも尽くした。
久坂玄瑞や高杉晋作らと御楯組を結成、イギリス公使館焼き討ちに参加する。
下関戦争(下関攘夷戦争)では三田尻海軍局頭取として長州海軍を指揮。庚申丸の船長としてアメリカ商戦を砲撃、続いてフランス軍艦及びオランダ軍艦に砲撃を加えた。
フランス軍艦もオランダ軍艦も敗走したので長州藩は勝利に沸き立ったが、アメリカ軍艦ワイオミング号の猛烈な砲撃を受けて、僚艦癸亥丸・壬戌丸と共に大破した。
その後 松島は船員を率いて陸上戦で戦うも負傷。
禁門の変後政権を奪取した保守派(俗論党)により野山獄に投獄されたが、高杉晋作の功山寺挙兵の報が萩に伝わると、処刑された。
功山寺挙兵で新地会所を制圧した高杉は18人の決死隊を編成し、三田尻海軍局にある軍艦3隻の奪取を図った。1艦あて6人の決死隊は各艦の艦長の説得に成功し、高杉は無血で海軍局を制圧した。
この時海軍局は俗論党の支配下にあったとはいえ、各艦の艦長や乗組員は元々松島剛蔵の配下で、海軍学校で松島の薫陶を受けた者達であった。
彼らは時局柄俗論党の支配下に組み込まざるを得なかったが、各々の心根は松島剛蔵と同じだったのだろう。
この奪った軍艦3隻が四境戦争(第二次長州征伐)で大活躍することになる。三田尻御舟倉跡 名所・史跡
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三田尻御船蔵で唯一残った通堀(かよいぼり)。
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三田尻御船蔵跡の説明。
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三田尻御船蔵跡の説明。
長年天日に晒されたため、文字等の印刷が劣化していて読み難い。
説明文の下の図は三田尻御船蔵の指図。その右の図は現在の地図に嘉永4年の指図を重ね、御船蔵の大まかな位置を示したものである。 -
萩往還の石碑
萩往還は萩市の札場と三田尻御茶屋を結ぶ参勤交代の道として整備された江戸時代の街道である。
御船蔵は藩主が参勤交代の船旅に出発す場所であり、当然御茶屋から御船蔵までの道も整備された。
私の私見では萩往還は藩主の参勤交代の道として整備された街道であるならば、三田尻御船蔵までを萩往還としてもおかしくはないのではなかろうかと思う。 -
萩往還の説明。
右は説明文で左は萩往行程図。
この地図では高低差が分からないが、萩往還は急な山道を登り下りする過酷な道であった。 -
行程図をアップにした。
まず下の三田尻から北の萩市に向かうと難所がいくつかある。南の三田尻(現在の防府市)はまだ平坦な場所だが現在の山口市と防府市の境にある勝坂峠が最初の難所。勾配が急な坂道を上らないといけないのだ。
話は飛ぶが室町時代後期、逆臣陶晴賢の謀反で滅亡した大内義隆に「陶晴賢謀反、先鋒は約3000人、若山城を発し山口に向かう」の第一報が届いた。その時幾多の重臣は「彼も3000我らも兵も3000、直ちに兵を発し勝坂峠で守るべし」との進言を大内義隆にした。
勝坂峠は当時は峻険な峠道で峠の隣の右田岳には右田城を配しており、この稜線は東から来る敵に対して西の都山口を守る防衛線だった。
しかし大内義隆は動こうとしなかったと言う。大内義隆は陶晴賢に絶対的な信頼を置いていたのだ。謀反の知らせに対して、陶が歯向かうはずがないと一笑の下に握りつぶしたと言う。
部下を信じすぎるあまりに手を打つ時期を失してしまい、謀反軍は勝坂峠を越えて山口になだれ込み栄華を誇った西国の覇者大内氏は滅亡した。
話がそれたが、次の難所が山口を過ぎて中国山地を越えて続く山道。萩の手前の明木に至るまで延々と続く山中には今も萩往還が往時のまま残されているが、かなり険しい山道である。
この道を大名行列を仕立てて通っていたことを想像すると当時の苦労が偲ばれる。 -
萩往還の説明。
この説明文も劣化して文面が読み難いがこれと同じものが三田尻御茶屋にもある。そちらの説明文の方が読み易いので、そちらの説明文に目を通してもらいたい。 -
ここは三田尻御茶屋である。
御茶屋とは藩主が参勤交代や領国の巡察などの際に逗留したり、他藩からの来賓を接待するために設けられた施設で藩の公館である。この経費は全て藩費で賄われた。
山陽道や萩往還などの主要街道沿いに設置され、萩往還では三田尻、山口、佐々並の3か所に置かれていた。
ここは三田尻御茶屋の入口門である。現在では内部が一般公開されているが、以前は中には入れなかった。
公開されたのは平成23年になってからだと記憶している。三田尻御茶屋 名所・史跡
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三田尻御茶屋旧構内の説明文。
三田尻御茶屋は萩往還関連遺跡として国指定史跡である。国の史跡に指定されたのは平成元年(1989年)の事。
三田尻御茶屋は承応3年(1654年)萩藩2代藩主毛利綱弘が設置した。
天明3年(1783年)7代藩主毛利重就の隠居所として三田尻御茶屋の改築工事が完成し、以後「三田尻御殿」と呼ばれる。
寛政元年(1789年)毛利重就が亡くなると、翌年以降「三田尻御殿」の名称は廃止され、建物の多くが解体された。
嘉永4年(1851年)13代藩主毛利敬親により大規模な改修がおこなわれ、現在の形になる。
明治3年(1870年)三田尻御茶屋が毛利元昭(毛利敬親の世子毛利元徳の長男。維新後毛利の拠点を防府市三田尻御茶屋に移した。)の居住地となる。毛利元昭は防府市多々良に毛利御殿(毛利邸)を新築し、生涯のほとんどを防府市で過ごした。
昭和14年に御茶屋は防府市に寄贈され、名称が毛利重就の法名より「英雲荘」と命名された。
なお藩政時代に山口県内に造られた御茶屋で現在も残っているのは三田尻御茶屋だけである。 -
英霊荘(三田尻御茶屋)の敷地内には広大な駐車場が完備されているので、車で観光する人にはとても便利だと思う。
私が訪れた時は庭師が剪定作業中だった。 -
車で来た人は駐車場側の通用口から入場できる。
徒歩で観光する方は表門から入場されたい。写真は邸内から見た表門。 -
建物の入り口の横には萩往還の終着地である三田尻御茶屋と萩往還の説明板がある。
御船蔵跡にも同じ説明があったが、こちらの説明板の方が文字ははっきりしていて読み易い。 -
萩往還行程図のアップ。
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ビュースポットやまぐちの説明パネルもあった。
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英霊荘(三田尻御茶屋)入口。
英霊荘の観覧時間は9時半から16時半まで。入場は16時までである。
観覧料は大人310円、小中学生150円。休館日は毎週月曜日と年末年始。
英雲荘を訪れた時観光客は私一人だけだった。チケット売り場には防府市文化振興課の嘱託職員として郷土史家の方が常駐されていて、この方から詳しい説明を受ける事ができた。三田尻御茶屋 名所・史跡
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チケット売り場の向かいの部屋で郷土史家の方から英雲荘を大改修した萩藩7代藩主毛利重就の略歴と業績、三田尻御殿を建てた経緯、現在の英雲荘(三田尻御殿)の説明があった。
いわば導入部として基礎知識の説明を受けたのだ。
私も歴史に興味があって英雲荘を訪れている訳で、毛利重就については他の人よりは知識があると思っている。
しかし英雲荘の事は知らなかったので、とても勉強になった。
前回の旅行記で大楽寺という寺を訪れた時に、寺の境内に重就の分骨廟があったので彼の業績に触れたが、今一度おさらいの意味も含めて簡単に彼の業績を紹介したい。
毛利重就は萩藩の支藩である長府藩の10男として生まれる。兄が次々に他界したため長府藩主となる。
さらに本家の萩藩主が早逝し世継ぎが無かったことから萩本家の家督を相続した。
重就が萩藩主となった時には萩藩は赤字に転落しており、財政の立て直しを求められた。
彼が設置したのが現在の特別会計にあたる撫育方。新たな検地により4万石の収入を得るとこれを撫育方とし、港の整備や塩田開発を行った。瀬戸内沿いの海岸沿いに多くの塩田を開発しその費用を撫育方で賄った。
世に防長三白政策と言われるのが重就が行った殖産興業である。米・塩・蝋の三白の内、塩と蝋を藩の専売とし生産を奨励。後に和紙を加えて防長四白政策とも言う。
しかし和紙も藩の専売としたため、農民は蝋や和紙を安く藩に買いたたかれた為、現金収入が減少して生活が苦しくなり、後の防長天保大一揆の要因となった。
一方撫育方の制度は毎年定額の金を積み立てていったので、幕末にはトーマス・グラバーから新式銃や西洋軍艦を購入する資金となり、四境戦争(第二次長州征伐)や戊辰戦争を有利に戦うことができた。
また塩田の跡地は大企業の工業用地となったので、防府市の発展に大いに寄与した。
写真は毛利重就の肖像画。 -
英雲荘の全景の航空写真(昭和41年)
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大正時代の英霊荘。
写真の大観楼棟の屋根は瓦葺である。文献によれば瓦葺になったのは明治7年の事、それ以前は檜皮葺だったので保存修理工事では2階と1階南側の屋根が檜皮葺に復元された。 -
昭和44年頃の英霊荘
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天明年間最盛期の三田尻御殿の縮尺模型。南側に庭がある現在の英雲荘と同じ配置である。
透明のプラスチックケースの上に現在の英雲荘とあるのが今の敷地である。
この写真では現在の広さが分かり難いが、真上から見下ろせば判別できる。
現在の広さは天明時代のおおよそ3/5程度である。
江戸時代の建物がそのまま残っているのは、写真中央に屋根が無い建物のみである。
この部分は大観楼棟と言い、2階に眺望の良い大広間大観楼がある。1階は書院が続く。 -
三田尻御殿を西側から見た写真。
敷地手前の左から三棟並びの建物は側室の居住棟である。重就には三人の側室がおり、側室を平等に扱うために建物も公平に建てたと言われている。
三人の側室棟とその後ろの建物全て、南側の庭の並びにある入口東側の建物も今は無い。 -
大観楼棟西側には明治時代に増築された書院(奥座敷)があり、大観楼棟の左側(北側)には大正時代初期に建てられた台所と女中部屋がある。
入口の玄関棟も大正時代初期に建てられた建物。南向きであった玄関を東向きに変えて、来客者の宿泊用に客室が6室ある。 -
東側から見た三田尻御殿。天明時代には南向きの玄関棟があった。
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同じ造りの側室棟が三棟。
現在の英雲荘と比較すると天明時代の三田尻御殿は巨大なお屋敷に思えるが、重就はこの建物と庭を造るにあたっていくらの藩費を使ったのであろうか?
郷土史家に訪ねたが詳しいことは分からないらしい。つまりいくら使ったか記録が残っていないらしいのだ。
当然巨費を投じて作られた御殿であろうが、庶民や農民の暮らしは苦しくなりばかリであったろうから、彼らの怨嗟の声が高まるのは容易に推測できる。
この御殿は重就が他界すると次の藩主以下歴代藩主によって解体され、小規模な御茶屋に変更された。
これは農民らの怨嗟の声を敏感に感じ取った藩主が、怨嗟の矛先を買えるために取った手段だったのかもしれない。 -
毛利重就の年表。
確かに宝暦の改革を断行し、殖産興業や撫育方等の創設で幕末期の長州藩を支える大きな役割を果たしたが、一方では専売制により農民の現金収入を奪ったこと等で農民の疲弊を増大させ、百姓一揆が頻発する事態を招いたことはマイナス点として残った。 -
天明時代以前の三田尻御茶屋の指図。
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天明年間毛利重就が改築した三田尻御殿。
天明以前の建物と比べるとはるかに大規模な御殿に変わっている。 -
天保13年頃の指図。
三棟の側室棟を始め大観楼棟北側の書院や中庭、主だった建物がすっかり無くなっている。 -
嘉永4年になると北側の建物が無くなり、さらに規模が縮小されている。
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明治3年三田尻御茶屋が毛利元昭の居住地(三田尻別邸)と定められた時にはまだ奥座敷棟も玄関棟も無く、最も質素な造りの建物に変貌していた。
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郷土史家の方から英雲荘の説明を聞いたので、英雲荘の各部屋を巡ってみよう。
この部屋は玄関棟の客室。来客者の宿泊を考慮した造りとなっていた。三田尻御茶屋 名所・史跡
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玄関棟奥の間。
この部屋も玄関棟の客室である。 -
大観楼棟の杉戸。
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大観楼棟1階の大書院。
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大観楼棟1階の書院。
襖を取り払えば大広間として使用できる英雲荘で最も広い大書院。三田尻御茶屋 名所・史跡
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床の間は書院造りで毛利重就公の肖像画の掛け軸が掛けてあった。
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毛利重就公の肖像画。
英雲荘の概略説明を受けた部屋にも毛利重就公のモノクロ写真の肖像画があったが、この肖像画をモノクロ写真で写した物であろう。 -
隣接する部屋には男女の平安装束があった。
これらの衣装は無料で試着できる。平安貴族の体験ができるようにと県立防府商工高校情報処理科の生徒が製作した平安装束である。 -
大書院の透かし欄間。
大観楼棟の欄間は凝った意匠の欄間ではなく、至ってシンプルな意匠の欄間が多かった。 -
大書院の床の間側から見た大書院と中庭の様子。
三田尻御茶屋 名所・史跡
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大観楼棟の杉戸。
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大書院の奥に大観楼に上がる階段があった。
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大観楼棟の階段を上がり切ると、そこに見えたのは・・・。
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そこには周囲の明かりを取り込む解放感あふれる大広間があった。
とても広い大広間に感動した。
手前の間は10畳敷き、奥の間は12畳半の二間続きの大広間に、左右の障子は出窓式のガラス戸なのでさらに広く感じた。 -
大観楼の大広間
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大観楼の2階入り口。
大広間の欄間も透かし彫りの欄間だった。 -
大観楼の2階入り口側の様子。
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大観楼の扁額は三条実美の筆である。
七卿落ちの時にここに滞在していたので、その時に書いたものと思われる。 -
大観楼扁額の隣に掛けてある軸は招賢閣相図(複製)
招賢閣相見図は三条ら都落ちした七卿に面談し意見を交わす勤王の志士たちを描いた絵である。
遠くから写真を写したので作者が誰かは判別できない。
招賢閣は三田尻御茶屋の敷地の北側に建てられた建物で現在は存在しない。
八月十八日の政変で京都を追われた勤王公家7人(七卿落ち)は長州に落ち延び、三田尻御茶屋に2か月滞在した。その間藩主毛利敬親や久坂玄瑞、高杉晋作らと面会した。
御茶屋にあった招賢閣は三条らの会議場所となり、多くの志士たちが立ち寄った。
しかし、禁門の変で長州が敗退してからは会合が禁止されて使用されなくなり、明治維新後に解体された。 -
大観楼から眺めた庭園。
庭園は英雲荘の南側に造られた本格的日本庭園だった。
但し毛利元昭が防府市多々良の毛利邸に造った毛利庭園に比べると規模・質共に劣るのは如何ともしがたい。
元昭が造った毛利庭園は2万5千坪の広大な敷地に明治・大正時代の技術の粋を集めた壮大で華麗な庭園だからである。
写真部分は天明時代の三田尻御殿で南向きの玄関棟があった場所である。 -
大観楼から眺めた池泉回遊式日本庭園。
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築山と灯篭部分のアップ。
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大観楼の北側は中庭を囲むように女中部屋や台所の建物が見える。
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この建物は敷地の一番北にある蔵。
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御茶屋の庭で使用されている庭石の一覧。
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ガラス戸越しに見える庭園の景色。
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御茶屋の日本庭園。
築山と灯篭そして回遊式の池は伝統的な日本庭園の様式。 -
私的にはこの景色が一番気に入っていたのであろう。
この場所の写真ばかり写していた。 -
大観楼棟の説明文
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東側の玄関棟。
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大観楼から見た庭園の風景。
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上の風景を少しアップにした。
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またまた同じ庭の景色。
よほどこの景色が良かったのだろうか、無意識に庭のこの景色を何枚も写真に撮っていた。 -
大観楼の階段を下りて奥座敷棟を見てみよう。
奥座敷棟は二間続きの部屋で一畳幅の畳の通路があり、和室を囲むように板間の廊下があった。
奥座敷棟は明治31年に移築され、大観楼棟に繋げられた。元々明治時代に単独で敷地の西にあった建物を明治31年に移築したものである。 -
奥座敷棟手前の間と一畳幅の畳の通路(廊下)。
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奥座敷棟奥の間。
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奥座敷の二間を囲むように造られた板張りの廊下。
今回の旅行記はここまで。次は英雲荘の庭園と茶室、防府市内に残る萩往還の道、そして野村望東尼終焉の宅です。
防府編は次回で終了しますのでご訪問お待ちしています。
今回も訪問下さり有り難うございました。
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