2025/03/25 - 2025/03/25
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ポポポさん
この旅行記スケジュールを元に
元治元年(1864年)7月12日、蛤御門の変(禁門の変)で惨敗した長州藩は朝敵の汚名を着せられしまい、藩政を幕府に恭順を唱える保守派(俗論党)が牛耳ることになった。
そのため長州藩内では粛清の嵐がふきすさぶ事になった。長州藩の執政として革新派の旗頭であった周布政之助は俗論党から謹慎を命じられたため、切腹させられる事を覚悟し、自ら自決を選択したのであった。
一方山口藩庁(山口城)に務めていた井上馨(井上聞多)は藩庁で行われた午前会議の帰り道に俗論党の刺客数名に襲われ、なますのように切り刻まれ瀕死の重傷を負った。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
本日の目的地は幕末長州の執政周布政之助の顕彰碑と墓である。。
ここは市内の史跡でも場所が分かり難く、周囲に駐車場がないことから今まで一度も訪れたことが無い。
地図はあるものの周囲が住宅地になっているため場所が分からない。そのためグーグルマップを頼りに歩いて行った。
顕彰碑のある場所は公園になっているようで、旧街道の石州街道沿いであることが分かった。
ここは石州街道大曲と言う場所。山口市小郡を起点とする石州街道は真っすぐに旧市街に入って来るが、現在の幸町と周布町の境から北東に向かって大きく弧を描いで曲がっている。
石州街道は旧国道9号線であった。そのため石州街道は真っすぐな一本道だと思っていたが、大曲と言う場所で曲がっていることを歩いてみて初めて知った。 -
大曲の石州街道の両脇には水路が流れていた。
上矢原の高岡から湯田との境にある下市橋まで大きく北に道が曲がった部分。昔蛇行した椹野川に沿って街道が付けられた名乗りである。
写した箇所は直線の道のように見えるが写真の先では大きく左に曲がっている。 -
ここは山口市周布町、石州街道沿いに周布公園があった。
この公園にあるのが周布政之助の顕彰碑である。
公園は駐車場が無く、ここの場所が住宅地の一角にある事から道路があちこち交差していて非常に分かり難い場所だった。 -
「嗚呼長藩柱石周布政之助君碑」。
昭和6年(1931年)に建てられた顕彰碑である。揮毫は公爵毛利元昭(幕末の藩主毛利敬親の孫)。
周布政之助は幕末の長州藩の舵取りを担った実質的な指導者、執政である。村田清風の改革を引き継ぎ財政改革や兵制改革なども藩政改革を行ったが保守派の反発を買い失脚。
安政5年(1858年)に要職に復帰して藩政の主導権を握ったが、時は激動の時代、先に見えない状況下で現実的な対応と吉田松陰や久坂玄瑞などの過激な理想論との板挟みの中で藩の舵取りを一手に担ってきた。
周布政之助の功績をあげると
1 財政再建、殖産興業、人財登用など様々な改革を行った
2 軍備強化 西洋兵学の知識に長けた村田像六(後の大村益次郎)を登用した。
陸海軍の指揮官を養成する「博習堂」の基礎作りを命じた
若い藩士を長崎に派遣して洋学を学ばせた
3 若い志士を育成した 優秀な若い人材(桂小五郎や久坂玄瑞など松下村塾塾 生)を積極的に登用して支援した
高杉晋作の江戸遊学や上海渡航を実現したのも周布政之助の尽力による
4 長州ファイブ 5人の長州藩士のイギリス密航留学を極秘に行った。攘夷を国
是としている長州が留学生を外国に送るなどあってはならない事だった
当時は長州藩内には過激な攘夷派や脱藩した攘夷派浪士、土佐勤皇党の攘夷派
浪士らがうようよいたのである。
長州が下関海峡で攘夷を決行したのが文久3年(1863年)5月10日の事。
そのわずか2日後に5人は密かに日本を離れたのである。この密航計画には村田
蔵六(大村益次郎)も加担していた。
密航した5人の長州藩士とは井上馨(28歳、外交の父)遠藤謹助(27歳、造
幣の父)、山尾庸三26歳、工業の父)伊藤博文(22歳、内閣の父)井上勝(2
2歳、鉄道の父)である。このうち山尾庸三は盲唖教育の父でもある。
このような事が長州藩内にしれれば間違いなく周布政之助は狂信的な攘夷論者 に暗殺されたことだろう。このような事も承知の上で行く末を考えて洋行させたのである。各人は帰国後日本の近代化の発展に大きく寄与した。
周布政之助の先見の明と肝の太さには驚かされる。
幕末の激動の時代、長州藩では革新派と保守派(俗論党)により政権交代が繰り返されていた。
文久3年(1863年)8月18日、尊王攘夷派のリーダーだった長州藩が政変により京都から追放されると(8月18日の政変)、長州藩では無実を晴らすべく世子毛利定広の上洛を決定し出兵論が沸騰、周布政之助は藩首脳で唯一人反対を貫き桂小五郎や高杉晋作と鎮撫に奔走した。
急進派の筆頭は遊撃隊総督の来嶋又兵衛と攘夷の急先鋒である久留米の神官で久留米藩士真木和泉であり、それに同調したのは他国から長州にやって来た攘夷派の浪士達だった。
久坂玄瑞は長州藩尊王攘夷派の旗頭であったが武力進発は時期尚早とみていた。他の松下村塾出身者も同様の考えで急進派の説得に当たっていたが、この時京都から驚愕の情報が届けられた。
その内容は京都の池田屋で松下村塾四天王の一人吉田稔麿が新選組に切り殺されたと言うことだった。
この報に急進派はいきり立ったが、真実は違っていた。吉田稔麿を死に追いやったのは事もあろうに桂小五郎であった。
吉田稔麿は池田屋で新選組に襲われて切られ重傷を負うが、京都長州藩邸まで逃げて帰った。しかし藩邸の門が閉まっていたので、吉田稔麿と名を名乗り開門と治療を要求したが一向に門が開かない。
一方藩邸内では門番や藩士たちと桂小五郎が口論していた。藩士たちは吉田稔麿を迎え入れて早く手手当をしてやりたい。
桂は「吉田を藩邸に入れれば此度の一件、背後には長州藩がいると感づかれる。ひいては藩公にも災いが及ぶことになる。それだけは何としても防がねばならぬ。吉田もバカな男ではない、頑なに拒否し続ければ彼は彼なりに自分の始末をつけるであろう」と言い、頑として吉田稔麿の救助しようとはしなかった。
門番は、吉田が悲痛な思いで助けを呼べど、目に涙をためながらも門を開けなかったそうである。
結局吉田稔麿は長州藩邸の門の前で腹を掻き切って亡くなった。この事は桂から緘口令が敷かれた為吉田松陰門下生にはその事実が知られることは無かった。
吉田稔麿は師吉田松陰に最も愛された門下生だった。後年他の門下生から松陰門下で最も優秀な人物、彼が生きていれば彼こそが最初の総理大臣になったであろうと言われている。
それほど貴重な逸材を桂小五郎の一言で失った。 -
話がそれるが桂小五郎は逃げの小五郎と言われ、長州藩の重要な局面では逃げ回っていた男である。
上場志向が強く、松陰門下生が頼りになる兄貴と慕っても、彼らを踏み台にしてのし上がった男である。自己顕示欲が強く自分の地位を脅かす相手、自分の地位が不利になるような相手に対しては徹底的に弾圧して自己の地位を守ることに専念した。
特に松陰門下の志士や旧知の人物に対しても容赦はしなかった。明治2年長州藩で勃発した脱退騒動や、松下村塾門下生との確執で敵対した萩の乱などはその良い例である。
萩の乱では前原一誠(佐世弥十郎)や奥平謙輔、玉木文之進など多くの松下村塾門下生や吉田松陰の親族と対立している。
維新三傑と呼ばれる西郷隆盛や大久保利通と比較してもその度量は小さい。
話がそれたので元に戻す。
池田屋事件で吉田稔麿が殺された衝撃は大きく、急進派はもはや暴発寸前であった。
周布は高杉晋作を藩士説得のため派遣するが口論になり失敗。高杉はその足で京都に向かったが、藩の許可を得ずに向かったため脱藩とみなされ、国元に呼び戻されて野山獄に入れられた。
高杉を野山獄に入れたのは周布の考えがあっての事。彼は後に松陰門下四天王の内あばれ牛と呼ばれた高杉一人だけでも助ける事が出来たと語っている。
周布は後事を高杉に託すと伝えるために野山獄を訪れたが、その時の訪れ方が尋常では無かった。泥酔して馬に乗り抜刀して高杉を訪れたのだ。
馬に乗ったまま牢内に入り高杉を見つけると格子の隙間に刀の切っ先を向けて「志を捨てて獄に逃げる臆病者の首を切って冥途の土産にしようとここに来た。」そうすると晋作は「逃げちゃおりません。命などは惜しくはないです。」
と答えた。すると周布は「ならば証明せえ!。まもなく訪れる長州藩滅亡の危機を救ってみせえ!晋作、この長州を救えるのはもうお前しかいない。救ってくれ!さらばだ、達者で暮らせ。」
そう言うと周布は馬蹄を響かせて立ち去って行ったそうだ。
無言で涙を流した晋作は日記にこう書き残している。
「国の為に家が潰れても家などは軽いものだ。世間が僕を狂生と呼んでも構わない。しかし、友人の中には義を忘れない者がいた。昨日獄の門まで来て門の前で僕の名を呼んだ。」と。
周布は酒気を帯びて高杉を見舞ったことで逼塞処分となり失脚した。
周布は逼塞処分、高杉は牢獄で身動きが取れず、逃げの桂小五郎は姿を消して行方知れずとなり、歯止めをかける者が居なくなった。
久坂玄瑞ら松下村塾門下生は武力進発は愚策であり、有力公家にとりなしを願うのが上策として説得を試みるが、来嶋又兵衛もや真木和泉は全く聞き耳を持たなかった。
そうこうする内に三田尻湊(防府市)から来嶋又兵衛が進発。これを見た各諸隊も遅れじと次々に進発し、長州は一丸狂となって京都に向かった。
久坂や入江九一、寺島忠三郎らは武力進発は愚策であると度々説得するも叶わず、ついに諸隊は暴発したのである。
京都を囲むように3方面に布陣した長州軍は世子毛利定広が率いる本隊が到着して時を同じくして攻めかかる手はずであったのに、本隊の到着が遅い。
業を煮やしたのが来嶋又兵衛と浪士組、久坂が懸命に制止するも来嶋又兵衛が先駆けしまたもや暴発。ついに禁門の変が始まる。
来嶋又兵衛の遊撃隊が会津・桑名を相手に押しに押していたが、西郷隆盛率いる薩摩軍の銃砲隊が到着すると側面から来嶋が指揮する遊撃隊に打ちかけた。
来嶋は薩摩の銃隊に狙撃されて落馬、会えなく戦死する。指揮官を失った遊撃隊は浮足立って敗走。他の二か所の長州軍も負けが込み長州軍が大敗した。
この戦いで久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎、有吉熊次郎ら将来を嘱望された松陰門下の逸材を失い、長州は計り知れない損失を被った。
禁門の変の翌日には第一次長州征伐が決定、さらに四か国連合艦隊の下関砲撃、前田砲台が占領されるなど藩内は大混乱に陥った。
周布が失脚してから政権は保守派(俗論党)に移り、血の粛清が始まった。
禁門の変の首謀者として3家老は徳山支藩に謹慎お預けされ後に切腹。4参謀は野山獄に入れられ後に処刑された。
出兵に反対した周布政之助は無罪とは言いながら謹慎を命ぜられ、吉敷郡矢原の大庄屋吉富藤兵衛(吉富簡一)の離れに軟禁された。
元治元年(1864年)9月25日、この日午前会議で武備恭順を訴えた井上聞多は、その帰り俗論党の刺客に襲われた。全身なますのように切り刻まれて瀕死の重傷を負ったとの知らせが周布正之助に届けられた。
周布政之助が吉富家の離れの庭で自刃したのは翌日の9月26日夜、享年42歳(満41歳)だった。
残された遺書は2通、1通は家族へそしてもう1通の遺書には「罪を問われて逼塞となり、大切な時に政務に参画できず長州藩の京都進発を阻止できなかった自分に責任がある」として、その責任を一身に受けて自刃したと言われている。
この日吉富藤兵衛が妻に「これから井上聞多宅に様子を見に行く。周布様の様子がいつもと少し違うのでくれぐれも周布様から目を離さぬように」と伝えて出て行ったが、その予感が的中した。
周布は自分が失脚してから政治の実権を保守派(俗論党)に握られると、出兵に反対していたので罪はないと言われても謹慎を命ぜられ軟禁状態の状況下、井上聞多(井上馨)が俗論党の刃に罹って瀕死の重傷を負ったと聞いては、自分の命も風前の灯と感じたのではなかろうか。
いずれにしても長州藩としては惜しい人材を失った。
写真は顕彰碑の下に罹れた碑文である。現代人には読みにくいので現代語訳があった。 -
顕彰碑の現代語訳
顕彰碑であり周布政之助の功績が書かれている。確かに長州藩の柱石として激動多難な時期の長州のかじ取りを行って来たことは評価に値すると思う。
周布政之助には評価されるべき点が多いが、反面好ましくない事もあった。酒癖が悪かったのである。
野山獄にいる高杉を酔って激励に訪れたのもその一つだが、酔ってしくじった話がまだある。
それはこの後説明したい。 -
周布政之助の碑の説明板。
-
周布政之助の碑の隣に墓がある。
周布政之助の墓なのになぜ麻田公輔の墓?とお思いだろうがこの説明文を読むとその訳が分かる。 -
文字が見にくいので説明文を大きくしてみた。
周布政之助は酒癖が悪く、酔って土佐藩主山内容堂に暴言を吐き、謹慎処分となった。
この時山内容堂は藩主毛利元徳に対して周布政之助の死罪を迫った。萩藩は、周布は死亡したとして事を収め、名前を「麻田公輔」と改名させて江戸藩邸での勤務を続けさせたのである。
説明文に寄れば周布政之助は国元に帰国謹慎とし、実は「麻田公輔」と変名させ引き続き政務に当たらせたとされている。
実はどちらが正しいのかはっきりしないが、死亡したとする説の方が多い。 -
周布庭園の隣の墓地には吉敷郡矢原村の大庄屋吉富家の墓地があり、その一角に吉富藤兵衛(吉富簡一)の墓があった。
吉富藤兵衛は豪農で矢原の大庄屋、内訌戦では諸隊を助け自らが鴻城隊と言う諸隊を結成し、俗論党の監視下にあった井上聞多を奪還し総督に迎えた。 -
吉富藤兵衛は明治になって簡一と改名した。
そのため墓石は吉富簡一の名であった。 -
吉富家累代の墓。
周囲の墓は全て吉富家の墓だった。この墓地はまるで吉富家一族の墓地のようだった。 -
この墓も、あの墓も吉富家。
流石は矢原の大庄屋、一般の家とは格が違う。 -
周布政之助の墓。墓石名は変名の「麻田公輔」。
この墓地は石州街道のすぐそばにある墓地。墓は遺言通り南向きに立てられていた。
「儂の屍を公道(石州街道)の傍らに南面して埋めよ!敵来たらば靈がしっ咤して退けん!」周布政之助の遺言である。凄まじい気概と志を感じさせる言葉である。
そして遺言の通り石州街道の脇に南向きに埋められたのである。山口から南は小郡、石州街道の起点がある町である。
周布政之助は幕府軍が攻め上る時。必ずこの地から石州街道を北上してくると予想していたのである。 -
石州街道。街道右に周布公園がある。
ここから石州街道大曲沿いに歩いて吉富藤兵衛の旧宅を訪れてみたい。 -
大曲を抜けた石州街道沿いに大歳(矢原地区)の歴史遺産の案内地図があった。
今回の散策で大変役に立った地図だった。
実はスマホで検索しても吉富藤兵衛旧宅の場所が分からなかったのだ。 -
ここから吉富邸の大まかな場所が分かったのはありがたかった。
地図上では吉富邸の大まかな場所しか表示されておらず道の表示は無かったが、消防聞機庫から真っすぐ北に向かう道があるはずだと予想を付けて歩いて行くと、予想通りの道があった。
その道を北に進んで行くと道の先に吉富邸があった。 -
もう一か所、林勇蔵の生誕地が表示されているのはありがたかった。
-
吉敷郡下中郷の大庄屋、林勇蔵の生誕地。
林勇蔵は文化10年(1813年)この地で生まれた。父は山田和吉といい、酒造場をしていた。
この和吉の父が矢原の大庄屋吉富藤兵衛である。したがって勇蔵は藤兵衛の孫にあたる。
今は家が建て替わって造り酒屋の面影は無いが、勇蔵は14歳の時に吉敷郡仁保津村の林文左衛門の養子になった。
林家も小郡宰判中下郷の庄屋であった。 -
ここは矢原の大庄屋吉富藤兵衛の屋敷である。
訪れたのが夕刻だったので逆光になり、あまりいい出来の写真ではない。
旧宅は大庄屋に相応しい大邸宅だった。
現在は吉富家の子孫が居住しているため、邸宅の中には入れない。
旧家は主屋しか残っていないらしい。内部の庭園は明治になって整備されたそうだ。 -
印象的だったのはこの煉瓦塀。
旧宅の説明文によれば、この煉瓦塀も明治になって造られたらしい。 -
水路に沿って延々と煉瓦塀が続いていた。
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煉瓦塀の格子窓から見た吉富邸の日本庭園の一部。
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大庄屋であるため格式の高い入口門があった。
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邸宅の入り口に説明板があった。
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説明文は主に吉富藤兵衛(簡一)の略歴だった。
小郡の大庄屋林勇蔵と吉富藤兵衛は親戚で豪農、幕末の長州では正義派の諸隊を支え、維新の陰の立役者となった。 -
入り口左には日本庭園があったが、この庭園は明治期に造られたものらしい。
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こちらが母屋。母屋も一部改造されているそうな。
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吉富邸を後にして再び石州街道の大曲を歩き湯田方面に向かった。
石州街道は大曲が終わり下市橋を過ぎると直線の街道に変わる。 -
ここは直線になった旧石州街道。
以前はこの道が国道9号線で市バスが走っていた。今は国道9号線や県道が渋滞している時の回避ルートになっている。
この道を湯田から山口旧市内に進んで行くと、道の脇にある石碑が建っている。 -
これがその石碑。私の旅行記「西国一の守護大名大内氏」の中でご紹介した袖解橋の近くにこの石碑はある。
井上馨遭難の地 名所・史跡
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石碑には「井上馨侯遭難の途地」とある。
ここは石碑文字の通り井上馨が保守派(俗論党)の刺客によりなます切りに切り刻まれた場所である。
元治元年(1864年)9月25日、第一次長州征伐で討伐軍が長州に迫る中、山口藩庁で御前会議が開かれた。幕府に恭順すべしとする俗論党が主導権を握る中、井上聞多は武備恭順を強く主張した。
俗論党から危険視された井上は、その夜湯田に帰る途中袖解橋の近くで俗論党の刺客4人に襲われ、なますのように切り刻まれ瀕死の重傷を負った。
襲われた時、祇園一の美貌を誇った勤王芸者の中西君尾からもらった手鏡を懐に忍ばせていたため、致命傷を負わずに済んだそうだ。
瀕死の井上は近くの農夫によって自宅に運ばれ兄に介錯を頼んだが、母は血だらけの井上をかき抱き介錯を思いとどませると共に、蘭方医所幾太郎をすぐに呼びに行かせた。
母は「聞多死んでいかん。死んではいかん。聞多目をさませ」と励まし続けたと言う。
すぐに駆け付けた所幾太郎は井上の様態を見て驚いた。先に二人の藩医が呼ばれたがなす術がない。幾太郎も慌てて駆けつけたので手元に手術道具がない
何かないかと目を凝らして探していると畳針が目にとまった。もうこれしかない、これでやるしかないのだ。
所幾太郎は大阪適塾の出身で外科医。畳針を焼酎で消毒し手術がはじまった。
手術方法は薄めた焼酎で傷口を洗い畳針で縫合していく。井上の母勝は井上の手を握り、しっかりしろと励ます。
刀傷は背中と頭部に深手を追っていた。畳針で縫うこと50数か所、全身に包帯を巻いて手術は終わった。
手術時間は約4時間、6か所の大きな傷を縫い合わせた。麻酔なしの手術である。
よくもこの大手術に麻酔なしで堪え切れたかと不思議に思うが、井上は殆ど知覚を失い、さほど苦痛を感じなかったという。そして所幾太郎の外科技術も大したもの。よくぞ畳針1本のみでやり遂げたと賞賛したい。
所は相当の施術を持った外科医だったのだろう。出血多量の井上だったが、幾太郎の治療と母の看護のかいあって奇跡的に一命をとりとめた。井上馨遭難の地 名所・史跡
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井上馨、遭難の地の説明。
こちらは簡潔、私の方は長ったらしい文章になってしまった。
次は所幾太郎の墓にお参りに行きましょう。
私がどうしても行きたかったのが所幾太郎の墓所。今でこそナビが有ったり、グーグルマップがあるから場所が分かるようになったが、一昔前ならとてもたどり着けなかったのでは無いかと思う。 -
さてナビやマップがあっても所幾太郎の墓所は分かり難くかった。
まず所幾太郎の墓所では場所がヒットしない。
写真の六地蔵でしかヒットしないのだ。でもこの六地蔵が所幾太郎の墓所に行く重要なポイントになっていたのだ。 -
これは六地蔵様の説明
-
この六地蔵様にたどり着けば地元の人が建てた矢印の案内板があるので、矢印の方向に歩いて行けば墓所にたどり着ける。
ナビやマップを検索してもこの六地蔵様の場所しか出てこないが、ここからは地元の人が立てた矢印の方向に進んで行けば所幾太郎の墓所に行ける。 -
ここからは矢印に沿って歩いた。
場所まで上り坂なので結構きつい。 -
坂道を上り詰めて一番奥の場所にあったのが所幾太郎の墓所だった。
墓石の後ろに所幾太郎について説明が書かれている。
所幾太郎は岐阜県の人。大阪の医術を適塾で医術を学び勤王の志が厚かった所幾太郎は長州藩邸の近くで開業。藩士と親交を深め、桂小五郎の推挙で長州藩医院総督となる。
そして8月18日の政変で七卿落ちに随伴して長州に下り、正式に長州藩士として遊撃隊参謀兼医院総長となる。他藩出身の新規採用者としては異例の大抜擢だった。
高杉晋作の功山寺挙兵以降、遊撃隊の参謀だった所幾太郎は大田・絵堂の戦いで高杉を助けて転戦した。
その後四境戦争(第二次長州征伐)前に遊撃隊の軍監となった所幾太郎は山口市吉敷に本陣を構えたが、元治2年3月12日陣中で腸チフスにかかり享年28歳で亡くなった。
所幾太郎は高杉晋作と親交が深く、訃報を聞き馬を飛ばしてやって来た晋作は人目をはばからず、畳をかきむしって号泣したと言う。 -
所幾太郎の墓である。
なかなか来ることができなかった所幾太郎の墓にやっと来ることができた。
万感の思いでお参りしました。
所幾太郎無くしては井上馨は無かったと思う。しかも所幾太郎は自分の使命が終わったかのように28歳の若さで亡くなっている。
所幾太郎は井上馨を助けるためにこの世に生まれて来たのではなかろうか。
まるで前世で二人は約束していたかのように思われて仕方がない。 -
所幾太郎の略歴等説明文。
今回はこれで終わりです。次回もあまり知られていないが功績のあった人をご紹介したいと思います。
訪問下さり有り難うございました。
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