2025/04/09 - 2025/04/09
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ポポポさん
この旅行記のスケジュール
2025/04/09
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呑水垰の戦い
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赤坂堤
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赤坂堤の土手で萩政府軍と諸隊が激突
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小中山から南園隊が萩政府軍を銃撃する
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赤村の戦い
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萩政府軍の本陣、正岸寺
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美祢宰判勘場跡
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諸隊本陣・病院の光明寺
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旧官修墓地
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福田寺
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奇兵隊本陣、地蔵院
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この旅行記スケジュールを元に
1月10日、長登の戦い、大木津・川上口の激戦で勝利を収めた諸隊は続く呑水垰の戦い、赤村の戦いで勝利を収め、正義派(革新派)が決定的な勝利を収めた。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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1月14日呑水垰の激戦
朝6時頃萩政府軍は荻野隊を先頭に約500名が長登口から攻め寄せた。
守備していた膺懲隊40名は応戦したものの7時頃から退却を始め、10時頃には呑水垰を守備していた八幡隊(堀真五郎外約60名)と合流し、赤坂堤の土手を盾にして防戦した。
膺懲隊の赤川隊長は覆面頭巾高木履傘で指揮して政府軍を怒らせたと言う。
堀隊長は槍の名手で陣頭指揮していたが、槍を撃ち落とされた。両隊が苦戦しているのを見かねて垰の麓を守備していた南園隊の佐々木男也達30名が12時ごろ小中山に登り高所から政府軍を射撃した。
また大木津口を守備していた奇兵隊一番小隊第二銃隊湯浅祥之助隊長、鳥尾小弥太らが糸谷から上がって側面を攻撃した。
これにより荻野隊・撰鋒隊の陣形は乱れ、折からの雨で萩政府軍の火縄銃が役に立たなくなって、15時頃萩政府軍は総崩れとなり赤村まで敗走した。 -
R490沿いの呑水垰激戦地の表示板。
戦闘はこの表示板の向かい側の山中や堤で行われた。 -
呑水垰の大田絵堂戦跡記念碑
大田 絵堂戦跡記念碑 名所・史跡
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呑水垰の戦いの経過等の説明板。
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道路を上がりきった所が呑水垰。
この一帯が激戦地で諸隊が防戦した赤坂堤の土手や小中山は写真の右奥にある。
写真左奥には大田絵堂戦跡記念碑及び呑水垰の戦いの説明板があった。
なおここには車両2台が駐車できる駐車スペースがあるので、ここに駐車して赤坂堤などの戦跡を見に行くことができる。 -
この写真は垰の下から昇って赤坂堤を訪ねた時の写真。
右前方の山が小中山。この山に南園隊が登り、高所から萩政府軍を射撃した。 -
呑水垰に向かう道路から右に折れて進むと赤坂堤と堤の土手がある。
写真左の堤が赤坂堤。そして正面轍の後がある場所が堤の土手。
正面の山が小中山である。
鷹懲隊と八幡隊はこの土手に身を伏せて堤の向こう側から射撃する萩政府軍と渡り合ったが、諸隊は兵員が少ないため雨あられと降り注ぐ弾丸に身動きができず、彼らは劣勢を強いられた。 -
ここが赤坂堤。萩政府軍は堤の奥に陣取り、手前の堤に伏せている諸隊に向かって雨あられと鉄砲を撃ちかけた。
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赤坂堤の土手。
土手の斜面に身を伏せて膺懲・八幡の2隊が応戦した。
萩政府軍の射撃は苛烈で身動きできなかったと言われている。 -
膺懲隊と八幡隊が萩政府軍を引き付けている間に南園隊は小中山へ登って高所から、奇兵隊銃隊は大木津口から大きく迂回して萩政府軍の側面から攻撃を加えた。
さらに折からの雨で火縄銃が使えなくなり、萩政府軍は総崩れとなって赤村に退却した。 -
1月16日、大田絵堂の戦い最終戦、赤村の戦い。
呑水垰の戦いに敗れた萩政府軍は赤村に撤退し、正岸寺に本陣を構え、寺の一帯に駐屯していた。
一方諸隊は下関に駐屯していた長州最強の遊撃隊を高杉晋作が率いて赤間関街道を進軍し、1月14日大田に向かう途中で秋吉台下で萩政府軍の別働隊児玉若狭軍1200名と遭遇。銃撃戦となった。
児玉軍は長門三隅から長躯秋吉に出て背後から諸隊の本陣大田を急襲するつもりだったのかもしれないが、遊撃隊に蹴散らされてしまった。
1月15日、高杉晋作率いる遊撃隊約300名は大田に到着。新たに参戦した遊撃隊を中心に1月16日16時に大田を出発した。
写真は萩政府軍の本陣、正岸寺の山門。正岸寺は浄土真宗、開創は天文19年(1550年)、大内義隆公が長門湯本の大寧時寺で自陣の折、家臣桑羽蔵人も討死した。その子正隆が18歳で仏門に入り、一有と号して草庵を建てた。その後現在地に移転したのが正岸寺である。 -
1月16日、18時頃に諸隊は絵堂から赤村の出口に当たる松原・横野垰・立石の3か所から政府軍の本陣正岸寺を夜襲した。
大手からは松明をかざして遊撃隊と奇兵隊、搦手からは暗夜の中を遊撃隊と八幡隊が攻撃した。
戦闘は約1時間行われ、政府軍は敗走し決定的な敗北となった。
17日には遊撃隊と秋吉台下で遭遇した政府軍の別動隊児玉若狭軍も三隅村まで陣を引いた。
写真は赤村の戦いが行われたであろうと推測される場所。 -
正岸寺の本堂。
寺の境内には赤村の戦いで戦死した萩政府軍荻野隊の隊士の墓があるので探してみよう。 -
正岸寺の本堂。
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荻野隊士の墓は案内板があったのですぐに分かった。
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隊士の名前は堀越松三郎、墓は寺の境内にあった。
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堀越松三郎の墓である。寺の境内にあるので手厚く墓守されているのであろう。
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1月16日の戦いをもって大田・絵堂戦いは諸隊の勝利に終わった。
高杉晋作はこの勢いで明木の本陣を攻撃し、萩に進軍することを主張したが、山縣有朋は道中の山峡が険しく兵も疲れているので一旦山口へ陣を移して根拠地を固める案を主張し、諸隊の幹部もこの案の賛同した。
この時から高杉は急速に諸隊の求心力を失っていく。これは諸隊や諸隊の幹部が萩政府軍を自力で破ったことで自信を深めていたからである。
さらに功山寺挙兵で高杉は諸隊を説得するため「自分は毛利三百年来の家臣である」と強調した。
諸隊の幹部や兵は足軽や農工商身分の出身者であり、このような説得では諸隊の理解を得ることはできなかった。
一方高杉は自分の決起に賛同せず、勝手に戦端を開き、明木進撃にも反対した諸隊に不安感を持っていた。
毛利家家臣を自認する高杉は非常時はやむを得ないとしても、なるべく封建制度を回復し、上の者に下の者が従う体制を取り戻すことが望ましいと考えていた。
これには諸隊が従う訳は無く、高杉は諸隊を御しきれなくなっていたのである。
山口方面では1月17日に鴻城隊が山口の入り口にあたる佐々波で萩政府軍を破った。
1月19日20時、諸隊は大田から根拠地である山口へ転陣した。
1月21日、山口に諸隊会議所を設置。山口の出入り口を諸隊の兵が警備した。
一方萩城下では16日から保守派に対抗して鎮静会議員(杉孫七郎・杉民治(吉田松陰の実兄)ら70名)が動き出し清末藩主(下関市清末にある支藩)毛利元純が内乱収拾の命を受けて鎮静に動きだした。
26日、明木の萩政府軍が萩に撤退し、諸隊が明木まで進軍した。
28日、諸隊側の軍艦を萩城城外の海上に進出させ、空砲を発砲させ示威運動をおこなった。
30日、城内は騒然となり藩主敬親父子は俗論党の主だった者を罷免し、俗論党の罷免と藩政改革を行う用意があることを諸隊に伝えた。これにより諸隊は進軍を止めた。
この間長府・清末支藩藩主両名が藩主敬親や重臣一同と会議を行い、諸隊への追討令の廃止、諸隊の建白書を受け入れ国内を統一することを申し入れ、敬親父子はこれを受け入れた
2月9日鎮静派議員4名が山口の諸隊を訪れ、今後の方針や対応等を協議した。
2月11日鎮静派議員は萩絵の帰路、俗論党により明木で暗殺された。俗論党はこれらは正義派が行ったことだと喧伝したので、激怒した諸隊は14日萩に進軍した。
萩城に入場すると野山獄にとらわれていた正義派を解放、俗論党の椋梨藤太ら12名は萩城下を脱出したが石州(島根県)で捉えられた。
2月22日から24日にかけて藩主敬親公は祖霊社臨時祭を執行して騒乱の責任を先祖の霊に謝罪し、維新の政治を敷くことを誓った。
2月27日藩主敬親公は萩を出立、絵堂の戦場を巡察し、大田では民衆の労苦を慰めて28日に山口に入場した。
ここに置いて再び革新政権となった長州藩は3月23日藩論を「武備恭順」に統一することを藩主が公言した。
「武備恭順」とは表向きは幕府に従う素振りを見せるが、その実は武力倒幕をすると言う事である。
関が原で中国12か国から2か国に厳封された恨みを藩主が自ら晴らす決意を防長二州に知らしめたのである。
大田・絵堂の戦いでは山口市南部や大田・絵堂の住民や農民が藩に反抗した諸隊を積極的に支援した。
諸隊には多くの農民など住民が入隊を希望して殺到、1200人の農夫らが諸隊の為に無償で米などの物資を行い、豪農や豪商、地主は兵糧や多額の金銭を積極的に寄付した。
維新後この戦いに参加した山縣有朋や品川弥次郎らは、これら豪商・庄屋・農民らの支援なしには大田・絵堂戦役を戦えなかっただろうと述懐している。
ちなみに小郡宰判17カ村(現在の山口市南部地域、宇部市の東部の一部、防府市の一部地域)では庄屋の主導で農兵隊や諸隊が次々に誕生し、藩都山口の防備についたのである。
ちなみに大田・絵堂戦役時に小郡宰判内で所有していたミニエー銃(ライフル銃)は320丁だったが四境戦争(第二次長州征伐)~戊辰戦争初期には840丁に及んだと言われている。
これらの新式銃は全て宰判内の資金や農民等からの寄付で賄っており、藩の資金は全く使用されていない。
逆に言えば小郡宰判は裕福な地域だったとも言える。 -
さて諸隊の本陣が置かれた大田には大田・絵堂戦役関連施設が残されている。そのいくつかを訪ねてみた。
訪れたのは写真の大田小学校。 -
小学校は美祢宰判の勘場(代官所)が置かれた所。
いわば美祢地区の中心となった場所である。明治になってからは郡役所が置かれているので美祢地区の行政の中心地であった。
ここには郷校「温故堂」も置かれていた。詳しくは下の説明板を見て頂きたい。 -
勘場(代官所)・温故堂の説明板。
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諸隊の本陣と病院になった光明寺。
光明寺は浄土真宗の寺。文明3年(1471)に開創。開祖は恵門、俗名は高橋光明で安芸国高田郡吉田の豪族の子。8世教如上人に仕え、後に諸国行脚と途上大田村の大野益吉にこわれ一宇を建立した。
大田絵堂戦役の初めには光明寺に本陣が置かれたが、後に金麗社に本陣が移った。 -
光明寺本堂。
境内はかなりの広さ。この広さ故に本陣に選ばれたのであろう。 -
境内にある羽仁敬斎の墓
羽仁敬斎は幕末大田新町で雩山塾を主宰し、門人は遠近数百人といわれていた。
墓は弟子たちが建てたもの。明治4年息子の槇村正直に請われて京都に移住した。
ちなみに槇村直正は羽仁の二男として生まれ槇村家の養子となる。
明治新政府では京都府行政に携わり2代目の県知事となる。開明的革新的試みが多く、近代京都の生みの親と呼ばれている。 -
光明寺のすぐ横にあるのが旧官修墳墓。
大田絵堂戦役で亡くなった17名の墓である。17名の内訳は奇兵隊士9名、八幡隊士2名、南園隊士4名、遊撃隊士2名である。
天神垰、?水垰、奥田に埋葬された墓を明治36年11月にまとめて官修墓地とした。 -
官修墓地。
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官修墓地。
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官修墓地である。
現在は地元の文化財愛護少年団や地域の人達によって清掃が行われている。 -
光明寺の墓地にある大野家累代の墓
大野家は大田の旧家で代々大庄屋を務ていた。子孫に松野礀(まつのはざま)がいる。
松野は北白川宮のドイツ留学に随行して森林学を学ぶ。帰国後内務省に所属して林野曲を立ち上げ、国有林の造林や山林協会の創設など日本の林業振興の基礎を築いた。
林業の父と呼ばれる。 -
八幡隊の本陣福田寺。
浄土真宗の寺で開創は明暦元年(1655年)。大内氏の家臣田中三左衛門が故あって仏門に入り、綾木に草庵を建てたが、後年綾木明林寺門徒を分譲されて大田に寺を建立した。 -
福田寺の山門。訪れた時は門前の桜が満開だった。
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福田寺本堂。
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地蔵院。奇兵隊の本陣で大砲等の置き場所となった。
臨済宗の寺で開創は永禄11年(1568年)、山口常栄寺所領の地に大照国司師を開山として創建された。
本堂裏の庭園は町指定名勝になっている。 -
地蔵院の山門。山門左にはイチョウの大木があった。
紅葉のシーズンになれば遠くからでも美しい黄色のイチョウが見れる事だろう。 -
地蔵院の本堂。写真には写していないが山門をくぐって左に題し動画あった。
本堂裏には町指定名勝の庭があるとのことなので、見に行くことにした。 -
地蔵院の庭園の説明板。
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自然の岩を利用して策定した庭園。
夕方近くのため西日が強く光が反射したので庭の様子が分かり難い写真となってしまった。 -
地蔵院の庭園。
長州の明治維新発祥の地ともいわれる大田・絵堂の戦跡地を見て回ったが、長州ではこの戦いがその後の長州藩の帰趨を決める戦いとなった。
次回からは山口の維新の史跡、小郡宰判の大庄屋や庄屋たちに触れながら旅行記を進めて行きたい、
訪問下さり有り難うございました。
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