2025/04/05 - 2025/04/05
255位(同エリア523件中)
ポポポさん
この旅行記のスケジュール
2025/04/05
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館内にある林勇蔵の展示物
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林勇蔵が成した主な事業
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林勇蔵の生家
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林勇蔵旧宅
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林勇蔵坐像
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椎ノ木峠トンネルの用水路
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椎ノ木峠トンネル
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小郡勘場跡
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東津橋
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津出蔵跡
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椹野川
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椹野川改修工事竣工記念碑
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海善寺
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海善寺官修墳墓
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この旅行記スケジュールを元に
小郡宰判大庄屋林勇三は数ある維新の小説等に登場したことは無いがこの人物がいなかったら、長州藩の維新は成功しなかっただろう。
元治2年(1865年)1月7日、御楯隊の御堀耕助、山田顕義、品川弥次郎、野村靖らが50名の兵士を連れて突如として小郡勘場(代官所)を取り囲み、代官市川文作に軍資金を要求した。
大田・絵堂の戦いの成否はこの要求の如何にかかっていたのである。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ここは山口市小郡にある小郡文化資料館。
林勇蔵は山口市小郡上郷の大庄屋として幕末から明治初期にかけて地元の小郡町、及び山口市南部地域に影響力を持ち、多大な貢献をした人物である。
今回の旅行記を書くに当たって、まずここで資料の調査を行う事とした。山口市小郡文化資料館 美術館・博物館
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もう何十年も前の話、林勇蔵氏に興味を持ちこの文化資料館を訪れた事がある。
林勇蔵については母や祖父から聞いた事があるが、勇蔵氏の人生については詳しくは知らなかった。
当時文化会館の2階には「林勇蔵日誌」を始めいくつもの蔵書があったので、彼の業績の大まかなことはここで調べる事が出来た。
今回旅行記を書くために、もっと詳しく調べたいと思いここを訪れたのだ。山口市小郡文化資料館 美術館・博物館
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2階に上がると林勇蔵翁の略歴がまず目に入った。
文化10年(1813年)吉敷郡矢原村(山口市大歳矢原)の造り酒屋山田酒造の四男として生まれる。
14歳の時に吉敷郡小郡仁保津林家に養子に入る。
17歳 小郡勘場(代官所)見習加勢役となる
29歳 上中郷庄屋
43歳 小郡宰判大庄屋となる
52歳 再び小郡宰判大庄屋となる。この時内訌戦(大田・絵堂の戦い)で諸隊を支援。小郡宰判17カ村の庄屋と小郡庄屋同盟を結成して諸隊を全面的に支援した。
この支援は兵糧の供給や武器購入のための軍資金を村民が供出した。さらに農兵隊や諸隊の設立も相次いだ。
この支援は四境戦争(第二次長州征伐)から戊辰戦争にまで及んだと言う。
62歳 椹野川改修工事にかかる共同会社の副頭取となる
87歳 没 -
幕末期小郡宰判地図
小郡宰判には、現在の山口市の南部と防府市、宇部市の一部が入っている。 -
地図の右端にある台道村と切畑村は現在防府市、左端下の井関村と岐波村は現在宇部市である。
幕末の長州藩において小郡宰判は最も米の収穫量が多かった地区で、宰判内の賀川村(現在は嘉川)には毛利公の巨大な米蔵(現在嘉川小学校がある場所)があった。
この藩の米蔵(車寄せがある屋形風の大きな建物であった。)は明治5年8月の学生発布により嘉川尋常小学校の校舎となり、昭和初期に取り壊されて新しい木造校舎が建てられたため、現在その姿は無い。
この地区は椹野川の水運を利用して山口湾に停泊する千石船に米を積み込み、瀬戸内海を航行して大阪の堂島に運ばれた。
皆さんはご存じないだろうが幕末最も高値で取引されたのが長州米であった。
長州藩は薩長同盟が成立する以前に薩摩の名義でトーマス・グラバーから大量の武器を購入している。その時桂小五郎が西郷隆盛に武器購入のお礼に薩摩藩は何を望まれるかと聞いた事がある。
その答えは長州米が欲しいと言うことだった。確かに薩摩は米の取れ高が少ないため「イモ侍」と呼ばれていた。幕末の京都薩摩藩邸には全国から各藩の侍が訪れていた。その為に大量の米がいるのは理解できるが、わざわざ長州米でなくてもどこの米でも大阪なら手に入るはず。
何故長州の米こだわったのか、その理由が若い頃の私には勉強不足で分からなかった。
西郷にしてみれば堂島で評判の長州米は高くてそうそう手は出せない。ただで手に入るのであればこれほど喜ばしいことは無い・・・と言った所だったのであろう。 -
林勇蔵翁銅像復元除幕式(昭和46年)
元の銅像は国道9号線沿いに立像として建っていたが、太平洋戦争時に物資供給の為銅像は供出された。
昭和46年にこの地に復元されたが立像では無く座像となった。
台座は元のままだそうだ。 -
林勇蔵が成した主な事業
その1は新田開発。
小郡宰判内を北から南に流れて山口湾にそそぐ椹野川は大変な暴れ川で度々災害に見舞われ、その度に周囲の田畑や民家は水害で大被害を受けた。
その救済に当たったのが林勇蔵である。
彼は水害の被害を受けないで済むよう山の段丘上に新田を作る計画をたて、山腹をくり抜き、用水路(椎の木峠トンネル)を通して10町歩の新田を開発した。 -
2、諸隊の支援
大田・絵堂の戦いの旅行記ですでに説明した諸隊の支援をおこなった。
小郡勘場(代官所)が諸隊の兵に取り囲まれ軍資金を要求された際には軍資金を貸し出し諸隊の支援を決断した。
翌日宰判内の庄屋や有力者28名を集めて小郡庄屋同盟を結成。宰判全体で諸隊を支援することを決定し、全住民にその旨を伝えた。
直ちに戦場に農兵隊2小隊と人夫1200名を派遣し食料の補給をおこなった。
ここに小郡宰判は諸隊の一大食料補給地(兵站)となったのである。
大田・絵堂の戦いは諸隊にとって兵力では政府軍は約3倍、兵糧や運資金も十分な状態では無かった。
もし、この時林勇蔵ら小郡宰判の庄屋や農民達庶民が諸隊に味方していなければ諸隊は勝てたかどうかは分からないのである。
後年、高官となった山縣有朋や品川弥二郎らは「明治維新は大田絵堂の戦いにあり、大田絵堂の戦勝は小郡宰判の協力にあり、小郡宰判の協力は即ち林勇像翁にあり」と言い、小郡宰判の支援をたたえている。 -
3、地租改正事業
明治新政府は全区に先駆けて従来の税を米の収穫高から土地の地価に対して現金で支払う税制改革(地租改正)の調査を行うむね通達してきた
その際の税は藩政時代の四公六民から五公五民に改悪すると言ってきた。
勇蔵はこれでは農民が生きていけないと徹底的に反対した。
そして、いままでの政府案に対し土地の価値や自然環境、収穫量を加味した画期的な新税務制度を考案して農民を守った。
さらに米商人から農民が安く米を買い叩かれることを防ぐために、半官半民の「防長共同会社」を立ち上げ副頭取や頭取を務めた。 -
4、椹野川改修工事
椹野川は江戸時代に何度も氾濫し、大災害を起こした暴れ川であった。この川の改修工事が林勇蔵の悲願であった。
明治になると、かつて支援した諸隊の隊士たちは明治政府の高官となっていた。
彼ら高官に椹野川改修工事の必要性を説き、彼らの協力や国の支援を得てついに悲願の改修工事が開始された。
椹野川は七曲りと言われる蛇行した場所や、支流がS字で蛇行しながら直角に流入する難所があった。
これらの改修工事が行われると水害被害は激減し、椹野川下流域では豊かな恵みをもたらすようになった。 -
林勇蔵は文化10年(1813年)7月16日、吉敷郡矢原村(現在の山口市大歳矢原)に生まれた。
生家は代々酒造場を営む山田家で父は山田和作と言う。山田和作は矢原村の大庄屋で豪農の吉富藤兵衛の二男で、山田家に養子に入っていた。故に勇蔵は吉富藤兵衛の孫である。
当時吉富藤兵衛の後を継いだのは和吉の兄の吉富惣右衛門、その子の吉富藤兵衛(後の吉富簡一)とは従兄弟同士であった。
写真は林勇蔵の生家。以前は造り酒屋であったが、当時の建物は撮り請われ、現在は新しく建物が建て替えられたため昔の面影は無い。 -
そしてこちらは林勇蔵の旧家。山口市小郡町仁保津にある。
この家の特徴は石垣。
林家の石垣は結晶片岩と呼ばれる扁平な石で、綾織状の組み合わせは独特の重厚感と美しさがある。
石は熱してカイロの代わりにするほど硬く、温石(おんじゃく)とも呼ばれる。 -
林家の本宅。
写真正面の建物が主屋。丸い生垣の所に見える瓦屋根のたてものは入口門。
主屋の右に建っているコンクリート造り2階建平屋根の建物は子孫が建てたものだと思われる。
現在もここには林家の子孫が居住しているので、屋敷内に入ることはできない。 -
かなり広い敷地で、その上に数個の建物が建っているようだ。
主屋は幕末に藩主毛利敬親公が訪れており、その当時の庭には籠置きの石が残されていると聞く。
桂小五郎や山縣有朋、品川弥次郎らも幕末から維新後明治初年に訪れており、彼らの墨蹟が残されている。 -
林勇蔵旧宅。
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主屋部分をズームしてみた。
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さらに主屋をズーム。
白壁入口門前には庭があり、主屋前の中庭にも立派な庭があって、当時の大庄屋の格式が良く残されている。
山口市大歳矢原の大庄屋である吉富簡一旧宅も当時の大庄屋の格式が色濃く残された屋敷であったが一部増改築されており、幕末当時ままの大庄屋の屋敷が残されているのは市内ではここ林家のみらしい。 -
ここは林家の中庭である。庭の木々から本格的日本庭園らしいことが推測される。
住居の近くに林勇蔵翁の胸像があるので訪れてみよう。 -
県立山口農業高校に向かう坂道を上って行くと小郡上郷児童館入口に林勇蔵翁の案内板がある。
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案内文が分かり難いのでズームにしてみた。
林勇蔵翁の坐像は矢印の方向にある。
場所は小郡上郷児童館の裏である。 -
林勇蔵翁座像。小郡宰判の大庄屋で明治維新と日本近代化の先駆者として知られる。
当初は国道9号線沿いに立像が建てられたが、戦時中軍部に供出されたため昭和46年に復元された。
但し復元された銅像は坐像である。勇蔵翁が向いている先は、自らが苦労して改修した椹野川の方向と言われている。 -
勇蔵翁の坐像の横に2つの祠が並んでいる。
右は稲荷大明神で左は賽の神・道祖神である。昔は椎ノ木峠トンネルに近い山中にあって三方からの小道の接点に置かれていたが、昭和46年に林勇蔵翁座像が復元された際に当地に移された。 -
さらに勇蔵翁座像の傍らにあるのが「孝子・太郎吉の碑」。
この碑は明治2年(1869年)に林勇蔵らによって建立された。
太郎吉は幼少より良く父母に仕え、病床であった弟や妹の養育に献身した。父の死後は一層農業に励み、一生独身で過ごしたと言う。
万延元年(1860年)81歳で亡くなった。 -
「従六位林勇蔵翁銅像建設記」
林勇蔵翁の顕彰碑である。 -
県立山口農業高校のグラウンドの側に林勇蔵が開通させた用水路椎ノ木トンネルが残っている。
この用水用トンネルの説明文。
林家がある小郡上郷仁保津地区は近くを流れる椹野川が反乱する度に洪水の被害を受けていた。そのため洪水の被害を受けない段丘上の山野や畑に水を引き、水田にしようと若き庄屋林勇蔵が用水トンネルを掘ることを決断し、椎ノ木峠トンネルの掘削が開始された。
山の中腹に穴をあける灌漑用のトンネル工事は非常に硬い結晶片岩の地層にぶち当たるという予想以上の難工事であった。
それまで一日あたり36㎝の進行だったものが、硬い岩盤に突き当たってからは一日僅か6ミリほどしか進まなくなった。
それまでは小野田有帆炭鉱の鉱夫を使用していたがこれを止め、藩に働きかけて蔵目喜(ぞうめき)銅山の堀師を連れて来て、タガネによる掘削を始めた。
彼らは結晶片岩よりももっと硬い鉱脈を掘削しており、その経験と技術によって着工してから5か月半でついにトンネルを貫通することができた。
長い坑道に吹き抜け用の穴を尺八のように沢山開けることから「尺八工法」と呼ばれる技術が使われている。
トンネルの上流には3か所の貯水池が設けられ、その結果段丘上に10町歩(10hR)の新田が出来上がった。
これにより仁保津地区の農民は椹野川の氾濫を気にすることなく耕作ができるようになったのである。 -
椎ノ木峠トンネルの用水路は当時のまま残っており、今でも用水が流れている。
写真右の水路が椎ノ木トンネルの用水路である。
用水路に沿って奥に進んでみよう。 -
用水路は山腹のかなり奥から続いているようだ。
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用水路は直線では無く地形に沿ってかなり蛇行している。
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用水路の奥にトンネルらしきものが見えてきた。
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ここが椎ノ木峠トンネルの入り口。
トンネルの出口周囲は四角い石で補強されていた。今でもトンネル内から水が流れている。
訪れた時は農閑期で、上流の堤の栓が閉じられているためであろうが流れる水は少なかった。
文久3年(1863年)に藩主毛利敬親公が直接林家を訪れ現地を視察している。その記念碑が椎ノ木峠の頂上に建っているそうだが登り口が分からず、訪ねるのは断念した。 -
椎ノ木峠トンネルの入り口。
トンネルの内部は真っ暗で内部の様子は分からない。 -
ストロボを発光させて写した内部の写真。
坑道内は掘削した岩盤がむき出しのままになっていた。明かりがあれば内部に入れるが、坑道の高さが低いため中腰のまま進まないといけない。
これは体力的にかなりきつそうな感じがする。今回の目的は冒険ではないため、トンネルが確認できれば目的は達成できたので引き返した。 -
ここは小郡勘場(代官所)跡。林勇蔵が諸隊支援を行った最初の場所である。
元治2年1月7日現在の美祢市絵堂で大田・絵堂の戦いが始まった。同日ここ小郡勘場を諸隊の御楯隊の大田市之助(後の御堀耕助)、山田顕義、品川弥次郎、野村靖らが兵士50名で取り囲み、代官市川文作に軍資金の用立てを求めた。
旅行記大田・絵堂の戦いですでに述べているのでそちらを参照して頂きたいが、かいつまんで説明しておきたい。
当時藩政府は諸隊を援助することを厳しく禁じていた。わらじや豆腐を売っても、米や金を貸しても厳罰に処するというお触れが出されていたので、代官は当然この要求を拒否した。
庄屋や会計方が呼ばれたが、誰も回答できず夜になった。代官は大庄屋の林勇蔵を呼べということで勇蔵が勘場にやって来た。
代官から諸隊に貸す金があるかと問われると、「公金は支払い済みでありませんが、私的な銀35貫目ならあります。」と回答し、この時林勇蔵は資金全てを投げ出し、諸隊を支援して勝たせよう。そうして庶民が豊かになる新しい社会を作ろう。失敗したら私一人が責任をとればいい。」と腹をくくったそうだ。
勇蔵は御楯隊の幹部を自宅に案内して、その場で藩札銀35貫目を渡したのである。
当時のレートで銀1貫は1000匁、およそ金1両が銀60匁だったので現在の価格に直すと約7000万円という大金だった。
翌1月8日、小郡宰判内の庄屋や主だった者を勘場(代官所)に集め、野村靖立ち合いの下で宰判挙げて諸隊に協力するよう要請した。ここに小郡庄屋同盟が結成され、この席上で諸隊への支援を決めた小郡宰判は、このことを全住民に伝え、緊急に大田の戦場に農兵二小隊、人夫1200名を派遣した。食料補給のための炊き出しが行われ、ムスビを大八車に積み込んで戦地に送り込んだ。
小郡宰判は諸隊の兵站基地となり、この時の林勇蔵の決断や庄屋同盟の協力なしには大田絵堂の戦いの勝利も、明治維新もできなかったであろうと後世までも言われている。 -
大田の金麗社。
大田・絵堂の戦いで諸隊の本陣となった場所である。
小郡から諸隊支援のため人夫延べ1200名を繰り出して、毎日炊き出しの食料をここまで運び続けた。
当時小郡から大田に向かう道は大変狭く険しい所もあって敵の出没も予想された。食料の搬入は命がけだったという話が残されている。 -
ここは椹野川と椹野川に掛かる東津橋と東津港趾。
東津橋は明治5年に木橋が架けられたが昭和8年にコンクリート橋に架け替えられた。
東津は江戸時代、長州米の積み出し港であった。山口市、吉敷郡(小郡宰判)、美祢郡の年貢米もここに集められ大阪の堂島に送られていた。岸辺には山口・美祢・小郡の「津出蔵」が並び、川口番所が設けられ、御用船3艘、渡し船が1艘置か置かれていた。
干潮時には着物の裾をまくり浅瀬を歩いて渡れたと言う。 -
堤防の側に設置されていた「藩米津出蔵趾」の案内板。
東津は山陽道の渡河点で江戸時代には橋は架けられていなかったので米の積出港や渡し場所として賑わった。
小郡(宰判)・山口・美祢の年貢米はここに集められて大阪に運ばれている。
川岸には船に積み込むまで米を保管しておく「津出蔵」が旧堤防の上にあった。
江戸時代の倉庫跡の一つが現在も残っているが、蔵そのものは江戸時代の建物ではない。 -
津出蔵の跡。
蔵の基礎部分は江戸時代のものだが、建物は建て替えられたものである。
近年建物の屋根と壁部分を覆うトタン板が張り替えられた。 -
津出蔵の跡
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椹野川河川公園。現在は河川公園となっているが、ここは江戸時代米を積みだした
東津港の跡である。
明治29年の河川改修工事の時、現在の堤防と川岸部分が新たに造られた。 -
写真中央の堤防から僅かにはみ出て見え屋根が津出蔵の屋根である。
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是より椹野川下流域。川の周囲には干拓により新たに出来た広大な水田が広がり、椹野川の水は山口湾に流れ込む。
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椹野川の中流域。川が大きく右に蛇行しているがここが七曲。
椹野川の難所はこの七曲りのさらに奥。吉敷川が合流する部分であった。 -
椹野川の改修工事は明治29年6月に幾多の困難を乗り越えて完成するが、これは明治33年に建てられた「椹野川改修工事竣工記念碑」。
林雄蔵翁の悲願であった椹野川改修工事は洪水の影響を受ける10カ村の個々の思惑や工事資金の捻出の難しさなど問題が山積し大変な困難を伴った。
林勇蔵は椹野川流域の災害の凄まじさと、改修工事の必要性を県令関口隆吉に嘆願。
一方被害を受けた10カ村は県に改修工事費の出金を陳情。
改修工事の必要性を十分認識していた県令の関口は内務省に陳情を重ねた。その結果オランダ人のお雇い工師のムルデルが視察に訪れ調査された。彼が試算した工事費は55万円と巨額の金額であった。
とても地元で負担できる金額では無く早くも暗礁に乗り上げたが、林勇蔵が上京して当時内務卿(内務大臣)であった山縣有朋と懇談、幕末時の縁を持ち出しながら椹野川改修工事の支援と、全てを節約して10万円くらいでできないものかと再調査を依頼した。
そして農商務省技師南一郎平が椹野川の川筋調査に来て再度試算するとムルデルよりもかなり安い10万円になった。一方ドイツで高額を学んだ県人田辺義三郎にも調査を依頼し、工事費を試算させると同じく10万円で可能という事になった。
その後県や役所の担当者、勇蔵の長男秀一、吉富簡一(藤兵衛・吉敷郡矢原村の大庄屋)、原県令(県令は関口から原の変わっていた)が続々上京して国の助成を陳情した。
当時国庫補助など前例が無く、当初は実現困難な状況だった。それを可能にしたのが吉富簡一だった。
吉富簡一は政府に国庫補助誓願運動を行った。具体的には吉富が内務卿山縣有朋に懇願して特別に大蔵卿に掛け合ってもらい、大蔵卿から上申があれば太政官(明治政府の最高機関)が認めるところまでこぎ着けた。
結果3万3千円という国庫補助金が支出される事になった。
こうして工事費10万円は国から3万3千円、県から2万円、洪水の被害が大きかった10カ村が4万4千円、椹野川流域の関係各町村が3千円を負担することで工事が開始された。
なお吉富簡一が山縣有朋と交渉を続けている時、林勇蔵は4700余字という長文の書簡を山縣に送って側面から支援した。
地元の有力者たちは県を通じて国に請願するだけでなく、独自のパイプを通じて直接政府高官に働きかけることで、要求を実現していった。 -
椹野川竣工記念碑碑文の要約。
碑文の中で事実と異なることが書かれている。それは工事費の分担の記述である。
碑文では10カ村が工事費4万円を負担し、残り6万円を国に仰ぐことで申請したと書かれているが、国に申請した時は県が2万円負担することは県議会で議決されていた。
さらに10カ村の負担と関係各町村の負担が4万7千円であるので、国に申請したのは3万3千円である。
碑文の文面を見た時、関係者は碑文の訂正を求めなかったのだろうか?
どう考えても不思議でならない。 -
椹野川改修工事竣工記念碑
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椹野川改修工事竣工記念碑
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次は小郡上郷にある海善寺。
ここには内訌戦(大田・絵堂の戦い)で戦病死した隊士の墓がある。 -
海善寺は元は真言宗の寺。現在は浄土宗であるが、慶長8年(1603年)に山口の長寿寺四世廓立上人が再興し、浄土宗に改め開山となった。
大田・絵堂の戦いで本堂は諸隊の野戦病院として使われている。 -
海善寺の本堂。
本堂には小郡ゆかりの女流画家、葛原輝女史の牡丹の襖絵や遠藤柳斉の所がなだがある。 -
海善寺の官修墳墓の説明板。
ここには大田・絵堂の戦いで戦病死した3名の隊士の墓と明治2年の脱退騒動時の2名の墓がある。 -
この墓は大田・絵堂の戦いで負傷し海善寺の仮病院で治療の買いも無く死亡した玉木彦助の墓である。
玉木彦助は吉田松陰の叔父の玉木文之進の嫡男である。
玉木文之進は小郡勘場の代官をしており、その時玉木文之進と親交があった林勇蔵が丁重にその靈を弔った。
玉木文之進は萩の松下村塾の創立者である。吉田松陰が吉田家の養子となり幼くして兵学指南の家を継ぐことになると、指南にふさわしい人物となるよう厳しいスパルタ教育を行った事で有名である。
また陸軍大将乃木希典の師でもある。吉田松陰同様乃木希典にも厳しい教育を行った。
教育者であるが代官に任じられ、各地の勘場(代官所)の代官職を歴任し、名代官と謳われた。郡奉行に栄進するが、明治2年に政界から引退。再び松下村塾を開いて子弟の教育に努めた。
萩の乱では養子と多数の門弟が前原一誠に加担したため、責任を感じて自害した。 -
玉木彦助の墓には元治二年正月〇日死行年25歳とある。
死亡日は判別しにくいが、1月26日に亡くなっている。 -
当時所属していた御楯隊が寄進した灯篭。
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同じく御楯隊が寄進した墓の台座。
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八幡隊の野々村三郎
1月10日の大木津戦いで負傷し当仮病院で死亡した。 -
膺懲隊の玉木友市
1月14日の呑水垰の激戦で負傷し、当仮病院で死亡した。
以上小郡宰判の大庄屋林勇蔵の成した事業を見てきたが、次回は明治維新序章ともいわれる内訌戦いやその後の局面で長州藩の諸隊を支え続けた小郡宰判の庄屋同盟について触れて行きたいと思います。
訪問下さりありがとうございました。
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