2025/04/08 - 2025/04/08
259位(同エリア529件中)
ポポポさん
この旅行記のスケジュール
2025/04/08
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村田蔵六宇和島に行く
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宇和島で翻訳した兵書
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村田蔵六江戸へ行く
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江戸鳩居堂の場所
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大村益次郎長州藩士となる
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四境戦争図
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石州口の戦い
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上野戦争
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大村益次郎遭難の碑
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靖国神社の大村益次郎像
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この旅行記スケジュールを元に
鋳銭司郷土館に展示されている大村益次郎の軌跡と関連資料の続きです。郷土館には大村益次郎の資料の他に、第二展示場では鋳銭司史跡の展示もありますが、益次郎の資料展示の紹介が終わって次に紹介したいと思います。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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鋳銭司郷土館の大村益次郎展示コーナーの続きです。
大坂の適塾に入門し、塾頭になった村田良庵(大村益次郎)は家業を継ぐために故郷の鋳銭司村に帰郷する。
帰郷すると村医者として鋳銭司で開業したが、風采が上がらず不愛想であったためはやらなかったと言う。
この時期村田良庵は技量を発揮できずにその能力は宝の持ち腐れとなっていた。
しかし嘉永6年(1853年)、片田舎に逼塞していた大村益次郎に世に出るチャンスが巡って来た。
宇和島藩から出仕の要請が来たのである。同年9月に宇和島に向けて出立するが、説明文では新天地を求めて出立したとある。
以前は宇和島藩からの出仕要請を受けてというのが一般的であった。小説「花神」でもそのように記述されていたように記憶している。
Wikipediaでは宇和島藩関係者の証言では藩の要請では無く二宮敬作に会うためだったとある。
確かに宇和島で最初に訪れたのが二宮敬作なのでそうだったのかもしれない。
また益次郎を登用するのは宇和島藩の中枢の少数しか知らない秘密事項だったのかもしれない。
ともかく二宮敬作に会った益次郎は大隆寺の住職晦厳や高野長英の門人大野昌三郎と会い、一流の蘭学者として藩主に推挙されて上士格雇として採用された。
そして益次郎は宇和島で名前を村田蔵六と改名した。 -
二宮敬作と大野昌三郎の説明。
二宮敬作はシーポルトの門下生で故郷の宇和島に帰郷し医者を開業した。
シーボルトが帰国に際して、娘の楠本イネをシーボルトから託された。
楠本イネは日本最初の女医で医術を二宮敬作から、オランダ語を村田蔵六がら学んだ。さらに後にシーボルトの門下生石井宗謙から産科を学ぶ。
小説「花神」では流暢なオランダ語を話す村田蔵六の学識と医療技術、合理的な物の考え方をする蔵六に楠本イネ(オランダおいねさん)が淡い恋心を抱いたと描かれている。
小説なのでフィクションだが、そういう感情が楠本イネにはあったのかもしれない。
堅物で合理的な考え方をする村田蔵六としては艶話の一つもあった方が人物像としては面白い。
楠本イネは石井宗謙に産科を学んでいる時に宗謙との間に私生児高子を産んでいる。
大野昌三郎は宇和島藩の下級武士でシーボルトの弟子高野長英に蘭学を学ぶ。
村田蔵六と会った大野昌三郎は、蔵六の蘭学の知識が尋常では無い事に気付き、直ちに宇和島藩の重役に蔵六を推挙した。
蔵六が宇和島藩上士格雇となると大野は蔵六に蘭学を学んだ。 -
二宮敬作の肖像画と大野昌三郎の写真。
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村田蔵六は宇和島藩に出仕すると、藩から西洋兵学・蘭学等洋書の翻訳と講義を求められた。
郷土館の説明では触れられていないが、村田蔵六が宇和島藩おける最も大きな業績は蒸気船の模型を完成させたことであろう。
蒸気船の模型は藩公伊達宗城からの命令で、家老を通じて蔵六に伝えられた。作成に当たったのは蔵六と提灯屋・細工師の嘉蔵。小説花神では大工と書かれていたように思うが記憶違いかもしれない。
蔵六は蒸気機関の構造や理論を洋書を翻訳して嘉蔵(後の前原巧山)に教え、嘉蔵は数度に渡る長崎留学(一度は村田蔵六と同道し長崎奉行から蒸気船製作修行の許可を得ている)や薩摩藩での修行を経て、艱難辛苦の末に蒸気機関を完成させた。この功により士分に取り立てられている。
洋式軍艦の船体模型(雛形)は村田蔵六と嘉蔵の共同製作で完成させた。
蔵六は宇和島藩から江戸に出て私塾「鳩居堂」を開塾したが、嘉蔵は引き続き蒸気船の開発に専念し安政6年(1858年)に蒸気船の試運転に成功、海上を航行した。
そのほか樺崎砲台やモルチール砲製造にも関わっている。 -
樺崎砲台とモルチール砲の写真。
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大村益次郎が宇和島藩で翻訳した造船技術の本とオランダ兵書の翻訳本。
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村田蔵六江戸へ行く。
蔵六は宇和島藩主伊達宗城に付き従い江戸へ。
江戸へ着くと宇和島藩の了解を得て私塾「鳩居堂」を開き、蘭学・兵学・医学を教え始める。程なくすると宇和島藩御雇の身分のまま幕府の番所調所教授方となる一方、幕府講武所に教授として出仕。最新の兵学書の翻訳と講義を行った。
幕臣となった村田蔵六は講武所で兵学の講義を行いながら持ち出し禁止の要所を訳して長州藩の元に送るなど、きわどい事も行っている。 -
江戸の転居先の地図と鳩居堂の門下生安達幸之助の説明。
安達幸之助は大村益次郎が京都で刺客に襲われた時に同席していて暗殺された。 -
江戸転居先の古地図。村田蔵六と記されている。
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長州藩の命運を握る大村益次郎の登場。幕臣から長州藩士へ。
安政5年(1858年)3月、村田蔵六は長州藩上屋敷で行われた蘭書読書会に出席して兵学書を講義、この時桂小五郎と知り合い交流を重ねた。
村田蔵六の尋常ではない洋書の読解力と知識に触れた桂小五郎は大いに驚き、直ちに国元の執政周布正之助に村田蔵六を長州藩の軍政担当として採用するよう強く上申した。
上申を受けた周布正之助は村田蔵六を正式に長州藩士とする旨決定する。蔵六は江戸在住のまま長州藩士となると塾を長州藩中屋敷に移る。
その後文久3年(1863年)10月に萩に帰国した。 -
青木周の推薦書
長州藩邸における読書会は、長州藩内の蘭学界の第一人者青木周弼の権限で始まった。
この会に江戸で高名な蘭学者として名を馳せていた村田蔵六を招いた事がその後の長州藩の大逆転に繋がった。 -
蔵六は英語をヘボンに習っており、その時使用したノート。
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村田蔵六の数学ノート。
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長州における大村益次郎の活躍。
萩に帰還すると撫育方(長州藩の特別会計)御用掛を経て山口明倫館兵学寮教授となる。
村田蔵六は正式に長州藩士となると、藩から「村田蔵六」と言う百姓名から武士の名前に改名するよう命じられ、「大村益次郎」に改名した。
説明文では幕府の目を欺くためと書かれているが、大村益次郎の改名はそこまでの意図は無かったと思われる。
何故なら長州藩士になるため講武所や番所調所を辞める時に幕府に届け出て許可を得ているからである。
当然幕府では村田蔵六が長州藩士になったことも、その後私塾を長州藩中屋敷に移した事も知っていたはずである。彼が帰藩すれば、軍事改革に何らかの関与はするはずだと容易に想像できる訳であり、敢えて幕府の目を欺くまでもなかったはずである。
山口明倫館では西洋兵学を講義、起居していた山口市の普門寺観音堂では請われて私塾(普門塾)を開き歩兵・砲兵・騎兵の三兵を講義した。そのためこの塾は三兵塾と呼ばれていた。
この塾からは長州藩諸隊の士官、参謀として四境戦争から戊辰戦争を戦い抜き、日本陸軍の指揮官等多数の優秀な人材を輩出した。
安政の改革では軍政改革の指導者に就任。兵制改革を進めると共に、参謀として来る幕府軍との戦いに備えて四境の戦線の戦闘を立案し、備えを進めた。
長州藩の諸隊は百姓兵が主体の為、幕府兵に比べて弱いと言う事である。益次郎はこれを基本に戦術をたてた。
諸隊の兵が装備する銃は射程が長くて命中率が高いミニエー銃とした。この銃はトーマス・グラバーから購入した銃で四境戦争で活躍した。
使用する戦術は散兵戦術である。各兵は集団にかたまらずに適当な距離で散開して戦闘する戦術である。少数の兵で多数の兵に立ち向かう場合に有効であるが、兵士が広く散開しているため指揮官の命令が行き届かないので、兵士が独自で判断して戦闘し、敵を倒さなければならない。
三兵塾で益次郎から徹底的にその要諦を叩き込まれた若き士官たちは、兵士たちに実戦さながらの演習を行い訓練を積んで幕府軍を待ち受けた。
長州藩諸隊の兵士が他藩の兵士と違うのは、木や岩などの物陰に隠れたり身を伏せたり物陰に隠れて狙撃することだった。
さらに一発撃つと場所を変えて射撃した。これは当時の黒色火薬は爆発すると大量の白煙を生じさせるため、それを目当てに敵から撃たれるのを避けるためであった。
このように変幻自在な射撃方法は、武士が主体の幕府軍からすれば賊徒同様の振る舞いで、賎しい戦法としか映らなかったのである。
しかし、長州軍の主体は百姓兵であり武士の様なプライドはない。大村益次郎の指導する戦術に抵抗なく順応した。
また指揮する武士も多くは下級武士であったため兵士との距離感は近かった。
大村益次郎の四境戦争における戦略であるが、長州に攻め込んで来る場所を山陽道の芸州口、石州街道(山陰道)の石州口、九州との境の小倉口、幕府海軍が攻めて来るであろう大島口(山口県大島)の四か所に特定し、地域ごとの戦略を伝授している。
基本は幕府軍の長州藩領への侵入を食い止め、戦闘は他藩領内で行うという事であった。
主戦場は山陽道の芸州口。幕府軍の主力(大軍)が侵攻してくるであろうから、ここには遊撃隊などの長州最強部隊を配置した。戦略は幕府陸軍と和歌山藩兵が出てきたら持久戦に持ち込む。
山陰道の石州口は大村益次郎が自ら兵を率いて浜田藩領に侵攻、攻め取れるだけの領地を占領する。
小倉口は参謀が高杉晋作。基本戦略は高杉に任されたが、高杉は防衛では無く侵攻を選択し、門司田ノ浦に敵前上陸を敢行した。主力は奇兵隊と長府藩の報国隊。
大島口は長州軍の態勢が整わないうちに幕府海軍と松山藩の攻撃を受け占領されてしまったが、後に幕府軍を撃退している。 -
三兵学科塾(三兵塾)で実施された試験答案。
山口明倫館兵学寮が山口兵学校と改称され、その後三兵学科塾に改称された。 -
四境戦争関係図
この図では長州軍5400人に対し幕府軍53300人だが、幕府軍の数は諸説あって、一般的なのが長州軍4000人に対し幕府軍102000人から150000人となっている。
これは長州藩以外の他藩の軍の構成が兵士の他に槍持ちなどの従僕まで含めて集計されているからで、集計方法が統一されていないためである。
従って軍夫などを除いた表の数が実際の数字に近いものと考えられる。
いずれにしても長州藩は各方面の戦線で10倍以上の敵を相手にしなければならなかった。
戦の始まりは6月7日の大島口の戦い。幕府軍は軍艦4隻で大島を艦砲射撃のうえ陸戦隊が上陸し、久賀、安下庄地区の村に放火した。守る長州兵は僅かに500人。幕府軍の奇襲攻撃だったため、山間部に逃げて応戦するも敵わずに撤退した。
6月11日、軍艦の援護射撃の下に松山藩軍は安下庄に上陸。家屋に火をかけ長州軍の残敵を掃蕩し大島を占領した。
放火で焼失した家屋は1629棟にのぼった。大島口では松山藩の他に宇和島藩、今治藩、徳島藩が出兵し、総兵2万人の陣容になる予定だったが松山藩以外は出兵を拒否し参戦していない。
宇和島藩は罪のない民家を放火し、敵のいない村へ砲撃するとは軽挙望暴撃の軍であると幕府軍を批判し参戦を拒絶している。
6月10日山口藩庁政治堂は浩武隊と第二奇兵隊約900名に出陣命令を下した。対する幕府軍の陸軍兵力は幕府陸戦隊と松山藩兵2800名で長州軍の2倍以上の兵力であった。
高杉晋作が操る丙寅丸(おてんとうさま丸)が夜密かに幕府軍艦に近づき砲撃を開始したのを合図に長州軍が反撃を開始した。
久賀、安下庄を次々に奪還すると幕府軍は軍艦に逃れ、軍艦4隻は逃亡し長州軍の勝利に終わった。
6月14日、芸州口開戦。山口県と広島県の境に流れている小瀬川で戦闘開始。幕府軍先鋒は彦根藩、高田藩、与板藩で兵力10600人。対する長州軍は遊撃隊・岩国藩兵・御楯隊・良城隊を主力に約2000人。
幕府先鋒は兵力では5倍以上だが戦国時代のように甲冑具足の出で立ちで動きが悪く、軽快な動きをする長州軍の格好の標的となり初戦で壊滅し、残兵は退却した。
長州軍は現在の広島市大竹市から廿日市市大野に進軍すると幕府陸軍と和歌山藩兵が出て来た。
和歌山藩兵は洋式訓練を受けた軍隊で軍装も長州藩と同等であり、幕府軍では最強の軍隊と大村益次郎は見ていた。しかも兵力は7000人で最強の相手であった。
ここに廿日市大野の四十八坂付近で激戦が始まった。
長州藩軍は大村益次郎の指示通りに散開戦術とゲリラ戦を駆使して一進一退の攻防戦が続く。その後8月7日激しい風雨の中、長州軍は廿日市市大野村、宮内村を奪取しようと大竹市玖波、松ケ原、友田の三方向から総攻撃をかけた。
大野口では長州軍の動きを事前に察知していた征長軍の反撃に合う。激戦が展開され一時は台場を数か所占領したものの征長軍は多勢で長州軍は玖波村に撤退した。
一方、宮内村に長州軍は四手に分かれて進撃した。折しも激しい風雨に安心しきった高田・彦根・明石藩軍および別手組は油断していたため不意打ちを受けて十分な応戦ができず、大敗走した。
敗因は激しい雨で大砲が発射できないとか、火薬が湿って役に立たななかったと言う事であったが、気象条件は同条件であり征長軍が火薬の取り扱いに習熟していなかったと言われている。
さらに軍目付が逃亡してしまい、兵の士気が低下した。こうして高田藩・彦根藩は退却、役に立たなかった明石藩は広島城下まで退却した。
こうして大野村の戦線は膠着しその後休戦となった。
6月16日石州口開戦。石州口の戦いは次で説明する。
6月17日小倉口開戦。小倉口の戦いは四境戦争中最大の激戦であった。
幕府軍(征長軍)は幕府直轄軍と八王子千人隊そのほかは九州諸藩の兵で小倉藩・熊本藩・久留米藩・柳川藩・福岡藩・唐津藩・佐賀藩。中津藩の合計約2万。
このうち熊本藩は西洋式軍装で統一されており一番装備が充実していたため強敵と目されていた。
一方長州軍は奇兵隊・報国隊(長府支藩の武士で構成)を主力とする1000人。数の上では長州軍の方が圧倒的に不利だった。
この時期総指揮を取るはずだった高杉晋作は労咳(肺結核)が悪化して前線に出られなかった。そのため参謀として作戦を立案した。
前線で指揮を執ったのは奇兵隊軍監の山県有朋と福田侠平である。
大村益次郎は高杉晋作の戦術眼や資質を見抜いていたので、小倉口の戦いは全て高杉に任せると伝えていた。
その高杉が取った戦法が関門海峡を船で押し渡り敵前上陸することだった。長州藩の4隻の軍艦は門司田ノ浦沖に集結し早朝6時から田ノ浦に陣取る小倉藩兵に砲撃を加え、陸兵は小舟で関門海峡を押し渡り田ノ浦に敵前上陸した。
小倉藩兵を蹴散らすとともに、下関へ上陸するために幕府軍(征長軍)が用意していた1000隻の船を焼き払った。
これで下関に幕府軍が上陸することは不可能になったので一旦下関に退却し、門司田ノ浦に再上陸して小倉に向けて進軍した。門司と大里の幕府軍の拠点を占領すると赤坂へ進軍。そして赤坂を守る熊本藩兵3000人と激突した。
赤坂は小倉防御の要。山がすぐに海に迫り、そのわずかの地を長崎街道が通る難所で攻めにくく、守るには方は防御しやすい地形であった。
熊本藩はその地形を利用してアメリカ製のライフルカノン砲(大型野戦砲)やホット砲を砲台に据え付け、地形を利用して防備したため、小さな野戦砲しか装備していない長州軍を圧倒した。
海からは最新鋭の大型軍艦富士山丸以下3隻の軍艦から長州軍に砲弾が降り注ぎ長州軍の進撃を食い止めた。
奇兵隊は山側から砲台の占領を試みるも頑強な抵抗に合い、死傷者120名を出して大里に撤退した。赤坂の戦いは幕長戦において最大の犠牲者を出した戦闘であった。
長州軍苦戦の報に接した高杉は思い病にも関わらず兵士を叱咤激励するために前線に立った。そのかいあってか、長州軍は壊滅することも無く大里へ撤退したが、兵士の士気は衰えなかった。
一方長州軍を撃退した熊本藩もただではすまなかった。丸一日の激戦で将兵は疲れ切ってしまい、長州軍を追撃する余力はなかった。
従軍した熊本藩家老長岡監物は長州軍襲来の恐れがあるので新手の援軍を要請した程である。また征長総督の老中小笠原長行に兵士が疲弊しているので守備の交代を申し出たものの、赤坂の守備は熊本藩以外には任せられないと思ったのか、小笠原に拒絶されてしまった。
不満が頂点に達した熊本藩兵は7月30日に独自の判断で赤坂から撤退を開始し帰国してしまう。さらにその日驚愕の出来事が起こる。征討総督の老中小笠原長行は幕府兵と八王子千人隊を赤坂から撤退させ、軍艦富士山丸で敵前逃亡したのである。
総司令官が諸藩の兵を置き去りにして敵前逃亡したのであるから、諸藩兵は赤坂から撤退し帰国した。
こうして一藩のみで長州藩と戦う事なった小倉藩は深夜幕府目付2名と小倉藩重役とで協議を行った。小倉藩重役の意見は開城であり、城受け取りを目付に依頼したが、困惑した目付は「小倉城を自焼し、要地に引いても構わない」という趣旨の書付を手渡して城を去った。
8月1日早朝から若殿らの退去が始まり、藩兵と共に田川郡香春まで撤退した。その後小倉城は小倉藩兵によって火をかけ焼失したが、城の自焼は家老小宮民部のほぼ独断によって行わている。
まお、小倉藩との戦いはこれで終わった訳では無く、田川郡香春に残って最後まで頑強に抵抗を続けたが、防御拠点を次々奪われたため薩摩藩と熊本藩の仲介で停戦交渉が始まった。
交渉は難航したが小倉城下と企救郡を長州藩に明け渡すことで和議が成立し、小倉藩は降伏した。
ちなみに企救郡は現在の北九州市小倉北区、南区、門司区の全域と八幡東区の一部、行橋市の北部一部の地域である。小倉藩は領地のほとんどを長州藩に割譲し完敗したのである。 -
出師檄と下の図は石州口の益田戦争要図。
出師檄に留まらず、長州軍の主兵は農民であったため規律は厳正であった。
食料の徴発はしない。田畑を荒らさない。軍夫として現地の農民を徴発しない。
農民の牛馬を軍用に徴発しない。放火はしないなど。
一方芸州口の戦場では幕府軍(征長軍)は軍規が乱れ、様々な乱暴をして民衆を苦しめた。
例えば廿日市市大野では岸を保護するための草を刈り、藁を摂って草鞋を作り、野菜を盗み取り、池を干して魚を捕り、山を刈り、家や道具を焼くなど民衆を虐待しているが、それを取り締まることはされていないと郡役所への報告がある。
長州軍は戦争遂行にあたり民衆の支持を受け、また細かな配慮をしている。
芸州口では6月16日幕府軍を敗走させると大竹村や玖波村の焼失地へ「兵火の為に難渋し、飢えたり餓えたりしている村々ががあれば速やかに訴える事。速やかに処置いたす」との高札を掲げ民衆の救済を行った。
大竹村では炊き出しを行い、玖波村では彦根藩の兵糧米1000俵をことごとく土地の者へ分配している、
6月26日には岩国藩士が山口政治堂におもむき、大竹村の焼失村民の救恤を願い出た。藩政府は米500俵を下賜している。さらに2人の医師を派遣し6月19日から7月14日まで村人の診療に当たった。
7月15日には医師7人~8人が木野村に来て付近の村人や幕府軍に徴発された軍夫の治療に当たっている。 -
石州口の戦い。
大村益次郎は参謀として自ら1000名の諸隊を率いて石州口で戦いの指揮を取った。
長州軍は南園隊、精鋭隊、清末藩(長州藩支藩)育英隊の1000人。対する幕府軍は浜田藩、松江藩、鳥取藩、福山藩、和歌山藩の3万人であった。
まず最初に通過する津和野藩との戦闘が予想されたが、津和野藩は隣国のよしみにより無抵抗で長州軍の通過を許した。この戦いには参戦していない。
通りの家屋は皆雨戸を締め切り、木戸は全て開け放たれた津和野の町を粛々と行軍して行ったそうだ。
長州軍は無血で浜田藩領の益田へ。浜田藩・福山藩の藩兵は医光寺、万福寺、勝連寺に立てこもり、医光寺と万福寺を本陣とした。(上記の益田戦争要図参照)
益田の戦いは激戦になったが、長州軍は益田川を渡河して本陣の万福寺に攻め入る。
一方別動隊は背後の秋葉山を占拠して山上から勝連寺の福山藩兵を攻撃。
征長軍は益田の町家に放火するも正面と背後の山から攻撃を受けて追い詰められ、福山藩兵と浜田藩兵は浜田方面に向けて敗走した。
征長軍が敗走すると長州軍は福山藩が意図的に放火した火災の消火作業に兵士全員で当たった。
大村益次郎は敵の本陣である万福寺や医光寺が町中にあることから、大砲を使用すると人家を焼失する恐れがある為、長州軍には大砲の使用を禁止していた。
暮れになってようやく火災は鎮火した。浜田藩・福山藩が置き去りにし捕獲した兵糧米は取米相場白米一升につき200文に決めて販売している(当時の米相場よりも安く販売して「何分百姓共を愛隣し、助勢致遣(つかわしいたし)候」と長征岩見戦争聞書に記されている)。
ちなみにこの時の200文、現在の価格でいくらなのか調べてみた。江戸時代の賃金水準を基にすると1文=47.6円、一方米価に貨幣価値を引き直すと1文=8.8円になる。
この場合米の購入なので1文=8.8円の方を採用すると米1升は1760円になる。
現代の新米米価を5㎏=4500円とすると、1升は540円になる。つまり現在の米の価格は高いと言われながらも江戸時代の約1/3の価格という事が分かる。現在の米価は江戸時代の米価と比較するととんでもない安さだという事が分かる。
昨今米価が高い高いと言っているが、米作りは大変な労力と時間をかけて作る訳だから江戸時代のように高くて当然だと思う。
さらに米の価格を現代社会のように賃金水準を基準に考えると米1升(200文)は9520円と言うとんでもない価格になる。
あくまで江戸時代との比較ではあるが、現在の米の価格は江戸時代の米価に比べて安すぎると言う事である。
話がそれたが、火事消化の他に敵側の戦死者を手厚く葬り、負傷者を見つけると十分に治療し、回復すると路銀を与えて送り返すなどしたため、益田の住民の信望を得ている。
地元住民は協力的で弾薬や兵糧潮の他の運搬にも協力してくれたため、輸送が順調に行われた。
次は浜田城下近郊周布村・大麻山の戦いである。
初戦では後陣であった和歌山藩兵が前戦に出て和歌山・浜田・松江・福山藩軍対長州軍の対決となった。鳥取藩兵は浜田城下に後詰で入り、一部の兵のみが参戦している。
幕府軍は主力が親藩譜代大名であった。和歌山藩家老安藤直裕は先鋒総督名代であったが、石州口の和歌山藩は洋式軍隊を芸州口に差し向けていたため、石州口の藩兵は旧式軍隊で長州軍の敵では無かった。
大村益次郎の陽動作戦に引っ掛かり、先に大麻山に陣取った浜田勢が敗走。続く本陣の周布村の戦いでは本陣の和歌山藩と福山・松江藩・浜田藩が次々に敗走。
福山・松江・浜田藩兵は浜田城内に敗走したが、総督名代の和歌山藩は岩見銀山まで逃走した。
和歌山藩兵は駐屯中に地域住民を大いに苦しめた為、敗走の途中に浜田藩内の住民から竹槍で追われている。
その後浜田藩から止戦の死者が遣わされ交渉が行われたが、交渉の途中に浜田園藩主と家族は松江に逃亡した。
そのことを知った諸藩軍は次々撤退して行った。このため防戦は困難になり浜田城の放棄が決定された。
浜田藩は城を自焼して浜田から松江に撤去し、ここに石州口は長州軍の勝利で終結した。 -
石州口益田の作戦図。
益田戦争要図と照らし合わすと分かり易いと思う。中央に川とかかれているのが、長州軍が敵前渡河した益田川。その川のすぐ上に浜田藩の本陣万福寺がある。
万福寺の北に山と書かれているのが、別動隊が占領した秋葉山。
南北から本陣の万福寺を挟撃し、本陣から浜田藩兵を敗走させる作戦と思われる。
敵兵の逃走路を指示しているのは孫子や諸葛孔明らが城攻めに多用した兵法である。城攻めで城の四方の門を囲って逃げられないようにすると城内の兵は死に物狂いで防戦する為、攻める側の損害が大きくなる。
味方の損害を少なくしつつ敵の城を奪取するための基本的な戦術であるが、日本では中国と城の構造が違うので、敵が投降しなければ落城するまで攻め続ける。
日本の城攻めでは、わざと搦め手の兵数を少なくして脱出しやすいようにした合戦もあるが、例は少ない。
石州口の戦いでは長州軍の兵力は幕府軍に比べて極端に少ない。できる限り味方の死傷者を少なくするよう逃走路を設けたのである。また逃走路が設けてあるのは必ずこの戦いで勝てると言う勝算の下に立ててあると言う事だ。
大村益次郎は石州口の戦いに絶対に寡兵でも勝てるとの自信をもって臨んでいることがこの作戦図から読み取れる。 -
長防臣民合議書。
説明の通りである。当時の藩は一つの国である。この時期長州という国は、日本中の国から寄ってたかって攻められて、国家存亡の危機に瀕していた。
長州国の国民は兵から庶民に至るまで一致協力して国が亡びるまで、一人になってでも戦い抜くという覚悟で四境戦争を戦い抜いた。
「防長二州が焦土と化しても、長州人は最後の一人まで戦い抜く」上から下までこの悲壮な覚悟があったからこそ、長州本国には一人たりとも足を踏み入らせることを許さなかったのだと思う。
兵士以外の農民や庶民は兵糧や荷駄を運ぶ軍夫となり、女性は炊き出しや医師の下働きや手伝いとなり、軍艦・武器の献金や兵糧の提供などなど、銃後の任務を全うしたのである。
僅か4000名の兵が10万以上の敵を相手にして勝利したのは、日本では後にも先にもこの例しか無いのではなかろうか。
今迄簡単に四境戦争を見てきたが、疑問に思うのがなぜ幕府軍は長州の四境から攻めて来たのかと言うことである。
山口政治堂では幕府軍は直接山口に侵攻するだろう。上陸するなら椹野川下流の山口湾か椹野川をさかのぼって小郡辺りと予想していた。
そのため小郡宰判内の瀬戸内海沿いの海岸(秋穂湾)や小郡には台場(砲台)を築き、諸隊を小郡宰判内の小郡や秋穂地区に重点的に配備していた。
さらに山口市小郡地区の旅行記で触れたように、小郡宰判内ではいくつもの諸隊や農兵隊が2部隊作られ、宰判内の献金でミニエー銃を800丁も調達して諸隊や農兵隊に配備している。
しかし、予想に反して四か所の国境から侵入しようとした。四か所で攻め込めば長州軍の兵力は分散され、数の上では圧倒的に幕府軍が有利になる。
さらに藩都山口の防御は手薄になり、一か所でも突破できれば雪崩を打って無人の荒野を行く如くに進んで藩都を落とすことができる。
藩都を落とした後は背後から挟撃すれば必勝は間違いないだろう。つまり長州殲滅戦を計画していたのではないかと思うのである。 -
石州口益田戦の本陣となった医光寺と万福寺。
医光寺には雪舟が造ったとされる雪舟庭園がある。一方万福寺は益田氏の菩提寺で医光寺と同じく雪舟が益田に逗留していた時に造った雪舟庭園がある。
幕府軍の本陣となったので総門がその時に焼失したが、ほかの建物は被害を受けずに残っている。
四境全ての戦いで長州軍が勝利した為幕府の権威は決定的に失墜し、諸藩は命令に従わなくなった。
四境戦争において、幕府軍直轄軍や和歌山藩軍の兵器は長州軍の兵器と互角のレベルであり、海運力において幕府は当時最新鋭の大型蒸気軍艦を揃えており長州藩を圧倒していた。
ではなぜ長州藩は勝利することができたのであろうか。
両者が決定的に違うのは、長州藩が散兵戦術など西洋式戦法に習熟し、それを十分に使いこなしたと言う点である。兵士の自発性の有無と質の差、兵站を担う軍夫の積極性の有無の差、銃後にいる民衆の支援の有無の差、そして「長州人は最後の一人まで戦い抜く」という覚悟の差だと思う。 -
明治維新と益次郎
慶応3年10月の大政奉還、同年12月の王政復古の大号令で江戸幕府が廃止され、明治新政府が樹立した。
慶応4年1月に鳥羽伏見の戦いで新政府は勝利し、同年2月に大村益次郎は新政府の「軍防事務局判事化成」となり、新政府の一員となった。
いよいよ長州の村医者だった益次郎が中央政府で大きく羽ばたく時がやってきた。まず江戸の治安維持のため上野の彰義隊の討伐を命ぜられた。
当時は彰義隊が江戸市中を暴れまわり、無法地帯とかしていたのである。
大村益次郎は彰義隊討伐の司令官に任命されると、上野の彰義隊を一日で鎮圧すべく策をめぐらせた。一番考慮したのが上野の山から上がった火の手が江戸市中に回り、大火になることをどう防ぐかで、この事に苦心した。益次郎は過去の天気と風向きを調べ、最も風の吹かない5月15日を戦闘開始日と決めた。
さらに一日で決着をつける為、佐賀藩が所有している破壊力と殺傷力が高いアームストロング砲2門を使用することに決定。
兵の配置は城の大手門に当たる黒門には薩摩藩を配置し、からめ手(三崎坂)には長州軍を主力として3方面に兵を配置し、根岸方面の道を彰義隊の逃走路とした。
作戦会議中大村の作戦にことごとく反対したもが薩摩の海江田信義である。
大村と海江田はソリが合わず、大村の成すことにことごとく反対し、周囲には「殺してやる」と息巻いていた。そのため大村暗殺の主犯として疑われていりる。
さてっ軍事の席上西郷は静かに大村の説明を聞き大村の意見を採用したが、薩摩軍の配置を見て「薩摩兵を」皆殺しになさるおつもりか」と問うと、大村は「そうです」と答えたと言う。これは小説花神の一節であるが物語を面白くするためのフィクションであろう。
正しくは「薩摩兵は最強兵ですので、かように強い兵には黒門を担当して頂きたい」と言ったと聞いている。
大村は合理主義者で多分にぶっきらぼうの所があったらしい。小説「花神」ではことさらそのような性格が誇張されているので、そのような印象が広まったのかもしれない。
実際の大村は戦術として逃走路を設置するとしても、医者であるためあくまでも人間の命を大切にする戦術を検討したに違いない。
普通の参謀なら江戸の市中を火事から守る為に、何年分もの火事と風向きを調べて戦闘日を決定したりはしないであろう。
人命を大切にする大村が、西郷の質問に対して「そうです」と機械のように感情の無い言葉を発したとは考えにくい。
海江田辺りが嫌がらせに仕組んだ物語だろうと思う。 -
佐嘉(佐賀)藩兵上野彰義隊砲撃之図
佐賀藩のアームストロング砲2門が不忍の池を越えて上野を砲撃している絵だが、佐賀藩の大砲は本郷の加賀藩邸(現在の東京大学)に据え付けられて、そこから砲撃を開始した。 -
上野戦争の黒門。
上野戦争では城の大手門に当たるのがこの黒門。官軍の最強部隊と言われていた薩摩兵が担当し攻め込んだ。
長州軍は木や岩陰に隠れたり身を伏せて射撃したので「盗人射撃」と言われたが、薩摩兵は隊列を組み、さらに身を挺して射撃したので、さすが薩摩は強兵よと官軍からも賞賛されたと言う。 -
大村益次郎が翻訳したオランダの兵学書。
山口明倫館兵学校(兵学寮)や普門寺の三兵塾でテキストとして使用された。 -
上野戦争で佐賀藩が使用したと伝わる6ポンドアームストロング砲の複製
現在佐賀城本丸歴史観に展示されている。写真はそのアームストロング砲。
説明文の通り佐賀藩は英国から9ポンドと6ポンドのアームストロング砲を購入。時の藩主鍋島直正は精錬方(今でいう理化学研究)にアームストロング砲の複製を命じた。
佐賀藩精錬方の頭人であった佐野常民(日本赤十字の創始者でもある)は「からくり儀右衛門」こと田中久重を精錬方に招聘した。
田中久重は蒸気機関車や蒸気船、反射炉の設計や大砲(鉄製のカノン砲)製造に大きく貢献した。
こうして佐賀藩独自でアームストロング砲(6ポンド砲)を完成させ、試射もおこなったとされる。
その6ポンド砲と輸入したアームストロング6ポンド砲が上野戦争やその後の戊辰戦争で佐賀の大砲として活躍した。
私が20年前におとずれた佐賀城本丸歴史館にはアームストロングの模型と共に大砲製作時に参考としたや大砲製造の翻訳書や図面。ライフリングの工作機械や田中久重が作成した万年時計の実物が展示してあった。
一番目を引いたのが「幕末唯一日本人の手によって完成した佐賀藩のアームストロング砲」と言うタイトルであった。
私は書物で佐賀藩独自でアームストロング砲を製作したことは知っていたし、小説「花神」でも佐賀藩のアームストロング砲が彰義隊鎮圧に大きく貢献した事が書かれていたので、大変興奮した事を今でも覚えている。
しかし近年このアームストロング砲を佐賀藩が製作したことと言う事に疑義が生じじている。
佐賀藩がアームストロング砲を製造したと言う事は昭和9年に刊行された「佐賀藩銃砲遠隔史」の記述だけである。
しかし、同時代の記録にはそういう記録は無い。一方佐賀藩が製造した鉄製の8ポンドカノン砲や36ポンドカノン砲、製鉄の困難さについては詳しい記録が残されている。
それなのにアームストロング砲についての記録は、秀島藤之進が製造を命じられたことと藤之進がアームストロング砲の研究中に精神を病み同僚の田中儀右衛門(田中久重の養子)を殺害した事しか分かっていない。
アームストロング砲の製造に必要とされる工業レベルと佐賀藩の工業レベルとは大きな格差があり、佐賀藩がアームストロング砲を製造したと言うのは疑わしいとされている。
現在佐賀城本丸歴史館のHPでは「佐賀の大砲」とは書かれているが、佐賀藩が製造した大砲とは書かれていないし、県や市の公式観光サイトでも同じように佐賀藩が製造した大砲とは書かれていない。
佐賀県教育委員会文化振興課の記事では佐賀藩がアームストロング砲を作ったかどうかは現在のところその実非は明らかでないと書かれている。
さて、上野戦争で使用した佐賀藩のアームストロング砲は6ポンド砲2門と言う事である。。
佐賀藩がアームストロング砲を製造していなければ、上野戦争で使用された佐賀の大砲は6ポンド砲と9本ポンド砲だったのか?
それともグラバー商会から購入したのは6ポンド砲2門だったのかもしれない。
さて、6ポンド砲の砲弾は4キロ弾で火力が弱く命中精度も低かったので実際にはさほどの威力は無かったらしい。
薩摩郡や長州軍が使用したフランス製の四斤山砲(口径効果が86.5ミリ)の方が威力があったのかもしれない。
さて、佐賀藩のアームストロング砲とは別に活躍したのが薩摩藩の四斤山砲である。薩摩藩は黒門に7門の大砲を用意したが、広小路が狭いため4門しか設置できなかった。そのため山王台正面の料理屋「雁鍋」の2階に稼働していない四斤山砲を分解して運び、組み立て直して上野の山王台砲台に向けて砲撃している。
四斤山砲はフランス製のライフリング青銅砲で、分解組み立てがしやすく持ち運びに便利であった。しライフリング砲なので砲弾は椎の実弾で命中率も良く幕府軍、征討軍共によく使用した大砲である。 -
大村益次郎が使用した陣笠。
益次郎が考案した軍服や旗を図示した物。
江戸日誌は佐幕系新聞に対抗して大村益次郎が発行した官報。益次郎自身が記事を書き毎日発行した。この日誌で益次郎は上野戦争の正当性を論理的に説明している。 -
益次郎が参内の時に使用した扇子と長扇。
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千五百石永世下賜の宣旨
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明治新政府と益次郎
大村益次郎は明治2年10月軍務館副知事に就任し軍政改革の担うことになった。
当時建軍プランは2つあった。一つは薩摩・長州・土佐藩兵を主体とした中央軍隊編成しようとする方法でこれを強く主張したのが大久保利通である。
一方藩兵に依存しないで政府直轄軍の創設(国民皆兵・徴兵制)を図るとするのが大村益次郎や木戸孝允であった。この2つの案は兵制会議で激しく対立する。
上野戦争の軍議やその他で大村と激しく対立していた薩摩藩の海江田信義は大久保利通にとても可愛がられていて弟分のような存在だった。
当然大村との確執は詳しく知っていた訳で、弟分可愛さで嫌がらせも含めて執拗に大村の案に反対したのではないだろうか。 -
職員録に見る大村益次郎の動静。
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三条実美に宛てに提出した益次郎の建軍プラン。
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大村益次郎の遭難と最期
建軍プランでは大久保利通の三藩兵論が通り、三藩兵が御親兵となる事が決定され、大村の国民皆兵論は大久保に敗れた。
その結果大久保が考えていた建軍構想(廃藩、廃刀令、鎮台の設置、兵学校の設置、武器工場の建設など)はことごとく退けられた。さらに大久保は大村益次郎の更迭まで主張しはしめた。
ほどなく大村は辞表を出したが、軍事に関して大村に代わるべき人物はいなかった。
そのため明治2年7月兵部大輔に任官した。事実上益次郎が事実上益次郎が日本の軍制改革を指導した。戊辰戦争で参謀として活躍した門弟の山田顕義を兵部大丞に推薦し師弟で軍政改革を進める。
まず大久保に握りつぶされた建軍構想を大阪で次々と実施して行く。建軍の中核を東京から大阪に移したのは大久保派の妨害から脱するためであったが、それ以上に重要な意図があったと言う。
それは西国の雄薩摩藩の動向を意識していたからである。必ず薩摩士族が反乱を起ことを見抜いて遠大な計画を立てていたといわれている。
それを暗示するように益次郎が臨終の際に門下生の船越衛に「西国から敵(薩摩軍)が来るから四斤山砲を沢山こしらえろ。今はその計画はしてあるが、人に知らせぬように」と遺言している。
大村の建軍構想の内すでに大阪では兵学校が建設に着手していた。そして宇治に火薬製造所、大阪に造兵廠(大阪砲兵工廠)の建設が決定された。その後陸軍病院も大阪に開設される。
大阪なら瀬戸内海を船で運搬すれば武器弾薬がスムーズに九州へ輸送できるからであった。
これらの施設の内京都伏見の練兵場の検閲と宇治の弾薬との予定地の見聞のため京都を訪れた時に、益次郎は同行者と共に京都の旅館で8人の刺客に襲われた。
同行者はその場で切られて死亡、益次郎は残り湯がある風呂桶に身を沈めて難を逃れたが重症を負っていた。
一命を取り留めた益次郎だが風呂の残り湯から細菌が入り敗血症になった。病状が悪化して右大腿部を切断したものの手遅れで様態が急変し45歳で亡くなった。
襲った8人の刺客の内3人が元長州藩士だった。その中に一人が神代直人(こおじろなおと)である。彼は狂信的な攘夷論者で薩摩の海江田信義と親しかった。
さらに海江田は口々に「大村を殺してやる」と言っていたため、8名の刺客を送ったのは海江田信義ではないかと疑われて取り調べを受けたが、決定的な証拠がないためうやむやになって刑罰を逃れた。
海江田救命のため大久保利通から圧力がかかったのではないかと囁かれたと言う。
なお神代直人は高杉晋作の暗殺も企てていた。それを知った高杉は「神代に狙われたら命がいくつあっても足りぬは。しばらく姿を隠すぞ」と奇兵隊隊士に告げて脱藩し、筑前に逃れている。
こういう形で有能な人材を失ったのは明治新政府にとって計り知れない損失だったと思うと残念でならない。 -
当初の大村神社と神道碑。
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大村益次郎遭難の碑と遭難現場の見取り図
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大村益次郎が遭難した次の日の容体を書いたカルテの草稿。
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カルテの草稿の現代語訳。
遭難翌日の容体はまだ敗血症を起こしていないので、刀傷の状態が書かれている。
額を始め多くは体の右側に刀傷を受けていた。大きな傷は左額の上と右足の膝頭の傷。
左額も傷は骨が露出し動脈が切断。右足の膝頭は縦12㎝、深さ1.5㎝で靭帯を切断。宿の風呂桶に隠れた時、風呂の残り湯に水が浸かってしまい。この時細菌が傷跡から侵入して敗血症を起こし、死因となった。 -
容体のカルテの説明文
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三瀬諸淵(周三)と妻の高子。
三瀬は宇和島の医師で二宮敬作の弟子。益次郎からオランダ語を学んだ。高子は楠本イネ(おらんだおイネさん)の娘でシーボルトの孫。
二人と楠本イネは大阪病院で益次郎に付き添って看病し、最後をみとった。 -
大村益次郎の書状。
益次郎が亡くなる前に三条実美に宛てた最後の手紙。
内容は説明文を参照。この中で陸軍病院の必要を訴えており、益次郎の死後大阪に陸軍病院がj建設され、西南戦争で負傷した政府軍の兵士が沢山担ぎ込まれた。 -
東京招魂社と益次郎
東京招魂社は大村益次郎によって戊辰戦争で亡くなった政府軍の将兵の霊を祀る社として九段坂の上に建てられた。
後に靖国神社と名称を変えて別格官幣社となり、幕末以降の国事殉難者や日清・日露戦争、そして昭和の大東亜戦争で亡くなった英霊を祀る神社として今日に至る。
元は戊辰戦争で亡くなった新政府軍の将兵の御霊を祀る招魂社の発案は木戸孝允であるが、実現させたには大村益次郎である。
靖国神社の境内には大村益次郎の銅像があるが、これは大村益次郎に愛弟子山田顕義が内務卿の時に山田らが中心となって建立した物である。
東京招魂社が靖国神社と名称変更されたように、日本各地に設立された招魂社は昭和14年に護国神社と改称され、国家のために殉難した殉難した英霊を祀る神社となった。
戦死者だけでなく、自衛官・警察官・消防士等の公務殉職者を主祭神としている。
なお日本初の招魂場は下関の桜山招魂場である。高杉晋作の発議により殉国の志士の靈を祀る招魂場として造られた日本最初の神社である。
当初は攘夷戦による奇兵隊の戦死者の靈を弔うものとして造られたが、その後の四境戦争や戊辰戦争における長州の戦死者も合祀された。
さらに吉田松陰や高杉晋作、久坂玄瑞などの明治維新の指導者たちも合祀された。
靖国神社はこの桜山招魂場が原形となっている。 -
大村益次郎の錦絵。
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靖国神社の大村益次郎像
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大村益次郎亡き後の軍政改革
兵部大輔として軍政改革を進めて来た大村益次郎が亡くなると、益次郎の門弟であった兵部大丞山田顕義らよってまとめられた「故大村大輔軍務前途大綱」が上申された。
一方大村益次郎の死後、大村の建軍構想に全て反対してきた大久保利通一派が勢いを吹き返し、大村の建軍構想を全て覆す動きを始めた。
大久保は薩摩の黒田清隆や川村純義を加え、旧幕臣の勝安房(勝海舟)を山田顕義と同じ兵部大丞に就任させて大久保一派に取り込み、大村益次郎の建軍構想を無き物にしようと、山田が上申した「故大村大輔軍務前途大綱」の無力化を図ってきた。
兵部省内部に大久保派を出現させ、大久保派の件軍プラン「兵部省前途之大綱」を上申した。
大久保派の巻き返しは猛烈で兵部省内に薩摩派と長州派が出現し、省務は停滞してしまった。
ちなみに薩摩派は大久保利通・黒田清隆・川村純義・勝海舟・岩倉具視で長州派は木戸孝允・三条実美・大村益次郎の後継者山田顕義であった。
明治の軍政改革は大村益次郎と山県有朋とよく言われるが、この時点では山県は名前すら上がっておらず、箸にも棒にもならない存在であった。
山縣有朋が兵部省に名を連ねるのは謀略によって山田顕義が任官するはずだった陸軍少将の地位を山田から奪ってからである。
大久保派はすでに建設が始まっている兵学寮(陸軍士官学校)まで白紙に戻そうと画策した。
兵部省内の事務の停滞は如何ともしがたいので両派で協議し折衷案を練り上げた。
それによると兵制は大久保派が主張する薩摩・長州・土佐の征討軍の藩兵を御親兵とする。
一方山田らが主張した大阪を軍事の拠点とする案はそのまま採用された。
すでに建設が着手されていた大阪兵学寮は、依然黒田清隆や川村純義の反対があったが建設が進んでいたため継続が決定された。
またフランス式兵制も決定され、明治3年11月には徴兵規則が発布された。 -
大村益次郎亡き後の軍政改革の各項目の拡大画面。
上記の写真は見にくいので各項目ごとに拡大した。
1 益次郎の「門弟」山田顕義らによる建軍構想の上申 -
2 大久保利通らによる建軍構想の上申
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3 折衷案建軍構想
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4 大阪兵学寮の建設と「徴兵規則」の発布
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新政府の建軍構想の変遷
徴兵規則発布まで -
明治4年陸軍徽章のフランス式軍服
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大村益次郎に宛てた山田顕義の手紙
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上記の現代語訳
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明治天皇下賜の直垂
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明治2年に明治天皇から賜った物。
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最後の展示コーナーは大村益次郎と妻コトの日常生活の遺品が展されていた。
二人の普段の生活が垣間見れる。
大村益次郎旧宅の間取り図
益次郎の死後鋳銭司に帰郷したコトが新築した家の間取り図 -
益次郎の妻大村コトの肖像画と遺愛の盃。
-
益次郎の愛用品
すず徳利 益次郎は酒が好きで豆腐を肴によく飲んでいたという。
三組杯 これもお酒を飲む時に使用した盃だろう。
硯屏(けんぴょう) 硯の傍に立てて風や塵を防ぐもの・・私は硯屏というものは知らなくて、見るのも初めてであった。 -
愛用の碁石。
これで第一資料室の説明は終わり、次回は第二展示室の貨幣資料展示をご紹介します。
訪問下さり有り難うございました。
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