2025/04/08 - 2025/04/08
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ポポポさん
この旅行記のスケジュール
2025/04/08
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司馬遼太郎「花神」文学碑
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旧大村神社跡
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大村益次郎「神道碑」
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大村益次郎の墓
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この旅行記スケジュールを元に
今回からは山口旧市内の近郊に散らばる維新史跡を訪ねてみます。すでに小郡宰判の中心地山口市小郡を訪れましたが、同じ宰判内には維新史跡関連の史跡がいくつも残されています。
その中で長州藩復活の立役者で倒幕戦を指導した大村益次郎の出身地、山口市鋳銭司(幕末は吉敷郡鋳銭司村)を訪れました。
鋳銭司には大村益次郎生誕地や大村益次郎墓地、大村益次郎を祀った大村神社の他、大村益次郎の足跡や経歴が詳しく紹介されている鋳銭司郷土館を訪れました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ここは山口市鋳銭司にある広大な空き地で、広さが約4haもある国の史跡である。
ここは鋳銭司に来たらまず訪れたい場所だ。何故ならここは周防鋳銭司、平安時代に皇朝十二銭が鋳造された場所だからである。
この地に鋳銭司が設けられたのは天長2年(825年)、長門の鋳銭司が廃止されたこの地に新たに鋳銭司が設けられた。
長門鋳銭司は現在の下関市長府安養寺の敷地にあったと言われている。長門鋳銭司が廃止されたのは銅の不足が原因らしい。
長門からここに鋳銭司が移されてから11世紀初め頃までの200年間、日本で唯一の鋳銭司として存在したのが周防鋳銭司である。
ここで鋳造された貨幣は皇朝十二銭のうち富寿神宝から乾元大宝までの8種類と考えられている。周防鋳銭司跡 名所・史跡
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これまでの発掘で8種類の貨幣のうち富寿神宝、承和昌宝、長年大宝、饒益神宝(にょうやくしんぽう)の4種類の貨幣が見つかった。
そして今年6月新たに平安時代の貞観永宝が発見された。貞観永宝は貞観12年(870年)から寛平2年(890年)までに作られたと文献資料に記されている。
この貨幣は周防鋳銭司と京都嵐山にあった葛野(かどの)鋳銭所で鋳造された。
写真は周防鋳銭司跡の説明板。 -
次は大村益次郎に関連する史跡を訪れた。
まず訪れたのは大村益次郎の生誕宅跡。JR山陽本線四辻駅の近くにある。
山県有朋の筆による石碑があり、生誕地跡は公園化されていた。
訪れた時は桜が満開の時期で、近くの職場に勤務しているらしい若い女性職員5~6人が花見に来ていた。大村益次郎生誕地 名所・史跡
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ここは大村益次郎の祖先が代々居住していた場所で、益次郎は文政8年(1825年)にこの地で生まれた。
幼名を村田宗太郎といい、次いで良庵、後に蔵六と改め、武士になると大村益次郎と改名した。
父は村田孝益(秋穂の藤村家から村田家に婿養子に入る)、母はむめと言う。
3歳の時に父の実家がある山口市秋穂天田に移り住み、18歳まで父方の実家で育った。
鋳銭司の家(生家)は焼き払われたそうだ。現在は公園化され、建物の位置を示す礎石や敷石は無い。
大村益次郎は維新十傑の一人で長州藩の医師・西洋学者・兵学者で四境戦争や戊辰戦争では参謀として活躍した。
維新後は兵部大輔として軍政改革に取り組んだ。 -
生誕地の奥に建っている石碑が大村益次郎生誕宅跡の碑
大村益次郎生誕地 名所・史跡
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石碑は山県有朋の筆による。
大村益次郎生誕地 名所・史跡
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「故兵部大輔大村永敏卿 誕生地」の碑。
大村益次郎生誕地 名所・史跡
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石碑は大正四年四月に鋳銭司村の有志によって建立された。
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訪れた日はソメイヨシノが満開。
公園化された生誕地の周囲にはソメイヨシノが植えてあり、周囲の住民の花見見物の場所になっているようだ。
若い女性のグループが花見見物に訪れて花見弁当を広げていた。 -
生誕地には日本庭園もあって、ちょっとした地区の住民の憩いの場所でもあるようだ。
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次に訪れたのは長沢湖畔にある大村神社。
ここもソメイヨシノが満開だった。
大村神社は大村益次郎を祀る神社である。大村神社 寺・神社・教会
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神社の境内には大村神社の説明板や大村益次郎の略歴説明板、大村益次郎墓所などの説明板がある。
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大村神社の説明板。
大村神社の祭神は大村益次郎である為、大村益次郎の略歴が書かれていた。
維新後明治新政府では兵部大輔として軍政改革に着手し、国軍の建設に尽力した。
大村益次郎は国民皆兵を念頭に農民や庶民を中心とした政府直属軍の創設を図ろうとしたが、薩摩・長州・土佐藩兵を主体としようとする大久保利通らと激論が交わされた。結局大久保が主張する三藩兵論に、国民皆兵論に消極的な岩倉具視までが大久保支持に回り、大村益次郎の建軍構想はことごとく退けられた。
しかし軍事に関して大村に代わる人物はおらず、大村は兵部大輔に就任すると建軍の中心を東京から関西に移し、大阪に兵学寮(陸軍士官学校)を設置、京都の宇治に火薬製造所、大阪に造兵廠(大阪砲兵工廠)と陸軍病院の建設が決定された。
これらの処置は雄藩である薩摩の反乱(西南戦争)を見越したからと言われている。
臨終に当たり「西国から敵が来るから四斤砲を沢山こしらえておけ。」と部下に遺言した事からも、薩摩士族の反乱を予見していた事が窺われる。
大村の卓抜した先見性のお陰で薩摩士族の反乱を抑えることができたと言えるだろう。
大村は京都に視察の途中旧氏族8人の刺客に襲われ重傷を負う。傷口から菌が入り敗血症となり亡くなった。
遺骸は船で瀬戸内海を運ばれ三田尻港に着岸。4名の陸軍士官によって運ばれ、現在の墓地に埋葬された。
ちなみに4名のうち2人の士官は児玉源太郎(陸軍大将、台湾総督、日露戦争の満州軍総参謀長)と乃木希典(陸軍大将、日露戦争時第三軍司令官)であった。 -
維新の先覚者大村益次郎。
大村益次郎の略歴が分かりやすく説明されていた。 -
大村益次郎関連史跡の案内図。
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大村神社の社殿。
大村神社 寺・神社・教会
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大村神社の社殿は明治5年3月に大村益次郎の墓の側に建てられた。
場所は長沢湖の北畔の円山南麓であった。鋳銭司の村民180人が、鋳銭司で最も景色が良くて朝日や夕日が照り輝く最も美しい場所を選んで社殿を建てたそうである。
社殿の建設には鋳銭司村をはじめ近郊の青年たちが多数勤労奉祀をして建てられたとの記録が残されている。
当初社殿は県社、郷社などの格付けが無く無各社だったので、当時の村長らが県社に格付けするようにと申請し、県社にふさわしい社殿にしようと「起源2600年」(昭和15年)の祈念事業として、翌年から鋳銭司村を挙げて現在の場所に新しい社殿を建て始めた。
昭和16年から始まった大村神社の新社殿は前途多難であった。その年から太平洋戦争が始まり、戦況の悪化に伴い資材が不足して社殿が完成したのは戦後の昭和21年であった。
新社殿の完成により以前の社殿は当時の宮司が兼務していた防府市華城の伊佐江八幡宮の社殿として移築された。大村神社 寺・神社・教会
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旧大村神社社殿の説明板。
写真は以前建っていた大村神社の社殿。社殿の前に建てられている大きな碑文が神道碑である。
説明によれば明治11年に三条実美や伊藤博文ら関係者74人が協力して建てた石碑である。
日本における神道碑は国家に功績があった人物の墓所参道沿いに建てられ、その人物を顕彰する役割を担った石碑の事である。
神道碑は君主、高官、勲爵など上層階級の人物にしか適用されない。 -
大村神社境内から眺めた景色。
眼前に長沢湖が広がり景観はすこぶる良い。この写真には写っていないが、長沢湖左湖畔では桜が満開だった。長沢池 自然・景勝地
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境内にあるのは司馬遼太郎の小説「花神」の文学碑。
「花神」司馬遼太郎の代表的な小説の一つで大村益次郎が主人公。もう何十年も前にNHKの大河ドラマにもなった。大村神社 寺・神社・教会
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小説「花神」の文学碑。
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小説「花神」の一節である。
確か小説の冒頭の一節だったように記憶している。 -
次は旧大村神社の跡地へ。
旧大村神社は大村益次郎の墓地の左隣にある。
現在社殿は無いが、ひっそりと建っている神社の鳥居が、以前ここに社殿があった事を物語っている。
なお旧社殿参道の手前には無料駐車場が完備されていた。 -
大村益次郎墓所付近の観光案内図。国家に功績があった人の墓所等の参道に沿って建てられているのが「神道碑」。
神道碑はここに建てられたままの状態で残っている。 -
旧大村神社は写真右に見える神道碑の左側の奥、旧大村神社の社殿の説明板がある場所に建てられていた。
鳥居から旧社殿の説明板に至る通りが旧社殿の参道であった。神道碑は国家に功績があった人の墓所等の参道に沿って建てられていると言うことから、碑の左に神社の参道があった事が分かる。 -
この説明板の後ろに旧大村神社の社殿が建てられていた。
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ここにも旧大村神社社殿の説明板があった。
説明板の左下の写真では鳥居の奥に参道が真っすぐ続き、その奥に社殿があった事が分かる。 -
大村益次郎の神道碑。
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旧大村神社の社殿の右隣が大蔵益次郎の墓所。
大村益次郎の墓、大村神社、鋳銭司郷土館 名所・史跡
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大村益次郎墓所の説明板。
大村益次郎の略歴と、死後遺骸は瀬戸内海を船で運ばれてこの地に埋葬されたことが書かれている。
ここには大村益次郎と妻「琴子」の墓が並んで建てられている。 -
大村益次郎の墓。
写真では墓の大きさが分からないと思うが、かなり大きな墓である。
最初にこの墓地を訪れた時はとてつもなく大きな墓に見えてその大きさに驚いたのだが、今回改めて訪れてみると以前見た時のように大きくは見えなかった。
どうしてこんなにも違って見えるのか今でも不思議な気がするが、最初に訪れた時には維新に大きな功績があり瀕死の長州を救った偉大な人物として尊敬していたので、実物よりもはるかに大きく見えていたのかもしれない。大村益次郎の墓、大村神社、鋳銭司郷土館 名所・史跡
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妻琴子の墓。
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墓には「故兵部大輔贈従三位大村永敏」と刻まれいた。
名前の「永敏」は諱、大村益次郎の本名である。大村益次郎の墓、大村神社、鋳銭司郷土館 名所・史跡
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墓の字が読み難いのでアップにした。
大村益次郎の墓、大村神社、鋳銭司郷土館 名所・史跡
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大正8年11月27日に追贈従二位になっている。
大村益次郎の墓、大村神社、鋳銭司郷土館 名所・史跡
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こちらは妻琴子の墓である。
墓は夫の益次郎と大きさも作りも同じである。 -
大村神社の右隣にあるのが鋳銭司郷土館。
郷土館という名称だが博物館である。建物の右半分は第一展示室で大村益次郎の生涯にわたる資料と遺品に遺墨、左半分の第二展示室にはお金の歴史と鋳銭司遺跡からの出土品が展示されている。
今年4月には展示替えが行われた。特に大村益次郎に関する展示資料が大幅に充実したのはありがたい。
この資料館を訪れると大村益次郎の生涯が分かるように展示に工夫がされていた。
入館料は110円と安い。70歳以上のシニアと18歳以下、障害のある人とその付添者は無料である。鋳銭司郷土館 美術館・博物館
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入り口から第一展示室に向かう途中の部屋にはミニシアターがあり大村益次郎の生涯を映像で見ることができる。
鋳銭司郷土館 美術館・博物館
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郷土館入口横の駐車場側に掲げてあった「明治維新削減地 山口市」の説明板。
説明文と共に山口市に関係のある人物が描かれていたが、坂本龍馬は山口に来た事があるのかな?
中岡慎太郎なら土佐勤皇党弾圧時に脱藩し、長州藩に亡命して浪士組に加盟。禁門の変に参戦しているので間違いないのだが・・・。 -
この部屋がミニシアターの部屋。
係員に頼めばいつでも上映に応じてくれる。大村益次郎の生涯を簡単に知る事ができるので、映像を見て展示品を見た方が理解し易いと思う。鋳銭司郷土館 美術館・博物館
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第一展示室に鎮座する大村益次郎像。
靖国神社にある大村益次郎像の縮小複製像。鋳銭司郷土館 美術館・博物館
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幕末に使用された鉄砲。
一番上の鉄砲は火縄銃。一般的な火縄銃よりも銃身が短い。説明のプレートに光が反射して見えないので銃の名称は不明。但し撃鉄や銃身から先込滑腔銃身だと分かる。真ん中はゲベール銃。幕末に輸入されたが所詮は火縄銃のため旧式の銃にかわわりは無い。
一番下がミニエー銃。長州藩ではこの鉄砲を薩摩藩名義で長崎のトーマス・グラバー(グラバー商会)から大量に買い入れた。
ミニエー銃は火縄銃と同じく先込め銃だが、砲身内に施条が施されたライフル銃であったため、射程距離や命中率でゲベール銃を凌駕した。
さらに長州藩はスナイドル銃(後装式ライフル銃、元込式ライフル銃)をグラバー商会から多く買い付けている。
スナイドル銃はイギリスで開発された銃であるが、イギリス国軍が正式採用する以前にグラバーが長州の為に買い付けた。
長州藩諸隊はこの銃とミニエー銃を四境戦争で使用し、寡兵で弱小ながらも大軍の幕府軍と互角に戦い、一部の地域では幕府軍を大いに打ち破った。鋳銭司郷土館 美術館・博物館
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ミニエー銃の説明文。
ここではスナイドル銃には触れていない。 -
アームストロング砲弾と四斤山砲弾。
アームストロング砲はイギリスで開発されたライフル式後装砲。イギリス海軍に正式採用され戦闘艦に配備された。その砲弾の洗礼を受けたのが薩英戦争と下関戦争四カ国連合艦隊砲撃)である。
薩英戦争では薩摩軍は英国艦隊に被害を与えたが、下関戦争(攘夷戦)では長州軍は四カ国連合艦隊に全ての砲台を破壊され、完膚なきまでに叩き潰された。
連合艦隊の陸戦隊は赤間関(下関)に上陸、長州軍は陸戦でも敗退し前田砲台が占領された。この時長州はアームストロング砲の破壊力をまざまざと見せつけられたのである。 -
ゲベール銃(先込式滑腔銃身で雷管式もあるが所謂火縄銃)
第二次長州征伐時にはすで時代遅れの旧式銃になっていた。
長州諸隊が装備していたのは新式のミニエー銃だったので、兵装では長州軍の方がはるかに勝っていた。
大村益次郎の基本的な考え方は、長州軍諸隊の主力は百姓兵であったため武士に比べて弱いと言う事だった。
そのため幕府軍と白兵戦はしない。いくら銃剣道の訓練をしていても切りあいになれば百姓兵は恐れて勝負にならない事は火を見るよりも明らかだったからだ。
そのために長州兵は白兵戦を避け散兵戦術を駆使して幕府軍の射程よりも遠い所から物陰に隠れ、身を伏せて射撃するように訓練されていた。 -
韮山笠
幕府歩兵や長州軍諸隊が使用した陣中笠。 -
薩摩藩で製作された十文字砲のレプリカ。
薩英戦争で使用された。 -
大砲の説明。
長州では色々な大砲を使っていたと説明にあるが、主に使用されていたのは四山斤砲。
ライフリングされた青銅製の山砲で、幕府陸軍でも使用していた。
軽量で機動性に優れ、分解すれば馬2頭運べるという利便性に優れていた。 -
鋳銭司に点在する大村益次郎ゆかりの場所。
この中で訪れたのは生誕地と長沢湖畔の史跡のみ。こんなにゆかりの場所があるとは知らなかった。 -
「全国を以って一太刀と為す」は大村益次郎が語った言葉であり、新国家建設に向けて彼の信念であった。
その具体的な施策が兵制改革、国民皆兵であった。戊辰戦争が終結し明治維新が確率したからには、旧幕府方も新政府方も恩讐を越えて一つの国家にまとまらなければならない。そして虎視眈々と日本を狙う西欧列強に対抗するには兵制改革、ひいては国民皆兵による軍備強化を構想していたのだ。
しかし兵制改革の構想は大久保利通を中心とする薩摩・長州・土佐の藩兵とする御親兵派の意見が通り、大村の件軍構想はことごとく退けられた。
大村の建軍構想は諸藩の廃止、廃刀令の実施、徴兵令、鎮台の設置、兵学校の設立などであった。
大村の建軍構想は大久保利通によって一度は潰されたが、軍事専門家は大村以外にはいなかったので大村が兵部大輔になると逐次実施されるようになり、主要なものは大村没後に実施された。 -
「全国を以って一太刀と為す」の説明。
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ここからは大村益次郎の展示資料である。
大村益次郎は出生年と生誕地について共に2説があった。出生年は戸籍の写しから文政8年(1825年)5月3日が定説となっている。
出生地は鋳銭司村と父村田孝益の実家である秋穂(現在の山口市秋穂西東天田)の2説がある。元々鋳銭司村説が有力であったが、弟文恭の文書により益次郎が鋳銭司で生まれて3歳の時に一家で秋穂天田に移り住み、幼少期から青年期まで秋穂で過ごした事が分かった。そのため現在では鋳銭司が生誕地となっている。
元々父孝益は秋穂天田の藤村家の生まれで一人息子であった。母は村田むめで村医者村田家の一人娘であった。
両人が結婚するに際し、孝益が村田家に養子婿に入り医者を継いだ。秋穂の藤村家を継ぐ者がいなくなるので、益次郎が生まれると宗太郎と名づけられて秋穂の藤村家を継ぐ事が決められた。
しかし益次郎は村医者になって村田家を継いだため、二男の文恭が藤村家を継いでいる。鋳銭司郷土館 美術館・博物館
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秋穂、鋳銭司の生誕地にはそれぞれ大村益次郎生誕地の碑が建てられている。
どちらも碑文は山縣有朋によって書かれたものである。 -
父、藤村孝益の手紙。
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母、むめの手紙と大村益次郎の戸籍。
幼名は宗太郎であった。 -
修学時代の始まり。
益次郎は18歳になると三田尻(現在の防府市)の蘭方医梅田幽斎の私塾に入る。
益次郎は幽斎から蘭学を学ぶには漢籍を学ぶ事が必須だと教えられ、漢学修行のため広瀬淡窓の私塾咸宜園(大分市日田)に入ることにした。 -
益次郎が使用していた洋書。
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益次郎は天保14年(1843年)に4月7日、20歳の時に広瀬淡窓の咸宜園に入塾する。
咸宜園は徹底した実力主義で、益次郎(宗太郎)の昇進は早かったと言われている。 -
咸宜園入門簿と咸宜園絵図。
入門簿には周防国三田尻の村田宗太郎(大村益次郎)が小泉玄常の紹介で入塾したことが書かれている。 -
大坂適塾と緒方洪庵
咸宜園から帰郷した益次郎は梅田幽斎の塾に復学し、22歳の時に適塾に入門した。
入門帳には「吉敷郡秋穂 村田良庵」と記されているそうだ。
適塾の塾主は緒方洪庵である。当代きっての蘭方医・蘭学者で教育者でもあった。
洪庵の名声は全国に知れ渡り、多くの優秀な人材が全国から集まって来た。
この塾で益次郎は入門から3年目の春に塾頭になった。
歴代の塾頭で著名人は3代目の久坂玄機(久坂玄瑞の兄。長州随一の俊英でその資質を早くから藩に認められ、将来を藩から嘱望されていた人物。
適塾の塾頭になれるくらいの学識と実力を備えており、医学の外にも西洋軍事学の評価も高く、多くの西洋軍事学の翻訳書を残している。しかし、病気にかかり惜しまれながらも35歳の若さで生涯を終えた。)4代目が大村益次郎、そして10代目の塾頭が福沢諭吉である。
塾生では橋本佐内、大鳥圭介、佐野常民、高松凌雲、高峰譲吉、手塚良仙(手塚治虫の曽祖父)、所幾太郎などなどが名を連ねる。 -
大村益次郎の蘭箱と益次郎の蔵書「蘭語通」。
「蘭語通」はオランダ語辞書「ゾーフハルマ」に蘭学者牧天穆が加除・訂正を加えたもので安政4年(1857年)に発刊された。
「ゾーフハルマ」は大変貴重な辞書で緒方洪庵はその写本を1冊購入して「ゾーフ部屋」に保管していた。この辞書を塾生が競って使用していたと言う。 -
蘭箱と「蘭語通」の説明書き。
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適塾の姓名録と適塾の主な門下生。
姓名録の中歩ほどに「防州吉敷郡秋穂 村田良庵」とある。しかし良庵とは読めない。良恭としか読めないのだ。
そのためなのか名前の右に蔵六と書かれており、村田蔵六(大村益次郎)だと分かる。
郷土館の説明はこの辺りで一旦区切って、続きは次の旅行記で説明することにします。
訪問下さりありがとうございました。
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