2025/04/12 - 2025/04/12
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ポポポさん
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山口市の維新の旅、次は維新の原動力となった小郡宰判の中心地である小郡に残る維新の史跡を訪ねてみた。
小郡宰判の大庄屋だった林勇蔵の墓所ももちろん小郡にある。
まずは林勇蔵翁の墓所を訪ねてみることにした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
今回の旅行記は山口市小郡町にある多聞寺から。
多聞寺は曹洞宗の禅寺。多聞寺は林家の菩提寺である。先祖代々の墓は多聞寺の墓所にあるが、勇蔵翁以降の墓は寺から約400m離れた高台にあるとの事で、山門前の駐車場に車を置いて歩いて行くことにした。
しかしこれが間違いだった。林家の墓地は高台では無く山の中腹のさらにその上の一番高い場所にあったのだ。 -
墓地までは舗装された道路ではあったが坂道が続く山道だった。汗を拭き拭き墓地に到着すると、そこは駐車場が完備された大規模な共同墓地だった。
多分地区の共同墓地だと思われるが何せ墓の数が多い。
林勇蔵翁の墓地の案内看板すら無い。
ともかく何処に墓があるか分からないので、古い墓を探して回る。墓地の下の方は新しい墓が目立つので、坂道を上って上へ上えと歩いて行くと、不思議なことに全く迷うことなく林勇蔵翁の墓に辿り着けた。
写真は多聞寺の本堂。本堂は近年建て替えられたようで新しい建物だった。
多聞寺の本堂がある場所そのものが仁保津の丘陵地帯の高い場所にあり、下に山口線や国道9号線、仁保津の街並みを見下ろす位置にある。
そのためかとても閑静な場所にある寺で、趣を感じた。 -
山腹の一番上の開けた場所にあったのが林本家の新墓地である。
碑には明治32年新設と刻まれていた。 -
ここが林本家の墓地。
墓地入口には2本の石灯籠が建ち、その奥にある一段高い大灯篭は「吉敷郡南部12ケ村」と刻まれている。
かつての小郡宰判館内の12ケ村が奉献したものである。
奥の墓の右に建つのは顕彰碑かと思ったら、彰徳碑だそうだ。
彰徳碑とは、ある人の善行や徳行を広く知らせるための石碑。
一方顕彰碑は行いや功績を一般に知らせ表彰する石碑。どちらも誰かを讃え、広く世に名を知らしめるために建てられた石碑であるが、勇蔵翁は宰判内の人々が豊かに暮らせるように力を尽くしたので彰徳碑になったのだろう。
彰徳碑の左が林勇蔵翁の墓、その左隣が勇蔵翁の妻の墓、その左が勇三の嫡男夫婦の墓、その左が孫夫婦の墓である。 -
彰徳碑の右に二つの墓がある。共に林姓であるが勇蔵翁とどのような関係の人物かは分からなかった。
林家の誰かの墓であろう。 -
林勇蔵翁の墓。従六位という位階を賜っていた。
当時農民で位階を賜わるってのは珍しかったのではないかと思う。 -
吉敷郡南部12ケ村が奉献した大灯篭。
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林勇蔵翁の妻キヌの墓。
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林勇蔵の長男林修一の墓。
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林秀一の妻セムの墓。
セムは嘉川村の庄屋本間治郎右衛門(大庄屋本間治郎兵衛の父)の三女。
江戸時代は御分制度が厳しく、たとえ1町歩(水田の所有が1町歩、現在の面積では21ha)2町歩の本百姓であっても庄屋とは婚姻できなかったようだ。
庄屋は庄屋同士での結婚が通例であったので、小郡宰判を含めて近在の庄屋は皆縁戚同士であったと思われる。 -
仁保津墓地を後にする。
帰りは下り坂で楽ちん。下りの坂道沿いにはソメイヨシノが咲いていたがすでに盛りを過ぎ、多くの花びらが散っていた。 -
次は山口市小郡山手地区にある山口大神宮の遥拝所。
文久3年(1863年)5月10日下関で攘夷戦が開始されると、藩は小郡柳井田や防府市勝坂に関門を設け他国の人が山口に入りる事を禁止した。山口大神宮は西のお伊勢様として西国九州方面から多くの参拝者で賑わっていたが、この事により藩外の人が参拝することが出来なくなった。
影響を受けた山口大神宮の大宮司が同年10月に藩に柳井田と勝坂の両関門の外に遥拝所を建立する許可を願い出て、内宮が防府市台道、外宮が小郡に建立されることになり、小郡遥拝所は元治元年4月に完成した。
遥拝所の社地は二代目古林新右衛門の寄進によるものである。
残念ながら現在小郡遥拝所のみが現存しているが、これは明治以降小郡山手地区の住民が浄財を持ち寄り保存・修理した為である。
山口市の公式発表では文久3年の10月に山口大神宮の大宮司が藩に遥拝所の建立を願い出たとされているが、同じ時期に小郡宰判内の台道村(現在の防府市台道)と下郷村(現在の山口市小郡)が勘場(代官所)に遥拝所建立の要望書を出して誘致合戦を繰り広げていた。
これは大神宮遥拝所の参拝者が多く見込まれるため、村の経済の活性化になると考えていたためである。台道村の方が先に要望書を大官署に提出していたが、寺社奉行は両村の要望を入れて内宮、外宮をそれぞれ分けて建立することで建立を許可している。 -
遥拝所の神門の横に設置されている遥拝所の説明板。
説明文では元治元年1月から6月にかけて小郡村民が浄財を出し合って建立したとあるが遥拝所が完成したのは元治元年4月である。
この箇所は説明文の誤りである。
また文中小郡村民が浄財を出し合って建立したとあるが、当時小郡宰判内に小郡村という村は無い。
正確には下郷村の村民の浄財により建立したという記述が正しい。
社地を寄進した古林氏も下郷村民である。 -
入り口の神門。いつも閉ざされているようで、これより中には入れない。
この奥に中門、本殿と続き山口大神宮と同じ造りである。 -
遥拝所を横から見た様子である。
左から神門、中門、本殿と続いていることが分かる。 -
遥拝所から眺めた小郡の景色。
遥拝所のすぐ側には栄山公園。栄山神社、忠魂碑塔がある。 -
山口大神宮遥拝所の参道には、道標として設置されていた角柱の道標と高灯篭があった。
角柱は山口大神宮遥拝所の道標。小郡の中心津市下の山陽道沿いに楼門と道標が設置されていたが、楼門は昭和33年に取り壊され、道標は現在地に移設された。 -
こちらは山口大神宮の高灯篭。
天保11年(1840年)に山口大神宮の道標として下郷村の山陽道沿いに設置されていたが昭和33年に現地に移された。 -
次は栄山の山すそにある旧官祭山手招魂社。
山口大神宮遥拝所からは山中に設けられた自然観察道を歩いて行くことができるが、上り下りの道だったので車で直接行くことにした。
で到着したのが旧招魂社。ここも市道から細い山道を進まないといけないが、市道からは一本道だったので分かりやすかった。
小郡で結成された集義隊が慶応元年(1865年)7月に創設した招魂社で、蛤御門の戦い(禁門の変)で9名、四境戦争などで4名、諸隊の隊士計13柱の戦病死者が祀られている。
彼らは神として祀られているため、墓地の入り口には鳥居があった。
明治8年に官祭招魂社となったが、招魂社の祭神は戦後栄山神社に移された。 -
元招魂社維新諸隊士の墓の説明板。
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石段を上がり鳥居を潜った所が招魂場だった。
左側に7柱、右に6柱の墓があった。
奥から4柱目の墓には「京師終不審死所」(京都の何処で死んだのか不明)と刻まれており、禁門の変での負け戦の悲惨さが伝わってくる。 -
こちらは右側の6柱。
墓には本名の下に藤原○○とか源○○と彫られ、最後に神位と彫られている。
彼らは神として祀られたことがこれで分かる。
なお戦後祭神が栄山神社に移され、招魂社が手入れされなくなったのでいくつかの墓は折れてそのままになっていた。 -
旧山手招魂社の近くにあるのが三原屋殉難士之墓。
詳しくは下の説明文を見て頂きたいが、文久3年5月10日、下関で攘夷戦を決行した長州藩を詰問するため、幕府は6000石の直参旗本中根市之丞を詰問使として派遣した。
この時本陣三原屋に逗留していた中根一行が数名の奇兵隊士に襲われ、随行員3名が殺害された。中根はたまたま不在だったが、その三日後帰路の途中に中ノ関(現在の防府市)の海上で殺害された。
昭和3年、これを哀れんだ当時の小郡町長が発起人となり、徳川家や毛利家の援助を得て随行員3名の合祀墓が建立された。 -
三原屋事件殉難者の墓の説明文。
事件の出来事が詳しく説明されている。 -
三原屋事件に触れたので幕末本陣三原屋があった場所を訪ねてみた。
現在は西中国信用金庫小郡支店になっている。 -
建物の外に三原屋事件のあらましが説明されていた。
三原屋本陣は主に藩主や九州諸藩大名の参勤交代、幕史などの休泊施設で藩費で賄われていた。
嘉永6年(1853年)9月、薩摩藩主の息女篤姫が将軍家輿入れのため上京途中に宿泊している。
また本陣三原屋には次のような話が残されている。
元治元年(1864年)4月20日、当時緊張関係にあった幕府と長州藩の間を周旋しようと、福岡藩主の世子(黒田長知)が長州藩主毛利敬親と毛利元徳に面会するため小郡に入り、本陣三原屋に宿泊した。
堀真五郎率いる八幡隊は、小郡警固の任務で藩要人より派遣命令を受けた。
この命令は暗に藩の武威を示すためで、この意をもって行動するようにとの事であった。
その夜、桜井慎平率いる集義隊と堀真五郎の八幡平は共に行軍するように代わる代わる市中を巡回した。
黒田家はこれに大いに驚き、にわかに三原屋に命じて白粥を炊かせ、御付きの黒田藩士は徹夜で門内を警固し非常の際に備えたという。 -
次は小郡中心部の北西にある尾崎墓地を訪れた。
小郡町内では規模の大きな墓地だが、この墓地には八幡隊の総督堀真五郎や「小郡近代化の父」と呼ばれる古林新治の墓がある。
まずは堀真五郎の墓に行く。墓の入り口には写真のような標識があるので分かりやすかった。 -
堀真五郎夫婦の墓である。
訪れた時が4月中旬だったためか、墓は草が生え、落ち葉が積もって手入れが行き届いていないように見えた。
これが春秋の彼岸の前後やお盆の時期であれば随分印象は違ったものであったと思われる。
堀真五郎は天保9年(1838年)萩の生まれ。松下村塾の門下生で高杉晋作や久坂玄瑞らと共に尊王攘夷運動の急先鋒として、また幕末維新では八幡隊の総督、後に集義隊と合併した鋭武隊では指導者として活躍した。
維新後は函館府に赴任するが程なく官界を去り小郡に帰省した。
その後明治8年に松下村塾の後輩山田顕義の要請で司法省に入り、長崎・福岡などの裁判所長を歴任。明治23年に貴族院議員となり大審院判事となった。
その後は官を持して小郡に帰り余生を送っている。享年76歳。
集義隊総督桜井慎平と八幡隊総督堀真五郎は大田・絵堂の戦いや討幕戦で共に戦い抜いた同士である。
実はこの二人、その後の人生においても共通点がある。
一つの共通点は短い期間ではあるが共に北海道に関わっている事。もう一つは幕末の志士としては後輩の山田顕義の要請に応じて司法省に出仕したことである。
さらに共に裁判所長を務めている。
桜井は金沢の裁判所長の時に46さでい亡くなっている。 -
尾崎墓地の様子。
尾崎墓地はかなり広い墓地だった。写真はそのごく僅かな様子。 -
この墓地で一番見ておきたい場所があるが、それが古林家墓所。
古林家は2代新右衛門(大庄屋格)、3代治兵衛(年寄役)が家業(油販売)を発展させ地域や藩に莫大な献金をしている。
初代から3代までの墓は菩提寺の信光寺にあるが、ここ尾崎墓地には4代重治郎夫婦、5代兵吉夫婦、6代新治の墓がある。
古林新治は「小郡近代化の父」と呼ばれ、小郡機関庫の誘致、小郡高等女学校の創設、県下一の上水道を設置。
明治33年に開通した山陽鉄道小郡駅の土地を提供、山口農学校の用地を提供した。
またこれらの事業に惜しみなく資金を提供している。
また衆議院議員を二期、小郡町長を二期務めた。 -
古林家墓所の説明板。
説明板の背後にあるのが4代重治郎から6代新治の墓。 -
古林家の墓所。
春の彼岸からさほど日数が経っていないのに、墓地は荒れ放題だった。
掃除などの手は全く入っていないようだ。
正面の墓が古林新治、その左隣の2基の墓が5代平吉夫婦、そして手前の2基の墓が重次郎夫婦の墓である。 -
古林新治の墓。
墓には蔓が絡み付き、ここ数年誰も墓掃除に訪れていない事が推測された。
「小郡の父」と呼ばれる人の墓がこれでは悲しくなるな。 -
手前の2基が4代重次郎夫婦の墓。
その奥の墓が5代平吉夫婦の墓。 -
4代重治郎夫婦の墓。
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尾崎墓地に立てられている三宅先生の碑。
三宅先生とは三宅政七郎のこと。諸隊隊士の剣術師範で維新後は小郡町に住み若者の指導にあたった。
晩年は故郷の岡山県に帰り余生を送った。 -
この碑は明治31年門人達が老師を励まそうと建てた寿碑。
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尾崎墓地から小郡町中心部に戻り、山陽道に点在する維新の史跡を訪ねてみた。
ここは山陽道。写真奥が椹野川で東津渡し(現在は東津大橋)がある。 -
まず山陽道と石州街道の分岐点にある道しるべを訪ねてみよう。
写真は山陽道。この道を真っ直ぐ奥に進むと分岐店がある。 -
ここは山陽道と石州街道の分岐点。
石州街道の起点となる場所である。写真の左端の道が石州街道で、島根県まで続く道である。
写真右の道が山陽道。山陽道はここで左に折れて周防の国から長門の国に入り下関(当時は赤間が関)まで続いて行く。 -
その分岐点に立っているのが石柱の道標。
左 萩・山口・岩見(島根県)と石州街道の方角を示している。 -
一方、右 京・江戸と表示されいるのは山陽道。
道標の裏には「牛馬繫事無用」と刻まれていた。 -
ここは古林家の跡地。
先程の道標が敷地のすぐそばにある。古林家の建物がいつ頃取り崩されたのか記述を探しても出てこないが、ここには「寿座」という映画館があった。
2階建ての和風建築で外観は京都南座のような劇場風の大きな建物だった。
調べてみると1936年(昭和11年)9月総工費3万円で古林跡地に建てられたとある。この時点ですでに古林邸は取り壊され、古林家の人々は他所に移転していたことになるが、その移転先が分からない。
なお劇場「寿座」は1956年(昭和31年)5月に総工費3000万円で映画館に改装されて開館した。
閉館したのは1977年(昭和52年)で建物はその後取り壊され、現在は写真のような駐車場になっている。 -
古林家跡地。
古林家は「古林家覚書」によれば最盛期には田地85町歩、小作米3千俵。それらを収納する蔵が5棟あったと記されている。
町内には新山口駅から北西に伸びる古林通と呼ばれる通りがある。この道から東側、新山口駅を含む地域一帯は全て古林家の所有する土地だったと言われており、この覚書が誇張された記述で無いことがはっきり分かる。
幕末の大庄屋林勇蔵翁でさえ所有する田畑は4町歩であったことから、いかに古林家の財産が巨額な物か想像するに難くは無い。
幕末には地域や藩の為に莫大な献金をしており、永代帯刀を藩から許されていた。
小郡宰判内で所有していたミニエー銃(施錠銃、ライフル銃)は内訌戦(大田・絵堂の戦い)時に320丁だったが、四境戦争(第二次長州征伐)から戊辰戦争初期では840丁と大きく増加した。
これらのミニエー銃(ライフル銃)は小郡宰判内の農民や庶民の献金で購入した物である。その金額は数十億円にのぼり、藩からは一銭の支援も得ていない。
これら軍資金の多くは古林家が献金したと考えられている。 -
石州街道。
小郡から山口を経て石州(島根県)に至る。四境戦争では村田蔵六(大村益次郎)が南園隊外の諸隊を率いて日本海沿いを北上。浜田藩・福山藩・松江藩・和歌山藩の親藩・譜代大名の兵が守る陣を次々に撃破し、破竹の勢いで浜田藩領を進むと、浜田藩外諸藩の兵も城下まで総退却。
その後浜田藩の要望で止戦交渉が行われた。浜田藩では藩主を夜半に脱出させて徹底抗戦に決まったが、藩主松平公父子と夫人が夜半に脱出したことが諸藩の兵に知れ渡ってしまい、諸藩の兵は各個に退却した。
浜田藩では諸藩の兵がすでに退却した状況では抗戦は無理と判断し、城に火をかけて藩主の後を追って松江に逃れた。
長州軍は浜田城を陥落するとともに岩見銀山まで手に入れ完全勝利に終わった。 -
こちらは山陽道。赤間関(下関)へと続く街道である。
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済波山信光寺。
浄土真宗本願寺派の寺で創立は大永年間(1521~1528年)。
この寺は秋本新蔵が中心となって文久元年(1861年)に小郡郷勇隊(農兵隊)が結成された。
また藩士桜井慎平によって集義隊が結成された場所でもある。集義隊はこの寺を屯所として訓練を行った。 -
信光寺の本堂。
信光寺は古林家の菩提寺で、ここの墓地に初代から3代までの墓がある。 -
古林家の墓所。
中央にあるのは古林家累代の墓、墓には古林歴世靈と彫られていた。 -
写真左から3代古林治兵衛、その右に2代四新右衛門。古林歴世靈の右隣には古林家初代の墓があった。
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古林家初代から3代までの墓所。
尾崎墓地と違ってお寺に中にある墓なので手入れが行き届いていた。 -
旧山陽道にある小郡御番所の跡
御番所とは天下御物送場のこと。士格1名、卒1名が在番し公儀輸送の管理をしていた。
また、この近くには交通輸送の為の馬借所が設けられており、人馬で賑わっていたという。
小郡御番所の隣には、代官付属の少史(内廻手子、庶務手子などの役人)の宿泊施設として御手子固屋があった。
若き日の山県有朋もここに住んでいたことがあり、大庄屋林勇蔵に農業に関する実務の方法などを習っている。
山県は明倫館の手子役などを務めた後、小郡勘場(代官所)の内廻手子となり、農民の訴えを聞いたり代官の警固をした。
「公爵山県有朋伝」(徳富蘇峰編述)には後年、山県と勇蔵が再会した時の様子が次のように描かれている。
維新後、山県有朋が内務卿となり山口に帰省した折、林勇蔵宅を訪問した。その時山県は勇蔵に対し弟子の礼をとって室内には上がらず、縁側に座して「今の私があるのは自分一人の力だけでは無く、全く先生の教えの賜物です。」と言い、深くその旧恩を謝した。 -
旧山陽道を東(椹野川方面)に進むと正福寺という寺がある。
この寺には秋本新蔵の墓がある。
秋本新蔵は元下郷村の庄屋。小郡郷勇隊や東津隊を組織し、諸隊に対して物心両面から協力を惜しまず、尊王討幕派として奔走した。
また幽閉中の井上馨救出に加わり、鴻城隊の旗揚げに参画した。 -
正福寺本堂。
秋本新蔵の墓は本堂左側の墓所の中にある。 -
秋本新蔵の説明板。
-
説明板(立札)があるこの一角が秋本家の墓所。
この中から秋本新蔵の墓を探した。新蔵の墓は写真右端の列の一番奥にあった。
同じような墓ばかりだったので、墓に刻まれた秋本新蔵の名前を捜した。 -
秋本新蔵の墓である。
秋本新蔵の生家は泉屋と称し、山口市名田島の秋本総本家の分家(東津秋本本家)のそのまた分家にあたる。
呉服・醤油業を営む豪農で、村内の子弟のために自宅に剣道場を開き、自宅の道場を開放して諸国の有志から多くの多くの情報を得ていた。
先程説明したように農兵隊を組織したり、諸隊に物心両面の支援を行った。 -
小郡東津にある東津秋本本家の屋敷跡。
東津秋本本家は代々酒造業を営み、幕末には四代藤作、5代源太郎が大庄屋を務めた。
元治元年(1864年)2月には山口に逗留中の三条実美ら5卿が立ち寄り、慶応2年2月には藩主毛利敬親公が秋本家近くの小川で鯉狩りを見たり、3月には椹野川で鯉狩りを楽しんだりしては秋本家で休息している。 -
東津秋本本家で現在残っているのは庭だけであった。
庭の大きな平石は殿様の駕籠を置くための物と伝えられている。 -
屋敷跡には現在天理教の道場が建っていた。
写真の建物が天理教の道場である。建物は古い物では無いため、東津秋本本家の屋敷はすでに取り崩されていたようだ。 -
殿様の駕籠置石のアップ。
-
東津秋本総本家でわずかに残っていた庭木やつくばい。
秋本新蔵の旧宅は東津にあったがすでに家屋は無くその場所がはっきりしない。資料調べをしていた時に、秋本新蔵の家と言う写真を見つけたが、川沿いの石垣の写真だったので、この場所が東津の何処なのか特定できなかった。
すでに代が変わり、昭和以降の世代のため周囲の人に聞いてもその所在は分からなかった。
これで林勇蔵と明治維新の小郡は終了します。次は幕末長州藩の藩都となった山口の維新の史跡を訪ねてみます。
訪問下さり有り難うございます。
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