2025/04/03 - 2025/04/03
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ポポポさん
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山口市内の維新史跡めぐりの続きです。
今回も旧山口市内の維新史跡を中心に訪れてみたいと思います。
旅行記では全国的には名が知れていないけれど、長州にはとても大事な人たちで志半ばで散って行った人を紹介したいと思います。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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香山園にある茶室露山堂。
露山堂は現在県庁がある旧藩庁構内にあった露山という小山の麓に設けられた茶室である。
萩場内にも花江茶亭と呼ばれる茶室が残っており、藩主毛利敬親は下級武士との談合によく茶室を利用した。
茶室は身分の上下に関わらず同席できるので、家臣たちと茶事に託して王政復古の大業と倒幕の密議を行った場所である。露山堂 名所・史跡
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茶室露山堂。常に雨戸が閉め切ってある為、雨戸が開いた景色を見たことは無いが、年に数回催される茶会で使用されているそうだ。
この茶室は萩藩の国学者近藤芳樹が譲り受け、山口市中河原に移築した。その後持ち主が改まり、建物が傷んだのを品川弥二郎が惜しんで有志に出資を募り、この地に移して修理保存した物である。露山堂 名所・史跡
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茶室露山堂と大灯篭。
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誰が袖の手水鉢。
説明書きによれば、京都の小堀家(大名茶人小堀遠州家)から岩国の吉川家(吉川広家かな?)に贈られ、その後毛利敬親に献上された由緒ある品。小堀遠州の作と伝えられている逸品。
側面から見ると着物の振袖のような形をしているので、この名が付いたと言う。 -
現在あるものは露山堂を当地に移す際に作られたレプリカで、前庭に据え付けて往時を偲ぶ資料としたものらしい。
では本物は何処にあるのか?誰の所有なのか?謎が謎を呼ぶ。
そこで調べてみた。
誰が袖の手水鉢は現在岩国にあるらしい。しかも吉川家墓所の吉川家12代藩主吉川監物(経幹・つねまさ)の墓の側にあるとの記述があった。
それによると小堀遠州の子孫小堀正明氏から吉川経幹に贈られたと言はれる。(岩国市観光振興課WEBサイトから)
一方このような記事もあった。これは岩国市文化スポーツ振興部文化財課の記事だが、京都の小堀家から送られたと伝えられる「誰が袖の手水鉢」(現存品は写し)と書かれていた。
さらにこのような記述も・・・
誰が袖の手水鉢は吉川経幹の姉の夫が贈ったもので、後に毛利家と吉川家が仲直りをした際に毛利敬親に贈られ、現在吉川家墓所にある手水鉢はその写しである。
また上記の記事と同じだが、吉川経幹に贈った姉の夫は小堀勝太郎(小堀遠州の末家)で弘化3年(1846年)に贈ったとある。その後毛利敬親に贈られたので現在墓所には写しを作って残しているとある。 -
以上より毛利敬親に贈られたのは間違いようだが、本物がどこにあるのか分からない。
山口の方ではどこに保管されているのか、その記述見当たらない。
推測だが本物は近藤芳樹氏の後所有者がすでに売りさばいたのではないだろうか?このように思う。 -
ここが水琴窟。
水が垂れ落ちていないので音が聞こえない。 -
「誰が袖の手水鉢」と「水琴窟」の説明文。
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向こうに見える赤レンガの建物はクリエイティブ・スペース赤レンガと呼ばれ、現在はイベントや美術品の展示会等が行われている。
以前この地は山口明倫館兵学寮があった場所。山口明倫館は明治になると旧制山口中学校となり、その後亀山校舎(現在の県立美術館がある場所)から後河原校舎(旧山口大学文理学部校舎跡)へ移転した。
旧山口高等学校(後の山口大学文理学部)は糸米に校舎があったが、新制山口高校(旧山口中学)の校舎が全焼した為校舎を糸米の旧山口高校校舎と交換して山口大学文理学部となった。その時の大学の図書館で、大学が吉田キャンパスに移転した時に取り壊されずに残され、現在の「クリエイティブ・スペース赤レンガ」として機能している。 -
山口明倫館兵学寮跡の石碑と説明板。
説明文は長年天日に照らされ文字が劣化したため見づらくなっている。
そのため説明文はアップにしてみた。 -
周防明倫館兵学寮跡。周防と刻まれているが藩主毛利敬親公の山口移鎮に伴い山口明倫館と改称された。
萩明倫館は藩公の山口移鎮に伴いその機能を失う事になる。
周防明倫館の前身は上田鳳陽が開いた山口講堂。山田講堂はこの後訪れるのでそこで触れることにする。 -
山口明倫館の説明文。
山口明倫館は兵学寮の他に文学寮が置かれた。文学寮が置かれた場所は現在の山口県立美術館がある場所である。
文学寮は旧制山口中学となり、旧制山口中学は文学寮向かい側に移転した。移転した旧制山口中学の後に山口高等商業学校(山口高商)が設立され、以後山口経済専門学校(山口経専)、山口大学経済学部となった。山口大学が吉田キャンパスに移転して空地になった場所に現在県立美術館が建っている。 -
周防明倫館兵学跡及び件教育会館跡の石碑。
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山口御茶屋跡。
御茶屋とは藩主が参勤や領内視察の時に逗留したり、他藩の来賓を接客し足りする施設で藩の公館。費用は全て藩費で賄われた。
現在御茶屋の遺構は何も残っていない。わずかに入口にかかる橋に「御茶屋橋」と言う名が残っているのみである。 -
山口御茶屋跡の碑
文久3年(1863年)4月、前年より攘夷の実行に備えて藩庁の移転準備を進めていた藩主毛利敬親は湯田温泉への日帰り湯治と言う名目で萩を発ち、中河原の御茶屋に入りそのまま山口に滞在し、ここに政治堂を置いた。
同年7月には藩庁(山口城)の移転を発表し、山口御屋形が山口城内に完成するまでここで政治を行ったので、ここは幕末長州藩の藩政の中心地となった。 -
御茶屋橋の向かいにあったのが「山口講堂」である。
以前は山口講堂の跡地には川端市場と言う公設市場があったが再開発の名目で建物が撤去され、現在は山口まちづくりセンターと言う建物が建つ広場になっている。
その一角に山口大学創基の地の碑が建てられている。
この碑は山口大学創基(創立では無い)200年記念事業として建てられた。
碑文によると1815年(文化12年)長州藩士の上田鳳陽によって設立された私塾「山口講堂」を創基としているとされる。 -
碑文には山口講堂の見取り図が載せられていた。
山口講堂は学問だけではなく武術も鍛える文武を供えた学校へと発展したことが見取り図からも良く分かる。 -
記念碑の説明文。
山口大学には山口高商、山口経専、山大経済学部卒業生からなる同窓会鳳陽会がある。
この山口大学創基200周年記念事業も、この鳳陽会によってなされた。
以前ここを訪れた時(記憶が定かではないが平成29年前後だったか)に久々にこの地に来てみて驚いた。
上田鳳陽の山口講堂は山口明倫館となり、それが旧制山口中学校、さらに現在の山口県立高校となったはずなのに、山口明倫館が山口大学になったと碑文そのほか展示物には書かれていた。
私は山口県立山口高校100年史を読んだ事があるので、山口明倫館が旧制山口中学になったことは知っていた。
山口大学の起源を読むにつけ不快な思いがした事を今でも思い出す。
こんな記述を見せらては旧制山口中学の卒業生や山口高校の卒業生は気分を害するだろうなと思った。
それ以降ここを訪れたことは無かったが、今回維新の遺跡巡りと言う事で外せぬ場所だったため久々に訪れてみた。
すると山口大学の前身は山口明倫館と言う表現は無くなっており、「山口講堂は山口大学の淵源にあたる」とか、「山口講堂を創基としている」などの柔らかい表現に変っていた。 -
ここは山口講堂跡地に建てられた山口まちづくりセンター。
当時ここには山口大学の起源が山口講堂であることや、山口明倫館が後の山口大学になった事がことさら強調された展示物やポスターが一斉に掲げられていて、本当に山口明倫館を引き継いだ山口中学の事には一切触れられていなかった。
流石にこれはやりすぎだろう。これらの展示物を読んでいくたびに不快感と言うよちは嫌悪感で一杯になった事を覚えている。
各展示物には「鳳陽会」の文字が書かれていたので、鳳凰会の勇足だと感じた。
私と同じ印象を持った方が沢山いて、山大に非難が集中したのではないだろうか?
現在この建物の中には観光ポスターが貼ってあるだけで、山口講堂の説明も無ければ山口明倫館の「め」の字も無い。
また山口大学に関することも無い。全て一切撤去したのだろう。 -
山口講堂を創立した上田鳳陽の墓。
上田鳳陽は長州藩士で明和6年(1769年)に山口で生まれる。名は纘明で号が鳳陽。
幼くして上田平右衛門の養子となり、幼少より文学に志し、藩校明倫館で学び優秀な成績を収めた。
山口に帰郷すると山口に住む藩士の教育にあたった。文化12年に山口講堂を設立した。その功により下級武士の身分から中級武士に昇格し、研究に専念できるように儒役という役職に引き上げられた。
鳳陽は儒学の外国学や故事にも精通しており歳を重ねてもなお学問や教育への志が高く生涯藩士の教導に努めた。
墓は山口市大内御堀の乗福寺にある。
墓は鳳陽会の方々が清掃など、お守をされているそうだ。 -
乗福寺は臨済宗の禅寺で、室町時代の守護大名大内氏時代には三大巨刹に数えられるほどの大きな寺だったが、大内時代の後を引き継いだ毛利輝元によって、寺の建物の大部分が無償で福岡藩の黒田長政に譲られてしまい、現在は僅か一堂を残すのみの小さな寺になってしまった。
境内には上田鳳陽の他、大内氏の祖と言われている聖琳太子の供養塔や山口を開府した守護大名大内弘世、鎌倉時代の御家人で六波羅探題の評定衆で元寇で活躍した大内重弘の墓がある。 -
訪問した時は丁度一の坂川のソメイヨシノが満開だったので、しばしその美しさに見とれて写真を撮りまくった。
掲載した写真はその中のいくつかである。
一の坂川の両岸には約200本のソメイヨシノがある。本数は少ないが大きな古木が多いので盛りになると見事な花を咲かる。一の坂川 自然・景勝地
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一の坂川の桜。
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一の坂川と両岸の桜。後ろに見える山は高峰城がある鴻の峰。
一の坂川 自然・景勝地
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川沿いに咲くソメイヨシノと白壁の土塀。
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川の水面を覆いつくすかのように咲くソメイヨシノ。
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田舎町の桜景色。
一の坂川は夏にゲンジボタルが飛び交い、夏の夜の風情を見せてくれる。 -
ここは十朋亭維新館の隣にある三文字屋跡。
三文字屋は元禄元年に創業した和紙問屋。和紙の製造は防長三白政策ないし四白政策で長州藩の主要な製品にされて生産が増大した。
長州和紙は日本一の生産を誇り、天下の相場を左右したそうだ。
山口移鎮以降後三文字屋は政府人宿・客館、政務座雇用所に指定され、勤王の志士が来訪・宿泊した。
説明書きによれば久保松太郎(後に断三、吉田松陰の親戚で木戸孝允の片腕として藩体制を支え続けた政治畑の人物)・吉田稔麿(松下村塾四天王の一人で池田屋事件で死亡)は再三訪れていたそうだ。
外に定宿にしていたのが国司信濃(家老)、玉木文之進(吉田松陰の叔父で乃木希典の師)、入江九一(吉田稔麿と同じく松下村塾四天王の一人、禁門の変で若き命を散らした)白石正一郎(下関の豪商で回船問屋、高杉晋作を金銭を含めて支え続けた商人、いわば高杉のパトロン存在で銭を高杉につぎ込んで身代を潰した)など藩内ではそうそうたるメンバーである。 -
三文字屋を訪れた各人の出来事が日記風に紹介されている。
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三文字屋13代主人が寄せた三文字屋の紹介文。
これに寄れば12代杉山義雄が社屋を昭和52年に緑町に移したとある。
昭和52年と言えばこれ以前に隣家の十朋亭を何度か訪れた事がある。その時ここに建屋があったのかどうか全く記憶にない。
当時十朋亭の入り口は三文字屋との境だったので、三文字屋の建物に気付かなかったのかもしれない。 -
吉田稔麿止宿の地記念石碑。
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吉田稔麿の碑に寄せて萩博物館館員一坂太郎氏から文が贈られている。
彼によると吉田稔麿は松陰門下の俊傑と表現されている。言い得て妙なりと思う。
吉田稔麿はこの宿で士分昇格を藩の重役から伝えられたそうだ。
もし彼が生きていたら、彼こそが日本最初の総理大臣になっていただろうと言われているからだ。
最初の総理大臣が伊藤博文でなく吉田稔麿であったなら明治の日本はもっと民主的な国になっていたのかもしれない。
吉田稔麿とは誰でもがそのように思う人物なのだ。だからこそ桂小五郎は吉田稔麿がやがては自分のライバルになるであろう、ひょっとしたら自分を抜き去るかもしれないと嫉妬心をたぎらせ、池田屋事件で手傷を負った吉田稔麿を見殺しにしたのだろう。 -
三文字屋跡の庭園。
家屋は取り壊されたが、庭はそのままに残されている。規模は小さいが綺麗な日本庭園だった。 -
社屋の跡はコンクリートで固められ、駐車場になっている。
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ここは旧市内の北西にある吉敷地区。その赤妻という所にひっそりと佇むのが赤妻神社である。
決して大きな神社ではないがこの神社の境内には幕末長州の政治の中心人物と七郷落ちで逃れて来たある御公家さんが祀られていた。 -
赤妻神社の社殿。
祭神は七卿の内の一人錦小路頼徳卿である。
元々赤妻山の山頂に錦小路頼徳卿を祀る一柱の招魂社として社殿が建てられたが、赤妻山が宅地造成にかかったため社殿は移転を余儀なくされた。
宅地造成地に隣接して錦小路頼徳卿の墓所があったので、ここに社殿を移すことにして新しく建て替えられたのが現在の社殿である。 -
赤妻神社の社殿の隣にあるのが錦小路頼徳卿の墓。
錦小路頼頼徳卿は八月十八日の政変で京都から落ち延びてきた七卿の一人。
早くから朝廷の権威回復を志し、攘夷を唱えて国事に奔走し、長州に来た後も藩内の各地を巡視して、諸隊の士気を高めることに努めていた。
元治元年(1864年)3月、下関の砲台を巡視するため三条実美らと馬で湯田を出発したが、厚狭郡に着くと突然喀血した。
その後は駕籠に乗って下関に入り、下関の豪商白石正一郎宅で静養したが回復せず、4月に30歳で亡くなった。
三条実美らは毛利敬親とともに遺骸を山口に迎え、敬親が喪主となって赤妻山山麓に埋葬し、山上に赤妻神社を創建した。
維新後の明治3年(1870年)、三条実美ら七卿関係者は墓の側に顕彰碑(石碑)を建てその遺勲を称えた。 -
墓の後ろに建てられているのが三条実美ら七卿関係者が建てた顕彰碑(石碑)。
顕彰碑の篆額は三条実美、撰文は加藤有隣、揮毫は長三州によるものである。 -
錦小路頼徳卿の墓の説明板。
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錦小路頼徳卿の辞世。
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そして同じ墓地に埋葬されているのが広沢真臣夫婦の墓。
広沢真臣は桂小五郎と並ぶ藩政指導者。維新後は明治新政府の参与から参議にまでなった人物だが刺客に暗殺された。
明治天皇の信認が厚く、下手人を早く捕らえよという命が出て、再三天皇から犯人逮捕を急ぐよう督促を受けたが、結局犯人は見つかっていない。 -
墓の側にある広沢の略歴が書かれた説明板。
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こちらが広沢の墓。
「参議正三位藤原朝臣真臣卿墓」と彫られている。 -
市内糸米にある木戸孝允の旧宅跡。
木戸孝允旧宅 名所・史跡
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旧宅跡の石碑の側に建てられていた木戸孝允旧宅地と木戸神社の説明文。
寄付した山林は木戸神社、木戸公園として今に残っている。神社・公園とも地区の住民の手で管理されており、神社の境内に植えられた山桜はシーズンになると花見客で賑わう。 -
旧宅は人手に渡り、建物は建て替えられたので往時の面影はない。
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木戸孝允旧宅で面影が残っているのはこの庭園のみ。
木戸孝允旧宅 名所・史跡
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木戸孝允旧宅の隣にあるのが木戸神社。
木戸は死を前に地区民に旧宅や山林を地区民に寄付し、子弟の学資に当てるよう遺言した。
村民は大変感謝し社を建てて孝允の礼を祀ったそうである。
ライバルを蹴落とし続けて高みに登った木戸孝允は、死に臨んで自分の所業を回心し、最後は善行を施したと言う訳だ。 -
木戸神社の鳥居と奥に見えるのが社。
木戸神社 寺・神社・教会
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神社の隣は木戸公園になっている。
ここは公園の一部地区住民の為のスポーツ公園である。周囲に植えてあるソメイヨシノが丁度満開で美しかった。 -
木戸公園と満開の桜。
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ここは山口市下竪小路の法界寺。中谷正亮の墓がある。
中谷正亮と言っても大多数の方は聞き覚えの無い名前であろう。山口県人でさえ知っている人はごくわずかだと思う。
中谷正亮は文政11年(1828年)藩士中谷市左衛門(通称忠兵衛)の三男として萩に生まれる。
幼少より学問を好み、明倫館に入ると常に優秀な成績で秀才と称された。
嘉永4年(1851年)藩主毛利敬親が江戸に赴いた際に江戸遊学を命じられ、吉田松陰と共に藩主に同行する。その際年下の吉田松陰と親交を深めた。
松陰は常に正亮の精勤を尊敬していたと言う。
萩に帰国し吉田松陰が野山獄に投獄されると度々訪れて激論を交わした。松陰から教えを乞うようになると、塾の最年長者として久坂玄瑞や高杉晋作など多くの志士を塾に誘っている。
吉田松陰から頼まれて久坂玄瑞と杉文(吉田松陰の妹)を引き合わせた人物で、久坂玄瑞に文との縁談を持ちかけた。
久坂玄瑞は男前に似合う美人を望んでいたため、言葉を濁し嫌なそぶりを見せたので、中谷は「君は貌の良否で嫁選びをするのか」と議論となった末に、玄瑞が杉文との結婚を受け入れたとする逸話が残されている。
安政5年(1858年)には久坂玄瑞と共に京都で尊王攘夷運動を行い、その年の9月に江戸に入ると松陰門下生らと時事を論じた。
吉田松陰の死後は松下村塾を監督・指導した。航海遠略説を説く長井雅樂(公武合体派)を久坂玄瑞と共に弾劾したり、尊王攘夷運動に邁進していていた時に藩命で江戸に着くと急病になり、文久2年(1862年)8月35歳で亡くなった。 -
中谷正亮の略歴説明板。
中谷正亮の出生年が違う。正しくは文政11年(1828年)で萩生まれ。
出生年が違うので、亡くなった時の享年も違う。正しくは35歳。
この説明板は法界寺が作成したものだが、どうしてこんなに違うのか不思議でならない。 -
法界寺の本堂と右は鐘楼。
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寺の境内に中谷正亮の墓がある。
中谷正亮の墓は「中谷正亮源實之墓」と刻まれていた。左隣の墓は「中谷忠兵衛章貞之墓」と刻まれている。東京世田谷の松陰神社の境内に墓があり、法界寺の墓は分骨墓である。
中谷忠兵衛は正亮の父親。 -
こちらが中谷正亮の父親中谷忠兵衛の墓。
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ここは山口市春日町の五十鈴御殿跡。
五十鈴川沿いに建てられた藩主毛利敬親の世子毛利元徳の屋敷跡である。現在跡地は更地化されて工事中だった。ここに何か建物が建つような印象だった。
ここで長男(元昭)、長女千枝子、二男強丸、三男小早川三郎が生まれている。
慶応元年に生まれた長男興丸(元昭)の守役として、吉田松陰の妹文(久坂文和)はここに数年間務めていた。 -
写真中央の川が五十鈴川。
そして写真左の工事現場が五十鈴御殿跡である。 -
市内中心部から南東にある山口市氷上にやって来た。
ここは氷上の山根観音堂がある所で、観音堂の斜め後ろの山裾に福田侠平の墓がある。
写真では右端中ほどに見える墓が福田の墓である。
福田侠平と言う名前も聞かれたことが無いと思うが、奇兵隊の軍監で参謀、高杉晋作の片腕と呼ばれた男である。
奇兵隊の隊士の中では一番の酒豪でもあった。高杉より10歳年上だったが高杉と、とても馬があったそうだ。福田は高杉を尊敬し、高杉は福田をとても信頼していたと言う。
戦場では酒を浴びながら指揮をする姿に、若い隊士はいつも勇気づけられたそうだ。
福田は若い隊士より10歳程度年長で思慮深く落ち着きがあり若い隊員から慕われていた。
同じ軍監の山県狂介と共に内訌戦に参加し大田絵堂の戦いで活躍、四境戦争(第二次長州征伐)では高杉晋作と共に戦い小倉城を落として小倉を占領。
慶応3年10月には広沢真臣・品川弥次郎と共に「倒幕の密勅」を受け取って長州藩に持ち帰った。
戊辰戦争では激戦の北越戦争を勝ち抜き会津に転戦。北越戦争では征討軍の主力として奇兵隊を指揮して戦った。
戊辰戦争から凱旋して下関に着くと明治新政府の樹立を喜び大酒したその2日後に卒倒して急逝した。享年40歳。
墓は下関市吉田の東行庵にあり、高杉晋作の墓の側に埋葬されている。
彼の住居があった山口市大内氷上には彼の遺髪を収めた墓が建てられた。 -
写真の墓が福田侠平の墓。
説明板によれば福田の墓は長らく不明であったが、地元の有志によって発見されたそうである。 -
福田侠平の墓、少しアップにした。
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福田侠平の説明板。
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福田侠平の墓と同じ場所にある山根観音堂。
本尊は聖観音菩薩像。仏像そのものは平安時代の作で光背と台座は後の世に付けられた物である。
元々氷上山西ノ浴観音堂の本尊を明治17年に観音堂と共にここに移設したものである。 -
観音堂の本尊、木造聖観音菩薩立像の説明板。
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