2025/04/03 - 2025/04/03
94位(同エリア529件中)
ポポポさん
この旅行記のスケジュール
2025/04/03
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山口城(山口御屋形跡)
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旧県議会議事堂
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錦の御旗製作所跡
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普門寺
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普門塾
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洞春寺観音堂
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毛利敬親仮寓所
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井上馨分霊塔
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安部本陣之跡
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安部本家本宅跡
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枕柳亭跡
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この旅行記スケジュールを元に
今回は維新胎動の地である旧山口市にある維新の史跡を訪ねてみた。
文久3年(1863年)長州藩主毛利敬親は攘夷戦開始に向けて、地の利の良い山口に城や政治機構その他を山口に移した。
これを山口移鎮と言う。
山口県の維新は松下村塾を主宰した吉田松陰の門下生が牽引したため従来は萩が胎動の地と言われていたが、攘夷運動から尊王倒幕運動に長州藩が大きく傾くのは山口移鎮からである。
そのため明治維新胎動の地は山口であり、この地に残る維新の史跡を訪ねることにした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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まず山口市の維新史跡巡りは山口城から。
山口城は藩主毛利敬親が文久3年(1863年)攘夷戦開始に向けて、政治と軍事行動を俊敏に行うため萩から山口に移すこととし、現在の県庁の地に築城を開始した。
藩主は中河原茶屋(館、屋敷)に入り、翌元治元年(1864年)に山口城が竣工した。
しかし、同年蛤御門の変(禁門の変)が勃発し、続く第一次長州征伐で幕府の命令により館の主要部分は破却され、藩主敬親は萩に帰還を余儀なくされたが、内訌戦で正義派の諸隊が俗論党を駆逐すると慶応元年(1985年)に再び山口に戻り、慶応2年にはここへ常駐して政務を執った。
引退後はここに藩庁を置き、世子の毛利元徳が藩知事となった。
故にこの地は山口藩庁と呼ばれ、山口城の大手門は藩庁門と呼ばれている。旧山口藩庁門 名所・史跡
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山口城の大手口。
中央の見える屋根瓦は藩庁門の瓦。山口御屋形を囲む堀や石垣は元治元年に竣工した時のものである。
現在残る藩庁門や山口御屋形は幕府の命令で破却され、門(藩庁門)と土塀は明治3年に再建された。 -
山口城の掘割と石垣は幕末に完工したものである。
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山口城の説明板。
元治元年11月に第一次長州征伐征討軍総督徳川慶勝が広島に着陣した。すぐに長州藩の三家老の首実検が行われ、その後岩国藩主吉川監物が仲立ちとなり、長州藩と戦争回避の条件のすり合わせが行われた。
その条件の一つに挙げられたのが山口城の破却である。
同年12月に総督府巡検使長谷川敬が萩にやって来た。彼が萩にやって来たのは五卿の九州移送と諸隊鎮撫の状況を問いただすためであったが、この時山口城破却についてどうあるべきか萩藩が長谷川に問いただした。
萩藩は「山口城は城と言っても屋形があるだけであり、城とは呼べない建物である。わざわざ取り壊す必要もないと思うが如何なものか」と問うと、巡検使長谷川は「ならば瓦の三枚も落としておけばよかろう」と回答したと防長回天史には書いてある。
司馬遼太郎の「花神」や他の作家の維新物の小説には、この件のことごとくが「瓦三枚を剥がしただけで難を逃れた」と書かれていたので私もそのように思っていたが、この記述は明らかに間違いであることがある資料から判明した。
その資料は小郡宰判の大庄屋林勇蔵が書き残した林勇蔵日記である。
さらに林勇蔵が書き残した「御維新之際小郡人民一致精心」にも「山口御屋形(山口城)を打ちこわし、石門を打ち砕き、屋根瓦をへぎ落とし、お堀を埋め、目も当てられない様だった」と記述している。
林勇蔵は城の危機に際して破却の状態を我が目で見ようと出かけ、惨憺たる状態を目の前にしてその状態をありありと記述したのである。
林勇蔵日記は勇蔵の子孫が日記を含め多数の古文書を山口大学の図書館に寄贈した事によりその事実が公になった。
現在では歴史の第一級資料と認められており、今後古文書等の解読が進むと新たな発見により歴史が変わる事も予想される。
以前山口県では山口御屋形は瓦三枚を剥がしただけで破却を免れたと説明していたが、現在は写真のように「破却された」とその記述を書き換えている。
元々「防長回天史」は末松謙澄が井上馨の依頼により編纂を始めたものである。編纂に関わったものが他藩出身者であったため編纂が終了した時に発刊できなくなり、後日末松が個人事業として刊行をなしとげた。
明治維新の資料として以前は一級資料と言われていたが、その後数々の維新資料が発掘されて研究が進んだことで、「防長回天史」の信ぴょう性を疑う記述箇所がいくつも指摘された。
これは私の私見だが、歴史は歴史の勝者によって作られた物である。そのため今ある歴史が必ず正しいとは言い難い。
「防長回天史」は井上馨の依頼によって他藩の者によって編纂されたと言われている。その作成過程に実際の出来事の過程を知っている長州藩の者は一人も参画していない。
また井上の息がかかった歴史書であるから、井上の好ましくない行状や出来事は省かれている恐れもある。
ともかく山口城破却の件は林勇蔵日記の記述から城全般に渡って破却されたことが明らかになった。 -
藩庁門。
元治元年81864年)第一次長州征伐で破却されたので、現在の藩庁門は明治3年(1870年)に再建された物。
そのため藩庁門と呼ばれている。旧山口藩庁門 名所・史跡
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山口藩庁跡の石碑。
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藩庁門と土塀。
以前はこの藩庁門を久坂玄瑞、高杉晋作、坂本竜馬らが闊歩して歩いていた場所であり、この門をくぐると幕末維新の息吹を感じると説明されていたが、坂本龍馬が久坂玄瑞を訪ねて来たのは文久2年の萩で、ここには寄っていない。
そもそも藩主毛利敬親が山口に移って来たのは文久3年であるから、まだこの門は完成していない。
その後かりに坂本龍馬が薩長同盟の下工作のために訪れていたとしても、破却されて門は無かった訳であるから、この説明文は全くの嘘と言う事になる。
現在これらの不確かな話や説明は全て抹消もしくは修正されている。旧山口藩庁門 名所・史跡
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門内(山口県庁内)から見た藩庁門。
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旧県庁舎。現在は県政資料館として無料公開されている。
旧県庁舎は大正5年の完成した後期ルネッサンス様式を基調とした大正時代を代表する洋風建築で国の重要文化財に指定されている。
設計したのは武田五一氏と大熊喜邦氏。西洋の近代的建築様式と伝統的な和風が融合した大正建築の粋を集めた貴重な建築物である。
展示物の中に旧藩庁や藩庁の絵図面があったと記憶しているので、覗いてみる事にした。山口県旧県庁舎及び旧県会議事堂 名所・史跡
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知事室。
山口県政資料館 美術館・博物館
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副知事室。
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会議室。
山口県政資料館 美術館・博物館
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山口藩庁の写真。
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山口藩庁は文久3年に完成したので文久藩庁と呼ばれたらしい。この呼称は初めて聞いた。
文久3年に完成した山口御屋形(その後山口藩庁)は第一次長州征伐の時に破却されてしまったので、写真の山口藩庁は明治3年に再建された山口藩庁である。 -
藩庁門の写真。
写真の表面が傷んでいるため、見苦しい写真となり申し訳ありません。 -
山口藩庁の見取り図。
中央の建物が山口藩庁(旧山口御屋形)。図面の掘割と石垣、土塀は現在と同じ位置にある。
写真左上部の堀と枡形の間にあるのが藩庁門。 -
山口藩庁(旧山口城)の全体見取り図。
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館内には旧山口藩庁の建物の一部である玄関軒飾(懸魚)が展示されてあった。
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これらは玄関軒飾(懸魚)の一部。
説明文では表玄関は江戸藩邸から移築されたとの伝聞ありと記述されているが、山口御屋形の建物は萩城内の御屋形(本丸屋形)を移築したとされている。
元々の御屋形が文久3年に破却されたので、再建した山口藩の表玄関は江戸藩邸から移築したのであろうか。
詳しい説明がないので分からないが、多分萩から移築したものだろう。幕末江戸藩邸の建物を遠く山口まで移築することは当時としては不可能だろう。
山口城は幕命に背き、隠密に進めていた事業だからである。 -
懸魚の一部。
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大正時代の県庁舎周辺の風景。右の建物は県会議事堂。
当時県庁の周りは田圃に覆われていたんだな。わずかに一軒藁屋根の民家があるだけだ。
当時山口町の中心は竪小路、道場門前辺りだから、県庁周辺は閑散としていた事がこの写真で分かる。
現在では田圃なんか一軒も無く県庁の周囲は建て込んでいる。 -
旧山口城の石垣と旧県議会議事堂。
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旧県庁舎。
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県庁舎を設計した武田吾一氏とそのプロフィール。
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同じく県庁舎を設計した大熊喜邦氏とそのプロフィール。
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県政資料館では明治初期から現在に至るまでの資料が展示されているが、戦時中の珍しい物が展示されていたので紹介したい。
それは戦時中に製造されていた風船爆弾の写真と風船(バルーン)部分に使用されていた風船爆弾の材料である。
風船爆弾とは太平洋戦争中に気球に爆弾や焼夷弾を搭載し、偏西風に載せて北太平洋を横断してアメリカ本土爆撃を爆撃した無人兵器。
約9000個が放たれ、その一部はアメリカやカナダまで到達したが、山林が焼け少数の人員に損害を与えただけでほとんど戦果は上がらなかった。
気球は動員された女子学生が女子挺身隊として製作にあたった。 -
風船爆弾の材料。
主に和紙を使用し、こんにゃく糊で張り合わされた。
材料として展示されているのは生地と加工紙。和紙は5層に重ねて糊を塗り、さらに苛性ソーダ液を塗って糊を強化させたらしい。
写真では上の和紙が加工が終わった和紙と思われる。 -
これらの風船爆弾の材料は山口市内の中村女子高校(現在の中村学園高校)に保管されていた物。
説明文では小倉造兵廠で動員された女子学生により作られた風船爆弾材料とあるが、どのような過程で中村女子高校が保管していたのかは書かれていないので分からない。
中村女学校は旧制山口中学校と共に、主に光の海軍工廠に女子挺身隊として動員されていた。
8月14日のB-29の爆撃では山口中学校の学生と共に多くの女学生が爆撃を受けて亡くなっている。
中村女学校の生徒が小倉造兵廠に動員された話は聞いたことが無かったが、一部の生徒が派遣されたが秘密兵器の為箝口令が引かれ、秘密にされていたのかもしれない。 -
こちらは旧県庁舎の隣にある旧県会議事堂。
旧県庁舎と同様こちらに建物も武田吾一氏と大熊喜邦氏の設計によるものである。
県庁舎と県会議事堂が一体として保存されている事は珍しいそうだ。
現在は議会資料館として内部が公開されている。山口県旧県庁舎及び旧県会議事堂 名所・史跡
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議事堂内部の議場。
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1階議場の様子。
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県会議事堂は2階建で、2階は公衆傍聴席であった。
山口県旧県庁舎及び旧県会議事堂 名所・史跡
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2階公衆傍聴席の様子。
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同じく公衆傍聴席。
以上で県庁を後にして次の維新史跡へ。 -
山口県庁に近い一の坂川沿いにあるのが錦の御旗製作所跡。
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慶応3年10月に討幕の密勅が薩長両藩に下されると、岩倉具視は薩摩の大久保利通と長州の品川弥次郎を京都岩倉村の中御門経之の別邸に呼び、錦の御旗のデザインを渡して製作を支持した。錦の御旗は品川弥次郎が京都から材料を持ち帰り、藩の養蚕所を錦の御旗製作所として京都から連れ帰った有識者岡吉春の指導を受けながら製作した。
出来上がった錦の御旗は半数は山口に留め、半数を京都薩摩藩邸に隠密裏に運び込んだ。
これらの錦の御旗は鳥羽・伏見の戦いで薩摩郡の本陣の東寺に翻るとともに、薩長軍の陣頭に立てられた。
錦の御旗は賊軍とされた幕府軍に非常に大きな打撃を与えたそうだ。
倒幕の密勅は岩倉具視が大久保利通と図って行った謀略、そして錦の御旗は岩倉具視個人の発案で行われた謀略と言われている。当時明治天皇はまだ15歳、これらの謀略は天皇の裁可を得ずに岩倉が行ったと言われている。
特に錦の御旗は岩倉が想像した以上の効果を発揮した。
諸藩の大名は錦の御旗にひれ伏し、次々と征討軍の軍門に下って行った。 -
錦の御旗製作所跡。
写真の建物が当時養蚕所あった場所。現在の建物は新しく建て替えられた物である。 -
錦の御旗製作所の石碑。
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錦の御旗の説明板。
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次に訪れたのは鴻の峰の麓にある普門寺。
普門寺は臨済宗の禅寺で大内正恒により創建された。延元元年(1336年)大内弘直(守護大名大内氏23代弘幸の弟)が再建しその菩提寺となった。
さらに大内氏31歳大内義隆の時勅願寺となったが、陶晴賢の乱のときに焼失した。
その後天正時代の維松円融が中興開山となり再建された。
幕末、執政周布政之助によって村田蔵六(後の大村益次郎)が上級武士として取り立てられ、兵制改革に尽力した。
文久3年山口移鎮(攘夷戦に備えた城や役所機能を萩から山口に移すこと)の時、村田蔵六は普門寺を寄宿とし、この寺の観音堂に起居した。蔵六は山口明倫館で西洋兵学を講義するとともに、藩士らの求めに応じて観音堂でも兵学を講義した。
そのため観音堂は「普門塾」、または歩兵・騎兵・砲兵の三兵科について教えたので「三兵塾」とも呼ばれた。普門寺塾跡 名所・史跡
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普門寺の説明板。
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普門寺本堂。
普門寺塾跡 名所・史跡
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普門寺本堂。
本堂の外に庫裏や観音堂があるだけで、寺の規模としては小さい寺だった。 -
普門寺観音堂。
この観音堂で大村益次郎は、若き青年将校(士官)らに西洋兵学を徹底的に教え込んだ。
その中で抜きんでた才能を発揮したのが山田顕義である。顕義は大村益次郎の愛弟子で、益次郎から西洋兵学を吸収し鳥羽伏見の戦いでは長州藩兵を率いて伏見口で参戦。兵力で勝る幕府軍と対戦しこれを撃退した。
その後戊辰戦争で各地を転戦、「用兵神の如し」とか「用兵の天才」とか「小ナポレオン」などと呼ばれ幕府軍から恐れられた。普門寺塾跡 名所・史跡
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普門寺は大内弘直公の菩提寺であり、ここに墓があるので訪れてみた。
墓の入り口は案内板があったので分かりやすかった。 -
墓は本堂奥の高台にある。
写真が大内弘直公の墓所。 -
大内弘直公の墓所。墓は宝篋印塔のようだが新しい物だった。
墓の前に立てられた二つの石灯籠は弘直公御遠忌○百年に立てられた物。 -
石灯篭をアップにしたが、〇百年御遠忌しか読めなかった。
大内弘直公は大内本家筋からは末流になる。 -
ここは香山園の側にある洞春寺。
幕末には毛利隆元の菩提寺常栄寺だった。常栄寺も洞春寺も元は広島県の吉田郡山城下にあった。
元々この地には大内盛見の菩提寺国清寺が創建されていたのだが。毛利氏が関が原で負けて移封されてきた時、常栄寺も洞春寺も広島県から山口県に移って来た。
その時この地に移って来たのが毛利隆元の菩提寺常栄寺だった。
毛利元就の菩提寺洞春寺は萩に移った。
幕末、藩庁が萩から山口に移った時には武器貯蔵庫として借り上げられ、山口市の野田御殿の建設中には藩主毛利敬親の仮寓所となった。
常栄寺は幕末市内宮野に移り(現在の常栄寺)、明治維新後の1871年(明治4年)萩から洞春寺が萩からこの地に移り現在に至る。洞春寺 寺・神社・教会
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寺内にある重要文化財の観音堂。
洞春寺 寺・神社・教会
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この建物が毛利敬親の仮寓所だが近年建て替えられた。
幕末萩の俗論党(保守派)から諸隊解散が発令された。諸隊はここ常栄寺に集まり、藩論回復の建白書を出したが、訴えは認められなかった。
悲憤慷慨した隊士は本堂の柱に刀傷をつけたという。この刀傷は今でも残っているそうだ。 -
洞春寺の墓地には井上馨の墓(分骨墓)がある。
井上馨の略歴紹介が簡潔に書かれていた。
井上馨と言ったらなんと言っても長州ファイブの一員として英国に密航留学した事と、俗論党の手の者に袖解橋の近くでなます切りにされた事だろう。幸い蘭方医で諸隊の隊士である所郁太郎の処置で九死に一生を得た。
二十数箇所刺されたものの、刺客が剣の達人では無かったため急所を外れていた事と、とどめを刺されなかった事が幸いした。
流れ出る流血と虫の息の状態を見て、放っていてもまず助かるまいと思って立ち去ったらしい。
詳しくは維新胎動の地山口3の旅行記を読んで頂きたい。 -
井上馨分霊塔(分霊墓)。
写真んでは分かり難いがでかい墓だった。 -
こちらは夫人の分霊墓。
この墓も大きかった。 -
次は香山園の中にある維新の史跡を訪ねたい。
その前に、屋根の吹き替え工事が完了し、工事期間中は幕で覆われていた国宝五重塔がその姿を現した。
この時はまだ足場が取り外されていなかったが、現在は全て取り外され美しい姿を見せている。国宝瑠璃光寺五重塔 寺・神社・教会
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ここは香山園の中にある維新の史跡枕柳亭。
枕柳亭は薩長同盟が成立し、両藩の代表が集まって具体的な倒幕の密議を行った場所である。
この場所は市内を流れる一の坂川沿いにあった安部家の離れで、現在もその跡地が残っている。
写真は枕柳亭の見取り図。 -
沈柳亭の外観。
現在の建物は2階建てになっているが、倒幕の密議が行われた沈柳亭の座敷は2階部分。
1階がどのような使い道をされていたのかは説明が無いので分からない。香山公園 公園・植物園
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枕柳亭の外観。
枕流亭 名所・史跡
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枕柳亭の説明
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1階には倒幕の道義に参加した薩長の代表とその略歴の説明、山口旧市内にある維新史跡の地図と写真が掲げてあった。
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枕柳亭で倒幕の密議を行った薩長の代表者の紹介と説明。
この密議には長州から木戸孝允、広沢真臣、品川弥次郎、伊藤博文が、薩摩からは西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀が参加した。
いずれも維新の元勲とかで名が知れているので説明は省き、全国的に名が知れていないと思わてる人物のみ紹介したい。
まずは広沢真臣。軍歴が無く松下村塾門下生でもないため全国的に名は知られていないが、執政周布政之助亡き後の実務畑の藩政指導者。
維新後は新政府の参与から参議にまでなったが明治4年に自宅で暗殺された。
暗殺した犯人がだれか全く分かっていない。木戸と並ぶ実力者で前原一誠と近しい存在だった。
維新後長州藩で起こった脱退騒動の処分を巡って激しく木戸孝允と争った前原一誠を広沢真臣が指示したことから木戸孝允の反感を買ったと思われる。
これら3名は参議になっており、当時長州藩の最高実力者と言ってもいい。
脱退騒動が明治3年、広沢が暗殺されたのが明治4年である。
元々木戸と広沢の折り合いは悪かったそうで、木戸には自分の地位を犯す者に対して反感を持ち蹴落とすという傾向があり、西郷のような懐の広さは無かった。
例を上げれば、池田屋事件で新選組から逃れた長州藩の有吉熊次郎や大沢逸平は長州藩邸に逃げ延びて来たので藩邸内にかくまった。
しかし松下村塾四天王の一人である吉田稔麿は深手を追いながら長州藩邸までに逃れて来たものの、木戸孝允から藩邸内に入れることを拒まれ見殺しにされた。
吉田稔麿は師である吉田松陰が素質を見抜き、松陰がその将来を一番嘱望し愛した愛弟子だった。
もし維新後まで吉田敏麿が生きていたなら、彼が初代の総理大臣になっていただろうとか、彼が総理大臣として相応しかったと門下生たちからは言われていた。
話がそれたが、木戸と並ぶ実力者が参議の前原一誠である。彼も萩の乱を起こした張本人として苛烈な処分を受けた。
こうして木戸の政敵と目される人物は処分されていったが広沢もその一人。
長州人の中には広沢暗殺の首謀者は木戸孝允と考える者が多かったが、なにせ証拠が無い。暗殺者も分からないので想像の域を出ないのだ。 -
品川弥次郎。松下村塾の門下生で吉田松陰の弟子。
高杉らと尊王攘夷運動に参加し、幕末には大久保利通の依頼で極秘に錦の御旗を製作した。
維新後は明治政府の要職を歴任し、日本に各種の組合を作ったことで有名。 -
小松帯刀。
薩摩藩の家老。薩長同盟の締結に奔走し、家老の立場で薩摩藩の倒幕運動の陰の立役者。
病気で若くして亡くなったのは残念。
大河ドラマの篤姫で登場したので記憶に新しい方も多いかと思う。 -
枕柳亭の内部。
階段を上がると4畳の間と2畳の間がある。4畳と2錠の間に境には襖があった。
2畳の間の左側は丸窓、右は1畳半間と明かり取りの障子窓がある。枕流亭 名所・史跡
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こちらは1畳半の間と障子窓の部屋。
窓からは庭の景色が見える。 -
ここは奥の八畳間。
この部屋で倒幕の密議がなされたのだろう。 -
4畳の間と2畳の間の間にある襖。
この襖はバリ裂けていた。心無い観光客に裂かれたのだろうか?
以前訪れた時にはこの様な状態にはなっていなかった。どうしてこんなにこの襖は裂かれたのだろうか。
襖に近づいてみるとあることに気が付いた。襖の下張りに文字が書かれた紙が貼ってあったのだ。
何が書いてあるのかこの下張りを見てみたい、あるいは読んでみたいと思って裂いたのであろうか? -
襖の下張りを見てみるとこのような具合だった。
原稿用紙か便箋のような物に達筆でペン書きされている。しかも裏表反対に貼ってあるので読みにくい。
毛筆ではないので江戸時代の下張りではない。そういう意味では価値はなさそう。それにしてもこの襖は哀れな状態だった。山口市は修復しないのか?
維新の胎動の地と宣伝する割には文化財の保存がお粗末だ。 -
枕柳亭に訪れたので、元々枕柳亭があった本陣安部家の離れを訪ねてみよう。
その前にまずは本陣安部家へ。
ここは道場門前のはずれ、一ノ坂川の側に安部本家と安部本陣があった。
一の坂川にかかるこの橋は安部橋と呼ばれてれている。安部橋にデザインされている紋章は大内菱。室町時代の守護大名で九州北部と西中国地方に覇を唱えた当時の大大名大内氏の家紋である。
ここは山口市の小郡を起点とする石州街道と、山口県の北西にの端にある肥中港を結ぶ肥中街道の起点となった交通の要衝だった。この場所にあったのが安部本陣である。 -
現在は近代的な安部橋が架け直され、橋の欄干は大内菱の家紋で飾られたいる。
先程述べた肥中街道は大内時代に造られた街道である。大内氏は勘合貿易を独占したことで有名であるが、勘合貿易の外に朝鮮貿易も行っていた。
大内氏25代当主大内義弘公が倭寇討伐に功績があったとして朝鮮貿易が正式に始まった。その貿易船の積出港として肥中港が整備され、輸出入品の交易道として肥中街道が造られたのである。 -
安部橋から眺めたかつての安部本陣と安部本家の本宅跡。
写真右の建物はコープ山口衣料店だが、かつてはここに本陣があった。本陣の奥に安部本家の本宅があったのだが、驚くことに本宅が無くなっていた。
驚天動地とはこの事、一体何が起こったのであろうか?
ともかく本宅跡に行ってみよう。 -
その前に江戸時代の絵図で本陣跡が紹介されているので、それを見ておこう。
絵図の中央に架かる木の橋が安部橋で、流れる川が一の坂川。
橋の向こうに見える建物が安部本陣で、本陣の右の建物が安部本家の本宅である。
橋を渡ってすぐ右には本陣の表門が見える。
安部家は山口市の名門中の名門と言われる名家。鎌倉時代以来の旧家で山口町屈指の豪商。室町時代の古地図にすでに安部本陣として記されている。
安部家は本家安部家(本陣、両替商)、醬油安部、山城安部(酒造業・茶製造業)、隠居安部、大阪安部の五家に分かれて豪商として栄えていた。 -
安部本陣跡と枕柳亭跡の配置図。
枕柳亭の右にどうもんパークと書かれている建物がコープ山口の店舗。以前はここにダイエーがあった。
現在どうもんパークの向かい側に山城屋酒店(種類小売業)があるが、ここが安部家の分家である山城屋安部でその裏の山口中央パーキング一帯までが安部家の敷地であったそうだ。
まず安部家本家跡に行ってみよう。 -
安部家本宅跡地にあった「安部本陣之跡」の石碑。
正しくは安部本陣の跡地は現在コープ山口衣料店がある場所である。以前はここにスーパーがあった。
そしてここは安部本家の主屋があった場所である。
私事だが、私が仕事で安部家の本宅を訪れたたのは今から25年前の事である。応対して下さったのはこの家の大奥様。
私はこの時浅学で訪問した家が安部本陣の安部家であるとは知らなかったのだ。
門からお屋敷に入ると趣のある古いが立派なお屋敷があった。内部に案内されると趣味の良い立派な調度品が目を引いた。
応対して下さった大奥様は高齢にもかかわらず品が良く、一目で良家の奥様だと分かった。
にもかかわらず気さくで朗らかでとても話好きな方だった。仕事に行ったのだが、世間話や息子さんの事、一人でこの屋を切り盛りされている事など色々お話しされた事を今でもよく覚えている。
25年ぶりにお宅を訪れてみると、立派なお屋敷は跡形も無く消え失せていてそこにはアパートが建っていた。 -
安部家本宅跡に建っていたアパート。
25年前に訪れた時とはあたりの景観がすっかり変わっていて、当時のお屋敷を思い起こさせるものは何も無かった。お屋敷の裏にあった庭はどうなっているのだろうか? -
立派なの日本庭園は取り払われて、アパート住民の駐車場に変わっていた。
庭の片隅には祠と壊れた石灯篭のいくつかが残されていた。
流石にアパートの建設会社は祠の処分までは出来なかったようだ。 -
庭のもう一方の片隅には石灯籠がポツンと立っていた。
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まだ何か残っていないかアパートの周囲を回ってみることにした。
すると幸いにも安部家の入口門がの残っていた。
私が25年前に安部家を訪れた時にくぐり抜けた門だ。 -
門の脇のある出入り口から表門の方に出た。
安部家の本宅の入り口は、隣にある本国寺の参道側にある。門には今でも安部○○の表札が掲げてあった。
この門と白壁が安部家で唯一残った建築物だが、安部家の意向で残されたのだろうか?それとも表札がそのまま残されているのは、安部家の子孫が旧家を取り壊しアパート経営に乗り出したのであろうか?
事の真意は分からないが、山口市で一番の名家である旧家の文化財が取り壊されて無くなったのはとても残念でならなかった。 -
表門の側に一本の木が残されていた。その木の側に手水鉢がポツンと残されていたのが、妙に痛々しかった。
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再び安部橋の所に戻って来た。
江戸時代安部家の離れに建てられていた枕柳亭の跡地を訪れてみたい。
一の坂川の側にはその枕柳亭の面見取り図と枕柳亭の説明書きがあった。
ここで一番目に付いたのが面取り見取り図。香山園にある枕柳亭は建物がそのまま移築されたと思っていたが、移築されたのは枕柳亭の一部の建物だった。
面見取り図によると、元々2階建ての建物で1階部分がかなり広く、2階建て部分のみが現在地に移築されたそうだ。
枕柳亭の説明書きでは枕柳亭は2度移築されて昭和35年に現在地に移築された。当初はもっと大きな付属建物があり、移築を繰り返すうちに現在の規模になったとあるから、当初は面取り図の通りの建物が移築されたが移築の度に傷んだりして現在の2階建ての部分だけになったのかも知れない。 -
枕柳亭跡があるのは一の坂川沿い。
一の坂川 自然・景勝地
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丁度コープ山口店の裏側にある。
一の坂川に架かる橋を渡るとその場所に行ける。 -
橋を渡るとコープ山口店のすぐ裏にその場所があった。今跡地として残っているのは僅かな三角形の空き地しかない。
現在残る沈柳亭から想像すると1階の建物は横長にかなり広い建物であると推測できる。
つまり現在のコープ山口店の敷地の上に枕柳亭があったと想像できる。 -
跡地は草生す場所で枕柳亭跡の石碑と石灯篭がポツンと立っていた。
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枕柳亭跡の説明板。
実は私が山口市の会社に勤務している時、枕柳亭の跡地を捜したのだが、一の坂川沿いの安部家の離れとだけしか書かれていないため場所が分からなかった。
周囲の店人に聞いて知らないとのことで、私には不完全燃焼の場所だったのだ。
コープ山口店(その前はダイエー山口店)の建物の陰で、しかも草が茂っていると川沿いから見てもその場所は見つけられなかったのだ。
今回訪れてみると場所を記した案内板があったので容易に見つけることができた。
次回は山口維新史跡巡りの続きをお送りします。
訪問下さり有り難うございました。
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