2025/04/15 - 2025/04/15
145位(同エリア522件中)
ポポポさん
この旅行記スケジュールを元に
山口市小郡は山口市の喉首に当たる戦略的に重要な場所である。文久3年には萩から山口へ政治・軍事その他が移って来た。
その山口を守る大事な地域が小郡及び小郡宰判であり、そこに住む住民達だった。
小郡宰判に住む住民の多くは農民だったが、彼らの危機意識は研ぎ澄まされていた。蛤御門の変で破れ、第一次長州征伐でも負けて、正確には戦は避けられたが三家老の切腹以下長州藩(俗論党)は事毎に幕府のいいなりであった。
これに対して、宰判内には今度戦があれば、全国の兵が攻め寄せても国を焦土と化しても、今度こそは負けまいぞ・・・という気概が満ち満ちていたのだ。
時に元治2年1月7日、大田絵堂の決戦の火ぶたが切られた。同日諸隊の御楯隊が小郡勘場(代官所)を包囲し軍資金を要求した。同日夜に大庄屋林勇蔵は諸隊を支援すると決意し私的な銀35貫目の札銀を御楯隊に貸し付けた。
翌日判内17カ村の庄屋や大庄屋格など28名が死を賭して諸隊に協力し支えることを誓い、ここに小郡庄屋同盟が結成された。
これにより大田・絵堂で萩政府軍と戦っている諸隊の支援のため農兵隊2個部隊、人夫1200名が派遣され、食料補給等の支援を行った。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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今回の旅行記は山口市にある十朋亭維新館から。
十朋亭は江戸時代に醤油醸造業を営んでいた万代家の離れの建物である。
万代家は初代源七が江戸時代寛政年間(1790年頃)に醤油醸造業を現地で開業した。
十朋亭は3代目利兵衛英備が離れとして十朋亭を建設した。
文久3年(1863年)藩庁が山口に移転したことに伴い5代目利兵衛輔徳が藩士に宿所として離れの十朋亭を提供した。
これを機縁として5代目利兵衛は志士を支援するようになった。
写真は従来からの十朋亭の入り口である。十朋亭維新館 美術館・博物館
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入り口から路地を進むと十朋亭の入口がある。
以前公開されていた建物は十朋亭のみであった。そのため私的な建物や庭の入り口には壁が設けられて入ることはできなかった。
写真に十朋亭入口の矢印の案内板があるが、以前はこの奥の庭や建物(主屋)は立ち入りできなかった。十朋亭維新館 美術館・博物館
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この建物が十朋亭。
勤王の志士と呼ばれる藩士たちはこの離れに集まり、密談を行った。
時には他藩の浪士や勤王の志士が集うこともあったが、万代家の主屋の一番外れにある建物のため、外からは内部を伺うことができず、尊攘派の隠れ家的建物であったのだ。
五代目万代利兵衛とことのほか親しく、この離れを度々訪れていたのが久坂玄瑞といわれている。
彼はこの屋に自分愛用の湯飲みを置いておき、十朋亭を訪れるたびにその湯飲みでお茶を飲んだと言う。
その湯飲みは万代家に引き継がれ、以前はその実物がっ展示されていたが、現在は維新館の本館展示室の常設展示コーナーで複製が展示されている。十朋亭維新館 美術館・博物館
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十朋亭の内部。
座敷は6畳と4畳半の二間、それに床の間と板間、土間があるだけの小さな造りである。離れであるためこの程度の物だろう。十朋亭維新館 美術館・博物館
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左の建物は維新館本館で右奥の建物が十朋亭。十朋亭の奥に吉田松陰の実兄杉民治が私塾を開いていた杉私塾の建物がある。
主屋はさらにその奥。
主屋は元々醬油醸造場に明治22年頃に建てられた茶室で、大正時代に現地に移築され、さらに増築されて主屋になったと紹介されているが、本来の万代家の主屋は大きな重厚な建物であった。今維新館で(山口市で)紹介されているようなちんけな建物では無い。元々茶室として建てられた建物なので、増築したと言ってもそれほど大きな建物ではない。
今回時間が無く主屋までは写真を撮っていないので、主屋はいずれかの機会にまた紹介したい。十朋亭維新館 美術館・博物館
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維新館内の建物の配置図と各建物の説明板
十朋亭維新館とは旧万代家の旧宅(主屋を含む)、離れの十朋亭、かつて杉民治が私塾を開いていた別棟などの建物と土地、万代家に伝わったお宝は寄贈された物もあるが山口市が買い取り、維新策源地山口の目玉の施設にしようとリニューアルオープンした施設。
山口市では歴史ミュージアムとして紹介しています。
万代家の主屋の跡地に本館を建築するためであろうが、万代家の主屋は全て取り崩されてしまった。
同時に主屋の向かい側にあった醬油醸造場と店も取り壊されて今は跡形もない。
取り壊された醬油醸造場の跡地は売却され、医院と調剤薬局、駐車場に変わり果てた。 -
本館と左の建物は十朋亭。
この本館の場所に万代家の主屋があった。 -
十朋亭の隣にある写真の建物が杉私塾。
以前万代家が所有していた時一般公開されていたのは十朋亭だけだったので、この建物には入れなかった。
杉私塾と十朋亭の間には高い塀が築かれていて、塀の中の様子は全く分からなかった。 -
杉私塾入口。
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杉私塾の内部の様子。
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杉私塾と十朋亭の間にあった坪庭。
この壺庭、以前もここにあったかな?記憶が曖昧ではっきり覚えていない。 -
万代醤油店醸造所の鬼瓦
説明によれば株式会社ヤマコー店舗(旧万代醤油店)の屋根を飾っていたと記されている。
万代家の家族は戦後東京に移住したと、維新館になる前の十朋亭で展示品の説明をしていた市の担当者に説明を受けた。その時万代家の子孫は大学の先生をしていたと聞いていたが、維新館の学芸員の話では大学の先生ではなく会社を経営していると言う事だった。
万代と言う苗字はとても珍しく、山口市には万代という苗字は2件しかない。万代と聞けば思い出されるのはおもちゃの「バンダイ」だったので、この創業者と何か所縁があるのかと聞いた所、「おもちゃのバンダイとは縁も所縁も無い」との事だった。
さて万代家が東京に出る時に醤油店は閉店廃業した。その後万代醤油店の店舗を借りて醤油醸造業を始めたのが株式会社ヤマコーである。
山口市の醤油醸造場として地域に根付きつつあったが業況は思わしくなかった。そこで当社が開発したのがだし醤油「なんでもござれ」である。
「なんでもござれ」は、これ1本あればどんな料理にも使える便利で美味しいだし醤油である。この新製品の醤油を起爆剤に業績の回復を目指したのだった。
私もこの醤油が試販された時に試しに使ってみたがとても美味しかった。この醤油なら売れるだろうと思っていたが、結局は中小企業の販売力の無さで思うように売れず会社は廃業・倒産したようだ。
ここで説明文に目を戻すと、この鬼瓦は株式会社ヤマカ醤油株式会社社長からの寄贈と書かれている。
株式会社ヤマカ醤油は下関市安岡にある醤油醸造所である。株式会社ヤマコーの親会社だったらしい。
(株)ヤマコーが開発した「なんでもござれ」は現在(株)ヤマカ醤油で販売されている。
そのため鬼瓦は(株)ヤマコーが廃業して、その後店舗が取り壊される時に(株)ヤマカ醤油の社長が保管してくれたのであろう。
万代醬油店で唯一残ったのがこの鬼瓦である。
醤油醸造を旧万代醤油店で -
万代醬油店の店舗の鬼瓦。
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十朋亭・杉私塾の説明とそれぞれの建物の間取り図。
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万代家主屋の説明と見取り図。
この建物は醤油醸造所の中に茶室として明治20年ごろに茶室として建てられた建物で、大正10年に移築され玄関と2階が増築されて終戦後に主屋となったと説明されている。
元々茶室だったので2階が増築されたとしても、とても小さな建物である。
元々の本宅が取り壊された訳でもないのにこの小さな建物が主屋とは考え難い。
しかもこの建物には釜屋(台所)が無い。元の主屋から毎日朝昼版煮炊きをして、いちいちこの離れた元茶室に料理を運び、はたして家族全員揃って食事をしたのであろうか。
さらに旧本宅と現在の主屋との畳の間の面積を比べると、元の本宅の畳の間が43畳に対し、現在の主屋は2階の間も含めて24畳しかない。
余りにも広さが違いすぎる。維新館新築に際して旧本宅を全て取り壊したので、主屋が無くなった。これでは体裁が悪いので山口市の方でこじつけに増築した茶室を主屋と勝手に市の方で命名したのではなかろうか。
説明板には近代山口の文化度を示し貴重な物と書かれているが、取り壊された江戸時代の醤油醸造所や商家、主屋の方がはるかに貴重な建物に思えてならない。
余談になるがこれと同じようなことが過去にも行われて、重要な歴史的建物と名園を山口市は失ってしまった。
それは山田顕義の旧宅と庭園である。山田顕義は陸軍中将、司法大臣時代に明治法典を編纂した人物である。
松下村塾で最も若い塾生で吉田松陰からその才能を高く評価されている。尊王攘夷運動に身を投じ、大田市之允の御楯隊に入る。
村田蔵六(後の大村益次郎)の愛弟子で用兵や西洋戦術を学んだ。
「用兵神の如し」とか「戦で一度も負けた事がない男」と呼ばれた戦術や用兵の天才だった。
陸軍内部で山縣有朋との確執に嫌気がさして陸軍を退官し司法大臣となり、民放法・刑法塔の編纂に注力した。日本大学と国学院大学の創始者でもある。
山田の屋敷(料亭米山荘)と庭園を所有していた実業家が倒産し、物件は競売に処された。庭園には立派で豪壮な松が多数あり、青松の名園と言われていた。
山口市が入札参加して落札してくれたらこの歴史的遺産は保護されたのだが、下関の建設業者が落札してしまった。
松は切り倒され、池は埋められ屋敷は壊されてその上に3棟のマンションが建てられた。
米山荘の入り口に至る道は坂道になっていて入口辺りは幾本かの松が残っていつが
旧邸宅の中は別世界。米山荘を思い起こさせるようなものはもう何も残っていない。
この後に市は料亭「菜香亭」を買い取り、野田神社の近くに移築復元した。
山口市はこの料亭を買い取り移築復元する金があるのなら、山田顕義の邸宅と名園を買い取って貰いたかったと今も思うのである。 -
旧万代家主屋の見取り図。江戸時代に作成された図面である。
主屋部分には十朋亭と杉私塾が図面右側に書かれている。 -
江戸時代の万代家醤油醸造所の絵図。
店舗の前は現竪小路、店舗の壁沿いの道は現錦小路。 -
店舗・醬油醸造場の平面図。
図面左側に赤く囲まれたのが茶室で、大正時代に杉私塾の隣に移築された建物である。 -
店舗・醤油醸造所の平面図
店舗部分を拡大して見易くした。 -
茶室部分の拡大図
現在の主屋の間取り図と比較すると増築した部分が分かり易い。 -
万代家主屋の向かい側にあった店舗・醬油醸造場の現在の姿。
全て解体されて医院とその駐車場になっていた。 -
維新館本館に常設展示されている万代家の紹介
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万代家は初代源七が寛政年間に創業。三代利兵衛の時に家業が隆盛。
五代利兵衛の時に十朋亭に出入りした勤王の志士を支援した。御用達や山口越荷方会所会頭を務める。
六代利兵衛は山口町会議員、防長醤油協会会長、山口電灯株式会社の社長などを務め、山口の発展に寄与した。
今の当主は八代目かな? -
十朋亭の説明
万代家で所蔵していた伝来資料やお宝は山口市が譲り受けて所蔵されている。
本館の常設展示室ではそれらの一部を公開している。 -
旧小郡宰判之絵図。
大庄屋林家に伝わった判内17ケ村の絵図。1枚の巻物に1カ村ごとに描かれまとめられている。
判内17ケ村であるが、絵図には陶村と鋳銭司村が一つの絵図に描かれているので絵図は16ケ村になっている。 -
小郡宰判之絵図実物。
描かれているのは吉敷郡二島村(現在の山口市二島) -
林勇蔵翁の肖像画。
眼光鋭く、意志の固い人物のような印象を受ける。 -
林勇蔵翁の肖像説明文。
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元治の内訌(大田絵堂の戦い)と小郡庄屋同盟の説明
元治の内訌とはすでに旅行記で説明済みの大田・絵堂の戦の事。この戦いで正義派の諸隊は俗論党の萩政府軍に勝利を収めて萩から俗論途党を駆逐し、長州藩の反論を武備恭順(表向きは幕府に恭順と見せかけて、真意は軍備を強化し幕府を倒すとの意)に変換させた。
大田・絵堂開戦当日(元治2年1月7日)の未明、御楯隊の幹部大田市之進、山田市之允(顕義)、品川弥次郎、野村和作(靖)と隊士50余名が小郡勘場(代官所)を占拠し、代官に軍資金の貸し渡しを求めた。
この時御楯隊は大田市之進(御堀耕助)、山田市之允(顕義)、山根武人連名の請書を差し出したので、大庄屋林勇蔵は代官の許しを得て私的な銀札35貫目を貸し出している。
この部分もすでに旅行記で記述済み、ここからが小郡庄屋同盟成立の場面になるのだが、説明文では記述不足で実際と異なる記述もあるので詳しく説明したい。
翌1月8日、山田市之允(顕義)、野村和作(靖)ら10名は代官市川文作外4名を同行して伊佐(現在の美祢市伊佐)に戻り、さらに諸隊の本陣が置かれていた大田に着いた。
こうして小郡勘場(代官所)は代官不在の勘場となった。役人で残っているのは小郡代官見習い岡本半野之允ただ一人。
この間隙を縫って大庄屋林勇蔵が電光石火の如く動いた。
宰判内の庄屋や主だった者28名を勘場に集め、死を賭して諸隊に協力することを誓い合った。
こうして小郡庄屋同盟が成立した。諸隊への支援を決めた庄屋同盟はこの事を宰判の全住民に伝えた。
1月10日、山田市之允(顕義)野村和作(靖)らは小郡に帰着し、小郡宰判内の庄屋等28名を小郡お茶屋に集めて酒肴でもてなした。
酒肴でのもてなしは正義派に味方することを説く事であったが、すでに1月8日に小郡庄屋同盟が結成され、小郡宰判内全住民4万余人は死を賭して正義派に支援するこちを決めていたので、庄屋ら28名の慰労と協力要請だったと思われる。
席上代官見習い岡本半之允が「これまでとは風儀違いに候」と申し渡しので、小郡宰判は官民一体で諸隊を援助することになった。
これをもって小郡庄屋同盟成立とする説もある。 -
林勇蔵日記現物。
幕末明治維新の一級歴史資料。従来は末松謙澄が明治時代に編纂した「防長回天史」が歴史小説の参考文献として多用されてきた。
司馬遼太郎の歴史小説にも「防長回天史」の記述が引用されている。以前はそれが普通だったと思うが、この日記が研究され始めると従前の長州藩の幕末期の歴史が誤って記述されているとが分かって来た。
そのため山口市では、幕末維新時代の観光案内を平成時代に林勇蔵日記の記述に基ずき修正された。その箇所がいくつかある。
もう一つ幕末時代の第一級歴史資料が残されている。それが「本間源三郎日記」である。
本間源三郎は幕末期、小郡宰判内の嘉川村の庄屋であった。明治になると村長、県議会副議長、衆議議院議員などの要職を務め民生に尽くした。
本間源三郎日記は県政、国政の資料として一級資料の扱いを受けている。 -
元治2年正月7日の未明に御楯隊50余名が小郡勘場(代官所)に現れ、夜になって35貫目を貸し渡した事が書かれている。
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証文
1月7日御楯隊が35貫目を借りたこと、及び拝借した金は後程返納する旨諸隊の総督5名の連署で差し出されたものである。
中ほどの覚え書きは井上馨が総督を務める山口の鴻城軍(隊)から差し出されたものである。
山口矢原の大庄屋吉富藤兵衛の肝いりで1月10日に結成された鴻城隊は結成早々軍資金に窮し、林勇蔵に米千石を貸してほしいと井上馨自らがやってきた。
千石の米は公用米であり、これを貸し出せば後程藩からいかなるお咎めを受けるかもしれないと説得し、勇蔵が取り扱う事ができる500石に限って貸し出す事にした。
500石の米は兵糧米する訳では無く、米を売って銀貨にかえ軍資金に使う手はずであった。
覚え 銀20貫目はその米500石を売り払い銀に変えた額である。 -
品川弥次郎の檄文
「閻魔大王前通券証」と題する林勇蔵の略伝。
1月7日林勇蔵が銀札35貫目を用立てしてくれた事への感謝が述べられている。 -
説明文には林勇蔵翁の略伝と書かれているが、高杉晋作の功山寺挙兵から大田・絵堂の戦いに至る様子、さらに御楯隊に銀札35貫目が貸し渡された様子が簡潔に書かれていて分かりやすい。
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小郡庄屋同盟は林勇蔵が元治2年1月8日に小郡宰判内の庄屋と有力者28名を集め、命をかけて諸隊を支援することを一同申し合わせて成立した。
さらに同年1月10日御楯隊の山田市之允(顕義)等が小郡宰判内の庄屋と有力者28名を集め慰労の為酒を振る舞い、今後諸隊への協力を依頼した席上で、代官見習い岡本半之允が庄屋に向かって「是迄とハ風儀違候ニ付、其趣を以致所候様(今までとは風儀違え候につき、その趣をもって致したく候よう)」と申し渡した。
「今までとは状況が変化したので、その趣旨に従って勤めを行うように」との意味で小郡宰判内は官民一体で諸隊を支援支援して行く事が決定した。 -
小郡庄屋同盟の庄屋や有力者28名の面々。
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山縣有朋書「精神一到何事不成」。
明治27年2月15日、山縣有朋は大田・絵堂の戦いにおける小郡大庄屋林勇蔵らの諸隊支援を讃えて左記の書を林蔵に送った・ -
書では北川清助、林勇蔵、本間治郎兵衛、秋本新蔵ら庄屋同盟の人々や、宰判内の民衆の貢献が記されている。
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秋本新蔵履歴概略
秋本新蔵は中下郷庄屋。小郡郷勇隊(農兵隊)や諸隊東津隊を設立し頭取となる。
山口の鴻城隊設立や井上馨の救出に尽力した。 -
秋本新蔵履歴概略の見開き部分の説明。
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覚え(軍艦御買入ニ付諸村献金取縮方申付)という藩からの辞令
古文書なのでその内容は全く読めない。
下に現代語に直してあるので説明書きと共に読むとその内容が分かる。
要は軍艦購入のための献金の取りまとめ役を申し付けるので大庄屋林勇蔵と秋本源太郎と相談してつつがなく収めよと言う命令書。 -
林勇蔵の記録に軍艦御蔵入献金(軍艦購入のための藩への献金)が残っている。その記録には明治初年の金額に換算して5万9千8百円とある。当時の1円は現在の価格で3万円に相当するので、現在の価格に引き直すと17億9千4百万円と言う膨大な金額になる。
長州藩は撫育方という今でいう特別会計を設けていたので、幕末長崎の武器商人トーマス・グラバーから軍艦数隻と新式洋式銃数千丁(ミニエー銃とスナイドル銃)の購入に資金を使用した。
多くの歴史小説や書物にはこの時の撫育方の資金の放出で武器の近代化を行い、兵制改革を断行して四境戦争(第二次長州征伐)に勝利したと書かれている。
そのように理解していたが実際はさらに軍備拡張のため軍資金が必要とのことで庶民や農民に献金を要請していたということがこの資料で分かった。
多分これらの献金は小郡宰判に限らず、各藩内の宰判にも要請されている事と思うが、このような献金要請があったことは他の町村史や幕末関連の書物では目にしたことは無かった。
ついでに述べておくが大田・絵堂の戦い以降宰判内には次々と諸隊が結成された。
小郡郷勇隊(農兵隊)500名の外に諸隊が合計8隊、合わせて総勢2340人の諸経費(これには装備しているライフル銃の献金額が含まれる)8万7百円(現在の価格で24億2千1百万円)かかっているが、この資金も小郡宰判内の庶民や農民が全て負担しており、藩からは1銭の支援も受けていない。
これだけ小郡宰判内の人々の危機意識が強かったと言うことである。 -
藩から辞令を受けたのは非番大庄屋・銃陣大頭取の本間治郎兵衛。
本間治郎兵衛は嘉川村の庄屋。林勇蔵の前に小郡宰判大庄屋を務めた人物。大庄屋任命に際し、庄屋を16歳の長男本間源三郎に譲って以降小郡宰判の為に働いた人物である。 -
代官と勘場(代官所)の説明。
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村役人の説明。
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維新の後方支援
小郡宰判の指導者たちは長州藩や諸隊に対して様々な貢献を行った。
文久3年藩庁を山口に移転(山口移鎮)に際しては山口城の築城、下関で攘夷戦が始まると藩都山口の防衛のための台場(砲台)や関門の築造に際し資金の調達や人足の派遣をおこなった。
軍備拡充のため軍艦購入の献金、装條銃(ライフル銃であるミニエー銃やスナイドル銃)購入の献金。これらの献金額はすでに説明済みである。
宰判内の山陽道・石州街道を往来する諸隊や藩内外の要人の為の馬や人足の手配。
小郡宰判内に駐屯した奇兵隊外の諸隊や嘉川村の明正寺に駐屯した浪士組の世話。
四境戦争で占領した旧小倉藩領の稲刈りの人足派遣などなど。 -
小郡宰判内では諸隊の外に農民で構成された農兵隊(小郡郷勇隊)が組織された。
これは風雲急を告げる文久3年(1863年)5月に小郡代官の命によって結成された。
農兵隊は農業の傍ら銃陣(銃で武装した部隊配置や射撃訓練)訓練を受けた。
諸隊は長州藩の正規軍であり、四境戦争(第二次長州征伐)や戊辰戦争で兵士として戦ったが、農兵隊の任務は宰判内の治安警固や防備であった。
文久3年5月に下関攘夷戦争が始まると、藩都山口の守りともいうべき位置にあった小郡宰判では宰判の指導者を始め農民に至るまで他の宰判に比べて格段に危機意識が強かった。
郷勇隊は小郡郷勇隊が結成される文久3年以前にすでに宰判内の嘉川村で結成されている。
本間源三郎(後の嘉川村庄屋)が文久元年(1861ねん)16歳の時に郷勇隊(後の嘉川郷勇隊)を結成し、銃陣訓練を始めた。
文久3年に小郡郷勇隊が結成された時、大庄屋格の本間治郎兵衛(本間源三郎の実父)が「御警衛向御用掛頭取」を代官から拝命したのも、この関係からかもしれない。
農兵隊の銃陣訓練は藩士が指導した。 -
諸郡農町兵 技芸上等之者苗字帯刀
藩の軍時局からの通達である。
農兵や町兵の内、鉄砲や大砲の扱いになどに秀でた者は武士同様に苗字帯刀を許すというものである。
諸隊は長州藩の正規軍である。そのため諸隊に加入した農民や町人は武士として扱われていた。
そのため農兵隊の参加者にも諸隊に参加した農民や町人と同等の待遇を与えようとする藩の処遇であった。
このような処遇が行われたのは多分長州藩だけだったろうと思う。 -
諸郡農町兵の現物。
この通達は嘉川村庄屋本間源三郎宅で子孫が保管していたものである。本間源三郎は本間源三郎日記で有名であるが、日記の外に膨大な数の資料を残していた。そのいくつかは山口文書館で保管されていたが、新たに膨大な数の資料が子孫によって発見され、山口大学図書館に寄贈された。
現在山口大学の方で少しづつ研究されているとの話だが、なぜ本間家の子孫は山口文書館に寄贈しなかったのか不思議でならない。
文書館には古文書解読の専門員が何人もいて、毛利家関係の古文書は山口文書館で解読され保管されている。古文書の解読は山口文書館の職員や研究員が専門家なのだが・・・。
通達は南吉敷郡菅事北川清助から入江宇兵衛へ、さらに大庄屋本間治郎兵衛から嘉川村庄屋本間源三郎に当てて出されている。 -
これは郷勇隊(嘉川郷勇隊)三番小隊銃陣恵子面着帳(出勤簿)
面着帳の最初の二人は指導する藩士。続く農兵の最初の名前が嘉川村庄屋の本間源三郎。
嘉川郷勇隊の創始者で農兵隊の隊長である。 -
面着帳の説明文。
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柳井田関門・林光関門・国森関門の説明
文久3年(1863年)5月に攘夷戦争がはじまると、藩都山口の防衛が急務となった。
小郡は藩都山口に入る重要な地点であるため、進入路となる石州街道や間道2か所に関門が設けられて他国(他藩)人の入り込みを差し止めた。
さらに関門を防御するために長大な台場(砲台)が築かれた。
しかし元治元年(1864年)11月、第一次長州征伐の講和条件の一つとして山口城や諸関門は破却された。
しかし正義派が政権を掌握すると関門が再建され、慶応2年(1866年)には台場が修築された。さらに関門の前面に三角台場が増築された。
これらの諸工事には小郡宰判内から多数の人夫だ出され、宰判内の住民から多数の献金が成されている。
ちなみに柳井田砲台御築立費用として5584円(現在の価格に換算して1億6752万円)であった。 -
石州街道に設けられた柳井田関門外の関門と台場の配置図。
石州街道と間道に関門を設けて椹野川から柳井田関門の左端にある中領八幡宮まで台場を(砲台)を築いて蟻のはい出る隙も与えぬ鉄壁の守りだったとか。 -
国森関門推定地の現在の様子。
国森関門は柳井田関門の西の間道に設けられた関門。 -
林光関門推定地の現在の様子。
林光関門は山口に向かって椹野川右側の間道に設けられた関門である。 -
写真は台場が柳井田関門から西に築かれた台場の西橋に当たる中領八幡宮。
宇佐八幡宮から勧進された八幡宮で祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。
大内氏時代には大内氏の祈願所となり、毛利時代には毛利氏の祈願所となった。
社殿は平成時代に改築されており、文化財指定の建物も無いので取り立てて貴重な建物は無い神社。
鳥居は明治時代に建てられた物なのでさほど古くは無い。
ただこの神社が柳井田関門や台場の端に当たるため藩都山口を防御する重要な場所であった事には変わりはないと思われる。
台場は石段の途中から築かれていたため、幕末はここを守る警固兵が中としていたらしい。 -
八幡宮大鳥居の左横に建てられた山口市指定文化財の説明板。
八幡宮の文化財は説明にある釣鐘のみ。
柳井田関門も諸隊士脱退事件(脱退騒動)も文化財と言うよりは、歴史的事件などの説明だった。 -
柳井田関門跡の説明板。
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柳井田関門、台場、三角台場の略図。
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八幡宮の鳥居から見た台場の跡と柳井田関門跡。
大鳥居前から真っ直ぐ向こうの山に向かって伸びる道が台場の跡。
道の中央辺りに関門が設けてあった。 -
大鳥居からでは分かり難いので石段の途中から眺めた台場の跡。中央の道を真っ直ぐ進むと椹野川に出る。
関門は椹野川を渡った向こう岸の間道と台場の跡に造られた道路の中央辺りにあった。 -
さらにもう少し高い場所から見た台場と柳井田関門跡。
石段の中ほどからは石段の両側にある木の枝が邪魔で台場跡は見え難い。
台場の跡地を見渡すのはこの辺りが限界と思われた。 -
台場や関門は脱退騒動で諸隊を脱退した下士官と兵が常備軍と激戦を戦った舞台でもある。
脱退騒動は明治維新後御親兵と言う明治政府の常備の選抜に漏れた下士官や兵が不満を募らせて隊を脱退し、要求を入れようと抗議を行ったもの。
木戸孝允が彼らの話も聞かず、徹底的に武力で鎮圧しようとして起こった長州内部の軍部の抗争。
今では脱退兵の反発は理にかなった当然のことのように思われる。当時御親兵の選抜には偏った意図が働いていた事は明らかになっている。木戸は自分の地位を脅かす者に徹底的に排除して自分の地位を守って来た。
特に松下村塾門下生で自分の地位を脅かしそうな者には、そのものが頭をもたげる前から芽を摘み取って来た。
代表的なものは池田屋事件で長州藩邸に逃げ延びて来た吉田稔麿(松下村塾四天王の一人)を見殺しにしたこと
参議で兵部大輔の前原一誠(旧名佐世八十郎)と御親兵制度で対立。後に萩の乱を起こしたとして前原は斬首された。
脱退騒動は幕末から明治初期の長州藩の醜い傷跡であるが、県内の人でも今では知る人がとても少ない事件である。
特に勝者が作った歴史の典型とも言うべき事件であるので、別の旅行記で詳しく説明したい。 -
林勇蔵日記から。
四境戦争小倉口の戦い(第二次長州征伐小倉口戦)で、長州藩が占領した旧小倉藩領の稲刈りの為、小郡宰判内に割り付けられた稲刈り部隊の人足が集まって来た事が書かれている。 -
上記林勇蔵日記の説明。
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小倉地御用夫賃銭仕出帳
長州藩が占領した旧小倉藩領の稲刈りのため宰判内から派遣した人足(農民)に支払った賃金の支出帳 -
展示資料は本郷村(現在の山口市秋穂)から派遣した人足の賃金仕出帳。
なお庄屋は山内林三郎。小郡庄屋同盟結成時の庄屋は山内林太郎であったから、多分林三郎は林太郎の息子と思われる。
山内家は本郷村の有力な商家で天保一揆の際に百姓に襲撃された。 -
賃銭仕出帳の現代語訳。
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ここからは十朋亭維新館本館に常設展示されている万代家で所蔵していた伝来資料をいくつか紹介したい。
展示資料のいくつかは入れ替えされる。
写真は5代目万代利兵衛輔徳の肖像画。 -
手鏡万代帳(説明文)。
能書家の書蹟などが収められた手鏡、長府毛利家の旧蔵品だったが6代利七の時に手に入れたらしい。 -
手鏡万代帳(複製品)。
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万代家に伝わる大杓子。
伊藤博文から漢詩を揮毫した大杓子を送られた。その後来山した井上馨が杓子の余白に漢詩を書き添えた物。 -
写真が伊藤博文から送られた大杓子。これは実物で伊藤博文と井上馨の漢詩が書き添えてある。
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久坂玄瑞常用湯飲(複製)。
以前は実物が展示されていたと記憶している。 -
十朋亭の扁額(複製)。
篠崎小竹筆とのこと。 -
十朋亭扁額の説明。
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井上馨・円朝の寄せ書き。
井上馨が還暦で三遊亭円朝を連れて来山し、万代家で宴会をした時の書。 -
上記の説明文。
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ここは山口市本町にある長寿寺。
幕末山口市を本拠地とする諸隊、鴻城隊の屯所があった所である。
元治2年(1865年)1月7日早朝小郡勘場(代官所)を取り囲み軍資金を要求した御楯隊幹部の中に特別な任務を帯びていた者がいた。
その人の名は駒井政五郎。萩藩士で松下村塾の門下生。文久3年(1863年)に海防大砲掛となる。その後御楯隊に入隊し、隊の幹部となった。
御楯隊の幹部は松下村塾の門下生が多いので、総督の大田市之進(後の御堀耕助)も松下村塾の門下生とみられがちでそのように記述されたものも見受けられるが、総督の大田市之進は村塾の門下生ではない。
話を戻すが、1月7日に小郡勘場(代官所)を取り囲み、軍資金を要求した御楯隊は終日談判の上、大庄屋林勇蔵から私的な札銀35貫目(現在の貨幣価値にして約7000万円)を借用することとなり、大田市之進、山田顕義、赤根武人連名の請書を差し出し代官以下これを認めた。
翌8日、山田顕義らは代官市川文作他4名を同行して伊佐(美祢市伊佐)に戻り、翌日(9日)大田(大田の諸隊本陣)に至った。
その間小郡勘場は代官見習いの岡本半之允だけとなった。1月8日には林勇蔵は宰判内の庄屋や有力者28名を集めて諸隊に協力することを申し合わせて小郡庄屋同盟を結成した。
藩からは諸隊を援助してはならないと厳重な命令を受けていながら、諸隊援助をお請けする上は死を覚悟しなければできないと、28名全員が覚悟したのが1月8日の事だったと林勇蔵は日記に書いている。
ここから特別任務を受けていた駒井政五郎の活躍が始まる。
駒井政五郎は桜井慎平(山口市名田島の武士で集義隊の総督)や秋本新蔵(元中下郷庄屋)北川清助(元小郡勘場代官)らと御楯隊の分隊を率いて矢原の大庄屋吉富藤兵衛(後に吉富簡一)を訪れた。
駒井の下には吉富藤兵衛や杉山孝太郎らが仲間を語らい次々に終結し、駒井政五郎か鴻城隊と命名した。
吉富惣兵衛から隊の総督には井上馨を据えたいとの申し出があり、衆議は一致した。
但し井上馨は俗論党の襲撃を受けた後、俗論党側の親戚の家に監禁されていたため救出して総督に据える事にした。
救出部隊は御楯隊分隊と桜井慎平・秋本新蔵らが率いる小郡郷勇隊並びに吉富藤兵衛の率いる兵であった。
9日に長寿寺で挙兵の打ち合わせを行い翌10日に決行した。幽閉中の井上を救出すると山口勘場(代官所)や奉行所を襲って気勢を上げた。
そして井上を総督にして、ここに鴻城隊が誕生した。 -
長寿寺の門。
山口市内の商店街の近くにある寺だが、商業地にあるにも関わらず閑静な寺だった。
桜も見頃を過ぎて終わりかけの時期だったので余計に感傷的になっていたのかもしれない。 -
鴻城隊の説明板
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長寿寺の本堂
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長寿寺のソメイヨシノ。
すでに市内の桜の盛りは過ぎていたが、この寺の桜は最後の輝きを見せようと見事に咲いていた。
以上で小郡庄屋同盟の旅行記は終わります。
訪問下さり有り難うございました。
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