2025/04/23 - 2025/04/23
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ポポポさん
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山口市内(旧市内)の維新史跡巡りの続きです。
今回は旧市内中心部の周辺にある維新史跡を巡ります。
野田・豊栄神社や山口市菜香亭を除けばガイドブックにも掲載されていない場所ですので、すでに山口市を訪れた方でも目新しいのでないかと思います。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
-
今回の歴史探訪は幕末の藩主毛利敬親公が祀られた山口市内にある野田神社から。
写真は野田神社の入り口にある野田神社能楽堂。
昭和11年に明治維新70年記念事業として毛利藩主末裔の公爵毛利元昭が野田神社に新築寄付したものである。
総檜造りで、橋掛・鏡の間及び楽屋・控えの間を構えた本格的な能楽堂で野外能楽堂は数が少なく、その中でもこの能楽堂は規模・質ともに一流の能楽堂である。 -
野田神社能楽堂の説明板。
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野田神社入口の階段脇には2基の大灯篭があった。
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野田神社の説明書。
野田神社は幕末の長州藩主毛利敬親公を祭神とし、敬親公の養子毛利元徳公を配祀神とする。元徳公は長州藩最後の藩主(14代)で初代の知藩事(後の県令、その後現在の知事)となる。徳山支藩の10男として生まれたが毛利敬親網の養子となり長州藩14代藩主となった。
野田神社は県社から大正四年に別格官幣社社となった。 -
神社入口の大鳥居の奥には奉納された大きな石灯籠があるが、これは小郡宰判十七ケ村の村人らが奉納した石灯籠である。入口左右に2基あった。
灯篭には「山口縣周防国吉敷郡南部十七ケ村人民中」とある。同様に奉納された石灯籠の中には佐波郡(現在の防府市や山口市徳地)の村人が奉納した灯篭もあった。
これら神社に奉納された石灯籠は全て周防国(山口県の山口市以東の旧国名)の人々からの奉納で、もう少し詳しく言えば長州藩内でも小郡宰判と三田尻宰判(現在の防府市と山口市徳地町)の人民のみに限られていた。
長州は長門と周防、防長二州を指して言う言葉である。萩(長門国)に城が築かれた為か、明治維新で活躍した人の大部分は長門国の出身者である。彼らが明治新政府で活躍した。一方周防国の出身者は悲劇的な最期を送った者が多いと言われている。
明治維新の小説を多く手掛けている有名な小説家も、自身の小説でそのように記述していたと記憶している。
明治維新で名を成し活躍した者は大多数が武士階級であるため必然的に萩城下があった長門国出身者が多い。
しかし、今まで見て来たように長州の維新で実際活躍したのは、諸隊の主要な構成員であった農民や町人の子弟で名も無き村人である。さらにかれらを支援した宰判の庄屋や農民らである。特に藩都山口の喉元に当たる小郡宰判の人民は特別危機管理意識が強かった。
これは優れた農民階級の指導者が幾人もいたことにもよるが、吉敷郡南部小郡宰判や山口宰判(吉敷郡北部、現在の山口市)佐波郡三田尻宰判さらには現在の光市では多くの諸隊が結成された。
長門国赤間関(現在の下関)で結成された奇兵隊や力士隊もあるが、諸隊の大部分は周防国(現在の山口市以東、宇部市の一部を含む)で結成され、四境戦争(第二次長州征伐)や戊辰戦争で活躍した。
小郡宰判では小銃の購入のため献金が募られ、ミニエー銃やスペンサー銃を購入して農兵隊や宰判内の諸隊の隊士に配備している。
長州の四境戦争(第二次長州征伐)は国(長州)が滅びるかどうかの瀬戸際であった。長州藩の諸隊は大田・絵堂の戦い以降小郡宰判、山口宰判(現在の山口市北部)三田尻宰判(現在の防府市、山口市徳地)に駐屯し、彼らの兵糧等の後方支援は各宰判の農民たちが賄っていたのである。
そのような事実から考えると長州の維新は周防国の民人、特に上記4か所の宰判内の村人らによって成し遂げられたと言っても過言ではないと思う。
しかし、幕末維新の小説に彼ら宰判の人達が登場したことはほとんど無い。
野田神社に奉納された石灯籠が周防国吉敷郡南部17ケ村と佐波郡(現在の防府市)の人民による者だけだと言うことでもこれらの村人が藩主敬親公への忠誠心が高かったことを物語っている。 -
野田神社参道の左側には個人により奉納された石灯籠がある。
全部で4基。以前は5基の石灯篭があったのだが、現在は4基しかない。設置場所が変更されたのかと思い境内をくまなく調べたが見当たらなかった。
私がその石灯籠を確認したのは40年も前の話である。山口市は大型台風の災害を2度受けているので、その時に倒壊したのかもしれない。
その石灯籠は山口の明治維新を支えに支えた4人の連名による物だった。
その名は林勇蔵(小郡宰判大庄屋)、本間治郎兵衛(小郡宰判前大庄屋・前嘉川村庄屋・幕末時大庄屋格)、吉富藤兵衛(吉敷郡矢原村大庄屋)、秋本新蔵(小郡宰判東津庄屋)。
いずれも幕末維新の時代に貢献した農民や町人である。 -
個人奉納の大灯篭。
吉敷郡南部小郡村 大庄屋林勇蔵。 -
同じく南部小郡村
大地主で大庄屋格の古林重治郎。
宰判内の農民や人民の他、林勇蔵や小林重次郎のような有力な指導者や大富豪がいなければ四境戦争で幕府に勝つことも維新を成し遂げることもできなかっただろう。 -
野田神社の参道。奥に見えるのが神門。
野田神社 寺・神社・教会
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参道の左側にはシャクナゲが咲いていた。
白色のシャクナゲを見るのは初めてなのでいささか興奮気味だった。
ここに咲いているシャクナゲは白く見えたが、近寄ってみると2種類のシャクナゲだと分かった。
一つは純白のシャクナゲ。もう1種類は花弁は純白だが、花の中央にある雄しべや雌しべ周辺がピンク色のシャクナゲ。
いずれも気品があって美しい。 -
中央がピンク色のシャクナゲ。
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こちらは純白のシャクナゲ。
中央部分が僅かにピンク色がかった花弁もあるが、この程度は純白と言って良いだろう。 -
こちらも純白のシャクナゲ。
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同じく純白のシャクナゲ。
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こちらは中央がピンク色のシャクナゲ。
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純白のシャクナゲ。
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こちらは一部ピンク色で美しい。
シャクナゲを堪能したら、いざ拝殿・本殿へ。 -
右に手水所、正面は神門。
野田神社 寺・神社・教会
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野田神社の拝殿。
野田神社 寺・神社・教会
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手前に拝殿、奥の建物が幣殿。その奥に本殿がある。
野田神社 寺・神社・教会
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野田神社の幣殿。幣殿に接続して奥に本殿がある。
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幣殿の奥に本殿があるのだが、幣殿の建物が大きいので本殿が見えない。横から見ようとすると幣殿から左右に回廊が伸びているので中に入ることができない。
本殿に入るのは正面の幣殿からしか入るしかないが、昇殿しないといけないので上がるのは止めた。 -
野田神社の右隣にあるのが豊栄神社。
豊栄神社は毛利元就を祀る神社。以前は萩城内にあったが、山口移鎮に際して山口に移設された。豊栄神社 寺・神社・教会
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豊栄神社の拝殿。
拝殿・幣殿・本殿共に豊栄神社と野田神社は建築様式は同じである。豊栄神社 寺・神社・教会
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豊栄神社の説明板。
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豊栄神社の拝殿と幣殿。幣殿の奥に本殿がある。
豊栄神社 寺・神社・教会
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豊栄神社の神門。
豊栄神社 寺・神社・教会
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豊栄神社の入り口。
豊栄神社 寺・神社・教会
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野田神社の隣にあるのが野田御殿跡。
ここは藩主毛利敬親が家督を世子元徳に譲った後、隠居所として住むために建てられた屋敷の跡である。
明治2年に建設が決まったが、完成するまでに敬親公は亡くなった。
隠居所完成後は毛利公の別邸として使用され、明治18年には明治天皇の宿泊所となった。
戦後蔵だけが残っていたが、それも平成3年に取り壊され現在は明治時代に営業を開始した元料亭菜香亭の敷地となっている。
菜香亭がここに移築されるまでこの場所は板塀で囲まれていて、この中に何があるの分からなかった。 -
現在野田御殿跡地に建っているのが元料亭「菜香亭」。
明治10年に開した料亭で井上馨が贔屓にしていた。「菜香亭」と言う名も井上馨が命名したもの。料亭は平成8年に閉店・廃業し、建物は解体されたが元の経営者から建物やの解体部材や調度品などが市に寄付された。
元は八坂神社の境内(それ以前は大内氏の築山館跡)にあった建物を山口市が観光施設として活用するため現在地に移築復元したものである。
建物の大広間には山口県出身の7人の総理大臣や維新の功労者・元勲らの扁額が架けられている。
安部元総理も大広間に扁額が架けられる事が望みだったそうだ。
元の料亭の大広間に飾られていた扁額や調度品は料亭の元経営者から市に寄贈されたものである。
写真正面左の2階の建物は元総理の佐藤栄作が選挙本部として使用した部屋である。
佐藤は選挙の度にこの料亭に寝泊まりし、2階の一室に選挙本部を設けて運動員らに選挙戦を指示していたと言う。山口市菜香亭 美術館・博物館
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「菜香亭」は現在「山口市菜香亭」として市の観光施設になっている。
山口市菜香亭 美術館・博物館
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こちらが入口。山口市にはこの他に山田顕義の旧宅で「米山荘」と言う料亭があった。
建物もさることながら、この料亭は庭が見事だった。池泉回遊式庭園で、庭にある幾本もの枝ぶりの良い松は樹齢数百年と言う立派な松ばかりで殊の外見事だった。
しかし、経営者の放漫経営で倒産してしまい、不動産は競売に出されてしまった。これを落札したのが県内の建築会社。建物をぶち壊し、庭の松や樹木は切り倒し池は埋め立てて敷地の上に3棟のマンションを建ててしまった。
かつての見事な庭も、趣のある重厚な建物も今は無い。菜香亭に劣る事の無い立派な料亭があった事を知る人は数少なくなってしまった。
今は僅かに以前の料亭入口辺りに切り残された数本の黒松が往時の姿を僅かながら残しているに過ぎないのだ。
山田顕義は日本大学と国学院大学の創始者である。日本大学が山田顕義生誕〇〇周年記念の記念碑も旧宅の敷地内では無く、旧宅入口の坂道の下の方にひっそりと建てられている。
私は個人的にはこちらの建物と庭を市に買い上げてもらい、保存して欲しかったと今でも思うのである。山口市菜香亭 美術館・博物館
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山口市菜香亭施設案内図
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菜香亭の案内図で歴史巡りの道と表示されている場所に建てられた「明治維新策源地」の碑。
萩にも同じく「明治維新策動の地」の碑が建てられているが、建てられたのは萩市の方が古い。
山口市の物は維新150周年を記念して平成に建てられた物である。 -
明治維新策源地山口市の説明プレート。
山口市は文久3年(1863年)に藩主毛利敬親が萩から山口に移っきた「山口移鎮」を起源としている。 -
野田御殿跡の説明プレート
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往時(明治40年代)の野田御殿の姿
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野田御殿の差図
次は市内吉敷地区に行きましょう。 -
ここは市内吉敷にある玄済寺。
玄済寺は吉敷毛利家の菩提寺で、代々の吉敷毛利家当主とその奥方の墓地がある。
吉敷毛利家の始祖は毛利元就の9男、毛利秀包である。
毛利秀包は毛利一族で豪の者として知られる吉川元春と、とても良く似ていたと言われている。
文禄の役の碧蹄館の戦いでは寡兵の日本軍の中にあって立花宗茂と共に大軍の明軍を撃破して、逃げる明軍を追撃して大活躍した武将である。
この寺に隣接して吉敷招魂社がある。また寺の向かい側には吉敷毛利家の屋敷があったので、屋敷跡を訪ねてみたい。 -
吉敷毛利家跡地には現在よしき病院が建っていた。
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よしき病院本館。
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病院の敷地内にひっそりと男爵毛利家旧宅跡の石碑が建っていた。
明治期に吉敷毛利家は東京の田園調布に移転している。
吉敷毛利家は毛利一門八家の一つで代々家老職を歴任した。但し支藩では無かったため、明治期に華族に列せられたが男爵に留まった。 -
屋敷内にあった天神池。
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玄済寺の隣にあるのが天神山公園。
ここには吉敷招魂社があるため入り口には鳥居があった。
公園内には「保食の神」及び毛利歴代祖公を祭神として奉安した「宣徳社」及び吉敷招魂社、名和道一墓(郷校憲章館学頭)、内海忠勝顕彰碑、上野五郎墓(遊撃隊総督、吉敷毛利14代毛利親直)などがある。 -
天神山公園の説明板。
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吉敷招魂社。
幕末四境戦争から戊辰戦争、大東亜戦争までの英霊を祀る。
写真右端は名和道一の墓、中央に見えるのは忠霊塔。左は四境戦争から大東亜戦争までの英霊が祀ってある。 -
四境戦争(第二次長州征伐)以降の戦いで戦死した英霊を祀る招魂社。
墓は吉敷地区の出身者で参道の左右に祀られている。 -
こちらは参道の右に祀られている墓。
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左の墓の列の中に吉敷毛利家14代当主毛利親直公の墓がある。
毛利親直公は遊撃隊の総督として四境戦争(第二次長州征伐)の芸州口(山口県と広島県の県境)の戦いに参戦。
芸州口は幕府軍の主力軍が投入された戦場であり、長州軍も諸隊の精鋭部隊を派遣した。
この県境を守ったのが遊撃隊と御楯隊を主力とする諸隊であった。さらにこれに岩国藩兵が加勢して総勢2000人。
対する幕府軍は幕府歩兵、旗本、紀州藩、彦根藩、高田藩、与板藩、大垣藩らその数3万人(一説には5万人)。数の上では圧倒的に幕府軍が有利だった。
幕府の先鋒は彦根藩である。戦国時代以降徳川軍の先鋒は必ず彦根藩と決まっていたので、井伊直弼に殺された吉田松陰先生の仇を討つのはこの時ぞと長州の諸隊は息を殺して待ち構えていたと言う。
狙い通り彦根藩兵が戦国時代よろしく赤備えの甲冑姿で出てくると、新式銃で装備された長州軍から一斉に火ぶたが切られた。大村益次郎直伝の散兵戦術を駆使し、物陰に隠れては射程の長く命中率の良い新式銃で彦根藩兵を狙い撃ちした。
彦根藩は松陰先生の仇であるため徹底的に撃ち崩す手筈だったそうだ。続く与板藩・高田藩も長州軍の銃火を浴びた。こうして三藩はあえなく壊滅した。
初戦の小瀬川口の戦いはこうして長州軍の勝利に終わったが、続く幕府歩兵と洋式化された和歌山藩が出てくると戦線は膠着した。
大村益次郎に指示は和歌山藩と幕府歩兵が出てくれば、勝ち戦に乗じて攻め寄せるのではなく、散兵戦術を駆使して幕府軍を足止めするのが次の作戦であったからだ。
すでにこのように戦いは進むと大村益次郎が予想したとおりに、芸州口の戦いは進行した。
ともかくも2000人の長州軍が3万人の幕府軍を撃破し、周防国への侵入をくい止めたのであるから大勝利であろう。
またこの戦いでは用兵の天才と称された山田顕義が参戦していたことも勝利の一因であろうと思う。 -
毛利親直公の墓。
親直公は後に病気を理由に吉敷毛利家から離籍して上野五郎と名乗っている。
墓石名は「上野五郎大江親直靈神」とある。毛利家の祖先は大江広元なので墓には毛利と刻まず大江と刻まれている。 -
招魂社の英霊の碑(忠霊塔)
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招魂社内にある忠霊碑。
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内海忠勝顕彰碑。
内海忠勝は山口市吉敷出身で吉敷毛利家家臣。諸隊の宣徳隊に入隊。禁門の変、大田・絵堂の戦い、四境戦争に従軍し負傷。
維新後遣欧使節団に従い欧米を歴訪。帰国後は県令・知事を務め、貴族院議員、会計検査院長、内務大臣を歴任した。 -
内海忠勝顕彰碑説明板。
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招魂社にあった「百万一心」の石碑
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天神山公園に景観。
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天神山公園説明説明板。
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赤根武人顕彰碑。
江戸時代の刑場で斬首された奇兵隊第3代総督。周防国で悲劇的な最期を送ったと言われる一人である。
赤根は周防国大島郡柱島の医師の家に生まれる。勤王僧月性に学び柳井の郷校に学ぶ。毛利氏の重臣浦氏の家老赤根忠右衛門の養子となり武士となる。
松下村塾の門下生となり次に梅田雲浜に学んだ。安政の大獄後は松下村塾門下生らと尊王攘夷運動に没頭する。
奇兵隊3代目の総督となり元治元年(1864年)8月下関攘夷戦争を戦った。
第一次長州征伐では中立の立場を取り、保守派(俗論党)と正義派の調停に奮闘するが、武力闘争を主張する高杉晋作は赤根の行動を激しく罵っている。
この時赤根に限らず諸隊幹部は高杉の決起は次期尚早として高杉と行動を共にすることを拒んでいる。高杉が結成した奇兵隊でさえそうだったのだ。
しかし高杉は、これは全て赤根が扇動したとして赤根の責任を追及した。これにより赤根は身の危険を感じ、功山寺挙兵が成功すると上方へ出奔。
上京して幕府との間を取り持とうと動き、岩国に帰って恭順運動中に捕らえられ、裏切り者として処刑場で斬首された。
現在では赤根は事実と資料との間に矛盾がある人物で、えん罪とする説が多い。
事実、諸隊の多くは高杉と組みせず、萩政府(俗論党)の命に応じて下関から美祢市に移動している。この時点で幹部の誰もが高杉の決起は無謀と断じているのだ。
しかし功山寺挙兵が成功すると、手の平を返すように高杉に同調し、赤根一人が悪者にされた感がある。
結局赤根一人に責任を負わせて自分たちは責任逃れをしている。例えば公爵山県有朋伝では明らかに事実と反して自己を保全し、山根を陥れるような記述がされている。
このほかにも山県有朋伝では一級資料と異なる記述が多々あり、どちらが正しいのか解釈に困る事が多いと言う。 -
赤根武人顕彰碑の説明板。
次回は山口市旧市内を離れて小郡宰判内の吉敷郡鋳銭司村の旅行記です。
登場人物は大村益次郎。この人無くしては四境戦争を戦いきれなかったと思います。
次回も訪問よろしくお願いします。
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