2025/04/09 - 2025/04/09
110位(同エリア459件中)
ポポポさん
この旅行記のスケジュール
2025/04/09
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境内にある大田邨碑
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殉難十七士碑
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奇兵隊戦勝記念灯篭
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大田八幡宮
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大田絵堂戦役開戦の地、宿場町絵堂
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勘場・御茶屋跡
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赤間関・中道筋
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大木津・川上口の戦い 戦勝記念碑
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諸隊が劣勢を挽回した幣降坂
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この旅行記スケジュールを元に
長州の明治維新胎動の地は萩市と思われているが、実際は山口市である。
文久3年(1863年)藩主毛利敬親は来るべき幕府との決戦に備えて城も政府機関も藩校も全ての組織・機関を幕府には無断で山口に移転させた。
日本海の萩では軍事行等命令伝達支障をきたすと考えられたからである。元々毛利氏は交通の要衝で山陽道に近い山口に居城を築くことを幕府に要望したが聞き入れられなかった。この願望を叶えたのが13代藩主毛利敬親である。
長州藩は同年外国船打ち払い令に従い赤間関(下関)で攘夷を決行。同年長州ファイブの英国留学(密航)も実施し、尊王攘夷の旗幟を鮮明にしたが8月18日の政変で京都を追放された。
翌年7月長州藩の罪の嘆願の為武力を背景に京都に進発、蛤御門で激戦となった(禁門の変)が長州藩は惨敗し朝敵となった。
同年8月には四か国連合艦隊の報復攻撃を受け前田砲台が占領されるなど、この戦いでも長州藩は惨敗、さらに幕府は長州征伐を決定し征長軍は広島まで迫り、長州藩は危機的状況を迎えた。
長州藩では保守派(俗論党)が政権を握り、幕府に恭順の立場を取って兵を率いた3家老の切腹や尊王攘夷派の弾圧を強化し、藩主父子の謹慎や山口城の破却など幕府の命令に従った。藩主父子は再び萩に戻り、尊王攘夷の火は消えたかに思われたが、ここに松下村塾四天王で一人だけ生き残った高杉晋作が下関市長府の功山寺で回天義挙の兵を挙げる。
彼の檄文に決起したのは僅かに84名の兵士だった。高杉に賛同したのは長州藩で最強と言われた石川小五郎率いる遊撃隊と伊藤俊輔(伊藤博文)が率いる力士隊の一部だった。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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長州歴史散歩として今回は維新胎動の地山口をお送りしたい。
写真は美祢市美東町大田にある金麗社。
金麗社は旧天満宮で祭神は菅原道真、防府の松崎天満宮(現在の防府天満宮)から勧進し、社殿は山腹にあったが、1772年に現在地に移転し大田天神と称されていた。幕末期には諸隊の本営が置かれ、諸隊幹部の髻を奉納し先勝祈願が行われた。
金麗社と現在の名称になったのは大正9年の事である。
元治2年(1865年)1月7日萩政府軍(保守派)と諸隊(革新派・正義派)が激突し内戦が発生した。当時諸隊の本陣となったのがここ金麗社である。
概要に述べた通り長州藩は内外共に危機的状態に陥っていた。
この状態を打破し、危機一髪逆転しかけた歴史の歯車を元に戻し、長州藩が武備恭順・倒幕へと舵を切り明治維新の先駆けとなった戦いが大田・絵堂の戦いであった。
幕末・明治維新を題材とした歴史小説は多数あるが、小説では全く取り上げられる事が無かった人達がいた。彼らの協力無くしては長州藩の討幕は成し遂げられなかったのである。ひいては明治維新は実現しなかった。
世の人々には全く知られていない事実を今回は知っていただきたいと思い旅行記を作成した。
さて、保守派(俗論党)の弾圧に業を煮やし激怒したのが松下村塾四天王で唯一生き残っていた谷梅之助(高杉晋作)である。
当時高杉晋作は谷梅之助という変名を使用していた。長州藩内の俗論党の刺客に命を狙われていたからである。
長州藩から脱出し、かくまわれていた筑前の野村望東尼の元から密かに長州に帰還、下関市長府に集結していた諸隊の幹部に決起を促すも、幹部たちからは次期尚早として賛同が得られなかった。
結局高杉に付き従ったのは石川小五郎が率いる遊撃隊と力士隊の一部を率いた伊藤俊輔(伊藤博文)らの僅か84名だった。
時に元治元年12月15日の深夜、高杉晋作は長府功山寺に下向していた三条実美ら5卿に決起を伝えて挙兵した。
三条実美の前で「これより長州男児の腕前、お目にかけ申そう」と言った事はつとに有名である。
明けて12月16日に下関の新地会所(代官所)を襲撃、さらに18名(3班6名)の決死隊を組織して三田尻(現在の防府市)の海軍局を襲撃、軍艦3隻の奪取に成功した。これらはいずれも無血での勝利であった。
これ以降多くの小説では、各諸隊は高杉の決起の成功を見てこれに同調したと書かれているのが実際はそう単純ではない。
萩本藩からの要請や支藩の長府・清末藩主の説得、いわば君主として仰いだ5卿の九州行などにより諸隊は高杉と一線を画すために現在の美祢市伊佐へ移動した。
この諸隊の移動は三条実美、三条西季知の二卿が分かれの挨拶の為萩に行く際の護衛のためだったとする説もある。
いずれにしても諸隊が伊佐に集結した時にはまだ萩本藩と事を構える気は無かった。
その後萩本藩からの解散命令や正義派の重鎮7人の処刑、正義派家老格(国家老)清水清太郎が切腹させられて正義派高官がいなくなどの処置が保守派(俗論党)によって行われ、さらに追い打ちをかけたのが諸隊追討令だった。
ここに至っては諸隊の面々は萩政府軍と一戦もやむないと覚悟を決めるしかなかった。
特に正義派7人の処刑には一同激高したと言われている。
諸隊に対しては武装解除や帰郷命令等わりと穏やかな命令だったものが、急に厳しくなったのには理由がある。
当時征長軍の総督は尾張藩徳川慶勝であった。その尾張藩から総督府巡見使長谷川敬が萩にきていた。長谷川は諸隊に対する説得が手ぬるいとして萩藩が鎮撫できないのであれば尾張藩兵を用いて諸隊を討つと言った。この強硬な発言は総督府の意向だと重く受け止め、諸隊の征討方針が武力討伐に転換されたのだった。
こうして萩政府軍は萩から南下し、諸隊は伊佐から赤間関街道を東進し、美東町絵堂で激突した。
以下会戦ごとに説明していきたい。なお諸隊の本陣だった金麗社には戦役要図などの説明板や碑などがある。金麗社 寺・神社・教会
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大田・絵堂の戦いの説明
大田・絵堂の戦いは元治2年(1865年)1月6日から1月16日までに行われた10日間の戦いである。
説明板には慶應元年(1865年)と説明されているがこれは間違い。慶応元年は元治2年4月7日からであり、正しくは大田・絵堂の戦いがあったのは元治2年である。
ここで諸隊とは足軽などの下級武士や農民(一部他に商人の二男・三男が参加した諸隊もあった)で構成された部隊のことを言い、長州独特の部隊編成であった。
これに対して萩政府軍(保守派・俗論党)は撰鋒隊と称し、萩本藩の上級武士で編成されていた。 -
大田・絵堂の戦いの戦役要図
決戦前夜の状況から説明すると前年の元治元年12月26日、萩政府(俗論党)は下関の反乱軍を鎮圧するため粟屋帯刀を将として先鋒部隊(撰鋒隊)1200人が萩を出発し28日に絵堂宿の庄屋藤井邸を本陣とした。
27日には撰鋒隊後軍の児玉若狭軍1200人が三隅(萩市の西隣)に進軍、欲28日総奉行毛利宣次郎が率いる本隊1400人は絵堂宿の北東にある明木に本営を構え、撰鋒隊は総数3800人であった。
一方諸隊は奇兵隊303人、膺懲隊125人、遊撃隊239人、八幡隊294人、御楯隊277人、南園隊122人の合計1360人であった。
諸隊の人数は萩政府軍の約1/3であったが、諸隊が戦ったのは萩政府軍の前衛部隊と、元々諸隊であったが政府軍に味方した荻野隊(529人)及び力士隊数十名の合計1760人だったので戦力はほぼ互角といったところだろう。
各戦いはこの後説明する。 -
大田・絵堂の戦いに参戦した諸隊の説明板
この中で御楯隊は総督が大田市之進、幹部は松下村塾門下生の山田顕義、品川弥次郎、野村靖らが中心となって結成。
三田尻(現在の防府市)を屯所として四境戦争(第二次長州征伐)では長州最強部隊の遊撃隊と共に芸州口(広島県との境)で活躍した。 -
太田・絵堂戦跡案内図
激戦は1月10日、1月14日、1月16日で、最終日の赤村の戦いで政府軍は大敗北して萩に撤退し集結した。
萩政府軍は明木や後詰の軍を合わせると諸隊よりもかなり多くの兵力があったがあえて諸隊と戦うことを避けて撤退したふしがある。
考えられる理由は①諸隊は施条銃(ライフル銃)であるミニエー銃で武装されていたが、萩政府軍は旧式のゲベール銃(火縄銃)であった。
ミニエー銃は射程距離が230mで飛距離は900m、命中率は火縄銃が約10%、ミニエー銃50%でゲベール銃で1発撃つ間にミニエー銃は5発撃てたと言う。
諸隊は兵士の数が少なくても圧倒的な火力で政府軍を凌駕した。
②萩政府軍は初戦から連戦連敗で戦意がなえ、厭戦気分が蔓延していたと思われる。
萩政府軍の兵士は上級武士で編成されていたが、諸隊の兵士は外国の陸戦隊や禁門の変で会津・薩摩兵と戦っており、戦慣れしていた。
萩政府軍は戦意をなくして萩に逃げ帰ったのだろう。 -
金麗社は諸隊の本陣であったため、境内には大田・絵堂の戦いや諸隊に関する記念碑がある。
その一つが写真の大田邨碑。
大田邨碑とはぺりーの来航から始まって長州藩の動きを概述し、大田・絵堂の戦いは明治維新に繋がる重要な戦であったと述べている。
篆額(てんがく)は公爵毛利元昭(萩藩最後の藩主毛利元徳の息子)、篆額とは石碑の上部に篆書で書かれた題字の事。
碑文の作成者は子爵杉孫七郎である。
杉孫七郎は現在の山口市大内御堀氷上の人。明倫館に学び藩主の小姓を務めた後、幕府の遣欧使節の随行員として欧州諸国を視察した。
内訌戦では中立を守り、鎮静化会議員として戦の終結に尽力いた。四境戦争では石州口参謀として活躍。
明治になると県令や枢密院顧問官を務めた。官僚でありながら能書家として有名である。 -
大田邨碑の抜粋。
「是に於てか絵堂の戦有り(略)異日大政維新の盛を観るを得たるも、亦未だ嘗てこの役に基づかざるものあらざるなり」
維新の大業が成されたのも、大田・絵堂の戦いで正義派が勝ったからである。と述べている。故に金麗社は明治維新発祥の地と呼ばれている。 -
大田邨碑。
右は原文の漢文、左は訓読文。 -
訓読文。
大田・絵堂の戦い(内訌戦)の概略が書かれている。 -
杉孫七郎の句碑。
「星ににた うめのひかりや ちとせまで」
この句は大田絵堂の戦いを明治維新を天神(金麗社)ゆかりの梅に例えて詠んだもの。 -
古鐘は杉孫七郎の号。
星は明けの明星を指し、梅の光は大田・絵堂の一戦が維新の夜明けを迎えたことを指している。 -
殉難十七士碑
大田絵堂戦役で戦死した正義派諸隊の隊士17名を祀る碑文。 -
碑文の抜粋
「明治維新の成敗は防長二州の向背に繋がり、防長二州の向背は絵堂大田の一戦に決す」とあるが、この戦いがいかに大事な戦であったのかが分かる。
現在17名の隊士の墓は大田光明寺の旧官修墳墓に移されている。 -
金麗社の鳥居の前の左右に二つの灯篭があるが、奇兵隊寄進の灯篭である。
慶応2年(1866年)9月四境戦争(第二次長州征伐)小倉口の戦いで長州藩が勝利し、奇兵隊が小倉延命寺の灯篭を戦利品として持ち帰り、慶応3年7月に寄進したもの。
運搬を託された小郡大庄屋林勇蔵・秋本新蔵達が費用を出して道路補修等を行い運送した。 -
奇兵隊戦勝記念灯篭の説明文
左の灯篭には年号を元治四年(実際の年号は慶応3年)としているのは、時の将軍慶喜に応じないという長州藩隊士の意気込みが窺われる。 -
左の灯篭には慶応四年丁卯秋七月と書かれているが、文字を正面から写さなかったので文字が判読しずらい。
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右の灯篭。
灯篭に漢文の碑文が刻まれている。
「落小倉城得諸延命寺、奇兵隊」の文字が読みとれる。 -
大田絵堂戦役戦没者顕彰碑
大田・絵堂の戦いで戦死及び戦傷死した隊士の名前が刻まれている。
この顕彰碑には正義派諸隊と保守派俗論党両方の戦死・戦傷死者の名が刻まれている。 -
金麗社の隣に建っているのは大田八幡宮。祭神は応神天皇・神功皇后・比売大神。
鎌倉時代末期、鎌倉の鶴岡八幡宮を奉祀し、室町時代中期(1420年)に平原の西山に社殿が創建された。
明治時代後期(1911年)に現在地に移って来た。
社殿が金麗社によく似ているため、訪れた時は勘違いして大田八幡宮を金麗社と思っていた。 -
八幡宮の鳥居。
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大田八幡宮の境内。
訪れた時は丁度桜の時期だったので、境内は桜の花が満開だった。 -
大田八幡宮の境内と咲き誇るソメイヨシノ。
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境内参道の太鼓橋。
次は大田絵堂戦役の開戦地である絵堂を訪ねてみよう。
旧舟木街道(R435)を萩に向かって北上し、長登りから旧道に入って北上すると絵に達する。 -
ここが絵堂、赤間関街道の宿場町で江戸時代にはたいそう栄えたそうだ。
写真は赤間関街道と宿場町の風景。直進すれば萩城下町に達する。 -
絵堂の戦いが始まったのは赤間関街道から宿場町絵堂に入ってすぐの場所。
その近くに「絵堂戦跡記念碑」が立てられている。
では時間軸を元治2年(1865年)1月6日に戻そう。現在の美祢市伊佐を発した諸隊は6日天宮慎太郎を斥候隊司令とする斥候部隊亦200名が進軍を開始。7日深夜2時に絵堂の西外れに到着。直ちに斥候2名が萩政府軍本陣に戦書を届け、帰隊すると同時に野戦砲を合図に小銃の一斉射撃を開始。
諸隊兵50~60人位が宿の西口から東口まで市中を銃撃しながら絵堂宿を制圧した。
萩政府軍は夜襲に慌てて驚き、応戦しながら赤村まで撤退した。
7日明け方別動隊の財満新三郎が甲冑装束の騎乗姿で撰鋒隊の兵士を率いて駆けつけたが、東口を守備していた南園隊隊士らに狙撃されて即死した。
そのため隊の統率が取れず先鋒隊は退却した。
一方諸隊も斥候隊司令の天宮慎太郎と奇兵隊小隊司令の藤村太郎が残兵捜索中に狙撃されて死亡した。
絵堂を制圧した後、ここは防戦には不向きな地形であることから1月8日大田に兵を移動した。大田 絵堂戦跡記念碑 名所・史跡
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諸隊が伊佐から進軍してきた赤間関・中道筋の説明板。
赤間関街道は下関から萩に通じる江戸時代の長州の主要街道であった。下関から萩に向かう最短コースであったため幕末には多くの志士が往来したと言う。 -
説明文が読みにくいため大田絵堂戦役を説明した部分のみ拡大した。
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萩政府軍本陣跡の門
絵堂宿の酒屋旧柳井邸(幕末の頃は藤井邸)の門で、平成17年に県道改良工事に伴い柳井家から町に寄付され当地(開戦記念碑がある馬首)に移転されたもの。
門の右端に絵堂戦時の小銃の弾痕が残っている。 -
萩政府軍本陣跡の門の説明文。
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門の右に穴が開いているが、そこが小銃弾が貫通した跡。
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萩政府軍本陣の跡。
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大田絵堂開戦記念碑の前にある「絵堂の開戦」説明文
説明文が小さな文字で見にくいので、下記にアップに写真を載せた。 -
絵堂の開戦前の様子と1月7日の開戦の様子が記されている。
当日諸隊(奇兵隊・南園隊・膺懲隊)の兵力は200名、対する萩政府軍の兵力は約1300名で諸隊に対して大兵力だったが僅か50~60名の諸隊の奇襲に恐れ慄き、腰砕けで戦線を放棄して逃げ去った。
萩政府軍撰鋒隊は上級武士で編成された長州藩の正規軍。百姓上がりの弱小集団の諸隊に何が出来ようぞ、一捻りに捻り潰してくれると豪語していたが、一旦戦ってみると弱小集団の方がはるかに強い。彼ら撰鋒隊は禁門の変や下関海峡での外国船との実戦経験が無かったのだ。
これらの戦は松下村塾門下達が率いる諸隊が戦ってきたのである。さらに諸隊は近代的な兵器と訓練を備えていた
さらに諸隊は次なる手をすでに打っていた。それは農民や庄屋層の支援や後方支援を確立させることだった -
萩政府軍には撰鋒隊の他に諸隊から萩野隊が参加している。
写真は萩隊の宿営地となった養泉寺。萩野隊は諸隊と親交があったので中立を表明。
寺の門前の松に合図の提灯を掲げて諸隊の襲撃を避けた。 -
養泉寺の本殿。
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養泉寺の門前。
門前には提灯を掲げたと伝わる松はもう無かった。多分枯れてしまったのだろう。 -
元治2年(1865年)1月7日絵堂で大田絵堂戦役が開戦したその日に重要な任務を負った御楯隊隊長大田市之進(後の御堀耕助)は山田顕義、品川弥次郎、野村靖ら50人の兵士を引き連れて小郡勘場(代官所)を取り囲み、代官市川文作に対して軍資金の用立てを要求した。
当時萩政府からは諸隊を援助する事を厳しく取り締まるお触れが出されていたので、代官は当然これを拒否した。
庄屋や会計方が呼ばれたが誰も回答できる者はおらず、話は結論が出ないまま夕方になったのである。
代官は大庄屋の林勇蔵を呼びだした。代官が「貸すだけの金があるか?」と勇蔵に問うと「暮れの支払いを支払いを済ませたばかりなので公金はありませんが、危急の際の準備金として私的な資金35貫目(銀35貫目)を持っています。
勇蔵はこの時私的な資金を全て投げ出し諸隊を支援して諸隊を勝たせようと思っていたという。
その日の夜御楯隊幹部を林勇三宅に案内して藩札銀35貫目を渡した。
翌日の1月8日林勇蔵は庄屋など主だった者28名を集め、野村靖立ち合いの下で諸隊への協力を要請した。この中には北川清助(元代官)、本間次郎兵衛(嘉川大庄屋格)、本間源三郎(嘉川村庄屋)、古林新左衛門(下郷大庄屋格)、秋本新蔵(下郷百姓銃陣頭取)、上田新太郎(台道村庄屋)などが含まれている。
林勇蔵は「庄屋同盟」を結成し、小郡宰判17カ村が一致して諸隊に協力することを申し合わせた。
大田絵堂の戦いでは軍資金や食料が不足していたので、戦場に農兵二小隊、軍夫1200人を急遽派遣した。
近代戦は補給線であり、小郡宰判はその後方基地となったのである。大田絵堂の戦いにおける諸隊支援はこれだけでは無かった。小郡宰判内の農民からは札銀(藩札)で合計205貫450目(当時金1両が銀60匁として現在の価格に直すと約3億4240万円)、米386石(現在の小売価格5㎏4000円として計算すると4632万円)が諸隊に提供された。
宰判とは長州藩における郷農支配の単位で代官が管轄する地域のこと。藩の直轄地の事である。
大田絵堂の戦いの鍵を握っていたのは小郡を中心とする豪農たち(農兵隊のリーダー達)であった。当時小郡から大田へ行く道は大変狭く、敵が出没するなかで炊き出しのムスビを大八車に積んで行くだけで命がけだったという。
諸隊が小郡宰判内の百姓から軍資金や兵糧米の調達に成功し、後方支援を確保できたことは大田絵堂の戦いを勝利に導く大きな要因となった。
林勇蔵と小郡宰判内17カ村の庄屋と農民・庶民らは戊辰戦争が終結するまで支援を惜しまずに続けた。
もし林勇蔵や小郡宰判17カ村の庄屋や百姓が諸隊を支援しなかったら、長州の明治維新はどうなったか分からない。大田絵堂戦役は萩政府軍に有利に展開されたかもしれないのだ。
それほど正義派の諸隊は軍資金や食料に窮していた。そのため小郡勘場に援助を求めて来たのだ。
小郡宰判内の豪農や百姓たちが明治維新の帰趨を握っていたと言っても過言ではないと思う。
今までの歴史小説では一度も登場したことが無い林勇蔵たち豪農や百姓たちに光を当てたいと思って書き起こしたのが今回の旅行記である。林勇蔵や主だった庄屋たちは後の旅行記で詳しく説明したい。
ここでは簡単に諸隊の人物紹介をしておきたい
御楯隊総督大田市之進(後の御堀耕助)
江戸斎藤弥九郎道場の塾頭を務める。帰藩後世子毛利定広の小姓となる。
尊王攘夷運動に身を投じ、下関海峡戦争、禁門の変や四国連合艦隊との戦争に参加
その後御楯隊を結成、大田絵堂の戦いや四境戦争(第二次長州征伐)芸州口の戦いに参戦し活躍
慶応2年に参政になり明治2年に欧州視察に向かうが発病。帰国後三田尻(防府市)で療養するも29歳の若さで亡くなった。あまりにも早い死である。
山田顕義 松下村塾門下で陸軍中将。小ナポレオンとも称され、「用兵の妙、神の如し」と称された。また戦いで一度も負けない男とも呼ばれ戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。
明治になると西南戦争の後陸軍部内で山縣有朋との確執に嫌気がさし陸軍を去る。
岩倉使節団の一行として欧米視察に出る。この時欧米の法律に影響を受けたことから司法大臣として明治法典を編纂した。
日本大学、国学院大学の創始者。
品川弥次郎 松下村塾門下 戊辰戦争では参謀を務め、明治政府では内大臣等を歴任。信用組合や産業組合の結成に尽力した。
野村靖 松下村塾門下 兄は松下村塾四天王の1人、入江九一である。戊辰戦争後岩倉使節団の一行として渡欧。帰国後県令や通信大臣、内務大臣を歴任した政治家
写真は御楯隊が兵士50名で包囲した小郡勘定(代官所)とお茶屋の跡。 -
勘場(代官所)と御茶屋の説明文
山陽道筋のお茶屋は幕府役人や九州諸大名の参勤交代時に利用され、藩外交時の重要施設であった。 -
勘場と御茶屋の見取り図
勘場は代官が任命され、年に3回出張して滞在し、地元の大庄屋が勘場役人に選任されて業務を行っていた。
小郡は山口の入り口であり、幕末の時局の緊迫に伴いここの代官には玉木文之進、周布政之助、井上馨など有能な者が多く任命されている。
御茶屋は現在の新丁公民館から小郡ふれあいセンターにかけて建てられていた。 -
手前はかつて御茶屋の敷地であった場所。
写真奥の民家が建っている場所が勘場の跡地。御茶屋も勘場も当時の建物は一切残っていない。
御茶屋は1927年(昭和2年)に県立小郡高等女学校となったが、昭和19年に県立小郡農業学校に統合されて廃校となった。 -
勘場があった場所。建物は残っていないが、写真の石垣は勘場が建てられていた当時の物。
明治以降勘場は村役場、町制が施行されると町役場となった。 -
勘場と御茶屋の跡。
江戸時代の様子を今に伝えるのは石垣のみ。 -
1月10日、大田絵堂戦役第二戦、長登の戦い
1月7日、絵堂の戦いでは中立を守り参戦しなかった荻野隊は萩政府軍撰鋒隊の傘下に入った。
10日の戦いでは午前10時頃萩政府軍は7日に参戦しなかった荻野隊を先頭に、後続として撰鋒隊が絵堂から赤間関街道沿いに下ノ垰から栃ケ垰まで押し寄せた。
写真は下ノ垰の道標、左大田・右せきみちと表示されていた。大田方面(勘場道)と赤間関街道の分岐点である。 -
赤間関街道の表示板。
下ノ垰から萩政府軍が押し寄せた土地ケ垰まで0.4㎞の距離。 -
赤間関街道中道筋。
この緩やかな坂道の街道を上り詰めた所が栃ケ峠。
荻野隊300名はこの街道を前進し、栃ケ垰を守備していた膺懲隊120名と戦闘開始。
数に劣る膺懲隊は押されて刀祢村まで後退して防戦。八幡隊、南園隊、奇兵隊の槍隊・砲隊が援軍に駆けつけ激戦となる。12時まで戦闘が行われ、萩政府軍は民家6軒、毘沙門堂に放火して退却した。
諸隊の隊士の多くは農民だったので、諸隊は農民の立場にたった掟「諭示(ゆじ)」を定め、「みだりに農家へ立ち寄らない事、農業の妨げをしない事、田畑を荒らさない事、牛馬に出会ったら避ける事、農作物を荒らさない事」などを取り決めていた。
そのため大田地区や周辺の農民はこぞって諸隊に協力したと言う。
萩政府軍は民家に放火したので、農民の怒りをかったのだ。 -
赤間関街道・中道筋の説明板。
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赤間関街道、下ノ垰の説明文及び舟木街道等の地図。
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赤間関街道栃ノ垰は赤間関街道、瀬戸崎街道、舟木街道が交わる交通の要衝。
街道沿いは大田絵堂戦役跡や長登銅山遺跡等史跡が多い。 -
1月10日午後 大田絵堂戦役第3戦 大木津・川上の激戦
午後2時頃萩政府軍の撰鋒隊・力士隊(お相撲さんで編成された部隊)約300名が間道から大木津(戦役要図真ん中やや下、大田川沿いの所)に攻め入る。
大木津口を守備していた奇兵隊参謀三好軍太郎(後の陸軍中将)等約150名が防戦するが勢いに押されて劣勢になる。奇兵隊は鉄菱を撒き殿ケ浴というと所に地雷火を仕掛けて後退した。
仕掛けた地雷火は導線が切れて不発となり、勢いに乗じた政府軍は民家7軒に放火して南下。大田川が屈折する新井手原まで攻め寄せ、諸隊本営の金麗社に迫った。
金麗社の山県狂介(山県有朋)は銃声が近づくのを聞き付け、騎馬にて前線を廻り敗兵を督励、奇兵隊別隊を投入し諸隊の応援を求めた。
奇兵隊第二銃隊隊長湯浅祥之助らは金麗社の御幣を首に掛け小丘の急坂(幣振坂へいふりざか)を駆け下り決死の覚悟で政府軍の側面を急襲した。このため敵は混乱して陣容が乱れ、態勢は逆転して夕暮れ時には敗退した。
この戦いは大田絵堂戦役の天王山で「幣振坂の戦い」と呼ばれている。 -
川上口の戦跡記念碑
大田 絵堂戦跡記念碑 名所・史跡
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大木津・川上口の戦いの説明板。
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川上口、幣振坂近くの戦跡。
中央を流れるのは大田川で川の両側に道がある。写真左の坂が幣振坂。この坂を掛け降りて政府軍の中央を突いたと戦記にあるので大田川の左側、急坂下の道を撰鋒隊が進軍していた時に急襲したのかと思っていたら、どの戦役図にも川の右の道を攻め下って来たように表示されている。
川の右手の道ならば、正しくは「幣降坂を駆け下り、大田川を渡って敵を急襲した」、あるいは川に橋が架かっていたのであれば「幣振坂を駆け下り、橋を渡って敵軍を急襲した」となるのではなかろうか。
その辺が戦記に詳しく書かれていないので、疑問が残るところではある。 -
幣振坂の説明板。
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幣振坂の遠望。
大田川に現在架かる橋は川上橋、橋の奥、小郡・萩道路の下の斜面が幣振坂。
奇兵隊第二銃隊は斜度30度の急斜面を駆け下って政府軍の中央部を急襲した。 -
撰鋒隊士の墓
大田川沿いの新井手原、田圃の中のあぜ道の一角に撰鋒隊士の墓がある。
道路からは数百m中に入った所にあるので、道路脇にある表示板を見逃すと分かり難いと思う。 -
あぜ道に2基の墓があった。
墓は撰鋒隊士水津岩之允と駒井小源太。町内に残る萩政府軍側の墓碑3基のうちの一つ。
建立年月は不明、地元の人々が清掃等管理しているそうだ。 -
墓のアップ。
二人の俗名がはっきり分かる。
次は1月14日大田絵堂戦役第四戦、激戦だった?水垰の戦いだが長くなるので前編はここで終わり。
訪問下さり有り難うございました。
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