2025/04/07 - 2025/04/07
148位(同エリア153件中)
ポポポさん
この旅行記のスケジュール
2025/04/07
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毛利英霊公御分骨廟
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夏目雅子の墓
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夏目雅子と伊集院静の墓
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楫取素彦と美和子夫人の墓
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野村望東尼終焉の宅跡
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この旅行記スケジュールを元に
次は桑山公園の麓にある大楽寺と野村望東尼の墓、さらに野村望東尼終焉の宅を訪れた。
大楽寺には白血病で亡くなった女優夏目雅子さんの墓がある。なかなか行く機会が無かった場所なので、この機会にまとめて行く事にした。
最も分かり難かったのが野村望東尼の墓だった。
yahoo地図やグーグルマップで調べても広い墓地なので墓の場所が分からない。
旅行記では簡単に行ける道を紹介しているので参考にして頂きたい。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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では最初に野村望東尼の墓を訪ねてみよう。
振り出しは桑山公園のわんぱく広場。護国神社がある「ふれあいの広場」から遊歩道をわんぱく広場に向かって歩いて行くと、わんぱく広場に向かう下りの階段がある。
この階段を降りると右に矢印で「野村望東尼の墓」の案内板があるので、矢印の方向に進んで行く。桑山公園 公園・植物園
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階段を下りて右矢印の方向に進んでいる途中の様子。
道の先にわんぱく広場と野村望東尼の墓がある。
護国神社や桑山招魂場がある「ふれあいの広場」は桑の山の中腹にあるので、墓地に至り道は緩やかな下り坂である。 -
野村望東尼終焉の宅及び墓の説明板。
桑山公園を下ると、大楽寺から野村望東尼の墓に向かう道と合流する。その道沿いにこの説明板がある。
墓までは一本道で矢印の標識に従って進めばいい。
野村望東尼は勤王歌人。夫が亡くなると出家して尼僧となり、自身の山荘(福岡市平尾山荘)に勤王の志士を度々匿い、山荘を志士の密会の場として提供している。
匿われた志士の中に高杉晋作がいる。
高杉は禁門の変後俗論党(保守派)に政権が移り、狂信的な攘夷派の神代直人から命を狙われるようになると、身の危険を感じて直ちに長州から逃亡し野村望東尼に匿われた。
長州藩が禁門の変後保守派が藩政を牛耳るようになったと同じく、福岡藩も勤王派から佐幕派(保守派)に政権が移り、勤王派が弾圧されて大粛清が起きる。この時野村望東尼は姫島に流刑となった。
この知らせを聞いた高杉は配下を派遣して野村望東尼を救出し、下関の豪商白石正一郎宅に匿った。
この時野村望東尼は病床にあった高杉晋作を看病し、臨終にも立ち会っている。
高杉晋作の死後は楫取素彦の手配で山口に移り住み、薩長東上軍を見送るために
三田尻(防府市三田尻)に移住した。
三田尻では歌友荒瀬百合子宅に身を寄せ、防府天満宮に参籠して東上軍の成功を祈ったが体調を崩し、荒瀬宅で亡くなっている。享年62歳であった。 -
ここから墓地までは一分道。
矢印の案内板に従って歩いて行く。 -
再び野村望東尼の墓の案内標識あり。
明治維新勤王女流歌人と書かれていた。
写真には写していないが、遊歩道沿いにはいくつものお地蔵様が安置されていた。 -
さらに進むとビュースポットやまぐちとして野村望東尼の墓の案内板があった。
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墓地までの遊歩道沿いには野村望東尼の歌碑がある。
「冬籠るり 怺えこらえてひとときに 花咲きみてる 春は来るらし」
(冬籠りして こらえにこらえていた花が、一斉に咲き満る春が来るらしいです)
野村望東尼の歌である。
討幕軍の戦勝、維新の夜明けを予感させる歌である。 -
野村望東尼の歌碑の説明。
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歌碑から墓地まで80mの距離。
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この道を右に曲がったところに墓地がある。
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ここは防府市桑山墓地。
この奥に野村望東尼の墓があった。 -
野村望東尼の墓。贈正五位と彫られている。
この墓は明治26望東尼追贈の際に、楫取素彦の呼びかけにより昭憲皇太后の御下賜金や三条実美。毛利宗家らの協力で重修された墓である。
墓碑の裏は楫取素彦が撰文し、本多国敬が敬書している。野村望東尼終焉の宅及び宅跡並びに墓 名所・史跡
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墓碑裏面には楫取素彦による撰文がある。
銘は格調高い重厚な韻文になっているそうである。
撰文の意味は・・・
「山荘は平尾の山々の連なりにあり、望東尼が町の喧騒を絶って住まわれる。深く刻んだ勤王の心は志士と等しく、姫島に幽閉されるも落ち着き払い、獄にあるも家にあるも、いかなる境地にあっても変わることがない。朝廷が叙勲し、天が報いたが、実に天の摂理が回復して世俗の権力を抑えることとなり、世の推移には正義がある。私も望東尼の生涯に照らして何をすべきかを悟るのであった。」野村望東尼終焉の宅及び宅跡並びに墓 名所・史跡
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墓碑の説明と楫取者彦による撰文の意味の説明。
説明文は日焼けしていて文字が薄く、読み難くかった。野村望東尼終焉の宅及び宅跡並びに墓 名所・史跡
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野村望東尼の墓の左右には古い墓がある。当該墓所で一番古い場所は望東尼の墓の周囲だと思われる。
望東尼の墓の右にあるのが高知藩(土佐藩)「田所壮輔」の墓。田所壮輔は土佐藩砲術師範。土佐勤皇党の党員で文久3年に土佐藩を脱藩し長州に走る。
長州では三田尻(防府市三田尻)に屯所があった忠勇退に入隊して禁門の変に参加。
元治元年に隊内の隊士と意見が対立し、その果てに自刃して果てたという。
亡くなったのは元治元年9月29日享年25歳 -
望東尼の墓の左側にあるのが福岡県士族結城澹三の墓。
結城澹三郎とは仙田淡三郎の変名で兄の仙田市郎と共に尊王攘夷運動に身を投じた。
文久2年に福岡藩を脱藩し、兄(仙田市郎)を追って三田尻に赴く。
その後平野國臣の生野の乱に参加するが敗れて三田尻に戻り、元治元年4月28日三田尻で病死した。享年27歳。墓は楫取素彦が建立している。 -
奇兵隊士木原亀之進の墓。
三田尻に駐屯中に病を患い、それを苦にして自刃して果てた。 -
桑の山山頂展望広場からの景色。
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展望広場から眺めた防府市中心部の景色。
正面に見える山は大平山。5月中旬には山頂付近の10万本のツツジが咲きほこり、瀬戸内海の景色が見渡せる。 -
防府市街と大平山遠景。
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山頂付近の桜。
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ここは桑の山の麓にある大楽寺。曹洞宗の禅寺である。
この寺には萩藩7代藩主毛利重就公の分骨墓や楫取素彦夫婦、夏目雅子の墓などがある。
折しも山門付近の桜が満開でとても美しかった。大楽寺 寺・神社・教会
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大楽寺の山門。
大楽寺 寺・神社・教会
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山門を潜ると正面に本堂、右奥に庫裏があった。
大楽寺 寺・神社・教会
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寺号は方光山大楽寺。
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大楽寺は毛利家の菩提寺ではないが本堂の屋根瓦には「一文字三星」の毛利家表家紋が使用されていた。
これは7代目藩主毛利重就公の分骨墓があるからだろうか。 -
本堂棟瓦にも毛利家の家紋が。
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山門周辺の境内の様子。
大楽寺 寺・神社・教会
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山門脇に鐘楼がある。
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寺の境内からの山門と鐘楼の景色
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境内の様子。
右から山門、六地蔵、鐘楼、そして左端に見えるのが萩藩7代藩主毛利重就の分骨塔。 -
山門の右手にある足王権現大菩薩。
足王権現大菩薩とは足の健康や足のケガにご利益があるとされる神仏習合の神様である。
神仏習合の神であるから寺で祀られている。
この神様、浅学の私はここで初めて聞く名前だった。 -
足王権現大菩薩の右隣に鎮座しているのが地蔵菩薩像。
背後の桜が美しかった。 -
大楽寺の鐘楼。
この鐘楼に吊るされている梵鐘は萩藩水軍の根拠地三田尻御船蔵の梵鐘として有名らしい。大楽寺 寺・神社・教会
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三田尻御船蔵(後の長州藩海軍局)の梵鐘。
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大楽寺梵鐘の説明板
この梵鐘は三田尻御船蔵の時鐘として使用されてきた。この鐘は萩藩7代藩主毛利重就が梵鐘の工房を訪れ、製作の工程を見学した時に作成された梵鐘とのこと。
鐘の色は遠く海まで響く地区の名物だったため大東亜戦争時の供出を免れたそうだ。 -
鐘楼から見えるソメイヨシノ。
満開を数日か過ぎた時期だったが、綺麗な桜だった。 -
鐘楼の側にあるのが毛利英雲公御分骨廟である。
毛利英雲公とは萩藩7代藩主毛利重就公の事。この殿様は毛利支藩長府藩の十男として生まれ、兄が次々に他界したことから長府支藩の藩主となり、萩本藩に世継ぎがいないため本藩の7代藩主となったラッキーな殿様である。
しかし、この殿様只者では無かった。撫育方(今で言う所の特別会計)を設けて毎年一定の金額を積み立てさせ、この資金で瀬戸内沿いに広大な塩田を造ってできた塩を藩の専売とした。
特に力を入れたのが三田尻(防府市)沖の海を埋め立てて広大な塩田を造り上げたことである。
萩藩は8万5千貫と言う大借金を抱えた藩であったが、いかに一般会計が赤字になも一定の金額を撫育方にため込んで幕末を迎えた。
一般会計の大赤字は村田清風などの改革で膨大な借金を返済し黒字に転じ、実高100万石と言われるまでになった。
幕末長州藩がイギリス人武器商人トーマス・グラバーから軍艦や大量の新式銃を購入し、第二次長州征伐で幕府軍を打ち負かすこちができたのも、ひとえに撫育方で貯め込んだ資金があったからである。
また、今日長州三白政策、または四白政策と呼ばれる経済政策はこの殿様が始めたことである。
三白とは米、塩、紙の事。これに蝋を加えて四白政策とも言う。これらの物産は全て藩の専売にされて借金の穴埋めに寄与したが、農民には過酷な政策だった。
米は年貢として納めていたが、紙や蠟は農民たちの現金収入だったのである。藩の専売になったことでこれらの産物は藩に安く買いたたかれ、農民の生活は苦しくなる一方だった。現金収入の道を絶たれた農民の不満はつのるばかりであった。
一方藩財政の悪化に伴い公表四公六民は藩の直轄地で五公五民、家来の領地で四公六民と苦しい年貢を徴収された。
このように抑圧された農民はついに一揆を起こした。そして一揆の火は瞬く間に長州全土に広がり、世に言う天保の大一揆となったのである。 -
毛利英雲(重就)公の説明
毛利重就はことのほか防府市を愛した藩主。藩主を息子に譲ると国元に帰り、隠居場を防府市三田尻に定め、三田尻お茶屋を建てて家族と共に移り住んで暮らした。
現在はお茶屋の一部と庭が英雲荘として一般公開されている。 -
境内に建つ平和観音
戦争犠牲者の鎮魂と平和を願って建てられた観音像。 -
平和観音像の説明
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大楽寺境内の桜。
大楽寺周辺には桜の巨木が数本あり、桜の季節には見事な花を咲かせる。 -
寺の境内のソメイヨシノ。
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ソメイヨシノのアップ。
満開の時期を少し過ぎていたが、それでも美しかった。 -
次の訪れたのは大楽寺北墓地にある、ある女優の墓。
女優が合葬されている墓は西山家之墓であった。
女優の名前は「夏目雅子」、綺麗な女優さんだったが白血病で闘病中に肺炎を併発して亡くなった。
夏目雅子の夫は伊集院静。妻子ある夫がお腹に宿っている時に妻子を捨てて若い夏目雅子の下に走った。そして7年に及ぶ不倫交際を経て夏目と結婚した。
先妻と離婚したのは1980年で再婚したのが1984年、何故伊集院は4年間も夏目雅子を待たせたのか?
先妻と離婚した当時伊集院は桃井かおりとも関係があり二股交際していたので、どちらと結婚するか踏ん切りがつかず、ずるずると交際が続いていたようだ。
夏目雅子は不倫交際中に4回も中絶している。伊集院が子供は欲しくないと言ったのが理由で伊集院もそれを認めている。そしてやっと結婚できたと思ったら白血病で闘病生活。翌年には亡くなった。
夏目雅子は美貌で名女優との名声を博しても、心も体もボロボロになり亡くなった。何と悲しい人生だろう。夏目雅子に同情して止まない。 -
墓の側の墓誌に夏目雅子と伊集院 静の名があった。
伊集院静は在日朝鮮人2世。本名は趙忠来(チョ・チュンレ)で帰化した日本名は西山忠来。
作家でペンネームが伊集院静。山口県防府市の出身である。
伊集院静は富士霊園に埋葬されたそうであるから、この西山家の墓は分骨が納められているのだろう。
夏目雅子は西山雅子名、芸名女優夏目雅子として記されている。享年27歳で早く散りすぎた。 -
墓誌
2番目に夏目雅子の名がある。
夏目雅子が無くなり、ここに納骨されると女優達がお参りに訪れたと言うが、今ではわざわざ訪れる人はほとんどいないらしい。
時代が移り変わり、平成・令和生まれの方は夏目雅子の名を知らない人が多いのではないだかろうか。 -
夏目雅子の「ひまわり園」。
以前は「夏目雅子のひまわり園」と言う看板が立てられ、夏目雅子が好きだったヒマワリが植えられていたが、その看板も今は無い。 -
大楽寺参道沿いのソメイヨシノ。
満開の桜は殊の外美しかった。 -
大楽寺参道沿いの桜。
この道を進んだ先に
楫取素彦夫婦の墓、さらにその先に野村望東尼の墓の入り口がある。 -
参道沿いのお地蔵様。
野村望東尼の墓にたどり着くまで、この参道沿いにはこの様なお地蔵様を何度か見ることができる。 -
大楽寺鐘楼付近の桜。
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大楽寺山門付近にこのような配置図があった。
夏目雅子の墓を訪ねる時はこの地図を見て行くと分かりやすい。 -
大楽寺山門付近の桜。
大楽寺を訪ねる場合、参道沿の桜が咲き誇る4月上旬が最も美しい時期なのでお勧めである。 -
大楽寺参道沿いの桜。大楽寺の第一駐車場の桜である。
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参道には楫取素彦夫婦と野村望東尼の墓の場所を示す案内板がある。
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大楽寺南墓地に楫取素彦夫婦の墓がある。美和子夫人は吉田松陰の妹文で久坂玄瑞の妻である。
玄瑞亡き後、縁あって楫取素彦と再婚した。大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公である。
右が楫取元彦、左が美和子夫人の墓。 -
この写真も左が美和子夫人、右は楫取素彦の墓。
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この日最後に訪れたのが野村望東尼終焉の宅である。
ナビで表示される住所地付近にあるのは写真の家だが、終焉の場所を示す説明板も何もない。
野村望東尼は薩長東上軍を見送るために山口から三田尻(防府市三田尻)に移り、歌友荒瀬百合子宅に身を寄せ荒瀬宅の離れの茶室で起居したと伝えられている。
その茶室が望東尼の死後この地に移されたが、建物が改装されたため今では普通の家屋になっているとの事。
住所地の地図では終焉の宅は写真の家だが、何も表示が無いのでこの家かどうかは分からない。野村望東尼終焉の宅及び宅跡並びに墓 名所・史跡
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周囲を見回してみたら、家屋の向かい側に「野村望東尼終焉の宅」の記念碑と絶筆の碑があった。
場所は県立防府高等学校校庭のすぐ側である。野村望東尼終焉の宅及び宅跡並びに墓 名所・史跡
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野村望東尼終焉の宅百拾周年記念之碑とある。
百拾周年記念事業として建てた碑にのようだ。碑の右には史跡野村望東尼終焉の宅として望東尼が三田尻に来て以降亡くなるまでの事が簡潔に書かれた石碑があった。
左には野村望東尼絶筆の碑があったのである。
私は野村望東尼終焉の宅は先ほどの家屋では無く、石碑が建てられているこの場所だとこの時思った。野村望東尼終焉の宅及び宅跡並びに墓 名所・史跡
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史跡野村望東尼終焉の宅石板碑
野村望東尼終焉は幕末の女流勤王歌人。薩長連合が成り三田尻港から薩長討幕軍が東上するに際し寄寓先の山口から三田尻(防府)に移り、防府天満宮に七日間参籠して戦勝を祈願した。その際毎日一首の和歌を手向けている。
以前は七日間の参籠は断食を伴ったとされ、その断食があまりに過酷で間もなく病に倒れ62歳の生涯を閉じたとされていた。
しかし近年では老齢の身で七日間の断食は耐えられなかったのではないかと疑問視されている。野村望東尼終焉の宅及び宅跡並びに墓 名所・史跡
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野村望東尼絶筆の碑。
達筆過ぎて何と書かれているのかさっぱり分からない。
次は防府市の維新史跡巡りの最後として、長州藩海軍局(御船蔵)跡、野村望東尼終焉の宅跡、英雲荘(三田尻お茶屋)、萩往還をお送りします。
訪問下さり有り難うございました。
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