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旅の最終日は、菅江真澄の墓にお参りし、近くにある古代の行政機関であった秋田城の跡を見学。その後、秋田市街地へ戻り、史跡などを観て回ることにする。<br /><br />(2025.07.25 投稿)

すでに真夏の出羽路をゆく【3】~秋田城跡と秋田市内~

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2025/06/30 - 2025/06/30

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旅行記グループ 【出羽国】羽後

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旅猫

旅猫さん

旅の最終日は、菅江真澄の墓にお参りし、近くにある古代の行政機関であった秋田城の跡を見学。その後、秋田市街地へ戻り、史跡などを観て回ることにする。

(2025.07.25 投稿)

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
グルメ
4.0
交通
3.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス 新幹線 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 秋田駅西口バスターミナル7時45分発のバスに乗り、秋田城跡の方へと向かう。降りたのは、寺内地域センター前バス停である。秋田駅からは15分余りであった。

    秋田駅西口バスターミナル7時45分発のバスに乗り、秋田城跡の方へと向かう。降りたのは、寺内地域センター前バス停である。秋田駅からは15分余りであった。

  • バス停から歩き始めると、車道の向こうに『古四王神社』と言う社が見えた。とりあえず、そこに立ち寄り、土地神への挨拶をする。創建年代は不明で、四道将軍大毘古命に所縁があるとされるが、伝説の域を出ない。『古四王神社』は、かつての越の国(北陸、新潟)と出羽国(山形、秋田)に広く分布している社であることから、その地方の地主神ではないかとも云われているそうだ。

    バス停から歩き始めると、車道の向こうに『古四王神社』と言う社が見えた。とりあえず、そこに立ち寄り、土地神への挨拶をする。創建年代は不明で、四道将軍大毘古命に所縁があるとされるが、伝説の域を出ない。『古四王神社』は、かつての越の国(北陸、新潟)と出羽国(山形、秋田)に広く分布している社であることから、その地方の地主神ではないかとも云われているそうだ。

    古四王神社 寺・神社・教会

  • 参拝後、車道を渡り返す。すると、そこには藤茶屋跡と言う看板が立っていた。調べてみると、菅江真澄が残した『梅の花湯の記』に登場する茶店のようだ。かつて、この辺りには宿や茶店があったそうで、旅人に梅の香湯がふるまわれたそうだ。初夏には、藤の花が咲くそうである。

    参拝後、車道を渡り返す。すると、そこには藤茶屋跡と言う看板が立っていた。調べてみると、菅江真澄が残した『梅の花湯の記』に登場する茶店のようだ。かつて、この辺りには宿や茶店があったそうで、旅人に梅の香湯がふるまわれたそうだ。初夏には、藤の花が咲くそうである。

  • その脇の小道に入ると、路地裏に大きな樹が見えた。『旭さし木』と呼ばれる欅の大樹であった。樹齢千二百年と云われ、市内最古の樹だそうだ。明治十九年の大火で焼けたそうだが、枯れ死せず、今も多くの葉を茂らせている。その生命力には脱帽である。

    その脇の小道に入ると、路地裏に大きな樹が見えた。『旭さし木』と呼ばれる欅の大樹であった。樹齢千二百年と云われ、市内最古の樹だそうだ。明治十九年の大火で焼けたそうだが、枯れ死せず、今も多くの葉を茂らせている。その生命力には脱帽である。

    旭さし木 自然・景勝地

  • さらに歩くと、今度は『高清水霊泉』と書かれた看板があった。立ち寄ってみると、住宅地の裏手の茂みの中に、小さな湧水があった。かつて、古四王神社の御手洗だったそうである。

    さらに歩くと、今度は『高清水霊泉』と書かれた看板があった。立ち寄ってみると、住宅地の裏手の茂みの中に、小さな湧水があった。かつて、古四王神社の御手洗だったそうである。

    高清水霊泉 名所・史跡

  • 住宅地が切れると下り坂となり、急に薄暗くなった。下り切った場所には沢があり、小さな橋が架けられていた。親柱には『伽羅橋』と刻まれている。別名『香炉木橋』と呼ばれ、伝説では、かつて香木で造られていたことから、この名があるそうだ。

    住宅地が切れると下り坂となり、急に薄暗くなった。下り切った場所には沢があり、小さな橋が架けられていた。親柱には『伽羅橋』と刻まれている。別名『香炉木橋』と呼ばれ、伝説では、かつて香木で造られていたことから、この名があるそうだ。

    伽羅橋 / 香炉木橋 名所・史跡

  • その橋を渡った先に、菅江真澄の墓入口の標識があった。今回の旅の目的のひとつが、菅江真澄の墓を訪ねることであった。江戸時代後期の旅行家であった彼は、私の憧れの人物の一人である。江戸時代、徒歩で三河国から北海道まで旅するなどし、生涯で、二百冊以上もの旅記などを残している。そのうち89冊は、国の重要文化財にも指定されている。ようやく訪れることが出来、感無量である。

    その橋を渡った先に、菅江真澄の墓入口の標識があった。今回の旅の目的のひとつが、菅江真澄の墓を訪ねることであった。江戸時代後期の旅行家であった彼は、私の憧れの人物の一人である。江戸時代、徒歩で三河国から北海道まで旅するなどし、生涯で、二百冊以上もの旅記などを残している。そのうち89冊は、国の重要文化財にも指定されている。ようやく訪れることが出来、感無量である。

    菅江真澄の墓 名所・史跡

  • 道に戻ると、すぐ近くに『二ツ五輪』と呼ばれる古い五輪塔が並んで置かれていた。案内板などは無かったが、帰宅後に調べてみると、慶長19年(1614)、山形藩主最上義光に背き、久保田藩領土崎に隠れいた安彦左衛門尉蔵人兄弟のものだそうである。

    道に戻ると、すぐ近くに『二ツ五輪』と呼ばれる古い五輪塔が並んで置かれていた。案内板などは無かったが、帰宅後に調べてみると、慶長19年(1614)、山形藩主最上義光に背き、久保田藩領土崎に隠れいた安彦左衛門尉蔵人兄弟のものだそうである。

  • バス通りに戻り、再び渡り返して古四王神社の脇から北へと歩くと、高清水公園となった。この辺りは、鵜の木地区と呼ばれ、秋田城跡の東側に位置している。奈良時代には、重要な役所が設けられ、平安時代には寺があったとされている。公園の一角には、発掘された竪穴式住居の跡がある。

    バス通りに戻り、再び渡り返して古四王神社の脇から北へと歩くと、高清水公園となった。この辺りは、鵜の木地区と呼ばれ、秋田城跡の東側に位置している。奈良時代には、重要な役所が設けられ、平安時代には寺があったとされている。公園の一角には、発掘された竪穴式住居の跡がある。

    秋田城跡史跡公園(高清水公園) 名所・史跡

  • 近くには、奈良時代後期の水洗厠舎の跡もあった。近くの沼地に向かって傾斜が付けられ、水で流していたそうだ。

    近くには、奈良時代後期の水洗厠舎の跡もあった。近くの沼地に向かって傾斜が付けられ、水で流していたそうだ。

  • その西側の丘には、多くの建物跡があり、寺の跡も発掘されたそうだ。

    その西側の丘には、多くの建物跡があり、寺の跡も発掘されたそうだ。

  • 井戸も多く造られ、一部は水を張って保存されていた。

    井戸も多く造られ、一部は水を張って保存されていた。

  • 古代の池の跡まで来ると、奥に城門らしきものが望めた。古代の城である秋田城の跡である。

    古代の池の跡まで来ると、奥に城門らしきものが望めた。古代の城である秋田城の跡である。

  • 城跡を訪れる前に、地図に記載のある空素沼神社に立ち寄る。深い森の中に佇み、少々怖い。元禄元年7月23日の一夜にして出来たと言う空素沼の南の高台に鎮座する社である。森の中には古墳もあるそうだ。

    城跡を訪れる前に、地図に記載のある空素沼神社に立ち寄る。深い森の中に佇み、少々怖い。元禄元年7月23日の一夜にして出来たと言う空素沼の南の高台に鎮座する社である。森の中には古墳もあるそうだ。

  • 来た道を戻り、秋田城跡の外郭東門跡に至る。外郭は築地塀で囲まれていたそうだ。現在、東門が復元されている。

    来た道を戻り、秋田城跡の外郭東門跡に至る。外郭は築地塀で囲まれていたそうだ。現在、東門が復元されている。

  • 外郭東門を潜ると、お年寄りたちがゲートボールを楽しんでいる。その中を通り道を渡ると、秋田城跡の案内所があった。そこで地図を確認し、内郭へと向かう。広い大路を歩いて行くと、内郭東門跡に出た。こちらも復元されていた。

    外郭東門を潜ると、お年寄りたちがゲートボールを楽しんでいる。その中を通り道を渡ると、秋田城跡の案内所があった。そこで地図を確認し、内郭へと向かう。広い大路を歩いて行くと、内郭東門跡に出た。こちらも復元されていた。

  • 中へ入ると、かつての政庁などの建物跡を示すものが整備されていた。秋田城は、古代律令政権が設けた最北の城柵で、造られた当時は『出羽柵』と呼ばれていたものである。中世には、秋田城介と言う官職はあったものの、行政機関や軍事施設としての機能は失われていたようである。

    中へ入ると、かつての政庁などの建物跡を示すものが整備されていた。秋田城は、古代律令政権が設けた最北の城柵で、造られた当時は『出羽柵』と呼ばれていたものである。中世には、秋田城介と言う官職はあったものの、行政機関や軍事施設としての機能は失われていたようである。

  • 城跡から、橋を渡って資料館へと向かう。城跡の内郭西門などは、明治時代に造られた道路によって破壊されてしまっていた。今は、橋の部分に位置を示すものだけが残されている。

    城跡から、橋を渡って資料館へと向かう。城跡の内郭西門などは、明治時代に造られた道路によって破壊されてしまっていた。今は、橋の部分に位置を示すものだけが残されている。

  • 明日城跡歴史資料館を見学する。平屋の建物であったが、展示内容はかなり充実していた。秋田城跡を再現した模型は、その全容が良く分かる。

    明日城跡歴史資料館を見学する。平屋の建物であったが、展示内容はかなり充実していた。秋田城跡を再現した模型は、その全容が良く分かる。

    秋田市立秋田城跡歴史資料館 美術館・博物館

  • 館内には、平安時代に廃棄された甲(よろい)も展示されていた。当時の甲は、漆を塗った皮を重ねていたそうである。

    館内には、平安時代に廃棄された甲(よろい)も展示されていた。当時の甲は、漆を塗った皮を重ねていたそうである。

  • 秋田城がどこにあったのかは、長らく確定していなかったそうだが、菅江真澄は、ここにあったと随筆の中に記していたそうだ。本格的な発掘調査は、昭和34年から始まり、その姿が明らかにされて来た。多くの木簡や漆紙文書が出土し、当時の様子も分かり始めている。

    秋田城がどこにあったのかは、長らく確定していなかったそうだが、菅江真澄は、ここにあったと随筆の中に記していたそうだ。本格的な発掘調査は、昭和34年から始まり、その姿が明らかにされて来た。多くの木簡や漆紙文書が出土し、当時の様子も分かり始めている。

  • 展示の中には、複製ではあるが『四王寺印』と言うものもあった。秋田城の霊寺にあったものだそうで、付属寺院であった四天王寺に纏わるものとされている。現物は、京都の国立博物館にあるそうなので、観てみたいものである。

    展示の中には、複製ではあるが『四王寺印』と言うものもあった。秋田城の霊寺にあったものだそうで、付属寺院であった四天王寺に纏わるものとされている。現物は、京都の国立博物館にあるそうなので、観てみたいものである。

  • 秋田城跡歴史資料館前バス停から、10時51分発のバスに乗り、秋田市街地へと戻る。秋田市内は、バス路線が思いのほか充実している。

    秋田城跡歴史資料館前バス停から、10時51分発のバスに乗り、秋田市街地へと戻る。秋田市内は、バス路線が思いのほか充実している。

  • 大町二丁目バス停で下車。そこから少し戻ると、広い通りの中央で、何やら作業をしている人たちがいた。秋田の夏の風物詩である『竿灯』の観覧席を作っていたのだ。もう、夏祭りの季節である。

    大町二丁目バス停で下車。そこから少し戻ると、広い通りの中央で、何やら作業をしている人たちがいた。秋田の夏の風物詩である『竿灯』の観覧席を作っていたのだ。もう、夏祭りの季節である。

  • そこから脇道に入る。しばらく歩くと、寺町となった。その塀沿いに、オカトラノオの花が咲いていた。

    そこから脇道に入る。しばらく歩くと、寺町となった。その塀沿いに、オカトラノオの花が咲いていた。

  • その先に、佐竹義宣が建立した鱗勝院があった。その立派な山門は、明治19年の大火で伽藍を失った後、久保田城の裏門を移築したものだそうだ。形は変えてあるそうだが、古材を使っているそうである。

    その先に、佐竹義宣が建立した鱗勝院があった。その立派な山門は、明治19年の大火で伽藍を失った後、久保田城の裏門を移築したものだそうだ。形は変えてあるそうだが、古材を使っているそうである。

  • その寺から、旧羽刕街道沿いに東へ歩くと、『せきや』と言う老舗の商店があった。その一角に、『鰻塚』と言う石碑が立っている。取り扱っている鰻などの魚に敬意を表し、供養するためのものだそうだ。店は通町に面しているが、菅江真澄が訪れた当時の面影はまったく無い。

    その寺から、旧羽刕街道沿いに東へ歩くと、『せきや』と言う老舗の商店があった。その一角に、『鰻塚』と言う石碑が立っている。取り扱っている鰻などの魚に敬意を表し、供養するためのものだそうだ。店は通町に面しているが、菅江真澄が訪れた当時の面影はまったく無い。

  • さらに進むと、右手に『ぬぶり館』と言う施設があった。入ってみると、実物大の竿灯が飾られていた。

    さらに進むと、右手に『ぬぶり館』と言う施設があった。入ってみると、実物大の竿灯が飾られていた。

    秋田市民俗芸能伝承館(ねぶり流し館) 美術館・博物館

  • 二階には、秋田に伝わる民俗芸能に関する資料も展示されていた。

    二階には、秋田に伝わる民俗芸能に関する資料も展示されていた。

  • その隣に、旧金子家住宅がある。外からは観たことがあったが、ねぶり館と共通だったので、見学することにする。中には、立派な内蔵があった。

    その隣に、旧金子家住宅がある。外からは観たことがあったが、ねぶり館と共通だったので、見学することにする。中には、立派な内蔵があった。

    旧金子家住宅 名所・史跡

  • 内蔵の前から店先へと、長い通り土間が続いている。その土間に沿って座敷が設けられ、伝統的な商家の佇まいが感じられる。

    内蔵の前から店先へと、長い通り土間が続いている。その土間に沿って座敷が設けられ、伝統的な商家の佇まいが感じられる。

  • 当時の店の部分も再現されていた。旧金子家の建物は、明治20年に大火の後に建てられたものだそうだ。

    当時の店の部分も再現されていた。旧金子家の建物は、明治20年に大火の後に建てられたものだそうだ。

  • 外に出て、建物を観る。主屋の屋根の上にあるのは、火事に備えた天水桶である。秋田を訪れたブルーノ・タウトが興味を示したそうだ。

    外に出て、建物を観る。主屋の屋根の上にあるのは、火事に備えた天水桶である。秋田を訪れたブルーノ・タウトが興味を示したそうだ。

  • さらに東へ進むと、旭川の手前に『高砂堂』がある。ここも、今回の旅の目的地である。この店の『りんご餅』が目当てである。かつて、この餅を食べて気に入っていたのだ。ところが、やっている気配が無い。入口の張り紙を見ると、何と臨時休業であった。ここまで来たのに、残念である。

    さらに東へ進むと、旭川の手前に『高砂堂』がある。ここも、今回の旅の目的地である。この店の『りんご餅』が目当てである。かつて、この餅を食べて気に入っていたのだ。ところが、やっている気配が無い。入口の張り紙を見ると、何と臨時休業であった。ここまで来たのに、残念である。

    高砂堂 グルメ・レストラン

  • そのまま立ち去ろうとしたのだが、道の向かいに、蒲鉾屋があるのに気付いた。店の前まで行ってみると、蕎麦と言う文字が目に付いた。入ってみると、店の一角が蕎麦屋になっていた。ちょうど昼時だったので、ここでお昼とする。注文した海老天ざるは、揚げたての天婦羅がサクサクで美味しく、蕎麦自体も悪くなかった。付いていた蒲鉾も、もっちりとして好みであった。

    そのまま立ち去ろうとしたのだが、道の向かいに、蒲鉾屋があるのに気付いた。店の前まで行ってみると、蕎麦と言う文字が目に付いた。入ってみると、店の一角が蕎麦屋になっていた。ちょうど昼時だったので、ここでお昼とする。注文した海老天ざるは、揚げたての天婦羅がサクサクで美味しく、蕎麦自体も悪くなかった。付いていた蒲鉾も、もっちりとして好みであった。

    宮城屋蒲鉾店 大町店 グルメ・レストラン

  • 食後、旧金子家住宅の前を通り、南へと歩いて行く。しばらくすると、赤れんが郷土館が見えて来た。明治45年(1912)に建てられた旧秋田銀行本店を活用した郷土資料館である。『ねぶり館』で購入した共通券で入れるので、立ち寄ることにする。

    食後、旧金子家住宅の前を通り、南へと歩いて行く。しばらくすると、赤れんが郷土館が見えて来た。明治45年(1912)に建てられた旧秋田銀行本店を活用した郷土資料館である。『ねぶり館』で購入した共通券で入れるので、立ち寄ることにする。

    秋田市立赤れんが郷土館 美術館・博物館

  • 中へ入ると、明治期の銀行らしい佇まいである。

    中へ入ると、明治期の銀行らしい佇まいである。

  • 頭取室に設えてあった暖炉の意匠は見事であった。

    頭取室に設えてあった暖炉の意匠は見事であった。

  • 二階へ続く階段も、滑らかに曲線を描く木製の手摺が美しい。

    二階へ続く階段も、滑らかに曲線を描く木製の手摺が美しい。

  • 二階から、天井の漆喰とシャンデリアの意匠を眺める。

    二階から、天井の漆喰とシャンデリアの意匠を眺める。

  • 貴賓室の意匠も見応えがあった。暖炉も重厚な設えであったが、天井や壁の意匠も見事である。壁紙も特徴的で、やはり一番気品があった。

    貴賓室の意匠も見応えがあった。暖炉も重厚な設えであったが、天井や壁の意匠も見事である。壁紙も特徴的で、やはり一番気品があった。

  • 別館の勝平得之記念館も見学する。勝平得之は、昭和に活躍した浮世絵版画家だそうだ。初めて作品を観たが、秋田の風景を描いた作品がなかなか良かったので、図録を購入してしまった。

    別館の勝平得之記念館も見学する。勝平得之は、昭和に活躍した浮世絵版画家だそうだ。初めて作品を観たが、秋田の風景を描いた作品がなかなか良かったので、図録を購入してしまった。

    勝平得之記念館 美術館・博物館

  • まだ時間がかなりあるので、久しぶりに久保田城跡に立ち寄ってみる。今回は、松下門跡から本丸跡へと登ることにした。

    まだ時間がかなりあるので、久しぶりに久保田城跡に立ち寄ってみる。今回は、松下門跡から本丸跡へと登ることにした。

  • 二の丸跡から長坂門跡を登ると、復元された本丸表門に出た。

    二の丸跡から長坂門跡を登ると、復元された本丸表門に出た。

  • そのすぐ下に、現存する当時の建物の一つである御物頭御番所がある。御物頭は、配下の足軽を指揮し、長坂門の開閉と城下の警備を担当していたそうだ。

    そのすぐ下に、現存する当時の建物の一つである御物頭御番所がある。御物頭は、配下の足軽を指揮し、長坂門の開閉と城下の警備を担当していたそうだ。

    御物頭御番所 名所・史跡

  • 表門を入ると本丸跡である。八幡秋田神社や佐竹義堯の像などがある。奥へと歩いて行くと、土塁上に、復元された御隅櫓があった。しかし、実際の御隅櫓は二層であり、これは観光用に建てられたため、展望台のある天守のような姿をしていた。

    表門を入ると本丸跡である。八幡秋田神社や佐竹義堯の像などがある。奥へと歩いて行くと、土塁上に、復元された御隅櫓があった。しかし、実際の御隅櫓は二層であり、これは観光用に建てられたため、展望台のある天守のような姿をしていた。

    久保田城御隅櫓 名所・史跡

  • その展望台からは、秋田市の山とも言うべき大平山が望めた。

    その展望台からは、秋田市の山とも言うべき大平山が望めた。

  • 建物内は資料館となっていて、久保田藩や佐竹氏歴代藩主に関する資料が展示されていた。久保田城の復元模型もあり、見応えがあった。

    建物内は資料館となっていて、久保田藩や佐竹氏歴代藩主に関する資料が展示されていた。久保田城の復元模型もあり、見応えがあった。

  • 久保田藩は、佐竹氏が代々藩主である。佐竹氏と言えば、平安時代から続く常陸源氏である。長らく常陸に一大勢力を築いたものの、関ヶ原の戦いの際の立ち回りが悪く、家康によって秋田へ転封となってしまう。戊辰戦争で、いち早く西軍に付いたのは、この時の恨みであろう。個人的には、佐竹氏はあまり好きではない。

    久保田藩は、佐竹氏が代々藩主である。佐竹氏と言えば、平安時代から続く常陸源氏である。長らく常陸に一大勢力を築いたものの、関ヶ原の戦いの際の立ち回りが悪く、家康によって秋田へ転封となってしまう。戊辰戦争で、いち早く西軍に付いたのは、この時の恨みであろう。個人的には、佐竹氏はあまり好きではない。

  • 八幡神社の隣に、與次郎稲荷神社と言う小さな社があった。佐竹義宣に飛脚として仕えた『与次郎』と言う名の狐を祀るとされる社だそうだ。

    八幡神社の隣に、與次郎稲荷神社と言う小さな社があった。佐竹義宣に飛脚として仕えた『与次郎』と言う名の狐を祀るとされる社だそうだ。

  • 本丸から、裏門跡を通り二の丸跡へ向かう。移築された裏門の跡には、礎石がそのまま残されていた。

    本丸から、裏門跡を通り二の丸跡へ向かう。移築された裏門の跡には、礎石がそのまま残されていた。

  • 二の丸跡にあった売店に立ち寄ると、北東北限定のコーラがあった。味は同じだが、缶に東北の祭りが描かれていた。

    二の丸跡にあった売店に立ち寄ると、北東北限定のコーラがあった。味は同じだが、缶に東北の祭りが描かれていた。

  • 久保田城跡を後にして、向かいにある県立美術館に入る。ところが、展示作品が少なく、かなりがっかりであった。

    久保田城跡を後にして、向かいにある県立美術館に入る。ところが、展示作品が少なく、かなりがっかりであった。

    秋田県立美術館 美術館・博物館

  • 二階に、長めの良い喫茶室があったので、そこで休憩する。県産りんごのジュースを頼み、しばらく寛ぐ。目の前が水盤となっていて、なかなか綺麗であった。

    二階に、長めの良い喫茶室があったので、そこで休憩する。県産りんごのジュースを頼み、しばらく寛ぐ。目の前が水盤となっていて、なかなか綺麗であった。

  • 秋田駅へ戻ったが、まだ列車の時間まで40分ほどある。そこで、駅ビル内にあった『あきたくらす』と言う立ち飲みで時間を潰す。まずは、五城目町の福禄寿酒造が醸す『一白水成 純米吟醸 愛山』をいただく。肴は、サラミのような食感だと言うの『ハンターソーセージ』とした。しかし、このソーセージは、あまり美味しいものとは言えなかった。

    秋田駅へ戻ったが、まだ列車の時間まで40分ほどある。そこで、駅ビル内にあった『あきたくらす』と言う立ち飲みで時間を潰す。まずは、五城目町の福禄寿酒造が醸す『一白水成 純米吟醸 愛山』をいただく。肴は、サラミのような食感だと言うの『ハンターソーセージ』とした。しかし、このソーセージは、あまり美味しいものとは言えなかった。

    あきたくらす グルメ・レストラン

  • 続いて、千円で三種類呑めると言うサーバーを試す。飲んだのは、『秀よし 純米吟醸 月涼み』、『千代緑 純米吟醸 三郷錦 夏酒』、『福禄寿 十五代彦兵衛 純米吟醸』である。どれも、そこそこ美味しかった。さすが、酒処秋田である。

    続いて、千円で三種類呑めると言うサーバーを試す。飲んだのは、『秀よし 純米吟醸 月涼み』、『千代緑 純米吟醸 三郷錦 夏酒』、『福禄寿 十五代彦兵衛 純米吟醸』である。どれも、そこそこ美味しかった。さすが、酒処秋田である。

  • つまみは、特製燻製三種盛り。内容は、水だこ、鯖、チーズであった。燻製は好きだし、美味しいのだが、如何せん、量が少ない。残念である。

    つまみは、特製燻製三種盛り。内容は、水だこ、鯖、チーズであった。燻製は好きだし、美味しいのだが、如何せん、量が少ない。残念である。

  • 時間となったので、切り上げる。帰りは、16時12分発の『こまち32号』に乗車。車内はガラガラであった。『寒風山ライナー』に触発されて訪れた出羽路。寒風山では天気にも恵まれ、久しぶりに気持ちの良い景色を拝めた。菅江真澄の墓や足跡も訪ねることが出来、良い旅であった。

    時間となったので、切り上げる。帰りは、16時12分発の『こまち32号』に乗車。車内はガラガラであった。『寒風山ライナー』に触発されて訪れた出羽路。寒風山では天気にも恵まれ、久しぶりに気持ちの良い景色を拝めた。菅江真澄の墓や足跡も訪ねることが出来、良い旅であった。

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【出羽国】羽後

この旅行記へのコメント (4)

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  • あるき虫さん 2025/07/26 12:25:57
    菅江真澄。。
    旅猫さん、こんにちは。

    出羽の国の旅路、とても旅情をくすぐりますね。秋田に向かうに際し、夜行列車の現役時代であったら、より旅情が深まるところでありますが、これについてはもはや、空想で愉しむよりほかないようです。急行「天の川」あたりで、秋田入りしたいところですが…(笑)

    ところで、菅江真澄翁のお墓参りとは、素晴らしい旅の一環でしたね。私も菅江真澄翁には着目してまして、ずいぶん前のコトですが、「東北学」のシンポジウムに参加して、赤坂憲雄氏や山折哲雄氏が語る菅江真澄の生き様の講演を拝聴したコトがあります。菅江真澄・イザベラ・バード・伊能忠敬など、古き日本を探訪・探求した人物に対しては、とても浪漫を感じます。

    最近、歴史を探求する余裕のない日々で、俗世に埋もれるような旅行記しか書けていない自分ですが、菅江真澄翁の名前を聞くコトで、何か自分の旅の原点を思い返すことができたような気がします。今一度、菅江真澄の辿った旅路のコトを読み返して、私も翁の墓前に立つ旅に出てみたいと思いました。。

    あるき虫

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2025/07/26 16:26:35
    RE: 菅江真澄。。
    あるき虫さん、こんにちは。

    書き込みありがとうございます。
    かつては、秋田くらいだと夜行列車で訪れるのが普通でしたね。
    『あけぼの』や『津軽』など、よく利用しました。
    残念ながら、『天の川』は利用できず。。。

    今回の旅では、秋田城跡を訪れることが一つの目的でしたが、その界隈の地図を見ていた時、偶然、菅江真澄の墓を見つけました。
    菅江真澄については、旅先で何度もその足跡に出会ったことから興味が湧き、その後、彼の著作を読んできました。
    今回、墓参が出来て、良かったです。
    イザベラ・バードも、『日本奥地紀行』を読んでいます。

    ぜひ、あるき虫さんも、菅江真澄の墓を訪れてみてください。
    旅猫
  • ポテのお散歩さん 2025/07/26 00:55:33
    秋田市内の二つのお城
    旅猫さん こんばんは。

    菅江真澄という方、凄いですね。
    当時は徒歩で旅するしかないのに、三河国から北海道まで
    行かれたのですね。

    その方が残された旅行記は、とても貴重ですね。
    国の重要文化財に指定されるのも わかります。

    お城と言えば天守閣があるものだと思っていましたが
    古代のお城は天守閣が無いですね。
    今まで色んな時代の大河を観ていたのに、春に鑁阿寺に行って
    初めて気付きました。
    『おんな城主 直虎』や『鎌倉殿。。。』も天守閣は無かったです。

    秋田城は、それよりもっと古い奈良時代に築かれたお城なのですね。
    久保田城は江戸時代に築かれたお城で、
    ちゃんと分けて考えないと 時代背景が全く変わってきますね(^-^;

    秋田市内も歴史を感じる建物が多く残っていると
    改めて感じました(*^-^*)

      ポテ

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2025/07/26 07:35:29
    RE: 秋田市内の二つのお城
    ポテさん、おはようございます。

    いつもありがとうございます。
    菅江真澄は、三河から信濃、越後、出羽、陸奥を旅して蝦夷地まで歩いています。
    その後も下北や出羽を歩き回り、多くの旅記や随筆などを残しています。
    おかげで、江戸期の東北やアイヌの暮らしぶりなどが現代に伝えられました。
    徒歩でしか移動できない時代に、信じられないことですよね。

    城郭に天守が出来た時期は、確実にはわかっていないそうですが、織田信長の安土城が狭義の天守の最初だと考えられているようです。
    最近では、それより少し前、松永久秀が築いた大和多聞山城や信貴山城の高層建築物が天守の起源とも考えられています。
    どちらにせよ、戦国時代末期ののことで、それ以前、天守はありませんでした。

    櫓のようなものが出来るのも、武士が台頭する平安時代末期ごろです。
    なので、古代の城柵には平屋の建物ばかりでした。

    江戸時代になっても、久保田城のように、天守が無く、櫓が天守の代わりになっていた城もたくさんあります。
    財政的な理由や、外様で、徳川家に睨まれないように天守を造らなかったなど、実際には、天守がある城の方が少ないのです。
    御三家の水戸城、百万石の金沢城、福岡城なども天守はありません。
    現存十二天守と言われますが、弘前城などもあれは天守ではなく、櫓です。
    ちなみに、『天守閣』は俗語で、正式には『天守』と呼ばれます。

    秋田市中心部も戦災に遭っていますし、再開発も行われているので、歴史的建造物は少ないのですが、それでもいくつかは残っています。
    余程の事がない限り、それらはこれからも保存されると思います。

    旅猫

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