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「八達嶺長城」から北京市内に戻って黒t午後3時を過ぎています。午後の観光は「頤和園」だけでしたが、ここももの凄い混雑しています。21年前の比ではないほどです。実際ここでも2人のツアーの参加者が行方不明になってしまいました。ここへも以前来ていますが、やはりガイドさんの説明があると細かいところまで知ることが出来てとても良かったです。ところが見学するのは「徳和殿」「楽寿園」「宜芸館」「養雲軒」と「長廊」の一部だけでした。「仏香閣」にも登らないので「蘇州街」へ行くことも無く、「昆明湖」から「南湖島」と「十七孔橋」を望んで出口に向かいます。これもちょっと残念な観光でしたが、思ったよりも時間もかかっています。以前来たときには園内を半日かけて歩いた上に「聴鸚館」という宮廷料理のレストランにも行っていました。この混雑を見るとその当時に行っておいて良かったと思います。1時間ちょっとの見学でしたが清の乾隆帝が母の崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝い、3つの湖を合わせて「昆明湖」に拡張した想いを感じることは出来ました。また清朝末期には西太后が自身の居所である清漪園の再建に莫大な費用をかけ、完成後に「頤和園」と改称しました。この経費は北洋艦隊を整備する海軍予算を総理海軍事務衙門大臣であった醇親王奕譞を通して流用したもので、清朝の軍備増強に大きく影響し、日清戦争敗北の原因の1つになったと言われています。さらに自分の甥である光緒帝を幽閉し、皇帝の死因が最終的にはヒ素中毒であると証明されたことを考えると恐ろしい時代だったと感じる場面もあります。西太后と光緒帝の死亡時間が近いのは、自分の死期を悟った西太后が自分よりも光緒帝を長生きさせないために毒殺したとも言われています。また、西太后の死期が近いという情報を知った袁世凱が宦官を利用して先手を打って光緒帝を暗殺したなど諸説があるようです。光緒帝が崩御すると西太后の遺命で甥の溥儀が宣統帝として即位しますが、清朝は滅亡へと進んでいくことになります。

トラピックス This is 北京(7)頤和園の見学に入るも万寿山に登ることもなく蘇州街にも行かずにがっかり。

10いいね!

2025/04/26 - 2025/04/26

1433位(同エリア5324件中)

旅行記グループ 2025北京の旅

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kojikoji

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「八達嶺長城」から北京市内に戻って黒t午後3時を過ぎています。午後の観光は「頤和園」だけでしたが、ここももの凄い混雑しています。21年前の比ではないほどです。実際ここでも2人のツアーの参加者が行方不明になってしまいました。ここへも以前来ていますが、やはりガイドさんの説明があると細かいところまで知ることが出来てとても良かったです。ところが見学するのは「徳和殿」「楽寿園」「宜芸館」「養雲軒」と「長廊」の一部だけでした。「仏香閣」にも登らないので「蘇州街」へ行くことも無く、「昆明湖」から「南湖島」と「十七孔橋」を望んで出口に向かいます。これもちょっと残念な観光でしたが、思ったよりも時間もかかっています。以前来たときには園内を半日かけて歩いた上に「聴鸚館」という宮廷料理のレストランにも行っていました。この混雑を見るとその当時に行っておいて良かったと思います。1時間ちょっとの見学でしたが清の乾隆帝が母の崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝い、3つの湖を合わせて「昆明湖」に拡張した想いを感じることは出来ました。また清朝末期には西太后が自身の居所である清漪園の再建に莫大な費用をかけ、完成後に「頤和園」と改称しました。この経費は北洋艦隊を整備する海軍予算を総理海軍事務衙門大臣であった醇親王奕譞を通して流用したもので、清朝の軍備増強に大きく影響し、日清戦争敗北の原因の1つになったと言われています。さらに自分の甥である光緒帝を幽閉し、皇帝の死因が最終的にはヒ素中毒であると証明されたことを考えると恐ろしい時代だったと感じる場面もあります。西太后と光緒帝の死亡時間が近いのは、自分の死期を悟った西太后が自分よりも光緒帝を長生きさせないために毒殺したとも言われています。また、西太后の死期が近いという情報を知った袁世凱が宦官を利用して先手を打って光緒帝を暗殺したなど諸説があるようです。光緒帝が崩御すると西太后の遺命で甥の溥儀が宣統帝として即位しますが、清朝は滅亡へと進んでいくことになります。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
ホテル
4.0
グルメ
4.0
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
観光バス 徒歩
航空会社
中国国際航空
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行なし)
利用旅行会社
阪急交通社
  • 「八達嶺長城」の観光を終えて北京市内に戻ってきました。午後は「頤和園」の観光ですが、ここでも入り口近くにバスを停めて下車することが出来ません。かなり離れたところから歩きました。

    「八達嶺長城」の観光を終えて北京市内に戻ってきました。午後は「頤和園」の観光ですが、ここでも入り口近くにバスを停めて下車することが出来ません。かなり離れたところから歩きました。

  • 懐かしい「三輪車(さんるんちぇ)」が観光客を待ち構えています。中国語では「瓢箪(hulu)」は家族の繁栄と幸福を象徴する「富と富(Fu Lu)」のように聞こえます。 中国人は幸運、安全、健康、成功をもたらすと信じています。

    懐かしい「三輪車(さんるんちぇ)」が観光客を待ち構えています。中国語では「瓢箪(hulu)」は家族の繁栄と幸福を象徴する「富と富(Fu Lu)」のように聞こえます。 中国人は幸運、安全、健康、成功をもたらすと信じています。

  • 「頤和園」の「東宮門」側から入場します。以前来たときはここから入場して北側の「北宮門」から出たことを思い出してきました。町の風景は大きく変わっても旧跡の姿はほとんど変わっていません。

    「頤和園」の「東宮門」側から入場します。以前来たときはここから入場して北側の「北宮門」から出たことを思い出してきました。町の風景は大きく変わっても旧跡の姿はほとんど変わっていません。

    頤和園 広場・公園

  • 以前はこの門から入ったような記憶がありますが、現在は固く閉まっています。「門釘」が横に9列、縦に9段並んでいることが良く分かります。東宮門の上部に掛かる「頤和園」の扁額は「光緒帝」直筆をもとに造られたものです。

    以前はこの門から入ったような記憶がありますが、現在は固く閉まっています。「門釘」が横に9列、縦に9段並んでいることが良く分かります。東宮門の上部に掛かる「頤和園」の扁額は「光緒帝」直筆をもとに造られたものです。

  • ここでも青銅製の私有の獅子が門を護っています。こちらは子獅子をあやす雌の獅子です。

    ここでも青銅製の私有の獅子が門を護っています。こちらは子獅子をあやす雌の獅子です。

  • こちらは玉を掴んだ雄の獅子です。同じ北京の史跡でも時代によって獅子のデザインも違っていて比較すると面白いです。

    こちらは玉を掴んだ雄の獅子です。同じ北京の史跡でも時代によって獅子のデザインも違っていて比較すると面白いです。

  • 「仁寿門」から園内に入ります。扁額には漢字と満州文字が併記されているので清時代の建物だと分かります。頤和園は「西太后」の避暑地だった場所で、長寿を意味する寿が好きだったので、この門も「仁寿門」と寿が付いています。

    「仁寿門」から園内に入ります。扁額には漢字と満州文字が併記されているので清時代の建物だと分かります。頤和園は「西太后」の避暑地だった場所で、長寿を意味する寿が好きだったので、この門も「仁寿門」と寿が付いています。

  • 「仁寿紋」の扁額には四角に囲われた慈禧皇太后御筆とあるので「西太后」の書いた文字だと分かります。

    「仁寿紋」の扁額には四角に囲われた慈禧皇太后御筆とあるので「西太后」の書いた文字だと分かります。

  • 煉瓦彫刻は主に寺の塔や墓室など建物の壁を飾ることに用いられますが、一般的には煉瓦で刻み出した彫塑の工芸品を指します。中国の煉瓦彫刻は東周時代の瓦当(がとう)や空洞煉瓦から発展してきました。北宋の時代に煉瓦彫刻が始まり、墓室の壁の装飾に利用されました。

    煉瓦彫刻は主に寺の塔や墓室など建物の壁を飾ることに用いられますが、一般的には煉瓦で刻み出した彫塑の工芸品を指します。中国の煉瓦彫刻は東周時代の瓦当(がとう)や空洞煉瓦から発展してきました。北宋の時代に煉瓦彫刻が始まり、墓室の壁の装飾に利用されました。

  • 抱鼓石(ほうこせき)は伝統的な中華建築で官吏の邸宅や寺廟の門などによく置かれます。抱鼓石を門柱の前に置くことで、門の安定と強化の持っていますいます。

    抱鼓石(ほうこせき)は伝統的な中華建築で官吏の邸宅や寺廟の門などによく置かれます。抱鼓石を門柱の前に置くことで、門の安定と強化の持っていますいます。

  • 「寿星石」は1886年の光緒12年に「頤和園」の再建時に「墨璽根園」、現在の北京大学構内から移された石で、色が青く潤いがあり、形状が寿星(寿老人)のようであるためこの名が付けられました。

    「寿星石」は1886年の光緒12年に「頤和園」の再建時に「墨璽根園」、現在の北京大学構内から移された石で、色が青く潤いがあり、形状が寿星(寿老人)のようであるためこの名が付けられました。

  • これも「西太后」の趣味の1つでしょうか。確かに頭の大きな寿老人のようにも見えなくはありません。寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである牡鹿を従えています。手には長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っている姿で表されます。

    これも「西太后」の趣味の1つでしょうか。確かに頭の大きな寿老人のようにも見えなくはありません。寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである牡鹿を従えています。手には長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っている姿で表されます。

  • 「麒麟(きりん)」は古代中国の伝説上の聖獣です。「仁寿殿」の前に置かれたこの銅製の麒麟は、1937年6月に「円明園」から移されたものです。

    「麒麟(きりん)」は古代中国の伝説上の聖獣です。「仁寿殿」の前に置かれたこの銅製の麒麟は、1937年6月に「円明園」から移されたものです。

  • 形は鹿に似て大きく背丈は5メートルほどあり、顔は龍に似て牛の尾と馬の蹄をもち、背毛は五色に彩られ、毛は黄色く、身体には鱗があるとされます。古くは一本角もしくは角の無い姿でしたが、後世では二本角や三本角で描かれます。

    形は鹿に似て大きく背丈は5メートルほどあり、顔は龍に似て牛の尾と馬の蹄をもち、背毛は五色に彩られ、毛は黄色く、身体には鱗があるとされます。古くは一本角もしくは角の無い姿でしたが、後世では二本角や三本角で描かれます。

  • 「円明園」から移された銅製の麒麟というと「円明園十二生肖獣首銅像」のことを思い出してしまいます。「円明園」の長春園の西洋式建築西洋楼の一角をなす「海晏堂」の噴水池に設置されていた十二支の噴水のことです。12体の獣首人身の銅像はアロー戦争の際にフランス軍が円明園の略奪に注力し、イギリス軍が清朝による捕虜殺害への報復として「円明園」を焼き払い、その混乱の中で流失、離散したとされます。ジャッキー・チェン監督出演の映画「ライジング・ドラゴン」はこの十二支の頭像をモデルにしています。

    「円明園」から移された銅製の麒麟というと「円明園十二生肖獣首銅像」のことを思い出してしまいます。「円明園」の長春園の西洋式建築西洋楼の一角をなす「海晏堂」の噴水池に設置されていた十二支の噴水のことです。12体の獣首人身の銅像はアロー戦争の際にフランス軍が円明園の略奪に注力し、イギリス軍が清朝による捕虜殺害への報復として「円明園」を焼き払い、その混乱の中で流失、離散したとされます。ジャッキー・チェン監督出演の映画「ライジング・ドラゴン」はこの十二支の頭像をモデルにしています。

  • 「仁寿殿」は政治区域の中心で、「西太后」や「光緒帝」が政務を執り行ったり外国の使節との会見など外交に使われた建物です。「大圓宝鏡」の扁額の下の殿内の中央に「西太后」が使った宝座があり、周りに金屏風や衝立が置かれています。

    「仁寿殿」は政治区域の中心で、「西太后」や「光緒帝」が政務を執り行ったり外国の使節との会見など外交に使われた建物です。「大圓宝鏡」の扁額の下の殿内の中央に「西太后」が使った宝座があり、周りに金屏風や衝立が置かれています。

  • 「西太后」とはもともと咸豊帝の第2夫人であった「東太后」(慈安皇太后)と対になる名称です。皇帝との間に男子を産んだ西太后に対し、東太后は皇帝の正室となったが世継ぎである男子を産むことがかないませんでした。

    「西太后」とはもともと咸豊帝の第2夫人であった「東太后」(慈安皇太后)と対になる名称です。皇帝との間に男子を産んだ西太后に対し、東太后は皇帝の正室となったが世継ぎである男子を産むことがかないませんでした。

  • それでも儒教の論理や明の洪武帝の祖法のしきたりにより「東太后」は次期皇帝の嫡母となることが決められており、「西太后」自身は生涯において皇后になることは出来ませんでした。

    それでも儒教の論理や明の洪武帝の祖法のしきたりにより「東太后」は次期皇帝の嫡母となることが決められており、「西太后」自身は生涯において皇后になることは出来ませんでした。

  • 「仁寿殿」の前庭には一対の鳳凰の像と龍の像が並んでいます。ここで面白いのが通常であれば上位にある龍が下位である外側に置かれています。これは設置された当時の「西太后」と「光緒帝」の力関係によるものです。

    「仁寿殿」の前庭には一対の鳳凰の像と龍の像が並んでいます。ここで面白いのが通常であれば上位にある龍が下位である外側に置かれています。これは設置された当時の「西太后」と「光緒帝」の力関係によるものです。

  • 「仁寿殿」は「清漪園」時期の間は「勤政殿」であり、1750年の乾隆15年に建設が始まりました。1860年の咸豊10年のアロー戦争で「清漪園」と隣の「円明園」は戦場となり、英仏連合軍によって焼失します。1886年の光緒12年に復元が始まりますが、論語の「仁者寿(仁者は長生きする)」の言葉に基づいて「仁寿殿」と名付けられました。

    「仁寿殿」は「清漪園」時期の間は「勤政殿」であり、1750年の乾隆15年に建設が始まりました。1860年の咸豊10年のアロー戦争で「清漪園」と隣の「円明園」は戦場となり、英仏連合軍によって焼失します。1886年の光緒12年に復元が始まりますが、論語の「仁者寿(仁者は長生きする)」の言葉に基づいて「仁寿殿」と名付けられました。

  • それぞれの青銅の像には光緒年製の文字が見え、青銅製の五爪の龍と鳳凰は共に香炉になっており、腹の中で香を焚くと口から烟を吐く構造になっています。

    それぞれの青銅の像には光緒年製の文字が見え、青銅製の五爪の龍と鳳凰は共に香炉になっており、腹の中で香を焚くと口から烟を吐く構造になっています。

  • 庭には牡丹の花が満開でした。元は薬用として利用されていた植物ですが、盛唐期以降になると、牡丹の花が「花の王」として他のどの花よりも愛好されるようになりました。「松窓雑録」によれば玄宗の頃に初めて牡丹が愛でられるようになったものの、当時は「木芍薬」と呼ばれていました。

    庭には牡丹の花が満開でした。元は薬用として利用されていた植物ですが、盛唐期以降になると、牡丹の花が「花の王」として他のどの花よりも愛好されるようになりました。「松窓雑録」によれば玄宗の頃に初めて牡丹が愛でられるようになったものの、当時は「木芍薬」と呼ばれていました。

  •  清代以降の1929年までは中国の国花であったとされることもありましたが、清国政府が公的に制定した記録は残っていないようです。

    清代以降の1929年までは中国の国花であったとされることもありましたが、清国政府が公的に制定した記録は残っていないようです。

  • 仁寿殿の裏側に建つ「玉瀾門」を通り抜けます。奥には清朝末期の歴史の舞台である「玉瀾堂」の建物が並びます。

    仁寿殿の裏側に建つ「玉瀾門」を通り抜けます。奥には清朝末期の歴史の舞台である「玉瀾堂」の建物が並びます。

  • 「玉瀾門」の扁額の上には光緒御筆とあるので「光緒帝」藻の字だと分かります。「西太后」と比べると柔らかい優しい文字のように思えます。

    「玉瀾門」の扁額の上には光緒御筆とあるので「光緒帝」藻の字だと分かります。「西太后」と比べると柔らかい優しい文字のように思えます。

  • 「玉瀾堂」は「光緒帝」の園内の寝宮です。1898年の光緒24年の戊戌の変法が失敗した後、「西太后」は人に命じて閉鎖させ、「玉瀾堂」は「光緒帝」を幽閉した場所となりました。

    「玉瀾堂」は「光緒帝」の園内の寝宮です。1898年の光緒24年の戊戌の変法が失敗した後、「西太后」は人に命じて閉鎖させ、「玉瀾堂」は「光緒帝」を幽閉した場所となりました。

  • この「玉瀾堂正殿」紫檀などで装飾された玉座や御案、山水画が描かれたガラスの仕切り、翠羽の掌扇など皇帝の権威の象徴が置かれています。「光緒帝」が公文書を審査し、政務を処理した場所でした。

    この「玉瀾堂正殿」紫檀などで装飾された玉座や御案、山水画が描かれたガラスの仕切り、翠羽の掌扇など皇帝の権威の象徴が置かれています。「光緒帝」が公文書を審査し、政務を処理した場所でした。

  • 「光緒帝」はここで軍権を握る袁世凱を呼び、「変法維新」への支援を求めました。戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)とは1898年の光緒24年に実行された、一連の政治改革の総称です。明治維新と同様の立憲君主制による近代化革命を目指す変法自強運動の集大成にあたり、運動を担っていた康有為や梁啓超ら変法派と、彼らを受け容れた「光緒帝」によって改革が実行されました。しかし改革を嫌う「西太后」が同年9月21日にクーデター(戊戌の政変)を起こしたため、改革は強制的に中止されました。103日間という実行された日数の短さから「百日維新」とも呼ばれます。

    「光緒帝」はここで軍権を握る袁世凱を呼び、「変法維新」への支援を求めました。戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)とは1898年の光緒24年に実行された、一連の政治改革の総称です。明治維新と同様の立憲君主制による近代化革命を目指す変法自強運動の集大成にあたり、運動を担っていた康有為や梁啓超ら変法派と、彼らを受け容れた「光緒帝」によって改革が実行されました。しかし改革を嫌う「西太后」が同年9月21日にクーデター(戊戌の政変)を起こしたため、改革は強制的に中止されました。103日間という実行された日数の短さから「百日維新」とも呼ばれます。

  • 「光緒帝」が幽閉された後に「玉蘭殿」の裏手の「霞芬室」と「欧香亭」の東西両側に煉瓦壁が築かれ通行が遮断されました。煉瓦壁の大部分は後に取り壊されましたが、霞芬室」と「欧香亭」の煉瓦壁は今もなお保存されており、中国史における有名な1898年の改革運動の証拠となっています。

    「光緒帝」が幽閉された後に「玉蘭殿」の裏手の「霞芬室」と「欧香亭」の東西両側に煉瓦壁が築かれ通行が遮断されました。煉瓦壁の大部分は後に取り壊されましたが、霞芬室」と「欧香亭」の煉瓦壁は今もなお保存されており、中国史における有名な1898年の改革運動の証拠となっています。

  • 入口のガラス扉のすぐ奥にはこのような煉瓦の壁で塞がれています。出入りは遮断されても中では生活が続けられるわけで「光緒帝」はどんな気持ちで日々を過ごしていたのでしょうか。

    入口のガラス扉のすぐ奥にはこのような煉瓦の壁で塞がれています。出入りは遮断されても中では生活が続けられるわけで「光緒帝」はどんな気持ちで日々を過ごしていたのでしょうか。

  • 1900年の光緒26年に義和団の乱が発生すると、「光緒帝」は八カ国連合軍の侵攻を前にアメリカ大統領に国書を送って平和工作の斡旋を頼みますが、「西太后」はそれを阻止して八カ国への宣戦布告します。八カ国連合軍が北京に迫ると、「西太后」に連行され西安まで落ち延びますが、寵妃だった「珍妃」は「西太后」の命により紫禁城の中の井戸に投げ込まれて殺害されてしまいます。

    1900年の光緒26年に義和団の乱が発生すると、「光緒帝」は八カ国連合軍の侵攻を前にアメリカ大統領に国書を送って平和工作の斡旋を頼みますが、「西太后」はそれを阻止して八カ国への宣戦布告します。八カ国連合軍が北京に迫ると、「西太后」に連行され西安まで落ち延びますが、寵妃だった「珍妃」は「西太后」の命により紫禁城の中の井戸に投げ込まれて殺害されてしまいます。

  • 今回の「故宮博物院」の見学では「珍妃の井戸」を見ることはありませんでした。以前に気になった井戸の大きさについてガイドさんに尋ねてみました。井戸があまりに小さくて投げ込めないと思ったのですが、現在の井戸の口は後年になって造り直したということでした。

    今回の「故宮博物院」の見学では「珍妃の井戸」を見ることはありませんでした。以前に気になった井戸の大きさについてガイドさんに尋ねてみました。井戸があまりに小さくて投げ込めないと思ったのですが、現在の井戸の口は後年になって造り直したということでした。

  • 1908年の光緒34年10月21日に「光緒帝」は崩御し、翌日の22日に「西太后」も崩御します。「西太后」の遺命で甥の溥儀が「宣統帝」として即位し、実父で「光緒帝」の弟である醇親王載灃が摂政に就きましたが、長年の「西太后」による専権により清は3年後の宣統3年から4年にかけて起こった辛亥革命で滅亡していきます。

    1908年の光緒34年10月21日に「光緒帝」は崩御し、翌日の22日に「西太后」も崩御します。「西太后」の遺命で甥の溥儀が「宣統帝」として即位し、実父で「光緒帝」の弟である醇親王載灃が摂政に就きましたが、長年の「西太后」による専権により清は3年後の宣統3年から4年にかけて起こった辛亥革命で滅亡していきます。

  • 「假山石」<br />「玉蘭殿」を過ぎると裏庭に出ます。中庭の中央には太湖石で築かれた2つの築山が設けられています。中庭の西側の湖に面して「西嘉塔」がそびえ立っています。

    「假山石」
    「玉蘭殿」を過ぎると裏庭に出ます。中庭の中央には太湖石で築かれた2つの築山が設けられています。中庭の西側の湖に面して「西嘉塔」がそびえ立っています。

  • 「夕佳楼」<br />その名前は陶淵明の詩「飲酒:飲酒其五」にある「山氣日夕佳(夕陽に山の空気は美しい)」という一節に由来し、美しい夕陽を眺める楼閣という意味です。建物群全体の配置や形状は乾隆時代の風格を保っています。

    「夕佳楼」
    その名前は陶淵明の詩「飲酒:飲酒其五」にある「山氣日夕佳(夕陽に山の空気は美しい)」という一節に由来し、美しい夕陽を眺める楼閣という意味です。建物群全体の配置や形状は乾隆時代の風格を保っています。

  • 「宣芸門」を潜り「宣芸館正殿」に向かいます。

    「宣芸門」を潜り「宣芸館正殿」に向かいます。

  • 「宣芸門」の扁額も光緒御筆と書かれています。

    「宣芸門」の扁額も光緒御筆と書かれています。

  • 「宣芸館正殿」は「光緒帝」の皇后の「孝定景皇后」の庭園内の寝宮でした。「孝定景皇后」の姓はイェヘナラ氏(葉赫那拉)で、「西太后」の姪であり1889年の光緒15年に皇后に冊立されました。1908年の光緒24年に「光緒帝」と「西太后」が病没すると「宣統帝」として愛新覚羅 溥儀が即位すると「隆裕皇太后」及び「兼祧母后」と称し、溥儀の嫡母となりました。

    「宣芸館正殿」は「光緒帝」の皇后の「孝定景皇后」の庭園内の寝宮でした。「孝定景皇后」の姓はイェヘナラ氏(葉赫那拉)で、「西太后」の姪であり1889年の光緒15年に皇后に冊立されました。1908年の光緒24年に「光緒帝」と「西太后」が病没すると「宣統帝」として愛新覚羅 溥儀が即位すると「隆裕皇太后」及び「兼祧母后」と称し、溥儀の嫡母となりました。

  • 3年後に「辛亥革命」が成功し、「隆裕皇太后」は退位の勅令を発布し、清朝の200年以上にわたる統治と中国の封建王朝に終止符を打ちました。2年後に「隆裕皇太后」は46歳で崩御しました。

    3年後に「辛亥革命」が成功し、「隆裕皇太后」は退位の勅令を発布し、清朝の200年以上にわたる統治と中国の封建王朝に終止符を打ちました。2年後に「隆裕皇太后」は46歳で崩御しました。

  • 「孝定景皇后」は選秀女に参加して入選し、1888年の光緒14年に「光緒帝」と成婚し翌年には皇后に立てられました。

    「孝定景皇后」は選秀女に参加して入選し、1888年の光緒14年に「光緒帝」と成婚し翌年には皇后に立てられました。

  • 「光緒帝」は「西太后」への反発からその姪の皇后を疎んじ、また「珍妃」を寵愛していたために夫婦としての感情は甚だよくなかったようです。

    「光緒帝」は「西太后」への反発からその姪の皇后を疎んじ、また「珍妃」を寵愛していたために夫婦としての感情は甚だよくなかったようです。

  • 「西太后」は姪である彼女を皇后にすることで「光緒帝」の行動を監視しようとしましたが思惑通りにはいきませんでした。

    「西太后」は姪である彼女を皇后にすることで「光緒帝」の行動を監視しようとしましたが思惑通りにはいきませんでした。

  • 閉ざされた門の脇のガラス窓から屋敷の中を覗くと1900年から10年ほどの間の時間が止まったままのような気がしてきます。

    閉ざされた門の脇のガラス窓から屋敷の中を覗くと1900年から10年ほどの間の時間が止まったままのような気がしてきます。

  • 「楽寿堂」の裏手にある「永寿斎」はガイドさんによると「西太后」の腹心として活躍した宦官の「李蓮英(りれんえい)」が暮らしたところだそうです。1869年の同治8年に「西太后」の側近の宦官「安徳海」が山東巡撫の「丁宝鎮」によって斬首されると「安徳海」に代わり大総管に昇進しました。

    「楽寿堂」の裏手にある「永寿斎」はガイドさんによると「西太后」の腹心として活躍した宦官の「李蓮英(りれんえい)」が暮らしたところだそうです。1869年の同治8年に「西太后」の側近の宦官「安徳海」が山東巡撫の「丁宝鎮」によって斬首されると「安徳海」に代わり大総管に昇進しました。

  • 「李連英」は「西太后」の寵愛を受けても傍若無人な態度を取らない慎重な性格で知られていて、「西太后」の機嫌を損ねた者がいても宥めて彼らを守ろうとしました。「光緒帝」が軟禁された際も「光緒帝」を保護しようと働き掛けたため、宮中の人々は彼を高く評価していました。 「西太后」の死後は紫禁城を出て3年後に自宅で死去しました。最後の宦官とも呼ばれた人物です。

    「李連英」は「西太后」の寵愛を受けても傍若無人な態度を取らない慎重な性格で知られていて、「西太后」の機嫌を損ねた者がいても宥めて彼らを守ろうとしました。「光緒帝」が軟禁された際も「光緒帝」を保護しようと働き掛けたため、宮中の人々は彼を高く評価していました。 「西太后」の死後は紫禁城を出て3年後に自宅で死去しました。最後の宦官とも呼ばれた人物です。

  • 「宜芸館」の西に行くと「昆明湖」に面した「楽寿堂」に出ます。ここは「西太后」が暮らした建物で、他の建物よりも立派な造りになっています。建物の前には鶴などの置物が置かれており、故宮の内廷にある西太后が暮らした建物と似た造りになっています。西太后は頤和園にも紫禁城での生活スタイルを持ってきたということなのでしょう。

    「宜芸館」の西に行くと「昆明湖」に面した「楽寿堂」に出ます。ここは「西太后」が暮らした建物で、他の建物よりも立派な造りになっています。建物の前には鶴などの置物が置かれており、故宮の内廷にある西太后が暮らした建物と似た造りになっています。西太后は頤和園にも紫禁城での生活スタイルを持ってきたということなのでしょう。

    楽寿堂 (頤和園) 史跡・遺跡

  • 「青芝岫」は明朝の官僚である「米万鍾」が北京の房山でこの青くて潤いがあり、霊芝のような巨石を発見したと言われます。この石を自身の「氏勺園」に運ぶ途中に資金不足となり破産します。

    「青芝岫」は明朝の官僚である「米万鍾」が北京の房山でこの青くて潤いがあり、霊芝のような巨石を発見したと言われます。この石を自身の「氏勺園」に運ぶ途中に資金不足となり破産します。

  • 野原に放置されていたものを「乾隆帝」が莫大な費用をかけてここへ移して「青芝岫」と名付けます。石の下には別の石で基壇を設けています。その基壇には波の模様が彫られています。家を潰したことから「敗家石」と言う俗称もあるようです。

    野原に放置されていたものを「乾隆帝」が莫大な費用をかけてここへ移して「青芝岫」と名付けます。石の下には別の石で基壇を設けています。その基壇には波の模様が彫られています。家を潰したことから「敗家石」と言う俗称もあるようです。

  • 「邀月門」からは「長廊」を歩いてきたたくさんの人が出てきます。「邀」の字は「迎える」の意味なので、「昆明湖」に浮かぶ月を迎えるのでしょうか。

    「邀月門」からは「長廊」を歩いてきたたくさんの人が出てきます。「邀」の字は「迎える」の意味なので、「昆明湖」に浮かぶ月を迎えるのでしょうか。

  • 扁額の周りには5匹の龍が彫刻され、ここにも光緒御筆の文字が読めます。

    扁額の周りには5匹の龍が彫刻され、ここにも光緒御筆の文字が読めます。

  • 門の内側には「頤和園」の全景を描いた絵が掲げられています。

    門の内側には「頤和園」の全景を描いた絵が掲げられています。

  • 「長廊」には合わせて273間あり、内部の梁には生き生きとした筆致の「蘇州式彩色画」が八千幅も描かれています。「長廊」は1750年に創建されましたが1860年に焼失し、19世紀末になって再建されました。

    「長廊」には合わせて273間あり、内部の梁には生き生きとした筆致の「蘇州式彩色画」が八千幅も描かれています。「長廊」は1750年に創建されましたが1860年に焼失し、19世紀末になって再建されました。

  • 彩色画の内容は風景や花鳥のほか「三国志演義」「西遊記」「説岳全伝」「封神演義」などの物語があります。「長廊」は中国の古典庭園建築において、きわめて高い芸術的価値があります。

    彩色画の内容は風景や花鳥のほか「三国志演義」「西遊記」「説岳全伝」「封神演義」などの物語があります。「長廊」は中国の古典庭園建築において、きわめて高い芸術的価値があります。

  • そのいくつかをガイドさんが説明してくれました。それが無ければどの物語の何の場面かは分からないと思います。これは「三国志演義」の中の「三顧之礼」の場面です。中国の故事成語「三顧草廬(草庵を三回訪ねる)」を日本風に直したもので、目上の人が格下の者の許に出向き、礼を尽くしてお願いをすることです。劉備がまだ無名だった諸葛亮を軍師として迎えるために、彼の家を三度も訪ねたという故事に由来します。

    そのいくつかをガイドさんが説明してくれました。それが無ければどの物語の何の場面かは分からないと思います。これは「三国志演義」の中の「三顧之礼」の場面です。中国の故事成語「三顧草廬(草庵を三回訪ねる)」を日本風に直したもので、目上の人が格下の者の許に出向き、礼を尽くしてお願いをすることです。劉備がまだ無名だった諸葛亮を軍師として迎えるために、彼の家を三度も訪ねたという故事に由来します。

  • こちらは「西遊記」で、何の場面かは分かりませんが、岩の裏に沙悟浄、その手前に猪八戒、右手には虎の腰巻をした斉天大聖孫悟空の姿があります。

    こちらは「西遊記」で、何の場面かは分かりませんが、岩の裏に沙悟浄、その手前に猪八戒、右手には虎の腰巻をした斉天大聖孫悟空の姿があります。

  • 再び「三国志演義」の「桃園の誓い」で劉備と関羽と張飛の3人が宴会にて義兄弟(長兄・劉備、次兄・関羽、弟・張飛)となる誓いを結び、生死を共にする宣言を行ったという逸話の場面です。

    再び「三国志演義」の「桃園の誓い」で劉備と関羽と張飛の3人が宴会にて義兄弟(長兄・劉備、次兄・関羽、弟・張飛)となる誓いを結び、生死を共にする宣言を行ったという逸話の場面です。

  • ひと月前の三峡下りの旅でどっぷりと三国志に浸かってきたので物語がリアルに思い出されてきます。ことにしなってビザが免除になった中国の旅を再開しましたが、やっぱり歴史のあるところは良いなと思います。

    ひと月前の三峡下りの旅でどっぷりと三国志に浸かってきたので物語がリアルに思い出されてきます。ことにしなってビザが免除になった中国の旅を再開しましたが、やっぱり歴史のあるところは良いなと思います。

  • スイスを旅した際にルツェルンの「カペル橋」へ行ったことが何度かあります。1991年にチューリッヒに向かう途中の乗り換えで、駅に荷物を置いたまま走って見に行きました。その後火事で全焼してしまい、1996年に修復された橋を訪ね、2023年に行った際にはこの「長廊」のように掲げられた板絵のほとんどを写真に撮ってきました。

    スイスを旅した際にルツェルンの「カペル橋」へ行ったことが何度かあります。1991年にチューリッヒに向かう途中の乗り換えで、駅に荷物を置いたまま走って見に行きました。その後火事で全焼してしまい、1996年に修復された橋を訪ね、2023年に行った際にはこの「長廊」のように掲げられた板絵のほとんどを写真に撮ってきました。

    頤和園の長廊 史跡・遺跡

  • 個人旅行だったら「長廊」の絵画もじっくり見たいところですが、ほんの少し歩いただけで奥にある「清晏舫」にも行かず、「万寿山」の上の「仏香閣」、後ろにある「智慧海」にも行かないことがここで分かりました。<br />「文思光被」の扁額は慈禧太后御筆とあるので「西太后」の書いた文字です。

    個人旅行だったら「長廊」の絵画もじっくり見たいところですが、ほんの少し歩いただけで奥にある「清晏舫」にも行かず、「万寿山」の上の「仏香閣」、後ろにある「智慧海」にも行かないことがここで分かりました。
    「文思光被」の扁額は慈禧太后御筆とあるので「西太后」の書いた文字です。

  • 「草木賁華」は草木を美しく飾り立てるという意味でしょうか。こちらも慈禧太后御筆とあります。額が縁起の良い蝙蝠の形をしています。また八角形の亭の屋根の小屋組みとその装飾が美しいです。

    「草木賁華」は草木を美しく飾り立てるという意味でしょうか。こちらも慈禧太后御筆とあります。額が縁起の良い蝙蝠の形をしています。また八角形の亭の屋根の小屋組みとその装飾が美しいです。

  • こちらには「陶淵明」の「桃花源記」の場面です。桃源郷の語源ともなった物語で、諸星大二郎の「桃源記」という短編があるのですが、何十年経っても心に残る作品です。

    こちらには「陶淵明」の「桃花源記」の場面です。桃源郷の語源ともなった物語で、諸星大二郎の「桃源記」という短編があるのですが、何十年経っても心に残る作品です。

  • 後ろ髪をひかれながら「留佳亭」から湖畔に沿って戻ります。

    後ろ髪をひかれながら「留佳亭」から湖畔に沿って戻ります。

  • 「玉瀾堂」「夕佳楼」「万香榭」少し離れて「文昌閣」までが見渡せます。

    「玉瀾堂」「夕佳楼」「万香榭」少し離れて「文昌閣」までが見渡せます。

  • 「昆明湖」の中に浮かぶ「南湖島」の「涵虚堂」までよく見えます。「昆明湖」は冬になると一面凍ってスケートが出来ますとガイドさんから説明がありました。実は弟の奥さんが北京へ留学していた際に、ここでスケートをしていて氷が割れて落ちたことがありました。タクシーで北京大学の寮に戻って着替えた話をガイドさんにすると驚いていました。

    「昆明湖」の中に浮かぶ「南湖島」の「涵虚堂」までよく見えます。「昆明湖」は冬になると一面凍ってスケートが出来ますとガイドさんから説明がありました。実は弟の奥さんが北京へ留学していた際に、ここでスケートをしていて氷が割れて落ちたことがありました。タクシーで北京大学の寮に戻って着替えた話をガイドさんにすると驚いていました。

    昆明湖 滝・河川・湖

  • 「十七孔橋」は1750年の乾隆15年に架けられ、全長150メートル以上あり、中国の皇家庭園に現存する最も長い橋です。冬至の頃になると夕陽の残光が十七孔橋の壁を照らし「金光穿洞」という美しい景色を作り出すことで有名です。。

    「十七孔橋」は1750年の乾隆15年に架けられ、全長150メートル以上あり、中国の皇家庭園に現存する最も長い橋です。冬至の頃になると夕陽の残光が十七孔橋の壁を照らし「金光穿洞」という美しい景色を作り出すことで有名です。。

  • 「文昌閣」は「頤和園」の6つの城門建築の最大のもので、文昌閣という名前は文昌帝という道教に出てくる学問の神に由来します。

    「文昌閣」は「頤和園」の6つの城門建築の最大のもので、文昌閣という名前は文昌帝という道教に出てくる学問の神に由来します。

  • 昆明湖の右奥に「清晏舫」が見えました。別名「石舫」とも言う全長36メートルのすべて白色の石で築き上げられた船の形をした建物です。もともと上部の建物は中国式の楼閣でしたが、英仏連合軍の焼き討ちの後1893年に「西太后」が現在のような洋式の楼閣船に建て直しました。

    昆明湖の右奥に「清晏舫」が見えました。別名「石舫」とも言う全長36メートルのすべて白色の石で築き上げられた船の形をした建物です。もともと上部の建物は中国式の楼閣でしたが、英仏連合軍の焼き討ちの後1893年に「西太后」が現在のような洋式の楼閣船に建て直しました。

    昆明湖 滝・河川・湖

  • 「頤和園」が現在の規模になったのは清朝6代皇帝「乾隆帝」の時代で、当時は「清漪園」と呼ばれていました。1750年の乾隆15年に母の「崇慶皇太后(孝聖憲皇后)」の還暦を祝い、当時あった西湖の西の高水湖及び養水湖を掘削し、3つの湖を合わせて「昆明湖」と命名しました。これは漢の時代に「漢武帝」が昆明池を掘削して水軍の訓練を行った故事に因みます。

    「頤和園」が現在の規模になったのは清朝6代皇帝「乾隆帝」の時代で、当時は「清漪園」と呼ばれていました。1750年の乾隆15年に母の「崇慶皇太后(孝聖憲皇后)」の還暦を祝い、当時あった西湖の西の高水湖及び養水湖を掘削し、3つの湖を合わせて「昆明湖」と命名しました。これは漢の時代に「漢武帝」が昆明池を掘削して水軍の訓練を行った故事に因みます。

  • 今回行くことのなかった「万寿山」を振り返ります。この近くには宮廷料理が食べられる「聴鸝館飯庄」というレストランがありましたが、現在は営業していないようです。21年前は有名な宮廷料理の店を毎晩のように通っていましたが、今から思えば行っておいて良かったと思います。<br />聴鸝館飯庄:https://4travel.jp/travelogue/10359173

    今回行くことのなかった「万寿山」を振り返ります。この近くには宮廷料理が食べられる「聴鸝館飯庄」というレストランがありましたが、現在は営業していないようです。21年前は有名な宮廷料理の店を毎晩のように通っていましたが、今から思えば行っておいて良かったと思います。
    聴鸝館飯庄:https://4travel.jp/travelogue/10359173

    聴鸝館 (頤和園内) 中華

  • 「仏香閣」は高さ20メートルの石製台座の上に建つ高さ41メートルの八角形3階建て、四重の庇をもつ塔です。堂々とした構えで「頤和園」の代表的な建築であり、シンボルでもあります。ここから「頤和園」全体の絶景が俯瞰できるのですが…。

    「仏香閣」は高さ20メートルの石製台座の上に建つ高さ41メートルの八角形3階建て、四重の庇をもつ塔です。堂々とした構えで「頤和園」の代表的な建築であり、シンボルでもあります。ここから「頤和園」全体の絶景が俯瞰できるのですが…。

  • 「万寿山」の上の仏香閣の後ろにある「智慧海」というチベット仏教の建築物です。ここからでは分かりませんが、外壁には1100体の仏像が埋め込まれています。

    「万寿山」の上の仏香閣の後ろにある「智慧海」というチベット仏教の建築物です。ここからでは分かりませんが、外壁には1100体の仏像が埋め込まれています。

  • この「万寿山」を越えるとそこには「蘇州街」という江南の蘇州の町並みを再現したエリアがあります。「乾隆帝」は江南地方に6回も行幸し、その繁栄ぶりを大いに称えたと言われています。再現された街並みは東西約300メートルで、60以上の商店が軒を連ね、雑貨屋、質屋、薬屋、骨董品屋、茶楼等が蘇州の華やかさを演出しています。この商店街で乾隆帝は店員に扮した女官や宦官たちを相手に買い物を楽しんだと言われています。もちろん今回はそこへ行くこともありません。

    この「万寿山」を越えるとそこには「蘇州街」という江南の蘇州の町並みを再現したエリアがあります。「乾隆帝」は江南地方に6回も行幸し、その繁栄ぶりを大いに称えたと言われています。再現された街並みは東西約300メートルで、60以上の商店が軒を連ね、雑貨屋、質屋、薬屋、骨董品屋、茶楼等が蘇州の華やかさを演出しています。この商店街で乾隆帝は店員に扮した女官や宦官たちを相手に買い物を楽しんだと言われています。もちろん今回はそこへ行くこともありません。

  • 同じmkんから表に出て「頤和園」を後にします。バスの停まっている場所まで歩いているとシェアサイクルに乗った女の子たちが追い抜いていきます。

    同じmkんから表に出て「頤和園」を後にします。バスの停まっている場所まで歩いているとシェアサイクルに乗った女の子たちが追い抜いていきます。

  • 清朝時代の女性の髪型「両把頭(りょうはとう)」にシャネル風の大きなサングラスのミスマッチがいいですね。そしてこの格好で自転車に乗る姿も絵になります。

    清朝時代の女性の髪型「両把頭(りょうはとう)」にシャネル風の大きなサングラスのミスマッチがいいですね。そしてこの格好で自転車に乗る姿も絵になります。

  • バスに乗ってすぐに「秀漪橋」という大きなアーチ橋が見えました。その手前の橋のたもとにボート乗り場があります。21年前はここからボートに乗って「北京動物園」まで行きました。中国には「京杭大運河」という北京と杭州を結ぶ運河があります。その最後の蘇州から杭州を夜行船で1晩かけて旅したことがあり、その最初の北京の運河をどうしても船に乗らなければなりませんでした。

    バスに乗ってすぐに「秀漪橋」という大きなアーチ橋が見えました。その手前の橋のたもとにボート乗り場があります。21年前はここからボートに乗って「北京動物園」まで行きました。中国には「京杭大運河」という北京と杭州を結ぶ運河があります。その最後の蘇州から杭州を夜行船で1晩かけて旅したことがあり、その最初の北京の運河をどうしても船に乗らなければなりませんでした。

  • 「中央広播電視塔」の塔もきれいに見えました。これは中国における20世紀の「北京十大建築」の1つでもあります。人民大会堂や釣魚台国賓館や北京火車站などがこれにあたります。

    「中央広播電視塔」の塔もきれいに見えました。これは中国における20世紀の「北京十大建築」の1つでもあります。人民大会堂や釣魚台国賓館や北京火車站などがこれにあたります。

  • バスはこの後ツアー最後の晩ご飯である「全聚徳」で北京ダックの夕食をいただきます。

    バスはこの後ツアー最後の晩ご飯である「全聚徳」で北京ダックの夕食をいただきます。

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