2025/05/23 - 2025/05/23
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gianiさん
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広島から山口県へ左遷された毛利家。
当初は三田尻/山口といった便利な場所に城を築く予定でしたが、工事に問題が起きて僻地の萩で落ち着きます。
僻地ゆえに、明治以降も街並みが保存されて観光資源となります。
今回は、上士(上級/中級家臣)が武家屋敷を構えた堀内と、萩城を学んで歩きます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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まずは、萩博物館でお勉強。
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長州藩の城下町となる以前の萩
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萩の位置する長門国は、周防国を本拠地とする大内氏によって支配されていました。1557年に大内氏が滅びると、毛利元就が支配します。大内氏の家臣である吉見正頼(1513-88)は、元就の防長経略に味方して萩一帯を領地として与えられ、隠居すると指月山麓に居館を構えます。
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正頼が1580年に受け取った琵琶には、萩之浦という地名が記載されています。
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1550年に大内義隆が善福寺に寺領1町を与えた文書の中に、萩浦という文字が登場します。萩の名称が登場する現存最古の史料です。
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善福寺は、指月山に立地しましたが、築城に際して城下町の南東端に移転しています。
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毛利輝元(1553-1625)
元就の孫で、豊臣政権下では中国地方8か国を所領として統治すると同時に、五大老の一人として忠実に政権を支えます。 -
関ケ原合戦では西軍の総大将として臨み、徳川政権では112万石から防長2国34万石に大幅改易されます。本拠地の安芸国や広島城を明け渡し、新しい藩庁を選ぶ必要がありました。
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毛利家の起源
平城天皇の皇子阿保親王の子である大江音人を遠い祖先とする。となっています。
第10代大江広元の四男季光は、鎌倉幕府政所の初代別当として相模国毛利庄(神奈川県厚木市)を領有したことにより毛利氏と名乗ります。 -
萩が藩庁になる
輝元は藩庁を高嶺(山口)/桑山(三田尻)/指月山(萩)の3つに絞り、1604年1月に福原広俊を名代として江戸へ遣わし、老中の本多正信と協議の上で萩に決定します。 -
経緯
最初は瀬戸内海に面した三田尻(防府市)桑山で縄張りを始めますが、山上の水が不足することが分かり中止されます。
次に山口にすべきだと亀山に堀まで造ったところで、大内家の城下で西洋にまで地名が知られているのに危険を感じ、萩を選びました。 -
1604年に築城工事が始まり、1608年に完成します。北/西を海、南を橋本川、東を堀に囲まれたエリアで、指月山と平地で構成される平山城です。
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指月山の麓に内堀で囲まれた本丸、本丸を囲むように二の丸が南方向へ広がり、三の丸と続きます。
指月山の頂上には6つの櫓に囲まれた要害(黄緑)があり、左側が二の丸/右側が本丸です。二の丸には12の櫓が建ち(水色)の北東と西方向には、寺社(桃)が建ちます。二の丸と中堀で仕切られた三の丸は、一族/重臣の屋敷が建ちます。 -
本丸には、5層の天守閣が建ちました。
※明治7年に取り壊されました。 -
歴代藩主
毛利輝元は関ケ原の責任を取って1600年に隠居し、家督は長男の秀就(写真右:1595-1651)が受け継ぎます。初代藩主は秀就ですが、4歳だったので実際は輝元が藩政を執り行います。2代藩主は綱広(写真左上:1639-89)です。 -
綱広は1660年に長州藩の憲法ともいえる「万治制法(当家制法条々)」を制定し、藩政を確立します。
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藩士は、毛利家系図と万治制法を必ず備えるべきものとして従い、その写しを大切に保管しました。写真は家臣の奥平家が納めた箱。
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毛利一門
上より毛利元就(1497-1571)/毛利隆元(長男:1523-63)/吉川元春(次男)/小早川隆景(三男)/宍戸隆家(娘婿)
長男隆元は元就より先に死んだので、孫の輝元が家督を継ぎます。
次男三男を養子に送り出し吉川/小早川家を乗っ取ります。小早川隆景は秀吉に気に入られ、秀吉の直臣となり五大老にも任じられます。吉川家は毛利の家臣として、長州藩の岩国領を相続します。 -
支藩
長府藩:元就の四男元清の次男秀元が藩祖。輝元に養子入りするも、輝元に実子が生まれたために廃嫡/分知。
清末藩:1653年に長府藩祖毛利秀元が次男元知へ分知。
徳山藩:1617年に輝元が次男就陸に分知。
萩藩五代/七代藩主は長府藩から養子入りしており、本家の家名存続に貢献しています。支藩は、参勤交代の義務も課されました。 -
一門
長州藩は、一門と呼ばれる6つの分家が永代家老として藩主を支えました。家格順に、宍戸家(元就嫡女の婿を祖とする)/右田毛利家(元就七男元政を祖とする)/厚狭毛利家(元就五男の元秋を祖とする)/吉敷毛利家(元就九男の小早川秀包を祖とする)/阿川毛利家(吉川元春次男の毛利元氏を祖とする)/大野毛利家(吉川元春孫の毛利就頼を祖とする)です。秀包は小早川隆景に養子入りしましたが、実子が生まれたために廃嫡されたことへの配慮です。就頼はかつて萩を治めた吉見家へ婿入後に、毛利姓に昇格しています。
一門の次には永代家老として益田家/福原(ふくばら)家が続きます。 -
永代家老2家の次ぐのは寄組で、実力があれば家老職に付けますが、永代ではありません。さらに大組…と続きます。
岩国領吉川家は6万石で参勤交代の義務もありましたが、萩本家に疎まれ、将軍に謁見できず大名格の官職がありませんでした。 -
城と城下町は、このような配置です。城下町は阿武川の分流である橋本川/松本川に挟まれた島になっています。
堀内とも呼ばれる三の丸は、外堀で城下町と分離されています。城下町とは3つの総門に架かる橋で結ばれます。
二の丸は中堀で、本丸は内堀で分離されています。 -
今も残る町割り/街並み
明治維新後、三の丸を構成する上級武士の屋敷は多くが空き家になり、明治9年以降夏ミカンの栽培が盛んになります。広大な屋敷地は果樹園となり、屋敷壁は夏ミカンを風から守るために最適でした。夏ミカンが高値で取引されたので畑は長く維持され、現在の町割/景観が維持され観光資源になりました。
では、実際に外へ出てみます。 -
御成道
藩主が外出する際に通行した道で、メインロードに相当します。写真は、城下町から三の丸を向いた構図です。外堀の先に銅像が見えます。 -
外堀
城下町と三の丸を隔てる外堀には、中の総門へ繋がる橋が架かりました。外堀の幅は当初37mありましたが、城下町の拡大に伴って埋立てられ、最終的に14mまで狭まっています。萩城外堀 名所・史跡
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中の総門跡
外堀を渡ると中の総門を潜り、道路はY字に分岐、御成道は左側の分岐になります。Y字路に面した三角地帯は、現在は素水園となっています。陸軍大将や首相を務めた田中義一の銅像が立っているので、地元では田中大将と呼ばれています。
城下町と三の丸を結ぶ道は3本あり、総門は夜間は閉められ、閉門時は鑑札を持つ者だけが通行できました。素水園 公園・植物園
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大野毛利家屋敷跡
素水園と御成道に面する広大な敷地には、右田毛利家屋敷が建ちました。一門の中では6番目の家格です。跡地は萩博物館となっており、広大な長屋門/屋敷塀/隅櫓が再建されています。萩博物館 美術館・博物館
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1949年に取り壊される前のオリジナルの大野毛利家隅櫓の写真。
御成道沿いは、本町と呼ばれました。 -
三の丸の御成道で最初の十字路には、国司親相宅跡の石碑が。幕末の禁門の変を主導した件で切腹した家老です。国司家は寄組(の家格)です↓
https://4travel.jp/travelogue/11922197国司信濃親相旧宅跡 名所・史跡
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国司親相宅跡は、萩西中学校になっています
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対角線には、問田益田家(寄組)旧宅が。地区で最も長い土塀(236m)です。土塀底部の石垣の違いは、果樹園を増やすために御成道を狭めた名残です。現在の道幅は、江戸時代の半分に狭まっています。
ちなみに向かいには、一門で5番目の家格の阿川毛利家屋敷跡です。問田益田氏旧宅土塀 名所・史跡
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十字路の南西角には、県立萩高校が位置します。右田毛利家(一門で2番目の家格)/三丘宍戸家(一門で筆頭家格)の跡地に相当します。
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萩高校のルーツは藩校の明倫館で、旧制萩中学を経て1947年に新制萩高校となりました。萩中学時代1887年築の教員室が、校内に移築されています。
萩学校教員室 名所・史跡
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御成道を振り返ると、右手前が萩高校、右奥が国司家、左奥が阿川毛利家跡、左手前が旧問田益田家です。
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問田益田家の隣は、一門で第4位の吉敷毛利家、そして永代家老の福原家です。福原家の屋敷門(写真)は18世紀築の腕木門で、長屋門ではないのが特徴です。
御成道は長府支藩屋敷跡に突き当り、右へ折れます。旧福原家萩屋敷門 名所・史跡
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御成道は、現在萩高校グラウンド等になっている長府支藩屋敷跡を左岸に進み、左折します。そして指月橋を渡ります。
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指月橋右岸は中堀で、三の丸と二の丸を隔てます。
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御成道の左側には、一門で第3の家格の厚狭毛利家屋敷跡が。全長51.5mの長屋が現存し、一般公開されています。
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋 名所・史跡
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立派な長屋です。
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厚狭毛利家屋敷の向かいは中堀ですが、現在は埋立てられています。厚狭毛利家屋敷門の向かいに、二の丸南門がありました。
萩市堀内地区伝統的建造物群保存地区 名所・史跡
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二の丸南門
大手門に相当し、石垣が遺っています。外門(枡形門)と内門(矢倉門)を配置する万全な警備態勢でした。毛利輝元像が目印です。 -
二の丸東門
南門の東方向には、東門がありました。 -
内堀を渡って、本丸跡へ進みます。極楽橋/幸橋と呼ばれる石橋です。
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内堀は完全な形で遺っており、最大幅は40mです。
左奥の一段高い石垣は10.8mあり、天守跡です。 -
堀を渡って本丸門が建っていました。外門(高麗門)と内門(枡形門)で構成されます。
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本丸
城の中心で、藩庁(今でいう県庁庁舎:黄色部分)と藩主邸宅(知事公邸:赤色部分)で構成される本丸御殿が建ち、殆どが建物で覆われていました。公私ともに藩の中心です。 -
天守へ登ります。
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天守台は、基礎石が規則的に並んでいます。
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本丸門方向の眺め。内堀の幅の広さを感じます。
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天守閣
五層で高さ14.5m、石垣の10.8mを足すと25m超です。基層は石垣から張り出し、張り出し部分から石を投下したり、飛び道具を発射したりできる防衛重視の構造です。1874年に解体されます。萩城跡指月公園 名所・史跡
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藩邸部分には池が配され、茶室が移設されています。
花江茶亭は、三の丸にあった川手御殿で1854年頃に建てられました。13代藩主毛利敬親は、この茶亭で家柄を問わずに藩士と交わり、時勢を論じました。明治維新の胎動の場です。花江茶亭 名所・史跡
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瓢箪池跡の先には、梨羽家(寄組)茶室が移設されています。
別名は煤払いの茶室で、年末の城内煤払いの際に藩主が一時避難した場所ゆえの命名です。梨羽家茶室 名所・史跡
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神社へ通じる太鼓橋は、藩校明倫館に架かっていたものです。
本丸を出て、二の丸へ戻ります。志都岐山神社 寺・神社・教会
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東園
本丸の東側から北東にかけての二の丸部分には、東園と呼ばれる庭園が整備されました。その先は、寺社が建ちました。明倫館遺構万歳橋 名所・史跡
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二の丸の東側は萩湾に面しており、石垣と土塀で守られていました。
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海に面した汐入門跡
城の保存状態は、良くないです。 -
銃眼土塀(二の丸土塀)
東門と汐入門の間の石垣には、銃眼が設けられた土塀が復元されています。横光利一の作品にも登場する構造物です。
では、海沿いに御成道の北側を辿ります。 -
城下町(菊ヶ浜)からの構図
萩城の北側にある指月山には見張りが常設され、日本海の海上交通を監視していました。有事の際は、山頂の要害に立て籠もる設計でした。山麓には、二の丸の石垣と汐入門が見えます。菊ケ浜 自然・景勝地
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北の総門
御成道沿いの中の総門の北側に位置しました。高さ7mの切妻屋根の高麗門で、脇戸門が付属しています。
門へ続く土橋の両脇は土塀で覆われ、万全の防衛態勢でした。手前の生垣は、当初は中堀だったものの城下町の拡張で堀が埋立てられて町屋が建っていた部分を表現しています。北の総門 名所・史跡
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総門の両側には土塁が巡らされ、三の丸と城下町を隔てていました。中堀に架かるのは土橋なので堀は分断され、橋の北側/南側それぞれに舟入(船着場)が設けられました。写真は、北側の舟入です。これらは21世紀になって復元されました。
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発掘と復元
当時の様子も図説されています。 -
北の総門の先は馬場でした。道の右側には、永代家老を務めた益田家屋敷があります。真っ先に物見櫓が建ち、馬場に睨みを利かせています。
旧益田家物見矢倉 名所・史跡
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益田家からは、禁門の変の責任を取って自害した益田親施などを輩出しています。
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向かいは、全長35.5mの旧繁澤家長屋門が建ちます。阿川毛利家の分家で、寄組の家系です。
旧繁沢家長屋門 名所・史跡
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道の反対側は海岸線だったので、浜町と呼ばれました。
萩らしい情緒ある道を進むと、 -
旧周布家長屋門
通り沿いに22mと路地側に11mの長方形の建築で、江戸時代の基礎(石垣)が残る遺構です。旧周布家長屋門 名所・史跡
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周布家は永代家老益田家の庶流で、大組の筆頭でした。幕末に禁門の変の責任を取って自害した家老の周布政之助を輩出しています。大組なので、実力で家老に伸し上がりました。
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長屋門を潜ると、夏ミカンの果樹園が広がっています。
続いて、一筋南へ移動します。御成道の一筋北になります。 -
旧毛利家別邸表門
明治時代に鎌倉材木座にあった別邸にあった門を移設しています。寄棟屋根で、門の両側に土間がある構造です。旧毛利家別邸表門 名所・史跡
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表門が移設された場所は、天樹院が建っていました。毛利輝元の墓所となっていた寺院です。
御成道の一筋裏なので、後町と呼ばれました。長府支藩でクランクした御成道へ通じる道です。天樹院墓所 名所・史跡
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毛利輝元の火葬場跡も遺っています。
元々は隠居した輝元の本邸が建っていて、死後に天樹院となり、明治2年に廃寺となりました。 -
64mの参道を進むと、輝元と夫人の墓碑があります。
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左手前には、殉死した長井元房の墓も侍いています。
彼の飼っていた猫は此処から離れず、四十九日の法要後に舌を噛んで死んだと言われています。忠義な猫を記念し、元房の屋敷があった界隈は猫町と呼ばれます。周布家屋敷の向かいです。
続いて、御成道の南側の筋へ移動します。 -
馬來杢旧宅
馬來家は尼子十旗を構成し、毛利元就が平定に最も苦労した出雲尼子氏の配下でした。藩政では大組でした。馬來杢は萩の乱に加担しました。馬来杢旧宅 名所・史跡
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旧児玉家長屋門
児玉家(寄組)は、大手三ツ門の一つ平安古の総門の南に面する重要なポジションでした。
全長33mで、下がナマコ壁で上が白壁と、藩政期のスタイルを良く残しています。 -
内部が公開されており、長屋の様子も味わえます。
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平安古の総門跡
石碑の建つ部分に門を構え、午前6時~午後6時まで通行できました。生垣の部分には番所が建ち、通行人を取り締まっていました。門の先には平安橋が架かり、城下町と隔てられていました。 -
平安橋
もともとは木橋でしたが、1770年頃に現在の石橋に付け替えられました。全長6mながら橋桁がないのが特徴です。平安橋 名所・史跡
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平安橋は外堀に架かり、右側が城下町になります。画面右奥には、清末支藩の藩邸がありました。
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情緒ある街並みを進んでいくと
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旧明倫館跡
長州藩の藩校は、5代藩主吉元の1718年に創設されました。藩校は18世紀後半から19世紀にかけて開設されるのがトレンドなので、かなり早い時期に藩士の子弟教育を重視していたことが分かります。940坪の敷地でした。1849年に移転します。旧明倫館跡 名所・史跡
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旧梨羽家(大組)は、江戸時代の書院が残っています。萩では道路沿いの長屋門が多く残る中で貴重なものです。ただし非公開。
城内には、梨羽家の茶室が移設されています。旧梨羽家書院 名所・史跡
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こちらも大組の家の長屋門。明治以降かなり切詰められたようです。
旧租式家長屋 名所・史跡
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三の丸の南側には、鍵曲と呼ばれるクランクした道路が残ります。防衛上の配慮です。
堀内の鍵曲 名所・史跡
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右の土壁は江戸時代のものです。
左は、下層の江戸時代のものと、上層の明治以降に積み増ししたものの境界線がはっきりと分かります。 -
旧二宮家(大組)の長屋門
二宮就辰は、萩城を築城した際の普請奉行を務めています。長屋の長さは15mです。旧二宮家長屋門 名所・史跡
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鍵曲を進むと、口羽家長屋門。萩で最大の長屋門で、全長22m。主屋と共に国の重文指定です。
口羽家住宅 名所・史跡
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現在も口羽家の所有で、表札が残っています。門は門番所付きで、長屋に住む家臣は有事に即防衛に当たります。堀内(三の丸)に長屋門が多いのは、奥の二の丸/本丸を守るうえで軍事上アドバンテージがあります。
内部も一般公開されています。 -
主屋が残っているのは、かなり貴重です。口羽家(寄組)は、毛利家の庶流です。
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界隈の外堀は橋本川に代わっており、川手御殿と呼ばれる藩主別邸がありました。
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現在、堀内西部は橋本川と萩湾を結ぶ運河によって分断されています。萩遊覧船の航路として活用されています。写真の右側は、手前より清水家屋敷跡と岩国領吉川家屋敷跡です。
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清水親和旧居地
秀吉の備中高松城水攻めの際に腹を切った清水宗治の家系の末家の出です。宗家(寄組)の養子となり実力で家老になるも、禁門の変の責任を取って僅か22歳で切腹します。清水家は代々、現在の光市を所領としました↓
https://4travel.jp/travelogue/11920906 -
キリシタン殉教者記念碑
1870年(明治3年)に、新政府は長崎浦上のキリシタン40余名を岩国藩吉川家萩屋敷へ流刑に処し、3年に亘って厳しい拷問を加えました。20名が虐待によって殉教し、新政府が禁教の勅令を廃止するまでの黒歴史が刻まれます。
※明治維新後に岩国は、新政府より藩として認められました。萩キリシタン殉教者記念公園 公園・植物園
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敷地には、藩政初期に殉教した熊谷元直の記念碑も。
8000石を与えられた一門に準ずる重臣でしたが、秀吉-家康の禁令に従わずに領地で信徒を庇護したために、輝元は萩城築城の際の紛争を利用して1605年に処刑します。一族は大坂夏の陣の戦功で再興され、3000石の寄組となります。 -
萩博物館の斜め向かいに熊谷家屋敷跡があり、博物館には熊谷家屋敷の間取りが展示されています。
豊臣政権下での毛利家は、黒田如水の影響で多くの家臣が洗礼を受けました。元直もその一人で熱心ではありませんでしたが、伏見城普請の際に宣教師と交わることで熱心に信仰するようになりました。ベネディクト16世によって列福されています。
※当の黒田如水は棄教し、福岡藩を盤石なものにしています。 -
二の丸の西側は、公園として整備されています。
石彫公園 公園・植物園
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堀内の藩政時の家割
御成道は青い点線で描かれます。
一門/永代家老の屋敷もプロットされます。
城内を探検した次は、城下町を探検します↓
https://4travel.jp/travelogue/11982881指月山 自然・景勝地
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