2024/08/22 - 2024/08/22
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gianiさん
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1943年に誕生した光市は、市役所のある旧光井村が清水宗治の家系の知行地として、明治維新を迎えました。
室積村は、中世から商港として、江戸時代は周防一の立浦でした。藩が商港として整備すると、帆船時代が終わるまで繁栄します。
2004年に編入された旧大和町は、伊藤博文が生まれ育った町です。
現在は瀬戸内工業地域の一角として、海軍工廠跡に日鉄/武田の工場が建つも、非常に地味で味わい深い町です。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅のはじまりは岩田駅
柳井と光の間に位置します。
旧大和町は、2004年に光市に編入されました。
隣の田布施は、岸信介/佐藤栄作兄弟の出身地で、山口2区は岸家の選挙基盤です。岩田駅 駅
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大和町の中心から外れているので、のどかな駅前。
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束荷川を遡って数キロの道のりを歩きます。長閑な田園風景です。
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ここは、伊藤博文の出身地です。
出生地は、記念公園として整備されています。
熊毛郡束荷村野尻で、1841年に出生しました。
一定年齢以上の世代には懐かしい千円札。伊藤公記念公園 公園・植物園
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産湯の井戸が残っています。
林重蔵と琴子の息子として生まれました。
幼名は利助で、父方/母方の祖父から一字ずつ取った名前です。
とても利発な子供でした。 -
重蔵は庄屋を補佐する役職に就いていましたが、生活は貧しかったようです。
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公園の奥には、1918年に復元された生家が保存されています。
オリジナルは1850年の台風で倒壊しました。 -
中へ入ると、当時の生活が垣間見られます。
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生活が苦しかったので、利助5歳の時に父の重蔵は萩城下へ出稼ぎに赴きます。母の琴子は糸を紡いで機を織って生計を助けました。
父が家を出ると、母の実家秋山家で母子ともに暮らします。
8歳の時に、父は家族を萩へ呼び寄せます。 -
利助は腕白で負けず嫌いでした。利助が登った柿の木(現在は2世)。
13歳の時に父重蔵が長州藩軽率伊藤直右衛門の養子となり、利助も伊藤姓になります。翌年は江戸湾警備で上宮田陣営へ赴任、松下村塾へに入り高杉晋作に愛されます。、京都/長崎/江戸へ赴きます。 -
園内には、伊藤公資料館(1997-)がありますが、展示室の撮影は禁止されています。
1862年、21歳の時に高杉晋作らと英国公使館を焼き討ちし、国学者塙次郎を斬殺します。
22歳で士分(上級武士)に取り立てられ、すみと結婚するも直ぐにロンドン大学へ留学。最先端の西洋技術を目の当たりにすると、攘夷が不可能であることを痛感します。8/18の政変後に長州藩が列強諸国へ攘夷決行との報を受けて1年で帰国し、講和締結に奔走します。 -
英国留学は、藩が費用を負担し鎖国令を犯す密航だったので、伊藤が将来を担う幹部候補生として期待されていたことが分かります。彼らは長州ファイブと呼ばれ、明治政府で近代化/工業化を牽引します。
矢印が伊藤博文。 -
藩の実権を握った高杉晋作が奇兵隊を結成すると、伊藤は相撲取りを中心とした力士隊を結成し、奇兵隊の一角を担います。
1866年、25歳の時にペーパー婚のすみと離婚して、梅子と再婚します。1月に薩長同盟が締結され、6月に四境戦争が勃発しますが、外国語が堪能な伊藤は戦闘に参加せず軍艦買付等に奔走します。伊藤公資料館(伊藤公記念公園) 美術館・博物館
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1868年(明治元年)、27歳で新政府の兵庫県知事になります。前年に開港したばかりの神戸港を擁するためです。この頃から博文と名乗ります。
29歳で大蔵省へ赴任し、金本位制度と新貨幣を導入します。
30歳で条約改正を目指す岩倉使節団の副使になるも、天皇の全権委任状を持参せずに散々の結果に。法制局長官となり、裁判制度等の法整備を行います。教育令の発布など、近代国家にふさわしい法整備を行います。
気が付けば木戸は亡くなり、大久保/西郷も命を落とし、板垣/大隈は下野し、維新の第一世代はいなくなっていました。エリート教育を受けた伊藤の世代が主役に躍り出ます。
※岩倉使節団と同じ船にいた津田梅子は、後に伊藤の娘の家庭教師も務めています。 -
井上馨
博文より6歳年上で、長州ファイブの一員。終生の友で、梅子夫人との間に男子ができなかった博文は、37歳の時に馨の兄の息子を養子にしています(馨も娘ばかりで息子がいなかったため兄の息子を養子にしています)。 -
憲法制定と国会開設
近代法整備の総仕上げが立憲君主制度です。1882年に憲法制度調査のために渡欧し、ウィーン大学のシュタイン教授の君主機関説に感銘を受けます。
1885年に太政官制度から内閣制度へ転換し、最初の総理大臣になります。
1889年に憲法発布(新設された枢密院議長となるために総辞職)、翌年に議会選挙を実施して帝国議会を開院させます。
第二次内閣では1894年に条約改正に成功します。 -
梅子夫人
英雄色を好むといいますが、アパホテル不倫といった姑息なことをせず、当時の常識に従って伊藤も夫人の棲む邸内に様々な愛人を連れ込み、婚外子も梅子夫人が育てます。
梅子とは下関の芸妓時代に出会いましたが、向上心の強い女性で西洋文化と英語を貪欲に吸収し、初代ファーストレディとして西洋列強の外交官らと対面した際には、見事な衣装センスと堪能な英語/完璧なマナーを披露しています。伊藤も、妻には叶わないと手紙に書いています。良妻賢母という小さな器に納まろうとせず、賢くて機微に富む人柄を愛してやまなかったようです。館内に展示されている夫人へ宛てた多くの手紙では政策や根回しの愚痴も多く、政治を理解する同志というイメージを受けました。 -
明治17年の華族制度発足で伊藤は伯爵に列せられます。大名家と同列です。第二次内閣では日清戦争講和の全権大使として(下関条約締結)に奔走し、侯爵に列せられます。加賀前田家等の大物大名家に比肩する序列です。
天皇のアドバイザー(元老:公職ではない)として、大きな存在となります。 -
1898年に第三次内閣を組閣するも、初の政党内閣(第一次大隈)に敗れ、1900年に自らも政党(立憲政友会)を結成して第4次内閣を組閣するも瓦解し、政友会も原敬らに委ねます。3,4次は1年も持ちませんでした。欧米留学と岩倉使節団の経験を通して法整備に邁進した伊藤は、全てを法律の枠内で行っています。日本が近代国家の一員であること自覚が、自身の行動を縛った印象です。規格外の天才ではなく、究極の秀才です。
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その後は元老/枢密院議長として薩長軍閥の影響を暴走を止めようとしますが、歴史は日英同盟/日露戦争/韓国総監府設置へ進みます。自分の意志に反する政策に食い込み、英外相との意見交換、ポーツマス条約の御膳立て、初代韓国統監就任等で抑止力になろうとします。
1907年には、公家/大名家(薩長/水戸/将軍家)以外では初の公爵に列せられます。大山巌/山縣有朋も一緒で、ロシア勝利のムードで軍閥メインの中では異色です。 -
1907年に外交権を持たない高宗が密使を派遣したことで責任を追及し、皇帝を退位させます(ハーグ密使事件)。
1909年に韓国統監を辞して、日露関係調整のために訪れたハルピンで安重根に暗殺されます。68歳でした。あと、学研漫画の「伊藤博文」が蔵書に含まれていて、懐かしかったです。
園内には、伊藤の漢詩を2009年に安倍晋三総理が揮毫した石碑が。奇しくも、安部さんも暗殺されます。 -
評価
明治天皇の意思に背くことも度々で、憲法/内閣/政党結成など、天皇の不況を買う政策を実行しました。一方でお世辞を言わず、金に潔白(蓄財しない)ゆえに伊藤に絶大な信頼を寄せています。ただ、女癖の悪さだけは、天皇自ら苦言を呈しています。4WD不倫なんていうのがありましたが、日本での(自動車)車内不倫第一号は、伊藤博文といわれています。写真は45歳ごろに撮影したもの。
食べ物/家/装飾に無頓着で、総理官邸の使用人は伊藤が首相になると喜んだそうです。 -
英国留学もあって、「近代国家」はドイツ帝国ではなくイギリスを手本としていたようです。かなりのリアリストで、急な変化は混乱を招くと考え、天皇中心の体制を過渡期と考えていました。民主主義の衆愚を痛感し、まずはしっかりと手綱を締め、国民の教育水準に合わせて徐々に手綱を緩め、イギリスのような成熟社会を目指していたようです。
韓国総監時代の行動は、保守的な李王朝と儒教が人民の自立と教育の機会を阻んでいると見抜き、保護国化は併合のステップではなく、国民に教育制度が浸透したら外交権等を返すつもりだったようです。併合にも反対していました。 -
園内の伊藤博文邸は、10代前の祖先林淡路守通起の没後300年(1909年)に林家/伊藤家を法要へ招くために建設したプライベートな建物。結局は、翌年に完成し、すぐに県へ寄贈され、初代資料館として機能しました。
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岩田駅に戻り、光駅まで移動。
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JRバスで、室積地区へ移動します。
光駅 駅
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観光案内所で資料を仕入れます。
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郷土館でお勉強
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秀吉の高松城水攻めで切腹した清水宗治の遺子景隆は、秀吉の士官を断り忠義を通します。長州藩では、一門に次ぐ寄組に列せられ、光井村(市役所周辺)等の2500石を知行地として与えられます。子孫は明治維新でも活躍します。
宗治の切腹は介錯人を付けた初めての事例で、以後作法化されます。
高松城の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11864502清鏡寺【清水宗治主従の供養塔】 寺・神社・教会
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室積村は、室町時代に大内氏が日明貿易で先方の商人らを接待する港でした。
江戸時代には、早長八幡宮~普賢寺を結ぶ通り(現海商通り)が室積村の中心として栄えました。室津/上関と並び、室積は多くの特権と義務を負う藩の主要な漁港でしたが、1733年の大火で建物の大半を失います。室積復興のために藩は、1763年に肥料(干鰯)の市を開設します。 -
現在の早長八幡宮
八幡宮の南には、藩の年貢米5000石を廻船商人に売り捌く「御米売捌会所」が1780年に開設されました。売上金は、他国船が陸揚げした商品を担保に貸し付けて利息を取り、蔵の賃貸料も徴収ました(越荷)。餅菓子と手打ちうどん 宮本 グルメ・レストラン
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八幡宮の前には高札場が設けられ、藩や幕府のお触れが掲示されました。
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室積浦海上御勤方番所跡/中熊毛宰判勘場跡
海防の要所ということで、1729年に海上御勤方番所が設けられました。
1764年には藩の特別会計からの支出で、室積港を藩の戦略的商業港として整備されます。その際に中熊毛宰判が新設され、勘場が併設されます。宰判とは長州藩独特の用語で、代官所の管轄範囲を指し、周防国は10ほどの宰判に分かれます。勘場は代官所です。 -
勘場は5年の短命で、行政区の中心に位置する岩田村へ移り、1774年には中熊毛宰判も消滅しました。
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時代は下りますが、俳人の山頭火が詠んだ警察署跡もあります。
観光案内所の近くです。海商館 グルメ・レストラン
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専光寺は、室町時代に守護大名大内氏が外国使節(明)の接待所として用いられました。幕末(1864年)には、ここで第二奇兵隊が結成されます。当初は真武隊と称し、北西(萩)の奇兵隊に対し、南奇兵隊と呼ばれるようになりました。
専光寺 寺・神社・教会
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ふるさと郷土館の向かいには、別館として使用された旧磯部家が建ちます。室積浦の年寄組を務め、藩の直轄港として整備後は、廻船業を営み、幕末には金融業を営みました。
光ふるさと郷土館 美術館・博物館
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通りの終点は、1004年に開山した普賢寺。
本尊は海の守り仏として信仰されます。山門は1798年築。普賢まつり 祭り・イベント
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そんなわけで、参道は海から続いています。
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四方を堀に囲まれ、寺らしからぬ姿。
実は、専光寺境内が狭いということで、こちらが第二奇兵隊の屯所になりました。1865年には隊員が300名を超えたためです。 -
山口大学付属小/中学校の正門横には、撫育方室積会所跡であることを示す石碑が。
実は室積商港を整備したのは撫育方という役所です。 -
長州藩撫育方室積会所跡
1769年に設置され、北前船の積荷を担保に資金を貸し付けたり(金融業)、船荷を預かったり(倉庫業)します。1780年には、防長三白(藩の三大名産品:米/塩/紙)の一つである藩内の年貢米が此処に集められ、売り捌かれました。藩の年貢米が集結したので、米蔵が立ち並びました。年貢米を、いかに高い値段で商人に売りつけるかが重要で(米相場)、武士というよりかは商人的業務です。長州藩撫育方室積会所跡 名所・史跡
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中興の祖とされる7代藩主毛利重就は領内の検地を行い、新たに記帳された6万石の新田のうちの4万石を特別会計に計上します(1762)。資金管理のために、撫育方という役所が開設されました。
資金は産業振興(新田塩田開発等)/商港整備(室積/中関/下関)/特産品売買(防長三白等)の3事業に用いられ、資産運用も重視されました。万年赤字の一般会計への補填は一切せず100年かけて蓄えた資金は、倒幕を推し進める財源となりました。第二奇兵隊には、活動資金として室積撫育方は500両を支出しています。 -
室積港の繁栄は続き、1805年には廻船専用の荷揚用の波止場を撫育方会所横に増設します(写真)。現在も残っています。
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室積の古地図(1738)
周囲を陸に囲まれた御手洗湾に位置する室積は、天然の良港でした。八幡宮~普賢寺にかけて船が接岸しました。
水色:早長八幡宮
青:高札場
緑:中熊毛宰判勘場跡
黄:専光寺
紫:普賢寺
赤:撫育方会所
橙:象鼻ヶ崎 -
砂嘴の先端を目指します。
名前の通り、象の鼻のような美しい曲線です。 -
日本三景の天橋立に似ているので、周防橋立と称されます。本家には叶いませんが(手前味噌)、曲線美と松原は評価できます。
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先端の象鼻ヶ崎
象鼻ケ岬 自然・景勝地
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岬付近には、幕末1846年に築かれた室積台場が。大砲は、太平洋戦争時に金属供出されました。
室積台場跡 名所・史跡
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台座は、光ふるさと郷土館に展示されています。
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御手洗湾は、静かな入り江です。
再び、ふるさと郷土館へ戻ります。 -
清水宗治子孫の清水親知は、20歳で家老に抜擢されますが、禁門の変の責任を取り、21歳で切腹します。新政府は彼を高く評価し、清水家は男爵を世襲します。
今までの光市史を復習すると、
御手洗湾に囲まれた室積は、大内氏が日明貿易で栄え、江戸時代は財力のある漁港となりますが、藩が商港を整備したことで年貢米が集結し、全国の商人が集まるスポットとなります。それを活かして地元商人は廻船業を営みます。幕末には第二奇兵隊が室積で組織され、倒幕を推し進めます。
室積西側の光井は、秀吉の毛利攻めで並々ならぬ忠義を示した清水宗治の子孫の知行地となります。清水親知は八月十八日の政変以降尊王攘夷派がどん底の時代に身を挺して尽くし、新政府も彼の働きを高評価。光井町/室積町が合併して光市が誕生します。 -
館内には、老朽化で閉鎖された別館(磯部家)の内部が移設されています。1880年頃に材木商も営んでいたころの建築です。
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お店の主戦場の番台
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磯田家も第二奇兵隊に7両をカンパしています。写真は、慶応2年に磯部才之助へ宛てた感謝状です。当初は非正規でしたが、1865年に藩の正規部隊になり、第二奇兵隊と呼ばれます。
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磯部家所有の塩田
明治になって藩の塩専売が終わると、製塩業にも携わります。写真は御手洗湾の反対側(現室積小学校)周辺に造られた磯部家塩田(5.3ha)です。 -
九谷焼の皿
廻船業を営み、日本海側との交易も盛んでした。
明治の土地私有化に伴い、地主として徳山/三井/浅江に小作人を擁しました。 -
廻船業で蓄財すると、醸造業にも手を伸ばします。1770年代に分家した磯部家(本家の綴りは礒)は、1840年代に磯民の名前で醤油製造を行います。上関までを商圏として1958年まで存続しました。
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醤油の歴史
奈良時代に伝来しましたが、当時は肉/魚介/野菜なども漬け込んだので、塩辛とも漬物のような代物でした。鎌倉時代に紀州岩佐で溜醤油のようなものが作られ始めます。
商業的生産を行うようになったのは安土桃山時代で、江戸時代の都市化に伴い、17世紀には野田/銚子で大量生産が行われます。醸造業ということもあって当時は、日本酒と同じように杜氏/頭/釜屋等の分業化が徹底していました。 -
最初の行程で、煮た大豆と煎った小麦を麹菌と混ぜて麹を作りますが、温度管理がとても重要かつ大変なので、熟成させる麹室は、レンガ等の保温性の高い材料が用いられます。
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麹菌を混ぜた材料は莚の上に敷かれ、蒸し暑い環境で熟成させて麹を作ります。
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麹を塩水と混ぜて、桶に仕込んでもろみを作ります。もろみを年単位で発効させます。桶の内部まで空気が入るように時々かき混ぜます。もろみの発酵は酵母菌が行い、乳酸菌も味わいを深めます。
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もろみを圧搾してできた液体が生醤油で、火入れ釜で加熱殺菌することで発酵を止め、製品として出荷します。
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長州藩の地方行政
町方:町奉行傘下で、萩/山口/三田尻(防府)の三町が統治されます(下関は支藩の長府藩)。
地方/浦方:郡奉行傘下で18の判官に分け、各宰判に勘場(代官所)を設置して代官を派遣し、大庄屋は代官を補佐します。宰判は各村で構成され、村は庄屋が地役人として業務を遂行します。村は地方もしくは地方/浦方双方で構成されます。
浦方(漁業集落)が単独で村を構成することはなく、地方(農村部)に付属するものとして扱われます。漁民が所有する田畑は、地方管轄でした。浦方の行政を管轄するのは浦年寄で、庄屋(地方)の下に属します(極稀に浦庄屋も存在)。 -
周防五立浦
浦の性格は廻船浦/漁浦に分かれますが、漁浦は立浦と端浦に分かれます。室積は、安下/久賀/上関/室津と並ぶ藩の周防五立浦の筆頭格で、端浦に対して強力な漁業権を行使しました。上関のある長島沖の馬島/佐合島/牛島/祝島ライン~徳山藩境界まで広大な海域で、制限の伴わない漁業権を持っていました。
立浦は権利の見返りに、海運等の使役/多額の税金といった義務が課されました。 -
1842年のデータでは、室積の漁家は117軒/漁船71艘/収入銀200貫、三井村戸仲/野原の両浦は36軒(うち船持は21軒)/銀16貫目でした。立浦と端浦の収入格差は歴然としています。
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ボラ漁
室町時代から行われ、敷網と追込網を使った漁方に分かれます。。
敷網漁は20余艘で行い(模式図)、垣網と追掛船でボラ群を敷網の中へ誘導し、網の口を締めていき、最後はタモでボラを掬い上げて網船に移します。追い込み網は、正確な記録が残っていません。 -
鰯漁
江戸時代から続く室積の基幹産業で、2艘で網を操り、カタクチイワシを追い込みます。浜で天日干しにして肥料orイリコ出汁に加工する光景は、戦後まで風物詩でした。船団は、春先はイカナゴ、初夏はしらすを漁り、サバやタイ漁にも従事しました。1950年代後半に水産資源が枯渇して、殆ど行われなくなりました。 -
鰯網漁で使われた船(1/15スケール)
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打瀬網漁
底引網漁の一種で、船に張った帆の力で底引き網を曳く漁法です(ほかにも手漕ぎ/潮力を動力にするものもあります)。1879年に広島県から打瀬船が到来するようになり、中には室積に定住する者も現れました。 -
打瀬船は、船と並行に帆を張り、横滑りするように網を曳きます。通常の帆船と帆の向きが90度逆なので、一目瞭然です。瀬戸内海で漁業資源が減少したために、1952年に底引き網船は5t未満かつ動力は10馬力以下に制限され姿を消しました。小型エンジンの登場で、網を曳くの発動機に代わります。
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左の写真は帆を畳んだ状態の珍しい写真で、(光市)牛島の新谷家所有のもの。広島県民に負けじと、20世紀初頭に牛島では30艘の打瀬船が対馬や現在の北朝鮮/中国国境付近まで漁に出ました。
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タイ網
春先に豊後水道から産卵のために周防灘へ移動する鯛を獲ります。従来は底引き網でしたが、鯛が傷ついたり鮮度が落ちるので、以下の両方が昭和に導入されました。
しばり網漁は、全長1500m×130mの網を両端の船が鯛の群れを囲ように移動します。ひらひらした木片を縄に付けて鯛を驚かせて網の方へ誘導します。全体的に大掛かりな船団です。
吾智(ごち)網漁は、全長数百メートルの網を潮流方向へ投入し、巻き上げる際に幅を狭めます。しばり網/吾智網も急な潮の流れを利用し、作業は15分ほどなので鯛を生きたまま漁船の生簀へ入れ、港で待機している仲買人の運搬船へ引き渡して広島や京阪神へ出荷されました。高度経済成長に伴い漁獲量が激減し、不採算により観光用以外は姿を消しました。 -
現在、光市では蛸壺漁や烏賊籠漁がおこなわれます。
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廻船業
1764年に商港が整備されたことにより、室積は廻船浦にもなります。各地の廻船が立ち寄るので、廻船乗組員の宿泊所/船具/食料/水を提供する船宿ができました。やがて、宿が出入りする船の管理/税の徴収/商品の売買を行う廻船問屋になりました。こうして財を蓄えた室積商人も、廻船オーナーとなります。1842年の統計を見ると、80艘が室積を母港としました。興味深いのが小型船が多いことです。
船大工は24軒、水夫や荷役を行う者が277名と、廻船関係の職業に就く人も多いことが分かります。 -
写真は、室積所有では大型に属する250石船の1/5スケールの模型。全長20m、船底部分の全長は12m、42tの米を積めました。
船頭(船長)を筆頭に、舵取(航海長)、親仁(水夫長)、賄or知工(事務長)、若衆(一般乗組員)、炊(炊事雑用)が乗船しました。 -
室積では150石以下の船が主流で、50石以上を廻船、未満を小廻船と区分されました。
小形弁才船
北前型の150石積(22.5t)、12反帆(帆幅9m)。 -
イサバ船
瀬戸内海を中心に運用された短距離廻船。100石積(15t)、10反帆(幅7.6m)、乗組員は数名。 -
チョキ船
関西では、イサバ船に次ぐ階級(80石積 12t)の船をチョキ船と呼びました(江戸の定義とは異なる)。8反帆(帆幅6.1m) -
弁才船は積載量が多い反面、構造が弱いので、毎年1800艘ほどが難破していました。1887年に500石以上の和船製造が禁止されたため、和船を補強し、西洋式の帆を付けた合いの子船が昭和まで活躍します。建設費が安くて多くの荷が積めるのがメリットです。
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船箪笥
金庫を兼ねた貴重品入れで、船頭と賄(知工)が使用しました。印鑑/紙幣/貨幣/往来手形/売買仕切/船定法書/航路図などが収納されました。事務机になる寸法です。 -
往来手形
江戸時代、旅行許可証と身分証明書を兼ねたもの。パスポートとビザに相当する最重要書類。源吉を船頭とし、8反帆の80石積、3人乗りということで、チャキ船だと分かります。九州表と瀬戸内海を航行します。キリシタンではないことを記し、町役人が署名/墨印を押しています。
右は船定法書(航海法に相当)。 -
左は、売買仕切で売上帳に相当します。商売の記録なので、一番大事な会計書類です。
右は、明治8年に発行された許可証。江戸時代は大名格でなければ使用できなかった朱印が押されています。 -
これらとは別に、立ち寄り港に入港願/出帆願を提出します。
ここら辺のシステムは、現在の港湾利用と変わりませんね。港湾使用料等を支払います。 -
板子1枚、下は地獄。当時は海難事故が多かったので、神仏に航海安全を願いました。
船霊様は御神体のことで、人形/毛髪/サイコロ/銭/五穀などが選ばれました。人形なら男女一対、毛髪は船主夫婦のもの、サイコロは2個、銭は穴開き銭が用いられました。船霊様は、帆柱下の穴に入れられました。
護符は魔除けで、神仏の像や名前、真言の呪文や梵字などが描かれました。 -
船絵馬
航海前に安全を寺社に祈願し、無事に航海を終えると絵馬を奉納しました。
写真は、1826年に姫路室津の明石屋長次郎が早長八幡宮に奉納したもの。 -
こちらは、1846年に長次郎が普賢寺に奉納した絵馬。廻船を描き、船名/スペック/船主等を記載します。
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遭難絵馬
遭難の危機に神仏に祈願して無事に乗り越えた際は、遭難絵馬と呼ばれるものを奉納しました。 -
五軒屋五人衆
明治維新の頃に栄えた廻船業者で、写真の中津屋(中村家)は、500石積(85t)の大型船「鶴吉丸」を運用していました。日本海側の塩田で塩を仕入れて九州で売り捌き、九州では塩田の原料となる石炭を仕入れました。五人衆は、天社/村屋/小倉屋/豊前屋も含まれます。 -
幕末に江田文太郎が始めた丸屋は「住一丸」を所有し、四境戦争(芸州口の戦い)/戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)では兵站を担いました。明治に入って南航路に乗って徳之島へ渡り、紬や製糖業を営みました。
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中村屋
3艘の廻船を持ち、九州~瀬戸内海で材木/米/砂糖/鯨油を扱いました。芸州口の戦いでは、資金援助と共に海運を担い、毛利家の家紋入り船旗を掲げました。 -
内航は、昭和に入っても依然帆船かつ和船が全盛でした。写真のように、室積港は前近代的な船にとって格好のシチュエーションで、1930年の統計では年間入港数5385艘に対し、帆船が4759艘を占めています。
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1897年に東京から鉄道が伸張しますが、室積村は敷設に反対し田布施経由で開通します。当初は影響がありませんでしたが、1915年には、29年続いた関西の大手汽船の定期航路が撤退します。運送は陸運/大型汽船にシフトし、戦後までに商港としての機能を失います。
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室積は、松岡洋右(1880-1946)の出生地です。
普賢寺に記念碑が立っています。今津屋と所縁の人物で父は廻船問屋を営んでいましたが、11歳の時に破産し、伯父を頼ってオレゴン州ポートランドへ移住、オレゴン大学を卒業して、20歳で帰国します。外交官試験を受けて41歳まで奉職、1932年に衆議院議員在職中に全権大使として国連総会に出席して演説を行います。国連脱退という結末を世論は英雄扱いしますが、外務省が想定した最悪のカードだった故に、本人は議員辞職します。1940年に外務大臣就任後、日米開戦へ向かいます。渡米経験からも個人的には日米戦反対派で、吉田茂と仲が良かったこともその表れです。東京裁判中に病死します。松岡洋右碑 名所・史跡
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室積海岸を歩いて光駅を目指します。
室積や光井は昭和に地盤沈下し、1943年に光町/室積町が合併して光市が誕生します。市役所の斜め向かいの区画には1940年に海軍光工廠が竣工、空襲の被害も受けます。海沿いの国道188号線は一直線で幅も広いですが、緊急時の滑走路を想定したとのことです。 -
1946年には、海軍工廠跡地に武田薬品がワクチン製造工場として光工場を竣工。創業の地大阪工場に次いで建設された国内最大の設備です。住所は光井字武田です。
光工廠跡には、1955年に八幡製鉄所が進出、八幡/戸畑以外では初進出です。写真では、煙突が写っています。紆余曲折を経て、チタン/ステンレスに特化した施設になっています。両社が光市の二大プラントです。 -
終点の光駅へ到着。開業当初の駅名は、虹ケ浜でした。
次は徳山へ↓
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