2025/05/24 - 2025/05/24
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gianiさん
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萩城の東側に建設された城下町は、藩を支える町人と職人が住む地域です。一部は中下級武士の住宅地にもなり、殊に明治維新を促進する志士の住宅が固まる区画もあります。武士と町人が生活した躍動感あふれる街は、今は江戸情緒を遺す美しい町です。
一筆書きの位置情報も参考にしていただければ幸いです。
前編↓
https://4travel.jp/travelogue/11978003
- 旅行の満足度
- 5.0
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まずは萩博物館で座学
城下町は28の町で構成されました。
行政としては町奉行の配下で、各町に町年寄を中心とする自治組織がありました。 -
城下町は、狭義では堀内(三の丸)の東側を指し、観光で用いられる「萩城下町」とイコールです。正式には、図の①~28までの区画を指します。平安古や街道沿いにも分布するところがミソです。
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各町に自治組織を作った重要な理由の一つは、災害対策です。
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萩は阿武川の堆積作用で形成された未熟な三角州の上に建設され、洪水と隣り合わせでした。有事は堤防の死守に携わり、受持ち区画が分かるように、町の印を描いた幟/提灯を立てました。火事の際も、消火に当たりました。
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1652年の地図
左上に指月山、左下に萩城、右中央に城下町が描かれています。城と城下町の南側には、深田と書かれたエリアがあります。 -
城下町部分を拡大すると、西は外堀、南は深田と呼ばれる湿地?沼地、東は入り江、北は萩湾に囲まれていることが分かります。
萩城と城下町は、萩湾から吹く風で砂が盛り上がった「海岸砂丘」の上に建設されたことが分かります。 -
0.5m間隔で等高線が入った地図を見ると、海岸沿いに砂丘が形成され、周囲よりも標高が高い(概ね4m以上)ことが分かります。
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新堀川の開削(1687)
標高が低く水害に弱い地形なので、湿地沼地に面した南側を開削し、入り江が食い込む東側を埋め立てた上で排水路を通しました。城下町の南側と東側の境界に新堀川を1687年に開通させ、城下町の境界線となりました。 -
御成道の復元模型
城下町の目抜き通りは、参勤交代時に通行する御成道です。山陽道(西国街道)へ通じる萩往還の始点部分です。間口が狭くて奥へ伸びるウナギの寝床のような商家(というステレオタイプ)ではなく、間口の広い商家が並んでいるのが印象的です。 -
土地割を見ると、土間が通路として奥へ続き、中庭があって、一番奥に土蔵が並んでいます。敷地は、やはり細長いです。
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商家で使われた秤
両替の小さい秤と対照的に、様々な産物を計量するためにかなり大きなものもあります。
では、現地へ赴きます。 -
萩往還沿いに位置する萩BT
現在の交通の中心です。萩バスセンター 名所・史跡
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そのまま萩往還を進むと、
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城下町の中心には高札場があり、様々なお触れが掲示されていました。ここは萩往還と石州街道が御成道に合流する交通の要所です。
磔/獄門の刑が確定した者を最大3日間衆目に晒す場でもありました。唐樋札場跡(萩往還) 名所・史跡
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高札場の先で御成道は左折します。
現在はアーケードの架かった田町商店街となっています。田町商店街 (御成道) 市場・商店街
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バイエルや武田の看板に歴史を感じます。
高札場から続く道沿いは、④の東田町です。 -
森井家住宅
③の西田町には、築200年以上と推定される商家が。江戸期は酒屋、維新後は商工会議所、戦後は卓球場等として利用されました。2階の漆喰壁が独特です。③④は田町という名称から分かるように、田地を城下町に変えた歴史を背負っています。 -
交差点には、松陰一回目の投獄時の女囚高須久子の札が。
この辺りから、23番の瓦町です。瓦職人が多く住んでいたことに由来します。 -
殺風景ですが、右側の緑地的空き地は、御客屋(町奉行所)跡です。
町奉行は、萩/山口/三田尻(現在の防府市)に置かれました。
萩奉行は、城下28町を統治しました。御客屋で瓦町は終わり、呉服町へ移ります。 -
御客屋跡の斜め向かいには、萩城城下町の石碑が。御成道の左側部分の区画が、世界遺産に指定されています。
では左折して、江戸屋横町へ入ります。御成道に棚を構えた豪商江戸屋に由来します。江戸屋横町 名所・史跡
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まず現れるのが、木戸孝允旧宅。
維新三傑の一人です。安政期の地図では和田家となっています。藩医和田昌景の長男として生まれ、8歳で桂家へ養子入りします。木戸孝允旧宅 名所・史跡
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養母が直ぐに亡くなり、成人するまで実家で育てられます。1926年に遺族が寄贈して、一般公開されます。彼の部屋があった木造2階建ての建物が印象的です。
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京都の芸者幾松(松子)と結婚しました。
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江戸屋横町は、こんな景色で情緒満点です。木戸が引退後余生を過ごすために夏ミカンを植えたり、この家を愛していたことも頷ける心地よさです。
横町は御成道沿いに大店が陣取り、木戸邸から南端までが中下層の武家住宅地となっています。 -
佐伯丹下(大組/125石)は、目付/撫育方等の会計畑を歩んだ藩士で、明治維新へ向けて吉川家との交渉に当たりました。
1872年に佐伯家の手を離れ、久原房之介の選挙事務所などを経ています。一般公開されていませんが、保存状態が良いので映画のロケでも使用されました。旧佐伯丹下家屋敷 名所・史跡
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青木周弼旧宅
日本屈指の蘭方医で、藩医を経て藩主の侍医を務め、藩の医学校好生館を開設します。洋学を藩士に伝えて、明治維新を促進します。青木周弼旧宅 名所・史跡
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邸宅は、来客用と家人用の座敷に分けられ、全国から門下生が集まった青木家の事情感じさせます。
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種痘法に注目して弟の研蔵を長崎へ派遣し、高杉晋作が10歳のとき疱瘡にかかった際に治療に当たります。
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研蔵の養子周蔵は、外務大臣として条約改正に奔走しました。
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横町は続きます。
南端は、寺社地でした。 -
円政寺/金比羅社
円政寺は鎌倉時代頃に大内氏の祈願寺として山口市に創建。大内氏滅亡後、萩築城と同時に現在の多越神社に移転され、毛利氏の祈願寺となりました。神仏分離令に伴い、金毘羅社境内へ移転。幼き日の高杉晋作は、金毘羅社の天狗の面を見せられ、物怖じしないよう躾けられたという逸話があります。
法光院(現円政寺)住職と親戚の少年(後の伊藤博文)が1851年から1年半小間使いとして奉公し、勉学を教わったという歴史もあります。
江戸屋横町を終えて右折します。円政寺 寺・神社・教会
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旧野田家住宅
大組に次ぐ遠近付の家格で、両者とも馬廻なので政治の中心に近い立場です。遠近付までが知行地を持ち、それ以下は米の現物支給で禄を与えられます(給料制)。 -
門を潜ると奥に主屋があります。非公開なので、敷地には入れません。
※野田家の位置情報が不正確です。 -
路地には猫もいます。
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城下町の南端の路地
御成道に並行します。笹垣も乙です。旧野田家住宅 名所・史跡
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右折して、江戸屋横町の一本西を走る伊勢屋横町に入ります。
御成道に棚を構えた商家の伊勢屋に由来します。伊勢屋横町 名所・史跡
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小田村伊之助旧宅地
藩校明倫館で教鞭を奮う一方で吉田松陰妹の寿と結婚、至境戦争で幕府軍との交渉に当たっています。 -
道を引き返します。
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突き当りを右折します。
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萩城の方を向く高杉晋作像が。敷地には晋作の好きな梅の木が植わっています。
歴史と関係ない大したことないスポットです。高杉晋作立志像 名所・史跡
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菊屋横町へ入ります。
御成道の豪商菊屋に由来する名前です。
※菊屋横町の位置情報も間違っています。 -
高杉晋作旧宅
500坪の高杉家(大組 200石)は、久坂玄瑞と並んで松門の双璧と称された高杉晋作の自宅です。奇兵隊を結成し、倒幕に邁進します。高杉晋作誕生地 名所・史跡
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田中義一誕生地
藩主かごかきの家系に生まれます。3歳の時に田中家は平安古へ移転します。
義一は萩の乱に加担するも更生し、陸軍大将や総理大臣を務めます。田中家跡は、菊屋の南端に隣接します。田中義一誕生地 名所・史跡
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菊屋土蔵と土塀を堪能して御成道へ出ます。
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左折して御成道に出ると、香雪園。
元は醸造業を営む商家で、藤田伝三郎生誕地です。香雪園(藤田伝三郎生誕地) 名所・史跡
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藤田組(フジタ)/同和鉱業(DOWA)で知られた関西財閥の重鎮は此処で生まれ育ち、1911年に民間人として初めて爵位を得ます。それを記念して生家の土地が寄贈されました。
菊屋横丁 名所・史跡
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直ぐ横は外堀で、この先は城内(三の丸 堀内地区)です。
城下町の拡大に伴い外堀は2回に亘って埋立てられ、幅40mあったのが20m弱に縮小しています。藤田伝三郎生誕地は堀河を埋め立てた経緯と堀の片側だけに町ができたので、南片河町⑨と呼ばれます。北片河町⑩も同じ経緯です。
では御成道を引き返します。 -
右には江戸時代初期に建てられた国重文指定の菊屋家住宅、左には旧久保田家住宅が並びます。
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菊屋は藩御用の大店で、写真に写る分だけでも大きな建物ですが、軒の半分にすぎません。主屋は17世紀前期のもので、築400年になります。2階部分に窓がないのが江戸前期の特徴で、2階の窓から侍を見下ろすのは不敬であるという価値観に基づきます。
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もう半分はこんな感じで、御成道に長大な軒を構える大店です。こちらは19世紀初めの建築です。
菊屋は萩の本陣として、藩主の休息や幕府検使の宿泊先として機能する側面も持ち合わせました。菊屋家住宅 名所・史跡
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菊屋横町は、菊屋の敷地の長塀が延々と続きます。
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向かいの旧久保田家は、幕末の建物で「厨子二階(中二階)」があり、建ちが高いのが特徴です。
旧久保田家住宅 名所・史跡
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表門から、中へ入れます。
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離れと通りに挟まれた前庭があります。
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明治辺りのトレンドが分かる姿です。
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主屋の座敷は、立派です。
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細部まで凝っています。
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このように軒が高いです。
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久保田家は江戸後期に近江から進出して呉服屋を開き、2代目が酒造/醸造を始め「あらたま酒店」を営業していました。明治以降は賓客の宿泊所となり、梨本宮等が滞在しました。
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商家を堪能できる内部でした。
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調度品も素敵です。
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屏風には、江戸屋と伊勢屋が描かれています。世界遺産指定エリアの路地の名前の由来となった商家です。左奥の松に覆われた部分は藩校明倫館です。
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中の総門跡を引き返し、左折します(直進すると菊屋/久保田家)。左が北片河町、右が呉服町2丁目/古魚店町/春若町と進むと、
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徳山支藩藩邸跡
写真は南西角部分に比定される地点。路地の向かいは春若町、大通りの向かいは北片河町です。北の総門の東側になります。 -
徳山支藩邸と菊ヶ浜に挟まれたエリアは、樽屋町と今魚店町。古魚店町にあった魚市場が、船を接岸できる海に面したエリアに移動した経緯が由来です。
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菊ヶ浜土塁
1863年に下関砲台で異国船を撃払った攘夷決行は連合艦隊の厳しい報復を受け、危機を感じた藩は菊ヶ浜に土塁を築くことを住民に命じます。普段は表へ出ない武家の妻や奥女中までが建設に携わったことから、女台場と呼ばれます。菊ケ浜土塁(女台場) 名所・史跡
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幅12m高さ3mで、現在は50mの長さが良い状態を保っています。
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160年以上昔の海岸線の位置を語る史跡です。
オリジナルの浜往還は、土塁の内側を走っていました。 -
女台場近くの浄国寺
城下町と浜崎町の境界に位置します。浜崎町は三角形で、2辺を海、1辺を城下町と接していました。城下町(萩町奉行配下)に数えられず、浜崎宰判の管轄下でした。 -
熊谷家は製塩/仲買を生業とし、金融にも手を伸ばした豪商。建物は国の重文指定で、施設の熊谷美術館となっています。こちらは南向きの姿で1768年築。
熊谷美術館 美術館・博物館
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藩の御用商人の威厳を感じます。
東進すると、この先は寺町で20余りの寺院が林立します。熊谷町を越えると、亨徳寺 寺・神社・教会
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野山獄
野山六右衛門(大組200石)の屋敷跡で、上牢として士分の者が投獄されました最も有名な入獄者は、吉田松陰です。野山獄 岩倉獄跡 名所・史跡
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岩倉獄
道を挟んで野山獄の向かいに面し、岩倉孫兵衛(大組200石)の屋敷跡で、下牢として庶民が投獄されました。吉田松陰の従者は、こちらへ入獄しています。 -
位置関係と経緯
常念寺筋を挟んで向かい合いますが、下牢の岩倉獄の方が圧倒的に狭いです。身分社会を感じる間取りです。
1645年に岩倉孫兵衛は酒に酔って道を挟んで向かいの野山邸へ侵入し、野山六右衛門の家族を殺傷したために処刑されます。両家は取り潰され、跡地は牢獄となりました。 -
常念寺筋を南下すると、左側に常念寺の表門が。
京都聚楽第の裏門を移築したものです。常念寺表門 寺・神社・教会
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聚楽第を取り壊す際に秀吉から毛利輝元へ下賜され、伏見毛利邸の門として使用されますが、萩入府の際に城が完成するまで常念寺を宿所とした縁で1633年に移設されます。
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城下町の東端は新堀川が境界となっています。古萩町⑰と呼ばれ、城下町を建設する際に藩役人らが最初に居を構えたエリアです。当時は松本川に近い入り江だったので、最初に上陸するのに最適な地点でした。
海鮮食道 十八番 グルメ・レストラン
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高札場まで戻り、今度は萩往還を進みます。唐樋町⑤/御許町⑥と続きます。
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萩往還沿いは武家屋敷でしたが、後に町人地に変える申請が通り、御許町⑥となります。
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通りを挟んで中村製菓本舗の向かいには、味のある商家が。
萩往還は低地を横断するので、堤のようにかさ上げしています。中村製菓本舗 グルメ・レストラン
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御許町の先は橋本町(24番)で、橋本川を渡ります。
城下町の分布は、こんな感じです。 -
坂道になっていて、御成道側の方が標高が高くなっているのが分かります。
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おまけ
城下町南側の境界となる新堀川。高札場付近は暗渠化されていますが、概ね地上に姿を現しています。写真は、中央公園を流れる様子。萩市中央公園 公園・植物園
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上の写真のすぐそば、町奉行所の南側には青木が開設した藩の医学校好生堂の跡が。
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木戸孝允旧宅付近の御成道(1942年)
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現在の姿
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奉行所の裏に面する通りには、旧相首町屋敷刑場不浄の門が。
相首(おくび)町屋敷とは処刑場のことで、不浄の門とは死体を運び出す裏門のこと。明治9年の萩の乱の首謀者として斬首を宣告された前原一誠ら七人はここで最後の酒宴を開き、首を刎ねられました。 -
更に一筋裏の恵美須町筋には、法華寺が建ち、三門は厚狭毛利家屋敷から移設されています。という訳で家紋の沢潟紋も観られます。グーグルマップでは、日の丸保育園でヒットします。
次は、湿地沼地がどうなったか見ていきます↓
https://4travel.jp/travelogue/11990063
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