2024/08/23 - 2024/08/23
161位(同エリア184件中)
gianiさん
- gianiさんTOP
- 旅行記238冊
- クチコミ54件
- Q&A回答0件
- 804,600アクセス
- フォロワー16人
この旅行記のスケジュール
もっと見る
閉じる
この旅行記スケジュールを元に
徳山は、1650年に下松からの藩庁移転で開府し、歴史ある瀬戸内では遅いスタートです。
明治以降は、天然の良港を活かして、商都/軍都として海軍の燃料を一手に引き受け、現在の石油化学コンビナートへと発展します。
三大都市(下関/山口/宇部)には入らないものの、山陽新幹線伸張時に駅が設けられ、のぞみが毎時停車することからも重要性が感じられます。大企業が多いので、宿や飲食店が成熟している町です。フグは、穴場グルメです。
トクヤマ/東ソーなど化学系の東証プライム上場企業が本店を置いていることも注目に値します。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
綺麗な徳山駅を抜けると、レトロな商店街があります。
-
文教地区にある周南市美術博物館で、徳山の歴史を学びます。
徳山市は、2003年に新南陽市等と合併して周南市となっています。下松市も含まれていましたが、直前の選挙でまさかの合併反対派が当選して流れました。 -
古墳時代
ヤマト政権が各地方の王に服属の証として、古墳造営の許可と貴重品の下賜を行いました。4世紀前半の竹島御家老屋敷古墳(前方後円墳)および4世紀後半の宮ノ洲古墳(下松市)に副葬された鏡は興味深いです。
正治元年(240年)銘の三角縁神獣鏡は、竹島/森尾(兵庫)/柴崎(群馬)古墳で発掘されています。
天王日月獣文帯四神四獣鏡は、竹島/神蔵(福岡)/白山(神奈川)古墳で発掘されます。
天王日月獣文帯二神二獣鏡は、宮ノ洲/沖ノ島(福岡)/桑名(三重)古墳で発掘されます。これらは、鋳型で鋳造された同じものが見つかっているということです。平田水産 お土産屋・直売所・特産品
-
正治元年(240年)銘の三角縁神獣鏡は、三国志でお馴染み魏の年号(斎王の時代)で、前年に卑弥呼が魏に使節を送り、返礼として「銅鏡100枚」が届けられた年なので、邪馬台国から引き継いだ鏡という説もあります。国の重文指定で、トーハクに収められています。
5世紀初めに、周南市周辺は都怒(つぬ)国として国造が任命されます。笠戸大橋 名所・史跡
-
律令国家
大化の改新以降に国家制度が整えられ、大島/周防/波久岐/都怒国造と佐波県主を統合して周防国が誕生します。旧国造/県主は、大島/熊毛/吉敷/都濃/佐波郡になります。721年に熊毛郡から那珂郡が分けられ、6郡になります。周防国は山陽道に属する遠国、国力は上国でした。
周南市は都濃郡に相当し、久米/都濃/富田/生屋/平野の5郷から構成されました、 -
国土は畿内と7つの道に区分され、各道には都へ通じる幹線道路が整備されました。
周防国は山陽道が走り、都濃郡には山陽道沿いに生屋と平野に駅家が設けられました。戸籍が作成され、6歳になると国営地の耕作/納税を課し、21-60歳の男性には賦役も課しました。 -
平安時代には有力寺社や貴族が新田開発し、荘園と呼ばれる広大な私有地が誕生します。土地と人はすべて国のものという原則が崩れて、班田収授は10世紀までに崩壊します。国司を通して中央政府の支配が及ぶ土地は国衙(こくが)領で、令/保などと呼ばれました。都濃郡には、石清水八幡宮の遠石荘/仁和寺の鷲頭荘がありました。
-
鎌倉時代
武家政権になり、鎌倉幕府は守護/地頭を任命します。国衙領の役人だった大内氏が力を付けて、周防国の守護になります。都濃郡の地頭には、大内一族の鷲頭/末武氏や内藤氏が就き、地域支配者となります。荘園/国衛領は武士が奪っていきます。 -
室町時代
守護大名として、大内氏が周防/長門国を支配します。都濃周辺は、大内氏に反抗的な鷲頭氏を牽制するために南北朝期(1351年)に陶弘政が富田に赴任します。陶氏も大内氏の一族で、弘政の孫の盛長は富田保の地頭に、その息子の盛政から代々周防の守護代を務めます。 -
陶弘護(写真 1455-82)は、応仁の乱で京へ出兵した主君大内政弘の留守を守り、旧新南陽市域に若山城に本拠地を移します。竹島御家老屋敷古墳と近所なのは、偶然でしょうか?
政弘の跡を継いだ義興は7か国の守護を兼任し、義隆が家督を継ぎますが、陶隆房(晴賢)は1551年にクーデターを起こして主君義隆を討ち、大友宗麟の実弟を迎えて大内義長として擁立します。若山城跡 名所・史跡
-
陶隆房は晴賢と名を改め、傀儡君主を立てますが、大内氏配下の毛利元就との厳島の戦い(1555)で敗れて自刃、若山城も失います。
こうして毛利元就/輝元(豊臣政権下/徳川政権下)と、江戸時代まで毛利氏の配下になります。 -
下松藩
長州藩36万石の初代藩主毛利輝元の末っ子就隆(1602-79)は、1617年に3万石を分与されて立藩、長州藩の支藩という立場です。藩庁は、現在の下松市市役所向かい(現住所:桜町)に置きます。1634年に長府藩主と共謀して独立を図りますが、本藩に察知され支藩のままでした。
※下松市役所の現住所が大手門なので、すぐ近くだと連想できます。 -
領地替え
当初の藩領は赤線で囲まれた一円でしたが、殆どが山間部ということに不満を感じた就隆は領地替えを熱望し、1621年に叶えられます。須々万/中須/下谷/久米/末武/笠戸/切山の7村(青色)を放棄します。
※黄線は周南(旧徳山)市/下松市の境界線です。緑丸は、下松陣屋(位置情報:近似地)です。宮ノ洲古墳とも近いです。トレビ アルク下松店 グルメ・レストラン
-
替地所付(徳山毛利家所蔵)
新しく領地になった村の名前/石高が記載されています。右より都濃郡冨田村(5737石)/同矢地村(2324石)/佐波郡冨海村(1430石)/都濃郡福川村(703石)/同大向村(627石)/同四熊村(1649石)/同大道村(743石)/(長門国)阿武郡奈古村(1200石)/同大井村(1413石)、合計15829石。(長州藩主毛利)秀就(印) -
替地後(1621年)の様子
3つの大きな飛び地が出来、日本海側の奈古/大井村に至っては、藩庁から90km近い道のりです。領地は下松/旧徳山/旧新南陽市域に相当します。富海村は、現在の防府市です。 -
領地替えで下松は僻地になったので、領地経営をスムーズにするため1650年に就隆は野上村へ藩庁を移し、徳山と改名します。1616年の一国一城令で周防で城は築けなかったので、陣屋と呼ばれる屋敷を建てます。徳山駅から1kmほど北側、山に面したエリアです。
徳山毛利陣屋跡 名所・史跡
-
藩屋敷跡は、現在周南市文化会館および徳山動物園になっています。
周南市文化会館 名所・史跡
-
文化会館のすぐ南には、国道2号線が走っています。
徳山は西国街道沿いだったので、下松と比べても格段に交通の便が良く、商業が栄えました。 -
2号線の南側には、周南市美術博物館が建っています。
周南市美術博物館 美術館・博物館
-
敷地の南には旧藩作事方跡(土建関係の役所)の石碑が。西側には武具方(武具管理)もありました。この向かいに堀があって、陣屋と武家町を隔てていました。
-
徳山藩の領の中心部(赤色)は、長州藩領に囲まれています。黄色い丸が徳山藩庁です。
62年に渉る統治で、独立騒動や妻の離縁等で萩藩/義父の長府藩との関係を悪化させ、後世に負の遺産を遺します。 -
2代藩主元賢(五男:1670-90)は9歳で家督を継ぎ、19歳で早世します。
3代藩主元次(四男:1667-1719)は庶子ゆえに家臣の子として育てられ、学問好きで知られます。強大化した家臣団にメスを入れ、筆頭家老桂家/次席かつ本藩付家老神村家を相次いで追放/断絶させます。萩本藩との関係も険悪化します。 -
1682年には、五箇村紙制度が施行され、北東の飛び地須万村で和紙の原料となる楮の栽培と和紙作りを行い、藩が全国へ専売して貴重な収入源となります。
貨幣経済が浸透すると、銀を保持するために藩札を発行します。長州藩との境界線が長い事情もあって、流通の便を考慮して萩藩の藩札に極印を押して領内でも使用しました。 -
万役山事件(徳山藩取り潰し)
1715年に萩藩西久米村の喜兵衛は、材木用に万役山の松の木を1本切りました。それを見た徳山藩士は、徳山藩の土地の木を切るのは違法だと咎めると、喜兵衛は自分が植えた松だからと言い争いになり、藩士は喜兵衛を斬り捨てます。
萩藩は徳山藩主毛利元次に何度も謝罪を求めますが、使者を悉く追い返します。元次を唯一人諫めたのが奈古屋里人でしたが、防府へ追放されます。
1716年に萩藩は元次の隠居を幕府へ願い求めますが、裁決はまさかの藩取り潰しでした。喜兵衛を斬った藩士は処刑、藩邸や武家屋敷は取り壊され藩士は離散しました。 -
徳山藩再興(1719)
藩再興の音頭を取ったのは、ほかでもない奈古屋里人でした。江戸の幕閣に根回しをしつつ、老中水野忠之屋敷に嘆願書(写真)を投書します。幕閣の同情を引き起こし、萩藩にとっても重すぎる処分だという所見も併せて、徳山藩は再興されます。 -
七代藩主 毛利就馴(なりよし:1750-1828)
中興の祖で、教育を推進。藩校鳴鳳校を開校します。 -
藩校は拡張を繰り返し、調馬場だっ桜馬場内に移転します。現在は、徳山小学校になっており、旧藩学館跡の石碑が立っています。
徳山藩学館跡 名所・史跡
-
幕末
毛利元蕃(もとみつ 1816-84)は30歳で9代藩主になり、萩藩主毛利敬親を補佐して幕末を乗り切ります。洋学と国学を奨励し、西洋式軍備を整えることで尊王攘夷を推進します。1863年5月には、長州藩が異国船打払い(攘夷)を実行し、公武合体派と対立します。 -
八月十八日の政変(1863)
公武合体派の薩摩/会津藩は朝廷でクーデターを起こし、尊王攘夷派の七卿は官職を解かれ、京都を追放されます。長州藩と共に御所を警備していた徳山藩も任務を解かれます。三条実美/岩倉具視ら五卿は、長州へ退去する途中に徳山(浜崎)港に立ち寄ります。現地(晴海親水公園)には、五卿登陸処の碑が建ちます。晴海親水公園 公園・植物園
-
禁門の変/第一次長州征伐(1864)
京都を追われた長州藩が、京都守護職を務める会津藩主追放を目指して挙兵/交戦するも、薩摩藩の加勢で敗北。朝敵になった長州藩には討伐の勅令が出され、幕府軍が長州を目指します(第一次長州征伐)。
徳山藩でも主戦派と恭順派が対立し、主戦派が恭順派の富山源次郎宅を襲うと、恭順派は主戦派の志士7名を暗殺/処刑します。児玉神社には、殉難七士の功績を伝える碑が建ちます。徳山七士碑 名所・史跡
-
禁門の変を主導した長州藩の三家老は、責任を取って徳山に幽閉/自刃を命じられました。
益田親施は、総持院(明治4年廃寺)に幽閉され、11月12日に切腹して31歳で命を終えます。益田親施幽閉賜剣之地 名所・史跡
-
国司親相は、澄泉寺(明治4年廃寺)に幽閉され11月11日に切腹、22歳でした。
福原元?(人偏に間 ふくばら もとたけ)は、11月12日に岩国の龍護寺で切腹、50歳でした。福原家に養子入りした元?は、徳山藩主毛利元蕃の実兄なので、切腹は岩国で行われました。国司親相幽閉賜剣之地 名所・史跡
-
切腹した3名の首は広島の国泰寺の幕府軍本陣で西郷隆盛が検分し、長州征伐軍は引き揚げます。
現在は寺が移転し、平和大通りとANAクラウンホテルの間に境内の跡が残っています。 -
1865年には長州藩/徳山藩共に倒幕へシフトします。同年に、藩論は統一され、家臣団は血盟書を元蕃に提出します。町人有志で山崎隊が組織されます。第二次長州征伐(四境戦争)では勝利し、大政奉還後に起きた戊辰戦争の鳥羽伏見の戦い(1867)では、徳山藩も活躍します。1868年には藩士で構成された諸隊を統合した献功隊が秋田/蝦夷へ出兵し、戊辰戦争を集結させます。
-
献功隊には、五稜郭戦で初陣を迎えた児玉源太郎(1852-1906)がいました。馬廻役の家系に生まれますが、家督を継いだ義兄の次郎彦が殉難七士の一人だったために、家名断絶になります。彼の生家は公園として整備され、産湯の井戸も残っています。
児玉源太郎生家跡 名所・史跡
-
戊辰戦争後に兵部省に入り、西南戦争では熊本鎮台参謀副総長、陸軍大学校校長を経て、1898年に台湾総督として後藤新平の才能を開花させます。第3次伊藤内閣では陸軍大臣、桂内閣では内務大臣/文部大臣を兼任する中、日露戦争では満州軍参謀総長を兼任して203高地の戦い等を勝利に導きます。
-
1840年代の古地図
水色:堀。桜橋を渡ると徳山陣屋(赤)です。
黄:作事方
紫:武具方
緑:益田親施幽閉/切腹の地
青:児玉源太郎生家 -
つづき
青:殉難七士の碑(児玉源太郎宅跡)
赤:桜馬場/鳴鳳館
黄:国司親相幽閉/切腹の地
緑:大成寺(毛利家墓所) -
大成寺
城下町の東側の丘に面します。徳山毛利家の家紋が使われていますが、実は菩提寺です。初代藩主毛利就隆が1670年に、冨田村から現在地へ移転させました。大成寺 寺・神社・教会
-
境内の奥に墓所の入口があります。
徳山毛利家墓所 名所・史跡
-
初代藩主毛利就隆の墓は、立派な屋根付きです。
-
戒名が刻まれます。
-
毛利就隆の正室の墓碑も、屋根付きです。
二人以外は野ざらしです。 -
明治維新を迎えた9代藩主毛利元蕃と正室の墓。
-
墓所は、このように初代藩主夫妻の墓を中心に両翼に拡がります。歴代藩主および妻子96名の墓碑があります。
-
商業
下松の塩/須万の紙/米といった特産品を藩外で販売しました。冨田(旧新南陽市)/徳山は、全国の船が行き交う交易港として栄えます。
豊島嘉兵衛は幕末から徳山有数の商人で、明治以降は多くの輸入品も取り扱いました。写真下段は、1887年刊行「山口巨商早見便覧」に掲載された豊島商店。
汽船問屋共栄社(写真上)
1884年に豊島嘉兵衛/浅田義一郎ら5名が出資して設立した海運会社。大阪~博多航路を開設し、1890年代が最盛期(北海道~鹿児島)となります。 -
浅田義一郎(1837-1916)
徳山の商家に生まれ、明治に周防の茶を輸出して財を成します。大阪以西で初めてビール醸造にチャレンジしたり、徳山で初の洋裁店を開くなど、西洋の文化にも敏感でした。
地域事業としては、幕末からの新田開発、徳山港の整備があります。娘の信子は与謝野鉄幹の妻で、晶子との不倫の末に離婚されます。 -
1884年に設立した大阪商船(現商船三井)も同年に大阪~下関航路を開設し、徳山にも寄港します。写真は、徳山の代理店。共栄社と競合します。
-
鉄道開通
1897年に広島から山陽鉄道が伸張して東京と繋がると、徳山港(山陽波止場)は下関への中継点(関徳連絡船)となり、さらに栄えます。一方で、1898年の山陽鉄道三田尻(防府)伸張に大坂汽船は徳山から撤退し、共栄社も帝国汽船に吸収されます。1900年に徳山村は町に昇格しますが、翌年に山陽鉄道が下関まで開通すると徳山は通過駅となり、大きな打撃を受けます。 -
海軍練炭製造所(1905-21)
徳山村初代村長の野村恒造は、山陽鉄道を誘致するだけでなく、初代町長として海軍練炭製造所を誘致し、1905年に創業します。練炭は軍艦の燃料で、近くに大嶺炭鉱を擁して佐世保/呉に近く、水深の深い港、工業用水(東川)を持つことが勝因でした。徳山は、軍都/工業都市へシフトします。 -
写真の練炭は、海軍の刻印(波マーク)が見えます。裏には碇のマークが入っています。
-
民間工場
大阪の岩井商店と、神戸の鈴木商店が徳山に進出し、工業都市へ発展させます。岩井勝次郎は岩井商店の創業者で、後の日商岩井/双日となる総合商社のほかに、様々なグループ企業を設立します。 -
鈴木亜鉛精錬所徳山工場(写真下)
1916年に竣工し、現在の日本金属となります。
日本曹達工業(写真中)
1918年に岩井商店が設立/竣工、現在のトクヤマです。
大阪鐵板製造徳山工場(写真上)
1918年に岩井商店が竣工、日新製鋼を経て現在は日本製鐵です。
第一次世界大戦で輸入が途絶え、ソーダ灰や鉄鋼の国産化が迫られた背景があります。冨田町(旧新南陽市)には、1935年に日本曹達工業を退社した岩瀬徳三郎らが東洋曹達工業(現東ソー)を創立します。周南起業のトクヤマや東ソーは、東証プライム上場の優良企業です。 -
海軍燃料廠(1921-45)
海軍の艦船の燃料は石炭から石油へ変わったのに伴い、練炭製造から重油精製へ変更されます。軍拡と共に燃料需要も高まり、徳山港は横浜港に次ぐ原油輸入港となります。上の写真は、油槽タンクが写り、下の写真では連合艦隊が海を覆います。呉を出港して、徳山で給油するシステムでした。
民間でも、鈴木商店系の帝国石油(昭和シェルを経て現在は出光興産)が1922年に徳山製油所を稼働しています。 -
平面図
山陽本線と瀬戸内海に挟まれたエリアに建ちます。工業用水を取水する東川が構内を流れています。太平洋戦争中は空襲の標的になり、1945年5月10日の空襲では500名以上が死亡、7/26空襲では482名が死亡して市街地の90%が焼失しました。軍都ゆえの代償です。 -
現地の写真
1957年に出光興産最初の製油所として再稼働しました。2014年に石油精製は終えて、燃料基地として機能します。東川沿いの正門前から撮影。 -
燃料廠長官の官舎として1926年に建設されました。
戦後は徳山市長の官舎に。毛利家墓所の麓にあるので、お見逃しなく。周南市市長公舎 名所・史跡
-
徳山港(1922-)
江戸時代から天然の良港でしたが、船舶の近代化に追い付きませんでした。浜崎港や山陽波止場には関徳連絡船等が接岸できず艀を使用していたので、潮の干満や天候の影響を受けました。税関がないので、海外から原材料を積んだ船は、特別輸出入港指定の門司港で輸入手続きをしてから徳山入りしていました。写真は1918年のもので、山陽波止場が見えます。
浚渫と埋立で大型船の接岸を可能にし、特別輸出入港の指定を受けて門司港税関徳山支署を開設し、1922年に徳山港が開港しました。10年で、受入れが3倍に増え、1935年に徳山は市制を施行します。 -
日本精蝋(写真上)
1929年に満州鉄道の子会社として設立、製油所の副産物の粗蝋からパラフィン等を製造。1930年に旭石油(後の昭和シェル石油)徳山製油所を買収して、精蝋工場を建設。現在も日本唯一のワックスメーカーです。
東洋曹達工業(写真下)
冨田町(旧新南陽市)には、1935年に日本曹達工業を退社した岩瀬徳三郎らが設立、現在の東ソー。周南起業のトクヤマや東ソーは、東証プライム上場の優良企業です。
1938年に徳山港は海軍要港に指定され、自由な貿易が叶わなくなり、空襲で大きな被害を受けます。 -
復興と石油化学コンビナート
1948年に下松港を編入して、徳山下松港と一体化され、1970年には光港も編入されます。石油は、下松の塩田跡に開業した日本石油(現ENEOS)下松製油所から供給されましたが、1957年には出光興産徳山製油所も加わります。
出光は石油化学に着目、徳山曹達や東洋曹達は、塩化ナトリウムからソーダ(NaCO3)を抽出して発生(分解)した塩素を利用して石油化学部門進出を考えます。1964年に出光興産は、製油所に隣接してエチレン等製造工場(出光石油化学)を建設し、パイプラインで化学メーカーへ原料を供給します。いわゆる石油化学コンビナートの形成です。
写真は出光製油所を中心としたコンビナート群。手前には、ZEONのロゴも。 -
1965年に周南石油化学および徳山石油化学も操業を始めて、原料供給体制が強化されます。コンビナート各社がパイプラインで結ばれ、密接な需給関係が築かれます。最近は、工場夜景としても観光資源化されます。
日本ゼオン(写真上)
合成ゴムの国産化に成功、量産のために出光の隣に徳山工場を1965年に建設。
日本化学工業(写真下)
クロム製造技術を活かした専門工場として、1976年に徳山工場を建設。 -
周南地区は県内の工業生産の1/3を占めますが、港が果たす役割も大きいです。太平洋から一直線でアクセスでき、徳山/新南陽地区はパナマックスに対応した設備(バース/水深等)、写真で分かるように島が港を囲む天然の防波堤となっています。錦川/冨田川にダムを築いて、工業用水の確保も務めます。
藩政時代の地図と比べると、沿岸部が埋立てられて、島は陸続きになっています。 -
美術博物館には、徳山出身の写真家林忠彦(1918-90)の常設展があります。ほかにも、童謡「ぞうさん」の作詞でも有名なまどみちお常設展もあります。
-
林忠彦で有名なのは、喫茶ルパンで撮影した太宰治ではないでしょうか?
ほかには長州力が徳山出身です。徳山は長州ではなく防州なんですけどね、、、
旧新南陽市は、炎のストッパー津田恒美の出身地です。 -
徳山駅周辺は、例外なくドーナツ化現象です。郊外のショッピングセンターに客を持っていかれました。
再開発で駅ビルは商業施設と図書館等の市の機能がかなり移り、活気が出てきています。 -
徳山駅から港側の景観
埋立が進みます。スオーナダフェリーの桟橋が見えます。現在も、大分/愛媛への航路が健在で、歴史的に交通の要所であることが垣間見えます。
姫路/福山/新山口と並んで同格で、のぞみが毎時1本停車します。
山口県東部の路線バスを網羅する防長交通本社も、徳山です。 -
富海駅
防府市域ですが、徳山藩の飛び地でした。幕末の志士も、ここの港を利用しています。18世紀末に飛船と呼ばれる早船が航行し、大坂まで数日で速達しました。富海は寄港地の一つで、高杉晋作や伊藤博文など幕末の志士も度々お世話になっています。 -
おまけ
フグ=下関というイメージですが、徳山はフグ漁は発祥の地で安価で良質なフグをいただけます。出張/接待族も多いので、良い店が多いです。おすすめは宇佐川水産。鮮味食彩 宇佐川水産 グルメ・レストラン
-
たまらないおいしさです。
-
メイン
-
仕上げ
凄いボリュームです。
次は防府を訪れます↓
https://4travel.jp/travelogue/11924435
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
もっと見る
この旅行で行ったグルメ・レストラン
徳山・周南(山口) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
71