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バルビゾンはフランス中北部にあるフォンテーヌブローの森につながっている農村です。バルビゾンを愛し、バルビゾンで活躍した19世紀中頃の画家たちは「バルビゾン派」と呼ばれます。ミレーやコローはその代表的な画家です。<br />コローはフォンテーヌブローの美しい風景を、ミレーはバルビゾンで働く人々の絵を沢山描いています。国内でミレーのコレクションといえば山梨県立美術館。「種まく人」、「落ち穂拾い、夏」をはじめとするミレーコレクションやバルビゾン派の画家の作品を収蔵し、「ミレーの美術館」として親しまれています。そんな山梨県立美術館のミレーコレクションですが、2020年より正月2日に限り、作品の写真撮影がOKとなっています(正式には、2019年11月20日の県民の日が初回)その他の国内美術館を巡り、2人の作品のうち、写真撮影がOKだったものをアップしていきます。なお、全ての作品が常時展示されているわけではありません。写真撮影ができたものからアップしていきます。

国内のミレー、コローを見に行く

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2025/05/08 - 2025/05/08

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バルビゾンはフランス中北部にあるフォンテーヌブローの森につながっている農村です。バルビゾンを愛し、バルビゾンで活躍した19世紀中頃の画家たちは「バルビゾン派」と呼ばれます。ミレーやコローはその代表的な画家です。
コローはフォンテーヌブローの美しい風景を、ミレーはバルビゾンで働く人々の絵を沢山描いています。国内でミレーのコレクションといえば山梨県立美術館。「種まく人」、「落ち穂拾い、夏」をはじめとするミレーコレクションやバルビゾン派の画家の作品を収蔵し、「ミレーの美術館」として親しまれています。そんな山梨県立美術館のミレーコレクションですが、2020年より正月2日に限り、作品の写真撮影がOKとなっています(正式には、2019年11月20日の県民の日が初回)その他の国内美術館を巡り、2人の作品のうち、写真撮影がOKだったものをアップしていきます。なお、全ての作品が常時展示されているわけではありません。写真撮影ができたものからアップしていきます。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
  • 「種まく人」、「落ち穂拾い、夏」をはじめとするミレーコレクションで有名な山梨県立美術館ですが、年に1回正月2日に限り、作品の写真撮影が2020年よりOKとなっています(正式には、2019年11月20日の県民の日が初回)貴重な展示作品を写真に撮れる滅多にない機会であり、2021~2023年まで3年連続で行ってます。

    「種まく人」、「落ち穂拾い、夏」をはじめとするミレーコレクションで有名な山梨県立美術館ですが、年に1回正月2日に限り、作品の写真撮影が2020年よりOKとなっています(正式には、2019年11月20日の県民の日が初回)貴重な展示作品を写真に撮れる滅多にない機会であり、2021~2023年まで3年連続で行ってます。

    山梨県立美術館 美術館・博物館

  • ジャン=フランソワ・ミレー「ポーリーヌ・V・オノの肖像」 1841-42年頃<br />本作品は、ミレ初期の肖像画でモデルは、最初の結婚相手であるポーリーヌ=ヴェルジニ・オノ。ミレーは、結婚する5年前のあたりからポーリーヌをモデルにして作品を制作し始めています。本作では落ち着いた柔らかい表情だが、他の作品では緊張して堅い顔なども残っており、当時の彼女との距離感やモデルの心境などをリアルに投影しています。本作の斜に構えた姿勢から顔だけを画面に傾ける姿は、ダヴィンチの『モナリザ』と似る部分があり、ミレー版のモナリザと評されることもあります。

    イチオシ

    ジャン=フランソワ・ミレー「ポーリーヌ・V・オノの肖像」 1841-42年頃
    本作品は、ミレ初期の肖像画でモデルは、最初の結婚相手であるポーリーヌ=ヴェルジニ・オノ。ミレーは、結婚する5年前のあたりからポーリーヌをモデルにして作品を制作し始めています。本作では落ち着いた柔らかい表情だが、他の作品では緊張して堅い顔なども残っており、当時の彼女との距離感やモデルの心境などをリアルに投影しています。本作の斜に構えた姿勢から顔だけを画面に傾ける姿は、ダヴィンチの『モナリザ』と似る部分があり、ミレー版のモナリザと評されることもあります。

  • ジャン=フランソワ・ミレー「眠れるお針子」 1844-45年<br />1845年にミレーは、シェルブールで家政婦をしていたカトリーヌ・ルメール(1827-1894)と出会い、ともに暮らすようになります。以後30年、カトリーヌはミレーの良き伴侶となり、9人の子どもを育てました。本作品のモデルはカトリーヌとされます。この頃のミレーは、裸婦や可愛らしい女性をあらわした小品を多く制作していました。「裁縫をする女性」という画題はミレーが晩年まで好んで繰り返し描き続けたもののひとつ。裁縫の途中で眠りに落ちてしまった女性の右手中指にはめられた指ぬきや背後に置かれた静物など、細部まで表現されています。

    ジャン=フランソワ・ミレー「眠れるお針子」 1844-45年
    1845年にミレーは、シェルブールで家政婦をしていたカトリーヌ・ルメール(1827-1894)と出会い、ともに暮らすようになります。以後30年、カトリーヌはミレーの良き伴侶となり、9人の子どもを育てました。本作品のモデルはカトリーヌとされます。この頃のミレーは、裸婦や可愛らしい女性をあらわした小品を多く制作していました。「裁縫をする女性」という画題はミレーが晩年まで好んで繰り返し描き続けたもののひとつ。裁縫の途中で眠りに落ちてしまった女性の右手中指にはめられた指ぬきや背後に置かれた静物など、細部まで表現されています。

  • ジャン=フランソワ・ミレー 「ダフニスとクロエ」 1845年頃<br />農民画を描いたことで有名なミレーだが、彼は物語にもとづく作品も制作しています。本作品は、古代ギリシャの詩人ロンゴスによる牧歌的な恋愛小説『ダフニスとクロエ』の一場面を描いたものです。少年ダフニスと少女クロエは、ともに幼い頃にエーゲ海に浮かぶレスボス島に棄てられ、心優しい牧人たちに育てられました。その後、成長するにつれて二人は互いに愛し合うようになり、やがて結ばれることになります。本作品では二人は幼い子どもとして表現されています。ダフニスは森の中で横笛を吹いており、クロエは彼にもたれかかりながら釣り竿をたれています。

    ジャン=フランソワ・ミレー 「ダフニスとクロエ」 1845年頃
    農民画を描いたことで有名なミレーだが、彼は物語にもとづく作品も制作しています。本作品は、古代ギリシャの詩人ロンゴスによる牧歌的な恋愛小説『ダフニスとクロエ』の一場面を描いたものです。少年ダフニスと少女クロエは、ともに幼い頃にエーゲ海に浮かぶレスボス島に棄てられ、心優しい牧人たちに育てられました。その後、成長するにつれて二人は互いに愛し合うようになり、やがて結ばれることになります。本作品では二人は幼い子どもとして表現されています。ダフニスは森の中で横笛を吹いており、クロエは彼にもたれかかりながら釣り竿をたれています。

  • ジャン=フランソワ・ミレー 「種をまく人」 1850年<br />本作品は、パリを離れてバルビゾン村に移り住んだミレーがはじめて手がけた大作。「種をまく人」という画題は、パリにいた頃からミレーの興味をひいていました。画面を占めているのは、左手で種の入った袋を握り、坂を下りながら右手で種をまく農民の堂々とした姿です。しかしミレーの絵は、当時の人たちが見慣れていた農民の姿とは、あまりにも違っていました。そのため、この作品がパリのサロンに出品されたとき、農民の力強い姿を称賛する人もいましたが、保守的な人たちはこの絵を非難し、種をまく人を体制に異議申し立てをしている姿とみなしました。

    ジャン=フランソワ・ミレー 「種をまく人」 1850年
    本作品は、パリを離れてバルビゾン村に移り住んだミレーがはじめて手がけた大作。「種をまく人」という画題は、パリにいた頃からミレーの興味をひいていました。画面を占めているのは、左手で種の入った袋を握り、坂を下りながら右手で種をまく農民の堂々とした姿です。しかしミレーの絵は、当時の人たちが見慣れていた農民の姿とは、あまりにも違っていました。そのため、この作品がパリのサロンに出品されたとき、農民の力強い姿を称賛する人もいましたが、保守的な人たちはこの絵を非難し、種をまく人を体制に異議申し立てをしている姿とみなしました。

  • ジャン=フランソワ・ミレー 「落ち穂拾い、夏」 1853年<br />ミレーは生涯に3度、四季連作を制作しており、《落ち穂拾い、夏》は最初の連作の「夏」にあたります。一般的にフランスでは小麦などの穀物の収穫は7月から8月にかけて行われます。そして収穫の際、刈った穀物を全て取り入れるのではなく、畑を持たない貧しい人びとのために、穂を地面に残しておく習慣がありました。バルビゾンに移り住んだミレーは、聖書に登場する落ち穂拾いの行為をみて驚くと同時に、深く感銘を受けたとされます。収穫された穀物の大きな山を背景に描いているものの、ミレーは、落ち穂を拾う貧しい女性たちを主役に据えています。「落穂拾い」は1857年にサロン・ド・パリに出展され、現在はパリのオルセー美術館が所蔵しています。この作品とほぼ同じ構図で1853年に描かれた「落ち穂拾い、夏」は、伝統的な季節ごとの農作業を描いた連作『四季』の1枚です。

    イチオシ

    ジャン=フランソワ・ミレー 「落ち穂拾い、夏」 1853年
    ミレーは生涯に3度、四季連作を制作しており、《落ち穂拾い、夏》は最初の連作の「夏」にあたります。一般的にフランスでは小麦などの穀物の収穫は7月から8月にかけて行われます。そして収穫の際、刈った穀物を全て取り入れるのではなく、畑を持たない貧しい人びとのために、穂を地面に残しておく習慣がありました。バルビゾンに移り住んだミレーは、聖書に登場する落ち穂拾いの行為をみて驚くと同時に、深く感銘を受けたとされます。収穫された穀物の大きな山を背景に描いているものの、ミレーは、落ち穂を拾う貧しい女性たちを主役に据えています。「落穂拾い」は1857年にサロン・ド・パリに出展され、現在はパリのオルセー美術館が所蔵しています。この作品とほぼ同じ構図で1853年に描かれた「落ち穂拾い、夏」は、伝統的な季節ごとの農作業を描いた連作『四季』の1枚です。

  • ジャン=フランソワ・ミレー 「角笛を吹く牛飼い」 制作年不詳<br />一日の終わりを迎え、牧人が牛の群れを笛の音で呼び寄せています。パリ郊外、フォンテーヌブローの森で見られる、大きな岩が散在する地形の中、牛たちがゆっくりと帰路を歩んでいます。制作年は不詳ですが、ミレーの作品の中で、自然の表現が豊かになっていった1850年代中頃以降の作品ではないかと推測されています。本作品では、夕暮れ時の大気の微妙な表現を描き出すことが関心事となっており、美しい色彩表現が用いられています。ミレーは本作品とほぼ同じ構図の作品に度々取り組み、1866年頃にはパステル画、晩年となる1872年にはより大きなサイズの油彩画を制作しています。

    ジャン=フランソワ・ミレー 「角笛を吹く牛飼い」 制作年不詳
    一日の終わりを迎え、牧人が牛の群れを笛の音で呼び寄せています。パリ郊外、フォンテーヌブローの森で見られる、大きな岩が散在する地形の中、牛たちがゆっくりと帰路を歩んでいます。制作年は不詳ですが、ミレーの作品の中で、自然の表現が豊かになっていった1850年代中頃以降の作品ではないかと推測されています。本作品では、夕暮れ時の大気の微妙な表現を描き出すことが関心事となっており、美しい色彩表現が用いられています。ミレーは本作品とほぼ同じ構図の作品に度々取り組み、1866年頃にはパステル画、晩年となる1872年にはより大きなサイズの油彩画を制作しています。

  • ジャン=フランソワ・ミレー 「鶏に餌をやる女」 1853-56年頃<br />農家の夫婦の日常生活のひとこまが描かれた、ミレーらしい作品です。<br />農家の戸口で、女性が鶏たちに餌をやっています。餌を食べている鶏、食べ損ねないように走って来る鶏、餌に気づかないでボーっとしている鶏など、それぞれ個性的な鶏の様子が描かれています。

    ジャン=フランソワ・ミレー 「鶏に餌をやる女」 1853-56年頃
    農家の夫婦の日常生活のひとこまが描かれた、ミレーらしい作品です。
    農家の戸口で、女性が鶏たちに餌をやっています。餌を食べている鶏、食べ損ねないように走って来る鶏、餌に気づかないでボーっとしている鶏など、それぞれ個性的な鶏の様子が描かれています。

  • ジャン=フランソワ・ミレー 「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」 1857-60年<br />ミレーは、1850年代から1860年代にかけて、「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」という画題を好んで描いていました。帽子をかぶった羊飼いは、寒さに耐えるかのように、厚手のマントの前をかき合わせています。従順な羊たちは、ひとつのかたまりとなって、羊飼いに続いています。牧羊犬を連れて羊の放牧をする羊飼いは、杖を持ち、マントをまとった姿で描かれます。羊飼いは、農民から距離を置かれた存在だったが、聖書の中では「聖なる賢者」として描かれていました。さまざまな知恵を有している人とされていたため、旅人が道を尋ねることもありました。

    ジャン=フランソワ・ミレー 「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」 1857-60年
    ミレーは、1850年代から1860年代にかけて、「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」という画題を好んで描いていました。帽子をかぶった羊飼いは、寒さに耐えるかのように、厚手のマントの前をかき合わせています。従順な羊たちは、ひとつのかたまりとなって、羊飼いに続いています。牧羊犬を連れて羊の放牧をする羊飼いは、杖を持ち、マントをまとった姿で描かれます。羊飼いは、農民から距離を置かれた存在だったが、聖書の中では「聖なる賢者」として描かれていました。さまざまな知恵を有している人とされていたため、旅人が道を尋ねることもありました。

  • ジャン=フランソワ・ミレー「古い塀」 1862年頃<br />ミレーが風景を描き始めた1862年頃の作品。バルビゾン村とフォンテーヌブローの森を区切る古びた塀と、そこから顔を覗かせる鹿が描かれています。塀の奥には、鬱蒼と茂る森が広がり、野生の鹿がこちらの様子をうかがっています。手前の平原には、明るい陽が射し、タンポポやカエルの生き生きとした様子と好対照をなしています。

    ジャン=フランソワ・ミレー「古い塀」 1862年頃
    ミレーが風景を描き始めた1862年頃の作品。バルビゾン村とフォンテーヌブローの森を区切る古びた塀と、そこから顔を覗かせる鹿が描かれています。塀の奥には、鬱蒼と茂る森が広がり、野生の鹿がこちらの様子をうかがっています。手前の平原には、明るい陽が射し、タンポポやカエルの生き生きとした様子と好対照をなしています。

  • ジャン=フランソワ・ミレー 「グレヴィルのグレヴィルの断崖」 1870年<br />1870年7月にフランスとプロシア(現在のドイツ)とのあいだの戦争が勃発しました。この普仏戦争の戦火を避けるため、同年8月に家族とともにバルビゾンを離れたミレーは、フランス北西部ノルマンディー地方の港町シェルブールに向かい、同地に半年ほど滞在しました。本作品はその滞在の折に制作したものです。グレヴィルは、シェルブールにほど近いところにある海沿いの村。崖の下に広がっているのは英仏海峡です。友人で伝記作家のアルフレッド・サンシエに宛てた手紙から、9月から10月にかけて描かれたことが分かっています。

    ジャン=フランソワ・ミレー 「グレヴィルのグレヴィルの断崖」 1870年
    1870年7月にフランスとプロシア(現在のドイツ)とのあいだの戦争が勃発しました。この普仏戦争の戦火を避けるため、同年8月に家族とともにバルビゾンを離れたミレーは、フランス北西部ノルマンディー地方の港町シェルブールに向かい、同地に半年ほど滞在しました。本作品はその滞在の折に制作したものです。グレヴィルは、シェルブールにほど近いところにある海沿いの村。崖の下に広がっているのは英仏海峡です。友人で伝記作家のアルフレッド・サンシエに宛てた手紙から、9月から10月にかけて描かれたことが分かっています。

  • ジャン=フランソワ・ミレー「種をまく人」 1851年 リトグラフ<br />銀座の飯田画廊の社長、飯田祐三氏からの寄贈です。この飯田画廊の仲介で山梨県立美術館は、ニューヨークのオークションにおいて「種をまく人」などを入手しています。

    ジャン=フランソワ・ミレー「種をまく人」 1851年 リトグラフ
    銀座の飯田画廊の社長、飯田祐三氏からの寄贈です。この飯田画廊の仲介で山梨県立美術館は、ニューヨークのオークションにおいて「種をまく人」などを入手しています。

  • ジャン=フランソワ・ミレー「耕す人」 1855-56年 エッチング<br /><br />

    ジャン=フランソワ・ミレー「耕す人」 1855-56年 エッチング

  • ジャン=フランソワ・ミレー 「無原罪の聖母」 1858年<br />1857年4月にローマの鉄道省は、255代ローマ教皇として30年以上在位したカトリック教会司祭ピウス9世のお召列車の礼拝堂を飾る聖母マリア像の制作をミレーに依頼しました。ローマ法王庁から与えられたテーマは「無原罪の聖母」 でしたが、農民の娘のような素朴な雰囲気のマリア像は、崇高で美しいマリア像を所望した法王の御意には沿わず、この絵の受け取りを拒否したとされています。

    ジャン=フランソワ・ミレー 「無原罪の聖母」 1858年
    1857年4月にローマの鉄道省は、255代ローマ教皇として30年以上在位したカトリック教会司祭ピウス9世のお召列車の礼拝堂を飾る聖母マリア像の制作をミレーに依頼しました。ローマ法王庁から与えられたテーマは「無原罪の聖母」 でしたが、農民の娘のような素朴な雰囲気のマリア像は、崇高で美しいマリア像を所望した法王の御意には沿わず、この絵の受け取りを拒否したとされています。

  • ジャン=フランソワ・ミレー 「冬(凍えたキューピッド)」 1864-65年<br />ミレーが手がけた二番目の四季連作のうちの「冬」にあたり、パリに新築する銀行家トマ邸の食堂装飾のために制作されました。春は《ダフニスとクロエ》(国立西洋美術館蔵)、夏は豊穣の女神《ケレス》(ボルドー美術館蔵)、秋は天井画(焼失)となります。本作品は、古代ギリシャの詩人アナクレオンの詩から着想を得ています。寒さに凍えながら雪の中を歩いてきたキューピッドが、暖かな部屋から出てきた女性と老人に助けてもらっている場面です。変形カンヴァスを用いているが、それは、食堂の暖炉の上に飾ることを目的としていたためです。

    ジャン=フランソワ・ミレー 「冬(凍えたキューピッド)」 1864-65年
    ミレーが手がけた二番目の四季連作のうちの「冬」にあたり、パリに新築する銀行家トマ邸の食堂装飾のために制作されました。春は《ダフニスとクロエ》(国立西洋美術館蔵)、夏は豊穣の女神《ケレス》(ボルドー美術館蔵)、秋は天井画(焼失)となります。本作品は、古代ギリシャの詩人アナクレオンの詩から着想を得ています。寒さに凍えながら雪の中を歩いてきたキューピッドが、暖かな部屋から出てきた女性と老人に助けてもらっている場面です。変形カンヴァスを用いているが、それは、食堂の暖炉の上に飾ることを目的としていたためです。

  • こちらが国立西洋美術館蔵の「春(ダフニスとクロエ)」1865年<br />『ダフニスとクロエ』は、古代ギリシャの詩人ロンゴスが書いたとされる恋愛物語です。幼くして捨てられ、牧人に育てられたダフニスとクロエの成長と愛の成就が語られています。ミレーは「春」のテーマに幼い愛の芽生えをとりあげ、柔らかい色調と筆遣いで無垢な二人と牧歌的な光景を描いています。

    こちらが国立西洋美術館蔵の「春(ダフニスとクロエ)」1865年
    『ダフニスとクロエ』は、古代ギリシャの詩人ロンゴスが書いたとされる恋愛物語です。幼くして捨てられ、牧人に育てられたダフニスとクロエの成長と愛の成就が語られています。ミレーは「春」のテーマに幼い愛の芽生えをとりあげ、柔らかい色調と筆遣いで無垢な二人と牧歌的な光景を描いています。

    国立西洋美術館 美術館・博物館

  • ジャン=バティスト=カミーユ・コロー 「大農園」 1860-65年頃<br />ジャン=バティスト=カミーユ・コローは、パリの裕福なラシャ商の家庭に生まれ、同地で歿します。家族の反対もあり、画業に専念できるようになるのは26歳のときでした。古典主義の風景画家ミシャロンとベルタンに学び、1827年にサロン(官展)に初入選を果たす。三度にわたるイタリア旅行の他、フォンテーヌブローの森をはじめ、フランス各地を旅行し制作をおこないました。1850年頃からは、銀灰色を基調とした詩情あふれる作品を描いて人気を得ました。1855年のパリ万国博覧会で大賞を受賞し、名実ともに評価を確立しました。

    ジャン=バティスト=カミーユ・コロー 「大農園」 1860-65年頃
    ジャン=バティスト=カミーユ・コローは、パリの裕福なラシャ商の家庭に生まれ、同地で歿します。家族の反対もあり、画業に専念できるようになるのは26歳のときでした。古典主義の風景画家ミシャロンとベルタンに学び、1827年にサロン(官展)に初入選を果たす。三度にわたるイタリア旅行の他、フォンテーヌブローの森をはじめ、フランス各地を旅行し制作をおこないました。1850年頃からは、銀灰色を基調とした詩情あふれる作品を描いて人気を得ました。1855年のパリ万国博覧会で大賞を受賞し、名実ともに評価を確立しました。

  • ジャン=バティスト=カミーユ・コロー「ナポリの浜の思い出 」1870-72年 国立西洋美術館

    ジャン=バティスト=カミーユ・コロー「ナポリの浜の思い出 」1870-72年 国立西洋美術館

  • 八王子にある東京富士美術館。約30000点あるというコレクションの中には、ミレー、コローなどのバルビゾン派のコレクションもあります

    八王子にある東京富士美術館。約30000点あるというコレクションの中には、ミレー、コローなどのバルビゾン派のコレクションもあります

    東京富士美術館 美術館・博物館

  • ジャン=フランソワ・ミレー「男の肖像」1840-41年頃 東京富士美術館<br />1841年秋、最初の妻ポーリーヌ・ヴィルジニー・オノと結婚。二人はパリに出て新出発を期しますが、その成功はおぼつかないものでした。 このような時期に描かれたと推測されるこの肖像画は、鼻の下と顎にかすかに薄い髭を生やした長髪の男性を、限られた色数と簡潔なタッチで、冷徹にして虚飾のない表現で描き出している。同じ頃に制作された肖像画で良く知られたものに《自画像》(1841年、シェルブール、トマ・アンリ美術館蔵)があり、その作風は本作と良く似た特徴を示しています。画面左下に大きな文字で記された署名は《ウィトル氏の肖像》(1845年、日本・個人蔵)にあるのと同じタイプのもので、はっきりと力強く書かれた筆跡には、まだ初々しさが感じられます。後にバルビゾン派を代表する農民画家として有名となるミレーの最初期の肖像画の一つです。<br /><br />ジョン・シンガー・サージェント「ハロルド・ウィルソン夫人」1897年&lt;br /&gt;サージェントは洗練されたスタイルと性格描写をもって、アメリカやイギリスの上流階級の人々のポートレートを描き続けました。モデルの女性は当時、女性のための実用服として定着しつつあった「ブラウス」に紫色のベルト、そして簡素なスカートを履き、上着として毛皮のあしらわれたケープを羽織っています。19世紀末にはアール・ヌーヴォーが流行し、コルセット を使用し、腰の部分を締めつつ、自然な曲線を意識したフォルムが愛好されました。サージェントはクロード・モネとも親交をもち、印象主義をよく理解していた画家でもありますが、本作のように静的でアカデミックな要素の強い絵画を主としました。

    ジャン=フランソワ・ミレー「男の肖像」1840-41年頃 東京富士美術館
    1841年秋、最初の妻ポーリーヌ・ヴィルジニー・オノと結婚。二人はパリに出て新出発を期しますが、その成功はおぼつかないものでした。 このような時期に描かれたと推測されるこの肖像画は、鼻の下と顎にかすかに薄い髭を生やした長髪の男性を、限られた色数と簡潔なタッチで、冷徹にして虚飾のない表現で描き出している。同じ頃に制作された肖像画で良く知られたものに《自画像》(1841年、シェルブール、トマ・アンリ美術館蔵)があり、その作風は本作と良く似た特徴を示しています。画面左下に大きな文字で記された署名は《ウィトル氏の肖像》(1845年、日本・個人蔵)にあるのと同じタイプのもので、はっきりと力強く書かれた筆跡には、まだ初々しさが感じられます。後にバルビゾン派を代表する農民画家として有名となるミレーの最初期の肖像画の一つです。

    ジョン・シンガー・サージェント「ハロルド・ウィルソン夫人」1897年<br />サージェントは洗練されたスタイルと性格描写をもって、アメリカやイギリスの上流階級の人々のポートレートを描き続けました。モデルの女性は当時、女性のための実用服として定着しつつあった「ブラウス」に紫色のベルト、そして簡素なスカートを履き、上着として毛皮のあしらわれたケープを羽織っています。19世紀末にはアール・ヌーヴォーが流行し、コルセット を使用し、腰の部分を締めつつ、自然な曲線を意識したフォルムが愛好されました。サージェントはクロード・モネとも親交をもち、印象主義をよく理解していた画家でもありますが、本作のように静的でアカデミックな要素の強い絵画を主としました。

  • ジャン=フランソワ・ミレー「鵞鳥番の少女」1866-67年 東京富士美術館<br />1849年春にパリからバルビゾン村に移り住んだミレーは、1867年のサロンに本作と同じ題名の《鵞鳥番の少女》という作品を出品しました。同年に友人のサンスィエに宛てた手紙で彼は、この出品作について「私は鵞鳥の鳴声が画面一杯に響き渡るように描きたい。ああ、生命よ!みんな一緒の生命よ!」と記しています。 本作は友人サンスィエの旧蔵品で、前出のサロン出品作と同時期に同じ場所で描かれたものらしく、「鵞鳥の番をする少女」をテーマにしたシリーズの中核をなす作品。下描きの線が透けるほど油絵具を薄く塗り、まるで水彩画のような効果で夏の日ざしに照らされた水辺の雰囲気をよく表しています。 この鵞鳥番の少女というテーマは、大人の労働を描いたミレーの宗教的ともいえる作品群とは趣きを異にし、純粋に牧歌的な世界を表しています。農民生活と自然環境の調和を見事に描いた本作は、円熟したミレー晩年の傑作です。

    ジャン=フランソワ・ミレー「鵞鳥番の少女」1866-67年 東京富士美術館
    1849年春にパリからバルビゾン村に移り住んだミレーは、1867年のサロンに本作と同じ題名の《鵞鳥番の少女》という作品を出品しました。同年に友人のサンスィエに宛てた手紙で彼は、この出品作について「私は鵞鳥の鳴声が画面一杯に響き渡るように描きたい。ああ、生命よ!みんな一緒の生命よ!」と記しています。 本作は友人サンスィエの旧蔵品で、前出のサロン出品作と同時期に同じ場所で描かれたものらしく、「鵞鳥の番をする少女」をテーマにしたシリーズの中核をなす作品。下描きの線が透けるほど油絵具を薄く塗り、まるで水彩画のような効果で夏の日ざしに照らされた水辺の雰囲気をよく表しています。 この鵞鳥番の少女というテーマは、大人の労働を描いたミレーの宗教的ともいえる作品群とは趣きを異にし、純粋に牧歌的な世界を表しています。農民生活と自然環境の調和を見事に描いた本作は、円熟したミレー晩年の傑作です。

  • ジャン=バティスト・カミーユ・コロー「ユディト」1872-74年頃 東京富士美術館<br />19世紀風景画家の最高峰、コロー。とりわけ光のとらえ方は、印象派への道を開くものとなりました。風景画の傑作を多数生みだした彼は、晩年の15年間、人物画を描くようになります。初期は家族・友人など身近な人物を肖像画風に描きましたが、やがて、静かに夢想し、詩的な雰囲気の漂う人物を描きます。ユディトは、ユダヤ民族の愛国の女傑。西洋絵画の主要モチーフの一つで、この「ユディト」にはそうしたコローの作風がよく表されています。

    ジャン=バティスト・カミーユ・コロー「ユディト」1872-74年頃 東京富士美術館
    19世紀風景画家の最高峰、コロー。とりわけ光のとらえ方は、印象派への道を開くものとなりました。風景画の傑作を多数生みだした彼は、晩年の15年間、人物画を描くようになります。初期は家族・友人など身近な人物を肖像画風に描きましたが、やがて、静かに夢想し、詩的な雰囲気の漂う人物を描きます。ユディトは、ユダヤ民族の愛国の女傑。西洋絵画の主要モチーフの一つで、この「ユディト」にはそうしたコローの作風がよく表されています。

  • ジャン=バティスト・カミーユ・コロー「もの思い」1865-70年頃 東京富士美術館<br />うつむいた少女のほぼ全身を左斜め前方から捉えた本作の構図は、ウィンタートゥールのオスカー・ラインハルト・コレクションにある《読書する羊飼いの少女》(1855ー65年頃)に大変良く似ています。しかし、全体に漂う詩的で瞑想的な雰囲気は、本作の方においてより深まりを見せている。 コローはここで、モデルの背後に、数本の黒褐色の細い線と2つの小さな黄土色のタッチを描き加えています。コローの風景画を知る者にとって、この記号のような微かな線とタッチが何を意味するかは一目瞭然です。樹木の幹か枝か、その梢の向こう側に望まれるのは古城か、周囲の空気を震わすかのような「森の生命」です。これこそ彼が最も得意としたライト・モティーフであり、生涯に幾度となく描き続けた形態でした。瞑想的な人間像として描かれる〈メランコリア〉(憂鬱質)は、芸術家そのものを意味することから、本作は「芸術の象徴」として描かれた寓意像とも解釈することができます。

    ジャン=バティスト・カミーユ・コロー「もの思い」1865-70年頃 東京富士美術館
    うつむいた少女のほぼ全身を左斜め前方から捉えた本作の構図は、ウィンタートゥールのオスカー・ラインハルト・コレクションにある《読書する羊飼いの少女》(1855ー65年頃)に大変良く似ています。しかし、全体に漂う詩的で瞑想的な雰囲気は、本作の方においてより深まりを見せている。 コローはここで、モデルの背後に、数本の黒褐色の細い線と2つの小さな黄土色のタッチを描き加えています。コローの風景画を知る者にとって、この記号のような微かな線とタッチが何を意味するかは一目瞭然です。樹木の幹か枝か、その梢の向こう側に望まれるのは古城か、周囲の空気を震わすかのような「森の生命」です。これこそ彼が最も得意としたライト・モティーフであり、生涯に幾度となく描き続けた形態でした。瞑想的な人間像として描かれる〈メランコリア〉(憂鬱質)は、芸術家そのものを意味することから、本作は「芸術の象徴」として描かれた寓意像とも解釈することができます。

  • ジャン=バティスト=カミーユ・コロー「森のなかの少女」1865-70年 ポーラ美術館

    ジャン=バティスト=カミーユ・コロー「森のなかの少女」1865-70年 ポーラ美術館

    ポーラ美術館 美術館・博物館

  • 地元の静岡県立美術館。バルビゾン派の作品も収蔵しています。

    地元の静岡県立美術館。バルビゾン派の作品も収蔵しています。

    静岡県立美術館 美術館・博物館

  • ジャン=フランソワ・ミレー「バルビゾン近郊の羊飼いと羊たち」1865-68年頃

    ジャン=フランソワ・ミレー「バルビゾン近郊の羊飼いと羊たち」1865-68年頃

  • ジャン=バティスト=カミーユ・コロー「メリ街道、ラ・フェルテ=ス=ジュアール付近」1862年<br />メリはパリの東方60キロほどのところにあるセーヌ・エ・マルヌ県の小村です。コローは1862年以来、何度かここで制作しています。本作が発表された1863年は、厳しすぎるサロン審査への抗議が強まり、これに対応して落選者展が開催された年にあたります。コローはこのときの厳しい審査にも関わらず、本作と合わせ、サロンに2点出品しています。それでも小品であることから、審査員からは習作とみなされ、必ずしもよい評価を受けませんでした。しかし一般の美術愛好家には好まれ、購入の申し出が重なったため、コローは本作と同構図の作品をもう1点制作しています。 街道沿いの家や樹木、道を歩く人物に見られる秩序立って落ち着いた構成は、コローの初期風景画の特徴です。一方、風に揺れる銀灰色の落群は、詩情豊かな風景画として人気を博することになる後期の風景表現を窺わせます。光や大気のうつろいを巧みに捉え、農村の日常生活を描いた本作のような風景画は、バルビゾン派からさらに印象派の画家たちに継承されていきます。

    ジャン=バティスト=カミーユ・コロー「メリ街道、ラ・フェルテ=ス=ジュアール付近」1862年
    メリはパリの東方60キロほどのところにあるセーヌ・エ・マルヌ県の小村です。コローは1862年以来、何度かここで制作しています。本作が発表された1863年は、厳しすぎるサロン審査への抗議が強まり、これに対応して落選者展が開催された年にあたります。コローはこのときの厳しい審査にも関わらず、本作と合わせ、サロンに2点出品しています。それでも小品であることから、審査員からは習作とみなされ、必ずしもよい評価を受けませんでした。しかし一般の美術愛好家には好まれ、購入の申し出が重なったため、コローは本作と同構図の作品をもう1点制作しています。 街道沿いの家や樹木、道を歩く人物に見られる秩序立って落ち着いた構成は、コローの初期風景画の特徴です。一方、風に揺れる銀灰色の落群は、詩情豊かな風景画として人気を博することになる後期の風景表現を窺わせます。光や大気のうつろいを巧みに捉え、農村の日常生活を描いた本作のような風景画は、バルビゾン派からさらに印象派の画家たちに継承されていきます。

  • 緑に囲まれた広島市中央公園の一角に位置するひろしま美術館は、1978年に広島銀行の創業100周年を記念して設立しました。

    緑に囲まれた広島市中央公園の一角に位置するひろしま美術館は、1978年に広島銀行の創業100周年を記念して設立しました。

    ひろしま美術館 美術館・博物館

  • ジャン=フランソワ・ミレー「羊の毛刈り」1862年<br />羊の毛刈りは夏の到来を象徴する主題で、古くから描かれてきており、ミレーも何度かこの主題に取り組んでいます。

    ジャン=フランソワ・ミレー「羊の毛刈り」1862年
    羊の毛刈りは夏の到来を象徴する主題で、古くから描かれてきており、ミレーも何度かこの主題に取り組んでいます。

  • カミーユ・コロー「花の輪を持つ野の女」1869年頃<br />1850年以降、コローの絵画にはギリシャ風やオリエント風、あるいはイタリア風の衣装をモデルにつけさせた全身像や半身の人物画が頻繁に登場するようになります。本作におけるイタリアの若い農婦の衣装を着た女性は、ルネサンス風の端正な肖像画を思わせ、コローの古典主義への傾倒とイタリアへの変わらぬ憧憬をうかがわせます

    イチオシ

    カミーユ・コロー「花の輪を持つ野の女」1869年頃
    1850年以降、コローの絵画にはギリシャ風やオリエント風、あるいはイタリア風の衣装をモデルにつけさせた全身像や半身の人物画が頻繁に登場するようになります。本作におけるイタリアの若い農婦の衣装を着た女性は、ルネサンス風の端正な肖像画を思わせ、コローの古典主義への傾倒とイタリアへの変わらぬ憧憬をうかがわせます

  • カミーユ・コロー「ボロメ諸島の浴女たち」1872年頃<br />コローが憧れの地イタリアを初めて訪れたのは1825年のことでしたが、この作品は半世紀も後に描かれたものです。ボロメ諸島とは、北イタリアの景勝地マジョーレ湖に浮かぶ島々だそうです。

    カミーユ・コロー「ボロメ諸島の浴女たち」1872年頃
    コローが憧れの地イタリアを初めて訪れたのは1825年のことでしたが、この作品は半世紀も後に描かれたものです。ボロメ諸島とは、北イタリアの景勝地マジョーレ湖に浮かぶ島々だそうです。

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