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印象派を代表するモネは、日本でもとくに人気の高い画家のひとりです。国内の西洋絵画を所蔵する主要な美術館には必ずといってよいほどモネの作品が収蔵、展示されており、その総数は、100点を優に超えると言われています。充実したコレクションを擁しているのは、国立西洋美術館(東京・上野)とポーラ美術館(神奈川・箱根)ですが、その他の各地の県立美術館等へもモネの作品を見に行っています。写真撮影がOKだったものをアップしていきます。なお、全ての作品が常時展示されているわけではありません。写真撮影ができたものからアップしていきます。

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2024/03/01 - 2024/03/01

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印象派を代表するモネは、日本でもとくに人気の高い画家のひとりです。国内の西洋絵画を所蔵する主要な美術館には必ずといってよいほどモネの作品が収蔵、展示されており、その総数は、100点を優に超えると言われています。充実したコレクションを擁しているのは、国立西洋美術館(東京・上野)とポーラ美術館(神奈川・箱根)ですが、その他の各地の県立美術館等へもモネの作品を見に行っています。写真撮影がOKだったものをアップしていきます。なお、全ての作品が常時展示されているわけではありません。写真撮影ができたものからアップしていきます。

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  • 国立西洋美術館は、1959年(昭和34年)に発足・開館した、西洋美術全般を対象とする美術館としては日本で唯一の国立美術館です。実業家松方幸次郎が20世紀初めにヨーロッパで収集した印象派などの19世紀から20世紀前半の絵画・彫刻を中心とする松方コレクションがコレクションの基礎となっています。松方は作品購入を目的として、クロード・モネを訪ねています。少なくとも二度は訪れ、計34枚の絵画を買ったとされています。

    国立西洋美術館は、1959年(昭和34年)に発足・開館した、西洋美術全般を対象とする美術館としては日本で唯一の国立美術館です。実業家松方幸次郎が20世紀初めにヨーロッパで収集した印象派などの19世紀から20世紀前半の絵画・彫刻を中心とする松方コレクションがコレクションの基礎となっています。松方は作品購入を目的として、クロード・モネを訪ねています。少なくとも二度は訪れ、計34枚の絵画を買ったとされています。

    国立西洋美術館 美術館・博物館

  • 「並木道(サン=シメオン農場の道)」1864年 国立西洋美術館<br />オンフルールとトルーヴィルとを結ぶ街道筋にあるサン=シメオン農場の付近を描いたこの作品は、現存する数少ないモネの初期作品の一つ。

    「並木道(サン=シメオン農場の道)」1864年 国立西洋美術館
    オンフルールとトルーヴィルとを結ぶ街道筋にあるサン=シメオン農場の付近を描いたこの作品は、現存する数少ないモネの初期作品の一つ。

  • 「雪のアルジャントゥイユ」1875年 国立西洋美術館<br />1875年の冬に描かれたこの絵に表わされているのは、まだ整備されて間もない新市街のサン=ドニ大通りと鉄道の駅舎です。 モネは、戸外で絵を描く方法を採り始めてからすぐ雪景色を描いています。他の仲間の画家たちがあまり関心を示さなかったこの題材に対して、モネは積極的に取り組み、白い雪の上に戯れる繊細な光の効果を追求しました。

    「雪のアルジャントゥイユ」1875年 国立西洋美術館
    1875年の冬に描かれたこの絵に表わされているのは、まだ整備されて間もない新市街のサン=ドニ大通りと鉄道の駅舎です。 モネは、戸外で絵を描く方法を採り始めてからすぐ雪景色を描いています。他の仲間の画家たちがあまり関心を示さなかったこの題材に対して、モネは積極的に取り組み、白い雪の上に戯れる繊細な光の効果を追求しました。

  • 「ラ・ロシュ=ギュイヨンの道」1880年 国立西洋美術館<br />1878年の冬、モネはアルジャントゥイユから、更にセーヌを下った寒村、ヴェトゥイユへ居を移した。この地で過ごした4年間は、妻カミーユを失い(1879年)、破産した友人のエルンスト・オシュデ一家を養わねばならず、モネにとって最も苦しい日々であったと想像されます。この作品に描かれているのは、ヴェトゥイユから僅かにセーヌ河を下った所にあるラ・ロシュ=ギュイヨンという小さな村ですが、同じ場所に立って、逆にヴェトゥイユの村に向かって描いた絵もあります

    「ラ・ロシュ=ギュイヨンの道」1880年 国立西洋美術館
    1878年の冬、モネはアルジャントゥイユから、更にセーヌを下った寒村、ヴェトゥイユへ居を移した。この地で過ごした4年間は、妻カミーユを失い(1879年)、破産した友人のエルンスト・オシュデ一家を養わねばならず、モネにとって最も苦しい日々であったと想像されます。この作品に描かれているのは、ヴェトゥイユから僅かにセーヌ河を下った所にあるラ・ロシュ=ギュイヨンという小さな村ですが、同じ場所に立って、逆にヴェトゥイユの村に向かって描いた絵もあります

  • 「しゃくやくの花園 」1887年<br />松方コレクションの1枚

    「しゃくやくの花園 」1887年
    松方コレクションの1枚

  • 「舟遊び」1887年 国立西洋美術館<br />最初の妻カミーユを亡くしたモネは、1883年、2人の子供たち、そして後に正式に結婚することになるアリス・オシュデとその子供たちを連れ、ジヴェルニーへ移り住みます。画家はこの地で、自宅近くを流れるセーヌ川の支流エプト川で舟遊びを楽しむ家族の情景を何度も描きます。舟遊びは当時人気の休日の娯楽でした。 本作品は一連の「舟遊び」の作品のなかでも完成度の高いものです。画面いっぱいを占める水面の上半分は明るい空を映した青とバラ色、下半分は小舟と娘たちの影が濃紺や茶、青の筆触で描かれ、人も船も水面と同じ風景となって画面に溶けこんでいます。画家の関心は、揺らめく光と影が作りだす水面の色のハーモニーにあります。川の面を上空から見下ろす視点でとらえ、大胆に右半分を断ち切った小舟を配した構図は、日本の浮世絵からヒントを得たと考えられています。モネは浮世絵のコレクターでした

    「舟遊び」1887年 国立西洋美術館
    最初の妻カミーユを亡くしたモネは、1883年、2人の子供たち、そして後に正式に結婚することになるアリス・オシュデとその子供たちを連れ、ジヴェルニーへ移り住みます。画家はこの地で、自宅近くを流れるセーヌ川の支流エプト川で舟遊びを楽しむ家族の情景を何度も描きます。舟遊びは当時人気の休日の娯楽でした。 本作品は一連の「舟遊び」の作品のなかでも完成度の高いものです。画面いっぱいを占める水面の上半分は明るい空を映した青とバラ色、下半分は小舟と娘たちの影が濃紺や茶、青の筆触で描かれ、人も船も水面と同じ風景となって画面に溶けこんでいます。画家の関心は、揺らめく光と影が作りだす水面の色のハーモニーにあります。川の面を上空から見下ろす視点でとらえ、大胆に右半分を断ち切った小舟を配した構図は、日本の浮世絵からヒントを得たと考えられています。モネは浮世絵のコレクターでした

  • 「陽を浴びるポプラ並木」1891年 国立西洋美術館<br />光の戯れと反映を何よりも深く追求したモネは、同一のモティーフを光や色彩あるいは構図を変えて何回か描くという意味での「連作」をいくつも残しています。1890年に着手された「積みわら」、1892-94年の「ルーアン大聖堂」、晩年の「睡蓮」などがその例であり、そこではほぼ同一のモティーフを、朝、白昼、夕方などの異なった時刻において、さまざまな光の効果の下に描き出しています。 本作品は、こうした連作の一つ「ポプラ並木」のうちの一点です。ジヴェルニーにほど近いエプト川左岸のポプラ並木はモネを魅了し、1891年の春から夏にかけて画家は幾度もその姿を画布に描きました。それら一連の作品は、S字型の曲線を空に描き出すポプラ並木を扱っている点ではほぼ共通しているものの、構図と画面効果は微妙に異なっています。この作品においてとりわけ特徴的なのは、大きく前景に描かれた3本のポプラであり、青い空と白い雲、緑とばら色の生みだす晴れやかな印象です。同一構図の作品が他に数点存在することが知られています。<br /><br />

    「陽を浴びるポプラ並木」1891年 国立西洋美術館
    光の戯れと反映を何よりも深く追求したモネは、同一のモティーフを光や色彩あるいは構図を変えて何回か描くという意味での「連作」をいくつも残しています。1890年に着手された「積みわら」、1892-94年の「ルーアン大聖堂」、晩年の「睡蓮」などがその例であり、そこではほぼ同一のモティーフを、朝、白昼、夕方などの異なった時刻において、さまざまな光の効果の下に描き出しています。 本作品は、こうした連作の一つ「ポプラ並木」のうちの一点です。ジヴェルニーにほど近いエプト川左岸のポプラ並木はモネを魅了し、1891年の春から夏にかけて画家は幾度もその姿を画布に描きました。それら一連の作品は、S字型の曲線を空に描き出すポプラ並木を扱っている点ではほぼ共通しているものの、構図と画面効果は微妙に異なっています。この作品においてとりわけ特徴的なのは、大きく前景に描かれた3本のポプラであり、青い空と白い雲、緑とばら色の生みだす晴れやかな印象です。同一構図の作品が他に数点存在することが知られています。

  • 「波立つプールヴィルの海 」1897年 国立西洋美術館<br />モネが生涯を通じて愛したモティーフの一つに、故郷ノルマンディー地方の海と空が形づくる景色があります。これは最初の師ブーダン譲りのモティーフとも言えますが、風俗画的要素を多分に残すブーダンに対して、モネの関心はむしろ風景自体にありました。浜辺の漁師小屋から描かれたこの作品において用いられた手法は、彼の他の多くの風景画と異なり、リズミカルな粗い筆触の交錯であり、塗りは非常に薄くなっています。

    「波立つプールヴィルの海 」1897年 国立西洋美術館
    モネが生涯を通じて愛したモティーフの一つに、故郷ノルマンディー地方の海と空が形づくる景色があります。これは最初の師ブーダン譲りのモティーフとも言えますが、風俗画的要素を多分に残すブーダンに対して、モネの関心はむしろ風景自体にありました。浜辺の漁師小屋から描かれたこの作品において用いられた手法は、彼の他の多くの風景画と異なり、リズミカルな粗い筆触の交錯であり、塗りは非常に薄くなっています。

  • 「セーヌ河の朝 」1898年 国立西洋美術館<br />1896年から翌々年にかけて、55歳のモネは早朝に起きて、「セーヌ河の朝」というシリーズを制作しました。使用する色の数を抑え、装飾的効果をも狙ったと思われるこの連作の多くは、夏の朝、霧のたちこめるジヴェルニー付近のセーヌ河の風景を描いています。この連作中の一点とみなされる本作品《セーヌ河の朝》もまた、ほぼ同じ時期に同じ場所で制作されています。

    「セーヌ河の朝 」1898年 国立西洋美術館
    1896年から翌々年にかけて、55歳のモネは早朝に起きて、「セーヌ河の朝」というシリーズを制作しました。使用する色の数を抑え、装飾的効果をも狙ったと思われるこの連作の多くは、夏の朝、霧のたちこめるジヴェルニー付近のセーヌ河の風景を描いています。この連作中の一点とみなされる本作品《セーヌ河の朝》もまた、ほぼ同じ時期に同じ場所で制作されています。

  • 「チャーリング・クロス橋、ロンドン」1902年 国立西洋美術館<br />1921年12月頃松方幸次郎がモネ本人より購入した作品。

    「チャーリング・クロス橋、ロンドン」1902年 国立西洋美術館
    1921年12月頃松方幸次郎がモネ本人より購入した作品。

  • クロード・モネ「ウォータールー橋、ロンドン 」1902年 国立西洋美術館<br />モネは1871年以来、ロンドンを数度にわたって訪れています。その中でも、1899年、1900年、1901年の三回の滞在は豊かな収穫をもたらしました。テームズ河畔のサヴォイ・ホテルのバルコニーに画架を据えて、モネは、国会議事堂、ウォータールー橋、チャーリング・クロス橋という三つのモティーフに焦点を合わせて描き続けました。この作品もそのような連作のうちの一点です。

    クロード・モネ「ウォータールー橋、ロンドン 」1902年 国立西洋美術館
    モネは1871年以来、ロンドンを数度にわたって訪れています。その中でも、1899年、1900年、1901年の三回の滞在は豊かな収穫をもたらしました。テームズ河畔のサヴォイ・ホテルのバルコニーに画架を据えて、モネは、国会議事堂、ウォータールー橋、チャーリング・クロス橋という三つのモティーフに焦点を合わせて描き続けました。この作品もそのような連作のうちの一点です。

  • 「ヴェトゥイユ」1902年 国立西洋美術館<br />ヴェトゥイユはパリの北西に位置するセーヌ河に面した小さな町で、アルジャントゥイユとともにモネが好んで訪れた所です。今も残る12世紀の小さな教会を持つこの町を対岸から望んだ15点ほどの連作中の一点であり、客観的な風景の描写から離れて、水面に映った光景という実体のないものに向けられる画家の関心を示しています。

    「ヴェトゥイユ」1902年 国立西洋美術館
    ヴェトゥイユはパリの北西に位置するセーヌ河に面した小さな町で、アルジャントゥイユとともにモネが好んで訪れた所です。今も残る12世紀の小さな教会を持つこの町を対岸から望んだ15点ほどの連作中の一点であり、客観的な風景の描写から離れて、水面に映った光景という実体のないものに向けられる画家の関心を示しています。

  • 「黄色いアイリス」1914-17年頃 国立西洋美術館<br />ジヴェルニーに居を定めてからのモネのモティーフは次第にその庭園の内部に限られてゆきますが、その一つである本作品は植物を描いた作品の中でもとりわけ装飾性の強いものです。障壁画を思わせる縦長の大画面は日本趣味を感じさせ、上昇する線がうねるように重なって空間を曖昧にしつつ華麗な効果を生み出しています。<br />

    「黄色いアイリス」1914-17年頃 国立西洋美術館
    ジヴェルニーに居を定めてからのモネのモティーフは次第にその庭園の内部に限られてゆきますが、その一つである本作品は植物を描いた作品の中でもとりわけ装飾性の強いものです。障壁画を思わせる縦長の大画面は日本趣味を感じさせ、上昇する線がうねるように重なって空間を曖昧にしつつ華麗な効果を生み出しています。

  • 「睡蓮」1916年 国立西洋美術館<br />モネの「睡蓮」の中でも最も優れたものの一つといわれています。

    「睡蓮」1916年 国立西洋美術館
    モネの「睡蓮」の中でも最も優れたものの一つといわれています。

  • 「雲の習作 Study of Cloud」制作年不詳 国立西洋美術館<br />パステル画です。

    「雲の習作 Study of Cloud」制作年不詳 国立西洋美術館
    パステル画です。

  • 「睡蓮、柳の反映」1916年 国立西洋美術館<br />本作は、2016年9月にルーヴル美術館内で発見され、17年11月に松方家から国立西洋美術館に寄贈されたものです。しかし作品の上半分が大きく欠損しており修復作業を約1年間かけて実施し、松方コレクション展でお披露目となっています。

    「睡蓮、柳の反映」1916年 国立西洋美術館
    本作は、2016年9月にルーヴル美術館内で発見され、17年11月に松方家から国立西洋美術館に寄贈されたものです。しかし作品の上半分が大きく欠損しており修復作業を約1年間かけて実施し、松方コレクション展でお披露目となっています。

  • 東京の美術館ではアーティゾン美術館も多くのモネのコレクションがあります。

    東京の美術館ではアーティゾン美術館も多くのモネのコレクションがあります。

    アーティゾン美術館 美術館・博物館

  • 「アルジャントゥイユの洪水」1872-73年 アーティゾン美術館<br />モネは、1871年から1878年までの間、パリの北西の街アルジャントゥイユに暮らし、すぐそばを流れるセーヌ川沿いの風景を繰り返し描きました。この作品の左側にぼんやりと見えるのはマラント島。奥には城館のみならず工場の煙突が見えて、この地域が近代化されていることがわかります。1872年12月から翌年2月にかけて雪解け水でセーヌ川が増水し、アルジャントゥイユは洪水に見舞われました。木立の左側にあるはずの散歩道も水浸しになっています。川の上を鳥が舞うことで、暗い色彩で描かれたこの作品の緊迫感や動感が増幅されます。

    「アルジャントゥイユの洪水」1872-73年 アーティゾン美術館
    モネは、1871年から1878年までの間、パリの北西の街アルジャントゥイユに暮らし、すぐそばを流れるセーヌ川沿いの風景を繰り返し描きました。この作品の左側にぼんやりと見えるのはマラント島。奥には城館のみならず工場の煙突が見えて、この地域が近代化されていることがわかります。1872年12月から翌年2月にかけて雪解け水でセーヌ川が増水し、アルジャントゥイユは洪水に見舞われました。木立の左側にあるはずの散歩道も水浸しになっています。川の上を鳥が舞うことで、暗い色彩で描かれたこの作品の緊迫感や動感が増幅されます。

  • 「アルジャントゥイユ」1874年 アーティゾン美術館

    「アルジャントゥイユ」1874年 アーティゾン美術館

  • 「雨のベリール」1886年 アーティゾン美術館<br />モネは1986年9月から11月末までブルターニュ半島の南にある「美しい島」という意味のベリールという小さな島に滞在しています(モネが46歳の頃)。モネがベリールを描いた油彩画は、現在40点ほどが知られています。

    「雨のベリール」1886年 アーティゾン美術館
    モネは1986年9月から11月末までブルターニュ半島の南にある「美しい島」という意味のベリールという小さな島に滞在しています(モネが46歳の頃)。モネがベリールを描いた油彩画は、現在40点ほどが知られています。

  • 「黄昏、ヴェネツィア」1908年頃 アーティゾン美術館<br />1908年10月、モネは知人の誘いで妻アリスとともにヴェネツィアを訪れました。ルネサンス以来、多くの画家たちを魅了してきたヴェネツィアは、モネをも虜にします。12月までの間に30点あまりの作品を制作し、それをジヴェルニーのアトリエに持ち帰って徐々に仕上げていきました。1912年5月、29点のヴェネツィア作品だけの展覧会を開き成功をおさめます。夕日に染まる海に浮かんでいるのは、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島の教会です。青・緑色からオレンジ色を経て再び青・緑色まで、空と海はまさに色彩の交響曲のようです。

    「黄昏、ヴェネツィア」1908年頃 アーティゾン美術館
    1908年10月、モネは知人の誘いで妻アリスとともにヴェネツィアを訪れました。ルネサンス以来、多くの画家たちを魅了してきたヴェネツィアは、モネをも虜にします。12月までの間に30点あまりの作品を制作し、それをジヴェルニーのアトリエに持ち帰って徐々に仕上げていきました。1912年5月、29点のヴェネツィア作品だけの展覧会を開き成功をおさめます。夕日に染まる海に浮かんでいるのは、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島の教会です。青・緑色からオレンジ色を経て再び青・緑色まで、空と海はまさに色彩の交響曲のようです。

  • 「睡漣」1903年 アーティゾン美術館<br />モネは1883年より、パリ近郊ジヴェルニーに居を構えました。1890年には家と土地を購入し、セーヌ川支流のエプト川のさらに支流のリュー川から庭の池に水を引き、そこに睡蓮を浮かべて制作を続けました。1901年から翌年にかけては土地を買い足し、池を拡張しています。その後のモネは睡蓮の絵画制作に没頭することになります。この作品では全体を水面が覆い、ところどころに花をつけた睡蓮が浮かぶ様子が描かれています。画面は今にも動き出しそうな躍動感を持っています。

    「睡漣」1903年 アーティゾン美術館
    モネは1883年より、パリ近郊ジヴェルニーに居を構えました。1890年には家と土地を購入し、セーヌ川支流のエプト川のさらに支流のリュー川から庭の池に水を引き、そこに睡蓮を浮かべて制作を続けました。1901年から翌年にかけては土地を買い足し、池を拡張しています。その後のモネは睡蓮の絵画制作に没頭することになります。この作品では全体を水面が覆い、ところどころに花をつけた睡蓮が浮かぶ様子が描かれています。画面は今にも動き出しそうな躍動感を持っています。

  • 「睡蓮の池」1907年 アーティゾン美術館<br />1907年に描かれたおよそ15点からなる睡蓮の池の連作の1枚。この作品の淡い朱を帯びた水面は、日没が近づいていることを感じさせます。

    「睡蓮の池」1907年 アーティゾン美術館
    1907年に描かれたおよそ15点からなる睡蓮の池の連作の1枚。この作品の淡い朱を帯びた水面は、日没が近づいていることを感じさせます。

  • 「霧のテムズ川」1901年 アーティゾン美術館<br />こちらはパステル画の作品です。<br /><br />

    「霧のテムズ川」1901年 アーティゾン美術館
    こちらはパステル画の作品です。

  • 白金台にある松岡美術館。初代館長であり、美術館の創設者である松岡清次郎(1894~1989年)の邸跡地にある美術館。清次郎が自らの感性のおもむくまま選び抜き、生涯をかけて築いたコレクションを紹介しています

    白金台にある松岡美術館。初代館長であり、美術館の創設者である松岡清次郎(1894~1989年)の邸跡地にある美術館。清次郎が自らの感性のおもむくまま選び抜き、生涯をかけて築いたコレクションを紹介しています

    松岡美術館 美術館・博物館

  • 「サン=タドレスの断崖」1867年 松岡美術館

    「サン=タドレスの断崖」1867年 松岡美術館

  • 「ノルマンディの田舎道」1868年 松岡美術館

    「ノルマンディの田舎道」1868年 松岡美術館

  • 「エトルタの波の印象」1883年 松岡美術館

    「エトルタの波の印象」1883年 松岡美術館

  • 八王子にある東京富士美術館。約30000点あるというコレクションの中には、マネ、ルノワールなどの印象派のコレクションもあります

    八王子にある東京富士美術館。約30000点あるというコレクションの中には、マネ、ルノワールなどの印象派のコレクションもあります

    東京富士美術館 美術館・博物館

  • 「海辺の船」1881年<br />1880年代の初めにモネは、ある転機を迎えていました。1879年、妻を失い、翌80年にはサロン出品をめぐってドガと対立、印象派展への出品をとりやめました。本作が描かれた81年も参加を断っています。そうした時期にモネを引き寄せたのは、幼い頃から親しんだノルマンディーの海でした。本作はこの年の春、滞在したフェカンで描かれたもの。心の暗雲を吹き払うかのような陽光満ちわたる空と、岸に乗り上げた帆船の黒いシルエット。ノルマンディーの明るい空と海はモネの画興を誘い、翌年のプールヴィルの連作へと続いてゆきます。

    「海辺の船」1881年
    1880年代の初めにモネは、ある転機を迎えていました。1879年、妻を失い、翌80年にはサロン出品をめぐってドガと対立、印象派展への出品をとりやめました。本作が描かれた81年も参加を断っています。そうした時期にモネを引き寄せたのは、幼い頃から親しんだノルマンディーの海でした。本作はこの年の春、滞在したフェカンで描かれたもの。心の暗雲を吹き払うかのような陽光満ちわたる空と、岸に乗り上げた帆船の黒いシルエット。ノルマンディーの明るい空と海はモネの画興を誘い、翌年のプールヴィルの連作へと続いてゆきます。

  • 「プールヴィルの断崖」1882年<br />夏の晴天の下、切り立った崖が砂浜と海に青い影を落としています。複雑な陰影をたたえた石灰岩の岩肌は、様々な色彩が用いられることで表情豊かに描かれています。ノルマンディー地方のプールヴィルからヴァランジュヴィルの海岸に見られる断崖や渓谷の景観に魅了されたモネは、1882年のうちにこの地域に2度滞在し、100点もの海景画を残しました

    「プールヴィルの断崖」1882年
    夏の晴天の下、切り立った崖が砂浜と海に青い影を落としています。複雑な陰影をたたえた石灰岩の岩肌は、様々な色彩が用いられることで表情豊かに描かれています。ノルマンディー地方のプールヴィルからヴァランジュヴィルの海岸に見られる断崖や渓谷の景観に魅了されたモネは、1882年のうちにこの地域に2度滞在し、100点もの海景画を残しました

  • 「睡蓮」1908年<br />本作はモネが68歳の1908年に描かれた15点の連作の1点で、他の連作47点とともに翌年5月、パリのデュラン=リュエル画廊における「睡蓮ー水の風景連作」と題する個展に出品されました。1906年頃から時折試みていたことですが、ここでモネは明暗の差を極力抑え、ロココ的ともいえる繊細で優美な色彩と装飾性を見せています。膨大な睡蓮の作品全体の中で、最も軽快な作風です。

    「睡蓮」1908年
    本作はモネが68歳の1908年に描かれた15点の連作の1点で、他の連作47点とともに翌年5月、パリのデュラン=リュエル画廊における「睡蓮ー水の風景連作」と題する個展に出品されました。1906年頃から時折試みていたことですが、ここでモネは明暗の差を極力抑え、ロココ的ともいえる繊細で優美な色彩と装飾性を見せています。膨大な睡蓮の作品全体の中で、最も軽快な作風です。

  • 「ジヴェルニーの草原」1890年 福島県立美術館<br />『ジヴェルニーの草原』は積み藁の連作より少し前に描かれました。夏の遅い午後、空が淡い紫色へと変わりゆくひとときの、あたたかく芳しい大気が感じられます。

    「ジヴェルニーの草原」1890年 福島県立美術館
    『ジヴェルニーの草原』は積み藁の連作より少し前に描かれました。夏の遅い午後、空が淡い紫色へと変わりゆくひとときの、あたたかく芳しい大気が感じられます。

    福島県立美術館 美術館・博物館

  • 「ポール=ドモワの洞窟」1886年 茨城県近代美術館<br />フランス・ブルターニュ地方の、「美しい島」という意味のベリールの海岸を描いた作品です。モネはベリールに滞在し、荒れた海と奇岩で知られる同地を舞台に、異なる気象条件や時間帯により様々な海の姿を何十点も描きました。本作品では、風も少なく天気の良い日の情景が描かれています。青や緑の細かい筆致で表現された穏やかな海面の様子と、暖色を中心とする太い筆触で表された陽光が降り注ぐ岩肌の光と影のコントラストが印象的です。

    「ポール=ドモワの洞窟」1886年 茨城県近代美術館
    フランス・ブルターニュ地方の、「美しい島」という意味のベリールの海岸を描いた作品です。モネはベリールに滞在し、荒れた海と奇岩で知られる同地を舞台に、異なる気象条件や時間帯により様々な海の姿を何十点も描きました。本作品では、風も少なく天気の良い日の情景が描かれています。青や緑の細かい筆致で表現された穏やかな海面の様子と、暖色を中心とする太い筆触で表された陽光が降り注ぐ岩肌の光と影のコントラストが印象的です。

    茨城県近代美術館 美術館・博物館

  • 「睡蓮」1906年 吉野石膏コレクション(山形美術館に寄託)

    「睡蓮」1906年 吉野石膏コレクション(山形美術館に寄託)

    山形美術館 美術館・博物館

  • 「ジヴェルニー付近のリメツの草原」1888年 吉野石膏コレクション(山形美術館に寄託)<br />モネは1883年パリから70kmほど行ったところにある小さな町ジヴェルニーに移り住みました。本作はそのジヴェルニー付近のリメツの草原を描いた作品です。<br /><br />

    「ジヴェルニー付近のリメツの草原」1888年 吉野石膏コレクション(山形美術館に寄託)
    モネは1883年パリから70kmほど行ったところにある小さな町ジヴェルニーに移り住みました。本作はそのジヴェルニー付近のリメツの草原を描いた作品です。

  • MOMAS(モマス)コレクションを見に埼玉県立近代美術館へ行ってきました。「MOMAS」は、埼玉県立近代美術館(The Museum of Modern Art, Saitama)の略称だそうです。建築家・黒川紀章の設計による最初の美術館です

    MOMAS(モマス)コレクションを見に埼玉県立近代美術館へ行ってきました。「MOMAS」は、埼玉県立近代美術館(The Museum of Modern Art, Saitama)の略称だそうです。建築家・黒川紀章の設計による最初の美術館です

    埼玉県立近代美術館 美術館・博物館

  • クロード・モネ 「ルエルの眺め」 1858年 丸沼芸術の森(埼玉県立近代美術館に委託)<br />モネが10代の時に描いた作品。若き頃より非常に繊細で巧みな画力を持ち、風景画家のウジェーヌ・ブーダンに見出されて画家の道が始まりました。作中の眺めは、当時モネが暮らしていたル・アーブル郊外の小さな村の風景です。とても10代と思えない画力は今後の活躍を想像できます。

    クロード・モネ 「ルエルの眺め」 1858年 丸沼芸術の森(埼玉県立近代美術館に委託)
    モネが10代の時に描いた作品。若き頃より非常に繊細で巧みな画力を持ち、風景画家のウジェーヌ・ブーダンに見出されて画家の道が始まりました。作中の眺めは、当時モネが暮らしていたル・アーブル郊外の小さな村の風景です。とても10代と思えない画力は今後の活躍を想像できます。

  • 「ジヴェルニーの積みわら、夕日」1888年 埼玉県立近代美術館<br />同じ視点から朝の効果を描いた他の2点の作品の存在が知られています。2年後に描かれる25点の《積みわら》によって、モネは《睡蓮》へと連なる壮大な連作の世界に分け入っていきますが、この作品はその先駆けとなった記念碑的なものです。1870年代までの画風に比べ、筆触は柔らかく繊細になり、幾重にも重ねられて、画面のすみずみに及んでいます。どっしりとした積みわらを基点に、流動する大気と浸透する光、絶え間なく変容する世界が見事にとらえられています。厚みのある大気や光に包まれて、あらゆるものがゆっくりと動いているようです。モチーフの積みわらは、脱穀前の麦を積み上げたもので食料貯蔵庫の役割も果たし、農業国フランスの大地の豊穣を象徴するものでもありました。

    「ジヴェルニーの積みわら、夕日」1888年 埼玉県立近代美術館
    同じ視点から朝の効果を描いた他の2点の作品の存在が知られています。2年後に描かれる25点の《積みわら》によって、モネは《睡蓮》へと連なる壮大な連作の世界に分け入っていきますが、この作品はその先駆けとなった記念碑的なものです。1870年代までの画風に比べ、筆触は柔らかく繊細になり、幾重にも重ねられて、画面のすみずみに及んでいます。どっしりとした積みわらを基点に、流動する大気と浸透する光、絶え間なく変容する世界が見事にとらえられています。厚みのある大気や光に包まれて、あらゆるものがゆっくりと動いているようです。モチーフの積みわらは、脱穀前の麦を積み上げたもので食料貯蔵庫の役割も果たし、農業国フランスの大地の豊穣を象徴するものでもありました。

  • ポーラ美術館の絵画コレクションは、19世紀の印象派絵画から20世紀の抽象絵画に至るまで、質の高い作品によって美術の展開を辿ることができます。<br /> 19世紀から20世紀は、フランスを中心とした近代美術がもっとも急激な変化を遂げた時代です。ポーラ美術館の核となる西洋近代絵画のコレクション約400点は、まさにこの時代を生きた画家たちの作品です。印象派、ポスト印象派、新印象派などが100点、そして1920年代のパリに集まった外国人画家たちのグループ「エコール・ド・パリ」の画家たちの作品100点を中心に、新古典主義のアングル、ロマン主義の画家ドラクロワから、抽象絵画の創始者カンディンスキー、シュルレアリスムの画家たちまで、モダン・アートの流れをたどる構成になっています。<br /> そのなかでも、ポーラ美術館のコレクションを築いたコレクターであり、ポーラ・オルビスグループのオーナーであった鈴木常司(1930-2000)が特に注目した画家は、印象派を牽引したモネ、「生きる歓び」を描き続けたルノワール、今日の絵画に決定的な影響を与えたピカソです。ポーラ美術館には、モネの作品は19点あるそうです。

    ポーラ美術館の絵画コレクションは、19世紀の印象派絵画から20世紀の抽象絵画に至るまで、質の高い作品によって美術の展開を辿ることができます。
     19世紀から20世紀は、フランスを中心とした近代美術がもっとも急激な変化を遂げた時代です。ポーラ美術館の核となる西洋近代絵画のコレクション約400点は、まさにこの時代を生きた画家たちの作品です。印象派、ポスト印象派、新印象派などが100点、そして1920年代のパリに集まった外国人画家たちのグループ「エコール・ド・パリ」の画家たちの作品100点を中心に、新古典主義のアングル、ロマン主義の画家ドラクロワから、抽象絵画の創始者カンディンスキー、シュルレアリスムの画家たちまで、モダン・アートの流れをたどる構成になっています。
     そのなかでも、ポーラ美術館のコレクションを築いたコレクターであり、ポーラ・オルビスグループのオーナーであった鈴木常司(1930-2000)が特に注目した画家は、印象派を牽引したモネ、「生きる歓び」を描き続けたルノワール、今日の絵画に決定的な影響を与えたピカソです。ポーラ美術館には、モネの作品は19点あるそうです。

    ポーラ美術館 美術館・博物館

  • 「サルーテ運河」1908年 ポーラ美術館<br />1908年の9月末から12月にかけて、アメリカ人画家ジョン・シンガー・サージェントの友人の招待により、モネは妻のアリスをともなってイタリアのヴェネツィアに滞在しました。静養が目的でしたが、彼はホテル・グランド・ブリタニアで制作に没頭します。モネがヴェネツィアを描いた作品は約40点残されていますが、本作品を含む29点は、1912年5月に開催されたベルネーム=ジュヌ画廊の個展で展示されました。モネは、グラン・カナル(大運河)の近くに位置するサルーテ聖堂周辺の運河の風景を描いています。建物を照らす午後の強い光をモネはあざやかな色彩で表現していますが、その色使いは豊かでいきいきとしており、同時代のフォーヴィスムの色彩にさえ接近しています。水の都ヴェネツィアをはじめて訪れたモネは、もう一度来たいと願っていましたが、結局この旅行が最後の制作旅行となってしまいました。

    「サルーテ運河」1908年 ポーラ美術館
    1908年の9月末から12月にかけて、アメリカ人画家ジョン・シンガー・サージェントの友人の招待により、モネは妻のアリスをともなってイタリアのヴェネツィアに滞在しました。静養が目的でしたが、彼はホテル・グランド・ブリタニアで制作に没頭します。モネがヴェネツィアを描いた作品は約40点残されていますが、本作品を含む29点は、1912年5月に開催されたベルネーム=ジュヌ画廊の個展で展示されました。モネは、グラン・カナル(大運河)の近くに位置するサルーテ聖堂周辺の運河の風景を描いています。建物を照らす午後の強い光をモネはあざやかな色彩で表現していますが、その色使いは豊かでいきいきとしており、同時代のフォーヴィスムの色彩にさえ接近しています。水の都ヴェネツィアをはじめて訪れたモネは、もう一度来たいと願っていましたが、結局この旅行が最後の制作旅行となってしまいました。

  • 「国会議事堂、バラ色のシンフォニー」1900年 ポーラ美術館<br />1900年冬に、モネは息子ミシェルが留学していた英国のロンドンに滞在し、「国会議事堂」の連作を描き始めました。その翌年の冬にも同地に滞在して描きつづけ、その後ジヴェルニーのアトリエで仕上げ、1904年のデュラン=リュエル画廊の個展で発表しました。モネは、議事堂の真東に位置するセント・トーマス病院のテラスからこの風景を描いています。夕陽の逆光によって議事堂は青いシルエットとなって浮び上がり、さらにテムズ河にその影を落としています。テムズの水面にたち込めた霧の揺らぎが、建物の細部や輪郭を曖昧にしています。国会議事堂、霧、テムズ河という要素はまさにロンドンを象徴するものですが、なかでも霧が創り出す複雑な光の効果がモネの心をとらえました。「霧なしではロンドンは美しい町ではありえないでしょう。…[中略]…その整然とした、重々しい街並みは、この神秘的なマントのなかで壮麗になるのです」。

    「国会議事堂、バラ色のシンフォニー」1900年 ポーラ美術館
    1900年冬に、モネは息子ミシェルが留学していた英国のロンドンに滞在し、「国会議事堂」の連作を描き始めました。その翌年の冬にも同地に滞在して描きつづけ、その後ジヴェルニーのアトリエで仕上げ、1904年のデュラン=リュエル画廊の個展で発表しました。モネは、議事堂の真東に位置するセント・トーマス病院のテラスからこの風景を描いています。夕陽の逆光によって議事堂は青いシルエットとなって浮び上がり、さらにテムズ河にその影を落としています。テムズの水面にたち込めた霧の揺らぎが、建物の細部や輪郭を曖昧にしています。国会議事堂、霧、テムズ河という要素はまさにロンドンを象徴するものですが、なかでも霧が創り出す複雑な光の効果がモネの心をとらえました。「霧なしではロンドンは美しい町ではありえないでしょう。…[中略]…その整然とした、重々しい街並みは、この神秘的なマントのなかで壮麗になるのです」。

  • 「エトルタの夕焼け」1885年 ポーラ美術館<br />ノルマンディーの英仏海峡に面した漁村エトルタの海岸を描いた作品。石灰層の巨大な絶壁の「アモンの断崖」や「アヴァルの門」などは景勝地として知られています。「アヴァルの門」の近くには、モーリス・ルブランの小説「怪盗アルセーヌ・ルパン」シリーズの『奇巌城』(L’aiguille Creuse)のモデルとなった岩、エギユ(針)島があります。モネはエトルタに1883年の1-2月に滞在して以降、1886年まで毎年訪れています。本作品では、エトルタのカジノのテラスから見た、夕陽の残照に赤く染まる水平線近くに垂れこめた雲と空、そしてアヴァルの門の前景の浜辺に3艘の舟を配し、日の終わりの一瞬の風景の輝きと静けさを描きとめています。モネは、逆光を受けた断崖と、夕焼けに赤く染まる空の色の変化と雲の流れをすばやく描き止めています。浜辺に打ち上げられた3艘の船は、どこかもの悲しく、ロマンティックな旅情を誘います。

    「エトルタの夕焼け」1885年 ポーラ美術館
    ノルマンディーの英仏海峡に面した漁村エトルタの海岸を描いた作品。石灰層の巨大な絶壁の「アモンの断崖」や「アヴァルの門」などは景勝地として知られています。「アヴァルの門」の近くには、モーリス・ルブランの小説「怪盗アルセーヌ・ルパン」シリーズの『奇巌城』(L’aiguille Creuse)のモデルとなった岩、エギユ(針)島があります。モネはエトルタに1883年の1-2月に滞在して以降、1886年まで毎年訪れています。本作品では、エトルタのカジノのテラスから見た、夕陽の残照に赤く染まる水平線近くに垂れこめた雲と空、そしてアヴァルの門の前景の浜辺に3艘の舟を配し、日の終わりの一瞬の風景の輝きと静けさを描きとめています。モネは、逆光を受けた断崖と、夕焼けに赤く染まる空の色の変化と雲の流れをすばやく描き止めています。浜辺に打ち上げられた3艘の船は、どこかもの悲しく、ロマンティックな旅情を誘います。

  • 「ヴァランジュヴィルの風景」1882年 ポーラ美術館<br />1882年にモネは、ノルマンディーの英仏海峡に面した海辺の避暑地プールヴィルと西隣のヴァランジュヴィルの周辺に2度にわたって滞在し、約100点の海景画を制作しました。この地域は、海に面する断崖と渓谷がみられるダイナミックな地形を特徴としています。この年の夏に、ヴァランジュヴィルの低地の前に生える木々を描いたのが本作品です。青い海と空に向かって開かれた高台の風景を、横に並んだ背の高い木々が遮っています。水平線には、ディエップの白い断崖が描かれています。木々の間に風景を臨む構図は、西洋絵画ではめずらしいものですが、モネは日本の浮世絵の構図から着想を得たと言われています。

    「ヴァランジュヴィルの風景」1882年 ポーラ美術館
    1882年にモネは、ノルマンディーの英仏海峡に面した海辺の避暑地プールヴィルと西隣のヴァランジュヴィルの周辺に2度にわたって滞在し、約100点の海景画を制作しました。この地域は、海に面する断崖と渓谷がみられるダイナミックな地形を特徴としています。この年の夏に、ヴァランジュヴィルの低地の前に生える木々を描いたのが本作品です。青い海と空に向かって開かれた高台の風景を、横に並んだ背の高い木々が遮っています。水平線には、ディエップの白い断崖が描かれています。木々の間に風景を臨む構図は、西洋絵画ではめずらしいものですが、モネは日本の浮世絵の構図から着想を得たと言われています。

  • 「グラジオラス」1881年 ポーラ美術館<br />日本の掛物を思い起こさせる縦長の画面に、一輪のグラジオラスの花が描かれています。奥行きをあまり感じさせない空間表現や、抑えられた微妙な色彩、壺に生けられた一輪の花という単一のモティーフの選択、そして素早い筆さばきが生み出す線のリズムなど、本作品には日本美術の影響が随所に認められます。グラジオラスを描いたこの2点の作品は、1882年の第7回印象派展に出品されました。

    「グラジオラス」1881年 ポーラ美術館
    日本の掛物を思い起こさせる縦長の画面に、一輪のグラジオラスの花が描かれています。奥行きをあまり感じさせない空間表現や、抑えられた微妙な色彩、壺に生けられた一輪の花という単一のモティーフの選択、そして素早い筆さばきが生み出す線のリズムなど、本作品には日本美術の影響が随所に認められます。グラジオラスを描いたこの2点の作品は、1882年の第7回印象派展に出品されました。

  • 「グラジオラス」1881年 ポーラ美術館<br />本作品を描いた翌年の1882年から1885年、モネは画商ポール・デュラン=リュエルの私邸のサロンの扉のために36枚の装飾パネルを制作しました。花や果物をモティーフとしたそのパネルの中には、壺に生けられた数本のグラジオラスを描いた縦長のものも含まれていました。こうした一連の作品は、モネの装飾性に対する高い関心を示していると言えるでしょう。

    「グラジオラス」1881年 ポーラ美術館
    本作品を描いた翌年の1882年から1885年、モネは画商ポール・デュラン=リュエルの私邸のサロンの扉のために36枚の装飾パネルを制作しました。花や果物をモティーフとしたそのパネルの中には、壺に生けられた数本のグラジオラスを描いた縦長のものも含まれていました。こうした一連の作品は、モネの装飾性に対する高い関心を示していると言えるでしょう。

  • 「ルーアン大聖堂」1892年 ポーラ美術館<br />ローマの時代からセーヌ河による水運の拠点として発展し、かつてノルマンディー公国の首都として栄えたルーアンは、現在もフランス有数の大都市です。また、1431年にジャンヌ・ダルクが火刑に処せられた地としても知られています。 セーヌ河右岸の旧市街の中心の建つノートル=ダム大聖堂は、フランス・ゴシック建築の精華のひとつに数えられています。この大聖堂のファサード(西正面)を、モネは夜明け直後から日没直後のさまざまな時間まで、異なる天候のもとで描き出して、その数は33点にまで及びました。1895年5月には、デュラン=リュエル画廊の個展で、そのうちの20点を発表しています。本作品の上側には夕刻の光を受けてバラ色に輝く大聖堂の表現がみられますが、これは夕方6時頃の光であると言われています。加えて、本作品の下側には灰色の表現が見られますが、これは大聖堂に向かいの建物の影が落ちている様子を表現したものです。モネはこの建物の2階の部屋にイーゼルを立てて、ルーアン大聖堂の連作を制作しました。

    「ルーアン大聖堂」1892年 ポーラ美術館
    ローマの時代からセーヌ河による水運の拠点として発展し、かつてノルマンディー公国の首都として栄えたルーアンは、現在もフランス有数の大都市です。また、1431年にジャンヌ・ダルクが火刑に処せられた地としても知られています。 セーヌ河右岸の旧市街の中心の建つノートル=ダム大聖堂は、フランス・ゴシック建築の精華のひとつに数えられています。この大聖堂のファサード(西正面)を、モネは夜明け直後から日没直後のさまざまな時間まで、異なる天候のもとで描き出して、その数は33点にまで及びました。1895年5月には、デュラン=リュエル画廊の個展で、そのうちの20点を発表しています。本作品の上側には夕刻の光を受けてバラ色に輝く大聖堂の表現がみられますが、これは夕方6時頃の光であると言われています。加えて、本作品の下側には灰色の表現が見られますが、これは大聖堂に向かいの建物の影が落ちている様子を表現したものです。モネはこの建物の2階の部屋にイーゼルを立てて、ルーアン大聖堂の連作を制作しました。

  • 「睡蓮の池」1899年 ポーラ美術館<br />モネは、1883年からパリの北西70kmの美しい村ジヴェルニーに移住し、ここに家を建て、庭を造成します。家の前には色とりどりの花が咲き乱れる「花の庭」を造り、1893年には家の敷地の道路を隔てた隣の土地を買い、「水の庭」を造りました。「水の庭」には、池を作り睡蓮を植え、池の上にはモネは好きだった日本の浮世絵に描かれたような日本風の太鼓橋が架けました。そして池の周りには柳、竹、桜、藤、アイリス、牡丹などさまざまな植物が植えられました。この自分がつくり上げた幻想的な庭で、モネは睡蓮の池と橋の風景を描いていますが、この作品は18点の連作のうちの1点です。この後、しだいに彼の興味は時間や天候による光の変化が、池の水面におよぼすさまざまな効果に向かっていきます。なお、モネの家と庭は、息子ミシェルが亡くなった1966年に国家に遺贈され、現在公開されています。

    「睡蓮の池」1899年 ポーラ美術館
    モネは、1883年からパリの北西70kmの美しい村ジヴェルニーに移住し、ここに家を建て、庭を造成します。家の前には色とりどりの花が咲き乱れる「花の庭」を造り、1893年には家の敷地の道路を隔てた隣の土地を買い、「水の庭」を造りました。「水の庭」には、池を作り睡蓮を植え、池の上にはモネは好きだった日本の浮世絵に描かれたような日本風の太鼓橋が架けました。そして池の周りには柳、竹、桜、藤、アイリス、牡丹などさまざまな植物が植えられました。この自分がつくり上げた幻想的な庭で、モネは睡蓮の池と橋の風景を描いていますが、この作品は18点の連作のうちの1点です。この後、しだいに彼の興味は時間や天候による光の変化が、池の水面におよぼすさまざまな効果に向かっていきます。なお、モネの家と庭は、息子ミシェルが亡くなった1966年に国家に遺贈され、現在公開されています。

  • 「ジヴェルニーの積みわら」1884年 ポーラ美術館<br />モネは、1883年の4月末、パリの北西70km、セーヌ河の渓谷とエプト河の合流点に位置する小さな村ジヴェルニーに転居します。そして、1884-1886年に、家の南に広がる牧草地に積み上げられた麦藁の山を描きました。本作品を含む8点の作品を制作しています。三つの積みわらの後ろには、ポプラ並木がみられます。この作品では、日常的な風景に明るく降りそそぐ光を、明暗の強いコントラストで表現しています。モネは、描く対象を限定し、構図も単純化したうえで、光の効果の探究を行っていますが、この作品でもそのような特徴がみられます。限られたその後、モネは脱穀前の麦穂を積み上げた紡錘形の積みわらをモティーフに、さまざまな天候や時間によって変化する光のもとで、あざやかな色彩で描いています。そして1891年5月、モネは15点の「積みわら」の連作をデュラン=リュエル画廊で発表し、大成功を収め、連作の時代に入ります。

    「ジヴェルニーの積みわら」1884年 ポーラ美術館
    モネは、1883年の4月末、パリの北西70km、セーヌ河の渓谷とエプト河の合流点に位置する小さな村ジヴェルニーに転居します。そして、1884-1886年に、家の南に広がる牧草地に積み上げられた麦藁の山を描きました。本作品を含む8点の作品を制作しています。三つの積みわらの後ろには、ポプラ並木がみられます。この作品では、日常的な風景に明るく降りそそぐ光を、明暗の強いコントラストで表現しています。モネは、描く対象を限定し、構図も単純化したうえで、光の効果の探究を行っていますが、この作品でもそのような特徴がみられます。限られたその後、モネは脱穀前の麦穂を積み上げた紡錘形の積みわらをモティーフに、さまざまな天候や時間によって変化する光のもとで、あざやかな色彩で描いています。そして1891年5月、モネは15点の「積みわら」の連作をデュラン=リュエル画廊で発表し、大成功を収め、連作の時代に入ります。

  • 「セーヌ河の日没、冬」1880年 ポーラ美術館<br />モネは、1878年1月にアルジャントゥイユを離れてパリに滞在した後、8月からパリの北西約60km、メダンとジヴェルニーの間に位置する、セーヌ河の湾曲部にある小さな村ヴェトゥイユに転居しました。1878年9月、モネの最初の妻カミーユが、次男を出産後、この地で病歿しました。その年の冬、フランスを襲った記録的な寒波により、セーヌ河が氷結します。そして翌年の1月、氷が割れて水面を流れるめずらしい光景をモネは眼にするのです。自然界の異変によって生じた風景に感動した彼は、描く時間や視点を変えて繰り返し描いています。この作品では、解氷が浮かぶ水面は、後年にモネが没頭していく睡蓮の連作のように、沈みゆく夕陽に染まる空の色を映し出しています。この風景の変化と美しくも厳しい自然の姿は、妻の死に直面し、悲しみの淵に沈んでいたモネを、ふたたび制作に駆り立てたのです。

    「セーヌ河の日没、冬」1880年 ポーラ美術館
    モネは、1878年1月にアルジャントゥイユを離れてパリに滞在した後、8月からパリの北西約60km、メダンとジヴェルニーの間に位置する、セーヌ河の湾曲部にある小さな村ヴェトゥイユに転居しました。1878年9月、モネの最初の妻カミーユが、次男を出産後、この地で病歿しました。その年の冬、フランスを襲った記録的な寒波により、セーヌ河が氷結します。そして翌年の1月、氷が割れて水面を流れるめずらしい光景をモネは眼にするのです。自然界の異変によって生じた風景に感動した彼は、描く時間や視点を変えて繰り返し描いています。この作品では、解氷が浮かぶ水面は、後年にモネが没頭していく睡蓮の連作のように、沈みゆく夕陽に染まる空の色を映し出しています。この風景の変化と美しくも厳しい自然の姿は、妻の死に直面し、悲しみの淵に沈んでいたモネを、ふたたび制作に駆り立てたのです。

  • 「ジヴェルニーの冬」1885年 ポーラ美術館<br />モネ一家がジヴェルニーの村に移住したのは1883年4月のことでした。これ以来、この地はモネの終の棲家となります。ジヴェルニーの雪景色を、モネは丘の上から村を見下ろす構図で描きました。教会の三角屋根や寄り添うようにして建つ家々を覆う雪は、影の部分に青みを帯びた色彩を用いて描かれています。モネは、数多くの雪景を残した画家としても知られています。本作品でも、モネは雪の白にさまざまな諧調を見出し、その微妙な違いを見事に表現しています。ノルマンディーとイル=ド=フランスの境に位置するジヴェルニーの冬の積雪はそれほど多くありませんでした。それを不満に思っていたモネは、1895年にノルウェーを訪れ、冬の国の白銀の世界を描いています。

    「ジヴェルニーの冬」1885年 ポーラ美術館
    モネ一家がジヴェルニーの村に移住したのは1883年4月のことでした。これ以来、この地はモネの終の棲家となります。ジヴェルニーの雪景色を、モネは丘の上から村を見下ろす構図で描きました。教会の三角屋根や寄り添うようにして建つ家々を覆う雪は、影の部分に青みを帯びた色彩を用いて描かれています。モネは、数多くの雪景を残した画家としても知られています。本作品でも、モネは雪の白にさまざまな諧調を見出し、その微妙な違いを見事に表現しています。ノルマンディーとイル=ド=フランスの境に位置するジヴェルニーの冬の積雪はそれほど多くありませんでした。それを不満に思っていたモネは、1895年にノルウェーを訪れ、冬の国の白銀の世界を描いています。

  • 「花咲く堤、アルジャントゥイユ」1877年 ポーラ美術館<br />モネは、1872年に、パリの北西10km離れたセーヌ河沿いの町アルジャントゥイユに転居し、1878年1月まで住んでいます。1851年の鉄道開通によってパリと結ばれたアルジャントゥイユは、セーヌでの川遊びなどのレジャーでにぎわう行楽地でしたが、急速に産業化していきました。工場が建設されて、のどかな美しい風景は変貌していきます。町には工場労働者が増加し、セーヌ河も汚染されてしまいました。このアルジャントゥイユで、モネは170点以上の作品を制作していますが、この作品は、最後の作品の1点とされています。モネは、煙を上げる煙突がみられる工場を背景に、ダリアの花咲く緑の草むらを前景に置き、都市の産業化と美しい自然を対比させて描いてます。この、画面の上方に水平線を置いて、手前に大きく、視界を遮るようにモティーフを配する構図には、日本の浮世絵の構図の影響が指摘されています。

    「花咲く堤、アルジャントゥイユ」1877年 ポーラ美術館
    モネは、1872年に、パリの北西10km離れたセーヌ河沿いの町アルジャントゥイユに転居し、1878年1月まで住んでいます。1851年の鉄道開通によってパリと結ばれたアルジャントゥイユは、セーヌでの川遊びなどのレジャーでにぎわう行楽地でしたが、急速に産業化していきました。工場が建設されて、のどかな美しい風景は変貌していきます。町には工場労働者が増加し、セーヌ河も汚染されてしまいました。このアルジャントゥイユで、モネは170点以上の作品を制作していますが、この作品は、最後の作品の1点とされています。モネは、煙を上げる煙突がみられる工場を背景に、ダリアの花咲く緑の草むらを前景に置き、都市の産業化と美しい自然を対比させて描いてます。この、画面の上方に水平線を置いて、手前に大きく、視界を遮るようにモティーフを配する構図には、日本の浮世絵の構図の影響が指摘されています。

  • 「サン=ラザール駅の線路」1877年 ポーラ美術館<br />19世紀の半ば頃、鉄道は著しく発達し、都市の人々は田園や海辺で休日を過ごすようになります。パリのほぼ中央に位置するサン=ラザール駅はパリで最初に建設された駅で、フランス北西部ノルマンディーの海岸に向かう路線の発着点であり、当時、フランスでもっとも多くの人々に利用されていた駅でした。モネは、戦争を避けてロンドンに亡命していた1870-1871年に目にしたターナーの作品に影響を受け、1877年の1-4月にはアルジャントゥイユを一時離れてパリに滞在し、サン=ラザール駅の連作を制作しています。この連作は、同年の第3回印象派展に出品されました。三角屋根の駅舎に発着する汽車が吐き出す煙と蒸気の様子が、力強く、いきいきとした筆使いでとらえられています。鉄道や駅をテーマとしたこのような絵画は、風景や風俗にみられる同時代性、近代性を表すものとして高く評価されています。

    「サン=ラザール駅の線路」1877年 ポーラ美術館
    19世紀の半ば頃、鉄道は著しく発達し、都市の人々は田園や海辺で休日を過ごすようになります。パリのほぼ中央に位置するサン=ラザール駅はパリで最初に建設された駅で、フランス北西部ノルマンディーの海岸に向かう路線の発着点であり、当時、フランスでもっとも多くの人々に利用されていた駅でした。モネは、戦争を避けてロンドンに亡命していた1870-1871年に目にしたターナーの作品に影響を受け、1877年の1-4月にはアルジャントゥイユを一時離れてパリに滞在し、サン=ラザール駅の連作を制作しています。この連作は、同年の第3回印象派展に出品されました。三角屋根の駅舎に発着する汽車が吐き出す煙と蒸気の様子が、力強く、いきいきとした筆使いでとらえられています。鉄道や駅をテーマとしたこのような絵画は、風景や風俗にみられる同時代性、近代性を表すものとして高く評価されています。

  • 「バラ色のボート」1890年 ポーラ美術館<br />モネは、1880年代後半から1890年にかけて、エプト川での舟遊びの情景を描いていますが、この作品は、モネの人物画の最後の大作であるとともに、水面下の水草の動きと神秘的な暗い光を描いた最初の試みでもあります。<br /><br />

    「バラ色のボート」1890年 ポーラ美術館
    モネは、1880年代後半から1890年にかけて、エプト川での舟遊びの情景を描いていますが、この作品は、モネの人物画の最後の大作であるとともに、水面下の水草の動きと神秘的な暗い光を描いた最初の試みでもあります。

  • 「グランド・ジャット島」1878年<br />この作品に描かれたグランド・ジャット島とは、パリの北西1.5km、ブーローニュの森の北、ヌイイとルヴァロワにまたがって位置する、セーヌ河に浮かぶ細長く全長約2kmと200mの二つからなる中州のことです。スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(1884-1886年、シカゴ・アート・インスティテュート蔵)でも有名な、19世紀半ば以降、舟遊びなどで人気のある行楽地でした。モネは、この行楽地の風景を、島の西端から見て描いています。曲がりくねった島の周囲の散歩道と暗い色彩で描かれた点景の人物たちは、いずれも奥行を表わしており、画面中央には、アニエールの鉄橋とクリシーの工場の煙突と灰色の煙が見えます。のどかな田園と産業化の要素の対比は、モネが1870年代後半によく用いた手法であり、この作品は、フランスの19世紀後半の社会と風景の変化の記録といえます。

    「グランド・ジャット島」1878年
    この作品に描かれたグランド・ジャット島とは、パリの北西1.5km、ブーローニュの森の北、ヌイイとルヴァロワにまたがって位置する、セーヌ河に浮かぶ細長く全長約2kmと200mの二つからなる中州のことです。スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(1884-1886年、シカゴ・アート・インスティテュート蔵)でも有名な、19世紀半ば以降、舟遊びなどで人気のある行楽地でした。モネは、この行楽地の風景を、島の西端から見て描いています。曲がりくねった島の周囲の散歩道と暗い色彩で描かれた点景の人物たちは、いずれも奥行を表わしており、画面中央には、アニエールの鉄橋とクリシーの工場の煙突と灰色の煙が見えます。のどかな田園と産業化の要素の対比は、モネが1870年代後半によく用いた手法であり、この作品は、フランスの19世紀後半の社会と風景の変化の記録といえます。

  • 「散歩」1875年 ポーラ美術館<br />この作品が描かれた1875年頃、モネはパラソルをさす女性と子どもという主題を頻繁に描いていました。登場人物は、モネの妻カミーユと息子のジャンです。自然豊かなアルジャントゥイユで、幸福に満ちた生活を送っていたモネ一家の日常生活の一場面をとらえた、親密な空気の漂う作品です。<br />本作品は、セーヌ河を挟んでアルジャントゥイユの対岸に位置する、ジュヌヴィリエで制作されたものです。晴れ渡った空と広々とした草原の広がりが、遠近法で表された並木で強調されています。光と影のコントラストのなかに人物の姿が溶け込んでいて、あたかも自然と一体化しているかのようです。青い空や強い陽射し、そして緑の草原は、夏の感覚を鑑賞者に呼び覚まします。

    「散歩」1875年 ポーラ美術館
    この作品が描かれた1875年頃、モネはパラソルをさす女性と子どもという主題を頻繁に描いていました。登場人物は、モネの妻カミーユと息子のジャンです。自然豊かなアルジャントゥイユで、幸福に満ちた生活を送っていたモネ一家の日常生活の一場面をとらえた、親密な空気の漂う作品です。
    本作品は、セーヌ河を挟んでアルジャントゥイユの対岸に位置する、ジュヌヴィリエで制作されたものです。晴れ渡った空と広々とした草原の広がりが、遠近法で表された並木で強調されています。光と影のコントラストのなかに人物の姿が溶け込んでいて、あたかも自然と一体化しているかのようです。青い空や強い陽射し、そして緑の草原は、夏の感覚を鑑賞者に呼び覚まします。

  • 「ヴァランジュヴィルの風景」1882年 ポーラ美術館<br />1882年にモネは、ノルマンディーの英仏海峡に面した海辺の避暑地プールヴィルと西隣のヴァランジュヴィルの周辺に2度にわたって滞在し、約100点の海景画を制作しました。この地域は、海に面する断崖と渓谷がみられるダイナミックな地形を特徴としています。この年の夏に、ヴァランジュヴィルの低地の前に生える木々を描いたのが本作品です。 青い海と空に向かって開かれた高台の風景を、横に並んだ背の高い木々が遮っています。水平線には、ディエップの白い断崖が描かれています。木々の間に風景を臨む構図は、西洋絵画ではめずらしいものですが、モネは日本の浮世絵の構図から着想を得たと言われています

    「ヴァランジュヴィルの風景」1882年 ポーラ美術館
    1882年にモネは、ノルマンディーの英仏海峡に面した海辺の避暑地プールヴィルと西隣のヴァランジュヴィルの周辺に2度にわたって滞在し、約100点の海景画を制作しました。この地域は、海に面する断崖と渓谷がみられるダイナミックな地形を特徴としています。この年の夏に、ヴァランジュヴィルの低地の前に生える木々を描いたのが本作品です。 青い海と空に向かって開かれた高台の風景を、横に並んだ背の高い木々が遮っています。水平線には、ディエップの白い断崖が描かれています。木々の間に風景を臨む構図は、西洋絵画ではめずらしいものですが、モネは日本の浮世絵の構図から着想を得たと言われています

  • 「睡蓮」1907年 ポーラ美術館<br />モネは1899年から睡蓮を描いていますが、現在、オランジュリー美術館の「睡蓮の間」に展示されている最晩年の「睡蓮」大装飾画にいたるまで、「睡蓮」を主題とした作品は約200点残されています。モネは、最初睡蓮の池と日本風の橋の風景を空間として捉えた作品を描いていますが、彼の興味は、次第に睡蓮の浮かぶ水面に向けられていきます。モネは同じモティーフを描くことで、季節や時間とともに変化する光の効果を捉えようとしました。太陽の光は、季節や天気、時間帯によって異なります。朝の光は白くまぶしく、夕暮れ時の光は桃色やオレンジに見えます。同じ主題で異なる時間帯に描かれた作品を並べることで刻一刻と移りゆく光の表情を表現できるのです。この作品では、水面のさまざまな光による変化を捉えることで、空の色や雲の動き、周囲の木々の存在、水面の下の世界などを表現し、画面外の世界の存在の暗示と象徴に満ちています。

    「睡蓮」1907年 ポーラ美術館
    モネは1899年から睡蓮を描いていますが、現在、オランジュリー美術館の「睡蓮の間」に展示されている最晩年の「睡蓮」大装飾画にいたるまで、「睡蓮」を主題とした作品は約200点残されています。モネは、最初睡蓮の池と日本風の橋の風景を空間として捉えた作品を描いていますが、彼の興味は、次第に睡蓮の浮かぶ水面に向けられていきます。モネは同じモティーフを描くことで、季節や時間とともに変化する光の効果を捉えようとしました。太陽の光は、季節や天気、時間帯によって異なります。朝の光は白くまぶしく、夕暮れ時の光は桃色やオレンジに見えます。同じ主題で異なる時間帯に描かれた作品を並べることで刻一刻と移りゆく光の表情を表現できるのです。この作品では、水面のさまざまな光による変化を捉えることで、空の色や雲の動き、周囲の木々の存在、水面の下の世界などを表現し、画面外の世界の存在の暗示と象徴に満ちています。

  • 「セーヌ河の支流からみたアルジャントゥイユ」1872年 ポーラ美術館<br />1871年12月から1878年1月までの間、モネが活動拠点としたのが、パリから10kmほど離れた、鉄道でおよそ15分の距離にある、セーヌ河畔の町アルジャントゥイユでした。セーヌ河が大きく湾曲し、川幅が広く、水深もあるこの地域では、夏に毎週ヨットレースが開催されており、1851年に鉄道が開通してからは、郊外の行楽地として人気を博しました。<br />モネはおそらくマネの紹介で、アルジャントゥイユに家を借りたと言われています。印象派の仲間たちは、夏になるとモネの家を訪れて、この地で共同制作を行っていました。モネが、小舟の上に小屋をしつらえた「アトリエ舟」で制作を始めたのもこの地でのことです。ヨットやボートが浮かぶ河の水面は穏やかですが、流れる雲の動きは、微妙に異なる諧調の灰色とすばやい筆致によっていきいきととらえられています。

    「セーヌ河の支流からみたアルジャントゥイユ」1872年 ポーラ美術館
    1871年12月から1878年1月までの間、モネが活動拠点としたのが、パリから10kmほど離れた、鉄道でおよそ15分の距離にある、セーヌ河畔の町アルジャントゥイユでした。セーヌ河が大きく湾曲し、川幅が広く、水深もあるこの地域では、夏に毎週ヨットレースが開催されており、1851年に鉄道が開通してからは、郊外の行楽地として人気を博しました。
    モネはおそらくマネの紹介で、アルジャントゥイユに家を借りたと言われています。印象派の仲間たちは、夏になるとモネの家を訪れて、この地で共同制作を行っていました。モネが、小舟の上に小屋をしつらえた「アトリエ舟」で制作を始めたのもこの地でのことです。ヨットやボートが浮かぶ河の水面は穏やかですが、流れる雲の動きは、微妙に異なる諧調の灰色とすばやい筆致によっていきいきととらえられています。

  • 下田にある上原美術館<br />大正製薬名誉会長を務める上原昭二氏が収集した近代絵画のほか、その両親が集めた近現代の仏像から、平安時代の仏像、写経まで、幅広いコレクションを収蔵している美術館。

    下田にある上原美術館
    大正製薬名誉会長を務める上原昭二氏が収集した近代絵画のほか、その両親が集めた近現代の仏像から、平安時代の仏像、写経まで、幅広いコレクションを収蔵している美術館。

    上原美術館 美術館・博物館

  • 「ジヴェルニー付近のセーヌ川」1894年 上原美術館

    「ジヴェルニー付近のセーヌ川」1894年 上原美術館

  • 「アムステルダムの港」1874年ヤマザキマザック美術館

    「アムステルダムの港」1874年ヤマザキマザック美術館

  • 「アムステルダムの眺め」1874年 ひろしま美術館<br />1870年に普仏戦争の戦火を逃れる為、ロンドンに渡ったモネは翌年、帰国の際にオランダに立ち寄り制作を行っています。

    「アムステルダムの眺め」1874年 ひろしま美術館
    1870年に普仏戦争の戦火を逃れる為、ロンドンに渡ったモネは翌年、帰国の際にオランダに立ち寄り制作を行っています。

  • 「セーヌ河の朝」 1897年 ひろしま美術館<br />1896年と翌年の夏、モネはジヴェルニーの自宅からほど近いセーヌ河に通い本作を含む「セーヌ河の朝」の連作に取り組んでいます。 

    「セーヌ河の朝」 1897年 ひろしま美術館
    1896年と翌年の夏、モネはジヴェルニーの自宅からほど近いセーヌ河に通い本作を含む「セーヌ河の朝」の連作に取り組んでいます。 

    ひろしま美術館 美術館・博物館

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