2024/06/26 - 2024/06/26
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kojikojiさん
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トラピックスの格安フリーツアーのホテルでは朝食が含まれていないので、どこで朝ごはんを食べるかを考えていました。せっかくなので奮発して「瓢亭」で朝がゆを頂こうと思いましたが、本店での朝がゆは7月と8月ということで別館を予約してありました。さすがにここは外国人の観光客も来ないのか、食事をしているのは奥の席に1組と我々だけでした。さすがに朝っぱらからお酒を飲むのはためらわれたのでお茶でお料理を頂きました。妻は初めて来たのでとても喜んでくれたので連れてきた甲斐がありました。お腹がいっぱいになった後は散歩がてらに「無鄰菴」に行くことにします。妻とは大昔に「菊水」に泊まったことがあり、その時に「無鄰菴」にも来ていたので懐かしい再訪です。2年前に日帰りバスツアーで小田原の「皆春荘」への行きましたし、目白の「椿山荘」は家からも近いので何度も行っています。山縣有朋の庭では同じ小田原の「古稀庵」に行けていないのがずっと気になっています。天気も良く「無鄰菴」の庭を散策した後は「南禅寺」に向かいます。さすがにここはインバウンドの観光客で賑わっていました。「水路閣」で写真を撮った後は「金地院」の庭を観に行きます。ここへ来るのは50年振りでしたが、入場券のチケットがその当時と同じだったの驚きました。同じようなことは妙心寺の塔頭でも思ったことがあるのですが、1000年の都では50年くらいのことは大したことではないのかもしれません。神宮通まで戻って「平安神宮」の赤い鳥居を眺めつつ、円山公園方面に進みます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- タクシー スカイマーク JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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3日目の朝はタクシーに乗って南禅寺近くの「瓢亭 本店」まで移動しました。格安ツアーなのでホテルの朝食が付いていないのが良かったです。
瓢亭 本店 グルメ・レストラン
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本当は本店で「朝がゆ」をいただきたかったのですが、本店で食べられるのは7月と8月になり、ここでいただくことは出来ません。
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「瓢亭」の創業は天保年間で南禅寺門前の素朴な腰掛け茶屋からはじまったと言われます。平屋で床几と笠とわらじを飾っているのですが、店の板戸が閉まっているので雰囲気は感じられません。
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今日の朝食は隣にあるこちらの「瓢亭 別館」になります。ここに来るのは初めてです。
瓢亭 別館 グルメ・レストラン
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妻は「瓢亭」に来るのは初めてです。元気なうちにいろいろな所に連れて行ってあげたいと思います。
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午前9時に予約を入れてあります。今回の6日間の旅では1軒を除いてすべて事前に予約しておきました。
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暖簾をくぐると路地の設えになっていて、縁台の上に円座が置かれてありました。何となくお茶会に招かれたような気分になります。
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池に面した大きなガラス張りの部屋が2つあるようで、手前の部屋の明るい窓側の席に案内されました。この辺りだと琵琶湖疎水の水が引き込まれているので、池にシジミが湧かないか尋ねてみましたが、そんなことは無いそうです。同じ水が引かれているであろう平安神宮の内苑の水路の砂の中にはシジミがたくさんいて、従姉と獲りに行ったことがありました。
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杉蓋の乗った麦藁手の湯?みが出てきました。京都のお正月で必ずいただく大福茶(おおふくちゃ)には「結び昆布」と「小梅」が入っています。
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平安時代に京の都に疫病が流行した際に僧侶が病者に昆布と梅干し入りのお茶を振る舞うと疫病がおさまったことがはじまりと言われています。村上天皇がその徳にあやかる意味で元旦に大福茶を飲むようになり、お正月の行事として庶民の間に広まりました。
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お料理が並びました。朝からお酒など頂きたいところですが、ここは我慢します。
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自家製のジンジャーエールの冷たいのと温かいものをいただきました。
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八寸は有名な瓢亭玉子と季節の取肴が盛り付けてあります。焼いた鱧にに甘く炊いたさつまいも、木の芽の薫り高い鯖寿司、吹き墨の器にはジュンサイの酢の物が入っています。
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幕末の出版物の「花洛名勝図会」には「瓢亭の煮抜玉子は近世の奇製なりとて酒客あまねくこれを食悦す」とあり、当時からたいへんな人気だったそうです。京都ではゆで卵を煮抜きといい、我が家でもそう呼んでいました。
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瓢形の器は三ツ重ね鉢になっていて、それぞれ和え物、蒸し物、炊き合わせが盛り付けられています。上段である左には濃厚な胡麻豆腐、二段目には出し汁に鯛の煮漬けと細いモズクに大根おろしが添えられています。下段は湯葉と南瓜とえんどう豆、オクラとタコの炊き合わせです。
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妻は料理上手で、母の味もほとんど引き継いでくれています。一度食べたものは家で味を再現してくれるので、旅先でも美味しいものを食べてもらうようにしています。ハンガリーのグヤ―シュやロシアのボルシュも上手に再現するのが凄いと思いますが、ゆで卵だけは腹が立つほど下手くそです。
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ここで安南のトンボが飛んだ湯呑みに入った番茶で一休みです。京番茶が大好きで、特に茶碗に盛った白ご飯の上に焼いたお餅に醤油をたっぷりつけたものを乗せて、その上から番茶を掛けたお茶漬けは最高です。これも京都の祖父に教わった食べ方ですが、誰に話しても「炭水化物に炭水化物?」と怪訝そうな顔をされます。
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祇園界隈で夜遊びした京の旦那衆が芸妓さんと連れだって円山公園を抜けて早朝に来店したことで生まれたのが「朝がゆ」です。寝ている瓢亭の主人を起こし「何か食べさせて」と言い、急遽ありあわせで用意したのがこのお粥だったといいます。
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刳り貫き盆の上に建水のような器にお粥が入り、蓋つきの塗りの片口には熱々の甘い葛の醤油餡が入っています。
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蛸唐草の茶碗にお粥を盛って、醤油餡を掛けていただきます。大満足の朝ご飯でした。
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すぐ近くには「無鄰菴庭園」があるので久しぶりに寄ってみます。ここは妻と一緒に来たことがあります。一昨年の暮れに小田原の山縣有朋の別荘だった「皆春荘」にも行ったので、もう一度寄ってみようということになりました。「皆春荘」に隣接する別邸「古希庵」は平日で行けなかったのが残念です。
無鄰菴庭園 名所・史跡
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門から屋敷までの間の敷石は格式の高い「真の延段」となっています。山縣有朋の邸宅というとこの「無鄰菴」と小田原の「古希庵」と目白の「椿山荘」が有名です。
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山縣有朋の別邸だった「無鄰菴」は南禅寺界隈別荘の1つで、敷地は三角形の形状で広さ約3100平米あります。1941年の昭和16年に寄贈されて京都市が管理している。その庭園は1951年の昭和26年に国の名勝に指定されています。
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山縣が別邸無鄰菴をこの地に築いた背景には東山山麓の南禅寺下河原一帯を別荘地として発展させようとしていた当時の政財界の動きがあったようです。この一帯にあっ南禅寺の塔頭は明治初期の廃仏毀釈で他の寺院と同じく寺領の上知を命ぜられ、境内の縮小や塔頭の統廃合を余儀なくされました。このとき上知された寺の土地はやがて民間に払い下げられていきます。
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煉瓦造り2階建ての洋館の見学は数寄屋造りの母屋から表に出て見学します。
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洋館は新家孝正の設計で1898年の明治30年に竣工しています。洋館でありながら内装は和風の格天井を持った重厚な造りになっています。
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この洋館2階の部屋はしばしば要人との会見に用いられました。日露戦争開戦前の1903年の明治36年4月21日にはここで「無鄰菴会議」が行われました。その時の顔ぶれは元老の山縣有朋、政友会総裁の伊藤博文、総理大臣の桂太郎、外務大臣の小村寿太郎でした。
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当時のロシア帝国は強硬な南下政策をとっており、満州のみならず北朝鮮でも勢力の拡大を進めていました。桂はロシアの満州における権利は認めても、朝鮮における日本の権利はロシアに認めさせると考えました。これを貫くためには対露戦争も辞さないという態度で対露交渉にあたるため、この方針への同意を伊藤と山縣から取り付けようとしていました。
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満韓交換論とは満洲でのロシア帝国の権利を認める代わりに、朝鮮半島での日本の権利を認めさせるという考えで、1900年頃に伊藤博文らが提唱しました。
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1903年8月に日本はロシアに満韓交換論を提示したが、軍事的に勝るロシアはこれを拒否したばかりでなく、エヴゲーニイ・アレクセーエフ極東総督らは朝鮮半島を南北に分け、南側を日本の勢力下に北側を中立地帯として軍事目的での利用を禁ずるという提案を突きつけてきます。
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これは事実上ロシアの支配下に朝鮮半島が入ることを意味し、当時の日本としてはのめる提案ではなく、翌1904年に日本はロシアと国交を断絶します。満韓交換論は完全に消滅し、時代は日露戦争へと向かうこととなります。
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山縣有朋は長門国萩川島、現在の萩市に生まれ、幕末の志士で明治から大正時代の軍人で政治家です。吉田松陰の松下村塾に学んだ後に奇兵隊に参加し、戊辰戦争で活躍します。明治政府の陸軍大輔となり近代軍制を確立し、第1次伊藤内閣の内務大臣として地方自治制を定め、1889年の明治22年に内閣総理大臣となり、2度の組閣し晩年も元老として政界や軍部に指導力を発揮します。
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伊藤博文に始まり、山縣有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三と8人の総理大臣を輩出した長州藩に始まる山口県は不思議な土地だと思います。萩で松下村塾の小さな建物を見てもその理由は分かりませんでした。
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「無鄰菴」の庭園には藪内流燕庵写しの茶室があります。「燕庵(えんなん)」は藪内家を象徴する茶室で、京都市下京区にある古田織部好みの例として知られています。残念ながら「燕庵」には行ったことがないのでこの建物がすべて写しなのかまでは分かりません。
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下地窓は土壁の一部に本塗りを施さず、竹や葭(よし)の小舞下地を露出させた窓です。室内側には明かり障子があり、ここでは外側に掛け障子用の折れ釘が見えます。窓枠を必要とせずに開口部を形成出来るため、形や位置を自由に決められます。これも織部が始めたものです。
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板張りの縁台のようなスペースが建物の中でも外でもない不思議な感じがします。本来の「燕庵」は茅葺屋根入母屋造りなので、この茶室はそこまで踏襲されていないようです。もしくは後年になって銅板葺きに変わったのかもしれません。
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真塗りの壁に見える柱の組み方が面白いです。これで屋根が支えられるのかちょっと心配になります。
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三畳台目に一畳の相伴席を付けた、いわゆる「燕庵形式」と呼ばれる形式で、古田織部の好みと伝えられています。客座とひと続きなので、左側の襖を外すことで座敷を広くも狭くも使うことが出来ます。
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若い頃に叔母に連れられて今日庵の庭園と茶室を見学させてもらったり、山崎の妙喜庵の「待庵」にも何度か伺ったことがありますが、叔母も歳を取ってしまってそんな機会も減ってしまったのが残念です。
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この松は明治天皇から下賜された2本の松の代変わりしたもののようです。
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下賜された2本のうちのもう1本は根元から切られたままになっています。
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広い庭園は山縣が7代目植治(小川治兵衛)に造らせたもので、山縣三名園に数えられます。東山を借景とし明るい芝生に琵琶湖疏水を引き込み浅い流れを配した池泉廻遊式庭園で、近代的日本庭園の先駆けとも言えるものです。やはり近いうちにまだ行っていない「古稀庵」に行かないとなりません。
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「無鄰菴」に琵琶湖疏水の水を引き込むにあたっては「防火用水」の名目が使われたそうです。疏水の建設には多額の税金がかかっており、京都市としては庭園のためでは許可できなかったようです。
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広い庭園を歩く人の姿はなく、ここを見る限りでは京都のオーバーツーリズムなんてことは全く感じられません。
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庭園の一番奥には三段の滝があり、ここから庭園は始まります。滝口では豪快なながれの音とともに白く見える様子(布落ち)があります。サイフォンの原理を使って滝口まで持ち上げる利水方法は現在もそのまま利用されています。
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芝生の庭の前辺りから見る母屋が一番美しいです。御殿場の岸信介の「東山旧岸邸」や大磯の「旧吉田茂邸」も見学しましたが、元勲の邸宅巡りも面白いものです。
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有朋は植栽にも斬新な感覚を持っていて、松や梅と違って普通は庭木としてはあつかわない樅をとり入れるようにオーダーしました。そのためか東山の借景も美しい庭園です。
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妻は日差しも強いので庭を歩きませんでした。あまり待たせるといけないので早めに母屋に戻ります。
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ポンペイの横断歩道のような飛び石を振り返ると東山が一段ときれいです。お盆に大文字山に登ったのももう40年前のことです。また登ってみようかなという気に少しなりました。
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「無鄰菴」を出て仁王門通りを歩くことにします。ここは「南禅寺船溜」という場所で、停船場として荷物の積み下ろしや船頭たちの休憩場所として利用されていました。
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「蹴上インクライン」の下流に位置して鴨東運河の起点となっています。現在は中央にインクラインの高低差を利用した大きな噴水があります。
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久し振りに「蹴上インクライン」を眺めることが出来ました。疏水上流の「蹴上船溜」と下流の「南禅寺船溜」を結んだ全長約582メートルの傾斜鉄道で、建設当時世界最長でした。約36メートルの高低差を舟を台車に乗せてケーブルカーと同じ原理で運びました。
インクライン 名所・史跡
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インクラインによって舟は貨物の積み下ろしをせずに高低差を乗り切ることができました。現在はレールが形態保存されています。インクラインの中は自由に歩くことができます。
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「對龍山荘」は現在はニトリホールディングスの持ち物になっています。この時は6月だったので公開されていませんでしたが、2024年9月から一般公開されています。小樽を旅していても思いましたが、「銀鱗荘」や市内の歴史的建造物を上手に公開していて会社としての好感度は高いです。
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「南禅寺」へ向かう途中で福地橋を渡ったのは「菊水」の姿が見たかったからです。ここは妻と結婚前に初めて一緒に旅して宿泊したところでした。
南禅寺参道 菊水 宿・ホテル
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「菊水」では大人しく食事も楽しんでお酒もいただきましたが、翌日は彦根の「八景亭」という彦根城内の料亭で酩酊して雁行の廊下を仲居さんと2人で片方の足を持って玄関まで引きずって、タクシーに乗せて「琵琶湖ホテル(びわ湖大津館)」まで連れて帰りました。
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再び「南禅寺」に向かって歩きます。中学1年生の時に隣に住んでいた友人と2人で京都と奈良を旅したことがありました。そのとき2人で「奥丹」で湯豆腐を食べたことを思い出しました。池の上に張り出した小上がりで食べた湯豆腐はドキドキで味もよく覚えていません。その当時1カ月の小遣いが1000円以下でしたから、莫大なお金を支払った記憶だけ残っています。
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ようなく「南禅寺中門」までたどり着きました。ここに来るのも何十年か振りです。
南禅寺 寺・神社・教会
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「南禅寺」は1291年の正応4年に亀山法皇が無関普門禅師を開山に迎えて開創した臨済宗南禅寺派の総本山です。足利義満によって京都五山および鎌倉五山の上に置かれる「五山之上」とされ隆盛を誇ります。
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「中門」を潜ってから「勅使門」まで進んで、「三門」に向かうことにします。一番南禅寺を感じられるルートだと思います。
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「森永湛堂老師の句碑」
「この門を 入れば涼風 おのづから」とありますが、なんとなく木立で日光が遮られて涼しく感じるかもしれません。 -
巨大な「佐久間灯籠」は三門落慶の際に佐久間勝之が寄進したもので、対ではなく片1基だけなので「佐久間玄藩の片灯籠」とも呼ばれています。大坂夏の陣で活躍した佐久間勝之が戦没者の菩提を弔うために寄進したもので、刻まれる銘は南禅寺金地院の以心崇伝(いしんすうでん)の書と伝えられます。
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そして正面には石川五右衛門の「絶景かな。絶景かな」で知られる重要文化財の「三門」がそびえています。近くには五右衛門の辞世の句「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」の碑もあります。
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「三門」は日本三大門の1つに数えられるほどの名門で、別名「天下龍門」と呼ばれます。1628年の寛永5年に大坂夏の陣で戦った武将や兵士の慰霊のために藤堂高虎により寄進されました。
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「三門」をさらに進むと1291年の正応4年創建の「法堂」が見えてきます。
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天井に描かれた蟠龍を見上げがちですが、内部の須弥壇上中央の本尊釈迦如来と右側に獅子に騎る文殊菩薩、左側に象に騎る普賢菩薩の三尊像を参拝します。
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現存の法堂は1909年の明治42年に再々建されたもので、今尾景年の蟠龍は水を吐いて火を防ぐ意から描かれたのでしょうか。
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角塔婆はもともと供養塔としての意味を持った五輪塔をルーツとする卒塔婆です。角塔婆も五輪塔と同じく、空(宝珠型)、風(半球形)、火(三角形)、水(円形)、地(方形)の5つの要素から構成され、それにちなむ梵字(古来インドで仏様や菩薩様を表したとされる文字)が記されます。
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「水路閣」は赤レンガのアーチで「南禅寺」の和風建築にマッチして独特な雰囲気のある美しさを湛えています。琵琶湖疏水の水路橋で境内の景観に配慮し、田邉朔郎が設計とデザインを行いました。レンガと花崗岩造りのアーチ型の橋脚が美しいです。
水路閣 名所・史跡
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さすがにここは有名なようで、海外からの観光客の姿もありました。
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ほんの数週間前にチュニジアで古代ローマの水道橋を見てきたばかりなので、特に感慨深いものがあります。
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今回の旅は近世の日本の建築を訪ねるのがテーマなので、ここへは来なければと思っていました。「インクライン」はほぼ素通りしてしまったので次回はもう少しじっくり見学しなければと思います。
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上部の水路に水が流れる様子も見ることもできました。
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青紅葉がとてもきれいです。紅葉もきれいですが、人の少ない青紅葉も捨てがたいです。
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おインバウンドの観光客が少ないところを選んで旅しているせいもありますが、ここまで人が少ないとオーバーツーリズムは本当なのだろうかと疑ってしまいます。
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臨済宗らしい木組みの「本坊」を横目に参拝を終えます。
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「瓢亭」で朝がゆを食べてからだいぶ時間が経ったのでお腹も空いてきました。観門亭という売店に立ち寄って飲み物を買い、ちょっと休憩します。ここで探していた「豆富」の5種類の味が楽しめるジャンボ袋が買えました。現在店舗が改装工事中でなかなか他の場所で見つけることが出来ません。
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豊穣庭園よりも見たかった「金地院」に向かいます。
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ここへ来るのはちょうど50年振りで、中学2年生の時に来て以来です。妻は初めて参観です。
金地院 寺・神社・教会
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「大門」を潜ってチケット売り場の小屋に行ってお支払いするとチケットとパンフレットを手渡されました。驚いたのはそのチケットも白黒のパンフレットも50年前と同じものだったことです。「明智門」を潜って庭園の見学に移ります。
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「明智門」は名前の通り明智光秀が大徳寺に寄進して建立された門です。もともとあった聚楽第から移築された金地院の唐門が明治になってから豊国神社に移築されたことに伴い、大徳寺から金地院に移築されました。かつての唐門は本堂から境内の東照宮への参道の門として移築されました。「弁天池」には睡蓮の葉で覆われています。もう少しすると花も満開なのだと思えます。
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金地院(こんちいん)は「南禅寺」の塔頭で江戸幕府の法律や外交を担った僧の以心崇伝が住したことで知られています。僧録司が置かれ、一塔頭としての寺院に留まらず江戸時代を通じて五山十刹以下全ての住職の任命権を持つ事実上の最高機関とされました。また10万石の格式を持ち「寺大名」とも呼ばれ、小堀遠州作の庭が国の特別名勝に指定されています。
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「南禅寺」も観光客の姿はまばらでしたが、塔頭である「金地院」はほとんど訪れる人の姿もありません。まっすぐに延びる延段(のべだん)がとてもきれいです。
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アジサイは日本の原種のガクアジサイから改良した園芸品種で、ヨーロッパで品種改良されたものはセイヨウアジサイと呼ばれます。博物学者シーボルトはオランダに帰還してから日本植物誌を著した際にアジサイ属の新種記載をしています。シーボルトは自著の中でアジサイが日本で「オタクサ」と呼ばれていると命名の由来を説明していますが、そのような事実はないと牧野富太郎は説いています。
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牧野は日本国内でこの呼称が確認できなかったことからシーボルトの愛妾の楠本滝(お滝さん)の名を潜ませたと推測し、美しい花に花柳界の女性の名をつけたとして強く非難しています。そう言いながら自らも新種の笹に自らの妻の名から「スエコザサ」と名付けています。連ドラの影響か牧野富太郎にゆかりの「練馬区立牧野記念庭園」や「高知県立牧野植物園」、「北川村モネの庭マルモッタン」にも行きました。いろいろ調べる中で業績はすごくても人としては最低だなと感じました。
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さらに延段を進むと石鳥居が現れます。寺院の中に鳥居というのは不思議ですが、これは徳川家康の遺言による3つの東照宮のうちの1つがあり、江戸幕府による増改築が度々なされました。
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「明智門」が元々あったところに建つ「唐門」は工事中で全体像を撮れないのが残念です。権現造りの美しい社殿が奥に見えています。
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「日光東照宮」と「久能山東照宮」と「鳳来山東照宮」が3つの東照宮かと思っていましたが、ここがそのうちの1つだとは知りませんでした。
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家康は1616年の元和2年に側近の以心崇伝、南光坊天海、本多正純を集め「(遺体は)久能山に納め奉り、御法会は江戸増上寺にて行はれ、霊牌は三州(三河国)大樹寺に置れ、御周忌終て後下野国日光山へ小堂を営造して祭奠すべし。京都には南禅寺中金地院へ小堂をいとなみ、所司代はじめ武家の輩進拝せしむべし」と遺言したとされます。
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社殿は1628年の寛永5年に造営され、拝殿は総漆塗りで相の間と本殿は軸部(柱や梁)を丹で壁や扉は白・黄・緑といった極彩色で彩られています。また拝殿の天井には狩野探幽の筆による「鳴龍」が描かれており、その欄間には土佐光起が描き青蓮院宮尊純法親王の書になる「三十六歌仙」額が掲げられています。
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ここには家康の遺髪と念持仏を祀られています。
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日航の東照宮の絢爛豪華な極彩色の彫刻とは比べられませんが、雰囲気は伝わってきます。
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唐獅子牡丹の彫刻などに松竹梅など「日光東照宮」を連想させますが、他の東照宮には行ったことがないのでいつかは行かなければと思います。
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「開山堂」へは急な石段を下っていきます。気が付きませんでしたが、この高さをいつの間にか登っていたということです。
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「開山堂」は金地院を再興した以心崇伝(いしんすうでん)のです。後水尾天皇の勅額が掲げられ、左右両側には十六羅漢像が安置されています。
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僧でありながら幕府の基礎づくり大きな影響を及ぼした崇伝は天海とともに「黒衣の宰相」といわれ、1625年の寛永3年に後水尾天皇から円照本光国師の号を賜りました。
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左手に「方丈」と白砂の庭園が見えてきました。ここからも東山が借景となって美しい山並みを見せています。
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「方丈」前に広がる「鶴亀の庭」は三代将軍の徳川家光を迎えるために小堀遠州や石組の名手の賢庭に作庭された江戸時代初期の中でも最も格式が高い鶴亀蓬莱庭園の1つで、真ん中に「蓬莱石組」と向かって右手に「鶴島」、左手に「亀島」が石組により表現されています。
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真ん中に「蓬莱石組」と平らな赤みがかった岩は「礼拝石」です。祈りの対象は「鶴亀の庭」の裏手にある徳川家康を祀る東照宮というわけです。
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左手の「亀島」は右を向いた亀の姿に似せてあります。
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右手に「鶴島」は左側の平らな長い岩が鶴首で、その右側は広げた翼になります。これらについて説明は特にないので、事前に知っておかないと鶴亀の姿すらわからないと思います。
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障壁画製作は崇伝から狩野探幽に委嘱した記録が残っており、画題の選定は探幽が行ったものであるようですが、探幽が自ら作画に携わったか否かについては定かではないようです。研究者によると探幽の指揮のもと、実際の作画は「富貴の間」「次の間」は狩野尚信、「室中」「鶴の間」は狩野信政が担当したと推定されています。
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「金地院」には長谷川等伯の描いた襖絵の「猿猴捉月図」があり、こちらは別料金で拝見できるということでしたが先を急ぐことにします。
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同じルートを「瓢亭」まで戻り、さらに通りを西に進むと「南禅寺 総門(南禅惣門)」に差し掛かりました。ここまでが往時の南禅寺の寺領だと思うととてつもない広さだと感じます。
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神宮通まで出て、「平安神宮」の鳥居を拝んで「円山公園」方面に進みます。そろそろお腹も空いてきました。
平安神宮 寺・神社・教会
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