2024/07/07 - 2024/07/07
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たびたびさん
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四日目は、浦添から首里を散策して。夕方からはコザに移動、エイサーナイトを拝見します。当初は、この日から慶良間諸島に入るつもりだったのですが、エイサーナイトがあるという情報を得て、急遽、日程変更。慶良間諸島の一泊二日が沖縄最終日に重なったことで、慶良間からの帰途は夕方のはずが午前中になってしまうのですが、これだと、その代わり、那覇での時間が増えるので、それなら浦添も回れます。つまり、慶良間諸島でゆっくりという選択とエイサーナイト+浦添という選択の二つを天秤にかけたわけですが、やっぱり私的には後者ですよね。エイサーは新宿エイサーまつりがあったり、その他の祭りでもゲスト出演というのは少なくないのですが、コザはエイサーの本場だし、それを見れる機会はなかなかないですからね。もうひとつの浦添も沖縄の歴史では重要な場所なのですが、ちゃんと回ったことはないのでこれまでもやもや。たぶん、首里の散策だけでは中途半端になることも見えていましたからね。もちろん、慶良間も素晴らしいに違いないのですが、要はまだまださらに沖縄を理解するための旅の途中。この選択は仕方がなかったかなと思います。
そういうことで、冒頭では、浦添城や浦添史とエイサーナイトについて触れておきたいと思います。
浦添城跡は、12~15世紀の初頭、琉球の王統である舜天、英祖、察度の3王朝10代にわたって王城だった城とされていますが、それがいわゆる浦添史。250年に渡って、本島中部一帯を支配下にしていたとされます。ただ、舜天は伝説上の王統のようで、あまりはっきりはしない。英祖王統、5代90年からがたぶん実在したであろうとされています。英祖王統は4代目の玉城王の時代に国が乱れ、中山・北山・南山の三山に分立。結果、玉城王は、三山のひとつ中山王の位置づけに。そして、英祖王統最後の西威王が亡くなると察度王統二代56年が始まります。
その後、三山を統一したのは尚巴志王。南山の佐敷按司だった尚巴志王ですが、1406年に中山の察度を1416年に北山を滅ぼし、1429年に南山を滅ぼして、琉球王国最初の統一王朝を成立させました。その後、統一王朝の王城は、浦添城から中山の城のひとつであった首里城に移ることになります。
つまり、アマミキヨの開闢神話から始まって、有史の時代が始まるのは浦添史から。また、琉球王国は最初の統一王朝とはいえ、英祖王統の復活という捉え方も不可能ではないでしょうし、琉球王国のルーツが浦添という考え方も、かなり納得感はあるのではないかと思います。
なお、その後の首里と浦添の関係ですが、尚家には、第二尚氏第三代国王尚真の長男・尚維衡を祖とする浦添按司家と、尚真の第五子・尚清王系統の首里尚家ができました。本来であれば、尚維衡が第四代国王となるところでしたが、政争に敗れ、浦添に落ちて浦添按司家となったのですが、第六代の尚永王に男子がないまま亡くなったことから、尚永王の娘婿という形で浦添按司家から第七代国王となったのが尚寧王。浦添から首里まで道を整備したり、最後は浦添ようどれに埋葬されるなど浦添との関係は深いものがありました。ただ、第八代国王は再び首里尚家に戻っているので、尚寧王がワンポイントであったことは否めないですけどね。
そして、最後は浦添ようどれについてですが、浦添ようどれは、浦添城の北側中腹にある王墓エリア。この辺りは城壁がとても立派に整備されていて、専用の入り口を進んだ先です。
二つの墓室があって、向かって右側の西室が英祖王陵、左側の東室が先に述べた尚寧王の陵。尚寧王は第二尚氏八代の王ですが、浦添按司家の出なので、首里尚家の王墓、玉陵(たまうどぅん)には入れなかったようです。ただ、英祖王統は琉球の統一王朝。系譜から言っても琉球王国のルーツと取れなくもないし、浦添は尚寧王の生まれ故郷。浦添ようどれで、英祖王陵の西室と尚寧王陵の東室が並ぶ姿は、沖縄の歴史をある意味象徴しているようにも思います。
二つ目のエイサーナイトは、沖縄全島エイサーまつりのサブイベントです。エイサーはコザが本場ということで、会場のコザ運動公園は熱気がムンムン。4~5組の演技でしたが、踊り手の真剣さがこちらにも伝わってきて、さすが。どうかすると圧倒されるような迫力がありました。
ところで、エイサーはどうしても大太鼓の演者に目が向きがちですが、その中で、今回はイキガモーイ(男手踊り)の達人を発見。例えば、阿波踊りでも、提灯やうちわを持って踊るスタイルがあって確かにエッジが効いていて楽しいのですが、本当の名人は何も持たないというのです。寿司をつまんだり、麻雀をやるしぐさとか指先まで使っていろんな表現をして自由自在の動きをするのですが、このイキガモーイ(男手踊り)もそれに通じるような動き。手先指先までの全身を使った力強いリズムのある動きは、ちょっと鳥肌モノでした。こういう見方が正しいかどうかは分かりませんが、私としてはけっこう満足。本場に来ないとこの気づきはなかったのではないかと思いました。
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那覇市内のホテルを出発。ゆいレールで、浦添散策の出発点、浦添前田駅に到着です。
安波茶橋と石畳道を目指しますが、その途中に、中頭方西海道の案内です。
中頭方西海道は、首里城を起点に平良、大名を通り、浦添の沢岻、経塚、安波茶、仲間、牧港を経て読谷に至り、さらに北の恩納、国頭方面に繋がる道。浦添で、琉球王国時代の古くから信仰されている普天満宮の参道、普天間街道に分岐します。第二尚氏王統の第9代国王、尚賢王が1644年に普天満に参詣し、これ以降、年9月に国王一行の普天満参詣が始まったということです。 -
看板からしばらく下っていくと
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イチオシ
安波茶橋と石畳道です。
セットで国の指定史跡となっていて、これは、1597年、尚寧王の命で浦添グスクから首里平良までの宿道を整備したときに造られたもの。さりげなくいい仕事をしています by たびたびさん安波茶橋 名所・史跡
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北橋と南橋が連続していて、その前後の道の石畳と合わせて、とてもなだらか。さりげなくいい仕事をしています。
なお、改めてですが、尚寧王は、冒頭に触れた浦添按司家出身でありながら第二尚氏王統、第7代国王となった人物です。 -
北の方に向かって。
仲間樋川は、浦添市内でも最大級の井泉の一つだとか。古くから集落の日常飲用水や生活用水として利用されていたようで、今でもしっかりとした構えは健在です。浦添市内でも最大級の井泉の一つ by たびたびさん仲間樋川 名所・史跡
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ただ、周囲はアップダウンもあるし複雑な路地が入り組むエリア。ナビを頼りにしないとまずたどり着けません。
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そこからさらに北に向かうのですが、かなり迂回するし、峠も越えるしで大変なことに。やっとのことで辿り着いた当山の石畳道です。
ごつごつした石でけっこう歩きにくいです by たびたびさん当山の石畳道 名所・史跡
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道の脇に、国指定史跡”普天間参詣道”の説明板がありまして
その説明によれば、先ほども触れましたが、17世紀に整備され、毎年9月、国王はこの道を通って首里城から普天間宮に参詣したという道。この辺りは馬が転ぶほど勾配が急なことから「馬転がし」とも呼ばれていたそうです。
ただ、勾配は勾配として、道はごつごつした石。けっこう歩きにくいです。 -
しばらくまたもと来た道を戻るようにして、浦添グスグようどれ館に到着。
浦添グスクと浦添ようどれの歴史を紹介する資料館。ここは浦添観光の拠点といった位置づけですね。また、浦添城散策の出発点でもあり、なにはともあれ、浦添観光の際にはここを目指すということでしょう。 -
イチオシ
浦添ようどれは、冒頭に触れましたが、英祖王(在位1260-1299)の王統と尚寧王(在位1589-1620)の陵墓のこと。館内には陵墓内部を復元した展示室があって、これが目玉ですね。
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浦添城跡の案内マップも確認して。
では、浦添城跡へ向かいます。 -
さっそく、浦添ようどれへの道ですね。
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城壁にへばりつくような位置にあるのですが、
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造りはかなりがっちりしていて、ちょっと別格の構えですね。
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手前が西室。
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イチオシ
英祖王の陵で、
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その奥が東室。
尚寧王の陵です。 -
浦添ようどれの入り口に戻って。
改めて、浦添城跡の散策道を進みます。伊波普猷の墓は、その途中から右の脇道に少し入ったところ。
伊波普猷(1876-1948)は、言語学や歴史学などから沖縄の文化や歴史を研究する「沖縄学」の創始者。浦添が首里以前の古都であったことを初めて論じた人物でもあり、なるほどここに墓があることは意義のあることかもしれません。「沖縄学」の創始者 by たびたびさん伊波普猷の墓 公園・植物園
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再び、散策道を進むと
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イチオシ
浦添の市街が見渡せる場所が現れます。
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ほどなく、浦添城跡展望台にも到着。結局、浦添グスグようどれ館から歩くと15~20分くらいですね。
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展望所から、改めて浦添市街を見渡します。
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四方を見下ろせてけっこう雄大な眺め。英祖王統がここを拠点としていたのはなるほどなという感じです。
なお、浦添城跡から浦添前田駅には、ここからけっこう真っすぐに降りて行く道があって、帰りは楽ちんでした。 -
浦添の散策を終わって、首里駅に戻ってきました。ここからは、夕方のエイサーナイトの前に首里の散策です。
聞得大君御殿跡は、首里駅からも近い国道82号線沿い。
ここは琉球王国時代の最高女神官であった聞得大君加那志の神殿及び住居跡。
尚真王代に神女組織が整備され、その最高位が聞得大君。国王を守護し、国王の長寿や国の繁栄、五穀豊穣、航海安全を祈願したということです。琉球王国時代の最高女神官であった聞得大君加那志の神殿及び住居跡 by たびたびさん聞得大君御殿跡 名所・史跡
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儀保殿内跡も、聞得大君御殿跡の並び。
琉球王国時代の高級女神官の一人、儀保大阿母志良礼の神殿及び住居跡。最高女神官が聞得大君。その下に首里(シュイ)・真壁(マカベ)・儀保(ジーブ)の3人の女神官が置かれ、聞得大君を補佐したということです。 -
西来院開山は、1573~1619年に建立されたという臨済宗妙心寺派のお寺。山号の達磨峰という石柱に重々しい山門が目立っていて、山門をくぐるとすぐが本堂。もともとは、観音菩薩を本尊とする寺。明治時代にここに移転してきたようです。
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国王頌徳碑は、碑文は、第二尚氏王統の第4代国王、尚清王の徳を讃えた碑。碑には久高島や斎場御嶽の遙拝所である弁ヶ嶽への参道を石畳道にしたとか書かれているようです。なお、もともとは琉球王国時代の1543年に建立された石碑ですが、沖縄戦で破壊されたため、これは復元された石碑です。
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ここから上の毛を上がって、首里城に向かいます。標識が出ていたので、このコースを行きましたが、こんな上り道は余計でしたね。
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その先は、東のアザナの外壁でした。
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外壁に沿って
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首里城の入り口に向かいます。
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ちなみに、東のアザナは、首里城の内側。城壁の東の端に建てられた櫓のこと。首里城では最も高い海抜140mの地点にあります。
外壁の方からその奥にある櫓を見上げました。遠回りにはなりましたが、もしかしたら、この辺りは首里城の外壁が一番美しい場所ではないかと思います。 -
さて、
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表通りの方に下りてきました。
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門が見えてきて、
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これは、久慶門。女性専用だった、首里城外郭の北に位置する通用門。
首里城の観光を終えた人はここが出口です。 -
イチオシ
久慶門の正面エリアをいくつか。
旧円覚寺放生橋は、旧円覚寺の山門を右手の方から回り込むと見ることができます。
遠目で見ることになりますが、欄干は中国から持ち込まれたと考えられている輝緑岩でできていて、親柱の柱頭には蓮座の上に子づれの獅子の彫刻とか。小さな橋で古びてもいますが、今でもそれなりの美しさと存在感。一見の価値ありです。今でもそれなりの美しさと存在感 by たびたびさん旧円覚寺放生橋 名所・史跡
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天女橋は、円鑑池の北岸から中島へ架かる高欄付石造アーチ橋。中国南部地方には多いようですが、らくだの背中の形に似た駝背橋の形式。確かにちょっと変わった雰囲気ではありますね。
橋は、1502年、 尚真王が高麗版大蔵経を収めるお堂とともに作られました。 -
重修天女橋碑記は、琉球王国時代の1744年、天女橋を改修したことを記念する碑。ただ、現在の石碑は、石碑が倒壊したことから、1798年に新たに再建されたもの。
しかし、今の石碑も表面には苔が着いて、かなり古ぼけた感じになっています。朝鮮から贈られた方冊蔵経を納めるためのお堂建立の経緯とかも書かれているようです。 -
第32軍司令部壕の入り口は、円鑑池から首里城の方へ歩いてすぐ。斜面に隠れたひっそりとした場所です。
第32軍司令部の創設は、昭和19年3月。ここで沖縄防衛のための役割を果たすはずでしたが、昭和20年5月に本島南部へ撤退。これが地上戦に多くの住民を巻き込む大きな分岐点となりました。米軍の大規模な艦砲射撃で集中的に破壊され、無残な姿となっています。 -
龍潭通りに戻って、お昼にしましょう。
うかじそばは首里の辺りでは表通りに当たることもあって、行列ができるくらいの人気店。少し並んで入店しました。 -
沖縄そばの方は、普通といえば普通ですが、やっぱり正統派の味わい。変わったところで軟骨のそばにしましたが、とろとろの軟骨も悪くないと思いました。チャーシューのおにぎりもお勧めです。
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龍潭通りもいくつかありまして。
首里染織館suikaraは、なかなか立派な施設。 -
首里花倉織、首里花織等何種類かの首里織と型染めのびんがたの解説やその製品を展示しています。
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製品はどれも高級感があって、普段着のかりゆしに使うようなものではないような。原材料は絹、綿、麻だそうですが、沖縄には高級なことで知られる芭蕉布もありますからね。沖縄にはいろんな伝統工芸品がありますが、織物、染め物も代表的なジャンル。少し興味の対象から外れていましたが、ここを拝見して、その伝統の重さを再認識させられたような気がします。
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少し戻って。
天王寺跡は、第二尚氏王統の始祖尚円が成化年間(1465~1487)に創建したという臨済宗の寺の跡。ここは、尚円が王位に就く前の邸宅でもあったよう。
ちなみに、国王は円覚寺、王妃は天王寺、未婚の王子・王妃は天界寺に祀られるようになり、尚家の菩提寺の一つとなりました。円覚寺跡はそれなりに残っていますが、基本は遺跡。菩提寺が寺として残っていないのは、沖縄戦の影響もあるかもしれませんけどね。 -
さらに戻って、万松院。
臨済宗の寺、万松院の始まりは1613年。第二尚氏の菩提寺、円覚寺の住職が隠居寺を建てたことから。円覚寺の方は、跡となっている遺跡ですが、この寺の方は法灯が守られて残っているのは、円覚寺の後継という性格もあるのかもしれません。 -
山門から本堂は反りの厳しい派手な意匠。参道の枯山水の庭園も目立っていて、勢いを感じるお寺です。
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龍潭通りから、再び首里城の方に向かいます。
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途中、沖縄県立芸術大学の芸術資料館の方で1年生写真展をやっていたので、ちょっと拝見しました。植物や蝶の写真とかまあまあかな。
一方で、大学の建物は細かい格子のデザイン。なんとなく沖縄っぽく感じたのですが、つまり、沖縄ではけっこう見かけるデザインですよね。 -
イチオシ
首里城の入り口、歓会門や守礼門は、この先です。
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イチオシ
園比屋武御嶽石門は、その手前の東側。
国王が各地を巡航する旅に出る際必ず拝礼したという御嶽の礼拝所。石門は、1519年、第二尚氏王統第3代王、尚真の時代に造られたもの。その後、沖縄戦で荒廃しますが、昭和32年に復元されています。屋根まで石というのが沖縄っぽく感じます。 -
そして、守礼の門。朱塗り、中国の牌楼式の門。首里城のシンボルでもあり、沖縄のシンボルでもあるような存在ですよね。
尚清王の命により、1527年~1555年に建立。守礼は、琉球は儒教の原則を守るという宣言。儒教は、中国が周辺国との外交を行う際にも共通の規範としたものであり、つまり、礼を守るのは野蛮な民族ではないことの証。中国がアジアに君臨できたのはそうした文化の力も大きかったということ。武力、経済力だけではアジアの盟主にはなれない。真実を語っているような気がします。 -
首里杜館は、守礼門から西に向かう石畳の通り沿い。
首里城公園のビジターセンターといった施設ですね。 -
休憩がてら入ってみましたが、悠々とした広さの館内はほっとひと息付ける感じ。首里城の再興に向けたビデオ放映なんかも、なかなかの見応えでした。
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天界寺跡は、守礼門から西に向かう石畳の通りの先。首里城前三叉路の角に石碑があります。
ちなみに、天界寺は、首里三ケ寺と呼ばれる尚家の菩提寺の一つ。国王は円覚寺、王妃は天王寺、未婚の王子・王妃は天界寺に祀られたということです。 -
ここからは、首里城前三叉路の西側に延びる大通り沿いを進みます。
安国寺は、景泰年間(1450~57)に尚泰久王が建立した臨済宗妙心寺派の寺。尚家の菩提寺だった円覚寺も臨済宗の寺だし、沖縄には臨済宗の寺がいくつかあって、第二尚氏王統の庇護の結果かなと思います。
石造りの鐘楼門が立派。龍の彫り物の柱とかもけっこうなインパクトです。 -
首里高校野球部甲子園初出場記念碑は、昭和33年、沖縄県勢として初めて夏の甲子園に出場した首里高校を讃える記念碑。首里高校の敷地の中にありました。
ただ、当時の沖縄はアメリカの統治下だったため、甲子園の土を持ち帰ることができなかったということ。代わりに甲子園の小石が日本航空の客室乗務員から届けられ、その小石が碑の下の方に埋め込まれています。 -
御客屋跡は、大通り沿い。薩摩藩の在番奉行一行が首里城に登城する際の控所だったもの。明治12年の沖縄県設置後には首里警察署が置かれ、その後は首里尋常小学校になったり。首里城に近い場所的な利点があったのだと思います。
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旧中城御殿跡もその並び。
ここは、琉球国王世子の旧殿宅跡。王世子は伝統的に沖縄の中部にある中城村の統治が任されていたため、中城王子。その殿宅なので、中城御殿です。現在は首里高校の敷地となっています。 -
中山門は、守礼門の西側にあって、なんと守礼門と同じ型同じ大きさの門だったよう。1428年に建てられ、王都首里の第一の坊門であり、この中山門から守礼門までの500mの通りは綾門大道(アイジョーウフミチ)と呼ばれる大路。首里城に至る荘厳な景色が想像されました。
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美連嶽は、その綾門大道の西端です。「ミンチラウタキ」とも呼ばれる御嶽。濃い緑で覆われた岩の下には小さな供え物をするような祭壇があって、ここが神聖な場所だということが分かります。
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真壁殿内跡もすぐそば。琉球王国時代の高級女神官の一人、真壁大阿母志良礼の神殿及び住居跡。女神官は、最高職が聞得大君加那志。その下に、真壁(マカベ)、首里(シュイ)、儀保(ジーブ)の三人の高級女神官が置かれました。
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さらに西に向かって。
首里観音堂は、息子の佐敷王子(後の8代尚豊王)が薩摩に人質として薩摩に連れて行かれた第二尚氏王統5代尚元王の三男、尚久が、息子が無事帰国できたら首里の地に観音堂を建てることを誓願。無事帰国できたので、建てたお堂。今は、慈眼院というお寺にもなっていて、敷地も広いしなかなかの構えです。 -
その首里観音堂の門前下に建つのが万歳嶺跡の碑。
万歳嶺は、首里台地の西端に位置する丘で、今は観音堂が建っていますが、かつては頂上から美しい眺望が開けた首里八景の一つだったとか。その往時の記憶を留めるために、この石碑が建てられました。しかし、石碑の存在はあまり認識されてはいないよう。お寺の方に尋ねてやっと分かりました。 -
官松嶺跡は、万歳嶺跡からさらに西側に進んだ場所。通りの脇に石碑がありました。
官松嶺も、かつては万歳嶺に続く小高い丘で、眺望の良い景勝地だったよう。1497年、第二尚氏王統の第3代尚真王がこの丘に官松嶺記の碑を建立したことで、この丘は官松嶺と称されるように。しかし、今は地形も変わってしまって、かつての面影はほとんどありません。 -
そこから引き返してきて、今度はかつての綾門大道の一本下の道を東側に進みます。
ここはバス通りのようで、広い道です。 -
寒水川樋川は、首里城公園南側の市街地の一角。首里は小高い山の地形なので、ところどころ急な崖のような場所があって、これもそんな場所。広い通りから石段を降りて行くと
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イチオシ
石垣の下に半月形の池に注ぎ込む泉水がありました。構造物全体はけっこうな規模ですが、水量はわずか。あんまり勢いはない泉です。
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一中健児の塔は、広い道から脇道を少し上がったところ。
慰霊塔は、戦前の沖縄県立第一中学校から少年特別志願兵として鉄血勤皇隊、通信隊に入隊し、戦場で命を失った二百有余の霊を悼むもの。学徒兵でありながら、対戦車肉薄攻撃や挺身斬込みにも参加したということ。看護に従事した女生徒も壮絶ですが、こちらもさらに壮絶。胸に迫るものがあります。 -
首里駅まで戻って。
汗だくの中、首里駅近くの南谷茶房で冷を求めて一服しました。 -
いただいたのは、アイスクリーム。程よく濃厚な味わいがけっこういいですね。店内もコンクリート打ちっぱなしのようながらんとした空間なので涼むにはちょうどいいです。
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首里駅から古島駅まで移動して。
古島駅からコザまでのバスに乗ります。 -
中の町のバス停で下車して、コザの中心部へ。
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コザ ミュージックタウンは、音楽のまち、沖縄市の中核施設として作られた施設で、この辺りのランドマーク的な建物ですね。
ホールや音楽スタジオもありますが、一階部分には吹き抜けのイベント広場のような場所もあるし、観光案内所やエイサー会館に飲食店も割と充実していて、いろんな意味でコザの賑わいの中心です。 -
ダブリューチキンは、コザ・ミュージックタウンの一階に入っている韓国風ハンバーガーのお店。ここで少しお腹に入れておきましょう。店内はそれなりに広いしスタイリッシュで、若い人にはけっこう受けそうな雰囲気ですね。
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ハンバーガの方はお饅頭のように全体をパンで固めたもの。中身は蒸し焼きのようになっているので、新鮮な部分はない。正直言えば、あんまりおいしくはないと思います。
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沖縄市観光物産振興協会は、コザ ミュージックタウンの一階に入っている観光案内所。全体としてはランニングシャツとか小物を扱ったショップみたいな感じもあって、ちょっと中途半端な印象もなくはないかな。ただ、コザの観光を考えると見どころはここで情報を得るべき。コザはなんとなく歩いても、つかみどころがないと思います。
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エイサー会館も同じ一角。けっこう本格的な施設で、スタッフもたくさんいました。
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エイサーは沖縄県全体の伝統の踊りですが、本場はやっぱり沖縄市コザですからね。エイサーの基本的な役、サナジャー(または、チョンダラー)、イナグモーイ(女手踊り)、イキガモーイ(男手踊り)、締太鼓、大太鼓、旗頭、地方・地謡も分かりやすく解説されていました。
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では、もう少し空港通りをうろうろ。
上間てんぷら店は、ゴヤの名物店。空港通り沿いに建つ目立つ看板の建物は、地域のランドマーク的な存在でもあると思います。沖縄のてんぷらは、ころもが厚くて、そのままおやつみたいに食べられる気軽な食べ物。ほかの総菜とかも幅広いです。 -
Zazouは、ちょっとよさげなパン屋さん。
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フルーツを盛ったパンなんかもちょっと拘りがあるのかな。いただいたのはあんぱんですが、餡子の芳醇な甘さがいい感じ。やっぱりひと工夫あるような気がしました。なお、イートインもあるので、ゆっくりしたい時はそれも使えそうです。
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では、そろそろエイサーナイトの会場の方へ。
会場は、ここコザ運動公園。コザの市街中心部からは歩くと少しありますね。
公園内には広島東洋カープが春季キャンプを行うこのコザしんきんスタジアムやエイサーの会場になる沖縄市陸上競技場など、施設的にはかなり充実。コザの自慢の施設だと思います。 -
その沖縄市陸上競技場はこれ。正面のスタジアムも立派だし、悠々とした広さのトラックは緑の芝生がきれいに整備されていてとても快適。エイサーの演者のすぐそばで見ることができるのも、この施設のおかげですね。
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中央の芝生辺りが演舞場になっていて、その周り。地べたに座って拝見します。
待つことしばし。そろそろ始まりますよ~ -
一組目が入場です。
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リーダー格のチョンダラー。
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落ち着いたものですね~
その後に大太鼓の集団と -
締太鼓の集団が続きます。
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泡瀬第三青年会
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力強い大太鼓はやっぱり華がありますよね~
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ドンドン、ドンドン
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ゆっくりとしたリズムもしっかりとお腹に響くし
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自信に満ち溢れたような体全体の動き。
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やっぱりこれがエイサーですよね。
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と、締太鼓の中に
イキガモーイ(男手踊り)のお兄さん。 -
え?え?
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このキレのある動きはなんですかあ。
太鼓なんかなくても、これは楽しい。神の降臨です! -
続いての組は、
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胡屋青年会。
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薄いブルーの打掛と、頭には赤いサージ。
爽やかな衣装ですね。 -
ドン
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ドン
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ドンドン。
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青いサージの締太鼓と
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大太鼓が
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小気味よいリズムを奏でます。
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身体の動きも揃っていて、いいですね~
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ドン
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イチオシ
ドン
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ドンドン。
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イチオシ
最後は、中央で輪になって。
最後まで爽やかな印象が残るチームでした。 -
続いての男らしい黒が基調の集団は、
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山里青年会。
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さすが殿を勤めるチームかな。
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人数が多くて、大集団の迫力は半端ないですね。
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イキガモーイの初々しさもいいと思います。
終わってみると、今回は、イナグモーイ(女手踊り)、イキガモーイ(男手踊り)が新鮮でした。エイサーは太鼓だけではない。チョンダラーもそうですけど、それぞれに役割があって、全体としての総合力が大事。かつ、そこには整然とした統制の美しさと個の芸もあったし、なるほどですね~。培われた伝統の重みもしっかり感じられたと思います。 -
コザからは、最終便のバスで那覇に戻ってきました。けっこう綱渡りでしたが、まあOKです。
今夜の宿は、アパホテル那覇松山。明日は、早朝、那覇港から慶良間諸島です。
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