2024/07/06 - 2024/07/06
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たびたびさん
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この旅行記スケジュールを元に
前回の沖縄本島南部の戦跡巡りは、調べると2009年1月。もう16年も経っていたとは驚きですね。その前はもっと遥か昔の学生時代。戦跡巡りは今回で3回目ですが、月日の流れるのは本当にあっという間です。
冒頭。こんな話、正直言えば触れたくもないのですが、最近、自民党の西田昌司参議院議員のひめゆりの塔を巡る発言がありました。「ひめゆりは歴史の書き換えである」との主張のようですが、その真偽は別として、この人物は何が言いたいのでしょうか。再度調べたところでは、その根底は「日本軍は沖縄を助けるために派遣されたのに正当に評価されていない」という不満ですね。例えば、多くの若者が命を散らした特攻作戦も沖縄戦を中心に投入されていますが、それも正当に評価されるべきということなんでしょうか。これに対し、各方面からは見事に総スカン。まず、日本軍の正当な評価云々の話とひめゆりは関係ない。勝手なこじつけであるというのが大よその受け止めだろうと思います。
ところで、日本の平和主義の根本は、悲惨な戦争体験を経たもう戦争はこりごりだという純粋な思いです。破竹の勢いの日本でしたが、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦いから風向きが変わり防戦一方になると、インパール作戦のような理不尽な戦いや終盤にはサイパン島・硫黄島の玉砕。東京や主要都市への大空襲。沖縄戦では地上戦に巻き込まれて住民の4人に1人が亡くなり、果ては広島・長崎の原爆投下。戦地にあった軍人だけでなく一般市民からも多数の犠牲者を出し、想像を絶する大きな悲劇が生まれました。戦後、その体験の中から生まれた平和主義によって日本は国是の基本が固まりますが、私的には、特にその過程で深刻な国論の分断などが起きなかったことも奇跡に近いくらい素晴らしいことだったのではないかと思っています。
例はあまり適切ではないかもしれませんが、天皇の戦争責任の問題でも一歩間違えば深刻な分断につながる恐れはあったはず。そうならなかったのは当たり前のことではなく、米軍の統治政策も含めてかなりの幸運であったようにも思いますし、なによりもそれは、悲惨な戦争経験を経て平和主義の旗印の下に結束した名もなき多くの日本人の知恵や冷静さのお陰ではなかったかと思うのです。今の日本においては、安全保障とか国防の議論はあまねくその土台の上に立ってのもの。その前提があれば、そこから先は当然いろんな議論があってしかるべきだし、厳しい国際関係の中でただ日本が非戦を唱えていればいいというものでもないでしょう。
で、長くなってしまいましたが、西田昌司氏の発言はまさにその土台を傷つけるものであったというのが私の理解。基本的な国家観もない薄っぺらの人物なんか日本のリーダーの資格なし。国政全般にも関わるべきではないとさえ感じます。
余談ですが、例えば、韓国に戦争はこりごりといったベースがあるかというとたぶんないですよね。まあ、まだ戦争中ですし。日本から見ると戦争の責任追及にもまだまだ意欲があって、どうかしているみたいにも感じます。私は日本人の考え方のレベルはそこからすると何段階も高くなっているように思いますが、繰り返し申し上げたいのは、その土台を作ってくれたのは悲惨な経験をした名もなき多くの日本人の知恵や冷静さと、さらには逆境にくじけぬ勇気だったということ。これこそが戦後日本の平和国家としての歩みの土台であり、そこには沖縄も広島・長崎も、また、その他多くの戦災地もまったく区別はありません。西田昌司氏には、日本軍云々の前に、まずはこうしたところにこそ目を向け、正当な評価をすべきと強く申し上げたいですね。
前ぶりはちょっと予定外の流れになってしまいましたが、ここまでにして。
さあ、沖縄の戦跡巡りのスタートです。
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玻名城の郷ビーチは、ザ・サザンリンクス リゾートホテルからそのまま海岸の方にしばらく下って行ったところ。ビーチはビーチですが、景色的にはあんまりパッとはしないかな。ただ、シュノーケリングにはいいスポットのようです。
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続いては、具志頭城。
こちらは、英祖王統第二代、大成王の第三子具志頭按司が築城し、14世紀後半に南山王に滅ぼされるまで、6代にわたる具志頭按司代々の居城だったという城。具志頭按司は盛んに海外貿易を行っていたとも。ここで、少し説明を加えると英祖王統というのは、12世紀半ば頃から浦添で興った舜天王・英祖王・察度王と続く3つの王統の時代。約250年にわたって本島中部一帯を支配下に収めていました。この後、約100年の三山時代を経て、尚氏によって琉球王国が成立するのが1429年。現在は、公園として整備されていますが、いかに古い歴史を持った城跡かをご理解いただけるかと思います。6代にわたる具志頭按司代々の居城 by たびたびさん具志頭城跡 名所・史跡
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海を見渡す岬のような場所にありますが、ちょっとじめっとしていて、あんまり気持ちよくはないですね。
高知県の慰霊塔「土佐之塔」、 -
山梨県の慰霊塔「甲斐之塔」もありました。
ここも戦場となった場所なのかもしれません。 -
イチオシ
具志頭城跡からさらに海の方へ降りて行った先は、ぐしちゃん浜。細い道をどんどん進んで終点がこの浜です。小さな浜で、海を臨む展望所も整備されています。
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ゴジラ岩というのがここのシンボル。観光客はあんまり来ないような感じで、地元の人が散歩に来ていているくらいです。
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ここから、海岸線を東に戻って、昨日回れなかった港川遺跡公園と新原ビーチを訪ねます。
まずは、港川遺跡公園。昨日のガンガラーの谷でも紹介されていましたが、ここは、2万2千年前の港川人が発見された港川フィッシヤー遺跡がある公園。2万2千年前の港川人が発見された港川フィッシヤー遺跡 by たびたびさん港川遺跡公園 名所・史跡
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イチオシ
遺蹟の価値はさておいても、とてもきれいに整備されていて、素晴らしいですね。
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完全全身骨格4体を含む4~9体の人骨は、大発見。20万年前にアフリカで出現したホモサピエンスの出アフリカが5~6万年前。7万年前に始まった最終氷河期と重なっていて、2~3万年くらい前の最終氷期の最寒冷期ですが、海水面が140~150m下がったことで世界各地で移動可能地域が出現したと考えられています。日本列島もこの時、北海道は大陸とつながり、北海道は本州とつながっていたようです。そして、縄文時代は1万年前から。縄文時代以前、日本列島でも石器時代があって多くの石器は出土しているのですが、人骨は発見されていない。港川フィッシヤー遺跡がとても貴重なものだいうのはよく分かります。ただ、港川人と石器時代人の関係は仕方ないとしても、縄文人との関係もあまりはっきりした研究はないのかな。そこはちょっと気になるところです。
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みーばるビーチの入り口にあるのは、みーばるマリンセンター。グラスボートが目玉のようですが、レジャー用品のレンタルや食堂やペンションもやっていたりして、みーばるビーチの何でも屋さん的な存在かな。ここを通ってビーチに出るような位置にあります。
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イチオシ
少し迂回してビーチの方へ。
沖縄本島の南部は砂浜があまり多くないので、新原ビーチ海水浴場はちょっと貴重な存在かな。家族連れがのんびり過ごすにはぴったりの感じです by たびたびさん新原ビーチ 海水浴場 ビーチ
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細かな砂のビーチはけっこう長く続いていて、遠浅の地形もあってか波も穏やか。
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家族連れがのんびり過ごすにはぴったりの感じです。
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この周辺にもいくつかポイントがあって。
受水走水は、新原ビーチからそのまま東に向かって少し進んだところ。 -
道から少し脇に入っていくと水源と
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小さな田んぼがありました。ここは東御廻りの拝所の一つで、琉球での稲作発祥の地といわれる聖地。アマミキヨがギライカナイから稲の種子を持ってきて植え始めたと伝えられます。
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さらに東に進んで。これは百名ビーチ。新原ビーチから東に向かう道を進むとここが終点です。もしかすると新原ビーチとつながっているのかもしれませんが、ここも長い海岸線があって砂浜もきれい。ただ人はほとんどいなくて、穴場的なビーチですね。
百名ビーチのすぐ沖にある海中の小さな石の塔があって、それがヤハラヅカサ。波の間にひょこッと顔を出していているだけのものなのですが、琉球開闢神アマミキヨが沖縄本島に上陸したときに最初に足を降ろした場所という聖地。これも東御廻いで訪れる拝所の一つです。 -
浜川御嶽は、百名ビーチのヤハラヅカサに出る道の背後にある山の方。少し上って行くと石垣の上に祠のようなものがありました。
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ヤハラヅカサに上陸したアマミキヨがここの泉で疲れをいやし、その後、安住の地として住み着いたミントングスクに移動したということです。
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みーばるビーチのエリアから今度は、山手のグスクロードの方へ。
玉城城跡は、琉球開闢神アマミキヨが築き、その子孫の天孫氏が城主だったという城。やや神話の世界ですが、城門は自然石をハート形にくり抜いたもの by たびたびさん玉城城跡 名所・史跡
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英祖王統4代目の玉城王が王子時代に過ごし、その後は弟を玉城按司としてここに置く。
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通りの脇の駐車場からしばらく歩くとその先に木製の階段が現れて、
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石垣で囲まれた城内へ向かいます。
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イチオシ
その途中に右手に見えるのは、琉球ゴルフ倶楽部。日本女子ツアーの開幕戦となるダイキンオーキッドレディスゴルフトーナメントの開催コースです。宮里藍が最年少の16歳で優勝したのは、ちょっと衝撃的。そこからスターへの階段を上り始めました。さすが名門コースらしくて本当に美しい。いい眺めです。
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イチオシ
ここが場内への入り口の城門です。
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城門は自然石をハート形にくり抜いたもので、これはまあまあの撮影ポイントかな。
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中に入っての景色は
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どうでしょうねえ。
ただ、ここも東御廻いの聖地です。 -
今度は、糸数城跡に向かいます。
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と、その途中。
グスクロード公園は、グスクロードの中ほど。気になったので、寄ってみましょう。 -
この辺りに城が多いのは急峻な斜面とかが城造りに適しているからだと思いますが、その地形にあって、この公園はとても雄大で穏やか。芝生の広場にしっかりした遊具を備えて、その先には海が広がる景色。城跡のごつごつした場所を歩いた後だったこともあって、ここで気分がちょっと晴れるような気がしました。
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イチオシ
そして、ほどなく糸数城跡に到着。
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こちらは、玉城城の玉城按司がその守りとして、
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次男に大城城、三男に糸数城を築城させたという関係。
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城壁が
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見事に
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残っていてちょっと意外なくらい。
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見応えがあって、国史跡というのは納得ですね。
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南側は高い断崖となっているので、眺めが素晴らしいです。
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糸数城跡から下ってきたところが、糸数 アブチラガマ。沖縄戦、南部戦線の遺構です。
南部戦跡を巡るなら必見の場所だと思います by たびたびさん糸数 アブチラガマ 名所・史跡
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施設に入って、見学を申し込むとガイドさんを呼んでくれるということ。20分くらいかかりますということで、待つ間に館内の展示を拝見します。
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大きな自然洞窟は地元住民の避難用とされていましたが、南風原陸軍病院の分室となると撤退して来る日本兵や負傷兵と雑居状態。そして、事態は悪化し、大勢の瀕死の負傷兵と死体の山。地獄の惨状となっていったことが生々しく解説されていました。
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ガイドさんが到着して。
洞窟の方に向かいます。 -
ここが洞窟の入口。
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暗闇の中、懐中電灯だけが頼りの見学は30~40分くらい。ボランティアガイドさんの説明を聞きながら、その厳しい戦争の惨禍を少し垣間見たような気がしました。
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ここが出口です。
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出てすぐのところには慰霊塔もありました。
それにしても、日本で唯一の地上戦を経験した沖縄。その事実はあまりにも重いものですね。戦後の米軍基地の負担も含めて、日本人として、もっともっと理解を深める必要がある。そんな思いでいっぱいになる体験でした。南部戦跡を巡るなら必見の場所だと思います。
なお、ホームページ(https://abuchiragama.com/)に沖縄戦の概要がまとめてありましたので、以下、参考まで。
「沖縄戦とは太平洋戦争の最終段階、1945年3月下旬から7月までの戦いを言います。
1941年に太平洋戦争が勃発し、太平洋の島々で劣勢となった日本軍は、米軍が沖縄に上陸すると見て、米軍を沖縄にくぎづけにする作戦をとります。
それは、本土決戦の準備をするための時間稼ぎであり捨石作戦でした。このため、沖縄は唯一の地上戦の場となります。
米軍は1945年の4月1日に沖縄本島の中部に上陸し、日本軍の指令部のあった首里に向かいます。米軍の圧倒的な戦力に、首里の陥落が目前にせまったところで日本軍は南部へ撤退します。
米軍の上陸地点から首里城指令部までを中部戦線、首里以南を南部戦線と言います。南部戦線では十数万人の一般住民が巻き込まれ悲惨な結末を迎えることになります。
6月23日、牛島司令官の自決により日本軍の組織的戦闘は終了しますが、その後も各地で戦闘が続き、米軍が作戦修了を宣言したのは7月2日のことでした。
この90日間にわたる沖縄戦で、日本兵6万6千人、沖縄出身兵2万8千人、米兵1万2干人、一般住民9万4千人が亡くなりました。
当時の沖縄県の人口は約50万人でしたから、沖縄県民の4人に1人が亡くなったことになります。」合掌。 -
アブチラガマからさほど離れていないヌヌマチガマにも立ち寄ります。
ここは、第24師団第一野戦病院新城分院として使用され、負傷兵1,000名が収容されたガマ。白梅学徒5名が派遣され、傷病兵の排泄物の始末、切断された手足の処置など、過酷な任務に当たっていたとか。閉鎖命令により約500名の重症兵は自決を命ぜられますが、白梅学徒隊も戦場を逃げまどい、46名のうち22名が命を落とすことに。 -
ガマは柵に囲まれていて中には入れませんが、周囲はきれいに整備されていて、命の大切さを伝えています。
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ここで、早めの昼食です。
屋宜家は、この辺りでは断トツの人気を誇る沖縄そばのお店。大型観光バスなんかも来ていて、ちょっと普通のお店とは違いますね。
まずは、敷地や建物が沖縄の古民家風。雰囲気がとってもよくて、これだけでもかなり価値があるように思います。敷地や建物が沖縄の古民家風 by たびたびさん屋宜家 グルメ・レストラン
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イチオシ
一方の沖縄そばの方ですが、柔らかい麺で日本そばのような感じに近いかな。そしてもっちりしているのも日本そばにはそういうタイプがありますからね。ということで、私的には沖縄そばのあのワイルドさが弱いのでちょっと好みではないかも。
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もうひとつの沖縄ぜんざいの方は豆に黄粉と黒砂糖の組み合わせがグーでした。
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屋宜家から沖縄本島南部の海岸沿いを走る国道331号線に出たところが南の駅 やえせ。この辺りが沖縄本島南部の真ん中へんになるので、南部の観光だとここは必ず寄る場所になるのではないかと思います。
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ということで、結局、ここはほとんど今朝のスタート地点なんですけどね。
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パイナップルやバナナがおいしそう。小さいバナナを買って、沖縄バナナのおいしさを再確認しました。
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南の駅 やえせの隣りにある八重瀬町具志頭歴史民俗資料館にも寄ってみます。
多くの詩歌を残した仲本稔から始まって、港川人の関係や歴史の方は、三山時代を含むグスク時代、琉球王国、薩摩藩の侵攻から沖縄戦。想像以上に充実した内容で、かなり本格的。少し時間を取ってじっくり拝見するべき資料館ですね。ちょっと圧倒されたような印象です。 -
ここから西に向かって、いよいよ沖縄平和祈念公園を目指します。
ただ、その前に少し手前のギーザバンタにも寄ってみます。あとで沖縄県平和祈念資料館の展望室からも見えましたが、現地で見ると迫力が全然違いますね。アクセス道は国道331号線から入る一本道。 -
終点は小さな駐車場で、そこから少し歩いて用水路の先へ。
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見上げるとこんな感じですが、
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イチオシ
眼下にはサンゴ礁が隆起したダイナミックな海岸が広がっていて、これはすごい。
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海岸に下りている人もいましたが、そこまで下りるのは道なき道を下りて行くような感じですから、ちょっと危険。
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海岸からは海に向かって無数の滝が落ちている景色を見るのだと思いますが、やっぱり無理は禁物です。
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イチオシ
ちなみに、こんな美しい眺めですが、ここも沖縄戦の悲劇の場所。
米軍に追い詰められた多くの住民や日本兵がここから身を投げ、それを見た米兵がスーイサイドクリフ(自決の崖)と名付けたとか。無残な遺体が重なる光景を想像するとやるせない気持ちになりますね。 -
沖縄平和祈念公園に到着。広々として、よく整備された明るい公園。ここが沖縄戦の最後の場所だったというのは、それを知ってはいてもなかなか実感するのは難しいんですけどね。
ちなみに、牛島司令官が自決した6月23日が沖縄戦の最後とされるのですが、あくまで組織としての戦いが終わったということ。それを知らない人も多くいて、以降の犠牲者も少なからずいたのではないでしょうか。
ところで、この牛島司令官はいろいろと評価が分かれる人物。当時の陸軍の本命は本土決戦。沖縄戦もその本土決戦を前にした戦いという位置づけであり、本土決戦の準備のための時間を稼ぐのが目的。その目的のために大混乱になるのを承知の上で軍を多くの住民が避難していた南部に移動させたのは軍務に忠実だったということなのかもしれません。しかし、それはつまり沖縄の多くの住民を巻き込み、犠牲者を拡大させた結果となったわけであり、非道とされても仕方ないものだったというのが歴史の事実。そもそも本土決戦なんてなんの勝算もない空虚な自己満足の産物でしたからね。
ただ、いずれにしても、命令を受けた軍人としての判断と人道的な判断。それが相容れない時、軍人としての判断を優先したのだと思いますが、その結果として人道的な判断の誤りを非難されるのも司令官であるなら当然の責任範囲であり、それを甘んじて受けるというのが矜持というもの。非難は死者に鞭打つものではないし、妙な同情も不要。牛島司令官もそんなことは望んでいないと思います。 -
沖縄平和祈念公園の平和祈念資料館ほか
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摩文仁の丘や平和の礎から、
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各県の慰霊碑が集まる平和創造の森公園の周辺やひめゆりの塔まで沖縄本島南端部の広い範囲が沖縄戦跡国定公園。
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イチオシ
平和で美しい南の島が戦争の地獄を味わう場所となってしまったのは、消すことができない歴史の事実。その記憶を留めるための公園は、ここが日本人が平和を考える原点のひとつ。間違いないことだと思います。
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沖縄県平和祈念資料館は、沖縄県営平和祈念公園の一角。公園は沖縄戦終焉の地である摩文仁の丘だし、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ平和の礎のエリアも広大。沖縄県平和祈念資料館はとても大きな施設ですが、それでもなぜか印象としては必ずしも中心という圧倒的な存在でもないですね。(例えば、広島の平和記念公園なら原爆資料館は必見なんですが、そんな感じではないような気がします)
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ということで、これまでスルーしていたので今回が初入館です。
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第1室(沖縄戦への道)、第2室(住民の見た沖縄戦『鉄の暴風』)、第3室(住民の見た沖縄戦『地獄の戦場』)、第4室(住民の見た沖縄戦『証言』)、第5室(太平洋の要石(かなめいし))を拝見しました。展示室は撮影禁止なので、細かいところはお伝え出来ませんが、戦場や戦後の惨状を再現する展示はほとんど実物大でかなりの臨場感。ただ、むしろ呆然としてしまうようなところもあって、気持ちを整えるには少し時間がかかるかも。しばらく身をゆだねないと展示が伝えたいものはキャッチできないような気もします。
それに、摩文仁の丘や平和の礎で思いを馳せるのと比べて、こちらが圧倒的なインパクトがあるかと言われれば必ずしもそうでもないかな。また、情報量も多いので、できる範囲で受け止めるくらいでもいいのでは。沖縄戦を理解する入り口は各人で違いがあるのは当然ですからね。 -
さきほどのギーザバンタも遠くに見えていました。
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平和祈念公園から西に向かって、大度浜海岸へ。砂浜も少しありますが、大半はサンゴ礁に囲まれた浅い海、イノーの海岸。ダイバーがたくさんやってきていました。
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大度浜海岸とつながる西側の海岸は、米須海岸。大度浜海岸と同じく、サンゴ礁に囲まれた浅い海が広がる地形で、そのサンゴ礁の岩場を散策する人があちらこちらに。いわゆる磯遊びを楽しむところかな。波はもっと沖合に白く砕けているだけなので、岸から離れても全然平気。安全です。
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ところで、大度浜海岸はジョン万ビーチという別名もあって、ジョン万次郎がアメリカから帰国する際ここに上陸したことから。駐車場のところからしばらく歩いた先に、一風変わったジョン万次郎の銅像も立っていました。
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大度浜海岸からさらに西に向かうと平和創造の森公園です。
第44回全国植樹祭の跡地を整備して作られた公園で、総面積約22haの広大な広さがあるのですが、今回の目当ては各県の慰霊碑が集まる平和創造の森公園の東側の米須霊域エリアです。 -
では、順に見ていくことにします。
ひろしまの塔は、広島県出身の沖縄戦戦没者1,271柱と南方諸地域戦没者33,364柱の合計34,635柱を合祀する慰霊塔。平和を願うちょっとメルヘンチックな意匠です。 -
大分の塔は、大分県出身の沖縄戦戦没者1,430柱を合祀します。黒い石垣の塀には、戦没者の氏名が白い文字で書かれていて重々しい雰囲気。沖縄の強い日差しの中でも、色あせずにしっかりと存在感を放っています。
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北霊碑は、北海道出身の沖縄戦戦没者10,850柱、南方諸地域戦没者30,000柱、合計40,850柱を合祀していて、沖縄戦戦没者10,850柱は、都道府県の中でも一番多いかもしれません。北海道の地図をバックにしていて、すぐに北海道だと分かります。
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大和の塔は、奈良県出身の沖縄戦戦没者556柱、南方諸地域戦没者15,315柱、合計15,871柱を合祀しています。円墳と五輪の塔を組み合わせたような意匠は奈良っぽいかもしれません。
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金城和信先生胸像も同じ一角。
金城和信先生というのは、戦前、沖縄県の小学校長などを歴任し、多くの教え子を沖縄戦で失い、娘2人もひめゆり学徒で亡くなったとか。戦後は摩文仁の真和志村の村長に任命されますが、野ざらしとなった遺骨の収集を行い、魂魄之塔、ひめゆりの塔、健児之塔を建立したり、戦没者の慰霊と遺族のために尽力した人物。故人の思いを少しでも引き継げるよう。御冥福をお祈りします。 -
魂魄之塔は、金城和信先生の尽力によってできた3万5千柱を祀る無名戦士の塔。碑文によると、この地は沖縄戦でも一番の激戦地。日本軍も住民も追いつめられて逃げ場を失い。陸、海、空からの攻撃を受けて犠牲になる者が続いていったということ。戦後も、おびただしい戦没者の遺体が残されたままだったようですが、金城和信先生ほか地元の有志が遺骨収集を進め、この塔を建てたのですね。
遺骨は、その後、摩文仁の丘に移されたようですが、塔はこうして残り、その経緯を留めています。 -
紀乃國之塔は、和歌山県出身の839柱を祀る慰霊塔です。台座やコンクリートの階段、後ろの壁は少し傷んだ感じですが、本体の塔部分はしっかりしたもの。元気をもらえるような姿で建っています。
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沖縄菩提樹苑は、少し離れた場所。
第二次世界大戦でなくなったすべての戦没者の慰霊のため、ブッダゆかりの聖なる菩提樹の分け樹がインドから贈呈され、ダライ・ラマ14世も来訪し記念植樹されたものだとか。建物の屋根の方から木の頭部分の青い葉が見えていて、だいぶ大きくなっているのが分かります。 -
讃岐の奉公塔は、香川県出身の沖縄戦戦没者1,120柱、南方諸地域戦没者18,637柱、満州および中国方面戦没者12,656柱、合計32,413柱を合祀する慰霊塔。奉公というのは、讃岐でかつてお姫様の身代わりになって命を失った乙女の話。その娘を奉公さんと名付け、人形を作って功績をたたえたのだとか。碑はその人形を象ったものです。
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島根の塔は、香川県の讃岐の奉公塔と並んだ場所。島根県出身の沖縄戦戦没者908柱を祀ります。白いアーチ型のデザインはなんのモチーフなんでしょうね。手前の「島根の塔」の表示とのコラボが独特です。
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因伯の塔は、東京之塔と同じく一段高い場所にあるので、ちょっと迷うかもしれません。
鳥取県出身の沖縄戦戦没者539柱、南方諸地域戦没者13,365柱、合計13,904柱を祀る慰霊塔。自然石を使った穏やかな意匠です。 -
東京之塔は、一段高い場所のそれも一番奥。長い坂を上って行きます。
東京都出身の沖縄戦戦没者6,500柱、南方諸地域戦没者97,000柱の合計103,500柱を合祀する慰霊塔。東京だけに合計柱数では一番多いと思います。多摩川で採取した小石を敷き詰めているのが印象的です。 -
有川中将以下将兵自決の壕は同じエリアですが、各県の慰霊塔が集まる場所からは少し離れた場所。
1945年6月21日、石第64旅団長であった有川圭一中将と竹下勇大尉以下の将兵らが自決したという壕の横に石碑が建っていました。民間人でも手りゅう弾で自決していた沖縄戦ですから、有川中将だけが特別ではないんですけどね。鹿児島県沖縄戦歿者慰霊会が建てたものです。 -
米須霊域エリアから少し移動して。
沖縄陸軍病院之塔は、沖縄陸軍病院の関係者、軍医28人、薬剤師5人、衛生士官10人を祀る慰霊塔。森の一角を切り開いたような場所ですが、慰霊塔の前にはベンチが並んでいて、供養の参列者が多くても対応できるようになっています。 -
沖縄陸軍病院之塔の向かいにあるのが山城本部壕。ここは、サキアブと呼ばれていた自然の洞窟。地元の人が避難していたのですが、日本軍が南部に撤退して来ると沖縄陸軍病院の本部が移ってきて追い出されます。山城本部壕は患者の治療ではなく、陸軍病院の機能が分散された伊原第一外科壕、糸洲第二外科壕、伊原第三外科壕への伝令が主業務だったよう。ひめゆり学徒隊14名もここに入り、活動していたのですが、米軍の攻撃が激しくなると6月19日に軍命により解散。散り散りとなって、砲弾の嵐の中で多くが斃れていくことになりました。ここは沖縄の地上戦で逃げ場もなく追い詰められていった現場。静かに手を合わせるしかありません。
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続いて向かった喜屋武岬は、ここも沖縄戦の激戦地。
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美しい眺めの一方で、米軍から追われ逃げ場を失った住民が次々と断崖から身を投げ、最期を遂げたという悲劇の場所。海岸には無数の死体が積み上げられていたという話は今でも胸に詰まるものがあります。
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喜屋武岬に立つ慰霊塔は平和の塔です。
ところで、喜屋武岬にあったのは、第62師団管下の部隊。米軍に対して最後の突撃を仕掛けますが、6月20日、喜屋武集落周辺で全滅。残された住民も、捕虜となることを恐れ、断崖から身を投げたのですね。
戦後、周辺の遺骨収集が行われ、1万柱余りを収集。それを納めたのが平和の塔です。ちょっと古びてきていますが、すさまじい歴史の証人。沖縄の痛みに思いを馳せて、静かに手を合わせましょう。 -
具志川城跡は、喜屋武岬の西海岸に突き出た断崖に築かれた城。
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城門の東側以外三方は17mの海に臨む断崖となっています。
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東側の城門ほか切石を積んだ石垣がよく残っていて、
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それなりに見ごたえがありますね。
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ただ、迫力という意味では
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海側から眺めるとよく分かるのかもしれません。
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海岸から国道331号線に戻ってくると琉球ガラス村。
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想像した以上に大きくて立派な施設ですねえ。
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琉球ガラスのテーマパークといった施設ですが、1300℃の窯やガラス職人を間近で見たり、自分で作る体験も。
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ショッピングのエリアもとても広くて、
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美しい商品がずらり。
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沖縄ガラスって、
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もとは米軍基地から出てきたコーラの空き瓶とかを使ったのが起源とか聞いていて
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ちょっとチープなイメージもありましたが、そんなことはないですね。
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芸術作品のような商品も少なくなくて、けっこう目の保養にもなりました。
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時間が押してきましたが、ここまで来たら、やっぱりひめゆりの塔にも寄らないといけないですよね。
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敷地に入って、こんなだったかなあ。記憶がかなり薄れているのにも気が付きました。
奥に見えるのがひめゆりの塔です。 -
手前で右の方に分かれて行く先にも慰霊碑のエリアがあって。
正面が沖縄戦殉職医療人之碑。沖縄戦で亡くなった医師、歯科医師、薬剤師、看護婦等の戦没者50余柱を祀る慰霊碑です。敷地の正面から向かうと涼しげな木陰の中に見えてきます。沖縄への米軍上陸が近づくと医師の大半は本土に疎開したということですが、それでも残って郷土沖縄のためにと最期まで尽くした方々。
その左側に建つ小ぶりな碑は陸軍病院第3外科職員之碑。陸軍病院第3外科の壕で亡くなった方のうち、学徒の戦没者慰霊碑はすぐに建てられた一方で、学徒以外の職員29名は慰霊碑がなかったことから、これが建立されたようです。なるほどですね。 -
そして、ひめゆりの塔へ。
学生の頃、初めて訪問した時は資料館で生き残りの方に話を聞いたりして、少なからずショックを受けましたが、それ以来ですね。
改めてですが、この碑は、県師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒、教員計209名の慰霊塔。悲惨な沖縄戦のもっとも有名な象徴になりました。
ひめゆりの塔の正面がちょうど伊原第三外科壕跡。6月18日に学徒隊に解散が命じられ、その後もこの壕に潜んでいた96名ですが、19日の朝には黄燐手榴弾などの攻撃を受けて87名が亡くなり、壕を脱出した者のうち3名も銃撃で亡くなります。 -
逃げ場もなく、追い詰められて亡くなった方々。もう二度とそのようなことがないよう祈らずにはいられません。
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轟壕は、ひめゆりの塔から糸満の市街まで半分くらい帰ってきたところ。沖縄戦が始まる前から周辺住民の避難壕だったようですが、沖縄戦が始まり、戦禍が拡大すると地域外の住民も避難してくることに。そして、6月5日には、島田沖縄県知事以下、県庁職員幹部が避難してきます。
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ただ、15日には、県庁解散を宣言。24日、すでに捕虜となっていた県民の説得により約600人の住民が投降。これはとても幸運な例だったと思います。
ただ、26日、島田知事は摩文仁の軍司令部壕に向かうため壕を出立。消息を絶つことになりました。 -
ここからは、糸満の市街地をあちこち。
糸満市街に入ってすぐですが、幸地腹・赤比儀腹両門中墓は、糸満の街並みを一望できる展望台、山巓毛の中腹にある立派な墓。敷地には5基の三角形の屋根を持つ破風墓があって県内最大の門中墓。父系の血縁集団、約5,500人の先祖が祀られていて、一族団結の象徴となっているようです。 -
山巓毛にも上がってみます。ここは、糸満の街並みを一望できる岩山の上の展望台。通りから岩山の上に建つ特徴のある建物が見えていて、どうやって行くのかなあと思いましたが、傍らから車でも上がれる道が付いていました。展望台は淡いブルー。青い空にもよく映えています。
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こっちは昔ながらのレトロな展望台です。
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目の前に見える糸満高架橋は、那覇空港へのアクセス道路の渋滞緩和を目的とする沖縄西海岸道路の一部を構成する橋。糸満市の中心部を南北に結んでいて、糸満市内の観光でも何かとこの橋を使うことになります。車だけではなく、人も通れますが、地元の人でも歩いてこれを行き来するのはきついかもしれません。
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山巓毛を下りて、今度は白銀堂。海人が厚い信仰を寄せる糸満の氏神様です。
お堂の中には自然の石筍が氏神として祀られていました。また、糸満ハーレーや糸満大綱引などの祭祀が執り行われる拝所とも。ちょっと分かりにくい奥まった場所ですが、参拝者もちらほら見かけました。 -
上間菓子店は、近くだったので寄ってみます。昭和41年創業。干し梅「スッパイマン」のメーカー。工場見学をやっているようで、敷地はとても広い駐車場がありました。
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ただ、そういう団体が来ないと構内は閑散かな。売り場で黄色い派手派手のパッケージに包まれた商品を見て終了です。
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道の駅 いとまんには、糸満市物産センター、ファーマーズマーケット(いとまん うまんちゅ市場)、糸満漁業協同組合お魚センターの三つの施設があります。全景が見える場所もなくて、重なり合って建っているので、初めてだとどれが中心なんだかよく分からなくて戸惑います。しかし、それぞれがそれぞれなので、焦らず回ってみるのかな。敢えて言えば、ファーマーズマーケットが一番道の駅らしい建物かもしれません。
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産直コーナーは野菜や果物なので、ちょっと買ってみるには手ごろな感じ。地元の人も、近所のスーパーみたいに利用しているようでした。
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これは、糸満漁業協同組合お魚センター。
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内部は市場みたいな感じ。活気もあるし、聞いたことがない魚の名前を見るのも面白い。やっぱり糸満は海の街。道の駅 いとまんに来たなら、ここを見ないと始まらないでしょう。
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海の近くですけど、海とは関係ない親水公園がありまして。埋め立てのよってできた土地に整備されたもののようです。水路を改修した関係で出来た広い池を中心にして潤いのある児童公園。池は濁っていて入れないと思いますが、まあ、水辺で水遊びくらいはできそうです。
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ビーチの方も回ってみます。
美々ビーチいとまんは、糸満の市街から埋め立て地を越えたところ。埋め立て地の先端に整備されたビーチです。そういう意味では人工のビーチだと思いますが、しっかりした防波堤に守られて、これなら小さな子供でも安心ですね。ホテルに隣接していますが、一般の観光客でもOKです。 -
豊崎美らSUNビーチは、美々ビーチいとまんのひとつ北のブロック。こちらも人工のビーチですね。長さは700mあって、県内でも最大級だそうです。人工のビーチではありますが、砂浜の部分だけでも十分な広さがあって、砂地でのレクリエーションものんびりできる。海水浴だけでなく、ほどよい憩いの場所となっています。
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豊崎美らSUNビーチの後背地にあるのが豊崎海浜公園。豊崎美らSUNビーチもこの公園の一角という関係でしょうか。芝生の広場に、周辺にはヤシの木といったあんまり手をかけていないざっくりした雰囲気。まあ、そんなのもかえっていいかも。のんびりと海を眺めるだけで過ごす公園だと思います。
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糸満には道の駅 いとまんのほかもうひとつ道の駅があって、道の駅豊崎は、沖縄で6番目にできた道の駅。
道の駅では最西端の駅だそうですが、近くには沖縄アウトレットモール あしびなーがあるし、ちょっと同じような施設がかたまっている感じはありますね。ただ、施設としては駐車場も広いし、建物も立派。すっきりした構えなので、比較的ごちゃごちゃ感のある競合施設と比べるとストレスは少ないと思います。 -
そして、この辺りの商業施設で一番なのは、この沖縄アウトレットモール あしびなーかな。基本的に、那覇空港からの近さもあって人気なのだと思いますが、結果としてはちょっと微妙。駐車場は青空駐車場ではなく建物の駐車場なので、出入りとかも含めて、ちょっと面倒くさい。それとお店の方も、最初は楽しく見ていたのですが、日常品的なレベルの商品が多いような。ちょっと上質なものを見たいというニーズには物足りないような気がします。
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最後は、やっぱり瀬長島ですね。
瀬長島に渡って進むとすぐ右手にある海岸は瀬長ビーチ。防波堤で守られた奥の方に位置していて、波は穏やかです。ただ、正面に那覇空港が見えるというのがウリなのですが、那覇空港を見るならウミカジテラスの方がいいし、ビーチ自体の美しさとかは特別なこともないので、わざわざ立ち寄るほどでもないのかなとは思いました。 -
ということで、瀬長島ならウミカジテラスですね。那覇空港の飛行機の離発着や夕日の眺めを見るならここでしょう。施設は海岸の方から山の方、高い場所まで続いているようですが、景色を見るなら上の方ですよね。恋の島瀬長島のハートのモニュメントがあって、そこから那覇空港の方を眺めました。しかし、想像していたより遠目。もうちょっと近くに見えるのかと思っていたので、ちょっと期待はずれだったかもしれません。
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夕日の眺めをちょっと見て終了。
駐車場がいっぱいなので同乗者に車番をしてもらっていたので、長居はできませんでした。 -
レンタカーを返して、晩飯はステーキ。
ジャッキーステーキハウスを夜8時くらいに訪ねましたが、待ち時間は1時間半。それなりに覚悟はしていましたが、やはり大変な人気ぶりですね。国際通りからはけっこう離れているし、近くで時間をつぶす場所もないので、そういう意味でも大変です。 -
待って待っての入店後、いただいたのは人気のサーロインステーキ。メキシコ産という肉だからかどうかは分かりませんが、おいしいはおいしいにしてもちょっと個性的な味わいのように感じました。あっさり系のポテトスープも素直な味わい。トータルすればやっぱりさすがかなの感はありました。
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今夜の宿は、サンパレス球陽館。ゆいレール県庁前駅から程よい近さがあって、ロケーションとしては悪くないですね。かりゆしのレンタルサービスをやっていて、晩飯を食べに出る際に利用しましたが、これがなかなかいい。体が非常に楽だし、旅行中の着替えに余裕ができたので、とても助かりました。
さて、明日は、浦添から首里の街歩き。夜はコザでエイサーナイトです。
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この旅行記へのコメント (2)
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- 琉球熱さん 2025/06/25 01:28:53
- 圧巻です
- たびたびさん、こんにちは
コメントするのはおそらく初めてだと思います。
今頃すみませんが先日気になって拝読しました。時間がなくてコメントできなかったのですが、「いいね」もうっかり・・・
今回のレポートは、私のHN上、見逃すわけにはいかず(笑)、その内容に良い意味で驚いています。
これだけ丹念に戦跡を周られる方も珍しいと思います。アブチラガマもそうですが、あのヌヌマチガマや轟の壕まで訪問されていることに純粋に驚きました。
各戦跡へのコメントも深い洞察がうかがえて感服です。
平和祈念公園の資料館はオープン直前に展示物に関してすったもんだがあって、ある意味、妥協の産物が今の展示内容です。
それでも実際見てみないと始まりませんし、ひめゆりについても、資料館も見なければ意義は半減すると思います。
ともに多くの観光客が訪れる場所ですが、資料館まで足を運ぶ人たちはそれほど多くありません。
摩文仁の丘からの絶景に喜ぶ人は多いのですが、かつてその場所で何が起こったかということまで思いを馳せる人は何人いるでしょうか?
長くなってしまいました
沖縄、ことに戦跡のこととなると、どうしても(笑)
ご無沙汰している沖縄ですが、「沖縄応援団」の旗は降ろしていないつもりですので、当分はHNは変えません
圧巻のレポート、感服しました。
---------琉球熱--------
- たびたびさん からの返信 2025/06/25 22:28:58
- RE: 圧巻です
- HNというのは、ハンドルネームのことですか?なるほどですね。
私も沖縄との付き合いは長いと思っていましたが、今になって思うとそうでもなかったのかな。学生時代に初めて沖縄を訪ねた時、沖縄はまだ左ハンドルだったし、子供の頃に収集していた沖縄の切手も懐かしい思い出ですが、そこからあまりにもブランクがあったことに気が付いて、ちょっと愕然としてしまいます。そこから、一念発起して、そこからこれが二回目の沖縄。南部の戦跡も回って、気持ちをまた新たにしたところです。
とはいえ、沖縄への思いは人それぞれ。美しい自然を楽しむのも沖縄料理や芸能文化を堪能するのも、全然OKですよね。そして、意識するしないにかかわらず、どこかで平和について考える機会が多いというのも沖縄なんでしょう。ただ、そこから先の地元の人の感度はまだまだ理解はしていないのかな。
ちなみに、私は広島市民なので、広島にいると原爆に関連するニュースは毎日必ずあります。ない日はまずないですね。例えば、県外からカープに入団して広島にやってくる選手もそういう環境の中で生活すると、被爆後の広島とその中で希望の光だったカープの歴史を肌で感じるようになるし、また、自ずと平和の尊さが身に染みてくるといったことではないかと思います。もちろん、カープの応援団も同じ。カープを応援しながら、どこかで平和への思いが同居しているようなところがあるようにも思います。翻って、沖縄のことも、できればそういうレベルで、フランクに理解できるようになりたいものです。
ところで、平和の大事さを訴えるために、戦争の悲惨さを語る。よくあるパターンですが、今のカープの監督、広島市の出身でもある新井貴浩氏は「当たり前に野球できる幸せをかみしめる」という言い方をして平和の尊さを訴えます。積極的に平和というものを表現しようとする態度にはとても清々しいものがあって、あんまりないことではないかといつも感心しています。ちょっと、そんなのも思い出しました。
沖縄は、今年も行く予定にしています。またどんなことが感じれるのか。楽しみにしているところです。
たびたび
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