2001/05/10 - 2001/05/11
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jijidarumaさん
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【フランケンの王冠と呼ばれたコーブルク大城塞は英国王室とも親しいザクセン・コーブルク・コーダ公国のカナメだった。】
<5月10日(木) 快晴 147km>
バイロイト9:50出発。A9・70・B289(Kulmbachクルムバッハ・Lichtenfelsリヒテンフェルズ)120km=>Coburgコーブルク 市内観光 :Veste Coburgコーブルク大要塞・武器博物館など、市庁舎、Schloss Ehrenburgエーレンブルク宮殿・公園、人形博物館。 B289・L?27km=>Ahornアホルン・古城ホテルHotel Schloss Hohensteinホーエンシュタイン 17:20到着。
写真はVeste Coburgコーブルク大要塞
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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【Burgenstraße ブルゲンシュトラッセ=古城街道】
ドイツの観光街道の一つ、古城街道は創設以来の50周年を2004年3月に迎える。
中世からの歴史あふれる城は、それぞれの古城・館がその魅力的な風景を現在も保っている。
興味深い古城街道の道標が立つ道は全行程1,000km。
バーデン・ヴュルテンベルク州最北端にあるMannheimマンハイムをスタートし、Heidelbergハイデルベルクからネッカー川に沿った古城・古城ホテルの多さを楽しみ、Heilbronnハイルブロン、Rothenburgローテンブルク、Nuernbergニュルンベルク、Bayreuthバイロイト、Bambergバンベルク、Coburgコーブルク、Kulmbachクルムバッハなどを経由し、チェコのPrahaプラハまで魅力的な町々をつないでいる。
写真は古城街道Map1・・・左のフランケン地方のAnsbachアンスバッハからチェコのPrahaプラハまで。 -
ネッカー川は湾曲しながら、オーデンの森を蛇行し、ホーエンローエ平野や起伏のあるフランケンヘーエ平野を流れていき、そしてフランケン地方の北端へと続いているが、このネッカー渓谷には多くの中世からの魅力的な城や館がある。
中でもハイデルベルクの城、ホルンベルク城やグッテンベルク城がとりわけネッカー川沿いの城として知られている。
其の他にもエーベルバッハ城、ヒルシュホルン城、ツヴィンゲンブルク城、エスリンガー城、シュトルツェネック城、ミンネブルク城、レムゼック城、ヴァイラー城、ディルスベルク城、ノイブルク城、ハインスハイム城、ホークハイム城、リーベンシュタイン城と数々の城が流域にはあり、興趣ある古城街道が整備されている。
(尚、プラハには後に訪れたが、バイロイトからプラハにつながる古城街道は走っていない)
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写真は古城街道Map2・・・右手のRothenburgローテンブルク、 Colmbergコルムベルクからネッカー流域の古城群の数々を見て、Mannheimマンハイムに至る。 -
バイロイトの次に訪れたのは、距離120kmのCoburgコーブルクの町である。
ここコーブルク公爵領はバイエルン州の北部・フランケン地方である。
北はテューリンゲンの森、東をフランケンの森、南にマイン・フランケン平野に囲まれた地域で、ドイツの中央部にあたります。
コーブルクはマインの支流Itzイッツ川(全長80km、Rattelsdorfラッテルスドルフを過ぎたところでMainマイン川に合流する)に沿って発展している。
写真はVeste Coburgコーブルク大要塞:バイロイトからのアクセスMap -
イチオシ
英国王室(ハノファー王朝)、つまり Victoriaヴィクトリア女王の王配(おうはい:女王の夫のこと)Albrecht von Sachsen-Coburg-Gothaアルブレヒト・フォン・ザクセン・コーブルク・ゴータ(英語読みはアルバート、1840年-1861年)はCoburgコーブルクの出身であった。
コーブルクの町はHerzog von Sachsen-Coburg und Gothaザクセン・コーブルク・ゴータ公家の宮廷があり、英王室との深い結びつきがあった町である。
この事があった所為か?!第二次大戦下、英空軍はこの町を空襲をしなかったと云う。
コーブルク市内観光はまず、ドイツで2番目に大きな城であり、「Die Fränkische Kroneフランケンの王冠」とも呼ばれるVeste Coburgコーブルク大要塞であろう。
写真に見る山上の大要塞と城内にある武器博物館、美術館などの見物である。
ザクセンのスイスにあったケーニッヒシュタイン大要塞とは、規模も違うがなかなかのものであった。
写真はVeste Coburgコーブルク大要塞:遠望と俯瞰コーブルク要塞 城・宮殿
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【Veste Coburgフェステ・コーブルク大要塞】
12:00~13:35、 入館料DM12
フェステ・コーブルクは157mの小高い丘にその雄姿を見せている。
要塞にはエーレンブルク宮殿傍の公園から登ることもできるようだが、きつそうなので、車で町の裏手を迂回して要塞に近づいた。
真っ青な青空と緑の森に映える赤レンガの屋根の要塞が見えてくる。
手前に広い駐車場があって、DM2.8を管理人に支払い、歩いて向かう。
徒歩10分で要塞だ。
参考写真はコーブルク大要塞:Hofgartenホーフガルテン(王宮付属庭園)から見上げて。 -
俯瞰図で見るコーブルク大要塞は、ドイツの古城・要塞の中でも最もよくその形を残していると云う。俯瞰した写真でよく分かるが楕円形の要塞で、二重の城壁が周囲を取り巻いている。
楕円形の真ん中にZugbrücken城門橋があり、これをくぐって城内に入ると、正面にはFürstenbau領主の建物が見える。
その右手にLuther Kappeleルターの礼拝堂があり、その横の階段を上がると、Hohe Basteiテラス上に素晴らしい眺望が開ける。
5月の景色、真黄色の菜の花畑が緑の中に黄色い帯となって横たわっていた。
城内には大きな菩提樹があって、その木陰が好ましい。
更に向かって左手に行くと、古めかしいSteinere Kemenateシュタイネレ ケメナート(石造の部屋)の建物があり、
順に左に向かうと、Carl-Eduard-Bauカール・エドワードの建物(Carl-Eduardはコーブルクの最後の公爵・1945年に退位)、
Herzoginbau公爵夫人の建物、
Roter Turm赤の塔、 Blauer Turm青の塔の二つの塔が並んで立ち、とんがり屋根の色が其々の色をしているのが分かる。
火薬塔の上、城壁に沿ったHohes Hausホーエス ハウス(かつての兵器庫、18世紀に牢獄に使われた) がある。
参考写真はコーブルク大要塞:城郭内図 -
イチオシ
【Die Fränkische Kroneフランケンの王冠】と謳われるVeste Coburgコーブルク大要塞は総面積25,000㎡の台上にある。ついでに言えば総階段数1,863段、総窓数727、総銃眼数(鉄砲でこの穴から攻撃軍を撃つ)は236を数える。
歴史文書に名が出てくるのは1056年のことで、945年の歴史を誇る、ドイツ屈指の大要塞である。
17世紀にコーブルク要塞の防衛機能が強化されたが、30年戦争(下記参照)の1632年、旧教の立場である皇帝側の名将Wallensteinヴァレンシュタイン将軍がこのコーブルク要塞を攻めたものの、その守りの堅さにわずか一週間で攻めるのを諦めたという話は有名である。
【30年戦争(1618~48年)】
100年前のマルチン・ルターの宗教改革に始まった、新旧キリスト教徒の対立が17世紀に入るとドイツ国内では争いが先鋭化した。
新旧キリスト教徒の宗教戦争は1618年パプスブルク家がボヘミア(現チェコ)の新教徒を弾圧した事に端を発する。旧教派のオーストリア/スペイン・パプスブルク家と新教派のフランス・ブルボン王家が政治的・現実的観点から、ドイツ国内の其々に加担し、更に新教派にスウェーデン王が介入するなど、国際紛争になる。
この戦争は新教派優勢で終わり、1648年北ドイツの Münsterミュンスター・Osnabrückオスナブリュック(かつて訪問した町々である)で66カ国により「ヴェストファリア条約」が調印された。
この戦争の間に全ドイツの人口は3分の2に減少し、国土は荒廃したと云う。この事でドイツは300もの小国家が分立する。ドイツはフランスなどに200年の遅れを生じたとされているが、反面では全ドイツの国民文化の均等な広がりを育み、今私共が旅を楽しむ町々にその事の有りがたさを見ることができる。
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写真はコーブルク大要塞:左上から時計回りに城壁・BlauerTurm青の塔、Zugbrücken城門橋、インタルジア寄木細工に似た木の象眼細工の一種が見られた部屋 -
Steinere Kemenateシュタイネレ ケメナート(石造の部屋)の建物にJagt-Intarsienzimmerヤークト・インタルジアの部屋(寄木細工に似た木の象眼細工で覆われた部屋)がある。
後期ルネサンス時代に、テューリンゲン・フランケンのマイスターが残した作品である。木の象眼細工で60もの狩猟場面を部屋中に描いている(1632年完成)。
元々は公爵家のエーレンブルク宮殿の壮麗な間にあったが、19世紀に要塞のこちらに移築したそうである。
参考写真は見事なJagt-Intarsienzimmerヤークト・インタルジアの部屋 -
その歴史の断片は1248年Hennebergヘンネベルク伯爵家が居城として、100年の間、Veste要塞とCoburg町を支配した。
1353年から1918年の565年もの間はザクセンとテューリンゲンを支配した領主Wettinヴェティン家の支配になり、遺産相続によってErnstエルンスト1世公爵の家系が連綿として続くこととなる。
1782~86年は牢獄・収容所として使用されることもあったが、第二次大戦後の1946年、早々とバイエルン州の所有となった。
写真はコーブルク大要塞:左上から時計回りに博物館・Rüstkammer 武器博物館にある甲冑姿で馬上に乗った姿、コーブルク要塞の俯瞰、ルターの間。 -
要塞内には【4つの歴史的建造物】があり、それらが連携して、膨大な、様々な美術・ガラス工芸品・武器などの博物館となっている。
A)Steinere Kemenateシュタイネレ ケメナート(石造の部屋):ルターの部屋・クラナハ作のルターの肖像画がある。
工芸美術品では1320年のピエタ像、1360年のバンベルグのマドンナ、ドイツマイスターの42の絵画、そしてデューラー、クラナハなどの絵画。
Jagdintarsienzimmerヤークト・インタルジアの部屋は見事な木彫りが見られる。
B)Carl-Eduard-Bauカール・エドワードの建物:ヴェネチアングラスなどのガラス工芸品、陶磁器、35万枚もの銅版画、錫の工芸品など。
参考写真はコーブルク大要塞:Lutherzimmerルターが聖書を訳した部屋 -
ルターはこのコーブルク城の小間で(1530年4月から半年間)旧約聖書のドイツ語訳を完成した。
尚、新約聖書はアイゼナハのヴァルトブルク城内で、1521~22年の凡そ10ヶ月の短い間に翻訳した。
写真はコーブルク大要塞:Lutherzimmerルターが聖書を訳した部屋にあるルターの肖像画(クラナハ作)画 -
C)Herzoginbau公爵夫人の建物:中世からの歴史的な武器・甲冑・銃器の陳列があり、甲冑姿で馬上に乗った姿はすごい。
狩猟の武器・道具、刑罰用のマスクなども面白い。
更に16~18世紀の競技用ソリ、花嫁の馬車など多数の馬車・ソリ。
現代の陶磁器などなど。
D)Fürstenbau領主の建物:Carl-Eduardカール・エドワードはCoburger Herzog von Sachsen-Coburg und Gohhaザクセン‐コーブルグ‐ゴータの領主でコーブルクの最後の公爵(1884~1954年)であった。
公爵は1945年に退位したが、それまでこの建物に家族と共に長く住んでいた。
城の中心となる建物で、次ぎの様な部屋がある。
ここは見学をしたのか?室内写真がないので、記憶が不鮮明なのだが、参考に記した。Vorhalle次の間・Kassenraum金庫の間とも呼ばれて、銭函がある。
Wachhalle守衛の間には大砲など武器が陳列されている。
参考写真はHerzoginbau公爵夫人の建物:Wagen-Schlittenhalle馬車と橇の展示場 -
Jagdgalerie狩猟のギャラリー、Salon der Herzogin公爵夫人の間、Lucas-Cranach Zimmerクラナハの間、Lesezimmer図書室、Speisezimmer食事の間、そしてFahnenzimmer・Rauchsalon軍旗の間・喫煙室などがあった。
軍旗の間・喫煙室には小冊子によると、日本の昭和天皇から第二次大戦前に贈られた刀剣と日本人形(Die Geisya-Puppeとある!)が中央に置かれていた。
また、1982年10月、スウェーデン王のカール16世が王妃と共に来訪したとある。ザクセン‐コーブルク‐ゴータ公爵の王女であったSibyllaシビラはカール16世の母であり、その母が最も幸せな時代を過ごしたFürstenbau 領主の建物(der Veste Coburg)を懐かしんで訪問したのだと云う。
写真はコーブルク:観光冊子の説明・・・コーブルク大要塞とコーブルク旧市街 -
「Lutherkapelleルターの礼拝堂」が今日の姿になったのは20世紀の初め。ルターの業績に敬意を示すと共に要塞滞在を記念し、この名を付けたそうだ。
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自由参観を終えて出てくると、さすがに疲れた。城門橋横にレストランがあったので、一休みを兼ねて、遅い昼食にした。
<昼食:Restaurant Burgschänkeレストラン ブルクシェンケ>
13:40~14:15 DM31・現金払い
0.4Lのビールを、家内はリンゴジュースをまず注文し、渇きを癒す。
私はGulaschsuppeグーラシュズッペ(パブリカ風味の肉入りシチュー)、
家内はフレンチ風Zwiebelsuppeツヴィーベルズッペ(チーズがのった玉葱入りスープ)に、
それにハムの盛り合わせ。私共にはこれが一番の昼食です。
写真はコーブルク大要塞:左上から時計回りにルターの礼拝堂、青の塔をバックに、ホーエ・バスタイからのフランケン平野の眺望(菜の花畑が目立つ)、木々も大きくなって木陰を作っている、レストラン ブルクシェンケで昼食。 -
写真は古城街道:左上から時計回りにFestung Coburgコーブルク大要塞、Ahornアホルンの古城ホテルHotel Schloss Hohensteinホーエンシュタイン城、ネッカー川ぞいにある古城Guttenbergグッテンベルク城で見た鷹匠 のショー
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14:35に駐車場を出て、コーブルク市内に戻る。
要塞地区とは少々違って、優雅なSchloss Ehrenburgエーレンブルク宮殿前に来た。宮殿は1547~1918年の間、コーブルク公爵の居城であったので内部は見る価値があるそうだ。
コーブルク:観光冊子の説明・・・エーレンブルク宮殿にはVorsaal控えの間、Familliensaalファミリールーム、Riesensaal巨大な間(バロック様式の宴会場)、Grosse Bildergalerie大ギャラリー、Rotes Empfangszimmer赤の応接室、Cobelinzimmerコブラン降りの部屋、Audienzzimmer接見室、Arbeistzzimmer書斎、Schlafzimmer寝室(ヴィクトリア女王の住居)、Thronsaal王座の間、プロテスタント教会などがあるらしい。
だが、時間の割り振りで、結局好みの人形博物館を選び、宮殿、公園、州立劇場(旧宮廷劇場・1840年)などを外から見て回っただけになった。
写真はコーブルク・エーレンブルク宮殿・公園エーレンブルク城 城・宮殿
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イチオシ
旧市街の中心、マルクト広場の北側にStadthausシュタットハウス(市庁舎)、南側にRathausラートハウス(市議会)、美しいルネサンス様式の建物がある。
シュタットハウス(1601年)は、公爵ヨハン・カジミールが建設した。公爵は装飾の多いファサードや多彩な壁絵を持つ後期ルネサンス様式を好んだと云う。
ラートハウス(1577年)は3階建てでコーブルク式の張り出し部と、長さ27m・幅13mの大会議場を持つ建物である。1750年と1903年に大規模な改築がなされた。
さて、優雅なSchloss Ehrenburgエーレンブルク宮殿よりも、Coburger Puppen-Museumコーブルク人形博物館を選んで見に行った。
写真はコーブルク市内観光:左上から時計回りにマルクト広場・ラートハウス(市議会)、シュタットハウス(市庁舎)、興味を持ったフランス製の人形(1900年Simon&Kalbig製)、人形博物館の前で。マルクト広場 (コーブルク) 広場・公園
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<Coburger Puppen-Museumコーブルク人形博物館>
16:00~16:45 DM7・現金払い
エーレンブルク宮殿の近くに人形博物館があったので、入館することにした。
元々はオリエント学者、詩人だった Friedrich Rückertフリードリヒ・リュカートがかつて住んでいた家(1820年~26年)でした。
面積900㎡、33室に18~20世紀のフランス・ドイツ製など、陶器製の様々な人形があった。展示された総数900体のほとんどはクラシックなドイツ製人形だという。
100の人形陶器コーヒーセット、30ものミニチュア台所用品を飾った人形の部屋、家があって、見て回るのも楽しかった。
上の写真はフランス製の人形(1900年Simon&Kalbig製)だが、その昔、北ドイツのGoslarゴスラーの宿泊ホテルで催されていた*古物市(蚤の市)でお土産に購入した人形に良く似ていると思えた。写真に撮ってきて、日本で二つを比べてみると違っていた!!!(次の写真参照)
参考写真はコーブルク人形博物館で展示されていた人形たち -
イチオシ
*1980年代にベルリン旅行からの帰途、北ドイツのGoslarゴスラー見物をした。その際宿泊したホテルで催されていた古物市(蚤の市)で、地元のお婆さんが売っていた古い人形を思い切って、確かDM500で購入した。
古い人形はこの一体のみ販売されていたが、妙に気に入って買ってしまった。
フランス製の人形はお婆さんの話ではもう100年を超えたものだと云う。頭と手は陶器製、胴から足は革製で出来ていて、稼働性の高いものだった。
髪や身に着けた服装も購入当時のままで、古びて相当劣化してきているが、いまだに我が家の居間に鎮座している。
写真はかつてお土産にゴスラーの蚤の市で購入したフランス製の人形 -
さて、地球の歩き方といった観光本でもバイエルン北部Coburgコーブルクの記述がありません。大要塞にしても、エーレンブルク宮殿もなかなかものだが、古城街道に関連した町として、掲載されているのはバイロイト、クルムバッハ、バンベルクです。一帯はバイエルン州の北部、いわゆるOberfrankenオーバーフランケン地方ですが、コーブルクの歴史的な位置からしても、私には観光本として片手落ちではないかと思ってしまう。
写真は左上にCoburgコーブルク、Rödentalレーデンタール =>右上にKronachクロナハが見える一帯の Map -
ドイツの「Die Porzellanstrasse陶磁器街道」はCoburger Landコーブルク地方も通っていて、可愛い「フンメル人形」で知られるGoebelゲーベル社が近郊にある。
コーブルクの北東約7kmのRödentalレーデンタールの町(人口13千人)に、ゲーベル社は1871年に創業された。
1935年に、ズィーセン修道院の修道女だったMaria Innocentia Hummelマリア・イノセンティア・フンメル(1909年~1956年)のデザインを基に、「フンメル人形」の製造を開始した。ライプツィヒの見本市で最初の50種類の人形を紹介したところ、大好評を博したと云う。私もいくつか持っています。
「フンメル人形」はスペインのLladróリヤドロと並ぶ、世界的に有名な陶磁器人形メーカーでしたが、残念なことに惜しまれつつも2008年に生産中止を発表した。
2009年、フンメル人形事業をHöchster Porzellanmanufakturヘキスト陶磁器制作会社が買収したが、その後も紆余曲折があるようだ。
写真は可愛い「フンメル人形」で知られるGoebelゲーベル社のパンフレット -
写真はコーブルク:観光冊子の説明・・・エーレンブルク宮殿・ヴィクトリア女王の住居、人形博物館
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シュロス広場の近くに、ラートハウスとシュタットハウスに囲まれたマルクト広場がある。シュタットハウスの前に立派な銅像が立っているが、この像はコーブルク公爵家の次男Albertアルベルト殿下(1819年~1861年)の像である。
アルバート公(王配1840年~1861年:ドイツ語はアルベルト)の像は、英国Victoriaヴィクトリア女王(1819年~1901年)から、彼女の夫君の故郷コーブルクに贈られたものだそうだ。
ヴィクトリア女王はなんと5度目!のコーブルク訪問中の1865年8月26日に、この像の除幕式に参列したと云う。(何度も来訪されたヴィクトリア女王の為に、エーレンブルク宮殿内には「ヴィクトリア女王の住居」と称した場所があるそうだ)
アルバート公の死後4年のことだが、*よほど思い入れがあったのだろう。
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尚、*ヴィクトリア女王と、王配(おうはい:女王の夫のこと)Albrecht von Sachsen-Coburg-Gothaアルブレヒト・フォン・ザクセン・コーブルク・ゴータ(英語読みはアルバート)の結婚式については、以下の事が参考になる。
【ヴィクトリアは1836年にアルバートと会ったことがあり、その時の日記の中でアルバートを「髪は私と同じ褐色、目は綺麗な碧眼、美しい鼻と口。顔の表情は魅力的だ。同時に善良さと甘美さと知的さを持っている」と絶賛していた。
もっとも1839年4月にヴィクトリアはメルバーン子爵に対して「私は当面いかなる結婚もしたくない」と語っている。アルバートのことは嫌いではなかったが、周囲が勝手にアルバートとのお見合いを進めているのが気に入らなかったという。
だが結局周囲に流される形で同年10月10日にウィンザーを訪れたアルバートを引見することになった。この頃アルバートは身長こそ167センチと低めだが、顔は一層美男になっており、また高い教養をもっていた。ヴィクトリアはすっかり彼に一目ぼれした。引見の翌日に彼女はメルバーン子爵に対して「結婚に対する意見を変えた」と述べ、さらに翌々日には「アルバートと結婚する意志を固めた」と述べた。
後日再びアルバートを召し、君主である彼女の方からプロポーズを行なった。「貴方が私の(結婚の)望みを叶えてくれたらどんなに幸せでしょう」と言ってプロポーズしたという。
ヴィクトリアとアルバートは1840年2月10日にセント・ジェームズ宮殿で結婚式を挙行した。その翌日のレオポルド1世への手紙でヴィクトリアは「世界で私ほど幸せな人間はいないと思います。彼は天使のようです。昨日の披露宴は楽しくて熱気にあふれていました。ロンドン市内では群衆が果てしなく沿道に続いていました」と書いている。】 (Wiki参考)
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参考写真はコーブルク:Stadthausシュタットハウス(市庁舎)とアルベルト殿下(王配のアルバート公)の大変立派な銅像 -
19世紀半ば、アルベルト殿下は英王室のヴィクトリア王女と結婚した。王女は大英帝国に繁栄をもたらしたヴィクトリア女王である。
アルベルト殿下が婿の候補となって英国に向かう旅の途中で、美しい令嬢と知り合うが、実はその令嬢がヴィクトリア王女だったと云うエピソードも残されている。
そうした背景もあって、第二次大戦中はこの町への英空軍の攻撃は全く無かったと云われている。
コーブルク公爵家と英王室やスウェーデン王室との婚姻関係には新教徒同士だという事があるのだろう?!
また、コーブルクの町は連合軍の米軍により占領されたこともあって、大戦後東西ドイツに分離された際、幸いにも西ドイツ領になっている。つまり東西ドイツ国境線はコーブルクに沿って引かれ、コーブルクは国境沿いの町となった。
(これも英国王室との関係の深さを物語るのかもしれない)
参考写真は英国ヴィクトリア女王とアルバート公(王配:ドイツ語ではアルベルト)一家の団らんの絵 -
コーブルクの近郊なのにB289・L?を行き過ぎたりして、森に囲まれた古城ホテルを見つけるのに時間がかかった。戻り道でこんもりとした森と城らしき建物に気がついて、山裾を回ってみた。森の中を進むと目的の古城ホテルが現れた。
ここまで27kmも走ったが、ナビがあれば半分で済んだろう。
Ahornアホルン・古城ホテルHotel Schloss Hohensteinホーエンシュタインには17:20到着。
写真はAhornアホルン・古城ホテルHotel Schloss Hohensteinホーエンシュタインのパンフレットの表紙Romantik Hotel Schloss Hohenstein ホテル
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<(1泊)Hotel Schloss Hohenstein古城ホテル ホーエンシュタイン> D-96482 Ahorn 、Hohenstein 1
全13室・?星、Park-Suite庭園側のスイート 、DM200(@56=11,200円)
コーブルクの近郊にあるこんもりとした森の中にこの城はある。
1306年、Otto von Brandenburg, Markgrafオットー・ブランデンブルク辺境伯の妻であったJutta von Hennebergユッタ・ヘンネベルク, Gräfin von Coburg und Schmalkaldenコーブルク・シュマルカルデン伯爵夫人(1247年~1327年)の居城として建設された。
1525年農民戦争で被災するも、1573年には再建された。
1763年、時のコーブルク領主Ernstエルンストにより、今日ある城郭や庭園の姿に改築された。
1941年にはドイツ帝国郵便に売却され、老人ホームなどに使用されることとなった。
1989~96年に高級ホテル・グルメレストランに改装され、現在は二人のオーナーシェフにより営業されている。
参考写真は古城ホテル ホーエンシュタインのパンフレット:天守閣から庭園側を見る眺望 -
城の周辺には森が広がり、城門の前面にはロココ風SchlossPark城内庭園がある。庭園傍には礼拝堂があり、結婚式に利用されているそうだ。
参考写真は古城ホテル ホーエンシュタインのパンフレット:天守閣から礼拝堂を見る眺望 -
古城ホテルは天守閣を中心にして長方形の城郭が築かれている。城門をくぐると中庭があり、これを囲んでレセプション、レストラン、ホテル宿泊棟、会議室が設けられていた。
参考写真は古城ホテル ホーエンシュタインのパンフレット:天守閣から長方形の城郭・中庭を見る。中央にレセプション、レストランの建物がある。 -
今夜の部屋は1階のどっしりした、ドアーを開けた暗い廊下の先にあった。
広いサロン付のスイート(28㎡)が用意されていた。
スイートは3室あり、二つは2階にある。希望したバス付のダブルルームは無いため、ちょっと格上げのスイートにしてくれたようだ。
尚、現在はRomantik Hotel Schloss Hohensteinと称している。
参考写真は古城ホテル ホーエンシュタインのパンフレット:広いサロン付のスイート -
【夕食:Hotel Schloss Hohensteinの”Wintergarten-Restaurant”】
19:00~21:30 DM221(@56=12,400円)
ドイツのレストランにはよくある“Wintergarten”は冬の庭、若しくは温室の意で、レストランの場合は後者の意味になる。
このレストランは中庭に面した大きなガラス窓、古城らしいシャンデリア、センスの良い青みかかった灰色の椅子、テーブルには真っ白なテーブルクロスが敷かれ、数十の席があります。今夜のお客は4組ほどです。
飲物は定番のDry Sherryに始まり、赤のワインはSinfonie”S”(DM72・産地はいまや分からず)。
私のオーダーは今宵のメニュー・オーナーシェフ自慢の料理です。
コンソメスープ、
メインに牛肉のチーズ巻き、野菜のベーコン巻き、フライドポテト添え、
デザートにはプリンとシャーベットに果物添えとボリューム十分のものでした。
家内は一品料理を頼みました。
まず、三つの小さな容器に入った、トマト味・コンソメ・ポタージュといった三種類のスープを楽しめるようにしたもの。
メインはシュパーゲルにゆでたポテト、野菜巻き添えといったものです。
私のメインがやや重く感じた料理内容でしたのがちょっと残念でした。
写真は古城ホテル ホーエンシュタインの夕食:左上から時計回りに私のデザート、メイン、家内のスープ、メイン。 -
参考写真は古城ホテル ホーエンシュタインのパンフレット:レストラン
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写真は古城ホテル ホーエンシュタインの夕食:夕食後左上から時計回りに宿泊棟の建物入口、食後のレストラン、翌朝の庭園散策、部屋の窓。
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写真は古城ホテル ホーエンシュタイン:左上から時計回りに朝の庭園を散策、朝食したレストランは昨夜と同じ、次の目的地Schloss Tambachタムバッハ城 の城門前。
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<5月11日(金) 快晴 281km、通算の走行距離は1,605km>
城内を散策後、Ahornを9:35スタート。 B303 6km =>Schloss Tambach ・自然動物園 。B303・A70・7・81・6(Schweinfurt・Würzburg・Neckarsulm) B27 252km =>Bad Wimpfen 13:15~14:15 ・宮殿、青の塔。 L? 10km =>Schloss Heinsheim 14:30~15:00 L? 3km =>Burg Guttenberg ・鷹ショー 15:15~16:15 L? 2km =>Schloss Hohenhausen(改装中) L?・B27・292 8km =>Obrigheim ・Hotel Schloss Neuburg に17時着。
*今日も快晴だ。旅の前半が雨にたたられた分を取り返している。
SchlossPark城内公園や礼拝堂を散策した後、Ahornアホルンを9:35にスタートした。
昨日行き過ぎた道B303を西に6km走った先に、Schloss Tambachタムバッハ城がある。
写真はCoburgコーブルク=>Tambachタムバッハ=>WürzburgヴュルツブルクのMap -
ここは自然動物園になっていて、猪、鹿、山羊、トナカイ、馬、牛など25種類が50万㎡の広い原野、森林に飼われている。
ここは短い見物で切上げて、一気にアウトバーンを長躯した。
Schweinfurtシュバインフルト、Würzburgヴュルツブルク、Neckarsulmネッカーズルムを通過し、ネッカー川畔沿いを走る。252kmの長距離を走った後、Bad Wimpfenバート・ヴィンプフェンに13:15到着した。
ネッカー川沿いの古城群に立寄り、今夜も古城ホテル ノイブルクに宿泊する。
参考写真はSchloss Tambachタムバッハ城:Wildpark自然動物園のパンフレット
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(2024年3月15日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
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2001年ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る
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この旅行記へのコメント (2)
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- pedaruさん 2024/03/16 06:48:55
- 地名だけでも楽しめる
- jijidarumaさん おはようございます。
バイロイトといえばバイロイト音楽祭、懐かしいです。? まだドイツにいったことのないpedaruが何を言うのですかと言われてしまいます。
昔のことですが、仕事をしながら一日中クラシック音楽を聴いていた時期がありました。NHKのFM放送ではよくバイロイト音楽祭の様子を放送していましt、そんなわけで懐かしかったのです。フランケン、これはあれを想像させますね、このことを語らないのがjijidarumaさんが通のしょうこですね。
妻のドイツ旅行が近づいてきて、jijidarumaさんの旅行記を参考に、あれをみるといい、とかこれもいいね、なんて知ったかぶりでドイツの見どころを教えています。こんなだと私が娘に馬鹿にされそうです。
pedaru
- jijidarumaさん からの返信 2024/03/16 14:24:00
- Re: 地名だけでも楽しめる
- pedaruさん、
今日は。いつもありがとうございます。
ドイツの旅、そろそろですか!羨ましいですね。
私の好きなドイツの古城ホテルに御滞在が出来たらと思いますね(笑)。
そしてお嬢さんが御一緒ゆえ、予定に入れておられるかもしれませんが、ドイツの春の旬・シュパーゲル(白アスパラ)料理をお勧めください。
さて、旅の目的はいつも古城群見物、古城ホテルばかりが気になるから、バイロイトの「ワーグナーの祝祭歌劇場」も「辺境伯オペラハウス」も殆ど外観のみになりました。
かつて30代の頃、何でも見て聞いてという精神で、ワーグナーの4部作『ニーベルングの指環』を初めて観劇に、デュッセルドルフのオペラハウスに4日間連続で通い、娘達と4人で天井桟敷から鑑賞した事を思い出しました。
襲い掛かる眠気を我慢しながら(苦笑)。
何しろオペラハウスの会員にまでなっていたのですから、いま思えばビックリです。運動部出身の親は駄目でしたが、娘たちは大学時代に合唱団でアルト、管弦楽団でチェロを弾くようになりました。
辛口のフランケンワインが好まれるフランケン地方はその昔の「東フランク王国からフランケン大公国」に遡ると、現在のバイエルン州フランケン地方にくわえて、ヘッセン州、テューリンゲン州、ザクセン州、バーデン・ヴュルテンベルク州などの一部まで支配したそうです。
それでも今のフランケン地方も広く、とりわけ私のような古城好きにとっては、古城群も多く一種「聖地」のようなものですが、日本人的には個々の都市名だけで認識され、地方としてはあまり知られていないようです。
むしろ東西を通る古城街道や南北に走るロマンチック街道に連なる町々として知られていますね。
それではまた。コメントありがとうございました。
jijidaruma
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