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≪ドイツ16年ぶりの再訪:④テューリンゲン陶磁器街道の中心RudolstadtルードルシュタットのSchloss Heidecksburgハイデックスブルク宮殿とDornburgドルンブルクの3様式の古城群を見る≫<br /><br /><2001年5月7日(月)雨、313km><br /><br />Weimarワイマールを8:40スタート B85 79km=>Rudolstadtルードルシュタット10:20~12:30 市内観光:Schloss Heidecksburgハイデックスブルク宮殿、市庁舎。 B88(Jena) 53km=>DornburgドルンブルクのDornburger Schloesser古城群 13:45~14:30 ;ゴシック・ルネッサンス・ロココスタイルの三つの城(1766~1822年にゲーテがしばしば滞在した)。  B88・A4(Geraゲラ・Cheminitzケミニッツ・Nossenノッセン)B101 181km =>Meissenマイセン・Mercure Parkhotel Meissenメルキュール・パークホテル・マイセンに17:00到着。<br /><br />写真は2011年にも訪れたRudolstadtルードルシュタットのSchloss Heidecksburgハイデックスブルク宮殿・・・Volstedtフォルクシュテットの銘品

ドイツ16年ぶりの再訪:④テューリンゲン陶磁器街道の中心ハイデックスブルク宮殿とドルンブルクのの3様式の古城群を見る

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2001/05/07 - 2001/05/08

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jijidaruma

jijidarumaさん

≪ドイツ16年ぶりの再訪:④テューリンゲン陶磁器街道の中心RudolstadtルードルシュタットのSchloss Heidecksburgハイデックスブルク宮殿とDornburgドルンブルクの3様式の古城群を見る≫

<2001年5月7日(月)雨、313km>

Weimarワイマールを8:40スタート B85 79km=>Rudolstadtルードルシュタット10:20~12:30 市内観光:Schloss Heidecksburgハイデックスブルク宮殿、市庁舎。 B88(Jena) 53km=>DornburgドルンブルクのDornburger Schloesser古城群 13:45~14:30 ;ゴシック・ルネッサンス・ロココスタイルの三つの城(1766~1822年にゲーテがしばしば滞在した)。  B88・A4(Geraゲラ・Cheminitzケミニッツ・Nossenノッセン)B101 181km =>Meissenマイセン・Mercure Parkhotel Meissenメルキュール・パークホテル・マイセンに17:00到着。

写真は2011年にも訪れたRudolstadtルードルシュタットのSchloss Heidecksburgハイデックスブルク宮殿・・・Volstedtフォルクシュテットの銘品

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
レンタカー
旅行の手配内容
個別手配

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  • *ワイマールを雨の中、8:40にスタートし、B85を南下する。途中、道路が工事中であったりして、迂回をせざるを得なくなり、けっこう時間がかかってしまった。79kmを一時間半ほどかけて、*Saaleザーレ川畔のRudolstadtルードルシュタットに10:20着く。<br />ここまで総走行距離は通算545kmですが、初めての給油をエッソのスタンドでする。(48.97L=DM103.27(5,800円)<br /><br /><*Saaleザーレ川><br />ザーレ川はザクセンのザーレ川 (Sächsische Saale) あるいはテューリンゲンのザーレ川 (Thüringische Saale)とも呼ばれ、バイエルン州、テューリンゲン州、ザクセン・アンハルト州を流れ下る。<br />全長413kmで、モルダウ川(チェコのボヘミアを流れる)に次ぐエルベ川第2の支流である。また、モルダウ川に次いで水量の豊かな支流である。<br /><br />写真はRudolstadtルードルシュタット周辺Map

    *ワイマールを雨の中、8:40にスタートし、B85を南下する。途中、道路が工事中であったりして、迂回をせざるを得なくなり、けっこう時間がかかってしまった。79kmを一時間半ほどかけて、*Saaleザーレ川畔のRudolstadtルードルシュタットに10:20着く。
    ここまで総走行距離は通算545kmですが、初めての給油をエッソのスタンドでする。(48.97L=DM103.27(5,800円)

    <*Saaleザーレ川>
    ザーレ川はザクセンのザーレ川 (Sächsische Saale) あるいはテューリンゲンのザーレ川 (Thüringische Saale)とも呼ばれ、バイエルン州、テューリンゲン州、ザクセン・アンハルト州を流れ下る。
    全長413kmで、モルダウ川(チェコのボヘミアを流れる)に次ぐエルベ川第2の支流である。また、モルダウ川に次いで水量の豊かな支流である。

    写真はRudolstadtルードルシュタット周辺Map

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  • ルードルシュタット(人口3万人)はバロック様式の宮殿として、ドイツで最も美しいと云われるSchloss Heidecksburgハイデックスブルク宮殿を中心とした宮廷都市である。5月4日に滞在したFriedewaldフリーデヴァルトの水城&quot;Prinz von Hessenヘッセンの王子 &quot;と同じく、この町も8世紀にはHersfeldヘルスフェルト僧院の所有地だった。<br />1340年にSchwarzburgシュヴァルツブルク伯爵の支配下になり、1571年以降はシュヴァルツブルク・ルードルシュタット侯爵家の首都として、文化・芸術が繁栄した。そのシンボルとして、雄大なハイデックスブルク宮殿(1735年~1918年)がシュヴァルツブルク・ルードルシュタット侯爵の居城として町の高台に聳え立ち、街を見下ろしている。<br /><br />尚、Fürstentum Schwarzburg-Rudolstadtシュヴァルツブルク・ルードルシュタット侯国(1711年~1918年)はドイツ帝国のもとでテューリンゲン諸邦と総称された領邦群のうちのひとつであった。<br /><br />実は日本の観光書には殆どこの地域は出ていない。<br />たまたま、新潮社刊のとんぼの本の中に“ゲーテ街道を行く”(小塩節・津田孝二共著)を読んで、この宮殿を知り、興味を持ってわざわざ来たわけだ。<br /><br />写真はRudolstadtルードルシュタット:Schloss Heidecksburgハイデックスブルク宮殿

    イチオシ

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    ルードルシュタット(人口3万人)はバロック様式の宮殿として、ドイツで最も美しいと云われるSchloss Heidecksburgハイデックスブルク宮殿を中心とした宮廷都市である。5月4日に滞在したFriedewaldフリーデヴァルトの水城"Prinz von Hessenヘッセンの王子 "と同じく、この町も8世紀にはHersfeldヘルスフェルト僧院の所有地だった。
    1340年にSchwarzburgシュヴァルツブルク伯爵の支配下になり、1571年以降はシュヴァルツブルク・ルードルシュタット侯爵家の首都として、文化・芸術が繁栄した。そのシンボルとして、雄大なハイデックスブルク宮殿(1735年~1918年)がシュヴァルツブルク・ルードルシュタット侯爵の居城として町の高台に聳え立ち、街を見下ろしている。

    尚、Fürstentum Schwarzburg-Rudolstadtシュヴァルツブルク・ルードルシュタット侯国(1711年~1918年)はドイツ帝国のもとでテューリンゲン諸邦と総称された領邦群のうちのひとつであった。

    実は日本の観光書には殆どこの地域は出ていない。
    たまたま、新潮社刊のとんぼの本の中に“ゲーテ街道を行く”(小塩節・津田孝二共著)を読んで、この宮殿を知り、興味を持ってわざわざ来たわけだ。

    写真はRudolstadtルードルシュタット:Schloss Heidecksburgハイデックスブルク宮殿

  • 市庁舎(17世紀、赤い屋根、緑の壁、窓枠を白く彩った庁舎は独特のもの)を中心にした旧市街のマルクト広場には噴水、五月柱があり、ゲーテが指揮を執ったというTheater Rudolstadt 州立劇場(1792年創立)など、なかなかの町であった。<br />(10:20~12:30) <br /><br />1788年にはこの町で文豪ゲーテとシラーが運命的な出会いをしたと云う。<br />あるいはHumboldtフンボルト(男爵、博物学者兼探検家、地理学者)、Fichte フィヒテ(哲学者)、Schopenhauerショーペンハウエル(哲学者)などもこの地に足跡を残している。<br /><br />この町はまた「Schllerstadtシラーシュッタット(シラーの町)Rudolstadtルードルシュタット」と近年になって称するようになった。<br />それは文豪Friedrich Schillerフリードリヒ・シラーが、この町でCharlotte von Lengefeldシャルロッテ・レンゲフェルト(1766~1826年)と結婚したことに由来するわけだが、二人が住んだ家は ワイマールのようにSchllerhausシラーハウスとして現在も残り、博物館となっている。家の前の道も Schillerstrasseシラー通りである。<br /><br />ついでに言えば、2015年7月23日に訪れた、ネッカー川沿いのシラー誕生(生家がある)の町Marbachマールバッハも「Schillerstadt Marbachシラーの町マールバッハ」と称している。<br />Stuttgartシュトゥットガルトの北20kmにシラーの町マールバッハがある。<br />Marbach am Neckarネッカー川畔のマールバッハが正式名だ。人口15千人の田舎町であるが、ドイツの国民的作家シラー(1759年生まれ)はこの地に誕生している。そして現在もシラーの生家があることで知られている。<br /><br />写真はルードルシュタット:この町はハイデックスブルク宮殿の城下町だ。マルクト広場から宮殿を見上げ、宮殿に上って城下町を眺望した。

    市庁舎(17世紀、赤い屋根、緑の壁、窓枠を白く彩った庁舎は独特のもの)を中心にした旧市街のマルクト広場には噴水、五月柱があり、ゲーテが指揮を執ったというTheater Rudolstadt 州立劇場(1792年創立)など、なかなかの町であった。
    (10:20~12:30) 

    1788年にはこの町で文豪ゲーテとシラーが運命的な出会いをしたと云う。
    あるいはHumboldtフンボルト(男爵、博物学者兼探検家、地理学者)、Fichte フィヒテ(哲学者)、Schopenhauerショーペンハウエル(哲学者)などもこの地に足跡を残している。

    この町はまた「Schllerstadtシラーシュッタット(シラーの町)Rudolstadtルードルシュタット」と近年になって称するようになった。
    それは文豪Friedrich Schillerフリードリヒ・シラーが、この町でCharlotte von Lengefeldシャルロッテ・レンゲフェルト(1766~1826年)と結婚したことに由来するわけだが、二人が住んだ家は ワイマールのようにSchllerhausシラーハウスとして現在も残り、博物館となっている。家の前の道も Schillerstrasseシラー通りである。

    ついでに言えば、2015年7月23日に訪れた、ネッカー川沿いのシラー誕生(生家がある)の町Marbachマールバッハも「Schillerstadt Marbachシラーの町マールバッハ」と称している。
    Stuttgartシュトゥットガルトの北20kmにシラーの町マールバッハがある。
    Marbach am Neckarネッカー川畔のマールバッハが正式名だ。人口15千人の田舎町であるが、ドイツの国民的作家シラー(1759年生まれ)はこの地に誕生している。そして現在もシラーの生家があることで知られている。

    写真はルードルシュタット:この町はハイデックスブルク宮殿の城下町だ。マルクト広場から宮殿を見上げ、宮殿に上って城下町を眺望した。

  • この町は「Thüringer Porzellanstraßeテューリンゲン陶磁器街道」を彩る町でもあり、ここにはVolkstedtフォルクシュテット(1760年創業)、Rudolf Kämmer ルドルフ ケマーVolkstedt(1953年創業)など3社ほどが伝統的な作業で陶磁器生産していると云う。<br /><br />ハイデックスブルク宮殿内の博物館にはテューリンゲン陶磁器の名品が展示されているそうだが、高台の宮殿に上がってみると、残念にも博物館は休館であった(この事が残念であったので、2011年の旅で再訪した)。<br /><br />宮殿の高台から降りて、市庁舎前のマルクト広場に行く。昼時であるので、広場に面して建つ、ゲーテゆかりのホテルのレストランで昼食を頂く事とした。<br /><br />写真はルードルシュタット:ハイデックスブルク宮殿の春景色

    この町は「Thüringer Porzellanstraßeテューリンゲン陶磁器街道」を彩る町でもあり、ここにはVolkstedtフォルクシュテット(1760年創業)、Rudolf Kämmer ルドルフ ケマーVolkstedt(1953年創業)など3社ほどが伝統的な作業で陶磁器生産していると云う。

    ハイデックスブルク宮殿内の博物館にはテューリンゲン陶磁器の名品が展示されているそうだが、高台の宮殿に上がってみると、残念にも博物館は休館であった(この事が残念であったので、2011年の旅で再訪した)。

    宮殿の高台から降りて、市庁舎前のマルクト広場に行く。昼時であるので、広場に面して建つ、ゲーテゆかりのホテルのレストランで昼食を頂く事とした。

    写真はルードルシュタット:ハイデックスブルク宮殿の春景色

  • <昼食:Hotel・Restaurant Adlerホテル・レストラン アドラー> <br />D-07407 Rudolstadt、Markt 17 、<br />TEL:49(0)3672-4403<br /><br />全29室・?星、11:15~12:15  DM33(現金払い)<br /><br />体調不調の家内は簡単に林檎のケーキにオレンジジュース、私はシュパーゲル(白アスパラ)料理の定番を注文した。 <br /><br />ザーレ地方の中心ルードルシュタットのマルクト広場にある。<br />凡そ400年の歴史あるホテル アドラーは黄色の壁、緑の窓枠、建物正面の屋根には双頭の鷲が掲げられていた。<br />1817年10月11日、ゲーテが1泊したと云うホテルとして知られている。<br /><br />写真はルードルシュタット:左に市庁舎、右にホテル・レストラン アドラー

    <昼食:Hotel・Restaurant Adlerホテル・レストラン アドラー> 
    D-07407 Rudolstadt、Markt 17 、
    TEL:49(0)3672-4403

    全29室・?星、11:15~12:15  DM33(現金払い)

    体調不調の家内は簡単に林檎のケーキにオレンジジュース、私はシュパーゲル(白アスパラ)料理の定番を注文した。 

    ザーレ地方の中心ルードルシュタットのマルクト広場にある。
    凡そ400年の歴史あるホテル アドラーは黄色の壁、緑の窓枠、建物正面の屋根には双頭の鷲が掲げられていた。
    1817年10月11日、ゲーテが1泊したと云うホテルとして知られている。

    写真はルードルシュタット:左に市庁舎、右にホテル・レストラン アドラー

  • 【Thüringer Porzellanstraßeテューリンゲン陶磁器街道】<br /><br />ルードルシュタットを中心に二重三重の観光街道があり、凡そ340kmの行程だと云う。1992年に開設されたから、わりと新しい観光街道だろう。<br />二百数十年前に“白い金”と称された陶磁器を生産する工場がテューリンゲン地方のこの一帯に設けられたので、この名がある。<br />Kahlaカーラ、Koenigseeケーニッヒゼー、Konitzコニッツ、Lichteリヒテ、Reichenbachライヘンバッハ、Ilmenauイルメナウなどの町々に、現在も大手では25社ほどもあり、特にルードルシュタットにはVolkstedtフォルクシュテット(1760年創業)、Rudolf Kämmer ルドルフ ケマーVolkstedt(1953年創業)など3社ほどが伝統的な作業で生産していると言う。<br /><br />参考写真はルードルシュタット:Aelteste Volkstedter Porzellanmanufakturエールテステ・フォルクシュテット陶磁器工場(1762年創業)のマーク

    【Thüringer Porzellanstraßeテューリンゲン陶磁器街道】

    ルードルシュタットを中心に二重三重の観光街道があり、凡そ340kmの行程だと云う。1992年に開設されたから、わりと新しい観光街道だろう。
    二百数十年前に“白い金”と称された陶磁器を生産する工場がテューリンゲン地方のこの一帯に設けられたので、この名がある。
    Kahlaカーラ、Koenigseeケーニッヒゼー、Konitzコニッツ、Lichteリヒテ、Reichenbachライヘンバッハ、Ilmenauイルメナウなどの町々に、現在も大手では25社ほどもあり、特にルードルシュタットにはVolkstedtフォルクシュテット(1760年創業)、Rudolf Kämmer ルドルフ ケマーVolkstedt(1953年創業)など3社ほどが伝統的な作業で生産していると言う。

    参考写真はルードルシュタット:Aelteste Volkstedter Porzellanmanufakturエールテステ・フォルクシュテット陶磁器工場(1762年創業)のマーク

  • 参考写真はルードルシュタット:Aelteste_Volkstedtエールテステ・フォルクシュテット  1785年頃の作品

    参考写真はルードルシュタット:Aelteste_Volkstedtエールテステ・フォルクシュテット 1785年頃の作品

  • かつての東ドイツ(ルター諸都市・Berlin・Dresdenなど)を巡る旅で、ドレスデンから20km東に位置するBurg Stolpenシュトルペン城という中世の雰囲気に満ちた古城(要塞)を訪ねた。<br />以前にドイツ観光局でもらっていた、ザクセン地方の古城群を案内した8ページのパンフレットでこの城の事を知り、アウグスト強王(兼ポーランド王)により、この城に死ぬまでの49年(1716年~1765年)も幽囚されたコーゼル伯爵夫人(アウグスト強王の愛妾だった)にからむ三つの宮殿・城(Schloss Nossenノッセン城 、Schloss Pillnitzピルニッツ宮殿、Burg Stolpenシュトルペン城)を是非、訪ねたいと思った。<br />とりわけ、コーゼル伯爵夫人がその生涯の大部分を過ごしたシュトルペン城は興味深く、すでに上記の二つの宮殿・城を見て、ここが最後の訪問地になる。<br /><br />城内のヨハネの塔(コーゼルの塔)は、1階がヨハネの牢獄と言い、深く口をあけて人を飲み込むような穴があった。2階のゴシックの間はシュトルペンの司教時代、そして3~5階が囚人コーゼル伯爵夫人の生涯を展示していた。<br />寝台、トイレ、宮廷大臣ホイム伯とコーゼル伯爵夫人の肖像画、見事な筆跡のフランス語で書かれた伯爵夫人の手紙(フランス語が如何にドイツの王侯貴族という上流社会で当たり前のように使用されていたかを知る事が出来る)、立派な暖炉、日常に使用した品々、台所、とりわけ見事なマイセン磁器は“伯爵夫人の脱走”と称した作品であった。<br /><br />さて、ここで【とりわけ見事なマイセン磁器は“伯爵夫人の脱走”と称した作品】と書いてきたが、今回2001年の旅の事を書いている内に、実はこの作品がテューリンゲン磁器のAelteste Volkstedter Porzellanmanufakturエールテステ・フォルクシュテット陶磁器工場(1762年創業)の作品であると言う事に気が付いた。<br /><br />参考写真は2011.05.23.Burg Stolpen:AEV_V645-M_Flucht_der_Gräfin_Cosel エールテステ・フォルクシュテットの「コーゼル伯爵夫人の脱走」

    かつての東ドイツ(ルター諸都市・Berlin・Dresdenなど)を巡る旅で、ドレスデンから20km東に位置するBurg Stolpenシュトルペン城という中世の雰囲気に満ちた古城(要塞)を訪ねた。
    以前にドイツ観光局でもらっていた、ザクセン地方の古城群を案内した8ページのパンフレットでこの城の事を知り、アウグスト強王(兼ポーランド王)により、この城に死ぬまでの49年(1716年~1765年)も幽囚されたコーゼル伯爵夫人(アウグスト強王の愛妾だった)にからむ三つの宮殿・城(Schloss Nossenノッセン城 、Schloss Pillnitzピルニッツ宮殿、Burg Stolpenシュトルペン城)を是非、訪ねたいと思った。
    とりわけ、コーゼル伯爵夫人がその生涯の大部分を過ごしたシュトルペン城は興味深く、すでに上記の二つの宮殿・城を見て、ここが最後の訪問地になる。

    城内のヨハネの塔(コーゼルの塔)は、1階がヨハネの牢獄と言い、深く口をあけて人を飲み込むような穴があった。2階のゴシックの間はシュトルペンの司教時代、そして3~5階が囚人コーゼル伯爵夫人の生涯を展示していた。
    寝台、トイレ、宮廷大臣ホイム伯とコーゼル伯爵夫人の肖像画、見事な筆跡のフランス語で書かれた伯爵夫人の手紙(フランス語が如何にドイツの王侯貴族という上流社会で当たり前のように使用されていたかを知る事が出来る)、立派な暖炉、日常に使用した品々、台所、とりわけ見事なマイセン磁器は“伯爵夫人の脱走”と称した作品であった。

    さて、ここで【とりわけ見事なマイセン磁器は“伯爵夫人の脱走”と称した作品】と書いてきたが、今回2001年の旅の事を書いている内に、実はこの作品がテューリンゲン磁器のAelteste Volkstedter Porzellanmanufakturエールテステ・フォルクシュテット陶磁器工場(1762年創業)の作品であると言う事に気が付いた。

    参考写真は2011.05.23.Burg Stolpen:AEV_V645-M_Flucht_der_Gräfin_Cosel エールテステ・フォルクシュテットの「コーゼル伯爵夫人の脱走」

    シュトルペン城 城・宮殿

  • 【Porzellanfabrik zu Kloster Veilsdorfクロスター・ヴェールスドルフ磁器工場(1760年創業)】<br />*Liste von Porzellanmanufakturen und -herstellern<br />(参考にしたのは陶磁器工場の一覧表でマイセンをはじめ名だたる欧州の銘品が掲載されている)<br /><br />Kloster Veilsdorfクロスター・ヴェールスドルフ(ベネデイクト派の僧院で1189年創立)のPorzellanwerk磁器工場は、ドイツで最も古い磁器工場の1つで、Thüringer Porzellanstraßeテューリンゲン磁器街道に属している。<br />クロスター・ヴェールスドルフの磁器工場は1760年にPrince Friedrich Wilhelm Eugen von Sachsen-Hildburghausenザクセン・ヒルトブルクハウゼン公爵家のフリードリヒ・ヴィルヘルム・オイゲン王子によって設立された。<br /><br />尚、Herzogtum Sachsen-Hildburghausenザクセン・ヒルトブルクハウゼン公国(1675年~1826年)はヴェッティン家エルネスティン系が統治した侯爵家で、領土は現ドイツのテューリンゲン州の一部にあたる。<br /><br />写真はKloster-Veilsdorfクロスター・ヴェールスドルフの作品: キャンドル

    【Porzellanfabrik zu Kloster Veilsdorfクロスター・ヴェールスドルフ磁器工場(1760年創業)】
    *Liste von Porzellanmanufakturen und -herstellern
    (参考にしたのは陶磁器工場の一覧表でマイセンをはじめ名だたる欧州の銘品が掲載されている)

    Kloster Veilsdorfクロスター・ヴェールスドルフ(ベネデイクト派の僧院で1189年創立)のPorzellanwerk磁器工場は、ドイツで最も古い磁器工場の1つで、Thüringer Porzellanstraßeテューリンゲン磁器街道に属している。
    クロスター・ヴェールスドルフの磁器工場は1760年にPrince Friedrich Wilhelm Eugen von Sachsen-Hildburghausenザクセン・ヒルトブルクハウゼン公爵家のフリードリヒ・ヴィルヘルム・オイゲン王子によって設立された。

    尚、Herzogtum Sachsen-Hildburghausenザクセン・ヒルトブルクハウゼン公国(1675年~1826年)はヴェッティン家エルネスティン系が統治した侯爵家で、領土は現ドイツのテューリンゲン州の一部にあたる。

    写真はKloster-Veilsdorfクロスター・ヴェールスドルフの作品: キャンドル

  • 参考:Thüringer Porzellanstraßeテューリンゲン陶磁器街道・陶磁器工場のマークと住所

    参考:Thüringer Porzellanstraßeテューリンゲン陶磁器街道・陶磁器工場のマークと住所

  • 参考写真はルードルシュタット:Rudolf Kämmer ルドルフ ケマーVolkstedtの作品(1953年創業、住所:Breitscheidstraße 98, Rudolstadt, Thüringen 7407)

    参考写真はルードルシュタット:Rudolf Kämmer ルドルフ ケマーVolkstedtの作品(1953年創業、住所:Breitscheidstraße 98, Rudolstadt, Thüringen 7407)

  • 参考:Rudolstadt:Rudolf Kämmer ルドルフ ケマーVolkstedtフォルクシュテットのマーク

    参考:Rudolstadt:Rudolf Kämmer ルドルフ ケマーVolkstedtフォルクシュテットのマーク

  • 参考:Thüringer Porzellanstraßeテューリンゲン陶磁器街道・250周年(1760年~2010年)を記念して、2010年と思われるが冊子が発行された。2011年に再訪した際にハイデックスブルク宮殿内の博物館で手に入れたものだ。

    参考:Thüringer Porzellanstraßeテューリンゲン陶磁器街道・250周年(1760年~2010年)を記念して、2010年と思われるが冊子が発行された。2011年に再訪した際にハイデックスブルク宮殿内の博物館で手に入れたものだ。

  • 参考:Thüringer Porzellanstraßeテューリンゲン陶磁器街道・Aelteste Volkstedter Porzellanmanufakturエールテステ・フォルクシュテット 陶磁器工場

    参考:Thüringer Porzellanstraßeテューリンゲン陶磁器街道・Aelteste Volkstedter Porzellanmanufakturエールテステ・フォルクシュテット 陶磁器工場

  • 参考:Thüringer Porzellanstraßeテューリンゲン陶磁器街道・白い黄金と呼ばれた磁器、蒐集された作品が各地のSchatzkammerシャッツカマ―(宝物館)に展示されている。

    参考:Thüringer Porzellanstraßeテューリンゲン陶磁器街道・白い黄金と呼ばれた磁器、蒐集された作品が各地のSchatzkammerシャッツカマ―(宝物館)に展示されている。

  • 参考:Thüringer Porzellanstraßeテューリンゲン陶磁器街道・蒐集された作品が各地の博物館に展示されているが、その博物館の一覧表。

    参考:Thüringer Porzellanstraßeテューリンゲン陶磁器街道・蒐集された作品が各地の博物館に展示されているが、その博物館の一覧表。

  • ・・・・・<br /><br />2011年5月25日、ドルンブルクから56kmで高台に見えたRudolstadtルードルシュタットのSchloss Heidecksburgハイデクスブルク宮殿に13:05到着した。<br /><br />2001年5月の時は市役所裏の駐車場に車を置いてから、徒歩で宮殿への道を登った。息切れがしたものだが、今日は宮殿まで車で上がることにした。宮殿入口近くの駐車場は少なく、満車状態である。<br />工事中の小父さんに尋ねると、“工事関係者が城壁傍(かつて厩舎があった)に停めているから、そこに駐車したら良い。”と言ってくれた。<br /><br />写真は2011年に再訪したRudolstadtルードルシュタットのSchloss Heidecksburgハイデックスブルク宮殿から望む城下町

    ・・・・・

    2011年5月25日、ドルンブルクから56kmで高台に見えたRudolstadtルードルシュタットのSchloss Heidecksburgハイデクスブルク宮殿に13:05到着した。

    2001年5月の時は市役所裏の駐車場に車を置いてから、徒歩で宮殿への道を登った。息切れがしたものだが、今日は宮殿まで車で上がることにした。宮殿入口近くの駐車場は少なく、満車状態である。
    工事中の小父さんに尋ねると、“工事関係者が城壁傍(かつて厩舎があった)に停めているから、そこに駐車したら良い。”と言ってくれた。

    写真は2011年に再訪したRudolstadtルードルシュタットのSchloss Heidecksburgハイデックスブルク宮殿から望む城下町

  • 【Rudolstadtルードルシュタット・Schloss Heidecksburgハイデクスブルク宮殿】<br />Thueringer Landesmuseum Heidecksburg<br />D- 07407 Rudolstadt 、Schlossbezirk 1<br />http://www.heidecksburg.de/<br />コンビ入場券・撮影料Euro15 、 13:05~15:40<br />http://www.heidecksburg.de/<br /><br />シュバルツブルク‐ルードルシュタット選帝侯のレジデンスは華麗なバロック様式の宮殿として、世評に高く、この宮殿を年間10万人の観光客が訪れると云う。<br />宮殿の中庭は広く、閲兵場も兼ねているように思われる。コの字型に立っている建物の左奥に鐘楼のある塔が立ち、宮殿の景観のアクセントになっている。<br /><br />写真は2011年にも訪れたRudolstadtルードルシュタットのSchloss Heidecksburgハイデックスブルク宮殿・・・Volstedtフォルクシュテットの銘品

    イチオシ

    【Rudolstadtルードルシュタット・Schloss Heidecksburgハイデクスブルク宮殿】
    Thueringer Landesmuseum Heidecksburg
    D- 07407 Rudolstadt 、Schlossbezirk 1
    http://www.heidecksburg.de/
    コンビ入場券・撮影料Euro15 、 13:05~15:40
    http://www.heidecksburg.de/

    シュバルツブルク‐ルードルシュタット選帝侯のレジデンスは華麗なバロック様式の宮殿として、世評に高く、この宮殿を年間10万人の観光客が訪れると云う。
    宮殿の中庭は広く、閲兵場も兼ねているように思われる。コの字型に立っている建物の左奥に鐘楼のある塔が立ち、宮殿の景観のアクセントになっている。

    写真は2011年にも訪れたRudolstadtルードルシュタットのSchloss Heidecksburgハイデックスブルク宮殿・・・Volstedtフォルクシュテットの銘品

  • 宮殿の歴史:<br />13世紀ごろにGrafen von Orlamuendeオルラミュンデ伯により、築城されたものである。1334年にはシュバルツブルク伯の手に落ちている。<br />1571年、3翼を持ったルネサンス様式の城が建てられた。<br />1710年、シュバルツブルク‐ルードルシュタット伯爵は選帝侯となった。<br />1735年、火事で罹災し、北と西翼を失っている。その後、バロック様式で再建された。<br />1571~1918年の長きに亘って、Fuersten von Schwarzburg-Rudolstadtシュバルツブルク‐ルードルシュタット侯爵の居城・宮殿だった。<br />このバロック様式の宮殿は現在も見事な姿を残し、ルードルシュタットの町を見下ろす60mの高台に立ち、辺りを睥睨している。<br /><br />写真はルードルシュタット・ハイデックスブルク宮殿:Volstedtフォルクシュテットの銘品

    宮殿の歴史:
    13世紀ごろにGrafen von Orlamuendeオルラミュンデ伯により、築城されたものである。1334年にはシュバルツブルク伯の手に落ちている。
    1571年、3翼を持ったルネサンス様式の城が建てられた。
    1710年、シュバルツブルク‐ルードルシュタット伯爵は選帝侯となった。
    1735年、火事で罹災し、北と西翼を失っている。その後、バロック様式で再建された。
    1571~1918年の長きに亘って、Fuersten von Schwarzburg-Rudolstadtシュバルツブルク‐ルードルシュタット侯爵の居城・宮殿だった。
    このバロック様式の宮殿は現在も見事な姿を残し、ルードルシュタットの町を見下ろす60mの高台に立ち、辺りを睥睨している。

    写真はルードルシュタット・ハイデックスブルク宮殿:Volstedtフォルクシュテットの銘品

  • まず、博物館のガイド付き見学をした。参加者8人で1時半からスタートした。<br />スタートまでの間、かつての?Grossen Hofstube大宮廷レストラン?に展示しているVolkstedtフォルクスシュテット(1760年にシュバルツブルク‐ルードルシュタット伯の王子の支援を受けて創業。第二次大戦では爆撃で工場の大半を失った。戦後、再建された。)などの陶磁器の展示を見た。何処の町でも陶磁器博物館を見て回るのは好きだ。<br />今回、ドレスデンには行ったが、マイセンを訪ねていない。そのマイセンにも負けない素晴らしい作品群がフォルクスシュテットにもある。<br /><br />写真は殆んど撮らなかったので、以下の順序は確かではない。<br /><br />写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:Die Festraeume祝典の間(宮殿の表の場)・Festsaalフェストザール(1750年)、見事な天井画

    まず、博物館のガイド付き見学をした。参加者8人で1時半からスタートした。
    スタートまでの間、かつての?Grossen Hofstube大宮廷レストラン?に展示しているVolkstedtフォルクスシュテット(1760年にシュバルツブルク‐ルードルシュタット伯の王子の支援を受けて創業。第二次大戦では爆撃で工場の大半を失った。戦後、再建された。)などの陶磁器の展示を見た。何処の町でも陶磁器博物館を見て回るのは好きだ。
    今回、ドレスデンには行ったが、マイセンを訪ねていない。そのマイセンにも負けない素晴らしい作品群がフォルクスシュテットにもある。

    写真は殆んど撮らなかったので、以下の順序は確かではない。

    写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:Die Festraeume祝典の間(宮殿の表の場)・Festsaalフェストザール(1750年)、見事な天井画

  • <Die Festraeume祝典の間(宮殿の表の場)><br /><br />Mamorgalerie大理石のギャラリー(1747年)はフェストザールへの入口に位置し、美しく磨かれた大理石の床が映える。宮殿の表の場として、対外的な折衝の、接見の場として、ロココの華麗さが際立ったものになっている。<br />城内一の素晴しい部屋はFestsaalフェストザール(1750年)という。色彩豊かな天井画、ヴェネチア製と思われるシャンデリア、絵画、スタッコで美しく装った壁面など、ドイツ・ロココの代表的なもので圧倒される美しさを持っている。<br />Weissezimmer白の間(1795年)は対照的な赤の間の前室で、訪問者の控え部屋であった。そして、見事な天井画、品の良い暖炉、赤の壁に囲まれたRoter Saal赤の広間(1741年)にはザクセン宮廷画家による春と秋の絵がかけられている。<br />Gruener Saal緑の広間 (1750年)は王妃の間でもあったが早世された為に、その後はコンサートなどに利用されたと云う。緑の広間の前の部屋はロココ調のBaenderzimmer(1786年)は独特の暗緑色の壁が目をひく。Rotes Eckkabinett赤の角部屋、Gruener Eckkabinett緑の角部屋など、かつての王侯貴族の栄華を改めて知る事が出来る。<br /><br />写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:Die Festraeume祝典の間(宮殿の表の場)・Festsaalフェストザール(1750年)

    <Die Festraeume祝典の間(宮殿の表の場)>

    Mamorgalerie大理石のギャラリー(1747年)はフェストザールへの入口に位置し、美しく磨かれた大理石の床が映える。宮殿の表の場として、対外的な折衝の、接見の場として、ロココの華麗さが際立ったものになっている。
    城内一の素晴しい部屋はFestsaalフェストザール(1750年)という。色彩豊かな天井画、ヴェネチア製と思われるシャンデリア、絵画、スタッコで美しく装った壁面など、ドイツ・ロココの代表的なもので圧倒される美しさを持っている。
    Weissezimmer白の間(1795年)は対照的な赤の間の前室で、訪問者の控え部屋であった。そして、見事な天井画、品の良い暖炉、赤の壁に囲まれたRoter Saal赤の広間(1741年)にはザクセン宮廷画家による春と秋の絵がかけられている。
    Gruener Saal緑の広間 (1750年)は王妃の間でもあったが早世された為に、その後はコンサートなどに利用されたと云う。緑の広間の前の部屋はロココ調のBaenderzimmer(1786年)は独特の暗緑色の壁が目をひく。Rotes Eckkabinett赤の角部屋、Gruener Eckkabinett緑の角部屋など、かつての王侯貴族の栄華を改めて知る事が出来る。

    写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:Die Festraeume祝典の間(宮殿の表の場)・Festsaalフェストザール(1750年)

  • <Die fuerstlichen Wohnraeume選帝侯の住居(宮殿の裏の場)><br /><br />Die Biedermeiergalerieビーダーマイヤー風ギャラリー 、Das Tapetenzimmer壁かけの部屋、Der goldene Salon黄金のサロン、Der blauseidene Salon青のサロンは特別な印象を与える部屋だ。Die Stuckdecke im Delmenhorster Gemach神話の狩のシーンを描いたスタッコの天井、Das Amorzimmerアモル(恋愛の女神)の部屋には女神らしい像が、Die Oldenburger Galerieオルデンブルガーギャラリーにはライオンとの戦いの絵が、そして、選帝侯の住居部分の中で最も華麗に装ったSpiegelkabinett鏡の間(1720年)がある。その床にはシュバルツブルク家の紋章が見える。<br />表に比較すれば、私的な場はやや質素にも見えるが・・・。<br /><br />写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:Gruener Saal緑の広間

    <Die fuerstlichen Wohnraeume選帝侯の住居(宮殿の裏の場)>

    Die Biedermeiergalerieビーダーマイヤー風ギャラリー 、Das Tapetenzimmer壁かけの部屋、Der goldene Salon黄金のサロン、Der blauseidene Salon青のサロンは特別な印象を与える部屋だ。Die Stuckdecke im Delmenhorster Gemach神話の狩のシーンを描いたスタッコの天井、Das Amorzimmerアモル(恋愛の女神)の部屋には女神らしい像が、Die Oldenburger Galerieオルデンブルガーギャラリーにはライオンとの戦いの絵が、そして、選帝侯の住居部分の中で最も華麗に装ったSpiegelkabinett鏡の間(1720年)がある。その床にはシュバルツブルク家の紋章が見える。
    表に比較すれば、私的な場はやや質素にも見えるが・・・。

    写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:Gruener Saal緑の広間

  • Gemaeldegalerie絵画の間にはシュバルツブルク‐ルードルシュタット選帝侯が蒐集した17~8世紀の絵画が見られる。<br />Schwarzburgische Geschichteシュバルツブルク‐ルードルシュタット選帝侯の発展過程の歴史やその豊かな宮廷文化のあり様を展示していた。<br /><br />確か、この部屋だったか?選帝侯の持っていた地球儀(1788年作)にNipponと表現されていた。Japanではなかった。ガイドさんは日本人が一緒だった事に気を使って、指さして説明してくれた。当時はアメリカが1783年に独立したばかりであったので、“アメリカの名は無い。しかし日本の名前がここにちゃんとある。”とガイドさんが言った為、皆、大笑いした。エッカルツブルク城のレストランでの出来事のように、ここでもNipponだった。<br /><br />その他にも、馬車橇、クリスマスプレゼントだった子供橇等のSchlittenausstellung橇の展示、Waffensammlung武器の収集展示は15世紀からの武器は凡そ4000を数える。Porzellangalerie陶磁器ギャラリー、Naturhistorisches Museum自然科学博物館もあって、今にして記憶も鮮明でないほど、数多かった展示群には驚かされた。<br /><br />写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:スタッコの天井

    Gemaeldegalerie絵画の間にはシュバルツブルク‐ルードルシュタット選帝侯が蒐集した17~8世紀の絵画が見られる。
    Schwarzburgische Geschichteシュバルツブルク‐ルードルシュタット選帝侯の発展過程の歴史やその豊かな宮廷文化のあり様を展示していた。

    確か、この部屋だったか?選帝侯の持っていた地球儀(1788年作)にNipponと表現されていた。Japanではなかった。ガイドさんは日本人が一緒だった事に気を使って、指さして説明してくれた。当時はアメリカが1783年に独立したばかりであったので、“アメリカの名は無い。しかし日本の名前がここにちゃんとある。”とガイドさんが言った為、皆、大笑いした。エッカルツブルク城のレストランでの出来事のように、ここでもNipponだった。

    その他にも、馬車橇、クリスマスプレゼントだった子供橇等のSchlittenausstellung橇の展示、Waffensammlung武器の収集展示は15世紀からの武器は凡そ4000を数える。Porzellangalerie陶磁器ギャラリー、Naturhistorisches Museum自然科学博物館もあって、今にして記憶も鮮明でないほど、数多かった展示群には驚かされた。

    写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:スタッコの天井

  • 写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:なかなか面白い人形で口が諤々と動いた(陶器製?!)

    写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:なかなか面白い人形で口が諤々と動いた(陶器製?!)

  • 写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:青のサロン 

    写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:青のサロン 

  • 今までの博物館の反対側に【“Rococo en miniatureミニチュアのロココ 讃美の島の宮殿”】の入口があって、展示場になっている。<br /><br />2001年5月7日にテューリンゲン陶磁器街道を巡り、その中心の町Rudolstadtルードルシュタットを訪れた。この日、城内博物館は休みで、お目当ての珍しい「Rococo en miniatureミニチュアのロココ 讃美の島の宮殿」が見られませんでした。<br /><br />今回は再挑戦で、常設展示されている見事なミニチュアを見てきました。<br />ミニチュアの作者達Gerhard Baetz とManfred Kiedorf の二人が50年をかけて、10の宮殿、約1,000の人形と1,000の家具調度からなるミニチュア世界を作った。<br />かつての“Hofkueche王家の台所”に展示されていたミニチュアは予想以上にすごそうだったので、切符売り場にいったん戻って、ミニチュア撮影料を払ってから入った。<br /><br />写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:“Rococo en miniatureミニチュアのロココ 讃美の島の宮殿”

    イチオシ

    今までの博物館の反対側に【“Rococo en miniatureミニチュアのロココ 讃美の島の宮殿”】の入口があって、展示場になっている。

    2001年5月7日にテューリンゲン陶磁器街道を巡り、その中心の町Rudolstadtルードルシュタットを訪れた。この日、城内博物館は休みで、お目当ての珍しい「Rococo en miniatureミニチュアのロココ 讃美の島の宮殿」が見られませんでした。

    今回は再挑戦で、常設展示されている見事なミニチュアを見てきました。
    ミニチュアの作者達Gerhard Baetz とManfred Kiedorf の二人が50年をかけて、10の宮殿、約1,000の人形と1,000の家具調度からなるミニチュア世界を作った。
    かつての“Hofkueche王家の台所”に展示されていたミニチュアは予想以上にすごそうだったので、切符売り場にいったん戻って、ミニチュア撮影料を払ってから入った。

    写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:“Rococo en miniatureミニチュアのロココ 讃美の島の宮殿”

  • 精緻な細工をした華麗なミニチュアには払う価値があった。<br />ファンタジーランドの地図も掲げてあって、この地図上の架空の王国の宮殿などが、ミニチュア作品になっているのだが、その作品の数々の中にこんなものがある。<br /><br />Ball im Festsaalフェストザールでの舞踏会、Fuerst Ludwig Guenther II. von Schwarzburg-Rudolstadt spielt Viola ヴィオラを弾くシュバルツブルク‐ルードルシュタット選帝侯、Koenig Talari III. von Pelarien 賛美の国の王タラリ3世、Hofkueche von Schloss Perenz mit Speiseaufzug zur koeniglichen Tafel賛美の国の王家の台所、Hofzwerg Klimpe im Orgelwagenオルガン馬車、Residenzschloss Eulenlust der Koenigin Onide von Dyonien賛美の国の宮殿D、Residenzschloss Perenz von Pelarien賛美の国の宮殿P、宮廷の食事シーンなどなど。<br /><br />さすがに50年という人生をかけて作った作品群は大人の鑑賞に堪える作品で、大人もじっくり楽しめた。<br /><br />写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:“Rococo en miniatureミニチュアのロココ 讃美の島の宮殿”

    精緻な細工をした華麗なミニチュアには払う価値があった。
    ファンタジーランドの地図も掲げてあって、この地図上の架空の王国の宮殿などが、ミニチュア作品になっているのだが、その作品の数々の中にこんなものがある。

    Ball im Festsaalフェストザールでの舞踏会、Fuerst Ludwig Guenther II. von Schwarzburg-Rudolstadt spielt Viola ヴィオラを弾くシュバルツブルク‐ルードルシュタット選帝侯、Koenig Talari III. von Pelarien 賛美の国の王タラリ3世、Hofkueche von Schloss Perenz mit Speiseaufzug zur koeniglichen Tafel賛美の国の王家の台所、Hofzwerg Klimpe im Orgelwagenオルガン馬車、Residenzschloss Eulenlust der Koenigin Onide von Dyonien賛美の国の宮殿D、Residenzschloss Perenz von Pelarien賛美の国の宮殿P、宮廷の食事シーンなどなど。

    さすがに50年という人生をかけて作った作品群は大人の鑑賞に堪える作品で、大人もじっくり楽しめた。

    写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:“Rococo en miniatureミニチュアのロココ 讃美の島の宮殿”

  • 高台の城・宮殿は常に水の問題を抱えていた事をここまでもいろいろな城で見てきたが、ここでも16世紀に掘られたBrunnen井戸があり、Brunnengewoelbe井戸のある丸天井の地下室で、60mの深さがある井戸を見る事が出来た。<br />興味深かった見物もこれが最後になった。<br /><br />ずっと歩き通し、疲れたので、休憩だ。<br /><br /><お茶;Rudolstadt・Schlosscafe Heidecksburg><br />15:05~15:30 Euro9(1,062円)<br />コーヒーと紅茶、イチゴとリンゴのケーキ。<br />ルードルシュタットの町(人口24千人)を見下ろす絶好の高台にシュロスカフェがある。<br />快晴の下、5月の心地よい風に吹かれながら、嬉しい一時を過ごした。<br />この日も昼食抜きでしたから、美味しいケーキは完食です。<br /><br />市庁舎前のマルクト広場に面して建つ、ゲーテゆかりのホテル・アドラーが見えた。予定ではこのホテルのレストランで昼食を頂く事にしていたが、時間も遅れ遅れとなり、そこまで行く気もなくなっていた。<br /><br />写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:“Rococo en miniatureミニチュアのロココ 讃美の島の宮殿”<br /><br />この町には文豪シラーが住んだ家もあるのだが、もらった資料はワイマールのシラーの家とは格段に中身が少ないので、ハイデクスブルク宮殿からマイニンゲンに向かう事とした。<br /><br />ドイツ最後の古城ホテルMeiningen・Schloss Landsberg Meiningen古城ホテル シュロス ランドスベルグ マイニンゲンで、グルメレストランRittersaal騎士の間で4品のキャンドルディナーを予定している。<br /><br />(以上は参考までに、2011年5月25日、RudolstadtルードルシュタットのSchloss Heidecksburgハイデクスブルク宮殿の再訪を写真を抜粋して掲載した)<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    高台の城・宮殿は常に水の問題を抱えていた事をここまでもいろいろな城で見てきたが、ここでも16世紀に掘られたBrunnen井戸があり、Brunnengewoelbe井戸のある丸天井の地下室で、60mの深さがある井戸を見る事が出来た。
    興味深かった見物もこれが最後になった。

    ずっと歩き通し、疲れたので、休憩だ。

    <お茶;Rudolstadt・Schlosscafe Heidecksburg>
    15:05~15:30 Euro9(1,062円)
    コーヒーと紅茶、イチゴとリンゴのケーキ。
    ルードルシュタットの町(人口24千人)を見下ろす絶好の高台にシュロスカフェがある。
    快晴の下、5月の心地よい風に吹かれながら、嬉しい一時を過ごした。
    この日も昼食抜きでしたから、美味しいケーキは完食です。

    市庁舎前のマルクト広場に面して建つ、ゲーテゆかりのホテル・アドラーが見えた。予定ではこのホテルのレストランで昼食を頂く事にしていたが、時間も遅れ遅れとなり、そこまで行く気もなくなっていた。

    写真は2011年ハイデックスブルク宮殿内見学:“Rococo en miniatureミニチュアのロココ 讃美の島の宮殿”

    この町には文豪シラーが住んだ家もあるのだが、もらった資料はワイマールのシラーの家とは格段に中身が少ないので、ハイデクスブルク宮殿からマイニンゲンに向かう事とした。

    ドイツ最後の古城ホテルMeiningen・Schloss Landsberg Meiningen古城ホテル シュロス ランドスベルグ マイニンゲンで、グルメレストランRittersaal騎士の間で4品のキャンドルディナーを予定している。

    (以上は参考までに、2011年5月25日、RudolstadtルードルシュタットのSchloss Heidecksburgハイデクスブルク宮殿の再訪を写真を抜粋して掲載した)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  • ワイマールからはRudolstadtルードルシュタットに向かって南下したが、ここからはB88をSaaleザーレ川は沿いに北上した。<br />ルードルシュタットに興味を持たなければ、最初からDornburgドルンブルクの古城群を目指し、その後はマイセン、ドレスデンを回遊したことだろう。<br /><br />Jenaイエナの町はワイマールから東に21kmにあり、1448年Jenaイエナ大学が創立されて以来、この町は学問の府となった。シラーが10歳年上のゲーテの招きに応じて、イエナ大学(現在シラー大学と称する)で教鞭をとった事は先に述べた。<br /><br /><参考;Schlacht bei Jena und Auerstedtイエナ・アウエルシュタットの戦い><br /><br />ナポレオン戦争中の1806年10月14日、ドイツのテューリンゲン;イエナおよびアウエルシュタットで行われた戦闘である。<br />皇帝ナポレオン1世率いるフランス帝国軍と、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世率いるプロイセン王国軍が交戦し、フランス軍が勝利した。<br />この戦いの結果、プロイセン軍は甚大な損害を被り、その後の追撃戦で完全に壊滅した。この結果、プロイセン全土がフランス軍に制圧された。<br />事実上、ドイツ戦役の勝敗を決定した戦闘といえるだろう。<br />特にエッカルツブルク城近くのアウエルシュタットにおいては、ダヴー元帥が2倍のプロイセン軍を破っている。<br />イエナ・アウエルシュタットでプロイセン主力を打ち破ったフランス軍はプロイセン本土まで一挙に侵攻し、10月25日、フランス軍は首都ベルリン入城を果たした。<br />この際、ナポレオンは戦功第一のダヴー元帥に一番乗りの栄誉を与えた。11月半ばまでにフランス軍はプロイセン全土を制圧、最終的に戦死24,000名、捕虜140,000名の損害を出してプロイセン軍は壊滅した。<br /><br />イエナはCarl Zeissカール・ツァイス(1846年創業)の光学機械メーカーの本拠地でもあるが、今日はそのまま通り抜けた。<br /><br />写真はSaale川流域Map(JenaイエナからDornburger Schloesserドルンブルクの古城群への地図)

    ワイマールからはRudolstadtルードルシュタットに向かって南下したが、ここからはB88をSaaleザーレ川は沿いに北上した。
    ルードルシュタットに興味を持たなければ、最初からDornburgドルンブルクの古城群を目指し、その後はマイセン、ドレスデンを回遊したことだろう。

    Jenaイエナの町はワイマールから東に21kmにあり、1448年Jenaイエナ大学が創立されて以来、この町は学問の府となった。シラーが10歳年上のゲーテの招きに応じて、イエナ大学(現在シラー大学と称する)で教鞭をとった事は先に述べた。

    <参考;Schlacht bei Jena und Auerstedtイエナ・アウエルシュタットの戦い>

    ナポレオン戦争中の1806年10月14日、ドイツのテューリンゲン;イエナおよびアウエルシュタットで行われた戦闘である。
    皇帝ナポレオン1世率いるフランス帝国軍と、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世率いるプロイセン王国軍が交戦し、フランス軍が勝利した。
    この戦いの結果、プロイセン軍は甚大な損害を被り、その後の追撃戦で完全に壊滅した。この結果、プロイセン全土がフランス軍に制圧された。
    事実上、ドイツ戦役の勝敗を決定した戦闘といえるだろう。
    特にエッカルツブルク城近くのアウエルシュタットにおいては、ダヴー元帥が2倍のプロイセン軍を破っている。
    イエナ・アウエルシュタットでプロイセン主力を打ち破ったフランス軍はプロイセン本土まで一挙に侵攻し、10月25日、フランス軍は首都ベルリン入城を果たした。
    この際、ナポレオンは戦功第一のダヴー元帥に一番乗りの栄誉を与えた。11月半ばまでにフランス軍はプロイセン全土を制圧、最終的に戦死24,000名、捕虜140,000名の損害を出してプロイセン軍は壊滅した。

    イエナはCarl Zeissカール・ツァイス(1846年創業)の光学機械メーカーの本拠地でもあるが、今日はそのまま通り抜けた。

    写真はSaale川流域Map(JenaイエナからDornburger Schloesserドルンブルクの古城群への地図)

  • イエナを抜けて直ぐに、ザーレ川を望む丘の上に Dornburgドルンブルクの古城群が見えてきた。<br />貝殻石灰の急な崖はザーレ川から90mの高さ、この崖上に中世の小さな村がある。道は急坂を登る。ここまで53kmあった。<br /><br />古城群はゴシック・ルネサンス・ロココスタイルの三つの城である。<br /><br />城のある一帯は菩提樹が茂り、バラや様々の花々が咲き誇る公園である。<br /><br />公園の左手奥に赤い屋根、青の壁をした①ゴシック様式の城Alte Schlossアルテ シュロスがある。この城の起源は937年、神聖ローマ皇帝Otto I. der Großeオットー1世(大帝)に遡り、現在の姿は15世紀のものである。きれいに改装した後、Jenaイエナ大学(現シラー大学と改称)の会議場施設になっている。<br /><br />右手に白壁に風見鳥の塔を持つ②ルネッサンス様式のRenaissanceschlossルネサンス シュロスは1540年に騎士の居城として建設された。その後、1824年ザクセン・ワイマール・アイゼナハ大公のCarl Augustカール・アウグスト公爵が購入した。1828年夏、ゲーテが最後に滞在した部屋もある。1766~1822年の間にゲーテはしばしばこの地を訪れて、詩作に励んだと云われている。  <br /><br />写真はDornburger Schloesserドルンブルクの古城群:右にAlteSchlossアルテ シュロス(ゴシック様式の城)、左にRenaissanceschlossルネサンス様式の城

    イチオシ

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    イエナを抜けて直ぐに、ザーレ川を望む丘の上に Dornburgドルンブルクの古城群が見えてきた。
    貝殻石灰の急な崖はザーレ川から90mの高さ、この崖上に中世の小さな村がある。道は急坂を登る。ここまで53kmあった。

    古城群はゴシック・ルネサンス・ロココスタイルの三つの城である。

    城のある一帯は菩提樹が茂り、バラや様々の花々が咲き誇る公園である。

    公園の左手奥に赤い屋根、青の壁をした①ゴシック様式の城Alte Schlossアルテ シュロスがある。この城の起源は937年、神聖ローマ皇帝Otto I. der Großeオットー1世(大帝)に遡り、現在の姿は15世紀のものである。きれいに改装した後、Jenaイエナ大学(現シラー大学と改称)の会議場施設になっている。

    右手に白壁に風見鳥の塔を持つ②ルネッサンス様式のRenaissanceschlossルネサンス シュロスは1540年に騎士の居城として建設された。その後、1824年ザクセン・ワイマール・アイゼナハ大公のCarl Augustカール・アウグスト公爵が購入した。1828年夏、ゲーテが最後に滞在した部屋もある。1766~1822年の間にゲーテはしばしばこの地を訪れて、詩作に励んだと云われている。

    写真はDornburger Schloesserドルンブルクの古城群:右にAlteSchlossアルテ シュロス(ゴシック様式の城)、左にRenaissanceschlossルネサンス様式の城

  • 青い屋根、茶色の壁をした③ロココ様式のRokokoschlossロココ シュロスはゲーテによって新しい城とも名づけられた。この城は三つの城の中で最も新しい。<br />ザクセン・ワイマール・アイゼナハ大公のErnst Augustエルンスト・アウグスト公爵によって、狩猟館もしくは別荘のような城として、11年をかけて1747年に完工した。<br /><br />城の散策路から望むザーレ川周辺の景色は緑濃いもので、遠くに見える森林とこの丘に挟まれた村々の赤い屋根が鮮やかだ。<br /><br />偶々であったドイツ系オランダ人のお爺さん達にカメラで写真を撮って頂いた。私共と同じく、観光に来ていたのだが、日本人と知って、親しみを示してくれた。<br />もっとも話すのは英語でしたが。花壇の前で家内とお爺さんのツーショットの写真があるが、楽しげな、良い写真だ。 <br />(13:45~14:30)<br /><br />写真はDornburger Schloesserドルンブルクの古城群:右にRokokoschlossロココ様式の城、左に庭園

    青い屋根、茶色の壁をした③ロココ様式のRokokoschlossロココ シュロスはゲーテによって新しい城とも名づけられた。この城は三つの城の中で最も新しい。
    ザクセン・ワイマール・アイゼナハ大公のErnst Augustエルンスト・アウグスト公爵によって、狩猟館もしくは別荘のような城として、11年をかけて1747年に完工した。

    城の散策路から望むザーレ川周辺の景色は緑濃いもので、遠くに見える森林とこの丘に挟まれた村々の赤い屋根が鮮やかだ。

    偶々であったドイツ系オランダ人のお爺さん達にカメラで写真を撮って頂いた。私共と同じく、観光に来ていたのだが、日本人と知って、親しみを示してくれた。
    もっとも話すのは英語でしたが。花壇の前で家内とお爺さんのツーショットの写真があるが、楽しげな、良い写真だ。
    (13:45~14:30)

    写真はDornburger Schloesserドルンブルクの古城群:右にRokokoschlossロココ様式の城、左に庭園

  • 写真はザーレ川畔から見上げるDornburger Schloesserドルンブルクの古城群・・・右手から左にゴシック・ルネサンス・ロココスタイルの三つの城である。

    写真はザーレ川畔から見上げるDornburger Schloesserドルンブルクの古城群・・・右手から左にゴシック・ルネサンス・ロココスタイルの三つの城である。

  • 2001年5月7日に来た時はイエナから北上したが、今回はバート・ケーゼンからザーレ川に沿って、南下したわけで、3つの城の見る感じが違って見えた。<br />10:15に着いた駐車場からは村内を少し歩く。3城の内、2つの城内観光をした。一つはイエナ大学(現シラー大学と改称)の施設になっているので外観だけの見物になる。<br /><br /><Die drei Dornburger Schloesser (ドルンブルクの3つの古城群)>  <br />D-07778 Dornburg<br />http://www.dornburg-saale.de/<br />コンビ入場券Euro7 、10:15~11:30<br />ザーレ川を望む丘は貝殻石灰でできた急な崖、ザーレ川から90mの高さにある。<br />この崖上に中世の小さな村(人口900人)があって、神聖ローマ皇帝オットー1世から、ゲーテに至る歴史を垣間見る事が出来る。<br /><br />ザーレ渓谷のバルコンに立つ古城群はゴシック・ルネサンス・ロココスタイルの三つの城である。2006年に大改装されて、美しい姿になった。バルコン下の傾斜地にはブドウ畑が作られ、古城群の一帯は大きな菩提樹等の木々が茂り、バラや様々の花々が咲き誇るSchlosspark城公園がある。<br /><br />ドイツの5月はもうライラックからバラの花に変っていた。バラの花はもう少しで満開、ドルンブルクのRosenfestバラの女王祭りもこれからです。(6月24日~26日に開催) <br /><br />参考写真は2011年、ドルンブルクの古城群から望むザーレ川一帯の美しい景観

    2001年5月7日に来た時はイエナから北上したが、今回はバート・ケーゼンからザーレ川に沿って、南下したわけで、3つの城の見る感じが違って見えた。
    10:15に着いた駐車場からは村内を少し歩く。3城の内、2つの城内観光をした。一つはイエナ大学(現シラー大学と改称)の施設になっているので外観だけの見物になる。

    <Die drei Dornburger Schloesser (ドルンブルクの3つの古城群)>  
    D-07778 Dornburg
    http://www.dornburg-saale.de/
    コンビ入場券Euro7 、10:15~11:30
    ザーレ川を望む丘は貝殻石灰でできた急な崖、ザーレ川から90mの高さにある。
    この崖上に中世の小さな村(人口900人)があって、神聖ローマ皇帝オットー1世から、ゲーテに至る歴史を垣間見る事が出来る。

    ザーレ渓谷のバルコンに立つ古城群はゴシック・ルネサンス・ロココスタイルの三つの城である。2006年に大改装されて、美しい姿になった。バルコン下の傾斜地にはブドウ畑が作られ、古城群の一帯は大きな菩提樹等の木々が茂り、バラや様々の花々が咲き誇るSchlosspark城公園がある。

    ドイツの5月はもうライラックからバラの花に変っていた。バラの花はもう少しで満開、ドルンブルクのRosenfestバラの女王祭りもこれからです。(6月24日~26日に開催) 

    参考写真は2011年、ドルンブルクの古城群から望むザーレ川一帯の美しい景観

  • 参考写真は2011年、ドルンブルクの古城群:AlteSchlossゴシック様式の城

    参考写真は2011年、ドルンブルクの古城群:AlteSchlossゴシック様式の城

  • 参考写真は2011年、ドルンブルクの古城群:Renaissanceschlossルネサンス様式の城<br /><br />*1828年夏、ゲーテが最後に滞在した、質素なGoethezimmerゲーテの部屋もある。1766~1822年の間にゲーテはしばしば(20回を越える滞在と云う)この地を訪れて、詩作に励んだと云われている。<br />ゲーテについて質問したら、親切にも長々と説明が続き、内心・・・実に困った。 <br />

    参考写真は2011年、ドルンブルクの古城群:Renaissanceschlossルネサンス様式の城

    *1828年夏、ゲーテが最後に滞在した、質素なGoethezimmerゲーテの部屋もある。1766~1822年の間にゲーテはしばしば(20回を越える滞在と云う)この地を訪れて、詩作に励んだと云われている。
    ゲーテについて質問したら、親切にも長々と説明が続き、内心・・・実に困った。

  • いわゆる観光街道のゲーテ街道はワイマールから北東に120kmほど離れたLeipzigライプツィヒが終点であり、今回の旅もここに向かうべきなのであろうが、ライプツィヒよりもMeissenマイセン・Dresdenドレスデン観光を選んだ。<br /><br />B88・A4を順にGeraゲラ・Cheminitzケミニッツ・Nossenノッセンを走り過ぎると、マイセンに至る。B101でマイセン近くになると、丘の上にいくつも風力発電の大きな翼が回っていて、なかなか壮観な眺めだ。ドイツは風力発電の先進国だけに独特の姿をよく見かける。一気に走った距離は181kmになる。<br />Mercure Parkhotel Meissenメルキュール・パークホテル・マイセンに17時丁度に到着した。<br /><br />エルベ川に面した西洋磁器の発祥地として知られる古都マイセンはドレスデンから20kmの位置にある。戦災の被害も少なく、中世の街の雰囲気を残した町だ。<br />マイセンの旧市街はエルベ川の左岸にあり、今夜から2泊するメルキュール・パークホテル・マイセンはちょうどその対岸にあって、ホテルの庭先からAlbrechtsburgアルブレヒト城が良く見えた。<br /><br />参考写真は2011年、ドルンブルクの古城群:Rokokoschlossロココ様式の城<br /><br />*ロココ様式の城の成り立ちもあって、色鮮やかなFestsaalフェストザール(祝典の広間)、マイセン磁器等、他の城より立派なものが展示されていた。<br /><br />(2024年2月16日Wiki・HP参考、訳・編集追記)<br />            <br />     ・・・・・・・・・・・・

    いわゆる観光街道のゲーテ街道はワイマールから北東に120kmほど離れたLeipzigライプツィヒが終点であり、今回の旅もここに向かうべきなのであろうが、ライプツィヒよりもMeissenマイセン・Dresdenドレスデン観光を選んだ。

    B88・A4を順にGeraゲラ・Cheminitzケミニッツ・Nossenノッセンを走り過ぎると、マイセンに至る。B101でマイセン近くになると、丘の上にいくつも風力発電の大きな翼が回っていて、なかなか壮観な眺めだ。ドイツは風力発電の先進国だけに独特の姿をよく見かける。一気に走った距離は181kmになる。
    Mercure Parkhotel Meissenメルキュール・パークホテル・マイセンに17時丁度に到着した。

    エルベ川に面した西洋磁器の発祥地として知られる古都マイセンはドレスデンから20kmの位置にある。戦災の被害も少なく、中世の街の雰囲気を残した町だ。
    マイセンの旧市街はエルベ川の左岸にあり、今夜から2泊するメルキュール・パークホテル・マイセンはちょうどその対岸にあって、ホテルの庭先からAlbrechtsburgアルブレヒト城が良く見えた。

    参考写真は2011年、ドルンブルクの古城群:Rokokoschlossロココ様式の城

    *ロココ様式の城の成り立ちもあって、色鮮やかなFestsaalフェストザール(祝典の広間)、マイセン磁器等、他の城より立派なものが展示されていた。

    (2024年2月16日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
                
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