2001/05/12 - 2001/05/13
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jijidarumaさん
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【ドイツ16年ぶりの再訪:⑩5月は“麗わしの春”の季節、今日も古城街道の城巡りです。】
<2001年5月12日(土) 快晴 214km>
<前半>
Obrigheimオプリヒハイム 9:15に出発し、今日も古城街道の城巡りです。ネッカー川沿いには古城が多い。 B292・27 (Mosbachモスバッハ) B37 =>Minneburgミンネブルク城址 =>Burg Zwingenbergツヴィンゲンベルク城 =>Stolzeneckシュトルツエンエック城址 25km =>Eberbachエーベルバッハ B45 =>Freiensteinフライエンシュタイン城址 53km =>Michelstadtミヒェルシュタット :木組みの家並み、市庁舎、マルクト広場、教会、旧城址公園。 =>Erbachエルバッハ B45 26km
写真は古城街道を行く :左上から時計回りに、様々なハムの盛り合わせとパンで昼食、ネッカー流域の古城群(絵葉書)、ヒルシュホルン城のテラスからネッカー川を写す。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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<後半>
Erbachエルバッハ B45 26km =>Eberbachエーベルバッハ B37 =>Schloss Hirschhornヒルシュホルン城 14:15~15:30 =>Neckarsteinachネッカーシュタイナハ ・4つの古城の町 17km =>Neckargemuendネッカーゲムンド B37 42km =>Mosbachモスバッハ :木組みの町並み・マルクト広場、市庁舎。 B27 6km =>Neckarzimmernネッカーツィンメルン・Burg Hornbergホルンベルク城・・・ 鉄腕の騎士ゲッツの居城で夕食。 18:20~20:30 =>Gundelsheimグンデルスハイム・Schloss Horneckホーネック城 45km =>Schloss Neuburgノイブルク城 21時着。
写真はネッカー流域の古城街道Map -
*5月は“麗わしの春”の季節。今日のように真っ青な青空を言うのでしょう。本日も快晴なり。
Obrigheimオプリヒハイム 9:15に出発し、村中の道からノイブルグの城を見上げると、青空にレンガ色の屋根、薄茶色の壁面が緑の中に色鮮やかに映えている。手前に大きなマロニエの大きな木が立ち、真っ白な花が満開だ。
今日も古城街道の城巡りです。このネッカー川沿いには身近に感じる古城が多い。
B292・27 Mosbachモスバッハを経由して、B37を行く。Minneburgミンネブルク城址が山中に見える。
写真は古城街道を行く:左上から時計回りに、Burg Zwingenbergツヴィンゲンベルク城、Minneburgミンネブルク城址、Freiensteinフライエンシュタイン城址 -
<Burg Zwingenbergツヴィンゲンブルク城>
ネッカー川畔から50mの高さにあるツヴィンゲンブルク城は14世紀初期の城郭である。緑濃い山腹に中世風の塔(40m)が高々と立っていて、ネッカー川畔から見る城全体の景観が素晴らしい。
古城街道の名城と云われるのも納得する。
現在もツヴィンゲンブルク城はかつてのGroßherzogtum Baden バーデン大公の個人所有で、一般公開は行っていない。
尚、ドイツのロマン派初期の作曲家、指揮者、ピアニスト作曲家Carl Maria Friedrich Ernst von Weberカール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ウェーバー(1786年~1826年)がこの地に来て、オペラ作品「Der Freischütz魔弾の射手」を作曲したことから、毎年8月、城内でコンサートが開かれるそうだ。
写真は古城街道を行く:Burg Zwingenbergツヴィンゲンベルク城(2012年)ツヴィンゲンベルク城 城・宮殿
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写真は古城街道を行く:Burg Zwingenburgツヴィンゲンベルク城の19世紀の絵
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写真は古城街道を行く :左上から時計回りで、古城ホテルSchloss Hirschhornヒルシュホルン城の遠望、ネッカー流域の古城群(絵葉書)、ネッカー川とBurg Zwingenbergツヴィンゲンベルク城、古城ホテル ノイブルク城(宿泊先)を下の村から見上げた。
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Stolzeneckシュトルツエンエック城址を丘の上に見て、Eberbachエーベルバッハ(猪の小川)で燃料を給油(DM114)。
山中を走るB45の道をひたすら走り、Freiensteinフライエンシュタイン城址を横に見て、78kmするとMichelstadtミヒェルシュタットに着いた。
ミヒェルシュタットはOdenwaldオーデンヴァルト (オーデンの森)の真ん中である。
写真は古城街道を行く :ネッカー川沿いのEberbachエーベルバッハから、オーデンの森にあるMichelstadtミヒェルシュタットへの周辺Map -
<Michelstadtミヒェルシュタット>
ミヒェルシュタットはオーデンの森の真中にあって、“マイン川の真珠”と謳われるMiltenberg ミルテンベルグから33km(L?/B469/B47)の距離と近く、中世の雰囲気を色濃く残した町で、現在の人口は17千人、古くから交易都市として栄え、今でも伝統工芸が盛んである。
MichelstadtミヒェルシュタットのMichelは“大きい”の意味だと云う。
昔は大きな町だった?地域の中で中心になっていた町、比喩的な言い方だろう。
駐在時に夏の休暇旅行で寄った町で、もうセピア色の思い出になる。
木組み建築の家並みが町中に見られ、徒歩で回れる小さな、魅力ある町だ。
二本の尖塔と時計台のある後期ゴシックの市庁舎(1484年)は切手にもなったドイツ有数のものだ(後掲の写真参照)。
マルクト広場の中心には小さな噴水(泉)がある。噴水(泉)・市庁舎・教会と最も絵画的な建物をバックに家族を写した写真は記憶に鮮明に残っている。
旧城址の粉引き小屋を見学し、案内人の話好きな小父さんと会話をし、静かな城址公園を散策すると満足な気持になる。
中庭から狭い木造の橋を渡ると城址公園で、そこには町の城壁の一部が残り、Diebsturm盗賊の塔(昔の牢獄)や城壁に沿った空掘りなどが見て取れた。
ミヒェルシュタットは中世ドイツの美しさを感じさせる町だ。
写真は古城街道を行く :左上から時計回りに、ミヒェルシュタットの噴水(泉)、絵葉書(町の俯瞰)、市庁舎印のビール醸造所のレストラン前で。マルクト広場(ミッヒェルシュタット) 広場・公園
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イチオシ
マルクト広場の裏手に木作りの様々な品物を揃えた小さな店Holzwurm (キクイムシ?!)und Holzkunst(木工品)があった。
土産にと店内に入って物色する。見て回るだけでもこの種の店は楽しい。
料理用の木のスプーン(しゃもじ)、窓に飾る花や鳥の3種の円形の木彫りのモチーフ、いろんな色で描かれた大小の胡桃割り人形などなどです。
数も多くDM231.76(13,000円)になり、店主の若い主人も嬉しそうだ。
3本の蝋燭をサービスしてくれた。
尚、2007年5月1日(火)に再訪した時、移転したのか、もうこの店が無くなっていた。
写真は古城街道を行く :左上から時計回りに、ミヒェルシュタット市庁舎、オーデンの森にある歴史あるミヒェルシュタット(絵葉書)、市庁舎の裏手から、珍しい小さな木組みの家。市庁舎 (ミッヒェルシュタット) 建造物
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ミヒェルシュタットからB25の道を戻って、26kmの距離にある、隣町Erbachエルバッハに寄ってみた。
特にドイツ象牙細工の中心地になっていると云うエルバッハには「Deutsche Elfenbeinmuseumドイツ象牙博物館」が1966年に設立されていた。
Eulbachオイルバッハという小川が街中を流れ、小さな美しい町をちょっぴり主要部分を散策した。
ドイツ象牙博物館と称するお店があり、見事な象牙の品を売っていた。先を急いでいたので、ちょっと店頭をのぞいただけだったが、1960年代に営業を始めたと云うから、もう40年である。
その後、2015年に閉館し、作品は近くにあるSchloss Erbachエルバッハ宮殿内に収容されて展示されているらしい。
写真は古城街道を行く :左上から時計回りに、隣町のErbachエルバッハの象牙博物館、町並み、ミヒェルシュタットの城址公園(盗賊の塔=監獄、古い粉ひき小屋などが見られる)。エルバッハ宮殿 城・宮殿
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帰国の予定が来春と予想されていた1984年夏の休暇(1984年7月20日~8月3日の15日間)はDuesseldorf=>Frankfurt=>Passau=>*オーストリア各地(Melk、Dürnstein、Wien観光とBadenなど近郊巡り、St.Wolfgang、Salzburg、Hallstatt、Zell、Grossglockner)=>Burghausen=>München=>Ulm=>古城街道(Heinsheim、Mosbach)を巡って、
最終日に木組みの家並みで有名なモスバッハからオーデンの森にあるMichelstadtミヒェルシュタットと、近くのSchloss Fuerstenauフュルシュテナウ城に立寄って、デユッセルドルフに戻った。
(全走行距離3400km)
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写真は古城街道を行く :ドイツ郵便切手・・・ミヒェルシュタット旧市庁舎建築500年記念切手。 -
オーデンの森のミルテンベルグとミヒェルシュタットの二つの町はいずれも私にとってはお気に入りの町である。
今日は長い休暇の旅の最終日であったので、古城街道のMosbachモスバッハから北に50kmの距離を走って、ミヒェルシュタットだけを訪れたのだ。
とりわけ、この年の9月にドイツ最古の市庁舎として、ドイツの郵便切手(上の記念切手の写真)にもなったほど、ここの旧市庁舎(1484年、後期ゴシック様式の建築)は有名である。
赤いとんがり帽子の形状をした、二本の尖塔と中心に時計台がある市庁舎は木組み建築の小さな建物で、大変愛らしく、美しい。
ミヒェルシュタットの町は市庁舎とマルクト広場を中心に美しい木組みの家並みも多く、旧市街はこぢんまりと纏まっていて、見物しやすい。
写真は古城街道を行く :1984.08.03.夏の休暇の最終日・ミヒェルシュタットにて・左上から時計回りに、美しい市庁舎、マルクト広場:正義の女神の噴水(泉)・ドレスナー銀行前で。 -
1階がアーケード風になっているのも珍しく(かつて訪れたメルヘン街道巡り・Alsfeldアルスフェルトの市庁舎は同じものだった)、その昔は土間で、各種の交易がなされたと聞く。
市庁舎に面したマルクト広場には、レストランがテーブルを出し、多くの観光客がお茶を楽しみながら談笑している。
噴水(泉)もあり、夏の広場はこの季節に最もふさわしいゼラニウムの花々で美しく飾られている。正義の女神が立つ噴水(泉)の周りにゼラニウム、窓辺がゼラニウムの花で美しいドレスナー銀行(ドイツ三大銀行の一つ)、その前で中3の娘がポーズを取った。夏の休暇だからと、南ドイツの民族衣装を着ていたので丁度良い写真が撮れた。
写真は古城街道を行く :1984.08.03.夏の休暇の最終日・ミヒェルシュタットにて・左上から時計回りに、美しい市庁舎をバックに 、ミヒェルシュタット近郊にあった*Schloss Fürstenauフュルシュテナウ城に立寄った、ミヒェルシュタット市内のレストラン黄金の太陽のSchild看板。
<*Schloss Fürstenauフュルシュテナウ城>
D-64720 Steinbach‐Michelstadt 、Schlossplatz 1-2
1984年8月3日、ミヒェルシュタットの町から直ぐのシュタインバッハ地区にあるフュルシュテナウ城は偶々訪れた。
行ってみると、城郭には人一人見当たらず、拍子抜けしたものだ。
美術館(小さな部屋だった)でちょっと赤茶けた古い絵画を見ただけで、デユッセルドルフに向かった。
手持ちのAralの観光本にもフュルシュテナウ城の掲載が無く、むしろアインハルトのバシリカの事が載っていたのだが、どうしてここを知ったのか?今は定かではない。
フュルシュテナウ城は14世紀頃、Kurpfalzプファルツ選帝侯 に対抗して近隣のKloster Steinbachシュタインバッハ修道院と周辺の地所を防衛するため、Kurmainzマインツ選帝侯(大司教)が築城した。
北と東の翼の石造りの建物は14世紀、木組み造りの建物と屋根は14、15世紀のものと云われている。
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イチオシ
ヴィクトリア英国女王の伝説話が残るEberbachエーベルバッハ、 B37を経由し、古城ホテルになっているSchloss Hirschhorn ヒルシュホルン城に着いた。
<昼食:Hotel Schloss Hirschhorn古城ホテル ヒルシュホルン(鹿の角)城>
D-69434 Hirschhorn am Neckar
14:15~15:30 DM33・現金
いやに空腹を感じる。もう2時を過ぎた。ともあれ、注文だ。この古城ホテルはオーデンの森を後背地にもっているので、野鳥獣の料理を得意としている。
遅めの昼食はジャガイモのポタージュスープ、様々なハムの盛り合わせとパン。
ピクルス、ミネラル水。
Gekochte schinken生ハム(Schinkenシンケンとはハムのこと。塩漬けした豚モモ肉をハーブで味付けして、何週間もスモークして作られる生ハムである)がけっこう塩気が強く、スープにぴったりだった。
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<ヒルシュホルン城の歴史>
ヒルシュホルン城の起源は13世紀に遡ると云う。
ネッカー川を眼下に望む、山上に最初は物見の塔が建てられ、後に城館や第一・第二の城壁が築かれた。13~17世紀初めまでの400年という長い間をヒルシュホルンの騎士と呼ばれる領主が居城としていた。
1803年から町の所有となり、営林署として利用されてきたが、1959年、古城ホテルに改造された。
その絵になる景観から、今では古城街道沿いの古城の中で、たいへん眺望の良い、人気の高い古城ホテルとなっている。(全25室=本城館8室+別棟17室)
写真は古城街道を行く :左上から時計回りに、様々なハムの盛り合わせとパンで昼食、ネッカー流域の古城群(絵葉書)、ヒルシュホルン城のテラスからネッカー川を写す。 -
イチオシ
狭い山道を登ると小さな城門がある。その先に古城ホテルがあって、今日のような快晴の日は眺めの良いテラスレストランが良い。
土曜日とあって、テラスは大勢の観光客でいっぱいである。幸い、ネッカー川が見下ろせる席に座れた。白いパラソルが太陽の光を遮ってくれているが、けっこう風が強く、パラソルが舞い上がってしまう恐れがあるほどに強い。
ネッカー川を運行する貨物船や観光船が通り、カヌー遊びの人も見える。
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写真は古城街道を行く:左上から時計回りに、ヒルシュホルン城のテラスからネッカー川を望む。丘の中腹にヒルシュホルン城、ヒルシュホルン城の本館とテラス、昼食代の明細。シュロスホテル ヒルシュホルン ホテル
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【Odenwaldオーデンの森】
オーデンの森はヘッセン州、バイエルン州、バーデン・ヴュルテンベルク州にまたがる低中山地の地域である。
この地域はケルト人、ゲルマン人、ローマ人、アレマン人、フランケン人達の2千年以上前からの歴史の跡や城砦、中世の貴族の館、独特な木組み建築の家並みを見ることができる魅力的な地域である。
西にはBergstrasseベルクシュトラーセ・山岳街道を含む上部ライン平野を、マイン川のブドウ栽培の斜面と集約農業地区であるバウラントを東に、Darmstadtダルムシュタット付近のライン・マイン平野を北に、南はNeckartalネッカータル・ネッカー渓谷までの地域である。
ネッカー渓谷(ハイデルベルクからハイルブロン辺りまでの約90kmの距離を云う)はオーデンヴァルトの南沿いに流れ、その流域にたくさんの古城や魅力的な町々が見られる。
この南側一帯を称して、【小オーデンヴァルト】とも云っている。
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写真は写真は古城街道を行く:ドイツの古城ホテル(ダイヤモンド社1992年6月版)・Schloss Hirschhornヒルシュホルン城 -
写真は古城街道を行く:ドイツの古城ホテル(ダイヤモンド社1992年6月版)・Schloss Hirschhornヒルシュホルン城
*尚、その後、2012年に当ホテルのメルヘンチックな天蓋のある部屋(本城館の4号室(2階)はSuite)に泊まった。 -
写真は古城街道を行く:ヒルシュホルン城の部屋から望むネッカーの流れ(2012年)
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写真は古城街道を行く:ヒルシュホルン城の部屋から真下に見えるテラスレストラン(2012年)
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写真は古城街道を行く:ネッカー川の対岸から写したヒルシュホルン城と町(2015年)
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写真は古城街道を行く:ヒルシュホルン城からネッカー川の対岸に来て、写したものだが、思っていた以上に川幅がある。(2015年)
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ヒルシュホルン城から、4つの古城の町Neckarsteinachネッカーシュタイナハまでは17kmある。
ネッカーシュタイナハという長い名前は、オーデンの森を流れるシュタイナハ川(長さは22.2km)がネッカー川(全長は367km)に注ぐ河口に位置していることに由来すると云う。要は二つの川の名をくっつけてしまったようだ。
4つの城はVorderburgフォアデアブルク・Mittelburgミッテルブルク(1170年男爵家の所有)・Hinterburgヒンターブルク・Burg Schadeckシャーデック(ツバメの巣の異名がある)である。ブリッガー家により12世紀頃から築城された。
前の二つは個人所有で残る二つは城跡のみがある。
尚、ブリッガー家からはBligger von Steinachブリッガー・フォン・シュタイナハ(1135年頃 - 1196年以後)という有名なMinnesängerミンネゼンガ―(中世ドイツの吟遊詩人)が出ている。
中世(13世紀)ドイツの叙事詩人Gottfried von Straßburgゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの代表作『トリスタンとイゾルデ(騎士Tristanトリスタン と、主君 マルク王 の妃となった Isoldeイゾルデ の悲恋物語 )』においてブリッガーを称賛したと云う。
町から山道を辿って、ヒンターブルク城の廃墟まで行ってみた。廃墟に残る天守閣に登ってネッカーの流れを望んだ。
写真は古城街道を行く:左上から時計回りに、木々に間にノイブルク城、古城街道の看板、ヒンターブルク城址、ミッテルブルク城。 -
B37をNeckargemündネッカーゲミュント(古城街道の古城群の一つに数えられるBurgfeste Dilsbergディルスベルク要塞がある。人口14千人) まで行ってから42km戻り、木組みの家並みの町と称されるMosbachモスバッハの町に入る。
写真は古城街道を行く:左上から時計回りに、ヒルシュホルン城、ミッテルブルク城、Mosbachモスバッハの旧市街と5月柱。 -
イチオシ
マルクト広場を中心に、市庁舎など木組み建築(16~18世紀)の家並みで有名な町である。
この日は広場の真ん中に五月柱が立っていた。今日は5月祭でもしているのか、街中は様々なお店が出店し、近在の人達であふれ、賑やかだった。
写真は古城街道を行く:左上から時計回りに、モスバッハの市庁舎、マルクト広場のお祭り、ホルンベルク城から望むネッカー川とグッテンブルク城、木組みの家並みのモスバッハ旧市街。 -
<Mosbachモスバッハの歴史>
モスバッハはオーデンの森とネッカー川の間に位置し、ハイデルベルクから58km東になる。
2世紀、ローマの防御ラインであるネッカー・オーデンヴァルト・リーメスが町の近くを伸びていた。
1410年、ドイツ王ループレヒトの末子オットー1世宮中伯はモスバッハを自身の宮廷所在地とした。その後、19世紀の初めまで、長くプファルツ選帝侯領であった。
2012年の今は“Die Fachwerkstadtファッハヴェルクシュッタト(木組み建築の町)”と称されている。
人口24千人の町はじっくり見てみるとなかなか良い町だった。
尚、「Deutsche Fachwerkstraßeドイツ木組みの家街道」の一番南の部分はモスバッハから始まり、ボーデン湖のメーアスブルクに至る。
写真は古城街道を行く:Mosbachモスバッハの旧市街。中央に時計塔、左右の階段を持つ市庁舎が見える(2012年) -
確かに木組み建築の家々が並んでいて、意外と人通りも多い。
2001年5月の時は街中が“春祭”で混雑して、駐車にも苦労したうえ、落ち着いて見た思いも無く、記憶に残るのはマルクト広場だけだ。
写真は古城街道を行く:モスバッハの34mの時計塔、左右の階段を持つ市庁舎(2012年) -
ともあれ、そのマルクト広場を目指す。
その周辺に34mの時計塔、左右の階段を持つ市庁舎や、とりわけ美しい木組み模様が目立つのは4階建てのPalm`sches Hausパルムシェス・ハウス(1610年築)だ。
写真は古城街道を行く:モスバッハのPalm`sches Hausパルムシェス・ハウス(1610年築)(2012年) -
町で最も古い木組み建築は「塩の館(1450年)」で3階建て、1階はワイン屋か?、2、3階は住居になっている小さな建物である。
写真は古城街道を行く:モスバッハの「塩の館(1450年)」 (2012年) -
庁舎に対面して立つゴシック様式のシュティフト教会はプロテスタントのもので、この町では1698年から町の教会を新旧両派が共同で使用しているのだと云う。
つまり1708年、教会内に隔壁が設けられ、祭壇室側がカトリックに、会衆席側がプロテスタントに割り当てられた。この分割は現在もそのままで、カトリック側を「聖ユリアナ教会」、プロテスタント側を「シュティフト教会」と呼ぶ。
ただし、2008年にはその分断した境界は取り払われたそうである。教会には入ったが、さてそんな状況だったか?思い出せない。
この町にもSchloss Mosbachモスバッハ城がある。但し、現在、ごく一部が保存されているだけで、見るほどの事はなさそうである。
モスバッハ城の起源はシュタウフェン朝に遡る。ハイデルベルクのプファルツ選帝侯は何度も疫病からの避難所として、この城に滞在したと云う。
写真は古城街道を行く:モスバッハの木組み建築の家並み(2012年) -
Mosbach モスバッハからNeckarzimmernネッカーツィンメルンに向かう。
その向かう道路際でシュパーゲル(白アスパラ)を販売している店があった。
近くの農家が取り立て、新鮮なシュパーゲルを観光客などに販売しているのだが、私共もお土産に5kgを購入することができた。
国道B27を6km走ると、ネッカーツィンメルン・Burg Hornbergホルンベルク城に着いた。鉄腕の騎士ゲッツの居城で夕食を予定している。
写真は古城街道を行く: 左上から時計回りに、ホルンベルク城のパノラマレストラン、ホルンベルク城の絵葉書、ネッカー川に沿った鉄道が眼下に見える、シュパーゲルの夕食。ホテル - レストラン ベルク ホルンベルク ホテル
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<夕食:古城ホテル ホルンベルク城 ・パノラマレストラン>
D-74865 Neckarzimmern
18:20~20:30 DM 140.90 ・現金払い。
12世紀末の高さ27mもある塔(天守閣)を持つホルンベルク城はネッカー川畔からも良く見えて、古城の趣むきに満ちた景観である。
ネッカー川に面した、気持ち良いパノラマレストラン棟とホテル棟があり、古城ホテルには木がふんだんに使用された24室がある。
ホルンベルク城は古城街道の城巡りの際、ちょうど休憩に適した場所なのだ。
ここのパノラマレストランからのネッカー川の眺望は大変素晴らしく、遠くに鷹匠ショーを見たBurg Guttenburgグッテンブルグ城も遠望でき、眼下に見えるネッカー川、川沿いを走る鉄道など、たいへん魅力的な場所である。
この事もあり、昼食やお茶に何度も訪れている。
夕食にここを訪れたのは始めてであった。レストラン前にはライラックが咲き誇り、16年ぶりのドイツの旅を締めくくる意味で、一番の最適な場所だったと思う。
さて、郷土料理主体という夕食のメニューはやはり、ドイツの旅を締めくくる意味で、二人とも“Spargelシュパーゲル(白アスパラ)料理を選んだ(DM33x2)。
野菜サラダと、飲み物は車だったのでアルコール抜きのフルーツ・カクテル、リンゴジュース、サクランボジュース、コーヒーとした。
さて、今回の旅ではシュパーゲル(白アスパラ)料理を何度食べたろうか?!
パノラマレストランには大きな窓があり、斜めにするとさわやかな風が入り込んでくる。昼間と違って、レストラン内は3組ていどのお客だ。
ゆったりした空間にゆったりとした時間が流れている。今度はここに泊まって、古城街道を回るのも良いかなと思いながら・・・。
なんと今日はレストランから夕暮れ近い空に気球が飛んでいるのが見えるではないか!!気球は遠くて人影は見えないが、昨日、鷹の飛翔ショーを見た、グッテンブルク城の近くを気持よさそうに飛んでいる。
写真は古城街道を行く:左上から時計回りに、ホルンベルク城のパノラマレストラン棟、シュパーゲルの夕食、気球とグッテンブルク城、本日の夕食代明細。 -
<古城ホテル ホルンベルク城の歴史>
12世紀にホルンベルク城の起源がある。城主の交代のたびに城は改装、補修されて、現在の城はゴシックからルネサンス様式が見られる。
16世紀の農民戦争で活躍した鉄腕の騎士“鉄腕ゲッツ”の居城として世に知られている。文豪ゲーテの作品“Götz von Berlichingenゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン” の戯曲で名高い。
現在のオーナーであるGemmingenゲミンゲン家の祖先が1612年、城を購入し、代々の城主としてこの地を治めてきた。17世紀の末、プファルツ継承戦争でルイ14世の仏軍により、城は焼き払われた。
その後、ゲミンゲン家は居城として再建し、1953年レストランを開業する。
1957年には古城ホテルもオープンする。また、ワインの醸造も行い、ブドウ畑に古城は囲まれている。
写真は古城街道を行く:ドイツの古城ホテル(ダイヤモンド社1992年6月版)・Burg Hornbergホルンベルク城 -
写真は古城街道を行く:ドイツの古城ホテル(ダイヤモンド社1992年6月版)・Burg Hornbergホルンベルク城
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写真は古城街道を行く: ホルンベルク城・・・「鉄腕騎士=鉄腕ゲッツ」Götz von Berlichingenゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンの居城(2012年)
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写真は古城街道を行く:ホルンベルク城・・・「鉄腕騎士=鉄腕ゲッツ」Götz von Berlichingenゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンのレストラン内には肖像画や鉄腕の義手が見られた(2012年)
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<Götz von Berlichingen mit der eisernen Hand鉄腕の騎士ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン>
「鉄の義手を付けて戦った騎士ゲッツの歴史」
1480年、ベルリヒンゲン家の三男として、Die Goetzenburgゲッツェンブルク城に生まれた。
16世紀初頭のバイエルンのLandshutランツフートの戦い(1504~05年)に「der letzte Ritter中世最後の騎士」と呼ばれた神聖ローマ皇帝Maximilian I.マクシミリアン1世(1459年~1519年)に従軍し、1504年、ランツフートで敵の大砲砲火によって右腕を失った。
その後、ニュルンベルクの鍛冶屋に作ってもらった鉄の義手を付け、農民戦争や様々な戦場に赴いたと云われ、民衆の英雄として歴史に名を残した。
ゲッツはまさにドイツの田舎騎士で、宗教改革も帝国改革も彼には無縁のものでした。戦争があれば喜んで参戦し、気にくわない奴が誰であろうと決闘を申し込む向う見ずさを発揮している。唯、皇帝には盲目的な忠誠を誓い、化石化した中世の騎士と言えましょう。
ゲッツは2度結婚していて、7人の息子、3人の娘に恵まれた。
古城街道のネッカー川沿いにあるBurg Hornbergホルンベルク城で長く捕われの身であった時に、自らの回想録を残した。
後にホルンベルク城を購入し、城主となり、晩年にはGötz von Berlichingen zu Hornbergゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン・ ツゥ・ホルンベルクと改名した。
ゲッツはホルンベルク城で家族と共に生活し、1562年、82歳でホルンベルク城にて死去した。
Berlichingen zu Hornbergホルンベルクのベルリヒンゲン家の名はその後も息子や孫が受け継いでいる。
ゲッツの家系はHornberg‐Rossachベルリヒンゲン・ロザッハ家が本流であるが、Graf Friedrich Wolfgang von Berlichingen‐Rossach (1826~1887) ベルリヒンゲン・ロザッハ家のフリードリヒ・ヴォルフガング伯は1861年、“鉄腕ゲッツとその家族”という題名の本をライプツィヒにて出版している。
尚、古城ホテル ゲッツェンブルク城のあるBerlichingen-Jagsthausenベルリヒンゲン・ヤークストハウゼン家は兄弟のHans von Berlichingenハンス(1490年~1553年)の家系である。
文豪ゲーテがゲッツの回想録を読み、1773年、24歳の時に鉄腕ゲッツの生涯を戯曲にした。ゲーテの処女戯曲として自費出版されたものだが、この事でドイツ国内にゲーテと鉄腕ゲッツの名が広く知られるようになった。
ゲーテの作中ではゲッツは英雄的な人物として描かれ、若くして死んでいくが、史実のゲッツは「Raubritter 盗賊騎士」と揶揄された血の気の多い人物で80歳過ぎまで生きながらえている。
写真は古城街道を行く:ホルンベルク城・・・「鉄腕騎士=鉄腕ゲッツ」Götz von Berlichingenゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンの肖像画 -
【Schwäbischen Bundシュヴァーベン同盟とHeilbronnハイルブロンの鉄腕ゲッツ】
Bauernkriegドイツ農民戦争は1524年、西南ドイツのシュヴァーベン地方の修道院の農民反乱から始まった。彼らは賦役・貢納の軽減、農奴制の廃止など「12ヶ条の要求」を掲げて各地の農民に呼びかけたため、蜂起はシュヴァーベンから東南のチロルへ、東北のテューリンゲン・ザクセンへと広がっていった。
この農民反乱に直面した諸侯たちはシュヴァーベン同盟を結成して、農民軍の鎮圧にあたった。諸侯軍は4月、ライブハイムで農民軍を襲い、1000人の農民を虐殺してドナウ川に投げ捨て、その後も各地で農民軍を各個撃破していった。
他方、Ulrich von Württembergヴュルテンベルク公ウルリヒ(1487年~1550年)とシュヴァーベン同盟との関係もひどく険悪なもので、一揆鎮圧後のウルリヒはシュヴァーベン同盟との抗争に巻き込まれることになる。
1519年7月にマクシミリアン1世が死ぬと、シュヴァーベン同盟はついにウルリヒとの戦争を起こし、ウルリヒをヴュルテンベルクから追放した。同盟はその後、ヴュルテンベルク公国をマクシミリアン1世の孫、神聖ローマ皇帝Karl Vカール5世(1500年~1558年)に売却した。
ウルリヒに仕えていた騎士ゲッツはシュヴァーベン同盟と戦うも敗北し、捕虜となり、 Heilbronnハイルブロンのボルヴェルク塔(かつて魔女の塔と呼ばれた)に監禁されてしまった。
後にゲッツはカール5世に仕えた。
1534年、シュヴァーベン同盟は解体した。
写真は古城街道を行く: Burg Hornbergホルンベルク城:古城ホテル・「鉄腕ゲッツ」ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンの鉄の義手 -
NeckarzimmernネッカーツィンメルンからGundelsheimグンデルスハイムへ向かう。ネッカー川沿いの道路は実にドイツ的な道と言ってもよく、整備され、渋滞も無く走りやすい。
ここには長方形のどっしりしたSchloss Horneckホーネック城(現在は養老院とルーマニアの郷土博物館)がある。
<Schloss Horneckホーネック城>
人口7200人のGundelsheimグンデルスハイムの頭上に高々と立つ、ホーネック城は12世紀頃に建設された。
この城は1438年にドイツ騎士団総長の居城となり、以来1525年まで、Marienburg in Westpreussenマリエンブルク(西プロイセン・現ポーランドMalborkマルボルク)と、Rigaリガ(現ラトビア共和国の首都で “バルト海の真珠”と讃えられる美しい港町・世界遺産)に次いで、ドイツ騎士団第三番目の主要地であった。
後のプロイセン王国の建国に繋がる東方植民の先駆けとなった。
写真は古城街道を行く:グンデルスハイムのホーネック城をバックにレンタカーを撮った(2012年) -
鉄腕の騎士“鉄腕ゲッツ”、ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンは1525年のドイツ農民戦争の際、ここで蜂起した農民軍の歩兵隊長に任命された(それゆえ、この城もホルンベルク城同様に鉄腕の騎士“鉄腕ゲッツ”と関係がある)
現在、ブドウ畑に囲まれている城はルーマニア・トランシルヴァニア地方の郷土博物館になっている。吸血鬼伝説で知られるルーマニア中部・北西部のトランシルヴァニア地方はかつて、ドイツ人の植民が行われた地であり、二次大戦後にドイツ人引揚者がこの地に戻り、ホーネック城は彼らの為の住居として提供された。その名残で現在は養老院としても利用されている。
写真は古城街道を行く: グンデルスハイムのホーネック城(2012年) -
Schloss Neuburgノイブルク城に21時、無事到着した。
遅いが明日の帰国の準備をしなくてはならない。
写真は古城街道を行く:左上から時計回りに、グンデルスハイムのホーネック城、ホルンベルク城、ホーネック城のどっしりとした建物、暮れかかったノイブルク城の城門前で。 -
【古城ホテル・ノイブルク(新しき城)】
D-74847Obrigheim、Schloss Neuburg 1
全13室・3星、 33号室=DM185(この旅では2泊した)
ネッカー川岸の丘の上、緑の中に小ぢんまりした城館ノイブルクがある。
城の歴史は古く、970年に最初の城が出来たとされている。
1598年、ルネサンス様式に改築されたものが現在の城の多くを占めている。
1978年にはObrigheimオプリヒハイムの原子力発電所が古城を購入し、ホテル・レストランに改装し、開業する。
ドイツは原子力発電を将来に渡って、徐々に無くしていく国家方針になった為、この原子力発電所は2005年初頭から操業を停止している。
2007年の春の旅で再訪すると、古城ホテルの門は閉まり、誰一人いなかった。親会社・原子力発電所の経営が揺ぎ、この古城ホテルも閉鎖の憂き目にあったようだ。
今回、調べてみると、2007年11月に経営者が代わり、嬉しい事に古城ホテルは再オープンしていた。
<2001年5月13日(日) 快晴 176km>
Obrigheimオプリヒハイム 9:30に出発。 B37・A5・6 150km =>Frankfurtフランクフルト 市内観光 :レーマー広場・旧市庁舎レーマー、ゲーテ博物館、Hauptwacheハウプトヴァッヘ、Alte Operアルテオパーなど。B3・L? 26km =>Frankfurt Airportフランクフルト国際空港 :ハーツ車の返却、チェックイン、お土産購入。
*ドイツ最終日、Obrigheimオプリヒハイム 9:30に出発。B37・A5・6を走る。Frankfurtフランクフルト(人口65万人の大都市)は150kmの距離である。
レーマー広場そばの地下駐車場に車を停めて、市内に出る。
写真は古城街道を行く:ドイツの古城ホテル(ダイヤモンド社1992年6月版)・Schloss Neuburgノイブルク城
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(2024年3月28日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
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