伊江島旅行記(ブログ) 一覧に戻る
《2024.January》あみんちゅなにげに沖縄街歩きの旅そのⅣ~念願叶った伊江島編~ <br /><br />旅三日目の朝は少し早めに起床した。部屋から出て通路を少し歩くと海が広がっている。あまりオーシャンビュー過ぎると“窓”を開けて寝られなかった記憶があるが、この時期故かそういったことはなかった。 いつもならばのんびりとして出発までを過ごすのだが、今日は時間mustの予定があるためにちゃっちゃと過ごす。8:00過ぎ位にチェックアウトし、ホテルの外観をカメラに収めて出発する。目指す先は10分程で到着する本部港、車をフェリーに乗せて移動する。目的地は伊江島。本部港から25分の船旅で到着可能な〝手軽に訪れることができる離島〟のひとつである。伊江島には〝城山(タッチュー〟”という山がある。標高は高くはないが、元々起伏の少ない伊江島では目立つ山である。定期的に沖縄を訪れるようになってから3回、本部半島から城山の景色を眺めていた。その度に〝行きたい〟という気持ちにはなるのだが、フェリーで現地滞在の時間を加味すると8:30には本部港に到着できる場所に泊まらなければならない。昨年6月はそこを踏まえて今帰仁に宿を取ったが、旅行支援を受けるために2食付プランで申し込んだのだが、朝食が8:00からだということをホテルまで来て初めて知った。距離的にはそう遠くもないので〝行く気〟になれば可能だったかも知れないが、当日は午前中から天気が崩れるという予報が出ていたこともあり諦めた過去がある。よって正しく〝四度目の正直〟で伊江島に渡ることができたのであった。 8:30頃本部港に到着し、最初に乗船手続きのために車検証を持って窓口へと向かう。4m未満の車両とドライバー往復の値段は5,990円。この辺りは伊江島をどの様な方法で巡るかによって変わると思うのだが、レンタカーを借りるのであればフェリーにレンタカーを載せた方が効率が良い。原付や自転車ならば晴れていれば大丈夫だろう。私は伊江島での移動を車にする予定だったために航送を選択した。ただこの伊江島フェリーは今まで私が利用したフェリーと少し異なり、ドライバーが車に乗ったままでも良いらしい。バックで乗船し前進で下船するといった面白さがあるので、話のネタに利用するのも良いかも知れない。そんな感じで乗船手続きを済ませ、フェリー待合の列に並ぶ。伊江島航路に投入されているのは〝フェリーいえじま〟であった。本来ならば〝フェリーぐすく〟との二船体制であるが、一週間程前にエンジントラブルを起こし、ドック入りしているために〝フェリーいえじま〟一隻だけで運航をしているようだ。特に荷物や車両が多い訳ではなく、予定通りの出港であった。朝が早かったので車の中で一眠りする。少しウトウトしているとすぐに着岸のアナウンスが流れる。伊江島港に到着すると、本部港の乗船順位とは逆に下船する。伊江島到着後数分で私もWAGON Rクンと共に下船。四回目の正直で伊江島に足を踏み入れることができた。 フェリーいえじまは9:25に着岸して車と荷物を下ろし、10:00に本部港に向かって出港する。あくまで伊江島から本部に向かう航路が優先となっているのは、伊江村営フェリーだからである。暫く伊江港の施設を見て歩き、フェリーの出港時間とともに出発する。最初に向かったのは伊江郵便局、目的は勿論旅行貯金である。伊江島の金融と物流の拠点である伊江郵便局。本来ならば土日祝祭日の特殊郵便の受取のため、郵便窓口が開いていると思いきや、そこは時代の流れのようで特定郵便局と同じ扱いだった。ATMの稼働はホリデーサービス実施店になっているが、島内2件のファミリーマートに琉球銀行のATMがあるそうだ。金融の面では八重山の離島とは比較にならないとも言えるのだろう。そんな伊江郵便局で貯金を済ませ、いよいよ伊江島探索を始めることにする。 伊江島を訪れる理由は人様々であるが、最も多いのはタッチュー登山、そして〝ゆり祭り〟〝伊江島一周マラソン〟〝ハイビスカス祭り〟といったイベントが行われる時である。これらの開催日にはフェリーの増便運航が行われ、島に人がうじゃうじゃいる様子を呈するが、普段は長閑で海に囲まれた離島である。しかしこの伊江島は70余年前に〝六日戦争〟と呼ばれる沖縄戦の前哨戦と言われる熾烈な戦いの戦場になった場所であり、それに起因する戦績や史跡が多く残る場所でもある。あまり細かくは情報が得られなかったために訪れて初めてわかることもあるだろうという気持ちで訪れたこともひとつの理由でもある。 伊江郵便局を出て向かった先は反戦平和資料館。元々さほど広くはない島内に〝反戦〟を掲げた建物がふたつある。そのひとつがここ反戦平和資料館である。地図に書かれている場所とはだいぶズレており、暫く探したがなんとか見つけることができた。この場所は平和運動家である阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)が自宅敷地内に自費で建立し、自身が収集した沖縄戦やその後の米軍による土地の強制収用や基地問題に関する資料を展示している。〝ヌチドゥタカラの家〟とも呼ばれている。決して公費により造られた〝資料館〟とは違い〝見せる〟というものではなく、陳列されている〝もの〟をどう感じ取るかを〝考えさせる〟資料館というものだと私には思えた。言葉で伝えるものではないので概略のみ記すことにするが、戦後も続く沖縄戦というものが伺える。ちなみに後で知ったことだが、要予約だということ。場所の特定しか事前にしていなかったことを反省する。ヌチドゥタカラの家を後にして3km程の場所にある伊江島ハイビスカス園にやって来る。沖縄と言えばハイビスカスと言われる県花は年中見ることはできるものの、やはり1月というと温室が主体となる。昨年6月に訪れることができなかったことを少し悔やむ。それでも〝期待していた場所〟のひとつには違いなく、沖縄らしい〝ハイビスカス楽園〟には満足した。 車に戻り伊江島順路を表示している〝Google Navi〟に〝アハシャガマ〟という表示を見つけ向かうことにした。伊江島ハイビスカス園・ゴルフ場の近くの山肌にあるアハシャガマは、伊江島のガマに於いて最も多い犠牲者を出したガマとして知られている。入口には、1945年4月16日から始まった伊江島戦の激戦の末、アハシャガマに隠れていた村民は米軍の捕虜になるのを恐れ、防衛隊が持ち込んでいた爆雷で自爆し、村民約150名の尊い命が失われた。その際に生き残った者は20人ぐらいと言われている。壕は爆発で埋没したままになっていたが、1971年12月に村民の手で発掘され、出土した遺骨は芳魂之塔に合祀されている。しかし未だ未発掘の遺骨や遺品が残っているという情報もあるため、自決があったガマに関して私は一切立ち入る気持ちはない。掘り返されて判明したガマ内部ではあるが、その姿だけを写真に収めて手を合わせてから出発する。 次に向かった先は湧出(わじー)。海に浮かんだ離島である伊江島では、生活用水の確保は死活問題であり、水不足に悩んだ島の人の生活を支えた60mを超える断崖絶壁の下の波打ち際から真水が湧き出る場所である。まあ名前の通りだが、戦時中はその危険を推してまで〝水汲み〟をしなければならなかった。皮肉な話だが戦後米軍の手によって輸送管路が設置されて便利になり、水不足に悩んだ島の一助にもなっている。その後本部半島からの海底送水によって生活用水は賄われてはいるが、湧出の良質な水を利用した地場産業品の製造に現在では使われている。今では展望台から眺める〝海〟の景観が素晴らしい場所として知られてはいるが、名前の由来を知って訪れることはまさに一興だと思う。 一通り眺めを満喫し次の目的地を目指す。しかしGoogle Naviナビが表示する場所に着いても肝心な目的地がわからない。周回道路から海側に続く未舗装の道路は、突き当りが米軍基地になっているようで、Uターンする場所もなくなんとか切り返して方向転換をする。歩くスピードまで速度を落としながら山肌を眺めつつ走るとやっと見つけることができた。〝第502特設警備工兵隊出撃之地〟碑である。伊江島は沖縄戦の前哨戦とも言われる戦いの戦場になったことは先述したが、伊江島を守備した独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊は井川正少佐以下650名、それに臨時編成された砲兵小隊等650名。その他第502特設警備工兵隊約800名、伊江島守備隊約200名と言われているが、軍人としては1,000名程度であり、残りは現地徴兵された義勇隊という〝寄せ集め〟の部隊である。武器も少なく義勇隊に至っては機関銃・小銃・擲弾筒・手榴弾が僅かに渡されただけであり、〝竹槍〟が主な武器だったと言われている。伊江島の戦いが始まる少し前の昭和20(1945)年3月、名護の出身である宜保豊猛中尉以下800名は主任務として伊江島飛行場の整備・保守に当たっていたが、米軍の上陸に対し自分達が整備した飛行場を利用されないように破壊した後本部に移動。第2歩兵隊に合流するように命令されていた。しかし島を出るにも制海権が失われた状況下で船もなく、島に残らざるを得なくなった。その上伊江島に上陸した米軍によって、飛行場を中心に島が分断されることとなり、東側の第1大隊と特設警備工兵隊は完全に孤立してしまう。本隊との連絡もままならない状況下で第502特設警備工兵隊宜保隊長以下800名の兵士は昭和20(1945)年4月16日の夕刻に手榴弾2個と竹槍を持って米軍に斬込みを仕掛け、多くの兵士は戦死、生存者は僅かに180名程だったと言われている。800名のうち半数以上が現地召集の住民義勇隊であった。最後の斬り込みを敢行するにあたり、宜保隊長は数人に別れて敵中突破し、井川部隊に合流するように訓示をしたそうだが、生存者数から見てもそれが無茶だったことは容易にわかる。しかしそうするしかなかったのもまた事実である。伊江島の六日戦争で日本軍約3000人・村民約1500人が戦死した。勿論この中に第502特設警備工兵隊の戦死者も含まれている。その最後の斬り込みに挑んだ場所がこのガマだった。 そんな戦跡であることが分かり辛い場所にある理由のひとつであるだろう。結果論では語れないことではあるが、島外へ移動ができなかったことで部隊の運命が決まってしまった。このガマでは自決者はいなかったとされてはいるが、やはり遺品等残っている可能性はあるため入口で手を合わせ、ガマ内部には入らずに次の目的地を目指すことにした。 <br /><br />道路沿いにある白い建物、壁には色々なことが書いてある。〝団結道場〟は伊江村真謝区にある建物で、伊江島土地闘争で故阿波根昌鴻氏らが米軍への抵抗運動の拠点としてきた場所である。1970年に建てられた建物は半世紀を過ぎ、老朽化してきたためにヌチドゥタカラの家を運営する〝わびあいの里〟と有志達が立ち上げた〝伊江島団結道場保存会〟が中心となって、補修費用約1千万円の寄付を募っている。〝伊江島の闘いのシンボルを後世に残したい〟という思いをわびあいの里の謝花理事長が呼びかけて協力を呼び掛けているという記事が琉球新報に掲載されていた。団結道場は、土地闘争における非暴力の闘いの歴史と思想を学ぶ場として活用されてきた建物であり、建物内には〝伊江島土地を守る会〟の活動を支援した個人や団体名が掲げられ、初公選主席の屋良朝苗、元国際人権連盟議長のボールドウィンなど、幅広い顔ぶれの名前が並んでいる。他にも〝伊江島の非暴力の闘いを記録している歴史的建造物。後世に残すべきものだ〟という道場保存の意義が述べられている旨が書かれており、中でも〝戦後の基地問題は伊江島から始まった。その記録がここにある〟という点を強調し、老朽化でコンクリートの剥離や落下が見られるようになっている道場存続の意義を綴っているようだ。言っていることは理解できるのだが、戦後の沖縄に於ける〝対米軍〟〝反戦〟といったものに対する〝拠点〟について、他にも老朽化を理由にして、補修費用を寄付で賄うための〝記事〟は多く見かけるのだが、〝その後〟が尻切れトンボ状態になっているものが大変多い。この団結道場の話にしても、新聞記事は令和元(2018)年10月のものである。そしてこの記事によると来年3月の補修工事完了を目指しているとあるので、令和2(2019)年3月には完成しているということになる。しかしその工事完了に触れている記述はなく、おまけに現地に行って確認した限りでは〝工事中は建物内を見学できない〟との注意事項が現在でも続いている。結局のところ工事は〝できなかったのかどうか〟もわからず、それが理由で今なお〝建物内が見学できない〟のかどうかもわからない。道場建立の意気込みはわかっても、現状を見る限り〝何をどうしたいのか?〟が見えて来ないのが私の意見である。バス停には〝団結道場前〟とあることから、ただの廃墟となっている訳ではないのかも知れないが、寄付を集めて…という考えであれば、その後の経過を説明する〝義務〟はある筈である。言い方は悪いが沖縄にはそういった施設等が結構あるように思う。アナウンスしっぱなしで済ませるのであれば、大層なことを言わなければいいと思うのだが如何なものだろうか?外壁も修理されていない、外のトイレは〝使用禁止〟と貼られ〝廃墟〟としか思えない建物には興味が持てず、早々に次の目的地を目指して出発することにした。 向かった先は伊江島補助飛行場跡。旧日本陸軍の伊江島飛行場に由来し、現在ではアメリカ海兵隊の飛行場・練習場となっている場所である。飛行場と言えば真っ直ぐな〝滑走路〟でわかりそうなものなのだが、Google Naviの表示する場所に行った結果は米軍基地。滑走路らしきものは柵の中に位置するのでおかしいなとは思ったのだが、概要(写真)を検索しようとしたものの、電波状態が悪く調べることができなかった。まあ米軍基地でも現在の伊江島を象徴しているものには違いないために、景色の写真だけを撮って出発することにした。 <br /><br />港に向かうようなルートを走り、真ん中に碑がある大きな広場に到着する。アーニーパイル記念碑。写真好きならば一度は聞いたことがある〝ピューリッツァー賞〟を受賞した従軍カメラマンである。伊江島に上陸した米国第305連隊と行動を共にして戦場を取材中の1945年4月18日に日本軍の機関銃弾に斃れた。アーニーバイルは、戦場にあって一般の民間人や兵士の不安や怒り、喜びや悲しみを愛情をもって報道し続けた。時代は違うがやはり従軍記者としてベトナム戦争で斃れた〝沢田教一〟もまた同じ観点からファインダー越しの姿をカメラに残し、やはりピューリッツァー賞を受賞している。 アーニーパイルの遺体は粗末な木製の十字架の下に埋葬されていたが、戦後の沖縄本島の陸軍墓地を経て、現在はホノルルの国立墓地へ移された。この記念碑が建立されている場所は、彼が戦死した場所であり、改葬後に米軍の手によってこのアーニーパイル記念碑が建てられ今日に至っている。 従軍記者とは言え、ぱっと見は兵士と判断される以上命の危険が伴うことは本人も理解していよう。戦争という〝行為〟は今更ながらいかなる理由があれと肯定できるものではない。しかし兵士という一個人の観点から言うならば、〝殺さなければ殺される〟と言う究極の選択を強いられる環境下では、銃撃をした日本兵を責めることもできないであろう。米軍も多くの日本兵や住民を殺害した。しかしお互い様のひと言では済ませられないこととして片付けられることでもない。殺し合うことが当たり前になって良いわけはない。理性のある人間をも変えてしまう戦争は、いかなる理由があれども許されるものではないことを改めて再認識するアーニーパイル記念碑であった。 車を少し走らせてミースィ公園にやって来た。公園入口には何やら石像が建てられている。〝大力者安里五良の像〟は旧藩末に上納船の船頭で腕っぷしの強さで名を轟かせていた〝安里五良(あさとぐら)〟は、伊江島西江村の生まれで、持ち前の大食い・剛力から〝大力者(うぶてーむん)〟と呼ばれた。 角力(沖縄相撲)に於いてはその大力者を負かす者がいなかったので、興味を持った那覇の角力狂が後援者となり、伊江島の船乗りと那覇のニオに角力をとらせることになった。 那覇のニオは空手をやり、武術のたしなみがあったので、最初こそ伊江勢の劣勢が続いたが、最後に出た五良は残りの5人を瞬く間に負かし伊江島勢に勝利をもたらした。 後援者ら見物人は総立ちになって〝伊江勝ちゃん〟と凱歌をあげ、伊江島の人々は〝伊江ハッチャン〟と叫んだ。 島人がハッチャンというのを土臭く面白いので、誰言うとなく伊江ハッチャーに変化したということが言われている。その進化を国頭で発揮したのが、明治20年国頭高等小学校建設用地の地均しを各間切島に割当てられた時である。島では男子ばかりの若者を選りすぐって、朝早くから晩も遅くまで作業し他間切の半分の日数で仕上げてしまった。他間切の夫役が嘲弄するかのように〝伊江ハッチャー〟と言ったのが一般化し、猪突猛進型で男性的な響きとして今日に伝わっている。 五良がプーズィナ(帆縄)を握り一帆船を操り、片手には三升(にわーしドゥクイ)の縄を持って、荒波に向う雄姿には〝進取の気性〟〝負けん気性〟等伊江島の一号精神が象徴され、村の限りない躍進が表現されている。 伊江島の生んだ〝大力者安里五良〟は明治23年に亡くなったとされるが、実際のところ生年や歳は不明である。石碑の由来書きを要約したが、実際のところ伊江村民の負けん気やチャレンジ精神の象徴として〝大力者安里五良〟の偶像を作り上げて祀っていることのように思える。生年も没年齢もわからない〝大力者安里五良〟。実在の有無よりも伊江村民の〝精神的な拠り所〟という位置付けなのだろうとふと感じたひとりの観光客であった。 再び車を走らせて〝第二小隊壕〟に到着する。入口には南京錠がかかっており内部には入れないが、ここは独立混成第44旅団第2歩兵隊第3中隊第2小隊が籠もっていた壕である。隊長は橋本勇二少尉、昭和20(1945)年4月17日の米軍上陸後2日目の戦いに於いて負傷するも部下に助けられて帰隊するも、4月20日小隊壕付近で陣地を死守していたところに銃撃を受けて戦死。小隊は玉砕する。この日が伊江島守備隊にとって〝最後の抵抗〟の日となり、敵砲弾が止んだ翌4月21日未明に突撃を加え、部隊長以下将校は戦死若しくは自決により果て、なんとか生き残った者はやむなく各所の壕に入って夜を待った。斯くして指揮官を失い、戦友と別れた下士官・兵達はその後昼は壕に潜んで、夜になれば出て敵陣に斬込みを加え続けた。部隊長井川正少佐の最後の訓詞である〝一日でも長く敵の伊江島完全占領を妨害し、一人でも多くの敵兵を斃せ〟に従い、生きて飢えに耐え渇きに苦しみ、痛みをこらえて遊撃戦は尚長く続けられた。この小隊壕のすぐ下に〝マーガー井戸〟という伊江島に於いては、貴重な水源があったことも、部隊が戦闘を続けられた理由のひとつでもある。 6日間の伊江島の戦いに於いて住民1,500余名を含む4,706名が戦死し、149名が捕虜となった(米軍データ・諸説あり)。この内正規の軍人の戦死者数は2,000余名と言われているので、伊江島防衛隊や婦人協力隊、それに〝軍服を着た民間人〟等区分が難しい〝軍属等〟からも1,000名を超える犠牲者を出していることになる。米軍の軍服を着た者もいたことから、兵士と民間人の区別がつかなかったことから攻撃対象になったという記録も残されている。犠牲者数は文献によって大きく差があるものもあるため、どれが正確なのかは特定し辛いのも現実である。これらのことを踏まえると、戦争の是非論は今更言うまでもないことだが、この小隊壕のような〝戦時中の生き字引き〟の施設は行政等然るべき組織がしっかり管理をして、後世に残るようにする必要性を常に感じている。 そして話に挙げたマーガー井戸に立ち寄ってから次の目的地へと向かうが、この〝伊江村のガジュマル〟というものがよくわからない。場所的には合っている筈であるが、由来書き等一切ないため詳細がわからない。仕方がないので界隈のガジュマルの木々をカメラに収めて次の目的地を目指すことにした。 伊江村役場を目指し、その隣にある駐車場に車を停める。公益質屋跡、昭和4(1929)年12月、世界大恐慌にあえぐ伊江村の財政や村民の生活を救うため、政府の融資を受けて設立された村営の金融機関(質屋)である。公益質屋は大正元(1912)年に社会福祉事業の一環として設置された非営利的な金融機関であり、大正13(1924)年頃に全国に広まった。これはフランスの制度を基本にし、昭和2(1927)年に〝公益質屋法〟が施行、地方公共団体や社会福祉法人により質屋が営まれることとなり昭和14(1939)年には全国に1142の公益質屋が設置されている。伊江島でも例外ではなく高利貸の暴利に苦しむ島民を救ったのがこの公益質屋であった。伊江島を守備した独立混成第44旅団第2大隊歩兵第1大隊〝伊江島守備隊〟が城山近くに陣地壕を設けていたことから昭和20(1945)年3月末頃から2週間に渡り残波沖(読谷村)の艦船から盛んに砲撃を受け、伊江島の戦いが本格化した4月16日からは海や陸、空からの攻撃が加えられ、伊江島は焦土と化した。城山からそう離れてはいない場所に建てられていた公益質屋も例外に漏れず爆撃を受け、質物の管理・保存のため強固な鉄筋コンクリート造りであったがためにかろうじて原形を留めていた。6日間の戦闘は米軍の猛攻に対し日本軍との壮絶な攻防戦が続けられ、特に公益質屋があった城山南方の学校陣地(現伊江村立伊江中学校)付近は米兵たちが〝血ぬられた丘〟と名付けたほどの激戦が展開された戦場となった。 日本軍の組織的抵抗が終了し、米軍が〝占領宣言〟を出した昭和20(1945)年4月21日。その後も4月22日に島民が避難した洞窟〝アハシャガマ〟に日本兵が機雷とともに飛び込み、内部で爆発。それにより避難民150名を巻き込んだ〝強制集団死〟が起こる等〝ゲリラ戦〟は続いたとされている。大勢は決したが〝終戦〟に至るには、これから長い月日を要することとなる。 今なお土地問題等で〝戦後〟とは言い切れない伊江島ではあるが、沖縄が返還された後の昭和52(1977)年に伊江島戦当時の現存する唯一建物として伊江村指定史跡となる。熾烈な砲撃を掻い潜った公益質屋跡の建物ではあるが、劣化は否めず昭和60(1985)年に内部に鉄骨の補強を入れて今日に至っている。それでも風雨に晒されたことによる劣化の進行もあるのか、部分的に鉄柵で囲まれているところも見受けられた。経年劣化はある意味仕方がないところもあるが、戦跡あるあるの〝落書き〟の跡はどうなのだろうか?勿論消されてはいるものの、その痕跡は素人にもわかるものである。戦跡にはできる限り余計な手を加えて欲しくないのが私の想いである。しかし何がしたくて落書きをするのか?それが理解できない。うちっぱなしの無骨な建物ではあれど、伊江島を代表する戦跡のひとつである。その価値がわからない者にははっきり言って来て貰いたくはない。公益質屋跡を訪れるために伊江島にやって来た私である。長年の夢がつまらないことで幻滅したくはないと切に感じた私であった。 伊江島中学校を回り込む様に走り、ニーバナ児童公園に到着する。公園内に建立された芳魂之塔。伊江島戦に参加した伊江島地区隊・第二歩兵隊第一大隊・独立速射砲一個中隊・独立機関銃一個中隊・第50飛行場大隊・第502特設警備工兵隊・独立整備隊・野砲小隊、さらに地元の伊江島防衛隊・伊江島青年義勇隊・伊江島女子救護班・婦人協力隊。その戦没者に加えて島外で戦死した伊江島出身者が合祀されている慰霊碑である。芳魂之塔は伊江村民と国頭郡各町村の遺族の方々からの浄財を集めて1951年4月20日に建立された。塔名の文字は当時の沖縄群島知事平良辰雄氏の揮毫である。建立から半世紀を経て老朽化したことから、平成13(2001)年3月に境内の拡張並びに塔の建替えを行うとともに、塔に向かって右側には礎が併設された。 伊江島占領が宣言された4月21日には慰霊祭が行われ、昭和52(1977)年の33回忌を迎えた後、翌年昭和53(1978)年からは〝平和祈願祭〟と称して多くの戦没者遺族や関係者の参列を以て行われ現在に至っている。 芳魂之塔には〝ひねもすを とどろとどろと 潮騒の 声をまくらにここだくも 眠れる霊の 夢まどかならむ〟という伊江島出身の歌人名嘉元浪村の歌が刻まれている。 初代芳魂之塔がどんなものかと検索したが見当たらない。基本戦後間もなくに建立された慰霊碑は、資材も乏しく大抵は米軍からの払い下げられたセメント等を用いて作られた〝派手さのない物〟であったに違いない。そのため建て替えられた新しく立派な慰霊碑と比較されることにより、戦後の混乱期に於ける慰霊碑建立の難しさを物語っていることが強調されている。勿論規模や見た目だけの問題ではないが、芳魂之塔の場合はそれなりの大きさはあったために〝改築〟を瀬ざるを得なかったのかも知れない。現在は黒御影石の慰霊塔と記銘板から成り立っているが、ぱっと見で〝平和の礎〟の模倣をしているようにしか見えないのは私だけであろうか? 思うところは多々あれど、私個人ではどうすることもできないので、碑に手を合わせて犠牲者の冥福を祈ってから車に戻って来た。 時間的にも最後になるだろう目的地を目指して走る。起伏のない伊江島に於いて、上り坂を走って行くと〝山〟が見える。〝城山(グスクやま)〟、標高172.2mの小高い山であるが、本島から伊江島を眺めることができる場所ならば必ず見ることができ、その様子から〝伊江島=城山〟と捉える者も多いという。私自身も同様な考えで、美ら海水族館や本部町界隈を訪れては〝ため息〟をついていた記憶がある。今回伊江島上陸を立案し、念願の城山登山に望めることにウキウキしていた。 城山の〝タッチュー〟という呼称は沖縄の方言で〝尖ったもの〟という意味である。沖縄本島北部や東シナ海の海上からもよく見えることから、古く航海の目印ともされてきたタッチューは、沖縄の聖地である〝御嶽〟のひとつでもある。また地質学にも貴重なものであり、世界でも珍しい〝オフスクレープ現象(古い岩盤が新らしい岩盤に潜りこむ中で一部が剥がれて新しい岩盤の上に乗る現象)〟によって形づくられたものであり、実際にこの現象によって作られた山は世界でもタッチュー唯一である。そして城山は伊江島が出来た時期より7,000年も古く、その時代は正しく〝タッチュー〟=〝伊江島〟だったということになる。 この特殊な形と強固な岩盤からなるタッチューは、伊江島6日間戦争の際に日本軍の陣地壕が多数作られ、そのような史実から米軍の爆撃の目標となっていた。戦争終了後には熾烈な爆撃に晒されたタッチューは木々も生えてはおらず、白か黒の岩肌が露出した岩山と化していたという。その後日々が過ぎていく中で緑が戻り始め、現在の様子に至っている。 まぁ蘊蓄は程々にして時間もないので早速〝山登り〟を始めるとする。登山道は最初こそ木々の隙間をぬって歩くようになっているが、途中から石段が設けられたものに変化する。登山なので登り下りに要する時間も違う訳で、だいたい登り20分、下り10分という意見が最も多かったようだ。観光向けの登山であるために〝急〟と思える道でもない。しかし手摺り代わりのチェーンを持ちながら進むには、踊り場で離合するように考える必要がある。実際に私が登山した際には一組の下山客とすれ違っただけであったために、気にする程のことでもなかった。元来ヘタレなので、それなりの所要時間を要すると踏んではいたが、意外にも10分掛からない位で登り切ることができた。そしてガイドブックに必ず掲載されている〝山頂からの360°ビュー〟に挑むのだが、これは疑いようのないものであった。旅三日目にして初めて天気に恵まれた訳ではあるが、東には沖縄本島・古宇利島、南東には水納島に瀬底島、そして北東には伊是名・伊平屋までもが望める〝絶景〟が広がっていた。タッチュー頂上には不思議な凹みが残っている。〝力玉那覇(チカラタンナーパ)の足跡〟と刻まれた碑には伊江島に攻めてきた軍勢を、大男として誉れ高い力玉那覇がタッチューの岩を剥がしては的に投げつけてこれを撃退した。その際に足を踏ん張った際に出来たのがこの〝足跡〟だったという伝承が残っている。どうも伊江島では〝大男伝説物語〟が好かれるようで、伊江島の歴史に大男ありとなりやすいのかも知れない。あと〝何故?〟と感じたのは〝足跡〟に小銭を投げ入れない様にとの注意書き。聖なる山〝タッチュー〟の御加護をという想いが背景にあるのであれば、それも良いのではと感じた私であった。 タッチュー登山だが、昨年6月にもし来ていれば、登山まで出来たか自信はない。というのも1月だから寒い位の状況下だったために登れたのではという思いがある。暑くて湿気がある環境下では、ヘタレの私にはキツイかな~と頂上で苦笑しながら登山道を下りて行く。こちらの所要時間は5分程、階段は急なのであまり横着に歩くと怪我の元だが、そこらは気をつけながら歩いて来た。 という感じで念願の城山登山を済ませて車に戻って来た。取り敢えず喉の乾きを癒すために冷たいさんぴん茶を購入し一気飲みする。駐車場からも島内や海の景色が眺められ、念願が叶った満足感も感じていた。暫くウロウロしながら景色を目に焼き付けて行く。距離的には十分1日あれば一周できる伊江島だが〝島時間〟の流れに同化してしまうと、やはり泊まりで来ないとという想いになる。そんな物思いに耽っているとあっという間に時間が過ぎて行く。次は何年先だろうか…と思いながら車に乗り込んで出発する。 予定していたコースを回り切り、港へと向かう。まだ時間はあったので、港界隈を歩いてみる。〝被爆慰霊碑〟、被爆という言葉を聞くと“原爆”を思い出す者も多いが、伊江島での場合この事件とは〝米軍爆弾処理船LCT爆発事故〟を指す。1948年8月6日午後4時頃、伊江島北海岸地域に集積された太平洋戦争中に不発や未使用となった爆弾を処理輸送する米軍爆弾処理船LCTの爆発事故が発生した。同時刻には村営の連絡船が渡久地から入港、下船開始間もない時間に爆発し、乗客・船員並びに出迎人併せて102名(村内63名、村外39名)の尊い命が失われると共に、73名(村内41名、村外32名)が負傷、8家屋が全焼の被害を受けた大惨事の地である。去った太平洋戦争が落した大事故であり、二度とこのような惨事の起こらない平和社会の建設を願う村長の思いをこめて建立すると刻まれていた。この際に爆発したものは5インチロケット砲弾約5,000発(125t)というものであったために、事故見聞の写真を見てもまわりに何もなくなっていることがよく分かる。それでなくとも戦争でほぼ何も残らないところまで焼き尽くされた伊江島での惨劇は想像もつかないものであったに違いない。戦争は勿論、戦後処理の段階で起こったこの事故は、戦時中に起こったこととはまた〝別〟に考えなければならない。軍人ならば取り扱い方を間違えれば爆発が起こること位は知っている筈。積み時の手荒いハンドリングが原因とも言われてはいるが実際のところわかってはいないのが現状だ。碑の隣には見慣れた〝非核平和宣言の村〟碑が建立されている。頭ごなしに眺めていると見逃すもののようにも見えるため、特にダークツーリズムの際は注意が必要だ。そして近くの郷土記念館と平和記念館を訪れた。この辺りはフェリー待ちの乗客が最後に見られるように作られているような印象を受ける施設のようだ。残念だがコメントする内容もなかったので、早々に出て来た私であった。乗船手続きをする前に伊江港に停留する一隻のフェリーを見掛けた。フェリーぐすく、伊江村営フェリーの一隻で、フェリーいえじまと共に伊江島~本部間に就航している。実はこの船つい一週間程前に航行中に火災を起こし、その後停留されているようだ。今日みたいなド平日であれば一艘で大丈夫だろうが、ピーク時には流石に無理であろう。事故原因を究明し、近いうちに復帰して貰いたいと願うのみであった。 その内に本部15:00発のフェリーいえじまが入港する。フェリーチケットは往復で購入して置いたので、乗船手続きだけを済ませて乗船待合に並ぶことにする。行きと同じようにバックで乗船。行きは車に乗りっぱなしだったが帰りは船室に入ってみた。出港予定よりもやや早く伊江港を離岸し、一路本部港へと向かって出港した。 沖縄で船に乗ったことは本島では一度もない。八重山諸島の高速艇か高速艇欠航時の〝フェリーはてるま〟以来である。ただ10.8kmの航路は流石に短い。暫く潮風に当たりながら瀬底島を眺めていると間もなく本部港。着岸前に車に戻らないといけないためにあっという間であった。これで今回の旅の航路は修了。後は読谷村のイルミネーションを見て、本日の宿がある南城市へと向かって走ることになる。 本部港にはマルエーラインのフェリー波之上が入港する。17:00出発の那覇行きだが2時間掛けて那覇に着く。時間的な余裕があれば是非とも乗ってみたいが、今回は順路の都合でパスする。 <br /><br />のんびりしている間に陽も傾いてきたので出発する。途中で昨晩滞在した〝オン・ザ・ビーチ ルー〟の建物全景をカメラに収めて、再び走り出す。国道449号線・沖縄県道71号線を経て国道58号線を南東へと進む。途中見付けた看板に惹かれ、その場所を探す。 YouTubeでも取り上げられていた場所は、動画通り路駐も出来ない狭い道。一旦目的地を通り過ぎて軽自動車のメリットを最大限に生かせて駐車する。坂を登ったところには3つの慰霊碑が建立されていた。先ずは〝第四十四飛行場大隊之碑〟、特設第一連隊第二大隊隷下の部隊として昭和20(1945)年3月下旬から4月上旬の間北・中飛行場の破壊に従事した後、重火器を持たない状況下での戦いを強いられる。また部隊長命令で学生隊に〝国頭に待避して解散せよ〟と発令された折に、飛行場部隊が玉砕覚悟で米軍の北進を阻止せよという命令を受けた。元々武器らしいものも持たない部隊故に、米軍からの銃撃やゲリラ戦に於ける陸上特攻等を繰り返し、部隊全員380名が玉砕している。 そしてその隣にある〝陸軍飛行隊関係戦没者慰霊記念碑〟は、飛行場大隊を含めた陸軍の航空隊や設営隊を含む犠牲者すべてを慰霊するといった意味合いで建立されたようだ。 そして一番奥にある〝第二護郷隊之碑〟。第二護郷隊第四遊撃隊の別称で、国頭・大宜味・東村を中心に中頭郡の14~17歳の男子合わせて約400人のゲリラ戦(遊撃戦)を展開するために集められた部隊である。彼らは恩納村に駐屯していた第24師団第32連隊が南部に移動した後に配置された。彼らは名護・安富祖国民学校で訓練を積み、昭和20(1945)年1月から恩納岳に戦闘拠点を作り始めて、3月下旬から恩納岳に武器や弾薬・食糧を運び入れ、長期間にわたって米軍への遊撃戦を展開する態勢を整えて行った。この部隊を編成し教育したのが陸軍中野学校を卒業した岩波壽大尉。他5名の陸軍中野学校出身士官以下3個中隊からなる第4遊撃隊は388名で編成。隊本部の副官クラスや小隊長分隊長などは在郷軍人が当てられた。元々護郷隊は大本営直轄の部隊である。そのような背景から沖縄守備に携わった第32軍隷下の部隊とは同じ目的で戦うことは当初なかったようだ。しかし米軍上陸後は、特設第一連隊隷下の本島中部に駐屯していた部隊が護郷隊陣地に逃れてくるなどあったため、兵員数が1,000名を越えたこともあったという。この特設第一連隊(連隊長:青柳時香中佐)だが、元来戦闘要員として兵を抱えたわけではなく、任務がなくなったことにより逃避を余儀なくされ、結果として辿り着いた場所が第四遊撃隊陣地であったことが理由である。また特設第一連隊本部も第四遊撃隊隷下に入り、岩波大尉が指揮をとることとなったようだ。この特設第一連隊は理解しがたい問題が頻発していた部隊である。学徒隊を置いて工兵隊・要建隊の老兵1,100名が無断で戦線離脱したために置き去りとなり、やむなく隊長が学徒隊に解散命令を出したという記録も残されている。確かに第62師団第12大隊隷下の中隊の様な戦力のある部隊も合流はしているものの一握りの話であり、多くは烏合の衆であったことは否めない。事実護郷隊は岩波隊長が引率をし、国頭へと移動に成功しているが、青柳隊長以下特設第一連隊は、米軍の攻撃に対抗出来ず、出発した恩納岳の陣地に戻っている。国頭まで移動した第四遊撃隊は7月には日久志岳東方地区に到着し、第三遊撃隊の村上隊長に出会う。そこで第32軍司令部の玉砕を知り、その後は秘密裏に遊撃戦に以降することを決め、第四遊撃隊本部基幹要員数名を残留させ、各隊員は出身部落の家族の下に帰還し、家業を行いつつ情報を収集する命令を発し解散命令を出す。各隊員の少年達は帰村して家業に就くとともに、中隊長・隊本部に情報と食糧を適宜提供した。その後再集合の命令が発せられることはなかった。岩波隊長は8月15日の〝終戦の報〟を聴取し、暫くはゲリラ戦を継続させていたが、9月に入ると越来で終戦協定が結ばれたことを知り、住民を通じて米軍からの下山勧告もあったことから遂に10月2日に各中隊長とともに降伏し米軍収容所に入った。一部例外はあるものの沖縄本島に於ける戦いを最後まで続けていた第三・第四遊撃隊が降伏したことで、日本軍の組織的抵抗が終わってからも続いた戦闘はこれで終わることとなった。この第四遊撃隊(第二護郷隊)に動員された少年達400名のうち69名が犠牲となった。昭和31(1956)年9月、生存した第二護郷隊の元隊員達〝護郷の会(第二護郷隊の戦友会)〟の手によってこの場所に〝第二護郷隊之碑〟が建立された。そして毎年6月23日の慰霊の日に慰霊祭が行われていたが、参列者の高齢化もあり、郷護の会は既に解散している。その後安富祖子ども会では第二護郷隊之碑・第四十四飛行場大隊之碑がある敷地を慰霊の日に清掃し、その場で体験者の話を聞くなど独自の取り組みを行いつつ現在に至っている。また遺族の参拝は引き続き行われており、うるま市の地蔵院に祭壇が設けられている。 以上が第二護郷隊の概略となるが、大本営直轄の部隊でありながら、学徒出陣とは違い護郷隊の募集はほぼ強制であった。そのため明確な基準がないまま従軍〝させられる〟様な状況であったために戦後の補償問題ではかなり揉めたことが記されている。金を貰ったから死んだ少年が生き返る訳ではないので、単純なものではないにしろ余りにもいい加減過ぎるのではと思えてならない。同時にこの〝第二護郷隊之碑〟の存在が、手入れをしている近所の子ども会だけならばなおさらだ。私の場合たまたま〝標識〟を見てやって来た訳だが、碑の入口を通過している回数はと聞かれてもわからない位通過している。慰霊碑というものは〝慰霊する気持ち〟のない者からすればなんとも思わなれないものかも知れないが、戦跡のひとつと捉えられている者からすれば是非立ち寄りたいと考える場所である。恩納村だけでも10の慰霊碑があると記されていた。そのうち半分は情報の入手ができたために訪れることができたのだが、第二護郷隊之碑は本当に偶々だったきっかけに過ぎない。戦時中のガマや壕等が崩壊の危険性があるために中に入れなくなったという話は毎年のように聞いている。後世に残さなければならない〝戦跡〟はやはり手入れをしなければ風化してしまう物であろう。保存に費用等が必要であれば、公費の投入を認めるべきだと私には思えるのだが如何なものだろうか? 何かと考えさせられる場所ではあったが手を合わせられただけで今日のところは満足した私であった。 第二護郷隊之碑近くの道は狭く、長時間路駐できる場所ではないために急いで車に戻る。向かう先は恩納村、泊まりはしないがルネッサンスリゾートオキナワを目指して出発する。<br /><br />  《続く》

《2024.January》あみんちゅなにげに沖縄街歩きの旅そのⅣ~念願叶った伊江島編~

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2024/01/29 - 2024/01/29

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《2024.January》あみんちゅなにげに沖縄街歩きの旅そのⅣ~念願叶った伊江島編~

旅三日目の朝は少し早めに起床した。部屋から出て通路を少し歩くと海が広がっている。あまりオーシャンビュー過ぎると“窓”を開けて寝られなかった記憶があるが、この時期故かそういったことはなかった。 いつもならばのんびりとして出発までを過ごすのだが、今日は時間mustの予定があるためにちゃっちゃと過ごす。8:00過ぎ位にチェックアウトし、ホテルの外観をカメラに収めて出発する。目指す先は10分程で到着する本部港、車をフェリーに乗せて移動する。目的地は伊江島。本部港から25分の船旅で到着可能な〝手軽に訪れることができる離島〟のひとつである。伊江島には〝城山(タッチュー〟”という山がある。標高は高くはないが、元々起伏の少ない伊江島では目立つ山である。定期的に沖縄を訪れるようになってから3回、本部半島から城山の景色を眺めていた。その度に〝行きたい〟という気持ちにはなるのだが、フェリーで現地滞在の時間を加味すると8:30には本部港に到着できる場所に泊まらなければならない。昨年6月はそこを踏まえて今帰仁に宿を取ったが、旅行支援を受けるために2食付プランで申し込んだのだが、朝食が8:00からだということをホテルまで来て初めて知った。距離的にはそう遠くもないので〝行く気〟になれば可能だったかも知れないが、当日は午前中から天気が崩れるという予報が出ていたこともあり諦めた過去がある。よって正しく〝四度目の正直〟で伊江島に渡ることができたのであった。 8:30頃本部港に到着し、最初に乗船手続きのために車検証を持って窓口へと向かう。4m未満の車両とドライバー往復の値段は5,990円。この辺りは伊江島をどの様な方法で巡るかによって変わると思うのだが、レンタカーを借りるのであればフェリーにレンタカーを載せた方が効率が良い。原付や自転車ならば晴れていれば大丈夫だろう。私は伊江島での移動を車にする予定だったために航送を選択した。ただこの伊江島フェリーは今まで私が利用したフェリーと少し異なり、ドライバーが車に乗ったままでも良いらしい。バックで乗船し前進で下船するといった面白さがあるので、話のネタに利用するのも良いかも知れない。そんな感じで乗船手続きを済ませ、フェリー待合の列に並ぶ。伊江島航路に投入されているのは〝フェリーいえじま〟であった。本来ならば〝フェリーぐすく〟との二船体制であるが、一週間程前にエンジントラブルを起こし、ドック入りしているために〝フェリーいえじま〟一隻だけで運航をしているようだ。特に荷物や車両が多い訳ではなく、予定通りの出港であった。朝が早かったので車の中で一眠りする。少しウトウトしているとすぐに着岸のアナウンスが流れる。伊江島港に到着すると、本部港の乗船順位とは逆に下船する。伊江島到着後数分で私もWAGON Rクンと共に下船。四回目の正直で伊江島に足を踏み入れることができた。 フェリーいえじまは9:25に着岸して車と荷物を下ろし、10:00に本部港に向かって出港する。あくまで伊江島から本部に向かう航路が優先となっているのは、伊江村営フェリーだからである。暫く伊江港の施設を見て歩き、フェリーの出港時間とともに出発する。最初に向かったのは伊江郵便局、目的は勿論旅行貯金である。伊江島の金融と物流の拠点である伊江郵便局。本来ならば土日祝祭日の特殊郵便の受取のため、郵便窓口が開いていると思いきや、そこは時代の流れのようで特定郵便局と同じ扱いだった。ATMの稼働はホリデーサービス実施店になっているが、島内2件のファミリーマートに琉球銀行のATMがあるそうだ。金融の面では八重山の離島とは比較にならないとも言えるのだろう。そんな伊江郵便局で貯金を済ませ、いよいよ伊江島探索を始めることにする。 伊江島を訪れる理由は人様々であるが、最も多いのはタッチュー登山、そして〝ゆり祭り〟〝伊江島一周マラソン〟〝ハイビスカス祭り〟といったイベントが行われる時である。これらの開催日にはフェリーの増便運航が行われ、島に人がうじゃうじゃいる様子を呈するが、普段は長閑で海に囲まれた離島である。しかしこの伊江島は70余年前に〝六日戦争〟と呼ばれる沖縄戦の前哨戦と言われる熾烈な戦いの戦場になった場所であり、それに起因する戦績や史跡が多く残る場所でもある。あまり細かくは情報が得られなかったために訪れて初めてわかることもあるだろうという気持ちで訪れたこともひとつの理由でもある。 伊江郵便局を出て向かった先は反戦平和資料館。元々さほど広くはない島内に〝反戦〟を掲げた建物がふたつある。そのひとつがここ反戦平和資料館である。地図に書かれている場所とはだいぶズレており、暫く探したがなんとか見つけることができた。この場所は平和運動家である阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)が自宅敷地内に自費で建立し、自身が収集した沖縄戦やその後の米軍による土地の強制収用や基地問題に関する資料を展示している。〝ヌチドゥタカラの家〟とも呼ばれている。決して公費により造られた〝資料館〟とは違い〝見せる〟というものではなく、陳列されている〝もの〟をどう感じ取るかを〝考えさせる〟資料館というものだと私には思えた。言葉で伝えるものではないので概略のみ記すことにするが、戦後も続く沖縄戦というものが伺える。ちなみに後で知ったことだが、要予約だということ。場所の特定しか事前にしていなかったことを反省する。ヌチドゥタカラの家を後にして3km程の場所にある伊江島ハイビスカス園にやって来る。沖縄と言えばハイビスカスと言われる県花は年中見ることはできるものの、やはり1月というと温室が主体となる。昨年6月に訪れることができなかったことを少し悔やむ。それでも〝期待していた場所〟のひとつには違いなく、沖縄らしい〝ハイビスカス楽園〟には満足した。 車に戻り伊江島順路を表示している〝Google Navi〟に〝アハシャガマ〟という表示を見つけ向かうことにした。伊江島ハイビスカス園・ゴルフ場の近くの山肌にあるアハシャガマは、伊江島のガマに於いて最も多い犠牲者を出したガマとして知られている。入口には、1945年4月16日から始まった伊江島戦の激戦の末、アハシャガマに隠れていた村民は米軍の捕虜になるのを恐れ、防衛隊が持ち込んでいた爆雷で自爆し、村民約150名の尊い命が失われた。その際に生き残った者は20人ぐらいと言われている。壕は爆発で埋没したままになっていたが、1971年12月に村民の手で発掘され、出土した遺骨は芳魂之塔に合祀されている。しかし未だ未発掘の遺骨や遺品が残っているという情報もあるため、自決があったガマに関して私は一切立ち入る気持ちはない。掘り返されて判明したガマ内部ではあるが、その姿だけを写真に収めて手を合わせてから出発する。 次に向かった先は湧出(わじー)。海に浮かんだ離島である伊江島では、生活用水の確保は死活問題であり、水不足に悩んだ島の人の生活を支えた60mを超える断崖絶壁の下の波打ち際から真水が湧き出る場所である。まあ名前の通りだが、戦時中はその危険を推してまで〝水汲み〟をしなければならなかった。皮肉な話だが戦後米軍の手によって輸送管路が設置されて便利になり、水不足に悩んだ島の一助にもなっている。その後本部半島からの海底送水によって生活用水は賄われてはいるが、湧出の良質な水を利用した地場産業品の製造に現在では使われている。今では展望台から眺める〝海〟の景観が素晴らしい場所として知られてはいるが、名前の由来を知って訪れることはまさに一興だと思う。 一通り眺めを満喫し次の目的地を目指す。しかしGoogle Naviナビが表示する場所に着いても肝心な目的地がわからない。周回道路から海側に続く未舗装の道路は、突き当りが米軍基地になっているようで、Uターンする場所もなくなんとか切り返して方向転換をする。歩くスピードまで速度を落としながら山肌を眺めつつ走るとやっと見つけることができた。〝第502特設警備工兵隊出撃之地〟碑である。伊江島は沖縄戦の前哨戦とも言われる戦いの戦場になったことは先述したが、伊江島を守備した独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊は井川正少佐以下650名、それに臨時編成された砲兵小隊等650名。その他第502特設警備工兵隊約800名、伊江島守備隊約200名と言われているが、軍人としては1,000名程度であり、残りは現地徴兵された義勇隊という〝寄せ集め〟の部隊である。武器も少なく義勇隊に至っては機関銃・小銃・擲弾筒・手榴弾が僅かに渡されただけであり、〝竹槍〟が主な武器だったと言われている。伊江島の戦いが始まる少し前の昭和20(1945)年3月、名護の出身である宜保豊猛中尉以下800名は主任務として伊江島飛行場の整備・保守に当たっていたが、米軍の上陸に対し自分達が整備した飛行場を利用されないように破壊した後本部に移動。第2歩兵隊に合流するように命令されていた。しかし島を出るにも制海権が失われた状況下で船もなく、島に残らざるを得なくなった。その上伊江島に上陸した米軍によって、飛行場を中心に島が分断されることとなり、東側の第1大隊と特設警備工兵隊は完全に孤立してしまう。本隊との連絡もままならない状況下で第502特設警備工兵隊宜保隊長以下800名の兵士は昭和20(1945)年4月16日の夕刻に手榴弾2個と竹槍を持って米軍に斬込みを仕掛け、多くの兵士は戦死、生存者は僅かに180名程だったと言われている。800名のうち半数以上が現地召集の住民義勇隊であった。最後の斬り込みを敢行するにあたり、宜保隊長は数人に別れて敵中突破し、井川部隊に合流するように訓示をしたそうだが、生存者数から見てもそれが無茶だったことは容易にわかる。しかしそうするしかなかったのもまた事実である。伊江島の六日戦争で日本軍約3000人・村民約1500人が戦死した。勿論この中に第502特設警備工兵隊の戦死者も含まれている。その最後の斬り込みに挑んだ場所がこのガマだった。 そんな戦跡であることが分かり辛い場所にある理由のひとつであるだろう。結果論では語れないことではあるが、島外へ移動ができなかったことで部隊の運命が決まってしまった。このガマでは自決者はいなかったとされてはいるが、やはり遺品等残っている可能性はあるため入口で手を合わせ、ガマ内部には入らずに次の目的地を目指すことにした。

道路沿いにある白い建物、壁には色々なことが書いてある。〝団結道場〟は伊江村真謝区にある建物で、伊江島土地闘争で故阿波根昌鴻氏らが米軍への抵抗運動の拠点としてきた場所である。1970年に建てられた建物は半世紀を過ぎ、老朽化してきたためにヌチドゥタカラの家を運営する〝わびあいの里〟と有志達が立ち上げた〝伊江島団結道場保存会〟が中心となって、補修費用約1千万円の寄付を募っている。〝伊江島の闘いのシンボルを後世に残したい〟という思いをわびあいの里の謝花理事長が呼びかけて協力を呼び掛けているという記事が琉球新報に掲載されていた。団結道場は、土地闘争における非暴力の闘いの歴史と思想を学ぶ場として活用されてきた建物であり、建物内には〝伊江島土地を守る会〟の活動を支援した個人や団体名が掲げられ、初公選主席の屋良朝苗、元国際人権連盟議長のボールドウィンなど、幅広い顔ぶれの名前が並んでいる。他にも〝伊江島の非暴力の闘いを記録している歴史的建造物。後世に残すべきものだ〟という道場保存の意義が述べられている旨が書かれており、中でも〝戦後の基地問題は伊江島から始まった。その記録がここにある〟という点を強調し、老朽化でコンクリートの剥離や落下が見られるようになっている道場存続の意義を綴っているようだ。言っていることは理解できるのだが、戦後の沖縄に於ける〝対米軍〟〝反戦〟といったものに対する〝拠点〟について、他にも老朽化を理由にして、補修費用を寄付で賄うための〝記事〟は多く見かけるのだが、〝その後〟が尻切れトンボ状態になっているものが大変多い。この団結道場の話にしても、新聞記事は令和元(2018)年10月のものである。そしてこの記事によると来年3月の補修工事完了を目指しているとあるので、令和2(2019)年3月には完成しているということになる。しかしその工事完了に触れている記述はなく、おまけに現地に行って確認した限りでは〝工事中は建物内を見学できない〟との注意事項が現在でも続いている。結局のところ工事は〝できなかったのかどうか〟もわからず、それが理由で今なお〝建物内が見学できない〟のかどうかもわからない。道場建立の意気込みはわかっても、現状を見る限り〝何をどうしたいのか?〟が見えて来ないのが私の意見である。バス停には〝団結道場前〟とあることから、ただの廃墟となっている訳ではないのかも知れないが、寄付を集めて…という考えであれば、その後の経過を説明する〝義務〟はある筈である。言い方は悪いが沖縄にはそういった施設等が結構あるように思う。アナウンスしっぱなしで済ませるのであれば、大層なことを言わなければいいと思うのだが如何なものだろうか?外壁も修理されていない、外のトイレは〝使用禁止〟と貼られ〝廃墟〟としか思えない建物には興味が持てず、早々に次の目的地を目指して出発することにした。 向かった先は伊江島補助飛行場跡。旧日本陸軍の伊江島飛行場に由来し、現在ではアメリカ海兵隊の飛行場・練習場となっている場所である。飛行場と言えば真っ直ぐな〝滑走路〟でわかりそうなものなのだが、Google Naviの表示する場所に行った結果は米軍基地。滑走路らしきものは柵の中に位置するのでおかしいなとは思ったのだが、概要(写真)を検索しようとしたものの、電波状態が悪く調べることができなかった。まあ米軍基地でも現在の伊江島を象徴しているものには違いないために、景色の写真だけを撮って出発することにした。

港に向かうようなルートを走り、真ん中に碑がある大きな広場に到着する。アーニーパイル記念碑。写真好きならば一度は聞いたことがある〝ピューリッツァー賞〟を受賞した従軍カメラマンである。伊江島に上陸した米国第305連隊と行動を共にして戦場を取材中の1945年4月18日に日本軍の機関銃弾に斃れた。アーニーバイルは、戦場にあって一般の民間人や兵士の不安や怒り、喜びや悲しみを愛情をもって報道し続けた。時代は違うがやはり従軍記者としてベトナム戦争で斃れた〝沢田教一〟もまた同じ観点からファインダー越しの姿をカメラに残し、やはりピューリッツァー賞を受賞している。 アーニーパイルの遺体は粗末な木製の十字架の下に埋葬されていたが、戦後の沖縄本島の陸軍墓地を経て、現在はホノルルの国立墓地へ移された。この記念碑が建立されている場所は、彼が戦死した場所であり、改葬後に米軍の手によってこのアーニーパイル記念碑が建てられ今日に至っている。 従軍記者とは言え、ぱっと見は兵士と判断される以上命の危険が伴うことは本人も理解していよう。戦争という〝行為〟は今更ながらいかなる理由があれと肯定できるものではない。しかし兵士という一個人の観点から言うならば、〝殺さなければ殺される〟と言う究極の選択を強いられる環境下では、銃撃をした日本兵を責めることもできないであろう。米軍も多くの日本兵や住民を殺害した。しかしお互い様のひと言では済ませられないこととして片付けられることでもない。殺し合うことが当たり前になって良いわけはない。理性のある人間をも変えてしまう戦争は、いかなる理由があれども許されるものではないことを改めて再認識するアーニーパイル記念碑であった。 車を少し走らせてミースィ公園にやって来た。公園入口には何やら石像が建てられている。〝大力者安里五良の像〟は旧藩末に上納船の船頭で腕っぷしの強さで名を轟かせていた〝安里五良(あさとぐら)〟は、伊江島西江村の生まれで、持ち前の大食い・剛力から〝大力者(うぶてーむん)〟と呼ばれた。 角力(沖縄相撲)に於いてはその大力者を負かす者がいなかったので、興味を持った那覇の角力狂が後援者となり、伊江島の船乗りと那覇のニオに角力をとらせることになった。 那覇のニオは空手をやり、武術のたしなみがあったので、最初こそ伊江勢の劣勢が続いたが、最後に出た五良は残りの5人を瞬く間に負かし伊江島勢に勝利をもたらした。 後援者ら見物人は総立ちになって〝伊江勝ちゃん〟と凱歌をあげ、伊江島の人々は〝伊江ハッチャン〟と叫んだ。 島人がハッチャンというのを土臭く面白いので、誰言うとなく伊江ハッチャーに変化したということが言われている。その進化を国頭で発揮したのが、明治20年国頭高等小学校建設用地の地均しを各間切島に割当てられた時である。島では男子ばかりの若者を選りすぐって、朝早くから晩も遅くまで作業し他間切の半分の日数で仕上げてしまった。他間切の夫役が嘲弄するかのように〝伊江ハッチャー〟と言ったのが一般化し、猪突猛進型で男性的な響きとして今日に伝わっている。 五良がプーズィナ(帆縄)を握り一帆船を操り、片手には三升(にわーしドゥクイ)の縄を持って、荒波に向う雄姿には〝進取の気性〟〝負けん気性〟等伊江島の一号精神が象徴され、村の限りない躍進が表現されている。 伊江島の生んだ〝大力者安里五良〟は明治23年に亡くなったとされるが、実際のところ生年や歳は不明である。石碑の由来書きを要約したが、実際のところ伊江村民の負けん気やチャレンジ精神の象徴として〝大力者安里五良〟の偶像を作り上げて祀っていることのように思える。生年も没年齢もわからない〝大力者安里五良〟。実在の有無よりも伊江村民の〝精神的な拠り所〟という位置付けなのだろうとふと感じたひとりの観光客であった。 再び車を走らせて〝第二小隊壕〟に到着する。入口には南京錠がかかっており内部には入れないが、ここは独立混成第44旅団第2歩兵隊第3中隊第2小隊が籠もっていた壕である。隊長は橋本勇二少尉、昭和20(1945)年4月17日の米軍上陸後2日目の戦いに於いて負傷するも部下に助けられて帰隊するも、4月20日小隊壕付近で陣地を死守していたところに銃撃を受けて戦死。小隊は玉砕する。この日が伊江島守備隊にとって〝最後の抵抗〟の日となり、敵砲弾が止んだ翌4月21日未明に突撃を加え、部隊長以下将校は戦死若しくは自決により果て、なんとか生き残った者はやむなく各所の壕に入って夜を待った。斯くして指揮官を失い、戦友と別れた下士官・兵達はその後昼は壕に潜んで、夜になれば出て敵陣に斬込みを加え続けた。部隊長井川正少佐の最後の訓詞である〝一日でも長く敵の伊江島完全占領を妨害し、一人でも多くの敵兵を斃せ〟に従い、生きて飢えに耐え渇きに苦しみ、痛みをこらえて遊撃戦は尚長く続けられた。この小隊壕のすぐ下に〝マーガー井戸〟という伊江島に於いては、貴重な水源があったことも、部隊が戦闘を続けられた理由のひとつでもある。 6日間の伊江島の戦いに於いて住民1,500余名を含む4,706名が戦死し、149名が捕虜となった(米軍データ・諸説あり)。この内正規の軍人の戦死者数は2,000余名と言われているので、伊江島防衛隊や婦人協力隊、それに〝軍服を着た民間人〟等区分が難しい〝軍属等〟からも1,000名を超える犠牲者を出していることになる。米軍の軍服を着た者もいたことから、兵士と民間人の区別がつかなかったことから攻撃対象になったという記録も残されている。犠牲者数は文献によって大きく差があるものもあるため、どれが正確なのかは特定し辛いのも現実である。これらのことを踏まえると、戦争の是非論は今更言うまでもないことだが、この小隊壕のような〝戦時中の生き字引き〟の施設は行政等然るべき組織がしっかり管理をして、後世に残るようにする必要性を常に感じている。 そして話に挙げたマーガー井戸に立ち寄ってから次の目的地へと向かうが、この〝伊江村のガジュマル〟というものがよくわからない。場所的には合っている筈であるが、由来書き等一切ないため詳細がわからない。仕方がないので界隈のガジュマルの木々をカメラに収めて次の目的地を目指すことにした。 伊江村役場を目指し、その隣にある駐車場に車を停める。公益質屋跡、昭和4(1929)年12月、世界大恐慌にあえぐ伊江村の財政や村民の生活を救うため、政府の融資を受けて設立された村営の金融機関(質屋)である。公益質屋は大正元(1912)年に社会福祉事業の一環として設置された非営利的な金融機関であり、大正13(1924)年頃に全国に広まった。これはフランスの制度を基本にし、昭和2(1927)年に〝公益質屋法〟が施行、地方公共団体や社会福祉法人により質屋が営まれることとなり昭和14(1939)年には全国に1142の公益質屋が設置されている。伊江島でも例外ではなく高利貸の暴利に苦しむ島民を救ったのがこの公益質屋であった。伊江島を守備した独立混成第44旅団第2大隊歩兵第1大隊〝伊江島守備隊〟が城山近くに陣地壕を設けていたことから昭和20(1945)年3月末頃から2週間に渡り残波沖(読谷村)の艦船から盛んに砲撃を受け、伊江島の戦いが本格化した4月16日からは海や陸、空からの攻撃が加えられ、伊江島は焦土と化した。城山からそう離れてはいない場所に建てられていた公益質屋も例外に漏れず爆撃を受け、質物の管理・保存のため強固な鉄筋コンクリート造りであったがためにかろうじて原形を留めていた。6日間の戦闘は米軍の猛攻に対し日本軍との壮絶な攻防戦が続けられ、特に公益質屋があった城山南方の学校陣地(現伊江村立伊江中学校)付近は米兵たちが〝血ぬられた丘〟と名付けたほどの激戦が展開された戦場となった。 日本軍の組織的抵抗が終了し、米軍が〝占領宣言〟を出した昭和20(1945)年4月21日。その後も4月22日に島民が避難した洞窟〝アハシャガマ〟に日本兵が機雷とともに飛び込み、内部で爆発。それにより避難民150名を巻き込んだ〝強制集団死〟が起こる等〝ゲリラ戦〟は続いたとされている。大勢は決したが〝終戦〟に至るには、これから長い月日を要することとなる。 今なお土地問題等で〝戦後〟とは言い切れない伊江島ではあるが、沖縄が返還された後の昭和52(1977)年に伊江島戦当時の現存する唯一建物として伊江村指定史跡となる。熾烈な砲撃を掻い潜った公益質屋跡の建物ではあるが、劣化は否めず昭和60(1985)年に内部に鉄骨の補強を入れて今日に至っている。それでも風雨に晒されたことによる劣化の進行もあるのか、部分的に鉄柵で囲まれているところも見受けられた。経年劣化はある意味仕方がないところもあるが、戦跡あるあるの〝落書き〟の跡はどうなのだろうか?勿論消されてはいるものの、その痕跡は素人にもわかるものである。戦跡にはできる限り余計な手を加えて欲しくないのが私の想いである。しかし何がしたくて落書きをするのか?それが理解できない。うちっぱなしの無骨な建物ではあれど、伊江島を代表する戦跡のひとつである。その価値がわからない者にははっきり言って来て貰いたくはない。公益質屋跡を訪れるために伊江島にやって来た私である。長年の夢がつまらないことで幻滅したくはないと切に感じた私であった。 伊江島中学校を回り込む様に走り、ニーバナ児童公園に到着する。公園内に建立された芳魂之塔。伊江島戦に参加した伊江島地区隊・第二歩兵隊第一大隊・独立速射砲一個中隊・独立機関銃一個中隊・第50飛行場大隊・第502特設警備工兵隊・独立整備隊・野砲小隊、さらに地元の伊江島防衛隊・伊江島青年義勇隊・伊江島女子救護班・婦人協力隊。その戦没者に加えて島外で戦死した伊江島出身者が合祀されている慰霊碑である。芳魂之塔は伊江村民と国頭郡各町村の遺族の方々からの浄財を集めて1951年4月20日に建立された。塔名の文字は当時の沖縄群島知事平良辰雄氏の揮毫である。建立から半世紀を経て老朽化したことから、平成13(2001)年3月に境内の拡張並びに塔の建替えを行うとともに、塔に向かって右側には礎が併設された。 伊江島占領が宣言された4月21日には慰霊祭が行われ、昭和52(1977)年の33回忌を迎えた後、翌年昭和53(1978)年からは〝平和祈願祭〟と称して多くの戦没者遺族や関係者の参列を以て行われ現在に至っている。 芳魂之塔には〝ひねもすを とどろとどろと 潮騒の 声をまくらにここだくも 眠れる霊の 夢まどかならむ〟という伊江島出身の歌人名嘉元浪村の歌が刻まれている。 初代芳魂之塔がどんなものかと検索したが見当たらない。基本戦後間もなくに建立された慰霊碑は、資材も乏しく大抵は米軍からの払い下げられたセメント等を用いて作られた〝派手さのない物〟であったに違いない。そのため建て替えられた新しく立派な慰霊碑と比較されることにより、戦後の混乱期に於ける慰霊碑建立の難しさを物語っていることが強調されている。勿論規模や見た目だけの問題ではないが、芳魂之塔の場合はそれなりの大きさはあったために〝改築〟を瀬ざるを得なかったのかも知れない。現在は黒御影石の慰霊塔と記銘板から成り立っているが、ぱっと見で〝平和の礎〟の模倣をしているようにしか見えないのは私だけであろうか? 思うところは多々あれど、私個人ではどうすることもできないので、碑に手を合わせて犠牲者の冥福を祈ってから車に戻って来た。 時間的にも最後になるだろう目的地を目指して走る。起伏のない伊江島に於いて、上り坂を走って行くと〝山〟が見える。〝城山(グスクやま)〟、標高172.2mの小高い山であるが、本島から伊江島を眺めることができる場所ならば必ず見ることができ、その様子から〝伊江島=城山〟と捉える者も多いという。私自身も同様な考えで、美ら海水族館や本部町界隈を訪れては〝ため息〟をついていた記憶がある。今回伊江島上陸を立案し、念願の城山登山に望めることにウキウキしていた。 城山の〝タッチュー〟という呼称は沖縄の方言で〝尖ったもの〟という意味である。沖縄本島北部や東シナ海の海上からもよく見えることから、古く航海の目印ともされてきたタッチューは、沖縄の聖地である〝御嶽〟のひとつでもある。また地質学にも貴重なものであり、世界でも珍しい〝オフスクレープ現象(古い岩盤が新らしい岩盤に潜りこむ中で一部が剥がれて新しい岩盤の上に乗る現象)〟によって形づくられたものであり、実際にこの現象によって作られた山は世界でもタッチュー唯一である。そして城山は伊江島が出来た時期より7,000年も古く、その時代は正しく〝タッチュー〟=〝伊江島〟だったということになる。 この特殊な形と強固な岩盤からなるタッチューは、伊江島6日間戦争の際に日本軍の陣地壕が多数作られ、そのような史実から米軍の爆撃の目標となっていた。戦争終了後には熾烈な爆撃に晒されたタッチューは木々も生えてはおらず、白か黒の岩肌が露出した岩山と化していたという。その後日々が過ぎていく中で緑が戻り始め、現在の様子に至っている。 まぁ蘊蓄は程々にして時間もないので早速〝山登り〟を始めるとする。登山道は最初こそ木々の隙間をぬって歩くようになっているが、途中から石段が設けられたものに変化する。登山なので登り下りに要する時間も違う訳で、だいたい登り20分、下り10分という意見が最も多かったようだ。観光向けの登山であるために〝急〟と思える道でもない。しかし手摺り代わりのチェーンを持ちながら進むには、踊り場で離合するように考える必要がある。実際に私が登山した際には一組の下山客とすれ違っただけであったために、気にする程のことでもなかった。元来ヘタレなので、それなりの所要時間を要すると踏んではいたが、意外にも10分掛からない位で登り切ることができた。そしてガイドブックに必ず掲載されている〝山頂からの360°ビュー〟に挑むのだが、これは疑いようのないものであった。旅三日目にして初めて天気に恵まれた訳ではあるが、東には沖縄本島・古宇利島、南東には水納島に瀬底島、そして北東には伊是名・伊平屋までもが望める〝絶景〟が広がっていた。タッチュー頂上には不思議な凹みが残っている。〝力玉那覇(チカラタンナーパ)の足跡〟と刻まれた碑には伊江島に攻めてきた軍勢を、大男として誉れ高い力玉那覇がタッチューの岩を剥がしては的に投げつけてこれを撃退した。その際に足を踏ん張った際に出来たのがこの〝足跡〟だったという伝承が残っている。どうも伊江島では〝大男伝説物語〟が好かれるようで、伊江島の歴史に大男ありとなりやすいのかも知れない。あと〝何故?〟と感じたのは〝足跡〟に小銭を投げ入れない様にとの注意書き。聖なる山〝タッチュー〟の御加護をという想いが背景にあるのであれば、それも良いのではと感じた私であった。 タッチュー登山だが、昨年6月にもし来ていれば、登山まで出来たか自信はない。というのも1月だから寒い位の状況下だったために登れたのではという思いがある。暑くて湿気がある環境下では、ヘタレの私にはキツイかな~と頂上で苦笑しながら登山道を下りて行く。こちらの所要時間は5分程、階段は急なのであまり横着に歩くと怪我の元だが、そこらは気をつけながら歩いて来た。 という感じで念願の城山登山を済ませて車に戻って来た。取り敢えず喉の乾きを癒すために冷たいさんぴん茶を購入し一気飲みする。駐車場からも島内や海の景色が眺められ、念願が叶った満足感も感じていた。暫くウロウロしながら景色を目に焼き付けて行く。距離的には十分1日あれば一周できる伊江島だが〝島時間〟の流れに同化してしまうと、やはり泊まりで来ないとという想いになる。そんな物思いに耽っているとあっという間に時間が過ぎて行く。次は何年先だろうか…と思いながら車に乗り込んで出発する。 予定していたコースを回り切り、港へと向かう。まだ時間はあったので、港界隈を歩いてみる。〝被爆慰霊碑〟、被爆という言葉を聞くと“原爆”を思い出す者も多いが、伊江島での場合この事件とは〝米軍爆弾処理船LCT爆発事故〟を指す。1948年8月6日午後4時頃、伊江島北海岸地域に集積された太平洋戦争中に不発や未使用となった爆弾を処理輸送する米軍爆弾処理船LCTの爆発事故が発生した。同時刻には村営の連絡船が渡久地から入港、下船開始間もない時間に爆発し、乗客・船員並びに出迎人併せて102名(村内63名、村外39名)の尊い命が失われると共に、73名(村内41名、村外32名)が負傷、8家屋が全焼の被害を受けた大惨事の地である。去った太平洋戦争が落した大事故であり、二度とこのような惨事の起こらない平和社会の建設を願う村長の思いをこめて建立すると刻まれていた。この際に爆発したものは5インチロケット砲弾約5,000発(125t)というものであったために、事故見聞の写真を見てもまわりに何もなくなっていることがよく分かる。それでなくとも戦争でほぼ何も残らないところまで焼き尽くされた伊江島での惨劇は想像もつかないものであったに違いない。戦争は勿論、戦後処理の段階で起こったこの事故は、戦時中に起こったこととはまた〝別〟に考えなければならない。軍人ならば取り扱い方を間違えれば爆発が起こること位は知っている筈。積み時の手荒いハンドリングが原因とも言われてはいるが実際のところわかってはいないのが現状だ。碑の隣には見慣れた〝非核平和宣言の村〟碑が建立されている。頭ごなしに眺めていると見逃すもののようにも見えるため、特にダークツーリズムの際は注意が必要だ。そして近くの郷土記念館と平和記念館を訪れた。この辺りはフェリー待ちの乗客が最後に見られるように作られているような印象を受ける施設のようだ。残念だがコメントする内容もなかったので、早々に出て来た私であった。乗船手続きをする前に伊江港に停留する一隻のフェリーを見掛けた。フェリーぐすく、伊江村営フェリーの一隻で、フェリーいえじまと共に伊江島~本部間に就航している。実はこの船つい一週間程前に航行中に火災を起こし、その後停留されているようだ。今日みたいなド平日であれば一艘で大丈夫だろうが、ピーク時には流石に無理であろう。事故原因を究明し、近いうちに復帰して貰いたいと願うのみであった。 その内に本部15:00発のフェリーいえじまが入港する。フェリーチケットは往復で購入して置いたので、乗船手続きだけを済ませて乗船待合に並ぶことにする。行きと同じようにバックで乗船。行きは車に乗りっぱなしだったが帰りは船室に入ってみた。出港予定よりもやや早く伊江港を離岸し、一路本部港へと向かって出港した。 沖縄で船に乗ったことは本島では一度もない。八重山諸島の高速艇か高速艇欠航時の〝フェリーはてるま〟以来である。ただ10.8kmの航路は流石に短い。暫く潮風に当たりながら瀬底島を眺めていると間もなく本部港。着岸前に車に戻らないといけないためにあっという間であった。これで今回の旅の航路は修了。後は読谷村のイルミネーションを見て、本日の宿がある南城市へと向かって走ることになる。 本部港にはマルエーラインのフェリー波之上が入港する。17:00出発の那覇行きだが2時間掛けて那覇に着く。時間的な余裕があれば是非とも乗ってみたいが、今回は順路の都合でパスする。

のんびりしている間に陽も傾いてきたので出発する。途中で昨晩滞在した〝オン・ザ・ビーチ ルー〟の建物全景をカメラに収めて、再び走り出す。国道449号線・沖縄県道71号線を経て国道58号線を南東へと進む。途中見付けた看板に惹かれ、その場所を探す。 YouTubeでも取り上げられていた場所は、動画通り路駐も出来ない狭い道。一旦目的地を通り過ぎて軽自動車のメリットを最大限に生かせて駐車する。坂を登ったところには3つの慰霊碑が建立されていた。先ずは〝第四十四飛行場大隊之碑〟、特設第一連隊第二大隊隷下の部隊として昭和20(1945)年3月下旬から4月上旬の間北・中飛行場の破壊に従事した後、重火器を持たない状況下での戦いを強いられる。また部隊長命令で学生隊に〝国頭に待避して解散せよ〟と発令された折に、飛行場部隊が玉砕覚悟で米軍の北進を阻止せよという命令を受けた。元々武器らしいものも持たない部隊故に、米軍からの銃撃やゲリラ戦に於ける陸上特攻等を繰り返し、部隊全員380名が玉砕している。 そしてその隣にある〝陸軍飛行隊関係戦没者慰霊記念碑〟は、飛行場大隊を含めた陸軍の航空隊や設営隊を含む犠牲者すべてを慰霊するといった意味合いで建立されたようだ。 そして一番奥にある〝第二護郷隊之碑〟。第二護郷隊第四遊撃隊の別称で、国頭・大宜味・東村を中心に中頭郡の14~17歳の男子合わせて約400人のゲリラ戦(遊撃戦)を展開するために集められた部隊である。彼らは恩納村に駐屯していた第24師団第32連隊が南部に移動した後に配置された。彼らは名護・安富祖国民学校で訓練を積み、昭和20(1945)年1月から恩納岳に戦闘拠点を作り始めて、3月下旬から恩納岳に武器や弾薬・食糧を運び入れ、長期間にわたって米軍への遊撃戦を展開する態勢を整えて行った。この部隊を編成し教育したのが陸軍中野学校を卒業した岩波壽大尉。他5名の陸軍中野学校出身士官以下3個中隊からなる第4遊撃隊は388名で編成。隊本部の副官クラスや小隊長分隊長などは在郷軍人が当てられた。元々護郷隊は大本営直轄の部隊である。そのような背景から沖縄守備に携わった第32軍隷下の部隊とは同じ目的で戦うことは当初なかったようだ。しかし米軍上陸後は、特設第一連隊隷下の本島中部に駐屯していた部隊が護郷隊陣地に逃れてくるなどあったため、兵員数が1,000名を越えたこともあったという。この特設第一連隊(連隊長:青柳時香中佐)だが、元来戦闘要員として兵を抱えたわけではなく、任務がなくなったことにより逃避を余儀なくされ、結果として辿り着いた場所が第四遊撃隊陣地であったことが理由である。また特設第一連隊本部も第四遊撃隊隷下に入り、岩波大尉が指揮をとることとなったようだ。この特設第一連隊は理解しがたい問題が頻発していた部隊である。学徒隊を置いて工兵隊・要建隊の老兵1,100名が無断で戦線離脱したために置き去りとなり、やむなく隊長が学徒隊に解散命令を出したという記録も残されている。確かに第62師団第12大隊隷下の中隊の様な戦力のある部隊も合流はしているものの一握りの話であり、多くは烏合の衆であったことは否めない。事実護郷隊は岩波隊長が引率をし、国頭へと移動に成功しているが、青柳隊長以下特設第一連隊は、米軍の攻撃に対抗出来ず、出発した恩納岳の陣地に戻っている。国頭まで移動した第四遊撃隊は7月には日久志岳東方地区に到着し、第三遊撃隊の村上隊長に出会う。そこで第32軍司令部の玉砕を知り、その後は秘密裏に遊撃戦に以降することを決め、第四遊撃隊本部基幹要員数名を残留させ、各隊員は出身部落の家族の下に帰還し、家業を行いつつ情報を収集する命令を発し解散命令を出す。各隊員の少年達は帰村して家業に就くとともに、中隊長・隊本部に情報と食糧を適宜提供した。その後再集合の命令が発せられることはなかった。岩波隊長は8月15日の〝終戦の報〟を聴取し、暫くはゲリラ戦を継続させていたが、9月に入ると越来で終戦協定が結ばれたことを知り、住民を通じて米軍からの下山勧告もあったことから遂に10月2日に各中隊長とともに降伏し米軍収容所に入った。一部例外はあるものの沖縄本島に於ける戦いを最後まで続けていた第三・第四遊撃隊が降伏したことで、日本軍の組織的抵抗が終わってからも続いた戦闘はこれで終わることとなった。この第四遊撃隊(第二護郷隊)に動員された少年達400名のうち69名が犠牲となった。昭和31(1956)年9月、生存した第二護郷隊の元隊員達〝護郷の会(第二護郷隊の戦友会)〟の手によってこの場所に〝第二護郷隊之碑〟が建立された。そして毎年6月23日の慰霊の日に慰霊祭が行われていたが、参列者の高齢化もあり、郷護の会は既に解散している。その後安富祖子ども会では第二護郷隊之碑・第四十四飛行場大隊之碑がある敷地を慰霊の日に清掃し、その場で体験者の話を聞くなど独自の取り組みを行いつつ現在に至っている。また遺族の参拝は引き続き行われており、うるま市の地蔵院に祭壇が設けられている。 以上が第二護郷隊の概略となるが、大本営直轄の部隊でありながら、学徒出陣とは違い護郷隊の募集はほぼ強制であった。そのため明確な基準がないまま従軍〝させられる〟様な状況であったために戦後の補償問題ではかなり揉めたことが記されている。金を貰ったから死んだ少年が生き返る訳ではないので、単純なものではないにしろ余りにもいい加減過ぎるのではと思えてならない。同時にこの〝第二護郷隊之碑〟の存在が、手入れをしている近所の子ども会だけならばなおさらだ。私の場合たまたま〝標識〟を見てやって来た訳だが、碑の入口を通過している回数はと聞かれてもわからない位通過している。慰霊碑というものは〝慰霊する気持ち〟のない者からすればなんとも思わなれないものかも知れないが、戦跡のひとつと捉えられている者からすれば是非立ち寄りたいと考える場所である。恩納村だけでも10の慰霊碑があると記されていた。そのうち半分は情報の入手ができたために訪れることができたのだが、第二護郷隊之碑は本当に偶々だったきっかけに過ぎない。戦時中のガマや壕等が崩壊の危険性があるために中に入れなくなったという話は毎年のように聞いている。後世に残さなければならない〝戦跡〟はやはり手入れをしなければ風化してしまう物であろう。保存に費用等が必要であれば、公費の投入を認めるべきだと私には思えるのだが如何なものだろうか? 何かと考えさせられる場所ではあったが手を合わせられただけで今日のところは満足した私であった。 第二護郷隊之碑近くの道は狭く、長時間路駐できる場所ではないために急いで車に戻る。向かう先は恩納村、泊まりはしないがルネッサンスリゾートオキナワを目指して出発する。

  《続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー スカイマーク JRローカル 私鉄 徒歩 ソラシド エア
旅行の手配内容
個別手配

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