米軍の従軍記者であったアーニー・パイルの戦死場所である。
- 5.0
- 旅行時期:2024/01(約5ヶ月前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
伊江島 クチコミ:10件
米国インディアナ州の出身であるアーニー・パイルは、第二次世界大戦に従軍記者として同行した新聞記者である。彼の入隊は〝通信兵〟であったが、戦場となった各地を転戦し、戦場から無名兵士たちの模様を報道して全米を感動させた〝戦場カメラマン〟でもある。その〝写真〟を介した情報発信は欧米の多くの民衆の関心や感動を呼び、1944年にはジャーナリストとして最高の名誉であるピューリッツアー賞を受賞している。その際一時的に米国に帰国しているが、すぐに第77歩兵師団に入隊し、再び戦線へと赴いた。
沖縄戦に於いては第77歩兵師団零下の米軍第305連隊と行動を共にしていた。伊江島での戦いのさなか昭和20(1945)年4月18日に他の将校たちとジープに乗って移動していたところ、伊江島守備隊の機関銃小隊からの銃撃を受ける。一旦は降車して身を隠したところに続けて撃たれた銃弾が命中し戦死した。享年44歳。
彼の亡骸は粗末な木の十字架の下にヘルメットを装着したまま埋葬された。その後米軍基地内に移された後、1949年にハワイ・ホノルルの国立太平洋記念墓地に埋葬された。そして毎年4月18日に最期の地となったここ伊江島にて慰霊祭が行われている。
彼自身のジャーナリストとしての活動の中に〝兵士〟という概念はなかったようだ。そのことは彼の〝戦争道具〟一覧に記されているノート・ペンそしてタイプライターであったということからもわかることではある。しかし戦時下であり、かつ〝負け戦〟の様相を呈している日本軍兵士に、相手を選ぶ余裕はない。むしろ少しでも多くの〝米兵〟を殺すという〝義務感〟に苛まれていたであろう。そんな中に現れた米軍将校が乗るジープと遭遇すれば、手あたり次第に銃撃したであろう。殺さなければ殺される…それが戦争であり、人間の心を蝕む要因となることは、今も昔も変わってはいない。
ただ相手は伊江島を占領した米兵である。そういった立場で言うならば〝勝てば官軍〟そのものであろう。彼の戦死場所はその後綺麗に整備され、現在でも〝アーニーパイル記念碑〟の場所として伊江島観光の場所として多くのガイドブックに取り上げられている。
戦死した兵士に敵味方は関係ないが、村民を含めた多くの日本人が亡くなっている場所でのこの違いは正直違和感を感じずにはいられない。伊江村長が述べた〝私達村民は誓う 二度とあの忌わしい戦争を繰り返さない、平和な世界を築くことを〟という言葉にも、反論を持つ者は絶対にいると不思議にも感じたアーニーパイル記念碑訪問を終えた私の気持ちであった。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 伊江港から車で5分程度で到着できる。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた折には誰にも出会わなかった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 入口の階段以外はしっかり整備されていた。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 明らかに周りの風景とは異なっている。
クチコミ投稿日:2024/03/17
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