14~17歳の少年が従軍した部隊である。
- 5.0
- 旅行時期:2024/01(約5ヶ月前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
恩納・読谷 クチコミ:14件
恩納村の国道58号線から山手に入ったところに建立されている第二護郷隊之碑。第二護郷隊というものは通称で、正式には第四遊撃隊である。大本営直轄部隊として陸軍中野学校卒の士官が隊長となり、隊本部の副官クラスや小隊長分隊長などは在郷軍人が当てられた。388名の少年は国頭・大宜味・東村を中心に中頭郡から集められ、3個中隊からなる部隊であった。
米軍の沖縄上陸後は、正規の部隊は戦闘の最前線に移動しており、その後方を〝攪乱〟する〝ゲリラ部隊〟としての役割を担うために恩納岳を中心として戦いに参加していた。途中戦線を脱した特設第一連帯零下の飛行場大隊等の兵も加わり、一時は1,000人を超える規模になっていたとされている。同じ敷地内にある〝第四十四飛行場大隊之碑〟に祀られている第四十四飛行場大隊もその加わった部隊のひとつである。
少年達で結成された護郷隊は、他の地元徴収の部隊と同じく武器らしい武器も持たず、情報戦と機雷を抱えた自爆攻撃が主であった。そんな中でやはり同じく少年を集めた〝第三遊撃隊〟の村上隊長と連絡がつき、第32軍司令部の玉砕を知ることとなる。第四遊撃隊の岩波隊長は、各隊員は出身部落の家族の下に帰還し、家業を行いつつ情報を収集する命令を発し解散命令を出す。各隊員の少年達は帰村して家業に就くとともに、中隊長・隊本部に情報と食糧を適宜提供したが、その後隊が再結集する命令が出ることはなかった。
その後第四遊撃隊の岩波隊長は8月15日の〝終戦の報〟を聴取し、暫くはゲリラ戦を継続させていたが、9月に入ると越来で終戦協定が結ばれたことを知り、住民を通じて米軍からの下山勧告もあったことから遂に10月2日に各中隊長とともに降伏し米軍収容所に入った。一部例外はあるものの沖縄本島に於ける戦いを最後まで続けていた第三・第四遊撃隊が降伏したことで、日本軍の組織的抵抗が終わってからも続いた戦闘はこれで終わることとなる。この第四遊撃隊(第二護郷隊)に動員された少年達400名のうち69名が犠牲となった。そして昭和31(1956)年9月、生存した第二護郷隊の元隊員達〝護郷の会(第二護郷隊の戦友会)〟の手によってこの場所に〝第二護郷隊之碑〟が建立された。
他の現地徴兵した部隊の慰霊碑同様、同窓会や戦友会の構成員の高齢化により護郷の会も既に解散している。しかしその後を日が建立されているエリアの〝安富祖子ども会〟の手によって第二護郷隊之碑・第四十四飛行場大隊之碑がある敷地を慰霊の日に清掃し、その場で体験者の話を聞くなど独自の取り組みを行いつつ現在に至っている。また遺族の参拝は引き続き行われており、うるま市の地蔵院に祭壇が設けられている。
年端もいかない少年を集めた部隊といえば、本来保護されるべき年齢の少年達が〝大人の事情〟によって駆り出された〝悲劇〟ということを形容するような言い方をする者もいるが、そんな簡単なものではないであろう。学校が提出した〝生徒名簿〟を教師の側が拒否したということも語られていない史実のひとつである。戦争の是非論を今更言うまでもないが、ひとつの理由の〝たられば〟では絶対に解決策が出てこないこともまた事実である。
私の場合偶々の理由で碑の存在を知り立ち寄ったに過ぎない。固定資産税が受け取れないから、建立者や世話人不明の慰霊碑を沖縄県は定期的に公開しているようだが、そういったものをデータ化するのであれば、こういう慰霊碑が〇〇にあるといった情報を集めて資料にすることもできるであろう。私自身この碑の入口前の道路を知らないで通過していたことは数え切れない位の回数がある。知らないから行かないではあまりにも悲し過ぎる。今後の行政側の対応を期待したいと思った私であった。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 国道58号線の入口から車で5分程度。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 私以外に訪れている者はいなかった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 入口の坂は舗装はしてあるがかなりきつい勾配だ。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 偶然が会わせてくれたという想いになった。
クチコミ投稿日:2024/03/15
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